作者の、縁者と離れ、友と遠ざかり、従者を失い、何でも自分の手と脚とでしなければならなくなった孤独、 自炊の生活、自分で自分をここへ追い込んでしまった生き方が反省されている。そうして、たしかに不便だ 記し、苦しい時もあるが、しかし、独りで住み、暮すのは、気がねが要らず、うるさくなくて、いいものだ、 ごうじよう 丈 ここにはもう、単なる負け惜しみとか、強情とか、意地っ張りな 体験してみてわかった、と結論する。 方 どと評しただけではすまされない、或る一貫したものがある。蹉跌に遭い、迂余曲折はしながらも、これだ きようざっぷっ けは捨てられぬという或る欲求があって、そのために他の一切を、まるでそれが夾雑物ででもあるかのごと じごうじとく くに、払い除け、脱ぎ捨てて、自分を裸にしてしまった過程があり、自業自得にはちがいないが、きわめて 個性的な方法で問題を解決しつつ今に到った一つの境地がある。 だが、最後の つきかげ 最後の一章 そもそも一期の月影かたぶきて、余算の山の端に近し。 以下では、作者は、自分に対し、仏教徒として、こんなことでいいのか、と自己批判を加える。そうして作 者は、その自分の問に対して、自分では答えられなかった、と書く。考えてみれば、五十で出家して以来、 最近十年の生き方は、仏教徒としては、なんの修行もできていない、恥ずかしいものだと、内心、作者は思 っているからだろう。 これは、一つのまとまった作品として『方丈記』を鑑賞したいと思っている読者にとっては、ばっとしな い、まことにもの足りない、尻すぼみな、竜頭蛇尾な終り方だと、不満を持たれるかもしれない。だが、作 者の方は、自分の精神がちょうどそういう段階に来たから、それを正直に告白したまでであって、このあと に『発心集』が書かれたと考えれば、むしろ自然であり、これでいいのである。 いちご よさん
91 第 15 段 ~ 第 18 段 ゆれ。 ◆俗世界から、しばし解き放たれ、 心の自由をとりもどすと、すべて てらやしろ が新鮮に見えてくる。だから、寺 寺・社などに忍びてこもりたるもをかし。 や社にも、「しのびてこもりたる もをかし」となるのである。 ないしどころ 一ニ宮中の御神楽。内侍所の庭前 第一六段 で、毎年十二月に行われた。 一三上品・優雅で 一四楽器の音。音楽。 神楽こそなまめかしく、おもしろけれ。 一五大和笛。神楽笛ともいう横笛。 一五ちりき 一六中国伝来の竹笛。約一八の おほかた、ものの音には、笛・篳篥。常に聞きたきは、琵琶・和琴。 竹管の表に七箇、裏に二箇の穴を あけ、上端に舌をさしこんだもの。 縦にして吹く。 第一七段 毛四絃四柱の雅楽用の琵琶。 穴やまとごと。六絃の琴で、日 山寺にかきこもりて、仏につかうまつるこそ、つれづれもなく、心の濁りも本固有の絃楽器。 ◆まず宮中の神楽をあげたのも、 きょ ここち 一つには俗世間で得られない、そ 清まる心地すれ。 れを超えた世界の音楽に、とりわ け彼が心引かれたからであろう。 一九ここでは閑暇で所在ないの意。 第一八段 ◆兼好の関心は、修道生活そのも のよりは山寺でえられる自由・孤 しりぞたから 人はおのれをつづまやかにし、奢りを退けて財を持たず、世をむさぼらざら独、清澄な境地にあった。 ニ 0 慎み深く簡素にし。 ニ一俗世間的な利欲を、の意。 んぞいみじかるべき。昔より、賢き人の富めるは稀なり。 し まれ びは にご
