71 巻五 ( 現代語訳一四一一ハー ) 「これにおはしますなり」と言へば、「さだめて歌など詠みたまふらむ。修行の 0 このことによって、作者には絵 とよの 心のあったことが知られる。『豊 げぎん あかりえぞうし ならひ、さこそあれ。見参に入らむーなど言ふもむつかしくて、熊野参りと聞明絵草子』の作者に擬せられるの はそのためである。 ・たび - げかう まぎ けば、「のどかにこの度の下向に」など言ひ紛らかして立ちぬ。 えだ 〈現、広島県三次市に地名とし このついでに、女房二、三人来たり。江田といふ所に、こ 〔 ^ 〕江田に身を寄せる て残る。 あるじあに むすめ の主の兄のあるが、女よすがなどありとて、「あなたざま九娘の縁。 をも御覧ぜよ。絵のうつくしき」など言へば、この住まひも余りにむつかしく、 「都へは、この雪にかなはじ」と言へば、年の内もありぬべくやとて、何とな わち あるじ とし ) ろげにん く行きたるに、この和知の主、思ふにも過ぎて腹立ちて、「わが年頃の下人を 逃したりつるを、厳島にて見付けてあるを、また江田へかどはれたるなり。打一 0 誘拐された。 ちゅう ち殺さむ」などひしめく。とは何事ぞと思へども、「物おばえぬ者は、さる中 = 直前の和知の主の言葉を受け て、「・ : というのはいったい何事 えう だ。とんでもない」という気持の、 夭にもこそあれ。な働きそ」など言ふ。 この作品にしばしば見受けられる むすめ ナよさけ この江田といふ所は、若き女どもあまたありて、情あるさまなれば、何とな言い方。↓田一八ハー注七。 三道理のわからない者。 とど こ、一ち の ししカ一三思いがけない災難。 く、心留まるまではなけれども、先の住まひょりは心延ぶる心地するこ、、ゝ 一四動きなさるな。 にふだうかへ くだ なることぞと、 しとあさましきこ、 冫貢野参りしつる入道、帰さにまた下りたり。一五主語は「主の兄」か。 ーカ いつくしま さき くまの くまの ゅうかい
まことや、十五日は、もし僧などに賜びたき御事やとて、扇を参らせし包みセ「御代」に「三夜」を掛ける。 ^ 久我前内大臣の歌。 九布施として遊義門院が与える こともあるかと思って。 一 0 那智の夢想で得た扇。 思ひきや君が三年の秋の露まだひぬ袖にかけむものとは = 「君が三年ーは三回忌。 ふかくさみかど のち一三 深草の御門は御隠れの後、かこつべき御事どもも跡絶え果三後深草院。以下は本書の跋文 〔三六〕跋 とも見られる部分。 てたる心地してはべりしに、去年の三月八日、人丸の御影一三私が愚痴を言うべきこと。 嘉元三年 ( 一三 0 五 ) 。 供を勤めたりしに、今年の同じ月日、御幸に参り会ひたるも不思議に、見しむ一五↓九〇ハー注七。 一六那智で夢に見た院の御面影。 おもかげ しゆくぐわん ばたまの御面影もうつつに思ひ合はせられて、さても宿願の行く末いかがなり「むばたまの」は「夢」にかかる枕詞 だが、ここでは夢そのものを意味 としつき しん する。 ゆかむとおばっかなく、年月の心の信もさすが空しからずやと思ひつづけて、 宅歌の家としての久我家の名誉 しゅぎゃう さいぎゃう ひとり 身の有様を一人思ひ居たるも飽かずおばえはべるうへ、修行の心ざしも、西行再興の願いか。 一 ^ わが身の有様。 むな が修行のしき、うらやましくおばえてこそ思ひ立ちしかば、その思ひを空しく一九自分ひとりで思っているのも 物足りなく思われるので、「とは のちかたみ 五なさじばかりに、かやうのいたづらごとをつづけ置きはべるこそ。後の形見とずがたり」をするというのである。 ニ 0 『西行物語』のごときものをさ すか。↓田六六ハー注九。 まではおばえはべらぬ 巻 ニ一底本の親本にあった注記。 紙に ぐ 一九 みとせ 一とし 0 本に云はく かたな ここよりまた、刀して切られて候。おばっかなう、 た そで あふぎ ひとまるみえい あと 一六
