原文現代語訳 : 七九 : 序段つれづれなるままに・ : 七九・ 第一段いでや、この世に生れては 第二段いにしへのひじりの御代の : 第三段よろづにいみじくとも : 第四段後の世の事、心にわすれず : 第五段不幸に愁にしづめる人の・ 第六段わが身のやんごとなからんにも : : 八三 : 第七段あだし野の露きゅる時なく・ 第八段世の人の心まどはす事・ 第九段女は髪のめでたからんこそ : : 八六 : 第一〇段家居のつきづきしく・ 第二段神無月の比・ ・ : 一一六四 第一二段おなじ心ならん人と 第一三段ひとり灯のもとに : 第一四段和歌こそ、なほをかしき : 第一五段いづくにもあれ・ 第一六段神楽こそなまめかしく・ 第一七段山寺にかきこもりて・ 原文現代語訳 第一八段人はおのれをつづまやかにし : : : : 九一 : 第一九段折節のうつりかはるこそ : 第二〇段なにがしとかや言ひし世捨人の : : 九五 : 第二一段よろづのことは、月見るにこそ : : : 第一三段なに事も、古き世のみぞ・ 第一一三段おとろへたる末の世とはいへど : : 突 : : 九七・ : 一一七 0 第二四段斎宮の野宮に・ 第二五段飛鳥川の淵瀬・ 第二六段風も吹きあへず : ・ : 一 00 ・ 第二七段御国ゅづりの節会・ ・ : 一 00 ・ 第二八段諒闇の年ばかり・ 第二九段しづかに思へば・ 第三〇段人のなきあとばかり : : 一一七三 第三一段雪のおもしろう降りたりし朝 : : : 一 0 一一 : : 一一七四 第三二段九月廿日の比 : 一 0 四・ : 一一七四 第三三段今の内裏作り出されて : ・ : 一 0 四・ : 一一七四 第三四段甲香は・ : 一一七四 第三五段手のわろき人の・
徒然草 262 この世の人の心を迷わすことで、色欲に及ぶものはない。 こそ、すばらしいのだ。 命のあるものを見ると、人間ほど長生きをするものはな人間の心というものは、何という愚かなものであろうか。 いしよう い。かげろうが朝生れてタ方には死に、夏の蝿が、春や秋匂いなどは、かりそめのものであるのに、一時的に衣装に を知らないというようなものも、あることだ。じっくりと香をたきこんでいるのだとわかっていながら、何ともいえ ないよい匂いがすると、必ず心がどきどきするものである。 一年という期間を暮す、その間だけでも、このうえもなく すね くめせんにん 久米の仙人が、衣すすぎをしている女の脛の白いのを見て、 ゆったりとしたものであることよ。いつまでも満足せず、 けだ じんつうりき 惜しいと思うならば、千年を過しても、一夜の夢のように神通力を失ったとかいうことは、まったく、手足や肌など しう が美しく、肥えていて脂肪のつややかなのは、ほかの色と 短い気持がするであろう。永久に住みおおせることのでき はちがうのだから、なるほど、そうもあろうよと思われる。 ぬこの世に、生きながらえてみにくい自分の姿を迎えとっ て、なんのかいがあろうか。命が長ければ、それだけ恥を 第九段 かくことが多い。長くても四十に足らぬくらいで死んでゆ 女は、髪の美しいような人こそ、人が目をつけるものの くのこそ、見苦しくない生き方であろう。その時期を過ぎ ようなう ようだ。人柄や気だてなどは、ものを言っている様子だけ てしまうと、容貌のおとろえを恥ずかしく思う心もなく、 でも、ものを隔てて会っていても、知られるものだ。こと 人のなかに立ち交わることを願い、夕日の傾きかけたよう な老齢で、子や孫をかわいがり、立身出世してゆくその将にあたって、何気なくしている様子にでも、人の心を迷わ し、すべて女が、気を許した熟睡もせず、わが身を惜しい 来を見届けるまでの命を期待し、ただやたらに生命をむさ とも思わないで、堪えられそうにもないことにも、よく我 ぼる心ばかりが深くなって、この世の深い情趣もわからな 慢するのは、まったく愛欲を思うがためである。 くなってゆくのは、まったくあさましいことである。 まことに愛執の道というものは、その根が深く、源の遠 第八段 いものだ。人間の欲望を刺激する、さまざまな対象は数多 せみ にお こう きぬ
