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検索対象: 完訳日本の古典 第37巻 方丈記 徒然草
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1. 完訳日本の古典 第37巻 方丈記 徒然草

と続けられているのによれば、おそらく、 つか ある女の業平朝臣を、ところ定めず歩きすと思ひて、よみて遣はしける。 ことばがき と記している『古今和歌集』 ( 恋四 ) の歌の詞書や主想をふまえて発想されているはずで、王朝の「みやび 男」としての在原業平の色好みの姿が、その下敷になって表現されているに相違なく、恋もまた王朝的な風 みのが 雅の伝統として、とらえられていることは見遁せない。 つまり、この第一二段の構想と、久米仙人にたくして述べられた大胆な性の欲求についての容認とは、一貫 して王朝のみやびを憧憬しつづけるとともに、そこにまた、とどまりはしなかった兼好の思想や情念の動態 かいまみ を、早くも垣間見させてくれるのであるが、これらのおよそ第三〇段あたりまでの初期執筆の部分には、た とえば生命の無常から説きおこして、「世はさだめなきこそいみじけれーと無常であるからこそ、現世は情 趣にも富み、すばらしくもあるのだと断言した第七段の主張などにも、もののあはれを求める王朝以来の精 神的志向は、色濃く跡をとどめているのである。 しやみ 貴族的世界から離脱したといっても、兼好の日常は在家の生活も可能な沙弥として、都との往来も世俗の 人びととの交流も自由な遁世者としてのそれであり、若き日々に親近した宮廷生活で身につけた貴族的な価 説値規準は、おそらく三十歳を多くはこえなかったであろう当時の兼好の情念を強くとらえており、彼の内心 に深ぶかと伝統していたに相違ない。 いまやうむげ 解 なに事も、古き世のみぞしたはしき。今様は無下にいやしくこそなりゆくめれ。 ( 第一三段 ) という嘆きは、貴族社会とともに崩壊しつつあった現前の文化的状況への強い批判であるとともに、また伝 統的世界に対するやみがたい思慕の情に貫かれた、当時の兼好にとってまことに切実な表現であった。 ごと

2. 完訳日本の古典 第37巻 方丈記 徒然草

徒然草 368 横川ぞのしかし、そうした兼好も、都近くでの遁世者の生活に人り、やがてもう一度の現世離脱を決行す 修道生活ることになる。 世の中おもひあくがるるころ、山ざとにいねかるを見て、 よの中の秋田かるまでなりぬれば露もわが身もおきどころなし のがれてもしばのかりほのかりの世にいまいくほどかのどけかるべき ( 以上、『兼好法師家集し しゅんじゅん などと詠むような、出家への衝迫と逡巡とにとつおいっ動揺する日々をかさねた上で、洛北修学院における よかわ 籠居の生活から、ついに比叡山横川での孤独な修道生活に人ったのである。 だから、『徒然草』の主要部分ともいうべき、およそ第三〇段以降の諸段を書き継いだ兼好の思想の展開 えしん は、この、恵心僧都をはじめ敬虔な先達たちの歩んだ道を学ぼうとする修道者たちの世界に身を置いた兼好 の、精神の緊張にささえられて、はじめて可能であった。こうして、 大事を思ひたたん人は、去りがたく、心にかからん事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり。 ( 第五九段 ) れいぎ しょえんはうげ ものぐる 諸縁を放下すべき時なり。信をも守らじ。礼義をも思はじ。この心をも得ざらん人は、物狂ひとも言へ、 なさけ うつつなし、情なしとも思へ。毀るとも苦しまじ。誉むとも聞き人れじ。 ( 第一一二段 ) と断言するような、一切を放下することによってのみ道は成就するという、強烈な主張がここに打ち出され るのである。 し J カ だいじ そし