しるく見えさせおはしまししこそ、数ならぬ身の思ひにも、比べられさせおは一ものの数でもない自分が父を 失った時の悲しみ。 ここち します、い地しはべりしか し。し、刀は、刀 . , 、刀 、刀 今はの御幸を見まゐらするにも、昔ながらの身ならましか、 当など、おばえさせおはしまして、 ニ「数ならぬ身」は、ものの数で さてもかく数ならぬ身は長らへて今はと見つる夢そ悲しき もないわが身。「夢」は東二条院の さうそうふしみどのごしょ ほふわう 御葬送は伏見殿の御所とて、法皇の御方も、遊義門院の御死。 三後深草法皇。この年六十二歳。 〔一三〕後深草院発病 四つて。取り次ぐ人。「白波の 方も、入らせおはしましぬとうけたまはれば、御嘆きもさ あとなきかたに行く舟も風ぞたよ のち お りのしるべなりける」 ( 古今・恋一 こそと推し量りまゐらせしかども、伝へし風も跡絶えはてて後は、何として申 藤原勝臣 ) の歌などにより、風は し出づべき方もなければ、空しく、いに嘆きて明かし暮らしはべりしほどに、同「つて」「しるべ」の意となる。 五 五『続史愚抄』によれば、六月十 六おこりここち なや みなづき じ年水無月のころにや、法皇御悩みと聞こゅ。御瘧心地など申せば、人知れず、九日「御風気」といわれていたらし いが、二十一日から瘧ということ で、陰陽師が泰山府君祭を行った 今や落ちさせおはしましぬとうけたまはると思ふほどに、御わづらはしうなら とい , っ - ) とがら せおはしますとて、閻魔天供とかや行なはるるなどうけたまはりしかば、事柄六瘧のご病気。瘧は一、二日の 間を置いて発熱する熱病。 たれことと もゆかしくて、参りてうけたまはりしかども、誰に言問ひ申すべきゃうもなけセ閻魔天を供養する修法。 むな ^ 自身がこのように院の病を悲 れば、空しく帰りはべるとて、 かた えんまてんく 四 いうぎもんゐん
25 巻四 ぎぬ にふだう 丈高く大きなり。かくいみじと見ゆるほどに、入道あなたより走り来て、袖 みじか ひたたれすがた 一六見すばらしくなる。 短なる白き直垂姿にて、馴れ顔に添ひ居たりしぞ、やつるる心地しはべりし。 ) 一しょ すはう 御所よりの衣とて取り出だしたるを見れば、蘇芳の匂ひの内へまさりたる五宅蘇芳 ( 濃い紅紫色 ) を順に濃く してゆく重ね方。 ひとへ うへ うすうすあかむらさき か、つし 衣に青き単衣重なりたり。上は、地は薄々と赤紫に濃き紫、青き格子とを、か一〈「柑子」とする説もある。 ちが たみ変はりに織られたるを、さまざまに取り違へて裁ち縫ひぬ。重なりは内へ まさりたるを、上へまさらせたれば、上は白く、二番は濃き紫などにて、いと 一九将軍の衣装を司る役所。本来 めづら 珍かなり。 は中務省内蔵寮に属し、天皇・皇 后の御服を調進した。 ひま ニ 0 相模守北条貞時。 「などかくは」と言へば、「御服所の人々も、御隙なしとて、知らずしに、 ニ一記録に基づいて。 れにてしてはべるほどに」など言ふ。をかしけれども、重なりばかりは取り直ニ = とはいったい何事だろうか。 ニ 0 ↓田一八ハー注七。 かうとの とギ ) ま させなどするほどに、守の殿より使あり、「将軍の御所の御しつらひ、外様の = 三憎らしい態度で。 0 京風文化の伝統が浅い鎌倉では さた 事は日記にて、男たち沙汰しまゐらするが、常の御所の御しつらひ、京の人に作者のような宮廷女房の経験のあ る女性は重宝がられたことが知ら 見せよ」と言はれたる。とは何事ぞとむつかしけれども、行きかかるほどにてれる。しかし、彼女自身はそのよ うに安直に扱われることを内心潔 しとはしなかったのであろう。 にくいけして言ふべきならねば、参りぬ。 ニ四公らしくなっている。正式に なっている。 これはさほどに目当てられぬほどのことにてもなく、うちまかせておほやけ たけ きめ うへ 一九ふくどころ つかひ ゐ と ばん た 一六 ニ四 そで いつつ
