一「注連」「引く」「かく」は「神」 返し、 の縁語。 ニ鎌倉鶴岡八幡宮。明治以前は ただ頼め心の注連の引く方に神もあはれはさこそかくらめ 鶴岡八幡新宮若宮、鶴岡八幡宮寺 かまくらしんやはたはうじゃうゑ また、鎌倉の新八幡の放生会といふことあれば、事の有様もゆかしくて、立とも。祭神は石清水八幡宮と同様、 応神天皇・比売神・神功皇后。康 だいみやう しゃうぐんしゆっし しち出でて見れば、将軍御出仕の有様、所につけてはこれもゆゅしげなり。大名平六年 ( 一 0 六 = ) 源頼義が石清水八幡 四 を勧請した由比若宮に始るという。 たちはき ひたたれ どもみな狩衣にて出仕したる、直垂着たる、帯刀とやらむなど、思ひ思ひの姿三公家や武家の略服。本来は公 家の狩猟用の服 くぎゃう くるま あかはし めづら ども珍しきに、赤橋といふ所より、将軍車より降りさせおはします折、公卿・四将軍の社参などに際して、太 刀を帯びて警固に当る役。源実朝 てんじゃうびとせうせうとも 殿上人、少々御供したる有様そ、余りに卑しげにも、ものわびしげにもはべりの横死以後始められたという。 五鶴岡八幡宮の参詣道に架けら さぶらひどころしよし ちゃくしへいじらうざゑもん へいぎゑもんにふだう し。平左衛門入道と申す者が嫡子平二郎左衛門が、将軍の侍所の所司とて参れていた橋。現在の俗称源平池に 架けられている反橋がこれに当る。 くわんばく りし有様などは、物にくらべば関白などの御ふるまひと見えき。ゅゅしかりし六平頼綱。法名杲円。『吾妻鏡』 に「平新左衛門三郎として見える。 まつり′ ) とさほふ ゃぶさめ ことなり。流鏑馬、いしいしの祭事の作法有様は、見ても何かはせむとおばえ正応六年 ( 一 = 九 = ) 四月二十二日、執 権北条貞時に誅せられた。 セ平宗綱か。父が誅された時、 しかば、帰りはべりにき。 佐渡に流された。 かまくら ひかず さるほどに、幾ほどの日数も隔たらぬに、「鎌倉に事出で〈守護・地頭を支配し、将士の つかさど 〔九〕将軍、京に流され 進退などを司り、戦時には軍奉行 る 来べし」とささやく。「誰が上ならむ」と言ふほどに、「将とな。た。所司はその次官。 九騎射の一種。三か所に的を設 け、馬を走らせながら鏑矢で射る。 軍都へ上りたまふべし」と言ふほどこそあれ、「ただ今御所を出でたまふ」と みやこのば かりぎめ しめ しゆっし かた
どに年もくれぬれば、とりたてたる御ことはなけれども、 しめさむ料に、御水瓶に煎物を入て持せられたりけるが、 文永九 御足のけ煩はしくわたらせ給と聞しほどに、正月二日富小 中御門大宮へ御輿かきすへまいらせんとすれば、御煎物心 路殿へ御幸あるべきにて、其日までこそ延たりしかども、 うつくしく一滴もなくうせにけるそ、まことに不思議に覚 らいかゞあるべきと云御事にて、のびさせおはしませば、 侍し。後鳥羽院御所嘉陽院殿跡、中御門西洞院を、経任卿 こはいかに有べき御事そとあさましく思ふほどに、次第に 給て花亭を造りたりしかば、常に御幸ありしに、後鳥羽院 御増気、さまみ、の御療治御祈数尽さるれどもしるしなし。 の御霊御心とけぬ事にて有けるやらん、其効も有けるとか 宝算五十までとこそ年来は祈念もありしかば、さのみはい や聞えしほどに、御悩のほどにも、冷泉殿のうち弘御所に こえらかにゆゝしき かゞあるべき。御祈疇もとゞめて一筋に後世の御さたにて大臣達のまいりて候ほどの座しきに、 有べしと叡慮には思しめしたれども、さては又有べき御事僧の着座したれば、たれにかとおもひて、「たが御まいり ならねば、内外の御祈残ことなく始行る。去程に、もとよ と申さぶらはんそ」と女房の問けれども、返事もなければ、 ) りいかなる御こともわたらせ給はん時は亀山殿にてと思し ひがめかと思ひて、又女房をぐして二人してとへども更に 物めし儲られたる御ことなれば、正月十七日嵯峨殿へ入せ御 いらへもせで、はてはくらりとうせにけり。不思議にぞ有 帝座すに、晴儀にてこそなけれども、年始の御幸なるうへ、 ける。さて亀山殿にては御心地も次第によはく思しめさる れば、御祈どもいとゞ数を尽す。