こうした世界の見えはじめた彼には、すでに再度の思想的な飛躍が約束されているのであって、一度は俗 縁を断ち切り、わが身を孤独の世界に保留し、遮られることのない透明な視座を獲得した兼好は、再び俗縁 草をたぐり寄せることになる。たとえば、かっては人間らしい心情を持っとも思えなかった東国辺境の粗野な 然荒武者が、子のない人に対して、 ゅ なさけみこころ さては、もののあはれは知り給はじ。情なき御心にぞものし給ふらんと、いとおそろし。子故にこそ、 よろづのあはれは思ひ知らるれ。 ( 第一四二段 ) と言ったのを聞いた兼好は、 じひ さもありぬべき事なり。恩愛の道ならでは、かかる者の心に慈悲ありなんや。 ( 同上 ) と述べ、修道を妨げる俗縁として断ち切るべきであると説いてきた親子の情愛、つまり「恩愛の道」を媒介 に、かえって人間性に目覚めうるであろうことを語りはじめる。そうしてさらには、生活に追いつめられた 俗界の困窮者の、欲深く人にはヘつらい、妻子のためには盗みをさえあえてするのを、むやみにさげすむの はあたらない。そうした貧しい人びとを飢えず寒からぬようにすることこそ政治家の務めであり、人を苦し め法を犯さしめて、これを処罰することこそ非人間的な政治であると為政者を告発する ( 第一四二段 ) よう にさえなってくる。 兼好はさらに、 ね 筆をとれば物書かれ、楽器をとれば音をたてんと思ふ。盃をとれば酒を思ひ、賽をとれば攤打たん事を 思ふ。心は必ず事に触れて来る。 ( 第一五七段 ) と、人間の心は必ず機縁に触発・媒介されて機能するのだと説いて、たとえ信仰の心はきざさなくても、仏 ふ おんあい きた さかづき さい だう
世の人の心まどはす事、色欲にはしかず。人の心はおろかなるものかな。匂ひなどはかりのものなるに、 いしゃうたきもの しばらく衣裳に薫物すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。 ( 第八段 ) くめの 草と、性の欲求のはげしさをとらえ、そのためには、あの久米仙人のように、仙術によって空を飛んでいた時、 はぎ 然「物洗ふ女の脛の白きを見て」神通力を失い、空から墜落するような失態を演じる人間の、せんかたもない ほか まこと 徒情念を、「誠に手足・はだ ( などのきよらに、肥えあぶらづきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし」 ( 第八段 ) と、いたわりながら見届けた兼好は、こうした欲求こそは男女を問わぬ人間の本性にもとづくもの であり、あらゆる欲望からは離脱できたとしても、 おろ ただ、かのまどひのひとつやめがたきのみぞ、老いたるも若きも、智あるも愚かなるも、かはる所なし とみゆる。 ( 第九段 ) あいちゃく と確認するのであって、「愛著の道」の根源の深さの認識を前提として、彼の人間論ははじまっているので ある。 もっとも、兼好が若年時代に日夜体験してきた貴族的生活は、そこから離脱しようとした彼の心を、後ろ 髪を引くようにとらえており、 ここち さかづきそこ をのこ よろづにいみじくとも、色好まざらん男は、いとさうざうしく、玉の巵の当なき心地ぞすべき。 ( 第三 段 ) と述べる有名な第三段も、さらに、 っゅしも 露霜にしほたれて所定めずまどひ歩き、親のいさめ世のそしりをつつむに心の暇なく、あふさきるさに ひとね 思ひ乱れ、さるは独り寝がちに、まどろむ夜なきこそをかしけれ。 この には いとま
そのものにくつついて、そのものを弱めいためるものは、 よう」と申されたので、この武士は北面の役を、解任され しらみ ねずみ 無数にある。からだには虱があり、家には鼠があり、国に 3 てしまった。 は賊があり、つまらぬ人間には財宝があり、りつばな人に 勅命の文書を、馬上のままで、さし上げてお見せ申すべ 草 そうりよ は仁義があり、僧侶には仏法がある。 きもので、おりてはならないということである。 然 第九八段 第九五段 しようにん 尊い聖人たちが言い残しておいたことを書きとどめて、 「箱の刳形のところに、ひもをつけるには、いったい、ど ゅうそく いちごん椴うだん そうし ちら側につけますものでございましようか」と、ある有職『一言芳談』とか名づけてある草子を見ましたときに、心 にかなって、なるほどと思われた、いくつかのこと、 の人に、お尋ね申しましたところ、「左側につける説と、 一したものだろうか、しないでいたものだろうかと思 右側につける説と二説あるから、どちらでもさしつかえは うことは、たいていは、しないほうがよいものである。 