まじ だうしん 「道心あらば、住む所にしもよらじ。家にあり、人に交はるとも、後世を願は一求道心。「道」は仏道。 ニ「しも」は、強意の助詞。 かた んに難かるべきかは」と言ふは、さらに後世知らぬ人なり。げにはこの世をは三出家しても俗人と同じ在家の 生活をつづけること。 きよう あさゆふ しゃうじい かなみ、必ず生死を出でんと思はんに、なにの興ありてか、朝夕君に仕へ、家四来世。あの世の往生を願う 五むずかしいことがあろうか いとな八 七生老病死の苦悩を受ける境涯 みちぎゃう 「出でん」は出離、脱却しようの意 では道は行じがたし。 八心が進む、気のりがするの意 そのうつはもの、昔の人に及ばず、山林に人りても餓をたすけ、嵐をふせく九機縁。環境に動かされての意 うつけもの 一 0 「器」。器量。人物。 一四むさな よすがなくてはあられぬわざなれば、おのづから世を貪るに似たる事も、たよ = 人里を離れて出家しても。 一ニ風雨を防ぐより所。庵など。 一三 ( 世に ) あられぬ。生きてゆけ りにふればなどかなからん。さればとて、「背けるかひなし。さばかりならば、 なじかは捨てし」など言はんは、無下の事なり。さすがに一度道に人りて世を一 0 俗世間の欲望にがつがっする。 一五ついで。場合によれば、の意。 いきひ とんよく いと のぞみ 一八ふすま 厭はん人、たとひ望ありとも、勢ある人の貪欲多きに似るべからず。紙の衾、一六反語。ないことがあろうか。 一七俗世間を捨てて出家する意。 つひえ さころもひとはち あカざ 麻の衣、一鉢のまうけ、藜のあつもの、いくばくか人の費をなさん。求むる所一八紙で作った薄い夜具。 一九麻で作った粗末な法衣。 ニ 0 鉢に一杯の食物。「鉢」は僧の はやすく、その心はやく足りぬべし。かたちに恥づる所もあれば、さはいへど、 食を盛る器。 一 = アカザ科の野草の熱い吸物。 悪にはうとく、善にはちかづくことのみぞ多き。 一三出家した自分の姿。 のが 人と生れたらんしるしには、いかにもして世を遁れんことこそ、あらまほし = 三そうはいっても。「世を貪る」 かへり うゑ ひとたび らし しづか ねが ない。 0 0 0 0
ついがさね ば、どうして現世の邪念も薄くならないであろうか、また、 卿は食べおわって、さて食べちらした食器をのせた衝重を、 仏道をはげむ心も誠実でないことがあろうか 御簾の中へ、さし人れて退出してしまった。女房たちが、 「昔いた高徳の僧は、人が来て、おたがいの必要なことを 「まあ、きたない。誰にとりかたづけよというのですか」 言うとき、それに答えて、『いま、火のつくような急なこ などと、申しあっておられたところ、上皇は、「これこそ 然 とがあって、もう目の前に迫っている』と言って、耳をふ 故実をわきまえたやりかたで、りつばなものである」と、 ぜんりん さいで念仏して、とうとう極楽往生をとげた」と『褝林の くりかえし感心なさったということである。 しんかい じゅういん 十因』に書かれております。心戒といった高徳の僧は、あ 第四九段 まりにこの世がはかないということを思って、静かに膝を ついて坐っていたことさえもなく、いつもは、ただ、しゃ 老年がやってきて、そのときはじめて、仏道を修行しょ がんでばかりいたということだ。 うと待っていてはならない。古い墓は、多くはほかならぬ 年若い人のものである。思いもかけないのに、病気にかか 第五〇段 って、にわかに、この世を去ろうとするときにこそ、はじ いせのくに 応長のころ、伊勢国から、女の鬼になったのをつれて、 めて、過ぎてしまった時期のまちがっていたことは、わか るものだ。誤りというのは、ほかのことではなく、早急に都へのぼったという事があって、そのころ、二十日ばかり なすべき仏道修行を後まわしにし、ゆっくりやるべき俗事の間、毎日、京や白川の人々が、鬼見物にといって、やた らに出歩いた。「昨日は西園寺に参っていた」、「今日は院 を急いで、一生を過してしまったことが、後悔されるとい へ参るだろう」、「ただ今は、どこそこにいる」など言いあ うことである。そのときになって後悔しても、何のかいが っている。たしかに見たという人もなく、まったくのうそ あろうか だと言う人もいない。上下の人々が、ただもう、鬼のこと 人は、ただ死が身に迫っていることを、心にしつかりと うわさ おいて、少しの間も忘れてはならないのである。そうすればかりを噂してやまない。 ( 原文一一四謇 )
