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検索対象: 完訳日本の古典 第37巻 方丈記 徒然草
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1. 完訳日本の古典 第37巻 方丈記 徒然草

はちす しんわうけん 通へるなり。晋の王倹、大臣として、家に蓮を植ゑて愛せし時の楽なり。これ毛雅楽の曲名。唐楽。「廻忽」も 正しくは「廻鶻」と記す、との意。 きようどまっえい れんぶ 穴いわゆる匈奴の末裔。蒙古地 より大臣を蓮府といふ。 方を領有したウイグル族の国。 廻忽も廻鶻なり。廻鶻国とて、夷の、こはき国あり。その夷、に爬して後一〈蛮族。「こは ( 剛 ) き」は強力な。 ニ 0 ここは中国の総称。中国に帰 きた 服して後に来朝して、の意。 に来りて、おのれが国の楽を奏せしなり。 おさらぎのぶとき ニ一大仏宣時。北条時政の曾孫。 弘安十年 ( 一一一全 ) 以降、連署として 執権北条貞時を補佐した。 第二一五段 一三北条時頼。 " ↓二一四謇注一。 「最明寺」は、時頼の別業の持仏堂 さいみやうじのにふだう むかしがた たらののぶときあそんおい 平宣時朝臣、老ののち、昔語りに、「最明寺人道、ある宵の間に呼ばるる事を彼の出家後、寺としたもの。 ニ三武家の礼服。方領で紋がなく、 ひたたれ そゼぐくり ありしに、やがて、と申しながら、直垂のなくてとかくせしほどに、又使来り袖括がある。袴は長袴をはいた。 品底本「なべたる」。正徹本・常 縁本の「なへたる」によってこう改 て、直垂などのさぶらはぬにや。夜なれば異様なりともとく、とありしかば、 ニ七 めた。よれよれになっているの意。 てうし かはらけ ニ四 段なえたる直垂、うちうちのままにてまかりたりしに、銚子に土器とりそ ( て持 = = ふだんのままの姿で。 ニ六酒を人れて杯につぐ、長い柄 ニ九 つん のついた金属製の器。 第て出でて、この酒をひとりたうべんがさうざうしければ、申しつるなり。さか 毛素焼の杯。 なこそなけれ、人はしづまりぬらん。さりぬべき物やあると、いづくまでも求 ll< 「たうぶ」は食べる、飲むの意。 三 0 ニ九↓八一謇注三六。 第 ど しそく 三 0 木の先に脂をぬり、手元に紙 め給へ、とありしかば、脂燭さして、くまぐまをもとめし程に、台所の棚に、 を巻いたもの。「さす」は点火する。 さうらふ 2 こかはらけみそ 三一素焼の小皿。 小土器に味噌の少しつきたるを見出でて、これぞ求め得て候、と申ししかば、 い 一九 よる ことやう よひま たな も

2. 完訳日本の古典 第37巻 方丈記 徒然草

さら しかしか 一「然々の」。これこれの。 住みかに帰りてぞ、更に悲しき事は多かるべき。「しかしかのことは、あなか ニ「かしこ」は、かしこし。ああ、 しこ、あとのため忌むなる事ぞ」など言へるこそ、かばかりのなかに何かはと、慎むべき、縁起の悪いことの意。 三あとに生き残っている人のた 草 めに嫌い、避けるべきことの意。 人の心はなほうたておぼゆれ。 然 四死んだ者は日に日に疎遠にな ひびうと 徒年月へてもっゅ忘るるにはあらねど、去る者は日々に疎しと言へることなれるとの意。「去ル者 ( 日ニ以テ疎 ク、来ル者ハ日ニ以テ親シ」 ( 文選 きは ば、さはいへど、その際ばかりは覚えぬにや、よしなしごと言ひてうちも笑ひ・古詩十九首 ) による。 五「骸」。なきがら。 まう け ひとけ 六人気のない、さびしい。 ぬ。からは、気うとき山の中にをさめて、さるべき日ばかり詣でつつ見れば、 セしかるべき忌日などにだけ。 こけ うづ ゅふべあらしよる ほどなく卒都婆も苔むし、木葉ふり埋みて、タの嵐、夜の月のみぞ、こととふ八ここは、墓の上に立てる石塔。 九話しかけるたより、縁。 よすがなりける。思ひ出でてしのぶ人あらんほどこそあらめ、そも又ほどなく一 0 さて、けつきよくは。 = 遺跡の墓をとぶらうことも。 すゑずゑ 一 0 うせて、聞き伝ふるばかりの末々は、あはれとやは思ふ。さるは、跡とふわざ一 = 「古墓ハ何レノ代ノ人ゾ。姓 ト名トヲ知ラズ。化シテ路傍ノ土 も絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ心あらん人トナリ、年々春草生ズ」 ( 白氏文集 ・続古詩十首 ) によるか。 たきぎ ちとせ はあはれと見るべきを、はては、嵐にむせびし松も千年を待たで薪にくだかれ、一三「古墓ハ犁カレテ田トナリ、 松柏 ( 擬カレテ薪トナル」 ( 文選・ 古詩十九首 ) による。 左きはすかれて田となりぬ。そのかただになくなりぬるぞ悲しき。 や死者も死者を送る人も、人間の 行為はすべてはかなくたよりない。 この事実に対して作者も、ここで 第三一段 はなお主情的にくりかえし「悲し」 そとば 六 い い このは としどし

