うれしからざらむ。いはんや、まことしくおばしめしよりける御心の色、人知 一「露」の縁でいう。 るべきことならぬさへ、置き所なくそおばえはべりし。 ひとめ 昔より何事もうち絶えて、人目にも、「こはいかにーなどおばゆる御もてな・・昔より」以下には、院が示した ず 厚意に感謝しつつも、伏見御所で の誓言の中で述べている君恩への ししもなく、「これこそ」など言ふべき思ひ出でははべらざりしかども、御心一 感謝の念とは矛盾するような、以 つには、何とやらむ、あはれはかかる御気のせさせおはしましたりしぞかしな前、他の女性ときわだって殊なる 待遇を受けたことがなかった恨み が述べられている。作者の本音と ど、過ぎにし方も今さらにて、何となく忘れがたくぞはべる。 解すべきであろう。 ふたみうら かくて年を経るほどに、さても二見の浦は、御神も二度みニ伊勢の御神も再び参詣人を御 〔四ニ〕再びニ見の浦へ心 覧になってこそ、二見とも申すと いまど いうことであるから。 そなはしてこそ二見とも申すなれば、今一度参りもし、ま 三伊賀へ抜ける道。 なら いがぢ き - せい た生死のことをも祈誓し申さむと思ひ立ちて、奈良より伊賀路と申す所よりま四笠置寺。京都府相楽郡笠置山 四 にある。真言宗。天武天皇の創建 かさおきでら で、空海も修行したと伝える。 かりはべりしに、まづ笠置寺と申す所を過ぎゅく。 しや、つじ かた ふたたび かさぎでら
をさし出すまでになっていた。 変った尼姿もおしなべて遠慮される 〔四一〕お心の色、述懐 ので、急いで御所を退出します時に も、「きっと近いうちに、もう一度逢おう」とおっしやる すお声は、死出の道のしるべになるであろうかと思われて帰 とりましたが、伏見の御所からお帰りになった後、思いもか けなかった方面からお尋ねがあって、真情のこもったお見 舞をご配慮されたことは、たいそうかたじけない。思いが けずお言葉をかけていただくだけでも、露のようないささ かのお情けも、どうしてうれしくないことがあるだろうか ましてや、親身にご配慮くださったご情愛の深さは、他人 が知るはずもないことさえ、置き所なく思われました。 昔から何事も、絶えて、人目にも、「これはまあ」など 思われるご待遇もなく、「これこそわが身の誉れだ」など と言うべき思い出はありませんでしたが、御所様のお心一 つでは、どういうわけか、ああ、わたしをいとおしむこの ようなお気持がお起りになったのだなと、過ぎた昔も今さ ら思い出されて、何となく忘れがとうございます。 〔四ニ〕再びニ見の浦へ心こうして年が経つうちに、それにし ふたみ てんしようだいじん ても二見の浦は、天照大神も二度御 136 覧なさったからこそ二見とも申すということであるので、 もう一度参詣もし、また生死のことをも祈誓し申しあげよ うと思い立って、奈良から伊賀路と申す所を通って出かけ かさおきでら ましたが、まず笠置寺と申す所を過ぎて行く。
255 付録『とはずがたり』年表 ( ) ゴし 後二条 ( 大覚寺統 ) 後伏見 ( 持明院統 ) 後深草 後宇多 伏見 後伏見 伏見 九三 見 九四伏 ツしツしノしし ノ、 - ヒプく . 五 . 後深草 後宇多 永仁元 正 安 44 43 42 乾元元恥九月初め、西国への旅に出立する ( 五 (I)O 鞆のたい が島に一、二日逗留する ( 五—II)O 九月十一一日、厳島神社の試楽を見る ( 五ー三 ) 。 六五四 41 40 39 38 一一月、『蒙古襲来絵詞 ( 竹崎五郎絵詞 ) 』 成る。 