ひえいざんよかわこも 日々に書き留められた部分で、その後、何年にもわたる隠遁生活とりわけ比叡山の横川に籠って、彼なりの 修道生活を送ったりした生活体験によって、若き日の詠嘆的・憧憬的な情念が次第に克服され、理性的・批 判的な思想の世界へ踏み込んで行った兼好の精神の軌跡は、むしろ第三〇段以降の諸段に刻みこまれている であろうことも、近来ようやく明らかにされてきたというべきであろう。 もちろん『徒然草』全二百四十三段中の、どの部分にも兼好の思想や情念は刻印されているし、その意味 で『徒然草』が、ひとつの作品としての統一的世界を結品させていることはいうまでもない。ただ一年たら ずの短期間に書き終えられた場合と、少なくとも十数年あるいはそれ以上の時期にわたり、何回にもわたっ て書き継がれた場合とでは、作品の性格に著しい相違の生れてくるのは当然である。 まして兼好が『徒然草』を執筆していた時代は、南北朝内乱と呼ばれた日本歴史のなかでも最も画期的な しんかん 変革期にさしかかっており、全日本を震憾させたその衝撃が、当時の代表的な知識人としての兼好にどう受 けとめられたかということは、『徒然草』の表現を時代の起伏にそって点検することによって、これまでよ りもいっそう精密に跡づけられるであろう。そこで以下、兼好の思想の結節点を歴史的に押えながら、『徒 然草』の語るところを読み取ってゆくことにしたい。 いでや、この世に生れては、願はしかるべき事こそ多かめれ。 ( 第一段 ) 説若き日の 兼好これが『徒然草』の本論書出しの言葉であることを、まず注目したい。この世に生を享けた人間 解にとって、ああもしたい、こうもありたいと願う欲求が、何とどっさりあることだろうという、人間にとっ て誰しもの根元的な欲望を認識するところから兼好は筆を起しているのである。そんな欲望の中でも、とり わけやむにやまれず取り去りがたいものとして、兼好はつづいて、
( 原文一一三四ハー ) うなものがあるかどうか、どこまでも捜してみてくださ しそく い』と言われたので、脂燭をともして、あちらこちらの そのときに、この様子を見ていた人で、近ごろまで存命 さら たな 隅々を捜しているうちに、台所の棚に、小さい素焼の皿に しておりましたのが、語りましたことです。 味噌の少しついたのがあったのを見つけだして、『こんな 第二一七段 ものを捜しあてました』と申しましたところ、『それで間 ある大富豪が言うことには、「人間は万事をさしおいて、 にあうだろう』と言って、愉快に杯をかさねて、おもしろ がられました。あの時代では、このようなことでございま ひたすら利得を身につけるべきである。貧しくては、生き した」と申された。 ているしるしがない。富んでいる人だけが人間といえるの だ。所得を身につけようと思うなら、当然、まずその心が 第二一六段 まえを修行しなければならぬ。その心がまえというのは、 さいみようじのにゆうどう あしかがのさ 最明寺人道が、鶴岡八幡宮に参拝のついでに、足利左ほかのことではない。人間界のことは永久に不変であると まのにゆうどう 馬人道のもとへ、まず使いをやったうえで、お立ち寄りに いう考えを変えないで、かりそめにも、この世は無常なも なったときに、足利人道がおもてなしをなさった次第は、 のと観念することがあってはならない。これが第一の心が うちあわび えび まえである。次に、何事によらず、用を果してはならない。 段一献のお膳に打鮑、二献のお膳に海老、三献のお膳にかい りゅうべんそう 幻もちいで終ってしまった。その席には、主人夫妻と隆弁僧人間が、この世に生きている間は、自分のこと他人のこと - しよう ~ 正が主人側の人として、おすわりになっていた。そのあと に関して、願望は無限にあるものだ。欲求にしたがって、 あしかが で、最明寺人道が、「毎年いただく足利の染め織物が待ち望みをかなえようと思うならば、百万の銭があったとして 第 どおしいことです」と申されたところ、「用意してござい も、少しの間も手もとにとどまるはずがない。人間の願望 びき というものは、なくなるときがない。財産は尽きるときが ます」と言って、種々の染物を三十疋、時頼の前で女房た ちに小袖に仕立てさせて、あとから、お贈りになったとい ある。限りある財産でもって、限りのない願望に応じるこ いっこん