3. 完訳日本の古典 第37巻 方丈記 徒然草

徒然草 182 らう まれな ここら いづかたへか行きつらん、ほどなく稀に成りて、車どもの乱がはしさもすみぬ一「許多」。多数。大勢。 ニ待って迎えとるの意。 とりべ すだれたたみ れば、簾・畳も取りはらひ、目の前にさびしげになりゆくこそ、世のためしも = 京都、東山の鳥辺山の麓一帯 の地。墓地が多かった。「舟岡」は、 おほち 紫野にある丘陵。火葬場があった。 思ひ知られて、あはれなれ。大路見たるこそ、祭見たるにてはあれ。 四葬送の数の多い日はあるが。 さ“しを」 かんおけ かの桟敷の前をここら行きかふ人の、見知れるがあまたあるにて知りぬ、世 = 棺桶を売る者。 六売らずにそのままにして置く。 のち ままこだ ひとかず の人数もさのみは多からぬにこそ。この人みな失せなん後、我が身死ぬべきにセ継子立ての遊戯。黒白の石各 十五箇を一定の順に配列、その中 うつはもの 定まりたりとも、ほどなく待ちつけぬべし。大きなる器に水を人れて、細きの一つ、図の国の石から矢印の方 向に数えて十番目の石回を取り除 しただ き、次にその隣の石内から十番目 穴をあけたらんに、滴る事すくなしといふとも、怠る間なく洩りゆかば、やが の石を取る。 0 ・ 0 0 ・・ ひとひ ひとりふた 0 これを繰り返 0 て尽きぬべし。都の中に多き人、死なざる日はあるべからず。一日に一人、二 0 して行くと、 とりべの ふなをか 0 白は圄だけが 0 人のみならんや。鳥部野・舟岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、 残る。そこで ひつぎ 圄を起点に、 送らぬ日はなし。されば、棺をひさくもの、作りてうち置くほどなし。若きに 今度は反対方 0 けふ 0 もよらず、強きにもよらず、思ひかけぬは死期なり。今日まで遁れ来にけるは、向に十ずつ数 0 えて間引いて 0 ・・ 0 0 0 ふしぎ 行くと、つい ありがたき不思議なり。しばしも世をのどかには思ひなんや。ままこだてとい に黒の石が取り除かれ、継子に見 なら すぐろく ふものを双六の石にて作りて、立て並べたるほどは、取られん事いづれの石と立てられた白圄の石だけが残る。 八十番目、十番目と数えあてて。 まび 九あれこれ間引いてゆくうちに。 も知らねども、数へあてて一つを取りぬれば、その外は遁れぬと見れど、又々 しご 四 六 ほか ま のが ← ( イ )