3. 完訳日本の古典 第37巻 方丈記 徒然草

くつかぶり ( 銭 ) もほし』ということを沓冠におきて」として、兼好の和歌と頓阿の返歌が収められており、南北朝の 動乱に巻きこまれたころの彼には、時には生活に困窮する時期もあったであろうことを物語っている。だか ら、おそらく晩年の執筆と想定される第二一七段に、当時の大福長者を登場させて、 とく よろづ 人は万をさしおきて、ひたふるに徳をつくべきなり。貧しくては生けるかひなし。富めるのみを人とす。 と、経済的な徳 ( 所得 ) を、まず蓄積すべきであり、貧しくては人間らしい生活はできないから生きている かいがないという、当時としてはまことに大胆な断言をさせているのも、けっして抽象的な一一一口葉ではなく、 彼が自ら、「よねたまへ、ぜにもほし」と述べた、おそらく切実な体験に裏打ちされているに相違あるまい。 こうして彼の晩年は、貴族にとってかわって権力を握った、足利将軍をはじめとする武家大名たちとの交 ただよし さんまいいんうのう 流が目につくのであって、たとえば、康永三年 ( 一三四四 ) 十月、足利直義による勧進の「高野山三昧院奉納和 あしかがたかうじただよし 歌」には、足利尊氏・直義、高師直などとともに、和歌五首を奉納し、また観応元年 ( 一三当四月、足利直 義の勧進により、玄恵法印五旬の忌に当って披講された「玄恵追悼詩歌」にも、尊氏・直義らにつづいて二 首出詠するなど、新興武家による詠歌の勧進や歌会等に進んで加わっていることが知られている。 こうした生活圏の変化が作品『徒然草』にいかに投影したかは、今後の課題であるが、いずれにしろ、こ 説れまで見てきたように、兼好の生活史が明らかになるにしたがって、『徒然草』の文学としての本質が、い っそう鮮明に見えてきたことは疑えないのであって、それは『徒然草』の執筆年代を一年たらずの時期に閉 解じこめていた時代には、とうてい望みえないことであった。そこで今後は、『徒然草』のそれぞれの章段に 該当する作品の執筆時点の再検討が、さらに期待されることになるわけである。

4. 完訳日本の古典 第37巻 方丈記 徒然草

ひえいざんよかわこも 日々に書き留められた部分で、その後、何年にもわたる隠遁生活とりわけ比叡山の横川に籠って、彼なりの 修道生活を送ったりした生活体験によって、若き日の詠嘆的・憧憬的な情念が次第に克服され、理性的・批 判的な思想の世界へ踏み込んで行った兼好の精神の軌跡は、むしろ第三〇段以降の諸段に刻みこまれている であろうことも、近来ようやく明らかにされてきたというべきであろう。 もちろん『徒然草』全二百四十三段中の、どの部分にも兼好の思想や情念は刻印されているし、その意味 で『徒然草』が、ひとつの作品としての統一的世界を結品させていることはいうまでもない。ただ一年たら ずの短期間に書き終えられた場合と、少なくとも十数年あるいはそれ以上の時期にわたり、何回にもわたっ て書き継がれた場合とでは、作品の性格に著しい相違の生れてくるのは当然である。 まして兼好が『徒然草』を執筆していた時代は、南北朝内乱と呼ばれた日本歴史のなかでも最も画期的な しんかん 変革期にさしかかっており、全日本を震憾させたその衝撃が、当時の代表的な知識人としての兼好にどう受 けとめられたかということは、『徒然草』の表現を時代の起伏にそって点検することによって、これまでよ りもいっそう精密に跡づけられるであろう。そこで以下、兼好の思想の結節点を歴史的に押えながら、『徒 然草』の語るところを読み取ってゆくことにしたい。 いでや、この世に生れては、願はしかるべき事こそ多かめれ。 ( 第一段 ) 説若き日の 兼好これが『徒然草』の本論書出しの言葉であることを、まず注目したい。この世に生を享けた人間 解にとって、ああもしたい、こうもありたいと願う欲求が、何とどっさりあることだろうという、人間にとっ て誰しもの根元的な欲望を認識するところから兼好は筆を起しているのである。そんな欲望の中でも、とり わけやむにやまれず取り去りがたいものとして、兼好はつづいて、