ない。手紙を人れる箱は、多くの場合右側につける。小道 一来世での住生を願うような者は、ぬかみそ瓶一つも、 具箱には、左につけるのも普通のことである」と仰せられ どくじゅ こ 0 持ってはならないことである。わが身はなさず読誦し ているお経や守り本尊までも、りつばなものを持つの 第九六段 は、つまらないことである。 一出家遁世した人は、物がなくても不自由しない方法 めなもみという草がある。まむしにかまれた人は、この を心がけて暮すのが、いちばんよい生活の仕方である 草をもんでつけると、すぐなおるということだ。見知って のだ。 おくがよい。 一年功を積んだ上位の僧は、下位のものの心になり、 第九七段 知恵ある者は愚かな者の立場に立ち、金持は貧乏人の くりかた がめ
徒然草 292 うえに、さらに酔っている。酔っているなかで、さらに夢 らに長寿を願い、利益を求めて、とどまるところがない。 わが身の養生をして、何事を期待するのか。待ちうける を見ている。走りまわって忙しく、夢中になって我を忘れ ところは、ただ老いと死とだけである。老いと死の来るこ ていること、人はみなこのような状態である。まだ真の仏 とは、速やかで、一瞬の間も休止することがない。老死を 道を知らないでも、世俗の諸縁を離れて、身を静かな境地 待っ間、何の楽しみがあろうか。迷っている者は、これを におき、俗事に関与しないで、心を安らかにするようなの 恐れない。名誉利益に心をとられて、死期の近いことを顧こそ、かりそめにも生をたのしむということもできよう。 みないからである。愚かな人は、また老いと死とを悲しむ。「生活・人事・技芸・学問等、さまざまなかかわりあいを、 まかしかん 不滅であろうことを願って、無常の理法を知らないからで とりやめてしまえ」と、『摩訶止観』にも記されていると ある。 おりである。 第七六段 第七五段 世間にもてはやされて、花やかなくらしをしている人の なすこともなく所在ないさびしさを、つらく思う人は、 ところに、不幸な事もあり、喜び事もあったりして、多く どんな気持なのだろう。心が他の事にひかれることなく、 ひじりうし の人が訪問する中に、聖法師が交わって、取次を乞うて立 ただひとりでいるのこそ、このうえない境地である よくじん 俗世間に順応すれば、心が外部の欲塵にとらえられて迷ちどまっているのこそは、そんなことはしなくても、と思 われる。しかるべき理由があっても、法師というものは、 いやすく、人と交際すれば、言葉が他人の思わくに左右さ れて、そのままそっくり、わが心の表出でなくなる。人と世間の人に疎遠であるのがよかろう。 戯れ、相手と争い、ある時は恨み、ある時は喜ぶ。そうし 第七七段 た心の動きは安定することがない。思慮分別が、むやみに 世の中に、そのころ人々が話題の種として言いあってい おこって、利害得失の念の絶えるときがない。迷っている すみ
徒然草 3 の心づかいを忘れない人を、馬の乗手と申すのである。こ なみなみの人ではなかったということである。 れは乗馬についての秘訣である」と申しました。 第一八五段 じようのすけむつのかみやすもり 第一八七段 秋田城介、兼陸奥守泰盛は、並ぶ者のない馬乗りであ しきい うまや あらゆる道の専門家が、たとい未熟であるといっても、 った。廏から馬を引き出させたときに、脚をそろえて敷居 しろうと をゆらりと越えるのを見ると、「これは気が立っている馬巧みな素人の人と並んでみたとき、必ずそれよりすぐれて くら いるということは、油断なく用心して、軽率にやらないの である」と言って、その鞍を他の馬に置きかえさせた。ま と、ただただ自由であるのとが、同じでないからである。 