4. 完訳日本の古典 第37巻 方丈記 徒然草

きじふ くすしただもり つねただ 大覚寺殿にて、近習の人ども、なぞなぞを作りて解かれける処へ、医師忠守毛近衛経忠 ( 元徳二年〈一三三 0 〉、 関白 ) か、その父の家平か、未詳。 じじゅうのだいなごんきんあきらきゃう ただもり 穴所定の公卿の場所に着くこと。 参りたりけるに、侍従大納言公明卿、「我が朝の者とも見えぬ忠守かな」と、 ひざまず ニ四 一九公事の際、地面に跪く時に敷 からへいじ はらた く半畳ほどの畳、または薦。 なぞなぞにせられにけるを、「唐瓶子」と解きて笑ひあはれければ、腹立ちて ◆以上二段いずれも身分の低いも まかい のの優雅なふるまい。ともに目立 退り出でにけり。 たぬように「忍びやかに」行動して いるところが、とりわけ兼好には 好ましく思われたのであろう。 第一〇四段 ニ 0 後宇多上皇の御所。今の京都 市右京区嵯峨の大覚寺内にあった。 め 荒れたる宿の、人目なきに、女のはばかる事あるころにて、つれづれと籠り = 一側近の人々。 てんやくのかみ 一三丹波忠守。典薬頭、宮内卿。 あるひと ゅふづくよ 居たるを、或人、とぶらひ給はんとて、タ月夜のおぼっかなきほどに、忍びて中国からの渡来人の子孫であった。 きんあきら ニ三三条公明。正中三年 ( 一三一一六 ) 、 げすをんな 尋ねおはしたるに、大のことことしくとがむれば、下衆女の出でて、「いづく侍従。建武三年 ( 一三三六 ) 、権大納言。 品金属製の中国風とっくり。 あない へいじへいじ 段よりぞ」と言ふに、やがて案内せさせて人り給ひぬ。心ぼそげなる有様、いかや平忠盛を「伊勢平氏 ( 瓶子 ) はす がか ( 酢ル ) なりけり」とはやした いたじき 第で過ぐすらんと、いと心ぐるし。あやしき板敷にしばし立ち給へるを、もてしてたという、『平家物語』の説話を ただもり ふまえて唐人の子孫忠守を笑った。 段 づめたるけはひの、わかやかなるして、「こなた」といふ人あれば、たてあけ = 五出仕などの外出を遠慮する。 第 実タ月の光のほの暗い時分に。 ところせ やりど 毛しとやかな声の。 所狭げなる遣戸よりぞ人り給ひぬる。 ll< 開閉の思うにまかせぬ、の意。 ニ九 ニ九それほどには荒れていないで。 内のさまは、いたくすさまじからず、心にくく、火はあなたにほのかなれど、 だかくじどの てう と ところ ニ七

5. 完訳日本の古典 第37巻 方丈記 徒然草

こゑ まへとし 声耳に満てり。前の年、かくのごとく、からうじて暮れぬ。あくる年は、立ち九その上にさらに。 一 0 ( 立ち直るどころか ) ますます えきれい ひどくなって、 ( 立ち直る徴候な 直るべきかと思ふほどに、あまりさへ、疫癘うちそひて、まさざまに、あとか ど ) すっかりなくなった。 たなし。 一一「けい」は「係」か。飢渇は世間 の人みんながかかわってしまった せうすい 世人みなけいしぬれば、日を経つつきはまりゆくさま、少水の魚のたとへにから、飢渇に関のない人など一 人もなく、どこへころがりこむと き かさ いうあてもない。 かなへり。はてには笠うち着、足ひきつつみ、よろしき姿したる者、ひたすら 一ニ水が少なくて死にかかってい あり に家ごとに乞ひ歩く。かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはる魚。もと『荘子』外物篇の、轍の ふな わずかの水にあえぐ鮒の故事。 ち倒れ伏しぬ。築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬる者のたぐひ、数も知ら一 = 歩いていたかと思うと、ばっ たり倒れ、もう死んでいるという ず、取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界にみち満ちて、変りゆくかたち餓死の叙述。 高土塀に沿って。 かはら むまくるまゆ ありさま、目もあてられぬ事多かり。いはむや、河原などには、馬車の行き交一 = 死臭と、死体の腐乱。 = ( 加茂川の河原。 一七 しづやま たきぎ ふ道だになし。あやしき賤山がつも、カ尽きて、薪さへ乏しくなりゆけば、頼宅身分の低い者や木こりなど。 穴どうにもしようがなくなった みづか むかたなき人は、自らが家をこぼちて、市に出でて売る。一人が持ちて出でた人々。 ごじよく まつう 旨ロ 一九仏教では、末法の世は、五濁 あたひ 丈る価、一日が命にだに及ばずとぞ。あやしき事は、薪の中に赤き丹着き、箔な ( 劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・ 命濁 ) などの汚濁や、十悪 ( 殺生・ 方 ど所々に見ゆる木、あひまじはりけるを、たづぬれば、すべきかたなき者、古偸盗・邪淫・妄語・綺語・亜・ しんい 一九 両舌・貪欲・瞋恚・愚痴 ) などの 2 ぞら ちよくあく 寺に至りて仏を盗み、堂のものの具を破り取りて、割り砕けるなりけり。濁悪罪悪が満ちてくるという。 よひと こ 一五 いちい くだ と・も はく ふる どぺい