5. 完訳日本の古典 第37巻 方丈記 徒然草

徒然草 364 十歳代そこそこまでの時期に執筆されたことが次第に確かめられ、彼の思想の円熟した壮年期以降の執筆に なる部分は、広く知られている最初の諸段には見出せないことが知られるようになった。 しかも、この『徒然草』が兼好法師の作品であることは、誰も疑ったこともなかったのに、それ 作品の展開 が、いつどういう順序で書かれたかについては、いまだに諸説があって必ずしもさだかではない。 たとえば『徒然草』が、鎌倉時代の末期、元徳二年 ( 一三三 0 ) から元弘元年 ( 一三三 l) までの一年たらずの間に 執筆されたと考証した、橘純一による戦前からの最も有力な説は、近来、兼好の伝記や作品研究の飛躍的な 進歩によって批判され、『徒然草』はわずか一年たらずの短い期間に執筆されたのではなくて、一三三〇、 三一年前後の、少なくとも十数年あるいはそれ以上の時期にわたる、何回かの書き継ぎによって成立したら しいことが、次第に明らかになってきた。 しかも、さきにあげた文章をふくむ第一段から第三〇段あたりまでと、それ以降の部分との間には、兼好 の思想に大きな飛躍が見られること、さらに、第三〇段あたりから巻末にいたる部分にも思想的な展開があ こうよう り、また昂揚や屈折もあって、全章段が決して一時期の執筆に成るものでないことが、今では広く認められ るようになっている。 したがって作品としての『徒然草』も、これまでのように、どちらかといえば章段の順序など気にしない で、自由にあるいは気ままに読み取るのではなくて、兼好の生活の歴史的な展開にそって、いわば彼の思想 的な遍歴の軌跡として、それぞれの章段を位置づけながら読み進めることが望ましいのである。 兼好の生活体験たとえば巻頭から第三〇段あたりまでの各章段は、兼好がまだ宮廷に仕官していたころ、お と南北朝の内乱そくとも宮廷生活から離れて間もない、おそらくせいぜい三十歳代初期までの、比較的若き

6. 完訳日本の古典 第37巻 方丈記 徒然草

徒然草 200 しばら 一根拠のない噂話。 世の人あひ逢ふ時、暫くも黙止する事なし。必ず言葉あり。その事を聞くに、 や一〇八段にも、「無益の事をな むやくだん とくすくな し、無益の事を言ひ」て月日を過 多くは無益の談なり。世間の浮説、人の是非、自他のために失多く、得少し。 し、ついに「一生を送る、尤も愚 たが かなり」と語り、また一七〇段に これを語る時、互ひの心に無益の事なりといふ事を知らず。 も同様な主旨の表現が見える。 ニ東国。関東。 一宗を統轄する寺。「末寺」に 第一六五段 対する語。 四天台・浄土・襌宗などの顕教 まじは あづま 吾妻の人の都の人に交り、都の人の吾妻に行きて身をたて、又、本寺・本山と真言の密教。各宗の僧侶の意。 四 五自分の本来の習俗、生活圏。 けんみつ ◆兼好の時代には、関東の生活・ を離れぬる顕密の僧、すべて我が俗にあらずして人に交れる、見ぐるし。 文化が急激に都に押し人っていた が、東西の生活圏の問には当然、 断層があり違和があったであろう。 第一六六段 両者の混在する不調和を、「見ぐ 六 るし」と記した兼好は、転換期の ゆきとけ 人間の営みあへるわざを見るに、春の日に雪仏を作りて、そのために金銀・混沌とした状況を最も鋭敏に感受 した人であったに相違ない。 しゅぎよく 珠玉の飾りを営み、堂を建てんとするに似たり。その構へを待ちて、よく安置六雪で作った仏。 七あがめ据えることができよう した してんや。人の命ありと見るほども、下より消ゆること、雪のごとくなるうちか。「や」は反語を表す助詞。 八あくせく働いて、将来を期待 はなは す . ること。 に、営み待つ事甚だ多し。 ◆無常について、『徒然草』は繰り 返し語っているが、春の日にはか あ もだ カま んじ ほんざん