四月二十二日、北条貞時、平頼綱父子を 誅する。・ 八月二十七日、伏見天皇、二条為世・京 極為兼等に勅撰集撰進の事を議せしめる。 五月六日、『紫明抄』成る。 八月八日、鷹司兼平 ( 近衛の大殿 ) 没 九月、『野守鏡』成る。 十二月五日、四条隆良没。 三月六日、永仁徳政令。 三月十六日、京極為兼佐渡に配流される。 七月一一十一一日、後伏見天皇践祚。 八月十日、邦治親王 ( 後二条天皇 ) 立太 子。 十二月五日、藤原隆博没。 八月二十三日、『一遍聖絵』成る。 この頃、『一言芳談』成る。 一月二十一日、後二条天皇践祚。 八月二十四日、富仁親王 ( 花園天皇 ) 立 太子。この年、『伊勢新名所絵歌合』成 る。
中で ) で、しんみりお見えになったのも、無性にもの悲しく思わ ゅうぎもんいん れて、帰る気にもなれませんので、御所近いあたりになお そうそう、十五日には、もしかして遊義門院が僧侶など も休んでいると、久我前内大臣は同じ縁者であるのも忘れ にご下賜なさりたいこともおありであろうかと存じて、あ かたい気がして、時々音信を通わしておりましたが、文をの那智で霊夢のうちに感得した扇を差し上げたその包み紙 ず遣わしたついでに、あちらから、 に、こんな歌をしたためた。 いくよふしみありあけ みとせ そで と 都だに秋のけしきは知らるるを幾夜伏見の有明の月 思ひきや君が三年の秋の露まだひぬ袖にかけむものと ( 都でさえ、もの悲しい秋の様子は知られるのを、あなたは 幾夜その伏見の里に身を臥して有明の月を御覧になることで ( 思ってもみたことでございましようか。わが君の三回忌の ーしょ , つか ) 秋をお迎えして、露をまだ涙の乾かないわが袖にかけること 「問ふにつらさ ( 尋ねられていよいよっらさがつのる ) 」とい になろうとは ) う通り、哀れも堪えがたく思われて、 後深草院崩御の後は、わたしが、愚 みよふしみやま 跋 秋を経て過ぎにし御代も伏見山またあはれそふ有明の 痴をこばしたくなるようなこともす 空 つかりなくなってしまった心地がしておりまして、去年の ひとまるみえいぐ ( 三年の秋が経って、故院の御代も過ぎ去った昔のこととな 三月八日、人丸の御影供を勤行したが、今年の同じ月日、 いわしみず ってしまいましたが、その伏見山に、わたしは三夜臥しまし遊義門院の石清水御幸に参り合せたのも不思議で、那智で うつつ た。さらにまた、哀れを添える有明の空でございます ) 夢に見た御面影も現のことと思い合されて、ところで宿願 また立ち返って、 の結果はどのようになってゆくのであろうかと気がかりで、 しの さぞなげに昔を今と偲ぶらむ伏見の里の秋のあはれに それでも長い年月にわたる信心からいっても、空しいこと ( 本当に、さそかしあなたは、昔を今のことのように偲んで はあるまいと思い続けられて、この身の有様を一人で思っ おられることでしよう。伏見の里の秋の哀れなたたずまいの ているのも飽き足らない気がしますうえに、修行の志も、 162 へ 〔三六〕