6. 完訳日本の古典 第37巻 方丈記 徒然草

ニ 0 さりげなく、それとなく見る。 なし。 ニ一賀茂祭。↓九三謇注一四。 み さやうの人の祭見しさま、いとめづらかなりき。「見ごと、いとおそし。そ = = 見物の対象になる行列をいう。 ゐごすぐろく さドレを、ふよう や 品桟敷に接し、その奥の一段低 のほどは桟敷不用なり」とて、奥なる屋にて酒飲み、物食ひ、囲碁・双六など い所にある家屋。 おのおのきも ニ五さうら 遊びて、桟敷には人を置きたれば、「渡り候ふーといふ時に、各肝つぶるるや = 五「行列が通ります」の意。 ニ六落ちてしまいそうなほど身を あらそ すだれは うに争ひ走りのぼりて、落ちぬべきまで簾張り出でて、押しあひつつ、一事ものり出し、簾を外に押し出して。 毛ああだ、こうだ。 見もらさじとまぼりて、「とあり、かかり」と、ものごとに言ひて、渡り過ぎ夭目に人る物ごとに、いちいち。 ニ九奥の家におりてしまう。 ニ九 三 0 ぬれば、「又渡らんまで」と言ひておりぬ。ただ、ものをのみ見んとするなる = 0 祭の行列そのものだけを 三四 三一身分の高そうに見える人 わかすずゑ みやづか ねぶ 三五 三三身分の低い人びと。 うしろ およ へに立ち居、人の後にさぶらふは、様あしくも及びかからず、わりなく見んと = 0 貴人の奉仕に立ったり坐った りしており。 三五ぶざまにのしかかったりせず。 する人もなし。 三六特定の何にということもなく、 あ なに しの 段何となく葵かけわたしてなまめかしきに、明けはなれぬほど、忍びて寄するあたり一帯あれにもこれにも。 四 0 毛車・簾をはじめ何くれとなく うしかひしもべ 三九 車どものゆかしきを、それか、かれかなど思ひ寄すれば、牛飼・下部などの見葵をかけたので、葵祭の名がある。 第 lll< 主人が何となく知りたくて。 かた 三九あの方か、この方かなどと。 知れるもあり。をかしくも、きらきらしくも、さまざまに行きかふ、見るもっ うしかいわらわ 8 四 0 牛飼童の略。牛使い。 な なら れづれならず。暮るるほどには、立て並べつる車ども、所なく並みゐつる人も、巴優美に、また華美に飾り立て。 あひ ニ七 い びとこと 0

7. 完訳日本の古典 第37巻 方丈記 徒然草

けしき たまがき さかき一 一「木綿」。楮の繊維で作った布。 の気色もただならぬに、玉垣しわたして、榊にゆふかけたるなど、いみじから 8 ニ「伊勢」以下は、神宮を始め有 かすが、ひらのすみよしみわきぶね ぬかは。ことにをかしきは、伊勢・賀茂・春日・平野・住吉・三輪・貴布禰・事の際、朝廷から奉幣の勅使を遣 草 わされた、京都および畿内の諸社。 おほはらのまつのをうめのみや あすか 三奈良県明日香地方を流れ、よ 然吉田・大原野・松尾・梅宮。 んらん く氾濫して流域の変った川。「世 の中はなにか常なるあすか川昨日 の淵ぞ今日は瀬になる」 ( 古今・雑 第二五段 読人しらず ) をふまえている。 四「時移り事去り、楽しび悲し かな あすかがはふちせ びゆきかふとも」 ( 古今・仮名序 ) 。 飛鳥川の淵瀬常ならぬ世にしあれば、時移り事去り、楽しび・悲しび行きか 五「桃李モノ言ハズ春幾タビカ かは すみか ひて、はなやかなりしあたりも人住まぬ野らとなり、変らぬ住家は人あらたま暮レヌル煙霞跡無シ昔誰カ栖ミ 五 シ」 ( 和漢朗詠集・仙家菅三品 ) 。 たうり むかし 六藤原道長の邸。死後に廃絶。 りぬ。桃李もの言はねば、誰とともにか昔を語らん。まして、見ぬいにしへの セ道長が建立、人道後住んだ寺。 八「楽シミ尽キテ哀シミ来リ、 ゃんごとなかりけん跡のみぞ、いとはかなき。 六 志留マリ事変ズ」 ( 本朝文粋大江 八とど ことへん きゃうごくどのふじゃうじ 朝綱 ) 。 京極殿・法成寺など見るこそ、志留まり事変じにけるさまは、あはれなれ。 九 九道長の敬称。出家後、法成寺 しゃうゑん みかどおん みだうどの 御堂殿の作りみがかせ給ひて、庄園おほく寄せられ、我が御族のみ、御門の御に住んだのでいう。 一 0 寺門の総門。南門。 ゆくす うしろみ 後見、世の固めにて、行末までとおぼしおきし時、いかならん世にも、かばか = 本尊を安置してある本堂。 一ニ花園天皇時代 ( 一三一一一、一七 ) 。 だもんこんだう しゃうわ りあせ果てんとはおぼしてんや。大門・金堂など、近くまで有りしかど、正和一 = 法成寺の阿弥陀堂の本号。 一四跡かた。かたみ。 ころなんもん こんだう のちたふふ の比、南門は焼けぬ。金堂はその後倒れ伏したるままにて、とり立つるわざも一 = 一丈六尺の阿弥陀如来像。 かた あと たれ 四 の たの おんぞう こうぞ うへい