御方々にも臣下も、われ 伍殊に引っくろはる。京の御所、今日を限と思食たる有様、 料君も臣も打あらはれて袖をしばらねども、上下うちしほれ劣らじとせられしかども、又大事にならせおはしませば、 考て、面々の心中たとふべきかたなし。御輿にめされて、こ っゐの所にかねて思食れてつくりをかれたる寿量院の御所 へ、二月七日入せおはします。京御所より御出の有しまで 録とにつよ / 、しくみえさせ給へば、あはれ千秋万歳もわた 付 らせおはしませかしと、云がひなき身までも、手を挙て見は、なをもし立帰る御事もやと覚しに、今は限の御ゆきな ・まいらせつる。今日は別勅にて、帥中納言経任卿後騎につれば申もをろか也。今日よりは祇候の公卿殿上人も人数を とゞかキ、 かうまつりて、御水瓶の役なども勤けるに、路にてもきこ定られて、御点人々少々の外は参りよらねば、し
111 巻四 を漂泊して、月日を空しく過しながら、八月にもなった。 際、公卿・殿上人が少々お供した有様は、あまりにも卑し へいぎえもん げにもみじめたらしくも見えました。平左衛門入道と申す 十五日の朝、小町殿の所から、「今 さぶらいどころ ちゃくし ほうじっえ 〔 0 鶴岡八幡宮放生会 者の嫡子平二郎左衛門が、将軍の侍所の所司というので 日は都の放生会の日でございます。 参った有様などは、物にたとえると関白などのお振舞いと どのようにお思い出しになりますか」と申したので、 ゃぶさめ いはしみづ 思ひ出づるかひこそなけれ石清水同じ流れの末もなき見えて、威風堂々としていたことです。流鏑馬、盛大な祭 身は 礼の作法有様などは、見ても何にもならないだろうと思わ ( 思い出すかいがありません。同じ石清水八幡の流れ、源氏れたので、そのまま帰りました。 の末とは申せ、子孫もないわたしのような身の上の者には ) 〔九〕将軍、京に流されそうこうしているうちに、それから る 幾日も経たないのに、「鎌倉に事件 それに対する返歌、 しめ かた が起るだろう」と人々がささやく。「誰の身の上だろうか」 ただ頼め心の注連の引く方に神もあはれはさこそかく うわさ らめ と言ううちに、「将軍が上京されるのであろう」という噂 しめなわ ( ただ御神にお頼みしなさい 。心に注連縄をかけ、その縄を が流れるやいなや、「たった今、御所をお出になる」と言 はりごしたいや 引くように心を寄せている人に対して、八幡の御神も憐れみ うので様子を見ると、ひどく粗末な張輿を対の屋の端へ寄 をおかけになることでしようから ) せてある。丹後一一郎判官と呼ばれた者であろうか、その男 さがみの しんやはたほうじようえ また、鎌倉の新八幡の放生会ということがあるので、事が上から指令されて将軍をお乗せしようとする所へ、相模 かみ等一だとき の有様も知りたくて、出向いて見ると、将軍がご出仕され守貞時の使いということで、平二郎左衛門がやって来た。 み・ 1 し その後、先例であるということで、「御輿を逆さまに寄せ る有様は、鎌倉というこの土地に相応してこれも威厳あり かりぎめ ひたたれ よ」と言う。またここには、将軍がまだ御輿にすらお召し げである。大名たちは、狩衣で出仕している者や、直垂を しんでん こどねり たちはき にならないうちに、寝殿には小舎人という身分の低い者た 着ている者、帯刀とやらいう役柄の者など、皆思い思いの あかはし ちがわら沓を履いたまま御殿に昇って御簾を引き落しなど 姿も珍しいが、赤橋という所で将軍が車からお降りになる ぐっ