中で ) で、しんみりお見えになったのも、無性にもの悲しく思わ ゅうぎもんいん れて、帰る気にもなれませんので、御所近いあたりになお そうそう、十五日には、もしかして遊義門院が僧侶など も休んでいると、久我前内大臣は同じ縁者であるのも忘れ にご下賜なさりたいこともおありであろうかと存じて、あ かたい気がして、時々音信を通わしておりましたが、文をの那智で霊夢のうちに感得した扇を差し上げたその包み紙 ず遣わしたついでに、あちらから、 に、こんな歌をしたためた。 いくよふしみありあけ みとせ そで と 都だに秋のけしきは知らるるを幾夜伏見の有明の月 思ひきや君が三年の秋の露まだひぬ袖にかけむものと ( 都でさえ、もの悲しい秋の様子は知られるのを、あなたは 幾夜その伏見の里に身を臥して有明の月を御覧になることで ( 思ってもみたことでございましようか。わが君の三回忌の ーしょ , つか ) 秋をお迎えして、露をまだ涙の乾かないわが袖にかけること 「問ふにつらさ ( 尋ねられていよいよっらさがつのる ) 」とい になろうとは ) う通り、哀れも堪えがたく思われて、 後深草院崩御の後は、わたしが、愚 みよふしみやま 跋 秋を経て過ぎにし御代も伏見山またあはれそふ有明の 痴をこばしたくなるようなこともす 空 つかりなくなってしまった心地がしておりまして、去年の ひとまるみえいぐ ( 三年の秋が経って、故院の御代も過ぎ去った昔のこととな 三月八日、人丸の御影供を勤行したが、今年の同じ月日、 いわしみず ってしまいましたが、その伏見山に、わたしは三夜臥しまし遊義門院の石清水御幸に参り合せたのも不思議で、那智で うつつ た。さらにまた、哀れを添える有明の空でございます ) 夢に見た御面影も現のことと思い合されて、ところで宿願 また立ち返って、 の結果はどのようになってゆくのであろうかと気がかりで、 しの さぞなげに昔を今と偲ぶらむ伏見の里の秋のあはれに それでも長い年月にわたる信心からいっても、空しいこと ( 本当に、さそかしあなたは、昔を今のことのように偲んで はあるまいと思い続けられて、この身の有様を一人で思っ おられることでしよう。伏見の里の秋の哀れなたたずまいの ているのも飽き足らない気がしますうえに、修行の志も、 162 へ 〔三六〕
( 原文九八ハー ) しおに、「私の肩をお踏みになって、お下りくださいませ」 らっしやる心地がして、それさえ感無量と思われるのに、 とがのお と申しあげておそば近く参ったのを、不思議そうに御覧に 今日は八日というので、狩尾社へ女性がご参詣ということ あじろ ) し なったので、「まだご幼少でいらっしゃいました昔は、お である。網代輿二つばかりで、とくに目立たぬご様子であ そば近くお仕え申しあげましたのに、お見忘れでいらっし るけれども、もし忍んでのご参詣であるならば、誰と知ら ゃいますか」と申しあげると、 っそ , っ涙もど , っしょ , つも れ申しあげよう、よそながらもちょっとお姿を拝見できる だろうかと思って参ると、また徒歩で参る若い人二、三人ないほど溢れ出ましたので、女院様もご懇切にお尋ねくだ さって、「これからは常に尋ねておいで」などとお・つしゃ と道連れになった。 