8. 完訳日本の古典 第37巻 方丈記 徒然草

なく消えてゆく雪仏によって、具 第一六七段 象的に実感をこめて述べているこ の段の表現は、論理的に説示して いちだうたづさ いる諸段にくらべても、独自の説 しろのぞ 一道に携はる人、あらぬ道の筵に臨みて、「あはれ、わが道ならましかば、 得性をもって迫ってくる。 みはべ 九一つの専門の道に従事する人。 かくよそに見侍らじものを , と言ひ、心にも思へる事、常のことなれど、よに一 0 会合の席。 一一まことに。ひどく。 わろく覚ゆるなり。知らぬ道のうらやましく覚えば、「あなうらやまし。など 一ニ傾けて突きかかる意。 一三善行をほこりにせず。一七三 ともがら か習はざりけん」と言ひてありなん。 謇の「善に伐らず、輩に争ふべか ち らず」およびその注一二参照 カたぶきば 我が智をとり出でて人に争ふは、角あるものの角を傾け、牙あるものの牙を一 0 「物に争はず」 ( 一七一一一ハーとそ たぐひ の注一六参照 ) 。 咬み出だす類なり。 一五美点。長所。 一大欠点。難点。 人としては善にほこらず、物と争はざるを徳とす。他に勝ることのあるは、 宅品格。ここは家柄、身分の意。 一七 穴たくさんの。 しな ほまれ 段大きなる失なり。品の高さにても、才芸のすぐれたるにても、先祖の誉にても、一九欠点。難点。 ニ 0 「言ひ消つ」。非難する。 一八 第人に勝れりと思へる人は、たとひ言葉に出でてこそ言はねども、内心にそこば = 一おごりたかぶる心。うぬぼれ。 段 とが ◆わが長所をほこる者と、長所を つつし わざはひ ニ 0 け くの咎あり。慎みてこれを忘るべし。痴にも見え、人にも言ひ消たれ、禍をも欠点として自覚する者との間にあ 第 る落差を指摘しているが、とりわ まこと 招くは、ただ、この慢心なり。一道にも誠に長じぬる人は、自ら明らかにそのけ長所がそのまま欠点に転化する 2 ひ こころざし ことを洞察する兼好の論理の展開 に注目したい。 非を知る故に、志常に満たずして、終に物に伐る事なし。 い ものあらそ つの 、ひ まさ