81 巻五 みくるま べりしほどに、「事なりぬ」とて、御車寄せまゐらせて、すでに出でさせおは ぢみやうゐんどのごしよもん しますに、持明院殿の御所、門まで出でさせおはしまして、帰り入らせおはし ^ 伏見院。第九十二代の天皇。 後深草院の第一皇子。母は玄輝門 そで なほし ますとて、御直衣の御袖にて御涙を払はせおはしましし御気色、さこそと悲し院。この年四十歳。 きゃうごくおもて く見まゐらせて、やがて京極面より出でて御車の後に参るに、日暮らし御所に さぶらひつるが、「事なりぬ」とて御車の寄りしにあわてて、履きたりし物も はしお ごでう いづ方へか行きぬらむ、はだしにて走り降りたるままにて参りしほどに、五条九御棺をお乗せしたお車を西へ 曲って走らせるうちに。 きゃうごく九 おほち すだれ 京極を西へやりまはすに、大路に立てたりし竹に御車をやりかけて、御車の簾一 0 走らせ引っ掛けて。 = 牛車の左右に付き添っている みくるまぞひ かたかた落ちぬべしとて、御車副登りて直しまゐらするほど、つくづくと見れ従者。 一ニ藤原 ( 山科 ) 資行。法名行意。 やましな すみぞめそでしば やまもも ↓田七〇ハー注一 = 。ただし、楊梅兼 ば、山科の中将入道そばに立たれたり。墨染の袖も絞るばかりなる気色、さこ 行のことかとする説もある。 一三京都市伏見区深草鳥居崎町に そと悲し。 ふじのもり ある藤森神社の森。また、伏見の 南部をいうとも。 ここよりや、止まる止まると思へども、立ち帰るべき心地もせねば、しだい 一四伏見稲荷大社。伏見稲荷であ みなひと に参るほどに、物は履かず、足は痛くて、やはらづつ行くほどに、皆人には追る。京都市伏見区深草藪之内町、 稲荷山の西麓に鎮座。祭神は宇迦 ふぢもり をとこひとり さきだ ひ遅れぬ。藤の森といふほどにや、男一人会ひたるに、「御幸先立たせおはし之御魂大神・佐田彦大神・大宮能 売大神の三神。京都の五条以南に いなりおまへ ましぬるにか」と言へば、「稲荷の御前をば御通りあるまじきほどに、し づ方生れた者は氏子と考えられていた。 かた と こと みけしき 一 0 かた
とど 一相応の身なりをした僧。 え止めはべらざりしかば、そばに事よろしき僧のはべりしが、「いかなる人に ニわたしが素性を明かすことは、 てかくまで嘆きたまふぞーと申ししも、亡き御陰の跡までもはばかりある心地故院がお亡くなりになった後まで もご遠慮される心地がして。 三源 ( 久我 ) 通基か、その男、通 して、「親にてはべりし者におくれて、このほど忌み明きてはべるほどに、 雄か。通基は右大将通忠の男。従 た の 一位内大臣に至る。延慶元年 ( 一三 0 とにあはれに思ひまゐらせて」など申しなして、立ち退きはべりぬ。 0 没、六十九歳。この年は六十七 ′」しょ ひと ・一よひ くわんぎよ 御幸の還御は、今宵ならせおはしましぬ。御所ざまも御人ずくなに、しめや歳で前内大臣。通雄は従一位太政 大臣に至る。元徳元年 ( 一三 = 九 ) 没、七 かに見えさせおはしまししも、そそろに物悲しくおばえて、帰らむ空もおばえ十三歳。この年は五十歳で、やは り前内大臣。 さきおとど四 はべらねば、御所近きほどになほ休みて居たるに、久我の前の大臣は同じ草葉四「紫のひともとゆゑに武蔵野 の草はみながらあはれとそ見る」 ときどき ふみ のゆかりなるも忘れがたき心地して、時々申し通ひはべるに、文遣はしたりし ( 古今・雑上 ) 、「ねは見ねどあはれ とぞ思ふ武蔵野の露わけわぶる草 のゆかりを」 ( 源氏・若紫源氏 ) な ついでに、彼より、 どの古歌から、親類の意。通基は いくよふしみありあけ 作者のいとこに当る。 都だに秋のけしきは知らるるを幾夜伏見の有明の月 五「伏見」に「臥し」を掛ける。 六「忘れてもあるべきものをな 「問ふにつらさ」のあはれも忍びがたくおばえて、 かなかに問ふにつらさを思ひ出で ふしみやま つる」 ( 続古今・恋四西院皇后宮 ) 、 秋を経て過ぎにし御代も伏見山またあはれそふ有明の空 「吹く風も問ふにつらさのまさる かな慰めかぬる秋の山里」 ( 続古 また立ち返り、 今・雑中藤原定雅 ) などを引くか。 しの ↓田三三ハー注一一 = 。 さそなげに昔を今と偲ぶらむ伏見の里の秋のあはれに 102 七 へ れ ここち くさ・は