する有様も、ひどくお気の毒で正視できない。 乗りになったと思われたが、何だかだといって、また庭に そうこうしているうちに、御輿がお出になったので、女かき据え申しあげて、ご出発まで時が経ったものだから、 房たちはめいめい輿に乗るなどということもなく、物をか 将軍がお鼻をおかみになる音が、たいそう低い音ではある 既ぶるまでもなく、「御所様はどこへお出でになられたので ものの、たびたび聞えたので、お袖の涙もさそやおびただ ずすか」などと言って、泣く泣く出る者もいる。大名などで しいことであろうと推量されました。 わかとう えびす と将軍に親しい感情を抱いていると見える者は、若党などを それにしても、将軍と申しても、夷 〔一 0 〕廃将軍の生れ 連れて、暮れてゆくうちにお見送り申しあげるのだろうか などが自身の武力で世界を討ち取っ と見えるのもいる。人々が思い思い、心々に将軍と別れる てなったというのではいらっしやらない。彳 麦嵯峨天皇の第 有様は、何と言いようもない。 二皇子と申すべきであろうか、後深草天皇にはお年のうえ さすけやっ 佐介の谷という所へまずお移りになって、五日ばかりし で一というほどご年長で、最初にお生れになられたので、 のば みかど て京へお上りということなので、ご出立の有様も拝見した 父御門が十善の主にもおなりになったならば、このお方、 おして しようてん むねたか くて、そのいらっしやる近くに推手の聖天と申す霊仏がお宗尊親王も、当然、位をお継ぎになられてもおかしくない じゅ′一う わしますがそこへ参って、お聞きすると、「ご出発は丑の御身であったけれども、母准后のお生れが低かったため実 刻 ( 午前二時頃 ) と決められた」ということで、いよいよ現しないで終ってしまったのを、将軍として下向なさった ご出発になる折も折、宵のうちから降っていた雨はことに のだった。しかし、普通の人ではいらっしやらないので、 なかっかさ その時分になってはひどく、そのうえに風も吹いて、何か 中務親王と申しあげたのである。今の将軍はそのお子様 あやしい物などが渡るのであろうかと思われる有様である であるから、申すまでもなく、それも何ということもない のに、「予定の時刻を変更すまい」ということでお出し申 ご寵愛の女性を生母として誕生したなどと申す事例もよく むしろ しあげる際に、御輿を筵というもので包んだ。あきれはてあるけれども、今の場合は、藤原氏の摂家の名流からお生 て、とても正視できないご様子である。御輿を寄せて、おれになった。父親王、御母君のどちらにしても、少しもい ( 原文二一一ハー ) 112
五月の頃でさえも鹿の子まだらに雪が残っていたというの に沈んでいる人ではあるまいと思われた。月は宵過ぎる時 みじかよ だから、三月という時期を思えば、それも道理」とながめ分に、人々に待たれてやっと出る頃なので、短夜の空も今 かぐら やられるにつけ、跡を継ぐ者もないこの身の思いは、積る からかねて物憂く思われるのに、神楽ということで巫子た ちはや かいもなかったのだ。煙も今はすっかり絶えてしまって見ちが舞う舞の手ぶりも見なれぬ有様である。襷という衵の さいぎ、っ やおとめまい ずえないので、西行の歌と違って、風にも何が靡くことがあ ようなものを着て、八少女舞と称して、三、四人が立って とろうかと思われる。 入れ違って舞う有様も興があっておもしろいので、一晩中 ったかえで それにしても、宇津の山を越えた際も、蔦や楓も見えな そこに座って夜を明かした後、鶏の声に促されて出ました。 かったので、そこが宇津の山だということさえ知らず、判 三月二十日余りの頃に、江の島とい 〔五〕江の島 別もっかなかったのだが、ここで聞くと、早くも過ぎてし う所に着いた。その所の有様は、趣 まっていたのだった。 が深いとも何とも、かえってふさわしい言葉もない。広々 - 」とは 言の葉もしげしと聞きし蔦はい・ つら夢にだに見ず宇津とした海上に離れて浮ぶ島に岩屋がいくらもあるのに泊る。 せんじゅ の山越え これは千手の岩屋というそうで、長らく苦行を重ねて年を やまぶし ( その趣を歌った古人の言葉も多いと聞いた蔦の細道は、い とったと見える山伏が一人修行している。霧の立ちこめる まがき ったいどこでしようか。宇津の山越えがどこなのか、夢にさ籬、竹の編戸など、粗末なものながら、優にやさしい住い え見ません ) である。こうして山伏が世話してくれて、食事には場所に ずのくに ほうへい 伊豆国三島神社に参詣すると、奉幣の仕方は熊野参詣とふさわしい貝などを取って出してくれた。こちらからも、 ながむしろ みやげ 変らない。長筵などをした有様も、たいそう神々しげであ供人の笈の中から、都の土産として扇などを出して与える いちまん る。亡き頼朝の右大将がし始められたという、浜の一万と と、「このような住しし 、こま、都の方の伝言もないので、風 つばしようぞく かいって、由緒ありげな女房が壺装束で行き帰りするのが の便りにも見ませんのに、今夜は昔の友に逢えましたよ」 大儀そうなのを見るにつけても、わたしほどひどく物思い などと言うのも、さそかしその通りだろうと思う。 おい ( 原文一六ハー ) あこめ