9. 完訳日本の古典 第37巻 方丈記 徒然草

おもむき 一九 という程度で、やめるがよいの意。 覚えん事は、学び聞くとも、その趣を知りなば、おぼっかなからずしてやむべ ニ 0 南都七大寺の一。現在は奈良 し。もとより望むことなくしてやまんは、第一の事なり。 市西大寺町にある真言律宗の本山。 ニ一西大寺の長老。日野有成の息、 良澄。元弘元年 ( 一三三 l) 没。八十歳。 さわひらさねかね きんひら 第一五二段 = = 西寺実衡。実兼の孫、公衡 の子。元亨四年 ( 一三一一四 ) 、内大臣。 = 三上人を信仰する様子が見えた。 さだいじりじうねんしゃうにん まゆ だいり 品日野資朝。後醍醐天皇の寵臣。 西大寺静然上人、腰かがまり、眉白く、誠に徳たけたる有様にて、内裏へ 天皇の倒幕計画に挺身、事洩れて さいをんじのないだいじんどの たふとけしき しんがうきそく まゐられたりけるを、西園寺内大臣殿、「あな尊の気色や」とて、信仰の気色捕えられ佐渡に配流、正慶元年 ( 一 三三一 l) に斬られた。 すけとものきゃう どにち ニ五むく毛の大。毛深い大。 ありければ、資朝卿これを見て、「年のよりたるに候」と申されけり。後日に、 実年をとり、やせ衰えて。 むく大のあさましく老いさらぼひて、毛はげたるを引かせて、「この気色尊く毛内大臣の唐名。実衡をさす。 夭進上、さし上げられたの意。 見えて候」とて、内府へまゐらせられたりけるとぞ。 ニ九京極為兼。藤原定家の曾孫。 『玉葉集』の撰者。永仁六年 ( 一一一九 0 、 事に座して捕えられ、佐渡に流さ えんきよう 第一五三段 れたが後に召還、延慶三年 ( 三 0) 、 第 権大納言、正和一一年 ( 一三一三 ) 出家。 ニ九 三 0 同四年再び幕府に捕えられて土佐 収ためかねのだいなごんにふだうめと ろくはら 為兼大納一言入道召し捕られて、武士どもうち囲みて、六波羅へ率て行きけれに配流。元弘一一年 ( 一『『一 l) 没。 第 三 0 六波羅庁。鎌倉幕府が、京都 ば、資朝卿、一条わたりにてこれを見て、「あなうらやまし。世にあらん思ひ警備、公家の監視、三河以西の政 務管掌のため六波羅に置いた仗所。 出、かくこそあらまほしけれ」とぞ言はれける。 三一一条大路のあたり。 ニ四 ふ まこと かこ

10. 完訳日本の古典 第37巻 方丈記 徒然草

へんぜうじ じようじふし 遍照寺の承仕法師、池の鳥を日来飼ひつけて、堂のうちまで餌をまきて、戸 = 戸をしめきって鳥をとじこめ、 捕えては殺し捕えては殺しした。 ぎようぎよう ひとつあけたれば、数も知らず入りこもりけるのち、おのれも人りて、たて籠一 = 仰々しく。ひどく騒がしく。 一三大挙して出あって。 わらは めて、捕へつつ殺しけるよそほひ、おどろおどろしく聞えけるを、草かる童聞一四ばたばた騒ぎあっている。 一五その所。地元。 きて、人に告げければ、村の男どもおこりて人りて見るに、大雁どもふためき一六検非違使庁 ( ↓一五一注一〈 ) 。 宅獄舎にとじこめること。 椴ふし ↓一五一謇注一七。 あへる中に法師まじりて、打ちふせ、ねち殺しければ、この法師を捕へて、所入 一七 一九検非違使庁の長官。 しちゃういだ くび きんごく ◆大雁の群を追ってはねじ殺して より使庁へ出したりけり。殺す所の鳥を頸にかけさせて、禁獄せられにけり。 一八 一九 いる法師の像が、グロテスクなま もととしのだいなごんべったう でに生き生きととらえられ、その、 基俊大納言、別当の時になん侍りける。 法師にもあるまじき姿が、ここで も突き放して描き出されている。 ニ 0 陰陽道でいう陰暦九月の異称。 第一六三段 ↓一四五ハー注一九。 一三論争。議論。 たしよう - もり・ おんやうともがらさうろん 段太衝の太の字、点うつ、うたずといふ事、陰陽の輩、相論の事ありけり。盛 = = 藤原兼行の三男、従三位盛親。 ニ四 延一兀元年 ( 一三三六 ) 出家。 1 ちか よしひら ぎよき せんもん 第親人道申し侍りしは、「吉平が自筆の占文の裏に書かれたる御記、近衛関白殿 = 四安倍晴明の子。陰陽博士。三 条・後一条天皇頃の人。 段 一宝異変の際、神祗官・陰陽寮で にあり。点うちたるを書きたり」と申しき。 第 吉凶を占って注進する文書。 ニ六天皇 ( または貴人 ) の日記。 毛家平・経忠・基嗣等の諸説が 第一六四段 あって未詳。近衛関白家の意。 をのこ ひごろか い きこ おがん こゑのくわんばくどの 一四 ところ