253 付録『とはずがたり』年表 八六 八セ 八八 伏見 ( 持明院統 ) 後宇多 後宇多 山 亀 後深草 正 応 兀 31 30 九 二月二十余日、都をあとに関東への旅に出る ( 四—I)O 三月初め、熱田神宮に参詣 ( 四ー三 ) 。 三月二十余日、江の島に着く ( 四ー五 ) 。翌日、鎌倉へ 四月一一十五日、胤仁親王 ( 後伏見天皇 ) 入る ( 四ー六 ) 。 立太子。 四月末頃より六月頃まで重く患う ( 四ー七 ) 。 八月十五日、小町殿と贈答。鶴岡八幡宮の放生会を見八月二十三日、一遍没 ( ) 。 物する ( 四ー 0 。その後、惟康親王が将軍を廃され、九月七日、亀山上皇禅林寺で出家。 京へ送還される有様を見聞する ( 四ー九・ (O)O その九月十四日、惟康親王将軍を廃され、鎌 後、新将軍久明親王下向の準備に協力する ( 四ー一一・倉より上洛。 十月九日、後深草上皇の皇子久明親王、 十月二十五日、新将軍到着の有様を見聞する ( 四ー一将軍となり鎌倉に下向。 十二月二十一日、憲実没。 この年、頓阿誕生。 十二月、川口に赴き越年する ( 四ー一四・一五 ) 。 三月一日、同第二日管絃・和歌の会・蹴鞠、還御 ( 三三月一日、後二条天皇誕生。 三月一一日、後深草院、妙音堂で朗詠・船楽・連歌あり。八月十九日、蛉子内親王 ( 遊義門院 ) を 皇后とする。 作者、連歌に加わる ( 三ー四六 ~ 四九 ) 。 九月十四日、藤原為氏没 ( ) 。 十一月十九日、宇治橋供養、後深草・亀 山両上皇臨幸。 十月二十一日、伏見天皇践祚。 二月三日、後伏見天皇誕生。 六月八日、西園寺実兼女鐔子を女御とす る。 八月一一十日、女御藤原鐔子 ( 永福門院 ) を中宮とする。 十一月二日、後醍醐天皇誕生。 ー四三 ~ 四五 ) 。
つに三つ余るまで 作者八八 は隔てゆくとも のち 古りにける名こそ惜しけれ和歌の浦に身はい 露消えし後の形見の面影にまたあらたまる袖 あますぶね たづらに海人の捨て舟 作者八九 の露かな わ 既なほもただかきとめてみよ藻塩草人をも別か 虫の音も月も一つに悲しさの残る隈なき夜半 ずずなさけある世に 雅忠 ( 夢中詠 ) 八九 の面影 むな と契りありて竹の末葉にかけし名の空しき節に 都だに秋のけしきは知らるるを幾夜伏見の有 さて残れとや 作者九 0 明の月 する墨は涙の海に入りぬとも流れむ末に逢ふ 秋を経て過ぎにし御代も伏見山またあはれそ 瀬あらせよ 作者九一 ふ有明の空 たもと しの いっとなく乾く間もなき袂かな涙も今日を果 さぞなげに昔を今と偲ぶらむ伏見の里の秋の てとこそ聞け 作者九 = あはれに 物思ふ袖の涙をいくしほとせめてはよそに人 思ひきや君が三年の秋の露まだひぬ袖にかけ の問へかし 作者九三むものとは よ 1 ) ろも あまた年馴れし形見のさ夜衣今日を限りと見 るぞ悲しき 作者九五 まくら 夢覚むる枕に残る有明に涙伴ふ滝の音かな 作者九六 花はさてもあだにや風のさそひけむ契りしほ ひかず どの日数ならねば 作者究 その花は風にもいかがさそはせむ契りしほど 266 ふ せ そで すゑは ともな もしほぐさ ふし へ みとせ いくよふしみ 遊義門院究 作者一 00 作者一 0 一 久我前内大臣一 0 一一 作者一 9 一 久我前内大臣一 0 一一 作者一 0 三