7. 完訳日本の古典 第37巻 方丈記 徒然草

まっしたのんに かみ三 さがみのかみときより 相模守時頼の母は、松下禅尼とぞ申しける。守を人れ申さるる事ありけるに、一北条時頼。鎌倉幕府第五代の 四 執権。寛元四年 ( 一一一四六 ) 、執権。建 こがたな あかさうじ すすけたる明り障子のやぶればかりを、褝尼手づから、小刀して切りまはしつ長元年 ( 一 = 四九 ) 、相模守。弘長一二年 ( 一一一査 ) 、最明寺で没。三十七歳。 草 せうとじゃうのすけよしかげ しようのすけあだちかげもり ニ秋田城介安達景盛の娘。 っ張られければ、兄の城介義景、その日のけいめいして候ひけるが、「給はり 然 条時氏に嫁し、時頼を生む。「禅 をのこ きえ 徒て、なにがし男に張らせ候はん。さやうの事に心得たる者に候ふ」と申されけ尼」は仏門に帰依した女性。 三招き入れること。 をのこ れば、「その男、尼が細工によもまさり侍らじ」とて、なほ一間づっ張られけ四いまの「障子」に同じ。 五あちらこちらを切る意。 るを、義景、「皆を張りかへ候はんは、はるかにたやすく候ふべし、まだらに六秋田城介。景盛の跡をついだ。 七「経営」の転。接待の準備をし て控えていたが。 候ふも見苦しくや」とかさねて申されければ、「尼も、後はさはさはと張りか 八その仕事は当方でいただいて。 ゃぶ けふ へんと思へども、今日ばかりは、わざとかくてあるべきなり。物は破れたる所九何某。「男」は目下の者に親し みをかけて呼ぶ時につける語。 しゆり さん 一 0 ( 障子の桟の ) ひとこま。 ばかりを修理して用ゐる事ぞと、若き人に見ならはせて、心づけんためなり」 一一さつばりと。 一ニ気づかせようと思うがため。 と申されける、いとありがたかりけり。 一三日本全国を安全に治める。 をさ けんやくもと せいじん 世を治むる道、倹約を本とす。女性なれども聖人の心にかよへり。天下を保◆以下、坂東武家の逸話が目立っ てくるが、おそらく兼好が関東に 開在中の聞伝えによるものであろ っ程の人を、子にて持たれける、誠に、ただ人にはあらざりけるとぞ。 う。また、これら鎌倉武家の簡素 な生活への讃嘆は、そのまま現前 の政治的頽廃への批判になってい 第一八五段 ることにも注目したい。 ほど さいく まこと によしゃう はべ びと さうら てんか

8. 完訳日本の古典 第37巻 方丈記 徒然草

169 第 123 段 ~ 第 125 段 饑ゑず、寒からず、風雨にをかされずして、閑に過ぐすを楽とす。ただし、人 = 求めて、あくせくするのを。 いたく 一ニ贅沢。 いれう うへしの 皆病あり。病にをかされぬれば、その愁忍びがたし。医療を忘るべからず。薬一 = つづまやかにするならば。 ◆生きるための必要最小限度を明 くは 示し、これ以上を求めず、「閑に を加へて四つの事、求め得ざるを貧しとす。この四つ欠けざるを富めりとす。 過ぐす」生活こそは、兼好の常に けんやく この四つの外を求め営むを驕りとす。四つの事倹約ならば、誰の人か足らずと求めてきたところ。特に医療と薬 が加えられているのは、兼好の健 せん。 康状態も物語って興味深い。 一四伝末詳。兼好と交わりのあっ た僧。『続千載集』以下の勅撰に人 集。 第一二四段 一五法然を始祖とする、念仏によ 一四 一七 って極楽往生を願う宗派。 ぜふほふし じゃうどしゅう一六 がくしゃう あけくれ 是法法師は、浄土宗に恥ぢずといへども、学匠を立てず、ただ明暮念仏して、実「において」。浄土宗の世界で、 誰にもひけをとらない、の意。 ↓一二五ハー注一六。学匠ぶるこ やすらかに世を過すありさま、いとあらまほし。 とをせず、の意。 や知友法師の日常を点出、兼好に とっても「あらまほし」い生活を、 第一二五段 具象化したともいうべき断章であ 一九 る。 ひじりしゃうはべ 人におくれて、四十九日の仏事に、ある聖を請じ侍りしに、説法いみじくし穴先立たれて。死におくれて。 ニ 0 一九頼んで招く。招請する。 みなひと だうし こと ちうもん て、皆人、涙をながしけり。導師帰りて後、聴聞の人ども、「いつよりも、殊 = 0 法会の際、一座を先導する僧。 一 = 説教を聞いた人々。 けふたふとお ものい に今日は尊く覚え侍りつる」と感じあへりし返事に、ある者の言はく、「何と = = 何といたしましても。 やまひ よ ほか一 すぐ ふうう しづか かへりごと たのしび たれ せっふ た なに うねん しづか