られたので、熊野で見た夢も思い合され、以前、御所様の お社に参ると、あのお方が女院様であろうかと思われる そで お後ろ姿を拝見するより、袖の涙は包み隠すことができず、御幸と同じ時に参詣し合せたのもこの石清水八幡のお社だ ったと思い出すと、隠れた信心が空しくないことを喜ぶに 立ち退くこともならない気持でおりますと、ご参拝も終っ つけても、ただわが心を知るものは涙ばかりである。 たのであろうか、お立ちになって、「そなたは、どこから 徒歩の女房の中に、格別最初から話 参った者です」と仰せられるので、過ぎた昔からお話し申 ひょうえのすけ 〔三三〕遊義門院との贈答 しかける人がいる。問うと、兵衛佐 したかったけれども、ただ、「奈良の方からでございます」 かぐら ほっけじ と申しあげる。「法華寺から来たのですか」などと仰せら という人である。翌日還御ということで、その夜はお神楽 ・お手遊びなど、さまざまあったが、暮れる時分に桜の枝 れるけれども、涙ばかりこばれるのも変だとお思いになる 五 だろうかと思って、言葉少なで立ち帰りましようとするけ を折って、兵衛佐のもとへ、「この花が散る前に、都の御 れども、やはり悲しく思われておそば近くおりますと、は所へお尋ね申しあげましよう」と申して、翌朝は還御以前 巻 にお山を出ましようという心づもりだったが、このような やお帰りになられる。 お名残惜しさも何ともしようがないので、お下りになら御幸に参り合せるのも八幡大菩薩のご神慮であると思った ので、お礼をも申しあげようなどと思って、三日滞在して、 れる所が高くて、女院様がよくはお下りになられないのを てあそ あふ
になられる」などと言っているうちに、遊義門院の御幸が ったならば、どのようだったかなどと思われて、 まずお急ぎになるということで、北面が門院の御車を寄せ さてもかく数ならぬ身は長らへて今はと見つる夢そ悲 しき ると拝見していると、また、まだしばらくお出にならない ( それにしても、このようにものの数でもないこの身は長ら ということで、また車を退けて帰り入らせられたかと思わ えて、東二条院様のご葬送を、夢かと思いながら拝すること れることが二、三度にもなったので、お母君の最期のお姿 は悲しい ) を御覧になるのもまたいつのことかと、遊義門院がお名残 惜しくお思いでいらっしやることも、哀れに悲しく思われ ご葬送は伏見殿の御所ということで、 ニ三〕後深草院発病 て、大勢見物する人たちもいるので、それに紛れて御車近 法皇様も遊義門院様もいらっしやる くに参ってうかがうと、すでに御車に召されたと思ううち とうかがったので、お嘆きのほどもさぞかしと推量し申し に、「またお戻りになられたのだろうか」と言っているの あげたけれども、消急を伝えた風の便りも跡絶えてしまっ が聞える。お召しになった後も、普通ではないお心まどい た後は、どのようにして申し出るべき方法もないので、空 たもと うわさ のご様子は、他人の袂も涙でいつばいなくらいにお噂した しく心だけで嘆いて明かし暮しておりますうちに、同じ年 ので、心ある者も心ない者も、袂を絞らぬ人はいない。宮 の六月頃であろうか、法皇が御不予という噂が聞えてきた。 お - 一り 様は大勢いらっしやったけれども、皆、先立ってお亡くな御瘧気味だなど申すので、人知れすもうお落ちなさった とい , っことを , つけたまわるだろ , つかと思っている , っちに、 りになられて、遊義門院がただお一人いらっしやったのだ えんまてんく 五 から、お互いのご愛情の深さはさこそとお思いやられる通重態におなりになったということで、閻魔天供とかいう祈 とう り、お悲しみがひどくお見えであったことこそ、数ならぬ疇が行われるなどとうけたまわったので、事の有様も知り 巻 身であるこのわたしが父を失った時の思いにも、つい比べ たくて、参ってうかがったけれども、誰にお尋ねしようも 5 られるような心地がしました。 ないので、空しく帰る時、心の内にこのように思っており ご葬送の御幸を拝見するにつけても、昔のままの身であ