た馬が、足を伸ばしたままで、敷居に蹴あててしまうと、 芸能とか特別に型のある動作だけでなく、一般の挙動や 「これは鈍感な馬で、まちがいがあるだろう」と言って、 心の持ち方も、愚鈍で慎重なのは、利益を得るもとである。 乗らなかった。馬術の道を知らないような人は、これほど 器用であって勝手気ままなのは、失敗のもとである。 慎重にするであろうか。 第一八八段 第一八六段 ある人が子を法師にして、「学問して因果応報の道理も 吉田と申します馬乗りの名人が、言いましたことには、 「どの馬もみな、手ごわいものである。人間の力は、馬と知り、説経などして生活する手だてにもせよ」と言ったの 張り合うことができないものだと知るがよい。これから乗で、教えに従って、説経師になろうがために、まず馬に乗 ることを習った。輿や牛車は持たない身で、法事の導師と ろうとする馬を、まず十分に観察して、その馬の強い所と くつわくら して招かれるようなとき、馬などを迎えによこすようなら、 弱い所とを知らなくてはならない。次に、轡や鞍の器具に、 あぶないところがありはしないかと調べてみて、気にかかすわらぬ尻で落ちてしまうようではつらかろうと思ったの であった。次に法事の後、酒など勧めることがあるような ることがあったならば、その馬を走らせてはならない。こ しり
が多い。それらをしたあとのひまは、いくらもない。よく 第一二五段 考えてみるがよい。人間の身として、やめようにもやめら いとな れないで営むことは、第一に食物、第二に衣服、第三に住 人に死におくれて、死後四十九日の法事に、あるお坊さ 居である。人間の重要事は、この三つ以上には出ない。飢んをお招きしましたときに、説法がたいそう尊かったので、 えず、寒くなく、風雨におかされないで、しずかに日を送人々はみな涙を流した。導師を勤めたこの僧が帰ったあと、 るのが、人間の楽しみなのである。ただし、人間にはみな説法を聞いていた人たちが、「いつもより、特別今日は尊 病気がある。病気にかかってしまうと、その苦悩は堪えが く思われました」と感じあっていた、その返事に、ある者 から たい。だから病気治療のことを忘れてはならない。以上の が言うことに、「何はともあれ、あれほど唐の大に似てお 三つに、治療のための薬を加えて、これら四つのことを手いでのうえは」と言ったので、感動もさめて、おかしかっ に人れえないのを貧乏だとする。これら四つのことに不足た。そんな導師のほめようがあるだろうか。 しないのを富んでいるとする。この四つ以外のものを求め また、「人に酒を勧めるというので、自分がまずいただ て、あくせくするのをぜいたくだとする。この四つのこと いて、それから人にむりじいいたそうとするのは、剣で人 を斬ろうとするのに似ていることである。剣は両方に刃が を、きりつめて生活するならば、誰が不足を感じることが ついているものであるから、持ち上げるとき、まず自分の 段あろうか。 首を斬るので、相手の人を斬ることができないのである。 第 第一二四段 自分がまず酔って寝てしまうならば、相手の人はよもや召 段 ぜうにうし 是法法師は、浄土宗の世界で、誰にもおくれをとらない しあがるまい」と申した。剣で斬ってためしてみたのであ 第 ろうか。とてもおかしかった。 人であるが、学者ぶった振舞をすることなく、ただ明けて Ⅱも暮れても念仏をとなえて、心やすらかに世を過している 第一二六段 ありさまは、まことに願わしいことである。