申しあげるわけではなく、乞食をして歩くとしてもそれを である。情けないとも何とも言いようがなかったが、その おののこまちそとおりひめ 嘆いてはならないのだ。また、小野小町も衣通姫の流れを うちに、少し快方に向ったかと見えると、今度はまたわた あじかひじ みの 引く女性であるといっても、簣を肘に掛け、蓑を腰に巻い し自身が寝込んでしまった。病人が二人になったので、人 既て、その身の果てはみじめな有様であったが、わたしほど も、「いったいどういうことだろうか」と言うけれども、 す物思うと書き置いたであろうかなどと思い続けて、まずお「格別なことではない。慣れない旅の苦しさに、持病が起 と社へ参詣する。 ったのだ」ということで、医師などはそう申したけれども、 つるがおかはちまんぐう おとこやま 鶴岡八幡宮の鎮座まします場所の有様は、男山の景色よ もう死ぬかというほど重かったので、、い細さも一言いようが みどころ りも、海の眺望がきく点は見所があると言えるであろう。 じようえ ひたたれ かぜけ 大名たちが、浄衣などではなくて、色とりどりの直垂で参 その昔は、さほど重くもない病でさえも、風邪気、鼻水 詣し、下向しているのも、男山と様子が変っている。 が出るという程度でも、少しでも患って二、三日も経っと、 えがら にかいどうおおみ おんようどう こうして、荏柄天神・二階堂・大御陰陽道・医道をわずらわさないことはなく、家に伝えた重 を旅路に病むどう 堂などという所をあちこち参拝して、宝や世間に知られた名馬まで霊社・霊仏に奉納し、南嶺の おおくらやっ たちばなげんほなし 大倉の谷という所に、ト町殿といって将軍にお仕えしてい 橘、玄圃の梨のような珍しい果物も、わたしのために食 っちみかどのさが、ね る人は、土御門定実の縁者なので、手紙を送ったところ、 べさせようとばかり大騒ぎされたのに、病床に臥して多く きとう 「たいそう思いがけないことです」と言って、「わたしの所の日数は積るけれども、神にも祈らず、仏にも祈疇し申し へいらっしや、 し」ということだったが、かえって煩わしく あげず、何を食べ、何を薬として用いようという指図もさ て、その近所に宿を取っておりましたところ、「不便でしれないで、ただ寝たままに明かし暮す有様は、さながら生 よう」など、あれこれと見舞ってよこしたので、道中の苦を変えたような心地がするけれども、定まった寿命がある せんだっ しさをもしばらくいやすうちに、善光寺詣での先達に頼んものだから、六月の頃からは快方に向ったけれども、やは だ人が、四月の末頃から重い病を患って、前後不覚なほど り物詣でを思い立つほどの気持にはなれないで、あちこち 110 た
まことや、十五日は、もし僧などに賜びたき御事やとて、扇を参らせし包みセ「御代」に「三夜」を掛ける。 ^ 久我前内大臣の歌。 九布施として遊義門院が与える こともあるかと思って。 一 0 那智の夢想で得た扇。 思ひきや君が三年の秋の露まだひぬ袖にかけむものとは = 「君が三年ーは三回忌。 ふかくさみかど のち一三 深草の御門は御隠れの後、かこつべき御事どもも跡絶え果三後深草院。以下は本書の跋文 〔三六〕跋 とも見られる部分。 てたる心地してはべりしに、去年の三月八日、人丸の御影一三私が愚痴を言うべきこと。 嘉元三年 ( 一三 0 五 ) 。 供を勤めたりしに、今年の同じ月日、御幸に参り会ひたるも不思議に、見しむ一五↓九〇ハー注七。 一六那智で夢に見た院の御面影。 