9. 完訳日本の古典 第37巻 方丈記 徒然草

( 原文一四七ハー ) あることを知るであろうか。現在の一弾指の間に、なすべ生命をたいせつにいとおしむべきである。生きながらえて いることの喜びは、毎日楽しみ味わわないでよいものだろ きことをすぐさま実行することが、何と困難きわまること うか。愚かな人が、この生存の楽しみを忘れて、いたずら であることか。 に苦労して、外的な楽しみを求め、この存命という財宝を 第九三段 忘れて、あぶなっかしくも他の財宝をむさぼるならば、願 「牛を売る者がある。買う人が、明日その牛の代金を払っ望は満たされることがない。生きている間、生命を楽しま て、牛を受け取ろうという。ところが、その夜のうちに牛ないで、死期になって死を恐れるならば、矛盾していて、 命ながらえていることの喜びを楽しむという道理は成り立 は死んでしまう。この場合、買おうとする人に利益があり、 つはずがない。人がみな、生を楽しまないのは、死を恐れ 売ろうとする人に損がある」と語る人がある。 ないからである。死を恐れないのではなくて、死の近いこ これを聞いて、そばにいる人が言うには、「牛の持主は、 とを忘れているからである。あるいはまた、生死の差別相 たしかに損があるとはいっても、また別に大きな利益があ に関与しないというならば、真理を悟っているということ る。そのわけは、命のあるものが、死の近いことを知らな ができよう」と言うと、人々は、いよいよ嘲った。 いという点では、牛がこのとおり、そうである。人もまた 同じことだ。思いもかけないのに牛は死に、思いもかけな 第九四段 いのに持主は生きながらえている。人間、一日の命は万金 ときわいのだいじようだいじん がちょう ねだん 常盤井太政大臣が出仕なさったときに、勅命の文書を持 ~ よりも重い価値がある。牛の値段は、鵝鳥の羽毛よりも軽 椴くめん 段 っている北面の武士がお会い申して、馬からおりてしまっ い。万金を得て一銭を失うような人には、損があるという あざけ 第 たのを、太政大臣は、後に、「北面の何某というものは、 ことはできない」と言うと、皆の人が嘲って、「その道理 勅書を持ったままで、下馬いたしました者であります。こ 9 は、牛の持主に限ることはできない」という。 の程度のものが、どうして君にお仕えすることができまし すると、また言うには、「だから、人は死を憎むならば、

10. 完訳日本の古典 第37巻 方丈記 徒然草

方丈記 所は同じ京であり、人は相変らず大勢だが、昔会ったこと 川は涸れることなく、いつも流れている。 ひとり・ふたり 〔一〕ゆく河 がある人は、二、三十人のうち、わずかに一人か二人にな そのくせ、水はもとの水ではない。よどん っている。朝死ぬ人があるかと思えば、夕方生れる子があ だ所に浮ぶ水の泡も、あちらで消えたかと思うと、こちら る。まさによどみに浮ぶうたかたとそっくりだ。ああ、私 にできていたりして、けっしていつまでもそのままではい ない。世間の人を見、その住居を見ても、やはり、この調は知らぬ、こうして生れたり死んだりする人がどこからき きせん 子だ。壮麗な京の町に競い建っている貴賤の住居は、永久て、どこ ( 消えてゆくのか、を。また、いったい、仮の宿 であるこの世で、誰のためにあくせくし、どういう因縁で になくならないもののようだけれども、ほんとにそうかと ごうしゃ まれ 豪奢な生活に気をとられるのか。そうしてあくせくした人 一軒一軒あたってみると、昔からある家というのは稀だ。 も、その建てた豪奢な邸宅も、先を争うようにして変って 去年焼けて今年建てたのもあれば、大きな家が没落して小 ゆく、消えてゆく。いってみれば、朝顔とその露に同じだ。 さくなったのもある。住んでいる人にしても、同じこと。 あわ 方丈 一三ロ