かりに、人家の密集している地域に住んだとすれば、近く 者さえない。 に火事があったとき、類焼をまぬかれないだろう。逆に、 〔を世にしたが一事が万事、世の中が生きにくいもので、 やっかい へんび 己えは 自分の一身と、その住みかの営みとがたよ辺鄙な所に住んだとすれば都心との行きかえりが厄介だし、 丈りなく、徒労になりがちなことは、この地震ひとっ考えて強盗が多くて、ひどい目にあうだろう。そうかといって、 方みてもわかる。まして、環境により、境遇に従って、誰に勢力のある人にたよって安全をはかろうとすると、そうい う人は欲が深くて、たえず贈物を多くしなければよくして もそれぞれの悩みがあることは、数えきれないほどだ。か はくれない。といって、誰にもつながりを持たないと、背 りに自分が人に数えられるような、ひとかどの存在でもな くて、勢力のある大きな家の隣に住んだとしようか。うれ景がないために、軽く見られ、ばかにされる。財産があれ ば心配が多いし、貧乏でいれば、したいことができないで、 しいことがあっても、思いきって祝うことができない。悲 しくてならないときも、泣きわめくことさえ遠慮する。身歯がみする。人を頼みにすれば、その人のいいなりになっ すずめたか の振り方、動作の一つ一つにまで気をつかうこと、雀が鷹てしまう。人を養い育てると、今度は自分の心が、その人 を愛することに使われて、振りまわされて、疲れてしまう。 の巣のそばにいるようなものだろう。 また、かりに、自分が貧乏で、富裕な家の隣に住んだと世間の常識に従って生きようとすれば、自分が苦しい。従 わなければ、気ちがい扱いをされる。ああ、ああ、いった しようか。朝に晩に、みすぼらしい自分の姿が恥ずかしく、 い、どんな環境に座を占めて、どんなことをして暮したら、 自分の家からの出人りにも隣の家の人にお世辞を言うよう しばらくでも、この身、この心を安らかにさせてやること になる。妻や子供や召使の男などが、隣の家の生活をうら やましがっている様子を見たり、また、その裕福な家の者ができるのだろう。 私の過去をここでいうならば、初め、私は の横暴な、自分の家を無視した態度が耳にはいってきたり 〔 0 わが過去 父方の祖母の家を継ぐはずで、長いこと、 するにつけても、そのたびに、さまざまの雑念が起ってき その家に住んでいた。だが、その後、祖母の家は、ほかの て、ひとときとして安らかな気持ではいられまい。また、
せんじゅ 一源空。専修念仏による往生を 説く浄土宗の開祖。建暦一一年 ( 一一一一 第三九段 (l) 、八十歳没。 一一念仏の勤行。 草 ねぶり ぎゃうおこたはべ あるひとほふねんしゃうにん ねんぶつ 或人、法然上人に、「念仏の時、睡におかされて行を怠り侍る事、いかがし三往生」は死後、極楽浄土に生 然 れること。「一定」は確実に定まっ 徒て、この障りをやめ侍らん」と申しければ、「目のさめたらんほど、念仏し給ている意で、「不定」はその反対。 ◆三段の短文を連ねて、法然の教 わうじゃう いちちゃう たふと へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。又、「往生は、一定と思へば一定、義と人物像とを、生き生きととら えている。伝承説話に媒介された うたが ふぢゃう 不定と思へば不定なり」と言はれけり。これも尊し。又、「疑ひながらも念仏この段の表現は、前段のやや硬直 した文体に比べて、きわめてのび やかに自由であり、そのまま法然 すれば、往生す」とも言はれけり。これも又尊し。 の性格に照応している。 四今の鳥取県。 五なにがしの人道。「人道」は在 第四〇段 俗生活のまま受戒している者。 六言い寄る、求婚すること。 むすめ なににふだう 因幡国に、何の人道とかやいふ者の娘、かたちよしと聞きて、人あまた言ひ七米穀の類。 ^ 異性と契る。結婚すべきの意。 さらよね ことよう わたりけれども、この娘、ただ栗をのみ食ひて、更に米のたぐひを食はざりけ◆異様なもの・不自然なものをよ しとしないのは、兼好が一貫して おやゆる 主張するところであった。単なる れば、「かかる異様のもの、人に見ゅべきにあらず」とて、親許さざりけり。 異聞・奇譚ではない。 九毎年この日に行われた、上賀 茂神社境内での競馬。 第四一段 一 0 自分 ( 兼好 ) の乗った。 四 いなばのくに さは ことやう