四 みっちかのきゃうゐんさいしようかうぶぎゃう ごぜんめ 一藤原光親。後鳥羽院の寵臣で、 光親卿、院の最勝講奉行してさぶらひけるを、御前へ召されて供御を出さ -4 承久の乱 ( 一一三 l) 後、北条氏に捕え ついがさねみすうち れて食はせられけり。さて食ひちらしたる衝重を、御簾の中へさし人れて罷りられて斬られた。 草 ニ後鳥羽院の御所で行われた。 三金光明最勝王経を講説し、天 出でにけり。女房、「あなきたな、誰に取れとてか」など申しあはれければ、 然 下泰平を祈る仏事。 かへすがヘす 四主君の命で事を執行すること。 徒「有職のふるまひ、やんごとなき事なり」と返々感ぜさせ給ひけるとぞ。 五天皇・上皇・皇后・皇子など の飲食物の敬称。 六檜の白木で作った方形の台で、 第四九段 食事などを載せるのに用いる。 七取り去れ、取り除け、の意。 みちぎゃう 老来りて、始めて道を行ぜんと待っことなかれ。古き墳、多くはこれ少年の ^ りつばな、すばらしいことだ。 ◆作者は女房たちの常識を排し、 やまひ 人なり。はからざるに病をうけて、忽ちにこの世を去らんとする時にこそ、は伝統的な行為を是認する院の判断 に強い同感を示しているのである。 じめて過ぎぬるかたのあやまれる事は知らるなれ。あやまりといふは、他の事九仏道を修行しようと。 一 0 ここでは、「死」を意味する。 すみや にあらず、速かにすべき事をゆるくし、ゆるくすべきことを急ぎて、過ぎにし = 現世の欲望も。「薄く」は、 「ならざらん」につづく。 一ニまじめに、真剣になれないこ ことの悔しきなり。その時悔ゆとも、かひあらんや。 とがあろうか。 人はただ、無常の身に迫りぬる事を心にひしとかけて、つかのまも忘るまじ一 = 徳の高い僧侶。 一匹以下、『往生十因』 ( ↓注一七 ) に きなり。さらば、などかこの世の濁りも薄く、仏道をつとむる心もまめやかな同じ説話が見える。 一五明朝または今タに迫っている。 らざらん。 一六ふさいで。 ( 現代語訳一一八〇ハー ) い いうそく おいきた くや たちま うす つか い まカ いだ
ふなおか はあの人か、この人かと思いあわせていると、牛飼や召使一人や二人だけであろうか。鳥辺野・船岡、そのほかの野 いがい などで、見知っている者もある。あるいは優美に、あるい山にも、送葬する遺骸の数の多い日はあっても、送葬しな かんおけ は華美なさまに、さまざまの趣向で行き来する車を見てい い日はない。だから棺桶を売る者は、作ってそのまま置い るのも、気がまぎれておもしろい。日の暮れるころには、 ておくというひまがない。年の若さにもよらず、体力の強 立て並べてあった多くの車も、わりこむ所もないほど並んさにもよらず、思いもかけないのは死の時期である。今日 でいた人々も、どこへ行ってしまったのであろう、間もな まで死からまぬかれてきたということは、珍しい不思議な くほとんどいなくなって、多くの車の混雑も静かになって ことなのである。しばらくでも、この世をのんびりしたも すごろく ままこだ すだれ しまうと、簾や敷物もとりかたづけ、みるみるさびしい様のと思えようか。継子立てというものを、双六の石で作っ て、置き並べてあるうちは、取られるであろうのは、どの 子になってゆくのこそ、この世の盛衰の習わしも、なるほ どと思い知られて、まことに感慨深いものである。都大路石であるともわからないが、数えあてて一つの石を取って しまえば、その他の石はまぬがれたように見えるが、さら の有様を見ているのこそ、祭を見ていることなのである。 にまた数えると、あれこれと間引いてゆくうちに、どの石 あの桟敷の前を、たくさん行ったり来たりする人々の中 ものがれられないのと、人間の運命は似ている。武士の戦 に、顔見知りの人が大勢いるので、世間の人の数も、きっ と、それほど多くはないのであろうということがわかって陣に出ている者は、死に近いことを知って、家も忘れわが いんとん しまう。この人々がみな死んでしまって後、わが身が死ぬ身も忘れている。俗世間を隠遁した草庵の生活では、閑居 しようがん して自然を賞翫し、死の到来を、まるで人の身の上のこと はずときまっていたとしても、間もなく自分の死は迎えと 段 うつわもの を聞くように思っているのは、まことに頼りないことであ ってしまうに相違ない。大きな器物に水を人れて、細い穴 第 をあけておくと、水のしたたる量は少ないけれども、休むる。閑静な山の奥に、無常という敵が、勢いこんでやって のが 四間なく洩ってゆくならば、すぐに尽きてしまうだろう。都こないであろうか。世を遁れている人でも死に当面してい ることは、武士が戦陣に進んでいるのと同じことである。 の中に大勢いる人の、死なない日はあるはずがない。一日 とりべの そうあん