143 巻五 「とは何事だ。わけのわからぬ下人をめぐる係争だなあ。 ( 世を厭う習いとは言いながらも、めぐらした竹簀垣のその どのような人だ。寺社詣でなどするのは当り前のことだ。 浮き上がった節々のようにつらい節々の多い冬は悲しい ) 都では、どのような身分の人でいらっしやるのだろう。こ 年も改ったので、ようやく都の方へ 〔九〕広沢入道との贈答 のように情けを解さず言っているらしいのが恥ずかしい」 と出立を決意しようとするが、余寒 など、この入道が言っていると聞くうちに、ここへまた下はなおも厳しく、「船もどうだろうか、出るだろうか」と って来るというので、ここでも大騒ぎする。 人々が申すので、不安なままにぐずぐずしていると、二月 ここの主が、初めからの事情を説明して、「つまらない の末にもなってしまったので、このうちにとわたしが出発 物参りの人のために、兄弟が仲違いした」と言うのを聞い を決心したということを聞いて、この入道は井田という所 せんべっ て、この入道は、「たいそうけしからぬことだ」と言って、 から来て、続歌などを詠んで帰る際に、餞別など、さまざ びっちゅう こまちどの 「備中国へ人を付けてこの方を送れ」などと言うのもあり まの厚意さえ示してくれた。この入道は小町殿の所にいら なかっかさのみや 、、ゝたいので、会って事情を語ると、「才能は、その身のあ っしやる中務宮の姫宮の後見役なので、そのあたりのこと だになることもあったのですなあ。あなたのご才能ゆえに、 をも配慮したのであろうかと思われました。 えばら 和知の者は自分の所にあなたを欲しくお思い申しあげて、 ここから備中の荏原という所へ行ったところ、満開と見 つぎうた 申したのでしよう」と言って、連歌をし、続歌などを詠んえる桜があった。一枝折って、見送りの者に託して、広沢 で遊ぶうちに、よくよく見ると、鎌倉で飯沼左衛門の連歌入道に遣わしました。 かすみ さくらばな に加わっていた者だった。そのことを言い出して、ひどく 霞こそ立ちへだっとも桜花風のってには思ひおこせよ 驚きあきれたりして、この入道は井田という所へ帰った。 ( たとえ霞が桜花を立ち隔てるようにお別れして隔ってしま たかすがき っても、風の便りには、この桜花のようにわたしのことをも 雪がひどく降って、竹簀垣というものをした所の有様も 見慣れぬ心地がして、 思い出してください ) うふしぶし 世を厭ふならひながらも竹簀垣憂き節々は冬そ悲しき 入道は二日の道のりを、わざわざ人をよこして返事をし れんが
ふじね お方の面影が残っています ) 富士の嶺は恋を駿河の山なれば思ひありとぞ煙立つら む ようやく日数も経つうちに、美濃国 〔ニ〕赤坂・八橋 赤坂の宿という所に着いた。慣れな ( 富士の嶺は、その名も恋をする駿河国の山ですから、世を い旅の日数も重ねて、さすがに苦しくもあり、つらいので、 厭う思いの火があるというので煙が立つのでしよう。わたし ずここにこの日は宿を取ったのだが、宿の主として若い遊女 が出家したのも、恋の思いゆえですよ ) びわ との姉妹がいる。琴や琵琶などを弾いて風情ある様子なので、 慣れ親しんだ名残は、この遊女宿までも見捨てにくい心 昔のことが思い出される心地がして、酒盃などを勧めて遊地がしながら、そういつまでここにいられるわけでもない 芸をさせると、二人いる遊女の姉と見える方が、ひどく物ので、また出立した。 