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検索対象: 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)
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1. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

13 巻四 ふじね ^ 『伊勢物語』九段の「水行く河 富士の嶺は恋を駿河の山なれば思ひありとそ煙立つらむ のくもでなれば、橋を八つわたせ な るによりてなむ、八橋といひけ 馴れぬるなごりはこれまでも引き捨てがたき心地しながら、さのみあるべき る」という叙述を受けて書く。 九やはり『伊勢物語』同段の「も ならねば、また立ち出でぬ。 とより友とする人ひとりふたりし やつはし 八橋といふ所に着きたれども、「水行く川」もなし。橋も見えぬさへ、友もていきけり」という叙述を受ける。 一 0 「恋せむとなれる三河の八橋 の蜘蛛手に物を思ふ頃かな」 ( 古今 なき心地して、 六帖・第一一、続古今・恋一読人し くもで われ らず ) を受ける。 我はなほ蜘蛛手に物を思へどもその八橋は跡だにもなし = 熱田神宮。名古屋市熱田区に をはりのくにあった こだいなごん みかき くさなぎのつるぎ 尾張国熱田の社に参りぬ。御垣を拝むより、故大納言の知ある。神体は草薙剣。 〔三〕熱田の社 三父、雅忠の知行国 ( 国務執行 まつり る国にて、この社にはわが祈りのためとて、八月の御祭に権を与えられ、その収益を自己の ものとすることができる ) 。 つかひ はかならず神馬をたてまつる使を立てられしに、最後の病の折、神馬を参らせ一三『特選神名牒』によれば、祭日 は六月二十一日という。 かやっ しゆく すずしきめ じもくじち・よ - っ・ 。か一四現、愛知県海部郡甚目寺町。 られしに、生絹の衣を一つ副へて参らせしに、萱津の宿といふ所にて、にま 鎌倉時代の海道の駅。 ざいちゃう 一五国司の命を受け、国府で行政 にこの馬死ににけり。驚きて、在庁が中より馬は尋ねて参らせたりけると聞き の実務を担当した在地の下級官人。 かずかず しも、神は受けぬ祈りなりけりとおばえしことまで、数々思ひ出でられて、あ一六神は納受しない祈りだったの みたらしがは だ。「恋せじと御手洗川にせし禊 かた みやしろこよひとど ぎ神はうけずそなりにけらしも」 はれさも悲しさもやる方なき心地して、この御社に今宵は留まりぬ。 ( 古今・恋一読人しらず、伊勢物 きさらぎはつか 都を出でしことは如月の二十日余りなりしかども、さすがならはぬ道なれば、語・六十五段 ) の古歌を引く。 じんめ するが やしろ やまひをり みそ

2. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

ではないけれども、禁中の雲の上をお忘れ申しあげること るのを渡ったが、こぎれいな男二人に出会った。「このあ Ⅱはないから、余香を拝する志の深さは、かの菅公に変らな たりに隅田川という川があるそうですが、それはどこです すだ いと思われた。 か」と尋ねると、「これがその川です。この橋を須田の橋 草の原から出た月影は、夜が更けてゆくにつれて澄んで と申します。昔は橋がなくて、渡し舟で人を渡していたが、 ず空高く昇り、葉末に結ぶ白露は玉かと見える心地がして、 それも煩わしいというので、橋ができたのです。隅田川な うへ こよひ と雲の上に見しもなかなか月ゅゑの身の思ひ出は今宵な どは優にやさしいことに申しておりましたのでしようか、 . り . け「り . 土地の農夫らの言いぐさでは須田川の橋と申します。この みよしの ( 今宵の月は、かって雲の上で見た月と同じですが、それも 川の対岸を、昔は三芳野の里と申しましたが、農夫が刈り かえって月ゆえにわが身の思い出を誘うので、悲しく思われ取っては乾す稲と申すものに実の入らない土地でございま ます ) したが、時の国司が里の名を尋ね聞いて、『それも当然だ おもかげ ったよ』と言って、吉田の里と名を改められてからは、稲 御所様の御面影も涙に浮ぶような気がして、 隈もなき月になりゆくながめにもなほ面影は忘れやは にもちゃんと実も入るようになりました」などと語るので、 ぎいご なりひらみやこどりことと する 在五中将業平が都鳥に言問うたのも思い出されるが、鳥す ( 隈もなく澄んでゆく月をじっと見つめていると、やはり恋 ら見えないので、 しい御所様の御面影は忘れることがあるであろうか ) 尋ね来しかひこそなけれ隅田川住みけむ鳥の跡だにも 夜も明けてしまって、そう野原に宿るべきでもないので、 ( 隅田川に尋ねて来たそのかいがないよ。住んでいた鳥の足 戻った。 すみだがわら 跡すらもない ) ところで、隅田河原はここから近い 〔不隅田 道のりであろうかと思ううち、たい 川霧が立ち籠めて、ここまでやって来た方角も行く先も きよみずばしぎおん そう大きな橋で、京の清水橋や祇園の橋のような有様であ見えない。涙にくれながら行く折も折、空の遥か彼方に鳴 す かなた

3. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

′ ) しょ びんぎ おほかた ふしみ 伏見の御所に御渡りのついで、大方も御心静かにて、人知るべき便宜ならぬ一事改った様子だという気がし て。 おもそ こころわろ よしをたびたび言はるれば、思ひ初めまゐらせし心悪さは、げにとや思ひけむ、ニ九体の阿弥陀仏を安置した堂。 三「世を憂しを掛ける。 あんない 四「思ほえず袖にみなとのさわ 忍びつつ下の御所の御あたり近く参りぬ。しるべせし人出で来て案内するも、 《、か -. な・もろこし . 船のよりしばかり・ くたいだう しゆっぎよ に」 ( 伊勢物語・一一十六段 ) を引く。 ことさらびたる心地してをかしけれども、出御待ちまゐらするほど、九体堂の 五「有明の月も明石の浦風に波 そでみなと うぢがは かうらん ばかりこそよると見えしか」 ( 金 高欄に出でて見渡せば、世を宇治川の川波も袖の湊に寄る心地して、「月ばか 葉・秋平忠盛 ) を引く。「波」を しょや ふること りこそよると見えしか」と言ひけむ古言まで思ひつづくるに、初夜過ぐるほど「月」と誤った。 六「初夜」は現在の午後八時頃。 セわたしの目に映っても、涙に に出でさせおはしましたり。 曇るような気がして。「難波潟か おもかげ 隈なき月の影に、見しにもあらぬ御面影は、映るも曇る心地して、いまだ一一すまぬ波もかすみけりうつるも曇 る朧月夜に」 ( 新古今・春上源具 ひぎ 親 ) などをも念頭に置くか。 葉にて明け暮れ御膝のもとにありし昔より、今はと思ひ果てし世のことまで、 ^ 幼くて。 ふること 数々うけたまはり出づるも、わが古事ながら、などかあはれも深からざらむ。 うれ 「憂き世の中に住まむ限りは、さすがに憂ふることのみこそあるらむに、など ふ やかくとも言はで月日を過ぐす」などうけたまはるにも、「かくて世に経る恨 みのほかは、何事か思ひはべらむ。その嘆き、この思ひは、誰に憂へてか慰む九即成就院。↓田一一九注 一 0 「うち添へての「うち」は「鐘」 あら ことは べき」と思へども、申し表はすべき言の葉ならねば、つくづくとうけたまはりの縁語。 ・は くま わた うつ ふた

4. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

は大騒ぎし、村郡をあげての準備をする。絹障子を張って とで、その女房が、「あちらの方をも御覧なさい。絵が美 しく描けるでしよう」などと一言うので、この和知の住いも Ⅱ絵を描きたがっていたので、何という分別もなく、つい とも 「絵の具さえあれば描きましように」と申したところ、「鞆あまりに面倒で、「都へは、この雪で上京もできないでし 既という場所にある」といって、取りに人を走らせる。ひど よう」と一一 = ロうので、年内もそこで過そうかと思って、何と すく後悔したけれども、どうしようもない。絵の具を持って なく行ったところ、この和知の主は予想していた以上に怒 げにん と来たので描いた。 って、「わたしが長年使っていた下人を逃してしまったの いつくしま 主が喜んで、「今はここに落ち着いていらっしゃい」な を、厳島で見つけたのだが、また江田へさらわれてしまっ ・一つけい どと一言うのも滑稽に聞いているうちに、この入道とかいう た。打ち殺そう」などといきまく。「下人とはいったい何 人がやって来た。総じて、「何をしたらよかろう」といっ を言うのであろうか」と思うけれども、「訳のわからない いなか て歓待するうちに、その入道が障子の絵を見て、「田舎に 者は、そのようなとんでもないことをしでかすかもしれな あろうとも思われない筆遣いだ。どのような人が描いたの 動かない方がいい」などと江田の兄に当る者は言う。 か」と言うので、「ここにおいでの人です」と主が言うと、 この江田という所は若い娘たちが大勢いて、親切な様子 「きっと歌などをお詠みになるであろう。修行の常とて、 なので、何ということなく、心が留まるというまでのこと そういうものだ。お目にかかりたい」などと言うのも煩わはないけれども、前の住いよりは気分ものびのびする心地 であったのに、いったいどうしたことかと、ひどくあきれ しくて、熊野参詣という話なので、「今度お下向の折にゆ つくりとお会いしましよう」などとごまかして、わたしは ていると、熊野参詣をした入道が、帰路にまた下って来た。 席を立った。 すると、和知の主は、この入道にこんなけしからぬことが よぞうにゆうどう 広沢与三入道の接待の機会に、女房あって、自分の下人を取られた由、自分の兄を訴えたとい 〔 0 江田に身を寄せる 一一、三人がやって来た。江田という う。この入道は彼ら兄弟の伯父であって、同時にこの土地 じとう の地頭とかいう者なのである。 所に、この主の兄がいるが、娘の縁などがある、というこ くまの ( 原文七一ハー )

5. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

とど 一相応の身なりをした僧。 え止めはべらざりしかば、そばに事よろしき僧のはべりしが、「いかなる人に ニわたしが素性を明かすことは、 てかくまで嘆きたまふぞーと申ししも、亡き御陰の跡までもはばかりある心地故院がお亡くなりになった後まで もご遠慮される心地がして。 三源 ( 久我 ) 通基か、その男、通 して、「親にてはべりし者におくれて、このほど忌み明きてはべるほどに、 雄か。通基は右大将通忠の男。従 た の 一位内大臣に至る。延慶元年 ( 一三 0 とにあはれに思ひまゐらせて」など申しなして、立ち退きはべりぬ。 0 没、六十九歳。この年は六十七 ′」しょ ひと ・一よひ くわんぎよ 御幸の還御は、今宵ならせおはしましぬ。御所ざまも御人ずくなに、しめや歳で前内大臣。通雄は従一位太政 大臣に至る。元徳元年 ( 一三 = 九 ) 没、七 かに見えさせおはしまししも、そそろに物悲しくおばえて、帰らむ空もおばえ十三歳。この年は五十歳で、やは り前内大臣。 さきおとど四 はべらねば、御所近きほどになほ休みて居たるに、久我の前の大臣は同じ草葉四「紫のひともとゆゑに武蔵野 の草はみながらあはれとそ見る」 ときどき ふみ のゆかりなるも忘れがたき心地して、時々申し通ひはべるに、文遣はしたりし ( 古今・雑上 ) 、「ねは見ねどあはれ とぞ思ふ武蔵野の露わけわぶる草 のゆかりを」 ( 源氏・若紫源氏 ) な ついでに、彼より、 どの古歌から、親類の意。通基は いくよふしみありあけ 作者のいとこに当る。 都だに秋のけしきは知らるるを幾夜伏見の有明の月 五「伏見」に「臥し」を掛ける。 六「忘れてもあるべきものをな 「問ふにつらさ」のあはれも忍びがたくおばえて、 かなかに問ふにつらさを思ひ出で ふしみやま つる」 ( 続古今・恋四西院皇后宮 ) 、 秋を経て過ぎにし御代も伏見山またあはれそふ有明の空 「吹く風も問ふにつらさのまさる かな慰めかぬる秋の山里」 ( 続古 また立ち返り、 今・雑中藤原定雅 ) などを引くか。 しの ↓田三三ハー注一一 = 。 さそなげに昔を今と偲ぶらむ伏見の里の秋のあはれに 102 七 へ れ ここち くさ・は

6. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

とはずがたり 80 しまここち おもかげ 一十六夜の月を見た悲しみの独 昔を思ひつづくれば、折々の御面影、ただ今の心地して、何と申し尽くすべき 白の歌。 すのば ャ ) とは ニ仏教説話では、「菩薩・天人 言の葉もなく、悲しくて、月を見れば、さやかに澄み昇りて見えしかば、 ・天竜八部・若干の衆会・異類の こよひ 輩、皆各嘆かずと云ふ事なし。 隈もなき月さへつらき今宵かな曇らばいかにうれしからまし 其の時に、大地・諸山・大海・江 とりけだもの うれ しやくそんにふめつ じっげつ 釈尊入滅の昔は、日月も光を失ひ、心なき鳥・獣までも愁へたる色に沈み河、皆悉く震動す」 ( 今昔・巻三・仏 入涅槃給後入棺語第三十一 ) など われ けるにと、げにすずろに月に向かふ眺めさへつらくおばえしこそ、我ながらせと語られる。 三痛切なこと。 ・隈もなき」の詠は、保元の乱に めてのことと思ひ知られはべりしか。 敗れた崇徳院が出家して仁和寺に いると聞いて、駆けつけた西行が 夜も明けぬれば、立ち帰りても、なほのどまるべき心地も 詠んだ、「かかる世に影も変らす 〔を葬送の車を追う さうそうぶぎゃう へいちゅうなごん六 せねば、平中納言のゆかりある人、御葬送奉行と聞きしに、澄む月を見るわが身さへ恨めしき かな」 ( 山家集・下 ) の歌を連想させ くわんとほ に . よノばう ゆかりある女房を知りたることはべりしを尋ねゆきて、「御棺を遠なりとも今るような歌である。 四気の休まりそうな心地もしな かた 一度見せたまへ」と申ししかども、かなひがたきよし申ししかば、思ひやる方いので。 五平仲兼。兵部卿時仲の男。権 なくて、いかなる隙にても、さりぬべきことやと思ふ。試みに女一房の衣をかづ中納言従二位に至る。この年は前 権中納言で五十七歳。嘉元三年 ( 一 みかうし ) しょ 三 0 五 ) 、五十八歳で出家。没年未詳。 きて、日暮らし御所にたたずめどもかなはぬに、すでに御格子参るほどになり 六藤原 ( 日野 ) 資冬。権大納言俊 みすとほ て、御棺の入らせたまひしやらむ、御簾の透りよりやはらたたずみ寄りて、火光の男。その妻が平仲兼の女であ つつ ) 0 の光ばかり、さにやとおばえさせおはしまししも、目も昏れ、心もまどひてはセそっと。 ひま 四 きぬ ひ

7. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

31 巻四 さっ また混じる物もなく、これが高さは、馬に乗りたる男の見えぬほどなれば、推賜ノ御衣ハ今此ニ在リ捧ゲ持チ よきゃう テ毎日余香ヲ拝ス ) 」 ( 菅家後集 ) を みち しはかるべし。三日にや分けゆけども、尽きもせず。ちとそばへ行く道にこそ踏まえる。同詩は『大鏡』に引く。 九一定の法式に従って経文を書 しゆく ひととほ かた 写すること。その経文をもいう。 宿などもあれ、はるばる一通りは、来し方行く末、野原なり。 一 0 八幡大菩薩。石清水八幡宮に くわんおんだう 観音堂はちと引き上がりて、それも木などはなき原の中におはしますに、ま奉納したか。ただし、記事はない = 宮城。 、 ) よひ 一ニ「思ひ草葉末に結ぶ白露のた めやかに、「草の原より出づる月影」と思ひ出づれば、今宵は十五夜なりけり。 またま来ては手にもたまらず」 ( 金 あそ うへ おんぞ によほふきゃう ふせ だい要 雲の上の御遊びも思ひやらるるに、御形見の御衣は如法経の折、御布施に大替葉・恋上源俊頼 ) を引くか。 一三十五夜の月は、昔、宮中で見 薩に参らせて、今ここにありとはおばえねども、鳳闕の雲の上忘れたてまつらた思い出があるので悲しいとの心。 一四満月から院の面影を連想した よきゃう 歌。「くまもなき折しも人を思ひ ざれば、余香をば拝する心ざしも、深きに変はらずそおばえし。 出でて心と月をやっしつるかな」 ふ しらっゅ 草の原より出でし月影、更けゆくままに澄み昇り、葉末に結ぶ白露は玉かと ( 新古今・恋四西行 ) などに通う。 。武蔵野の秋の気色」は、西行仮 ここち 託の『撰集抄』巻六に「さいっ頃武 見ゆる心地して、 蔵野を過ぎ侍りしに、東西南北草 - 一よひ のみ茂りて、人も住ます、花色々 雲の上に見しもなかなか月ゅゑの身の思ひ出は今宵なりけり もも、つ、ら に咲き乱れて、百浦に唐錦を拡げ たらん心地し侍りて、武蔵野は行 涙に浮かぶ心地して、 一四 けども秋のはてぞなきいかなる風 おもかげ の末に吹くらんと、はるばる思ひ 隈もなき月になりゆくながめにもなほ面影は忘れやはする やり侍り」と叙す。成立時期も関 やど 係するが、これらに触発されるか 明けぬれば、さのみ野原に宿るべきならねば、帰りぬ ま すのば ほ - つ、けっ 九 はずゑ 0 うへ 六 お

8. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

かくおんじ 北の瑞泉寺・覚園寺あたりにわた ならはぬ旅の苦しさに、持病の起こりたるなり」とて、医師などは申ししかど る広い地域の総称。 九鎌倉に小町大路 ( 若宮大路の も、今はといふほどなれば、心細さも言はむ方なし。 東側を、平行に、海岸に向う道 ) かぜけ はなた があり、近世にも小町村があった。 さほどなき病にだにも、風邪の気、鼻垂りといへども、少しもわづらはしく、 現在も小町小路の名が残る。その 一も おんやう 二、三日にも過ぎぬれば、陰陽・医道の洩るるはなく、家に伝へたる宝、世にあたりに家があった女性であろう。 一 0 惟康親王。宗尊親王の男。文 れいしゃれいぶつ なんれいたちばなげんば なし 聞こえある名馬まで、霊社・霊仏にたてまつる、南嶺の橘、玄圃の梨、わがた永三年 ( 一 = 六六 ) 七月二十四日、三歳 で鎌倉将軍とされ、正応二年 ( 一天 やまひゆかふ ひかず めにとのみこそ騒がれしに、病の床に臥して、あまた日数は積もれども、神に九 ) 九月十四日廃されて上洛した。 = 源定実。顕定の男。作者のま たいとこ。従一位太政大臣に至る。 も祈らず、仏にも申さず、何を食ひ、何を用ゐるべき沙汰にも及ばで、ただう 三推古天皇の時代の創建と伝え ここち しゃう る。長野市にあり、天台・浄土両 ち臥したるままにて明かし暮らす有様、生を変へたる心地すれども、命は限り 宗。本尊は三国伝来の阿弥陀如来。 みなづき 一三南嶺 ( 崑崙山脈の南支山脈 ) に あるものなれば、水無月のころよりは心地もおこたりぬれども、なほ物参り思 産するという橘。『玉造小町子壮 ただよあり ひ立つほどの心地はせで、漂ひ歩きて、月日空しく過ぐしつつ、八月にもなり衰書』序に「嶺南ノ丹橘、という。 一四崑崙山にある天帝の居所玄圃 ぬ。 にあると想像されていた美味な果 四 実。『玉造小町子壮衰書』序には あした はうじゃうゑ 十五日の朝、小町殿もとより、「今日は都の放生会の日に「大谷張公之梨」というのが見える。 前の橘と同じく、珍味美菓をいう。 巻〔〈〕鶴岡八幡宮放生会 てはべり。 一五旧暦八月十五日。 しかが思ひ出づる」と申したりしかば、 一六「流れ」 ( 一流、一族の意 ) は いはしみづ すゑ 「石清水」の「清水」の縁語。 思ひ出づるかひこそなけれ石清水同じ流れの末もなき身は やまひ ぢびやう むな かた さた くすし ずいせんじ

9. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

シラヌ時ニイタリテ、我ヲ捨テ心トサキダタム事コソイト ハチ心地サハヤカニナリニケリ。内供モ其日ョリ心地ヲコ 悲ケレド、其志フカキ事ヲ思フニ、師ノ命ニカハリナバ君タリニケレバ、此事ヲキ、テ愚カニ思ハンヤハ。後ニハ人 ウタガフ ガ後世ニヲヰテハ不レ可レ疑。モシ此事ヲュルサズハ仏モヲ ニスグレテ相タノミタル弟子ニテナムアリケル。彼本尊ハ フデウ ロカニオポシメシ君ガ心ニモタガヒナン。誠ニ老少不定ノ ッタハリテ後白河院ニヲハシマシケリ。常住院ノ泣不動ト 命也。思へバ夢マポロシノ前後ナリ。 ハヤク君ガ心ナリ。 申ハ是也。御目ョリ涙ヲナガシタル形チゲニサヤカニ見へ ヒヂ トク浄土ニ生レテ我ヲスクヒ給へョ」トイフ。涙ヲ押へテ給ヘリケルトゾ。証空阿闍梨ト云ハ空也上人ノ臂ノヲレ給 トシナノリ ョキャウ イヒケレバ、証空ナク / 、悦テ帰ヌ。ャガテ年名乗カキッ ヘルヲ余慶僧正ノ祈リナヲシ給タリケルトテ、法器ノモノ ヒジリ ケテ晴明ガモトへャリツ。コョヒ祈リカへ奉ル・ヘキ由云リ。 ナリトテ、聖ノ奉ラレタリケル小童ナリ ュク カクテ夜ャウ / 、フケ行程に此証空カシラ痛ミ心地アシク ワガバウ 身ホトヲリテ堪ガタク覚へケレバ、我房ニ行テミグルシカ トシゴロ ル・ヘキ文ナド取シタ、メッ、、年来モチ奉リケル絵像ノ不 動尊ニ向ヒ奉リテ申ャウ、「我年ワカク身サカリナレバ命 礫惜カラザルニアラネド、師ノ恩ノ深キ事ヲ思フニョリテ今 発スデニ彼命ニカハリナントス。ットメスクナケレバ、後世 ネガハグミャウワウ 料キハメテヲソロシ。願ハ明王アハレミヲ垂テ悪道ニヲトシ 考給フナ。病苦スデニ身ヲセメテ一時モタへシノブ・ヘカラズ。 録本尊ヲ拝ミ奉ラン事只今バカリ也」ト泣々申。ソノ時絵像 付ブッガン ノ仏眼ョリ血ノ涙ヲナガシ、「汝ハ師ニカハル。我ハ汝ニ カハラン」トノ給フ御声ホネニトヲリ肝ニシム。カナヰシ タナゴ、ロ ト掌ヲ合テ念ジ居タル間ニ汗ナガレヌル身サメテ、スナ ョロコビ イへ

10. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

99 巻五 かぐら七てあそ 神楽・御手遊び、さまざまありしに、暮るるほどに桜の枝を折りて、兵衛佐のセ参拝者が奏する管絃・舞楽の もとへ、「この花散らさむ先に、都の御所へ尋ね申すべし」と申して、つとめ ^ 翌朝。 ここち みゆき だいばさっ ては還御より先に出ではべるべき心地せしを、かかる御幸に参り会ふも大菩薩九八幡大菩薩。 とど の御心ざしなりと思ひしかば、喜びも申さむなど思ひて、三日留まりて、御一 0 お礼参りをしよう。 のち 一一ふみ のば 社にさぶらひて後、京へ上りて、御文を参らすとて、「さても、花はいかがな = 遊義門院へのお手紙。もとよ り直接には兵衛佐へ当て、取次を 乞うという形で認められたもので りぬらむ」とて、 あろう。 ひかず 三約束の日に遅れたのをわびる 花はさてもあだにや風のさそひけむ契りしほどの日数ならねば 心を籠めるか 一三遊義門院の返歌。訪問が遅れ 御返し、 ても咎めずに待っているという心 を籠める。 その花は風にもいかがさそはせむ契りしほどは隔てゆくとも 一四気分が晴れる程度に。 のち一四 その後、いぶせからぬほどに申しうけたまはりけるも昔な一五お便り申しあげ、またご返事 〔三巴後深草院三回忌、 を頂戴するのも。 御影を拝す がらの心地するに、七月の初めのころより、過ぎにし御所一六後深草院の御三回忌。 みめぐ の御三周りにならせおはしますとて、伏見の御所に渡らせおはしませば、何と きゃう なく御あはれもうけたまはりたく、今は残る御形見もなければ、書くべき経は 今一部なほ残りはべれども、今年はかなはぬも心憂ければ、御所の御あたり近 さき ふしみ さくら っ ) 、、 0