おもかげ しゆくぐわん ばたまの御面影もうつつに思ひ合はせられて、さても宿願の行く末いかがなり「むばたまの」は「夢」にかかる枕詞 だが、ここでは夢そのものを意味 としつき しん する。 ゆかむとおばっかなく、年月の心の信もさすが空しからずやと思ひつづけて、 宅歌の家としての久我家の名誉 しゅぎゃう さいぎゃう ひとり 身の有様を一人思ひ居たるも飽かずおばえはべるうへ、修行の心ざしも、西行再興の願いか。 一 ^ わが身の有様。 むな が修行のしき、うらやましくおばえてこそ思ひ立ちしかば、その思ひを空しく一九自分ひとりで思っているのも 物足りなく思われるので、「とは のちかたみ 五なさじばかりに、かやうのいたづらごとをつづけ置きはべるこそ。後の形見とずがたり」をするというのである。 ニ 0 『西行物語』のごときものをさ すか。↓田六六ハー注九。 まではおばえはべらぬ 巻 ニ一底本の親本にあった注記。 紙に ぐ 一九 みとせ 一とし 0 本に云はく かたな ここよりまた、刀して切られて候。おばっかなう、 た そで あふぎ ひとまるみえい あと 一六
びんごのくに あられ 雪・霰しげくて、船も行きやらず。胆をのみつぶすもあぢきなくて、備後国と一あるいは「備後国和知といふ 所とあるべきか とど いふ所を尋ぬるに、ここに留まりたる岸よりほど近く聞けば、下りぬ。船の内 た にトう・はう がなりし女房、書き付けて賜びたりし所を尋ぬるに、はど近く尋ね会ひたり。 あるじ ふ 何となくうれしくて、二、三日経るほどに、主が有様を見れば、日ごとに ぐ をとこをんな 男・女を四、五人具し持て来て、打ちさいなむ有様、目も当てられず。「こは ししも いかに」と思ふほどに、鷹狩とかやとて、鳥ども多く殺し集む。狩とて獣持て ニ悪い所業をたくさん重ねて犯 かまくら ひろさはよ、うにふ おほかたあくごふじんぢゅうぶし 来るめり。大方、悪業深重なる武士、鎌倉にある親しき者とて、広沢の与三入している武士。『宇治拾遺物語』第 五 四 四十四話に「汝、罪業深重なりと むらこほりいとな きめ くまの だう いへども」と語られる多田満仲の 道といふ者、熊野参りのついでに下るとて、家の中騒ぎ、村郡の営みなり。絹 郎等に通うものがある。「武士」は しゃうじ 障子を張りて、絵を描きたがりし時に、何と思ひ分くこともなく、「絵の具だ底本「ふし」。誤写と見て、「悪業 深重なるらし」「・ : なるべし」など とも と読む説もある。 にあらば、描きなまし」と申したりしかば、「鞆といふ所にあり」とて、取り 三広沢 ( 藤原 ) 行実。左衛門尉実 ちからな 義の男。先祖に波多野次郎義通が に走らかす。ょに悔しけれども、カ無し。持て来たれば、描きぬ。 四熊野三山 ( 本宮・新宮・那智 ) の 喜びて、「今はこれに落ち留まりたまへ」など言ふもをかしく聞くほどに、 参詣 ふすま 五絹張りの襖。 この入道とかや来たり。大方、「何とがな」ともてなすに、障子の絵を見て、 六 ↓六三ハー注一三。 ふで ゐなか こつけい 七滑稽だと思って聞くうちに。 。、かなる人の描きたるそ」と言ふに、 「田舎にあるべしともおばえぬ筆なり も ~ かがり・ とど きも 。も あっ
つぎうた その者たちが二十人ばかり走っていた。その後、大名たち 門という者を使いとして、たびたびわたしを呼んで、続歌 が思い思いの直垂に、それぞれ群をなして、五、六町も続などをしようと、懇切に申したので、出かけたところ、思 おみなえしうきおりもの いたという感じで通り過ぎた後、将軍は女郎花の浮織物の ったよりも情緒を解するようなので、しばしば寄り集って、 しため み一し 御下衣であろうか、それをお召しになって、御輿の御簾は連歌や歌などを詠んで遊んでおりましたが、そのうち十二 とくさいろかり 開けられてあった。その後ろに飯沼新左衛門は木賊色の狩月になって、川越入道と申す者の後家の尼が、「武蔵国の 衣で供奉していた。ものものしい有様だった。 日ロという所に下向します。年が改ったら、そこから善光 寺 ) だとき さだうじ 御所には、相模守貞時・足利貞氏をはじめ、皆しかるべ寺へお参りしましよう」と一言うのも、よいついでとうれし かりぎめ き人々は狩衣姿である。