とうぐうのだいぶ 春宮大夫を兼ね、弘安十年 ( 一二八七 ) 十月二十一日、親王が践祚するまでその職にあった。後深草・伏見 両院の信任の篤かったことが想像される。正応元年 ( 一二八八 ) には大納言に転じ、右大将を兼ね、従一位 に叙された。翌二年には内大臣に任ぜられているが、同三年これを辞した。同四年十二月十五日太政大臣に 任ぜられた。時に四十三歳である。翌正応五年十二月二十八日これを辞し、正安元年 ( 一二九九 ) 六月二十 四日、五十一歳で出家した。法名は悦空、また空性という。『とはずがたり』巻五に「入道殿ーとして登場 するのは、もとよりこの後のことである。没したのは元亨二年 ( 一三二一 I) 九月十日、享年七十四であった。 後西園寺相国と号される。 このように見てくると、実兼は後深草・伏見両院の側近であったことが明らかであるが、もとよりこの皇 統と対立関係にある亀山・後宇多両院にも仕えて大過なかったと想像されるから、政治家としては身の処し 方において極めて周到かっ慎重であったのであろう。それはこの作品における「雪の曙」の与える印象とも 重なるのである。 実兼は歌人としても注目される存在である。勅撰集は『続拾遺和歌集』以下の諸集に数多く入集するが、 中でも『玉葉和歌集』に六十二首、『続千載和歌集』に五十一首採られているのが目立つ。家集『実兼公集』 は四十二首を収めるだけの小さなものだが、他に自筆の百首歌稿、歌草の類も伝存する。『玉葉和歌集』入 説 めのと 集歌の多いことからも直ちに知られるように、永福門院の父、伏見院の傅にふさわしい、有力な京極派歌人 解の一人であった。 ほっけどう 『玉葉和歌集』入集歌の中に、後深草法皇の葬送の際の詠と、崩後、法華堂に詣でた折の詠が見出される。 後深草院御葬送の夜、昔折々のみゆきにつか
さねかめ 「雪の曙」と呼ばれる彼女の初恋の男が西園寺実兼であることは、ほとんど疑う余地がないとい さんろう ってよい。まず彼は春日社を氏社として同社に参籠したり、参籠すると称して代官を立てたりし ているから、藤原氏の人間であることは間違いなく、しかも彼からの贈物を父に尋ねられた二条がとっさに じゅ′一う ときわい 常磐井の准后から頂いたと偽っているところから、どうやら二条の母方につながる縁者でもあるらしく、院 ちしつ と彼女の動静を知悉していることから、院の側近であることも疑いない。そして、きわめて裕福な貴公子で このえ しまよう あることが知られる。以上に加えて、決定的なのは伏見御所での今様伝授の折のことである。彼女が近衛の おおいどの 解大殿の意のままにされた伏見の御所に「雪の曙ーも伺候していたらしいことは前後の叙述から知られるので あるが、西園寺実兼については院のお供をしていたことを明記している。すなわち、「雪の曙」と西園寺実 。となれば、推理小説の手法にも 兼とは同じ御幸に参加していて、しかも両者が同時に登場することはない 「雪の曙」 での「有明の月」は、五部大乗経を竜宮の宝蔵に奉納して、再生し、作者と再び結ばれることを願ったが、 おういっ 邪教ともいうべきものも含めて、神秘思想の横溢する時代なのであった。 さねかぬ この公相の後嗣が実兼 ( 「さねかね」とも ) であった。 作者をめぐる男たち ここで、作者が深く関わった男たちの実像を、やや詳細に探ってみようと思う。