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検索対象: 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)
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1. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

267 付録参考資料 参考資料 増鏡いわゆる四鏡 ( 四つの鏡物Ⅱ歴史物語 ) の一とされ、後鳥羽天皇から後醍醐天皇に至る鎌倉時代の歴史を物語った ものである。作者については定説がないが、二条良基説が有力である。『とはずがたり』は、この歴史物語の重要な資料 の一つとされているが、現在伝わる『とはずがたり』本文中にそのような叙述が見えないにもかかわらず、『増鏡』で雅 忠女のことに言及した部分が存する。それは「さしぐし」の巻の初めの部分で、正応元年 ( 一 = 八八 ) 六月西園寺実兼女鐔子 ( 永福門院 ) が伏見天皇女御として入内した際の記述である。これは現存の『とはずがたり』巻三と巻四との間にこのこ とを述べた部分がかって存して、『増鏡』作者がそれを利用したのかもしれないという想像をも可能にする。ゆえにその 部分を無刊記版本によって掲げる。なお、天保十一年 ( 一会 0 ) 一一月伴直方校合書入を参照、校訂した。 五代帝王物語後堀河天皇から亀山天皇に至る、鎌倉時代の歴史を叙した歴史物語である。作者未詳。『とはずがたり』と ともに、『増鏡』の資料とされている。後嵯峨法皇五十の御賀関係の記事 ( 『とはずがたり』巻二の女楽事件で言及する。 ↓田一一六ハー ) 及び『とはずがたり』巻一の初めの方 ( ↓田二八ハー ) に語られる同法皇崩御の部分を抄出して掲げる。底 本は『群書類従』巻第三十七版本。 豊明絵草子一巻。鎌倉後期の絵巻。作者は未詳であるが、六段から成る詞書の叙述に、『とはすがたり』の叙述と酷似し た部分の存することが注目される。そのことや、雅忠女が絵画にもすぐれていたらしいこと ( 『とはすがたり』巻五。 七〇ハー ) などから、彼女を作者とする説もある。『尊経閣叢刊』所収本による。 春日権現験記一一十巻。鎌倉後期の縁起絵巻。絵は高階隆兼、詞書は鷹司基忠・同冬平・同冬基・良信筆という。『とはず がたり』巻四 ( ↓三六ハー ) にも語られている林懐僧正の部分を掲げる。『日本絵巻大成』による。 当麻曼荼羅縁起二巻。鎌倉時代の縁起絵巻。作者未詳。『とはずがたり』巻四 ( ↓三八ハー ) に語られる当麻曼荼羅縁起 とほば内容を同じくする。鎌倉市光明寺蔵。『日本絵巻大成』による。 高倉院厳島御幸記源通親著の紀行。治承四年 ( 一一合 ) の成立と見られる。『とはずがたり』巻五 ( ↓六三ハー ) にも描写 されている厳島への船旅の部分を抄出して掲げる。底本は『複刻日本古典文学館』所収、伝阿仏尼筆本。 発心集八巻。鴨長明編の仏教説話集である。『とはずがたり』巻五 ( ↓八四ハー ) にも語られる、証空が師の命に替る話 を掲げる。底本は慶安四年 ( 一六五 I) 版本。

2. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

とはずがたり 28 底本の書誌・本文 『とはずがたり』の底本は、現在のところ、他に伝本の存在が知られない、文字通り天下の孤本として、近 ふくろとじ 世初期の袋綴写本五冊という形で宮内庁書陵部の蔵するところとなっている。その伝来系統から、書陵部で 「御所本」と呼んでいる図書に属する。伊地知鐵男氏はこの底本について、次のように説明しておられる。 書陵部の写本は、江戸初期、後西、霊元天皇の時代に、い わゆる禁裏複本事業の一つとして、当時の公 卿たちの手によって写されたもので、外題は、霊元天皇の宸筆、本文は、巻二 ~ 四には若干の親似性は あるが、些細に点検すると各巻別筆と認められる寄合書きである。 ( 笠間影印叢刊『とはずがたり』解説 ) 写本の宿命として誤写も少なからず存すると考えられるが、なにぶんにも孤本であるから、比校によって あるべき本文を再建することができない。意味の通じない箇所は、本来どのような本文であったのか、さま ざまな解釈を試みながら、あるべき本文を模索してゆくーーーそこにこの作品研究の難しさがある。本文研究 が研究の出発点であるとともに、読みの帰結点でもあるということは、すべ。ての古典作品に共通して言いう ることであるが、この作品においてとくにその感を深くするのである。 『とはずがたり』の構成・成立 『とはずがたり』は一読して直ちに知られるように、巻一から巻三までのいわば宮廷編と巻四、五のいわば 紀行編との間に、大きな年月上の、また内容上の断絶、飛躍が存する。この間になお、御所退下後の生活や 出家に至るまでの過程などを綴った巻々があったのが欠脱したかと考えることも可能ではあるが、巻四、五

3. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

巻四・ 巻五 : 解説 : ・ 付録 校訂一覧 : ・ 引歌一覧 登場人物略伝・ : 『とはずがたり』年表 : ・ 凡例 : ・ 目次 原文現代語訳 ・ : 六三 : ・ : ・一一 0 六

4. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

35 巻四 しゆくぐわん やしろ けごんきゃう どに、宿願にてはべれば、まづこの社にて華厳経の残り今三十巻を書き果てま一 0 『大方広仏華厳経』。四十巻、 六十巻、八十巻など、種々の訳本 かまくら たびごろも がある。 ゐらせむと思ひて、何となく鎌倉にてちと人の賜びたりし旅衣など、みな取り ここち きゃうはじ だいぐうじ 集めて、またこれにて経を始むべき心地せしほどに、熱田の大宮司とかやいふ = 平安末以来、藤原氏南家の世 襲であった。この家から頼朝母な 者、わづらはしくとかく申すことどもありて、かなふまじかりしほどに、とか ども出ているので、威を振るって いたと思われる。 だいじゃまひ くためらひしほどに、例の大事に病起こり、わびしくて、何の勤めもかなひが三以前、鎌倉で善光寺詣での直 前に病んだことがあるのでいうか たければ、都へ帰り上りぬ。 すゑ 十月の末にや、都にちと立ち帰りたるもなかなかむつかし 三一〕春日詣で ならかた一三すゑば ければ、奈良の方は藤の末葉にあらねばとて、いたく参ら一三藤原氏の子孫でないから。奈 良の興福寺は藤原氏の氏寺。春日 ざりしかども、「都遠からぬも、遠き道にくたびれたる折からはよし」など思神社は同氏の氏神。 ひて参りぬ。 一四春日神社の本宮。 たれ ひとり おほみや 一五南門と呼ばれる。承保二年 ( 一 誰を知るといふこともなければ、ただ一人参りて、まづ大宮を拝みたてまっ 0 七五 ) に成ったという。 一五かいろうもんけいき 一六しゃいらか あらしはげ れば、二階の楼門の景気、四社甍を並べたまふさま、いと尊く、峰の嵐の烈し一六一御殿から四御殿まで。 宅生死に迷う心の汚れ。 ばんなうねぶ ふもと しゃうじあか きにも、煩悩の眠りをおどろかすかと聞こえ、麓に流るる水の音、生死の垢を天春日神社の摂社。祭神は鹿島 一九 大明神。 わかみや をとめご すすがるらむなど思ひつづけられて、また若宮へ参りたれば、少女子が姿もよ一九巫女。 かへのば た くわん っと

5. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

3 凡例 凡例 一、本書は、現在のところ孤本である宮内庁書陵部蔵本 ( 五冊 ) を底本とした。 一、本書は第一冊、第二冊に分冊しており、本巻第二冊には、後半、出家後の旅や行状を綴った巻四、巻五 を収める。 一、底本は、正確に活字化するべく努めたが、読みやすさと理解しやすさへの配慮から、つぎのような操作 を加えた。 適宜、段落を分けて改行し、内容上のまとまりに応じて、小見出しを新設した。 2 変体仮名を通行のものに改め、また仮名づかいは歴史的仮名づかいに統一した。 3 濁点・半濁点は、当時の発音に沿って施し、また、句読点および会話・心中表現・引用句などに「」 を付した。 4 漢字を仮名に、仮名を漢字に改めたところがある。当字や異体字も通行のものに改めた。 助動詞・補助動詞は、おおむね仮名表記に統一した。 6 助動詞「らん」「けん」「ん」は、すべて「らむ」「けむ」「む」に統一した。 7 動詞の送り仮名は活用語尾を送ることを原則とした。 8 反復記号 ( / 、ゝ ) は用いず、漢字一字の場合のみ「々」を用いた。

6. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

用いている。しかし、それは本当にところどころにすぎなと注を加えてみたが、これも最終的には削った。 そこで、結局「はべり」の部分だけは「です」「ます」 書陵部のこの展観は実に嬉しかった。当日の目録に、 調として、全体的には「である」調でゆくことにしたのだ「二五看聞日記巻五応永二六年紙背和歌懐紙原本」とし が、多分このような混用は、ト ・中学校の作文指導では、 て掲げられている和歌懐紙類の中には、西園寺実兼、『と とうぐう 悪い例として戒められているのではないだろうか。その点 はずがたり』の「雪の曙」の春宮大夫時代の自筆詠草が存 が今でも気になる。 するのである。それは既に『図書寮叢刊看聞日記紙背文書・ 後深草院の呼び方も名案が浮ばなかった。「御所様」と別記』に翻刻されているものではあるが、 してみたのだが、これこそ御所勤めの経験を持っている人 わかやとのむめにこったふうくひすのこゑむもれたり にでも聞くべきであったかもしれない。 春さむからし 注は最初は粗く、次の段階でやや詳しくとつけていった みねとをき霞のうへのなかそらにのこれる月よあけて のだが、スペースの関係でついに収容できす、組版の過程 で削った箇所もある。巻一冒頭の「たのむの雁」に当然引といったような、いかにも初期京極派風のすべらかでない くべき『伊勢物語』の歌などもその例である。これは「引歌が、決して巧みだとも思えない字で書かれているのを見 したた 歌一覧」 ( 本冊巻末 ) でカバーすることとした。作業が詰めた時には、一種異様な感銘を受けた。この懐紙が認められ の段階に入っていた昨年 ( 昭和五十九年 ) 十月の十八日からた彼の春宮大夫時代は、『とはずがたり』巻二・三に重な 二十日にかけて、宮内庁書陵部で「後崇光院と伏見宮本」るのである。彼はこのような新奇な歌を詠む一方で、雅忠 ひこほほでみのみこと の展示があった。そこに展観されていた『彦火々出見尊女との危険な関係を持ち続けていたのであった。実兼とい 絵』の一場面が、作者が「雪の曙」との間の女子を秘かに う人物に対する興味が次第にふくらんでくる。 出産する場面の叙述に参考となるような気がして、「『彦『看聞日記』紙背文書には「即成院預置文書目録」と題す 火々出見尊絵』にも、柱に取り付いている妊婦の腰を後ろる目録が含まれている。即成院は『とはずがたり』巻二・ から抱きかかえている産婆のような女性が描かれている」巻四などにその名の見える、持明院統にゆかりの深い寺院

7. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

五 巻 〔を和知の無法者 - 一とは をさな づ忘られぬ御言の葉は心の底に残りつつ、さてもいまだ幼かりしころ、琵琶の一四六根 ( 眼・耳・鼻・舌・身・ 意 ) の罪障を懺悔します。「慚愧」 ばち は懺悔に同じ。この唱え言葉は、 曲を習ひたてまつりしに、賜はりたりし御撥を、四つの緒をば思ひ切りにしか 後に「懺悔懺悔六根清浄」ともいう。 てな 一五九歳の年、後深草院に琵琶を ども、御手馴れたまひしも忘られねば、法座のかたはらに置きたるも、 教えられた ( ↓田一一六ハー七行 ) 、 そで その折に与えられたか。 手に馴れし昔の影は残らねど形見と見れば濡るる袖かな 一六琵琶を弾くことは断念したが。 たびだいしふきゃう ↓ 8 一一一〇ハー九行。 この度は大集経四十巻を二十巻書きたてまつりて、松山に奉納したてまつる。 宅「昔の影」は琵琶の半月 ( 胴体 くやう ひととせ にある弦月形の響孔 ) をいうか 経のほどのことは、とかくこの国の知る人に言ひなどしぬ。供養には、一年、 一 ^ 『大方等大集経』。仏が欲・色 み みや 「御形見ぞ」とて三つ賜はりたりし御衣、一つは熱田の宮の経の時、修行の布二界の中間で、広く + 方の仏菩薩 を集めて説いた大乗の法。六十巻。 せ 施に参らせぬ。この度は供養の御布施なれば、これを一つ持ちて布施にたてま一九石清水八幡宮で院と再会した 時のこと。↓三九ハー九行。 ニ 0 弥勒菩薩が世に現れて衆生を つりしにつけても、 救う時。 あかっき 0 讃岐の白峰・松山を訪れたのは 月出でむ暁までの形見ぞとなど同じくは契らざりけむ もとより西行の足跡に倣う気持か はだ 御肌なりしは、いかならむ世までもと思ひて、残し置きたてまつるも、罪深らであり、実際に縁故者もいたか らこそ可能であったのだろうが、 そもそも四国が後深草院の祖父土 き心ならむかし。 御門院ゆかりの地であることも、 しもっき とかくするほどに、霜月の末になりにけり。京への船の便少なからぬ動機となっているので あろう。それゆえに土御門院の詠 なみかぜ 歌も想起されたと考える。 宜あるも、何となくうれしくて、行くほどに、波風荒く ニ 0 おんぞ ほふぎ あった を びん ふ なら

8. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

を読む限りではそのような別の巻々の存在を想定せねば理解しがたいような叙述はまず見当らないから、お そらくこの作品の本体に本来位置付けられるべき欠巻の存在を想定する必要はないであろう。ただし、『増 かがみ 鏡』の叙述に『とはずがたり』の現存しない部分の影響が認められるのではないかという想像を起させる箇 所もあり ( 付録「参考資料」参照 ) 、「夢の記」とか「人丸講式」のような付随する記事が、別冊として存した 可能性はむしろ大きいと思われる。平安時代の作り物語の愛読者であったと想像される作者は、おそらく 『源氏物語』の正編と続編というのにも似た創作意識から、意識的省筆を試みているのであろう。 もとよりこ また、執筆年次の上で、宮廷編と紀行編との間に長期間にわたる空白があるとも考えがたい。 かせい れだけの長さを有する作品であるから、一気呵成に成ったということはないであろうが、宮廷編の中にも稀 には遥か後年の見聞 ( 「ささがにの女」の後日譚 ) や後年の感想めいたものが見出されるから、全体を通して老 残の生涯の一時期に、ほば継続して集中的に書きあげられたものであろう。それはおそらく本作品にもいう、 後深草法皇の三回忌も終った、徳治元年 ( 一三〇六 ) 九月、作者四十九歳以後まもなくのことではないであ もとよりそ ろうか。その翌年の七月には遊義門院も没しているけれども、そのことは作品中には見えない れは省筆したことも考えられる。遊義門院の死も、ある意味ではこのような内容の回想録の執筆を容易なら しめたかもしれないし、またきっかけとなったかもしれないのである。ただ余りにも老齢に及んでの執筆と 説 見るには、本作品の筆致は艶やかであり、生々しくさえもあるので、やはり十四世紀初頭をひどく下ること 解はないであろうと考えておく。 書写者がところどころ注記しているように、原本またはその転写本に既に何箇所か切り取られた部分があ ったことが知られる。この作者自身がそのような思わせぶりなことをした、または装ったとは考えにくいか つや ます

9. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

165 解説 父系、久我家 ひがしにじようのいん ′ ) ふかくさいん 『とはずがたり』巻一の終り近く、後深草院が作者を厚遇すると不満を訴えた妃東二条院に対する院の返 事の中に、 わうじともひらしんわう れんぜいゑんゅうゐん 久我は村上の先帝の御子、冷泉・円融院の御弟、第七皇子具平親王よりこの方、家久しからず。 ( ↓田七九ハー八行 ) このえ おおいどの という一文がある。また、巻二のやはり終りの方で、近衛の大殿は、 むらかみてんわう 村上天皇より家久しくしてすたれぬは、ただ久我ばかりにてさぶらふ。 と言い、作者の和歌についても、 りゃうゑん 梁園八代の古風といひながら、いまだ若きほどに、ありがたき心遣ひなり。 と評している。 また、巻五でも、作者自身、 こが 解説 こが ひさ おとと こが ( ↓田一三三ハー八行 ) ( ↓田一三四ハー三行 )

10. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

愛染明王図高野山・金剛一一一昧院蔵 密教での大法秘法の一つに、如 つあいせんおうはう 法愛染王法がある『とはすかた リがしにじよういん り』の巻一では東一一条院の御産 の際に、また巻一二では遊峩門院 の病悩の際に、いすれも「有明 しよういし、、 の月」 ( 性助法親王 ) が大阿闍 梨として修されているその本 あいせんみようおう ふんぬ 尊愛染明王は、外相は忿怒暴悪 の相だが内証は恋愛染着の至情 はんのう を本体とする、煩悩即菩提の明 王。三目六臂の忿怒尊で、獅子 冠をき、左手は金鈴・金剛弓 を執リ、また拳を握る右手は 蓮花・金剛箭・五鈷杵を執る 愛欲に燃える「有明の月」その 人をすら思わせるこの図は、十 三世紀に描かれたもの