将軍のお乗りになるお馬を引いて く思われて、そこに出かけると、雪が降り積って、分けて 来るなどの儀式は立派に見える。三日目は、山内という相 行く先の道も見えないほどなのに、鎌倉を発ってから二日 目に胸いた 模守殿の山荘へ将軍がいらっしやるということで、すばら うわさ いるまがわ しいことと噂しているのを見聞くにつけ、宮中の昔のこと このように隔っている有様で、前に。月とかいうの いわぶちしゆく も思い出されて、感慨無量である。 が流れている、向こう側には岩淵の宿といって、遊女たち ようやく年の暮近くなったので、今 の住んでいる場所がある。山というものはこの土地では見 ぜんこうじ かやしたお ニ巴冬の入間」 年は善光寺へお参りする心づもりも えず、どこまでもはるばると、武蔵野の萱の下折れが、す 実現できずに終ってしまったと残念なのに、小町殿が、 つかり霜枯れて続いている。その中を分けて行く住いを思 四 ここから残りは刀で切られてしまっているので、 いやると、それは都から遠く隔った住いで、そういう所で はっきりしない。どのようなことで切られたの越年することになるとは、悲しさも哀れさも重なった年の 巻 かと知りたく思われる。 暮である。 つくづく昔のことを思い返すと、わ 心外に思われて過ぎて行くが、飯沼新左衛門は、歌をも詠 すきもの 〔一五〕消えかえる身 み、数寄者という評判があったせいだろう、若林二郎左衛 たしは二歳の年に母には死別したか ぎめぐぶ
147 巻五 十六日の昼頃だったであろうか、 〔一五〕西園寺実兼の計い昼は一日中このことを思って暮し、 〔一六〕後深草院崩御 で院の臨終を拝す夜は夜通し嘆き明かすうちに、十四 「もはやお隠れになられた」と言う。 日の夜、また北山へ思い立って参りますと、この夜は入道覚悟していた心ではあるが、もはや崩御されたとすっかり 殿が出てお会いくださった。昔のことをなにくれとおっし おうかがいした時の気持は、愚痴をこばしようもなく、悲 やって、「ご病気の有様は、ひどく頼みないご様子でいら しさも哀れさも晴しようもなくて、御所へ参ると、一方で っしやる」などとお話になるのを聞くと、どうしていい加は、御修法の壇を壊して出る僧もいる。あちこちに人は行 減に思われよう。「もう一度、何とかしてお目にかかりた き来するけれども、しめやかにとくに物音もなく、南殿の とうろう い」とお願い申そうかと思っては参ったけれども、どう申灯籠も消されてしまっている。 とう・ぐう したらよいかわからないでいると、わたしが言ったという 春宮の行啓は、まだ明るい時分にであろうか、二条殿へ そで ことを語って、御所へ参れと言われるにつけても、袖の涙おいでになったので、しだいに人の気配もなくなってゆく とりべの さんまいどころ しょや ろくはらたんだい も人目に怪しまれるので、立ち帰ると、鳥辺野の三昧所を が、初夜過ぎる時分に、六波羅探題がご弔問に参上した。 うちの とみのこうじおもて たいまっ 弔う人、内野に場所もないほど行き違うさまも、「いっか 北方の探題は富小路面に、人の家の軒に松明をともさせて、 しようじ かが . りび一 わが身も ( いっかわが身もそのように野辺送りされるのであろ , っ並んでいる。南方の探題は京極面の篝火の前に、床子に腰 か ) 」と哀れに思われる。 を掛けて、手勢の者が二列に並んでいる有様などは、やは あだし野の草葉の露の跡とふと行き交ふ人もあはれい り物々しい感じでした。 つまで 夜もだんだん更けてゆくけれども、帰ろうという気にも ( あだし野の草葉の露と消えた亡き跡を弔おうと行き来する ならないので、がらんとした庭にたった一人いて、昔のこ 人も、ああ、いつまで生き長らえているのであろうか ) とを思い続けると、その時々の御所様の御面影がたった今 十五日の夜、一一条京極より参って、入道殿をお尋ね申し のことのような気がして、何と言いあらわしつくすべき言 あげて、まるで夢のように御所様を拝見する。 葉もなく、悲しくて、月を見ると、さやかに澄み昇って見 くき一ば