ことば はぎ 一元服した男子のかぶり物の一 思ふ所なく笑ひののしり、詞多く、烏帽子ゆがみ、紐はづし、脛高くかかげて、 五 種。古くは黒い絹で作ったが、後 けしきひどろ ひたひがみ六 には紙で作り黒漆で固めたりした。 用意なき気色、日来の人とも覚えず。女は額髪はれらかにかきやり、まばゆか 草 ニ装束の結び紐。 さかな らず顔うちささげてうち笑ひ、盃持てる手に取りつき、よからぬ人は肴取り = すね。膝から下を、すねの上 然 まで高くまくり上げて。 かぎいだ 徒て口にさしあて、自らも食ひたる、さまあし。声の限り出して、おのおの歌ひ 0 不用意な。たしなみのない。 五女が顔をあらわに見せないた いだ 舞ひ、年老いたる法師召し出されて、黒くきたなき身を肩抜ぎて、目もあてらめに、額ぎわから左右の頬のあた りへ、長くたらしている髪形。 一 0 れずすぢりたるを、興じ見る人さへ、うとましく憎し。あるは又、我が身いみ六晴れやかに。むきだしに。 七恥ずかしげもなく。 〈 ( 遠慮もなく ) 仰向けて。 じき事ども、かたはらいたく言ひきかせ、あるは酔ひ泣きし、下ざまの人は、 九身をくねらせているのを。 罵りあひ、いさかひて、あさましくおそろし。恥ぢがましく、心憂き事のみあ一 0 いとわしく。 りて、はては許さぬ物どもおし取りて、縁より落ち、馬・車より落ちて、あや一 = 恥さらしで。 一三過失 ( けが ) までしてしまう。 いひちかどした まちしつ。物にも乗らぬきはは、大路をよろぼひ行きて、築土・門の下などに一 0 「」。分際。身分の者は。 一五よろよろと歩いて行って。 けさ こわらは 向きて、えもいはぬ事どもしちらし、年老い、袈裟かけたる法師の、小童の肩一六泥で塗り固めた土塀。 毛いうにいわれぬこと ( へどを 一九 をおさへて、聞えぬ事ども言ひつつ、よろめきたる、いとかはゆし。 吐いたりなど ) をあれこれしちら のち やく かかる事をしても、この世も後の世も益有るべきわざならば、いかがはせん、穴わけのわからぬこと。 一九見るにしのびない。 たから ひくやくちゃう しよくかう この世にはあやまち多く、財を失ひ、病をまうく。百薬の長とはいへど、万の = 0 「ソレ塩 ( 食肴ノ将、酒 ( 百 の 九 め 一四 さかづき おち やまひ えん 一五 にく ひも しも よろづ ひも
方丈記 所は同じ京であり、人は相変らず大勢だが、昔会ったこと 川は涸れることなく、いつも流れている。 ひとり・ふたり 〔一〕ゆく河 がある人は、二、三十人のうち、わずかに一人か二人にな そのくせ、水はもとの水ではない。よどん っている。朝死ぬ人があるかと思えば、夕方生れる子があ だ所に浮ぶ水の泡も、あちらで消えたかと思うと、こちら る。まさによどみに浮ぶうたかたとそっくりだ。ああ、私 にできていたりして、けっしていつまでもそのままではい ない。世間の人を見、その住居を見ても、やはり、この調は知らぬ、こうして生れたり死んだりする人がどこからき きせん 子だ。壮麗な京の町に競い建っている貴賤の住居は、永久て、どこ ( 消えてゆくのか、を。また、いったい、仮の宿 であるこの世で、誰のためにあくせくし、どういう因縁で になくならないもののようだけれども、ほんとにそうかと ごうしゃ まれ 豪奢な生活に気をとられるのか。そうしてあくせくした人 一軒一軒あたってみると、昔からある家というのは稀だ。 も、その建てた豪奢な邸宅も、先を争うようにして変って 去年焼けて今年建てたのもあれば、大きな家が没落して小 ゆく、消えてゆく。いってみれば、朝顔とその露に同じだ。 さくなったのもある。住んでいる人にしても、同じこと。 あわ 方丈 一三ロ