ばち 思いに沈む有様で、琵琶の撥で紛らわせるけれども、とも 八橋という所に着いたけれども、あの『伊勢物語』に語 くもで すれば涙をこばしがちであるのも、わたし自身の同類と思 られているように、蜘蛛手に流れる「水行く川」があるわ われて目にとまるのに、この姉遊女の方もまた、わたしが けでもない。橋も見えないのさえ、友もいないような寂し 墨染の袖を身にまとっているにもかかわらず、その墨染色さを覚えて、 ではない紅涙を袖に宿しがちであるのを不審に思ったので 我はなほ蜘蛛手に物を思へどもその八橋は跡だにもな こおしき ーし あろうか、盃を置いた小折敷にこんな歌を書いてよこした。 けぶり ( わたしはやはり、心は千々に乱れ、蜘蛛手に物を思ってい 思ひ立っ心は何の色ぞとも富士の煙の末ぞゆかしき ( 富士の煙が空高く立ち昇るように、あなた様が心高くも世 るのですけれども、「水行く川の蜘蛛手なれば」と物語に語 を背かれて、出家を思い立たれたお、いは、どのようなことが られたその八橋は、跡形すらありません ) おわりのくにあったやしろ みかき 原因か、おうかがいしとうございます ) 尾張国熱田の社に参詣した。御垣を 〔三」熱田の社 遊女がこう詠みかけたのは、たいそう意外で、情趣ある 拝むとともに、思い出されることが 気がして、 ある。と言うのは、この尾張国は、亡き父大納言の知行国 106 すみぞめ みののくに やつはし するが
はらせおはしまさねば、こはいかなりつることぞと思ふより、胸つぶれてすこ 0 作者が「侏人」に用があるかと誤 解したのは、神前で侏人舞いなど の芸能をやらせるかと考えたから しも動かれぬを、「とくとく」とうけたまはれば、なかなかにて参りぬ。 であろう。「侏人」に対する言葉が としつきへだ 「ゆゅしく見忘られぬにて、年月隔たりぬれども、忘れざ誰のものであるにせよ、その見方 三五〕人知れぬ形見 は極めて残酷であるが、当時の貴 むかしいま りつる心の色は思ひ知れ」などより始めて、昔今のことど族的な感覚では、所詮このような ことであったのであろう。 も、移り変はる世のならひあぢきなくおばしめさるるなど、さまざまうけたま = 情愛。 三亀山院との関係などをさすか。 みじかよ ただし、この時は後深草院の皇子 はりしほどに、寝ぬに明けゆく短夜はほどなく明けゆく空になれば、「御籠り 伏見天皇が在位中 のほどはかならず籠りて、またも心静かに」などうけたまはりて、立ちたまふ一三和歌では「ほととぎす待つは 久しき夏の夜を寝ぬに明けぬと誰 はだ こそで かたみ か言ひけむ」 ( 千載・夏藤原公通 ) とて、御肌に召されたる御小袖を三つ脱がせおはしまして、「人知れぬ形見ぞ。 のように、夏の夜を短夜というの かた やみ 身を放つなよ」とて賜はせし、心の内は、来し方行く末のことも、来む世の闇が普通。 一四愛欲のために、来世で無明の かた もよろづ思ひ忘れて、悲しさもあはれさも、何と申しやる方なきに、はしたな闇に迷うこと。↓田一〇〇ハー注一。 「われはただ来む世の闇もさもあ く明けぬれば、「さらばよ」とて引き立てさせおはしましぬる御なごりは、御らばあれ君だに同じ道に迷はば 四 ( 鴨長明集 ) などの例がある。 ここち うつが すみぞめたもととど 一五間が悪く。体裁が悪く。 跡なっかしく、匂ひ近きほどの御移り香も、墨染の袂に留まりぬる心地して、 〕ひとめ こそで ころもした 人目あやしく目立たしければ、御形見の御小袖を墨染の衣の下に重ぬるも、便 なく悲しきものから、 たま 一四 びん