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検索対象: 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)
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1. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

中で ) で、しんみりお見えになったのも、無性にもの悲しく思わ ゅうぎもんいん れて、帰る気にもなれませんので、御所近いあたりになお そうそう、十五日には、もしかして遊義門院が僧侶など も休んでいると、久我前内大臣は同じ縁者であるのも忘れ にご下賜なさりたいこともおありであろうかと存じて、あ かたい気がして、時々音信を通わしておりましたが、文をの那智で霊夢のうちに感得した扇を差し上げたその包み紙 ず遣わしたついでに、あちらから、 に、こんな歌をしたためた。 いくよふしみありあけ みとせ そで と 都だに秋のけしきは知らるるを幾夜伏見の有明の月 思ひきや君が三年の秋の露まだひぬ袖にかけむものと ( 都でさえ、もの悲しい秋の様子は知られるのを、あなたは 幾夜その伏見の里に身を臥して有明の月を御覧になることで ( 思ってもみたことでございましようか。わが君の三回忌の ーしょ , つか ) 秋をお迎えして、露をまだ涙の乾かないわが袖にかけること 「問ふにつらさ ( 尋ねられていよいよっらさがつのる ) 」とい になろうとは ) う通り、哀れも堪えがたく思われて、 後深草院崩御の後は、わたしが、愚 みよふしみやま 跋 秋を経て過ぎにし御代も伏見山またあはれそふ有明の 痴をこばしたくなるようなこともす 空 つかりなくなってしまった心地がしておりまして、去年の ひとまるみえいぐ ( 三年の秋が経って、故院の御代も過ぎ去った昔のこととな 三月八日、人丸の御影供を勤行したが、今年の同じ月日、 いわしみず ってしまいましたが、その伏見山に、わたしは三夜臥しまし遊義門院の石清水御幸に参り合せたのも不思議で、那智で うつつ た。さらにまた、哀れを添える有明の空でございます ) 夢に見た御面影も現のことと思い合されて、ところで宿願 また立ち返って、 の結果はどのようになってゆくのであろうかと気がかりで、 しの さぞなげに昔を今と偲ぶらむ伏見の里の秋のあはれに それでも長い年月にわたる信心からいっても、空しいこと ( 本当に、さそかしあなたは、昔を今のことのように偲んで はあるまいと思い続けられて、この身の有様を一人で思っ おられることでしよう。伏見の里の秋の哀れなたたずまいの ているのも飽き足らない気がしますうえに、修行の志も、 162 へ 〔三六〕

2. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

とはずがたり 146 夢ならでいかでか知らむかくばかり我のみ袖にかくるす」と取次を乞うと、墨染の袂を嫌ってであろうか、すぐ 申し入れる人もいない。あまりのことに、文を書いて持っ 涙を ていたのを、「お目にかけていただきたい」と言っても、 ( 夢に御覧になるのでなくて、どうしてご存じになろうか このように、わたしだけが涙を袖にかけて、御所様の御病をすぐには取り上げる人もない しゅんおう 悲しんでいることを ) 夜が更けた時分に、春王という侍が一人出て来て、文を ひおこり 〔一巴八幡参籠、西園寺「御日瘧におなりになった。発作は取り上げた。「ひどく年が経ったせいであろうか、すぐに あさって を訪れる は思い出せません。明後日ごろ、必ず立ち寄るように」と たいへんひどい」と申し、「お亡く おっしやる。何となくうれしくて、十日の夜また立ち寄っ なりになりそうだ」など申すのを聞くと、想像するすべも たところ、「法皇の御病悩が、すでにご臨終近くいらっし なく、せめてもう一度この世での御面影を拝見したいのに、 やるということで、京へお出になられた」と言うので、今 しないで終ってしまうことの悲しさなどを思うと、あまり たけうち いわしみず にも悲しくて、七月一日から石清水八幡に参籠して、武内さらながら目の前が真っ暗になる心地がして、右近の馬場 やしろ きたの ひらの を過ぎて行く時にも、北野・平野のお社を伏し拝んで、 社のお千度詣でをして、この度のご病気がお命に別条のな 「私の命に替えて、御所様のお命をお助けくださいませー いことをお祈り申しあげると、五日の夢に、日食といって、 とお祈り申しました。この願いがもし成就して、わたしが と一一 = ロ , つ。 外へ出てはならない、 露と消えたならば、御所様のお命ゆえにそうなったともご 原本のまま、ここから紙が切られております。 はっきりわかりません。紙の切れている所から存じなされないであろうなど、我ながら哀れに思い続けら れて、 写す。 しらっゅ さきだ 君ゅゑに我先立たばおのづから夢には見えよ跡の白露 また御病のご様子もうけたまわることがあろうかなどと さいおんじ ( わが君をお救いするためにわたしが先立ったならば、おの 思い続けて、西園寺へ出向いて、「昔、御所にお仕えして ずとわが君の夢にそれとは見えよ、死んだ跡の白露よ ) いた者です。入道殿にちょっとお目にかかりとうございま ( 原文七七ハー ) そで たもと

3. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

′ ) しょ びんぎ おほかた ふしみ 伏見の御所に御渡りのついで、大方も御心静かにて、人知るべき便宜ならぬ一事改った様子だという気がし て。 おもそ こころわろ よしをたびたび言はるれば、思ひ初めまゐらせし心悪さは、げにとや思ひけむ、ニ九体の阿弥陀仏を安置した堂。 三「世を憂しを掛ける。 あんない 四「思ほえず袖にみなとのさわ 忍びつつ下の御所の御あたり近く参りぬ。しるべせし人出で来て案内するも、 《、か -. な・もろこし . 船のよりしばかり・ くたいだう しゆっぎよ に」 ( 伊勢物語・一一十六段 ) を引く。 ことさらびたる心地してをかしけれども、出御待ちまゐらするほど、九体堂の 五「有明の月も明石の浦風に波 そでみなと うぢがは かうらん ばかりこそよると見えしか」 ( 金 高欄に出でて見渡せば、世を宇治川の川波も袖の湊に寄る心地して、「月ばか 葉・秋平忠盛 ) を引く。「波」を しょや ふること りこそよると見えしか」と言ひけむ古言まで思ひつづくるに、初夜過ぐるほど「月」と誤った。 六「初夜」は現在の午後八時頃。 セわたしの目に映っても、涙に に出でさせおはしましたり。 曇るような気がして。「難波潟か おもかげ 隈なき月の影に、見しにもあらぬ御面影は、映るも曇る心地して、いまだ一一すまぬ波もかすみけりうつるも曇 る朧月夜に」 ( 新古今・春上源具 ひぎ 親 ) などをも念頭に置くか。 葉にて明け暮れ御膝のもとにありし昔より、今はと思ひ果てし世のことまで、 ^ 幼くて。 ふること 数々うけたまはり出づるも、わが古事ながら、などかあはれも深からざらむ。 うれ 「憂き世の中に住まむ限りは、さすがに憂ふることのみこそあるらむに、など ふ やかくとも言はで月日を過ぐす」などうけたまはるにも、「かくて世に経る恨 みのほかは、何事か思ひはべらむ。その嘆き、この思ひは、誰に憂へてか慰む九即成就院。↓田一一九注 一 0 「うち添へての「うち」は「鐘」 あら ことは べき」と思へども、申し表はすべき言の葉ならねば、つくづくとうけたまはりの縁語。 ・は くま わた うつ ふた

4. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

はんにやきよう いっとなく乾く間もなき袂かな涙も今日を果てとこそ 『般若経』の残り一一十巻を今年書き終ろうとの宿願を、長 くまの 聞け 年熊野で果そうと思っておりましたが、ひどく水が凍りつ ( いっということなく、乾く間もないわたしの袂です。人々 く以前にと思い立って、九月十日頃に熊野へ出立しました の涙も御一周忌の今日を果てとすると聞いておりますが ) が、法皇様の御所のご様子はまだ同じようにご危篤とおう じみよういん 力がいするにつけ、ついにはどのようなことになられたと け持明院の御所 ( 伏見院 ) ・新院 ( 後伏見院 ) が御聴聞所に とおいでである。そのお姿が御簾に透けてお見えになったが、 おうかがいするのだろうかなどとはお思い申しあげたけれ にびいろ のうし 持明院様は鈍色の御直衣がとくに黒くお見えになったのも、 ども、去年の御所様のお隠れになった時の悲しみほどには 今日限りであろうかと悲しく思われた。また後宇多院の御お嘆き申しあげられなかったのは、情けない愛別離苦とい 幸がおありになって、同じ御聴聞所へお入りでいらっしゃ うものであろうか よいあかっきこり るお有様を拝見するにつけても、御所様の亡き御跡までも いつものように、宵暁の垢離の水を 三九〕那智での夢想ぜんほうべん お子様方が久しくご繁栄されるご様子はご立派な御事だな 前方便になぞらえて、那智の御山で と思われる。 『般若経』を書写する。九月二十日余りのことなので、峰 あらし この頃からであったか、また亀山法の嵐もややはげしくなり、滝の音も涙と競い合う心地がし うわさ 三 ^ 〕亀山院病む 皇様がご病気という噂があった。そ て、このうえなく哀れなので、 そで う皇室関係のご不幸が続くはすもない。御悩みはいつもの 物思ふ袖の涙をいくしほとせめてはよそに人の問へか ーし ことだから、これがご最期とお思いすべきでもないのに、 くれない とてもお助かりなさりそうもないご様子ですということで、 ( 物思う袖の涙の紅を、幾入染めたのでそのように深いのか さがどの すでに嵯峨殿に御幸されたという噂である。去年・今年と と、せめてよそごととしてでも、人は尋ねてください ) 引き続く皇室のご不幸は、どうしたことであろうかと、及 形見の残りをありったけ売り払ったお金で経供養を営む ごんげん ばぬ御事ながら、お気の毒に思われる。 志を、み熊野の権現様も納受なさったのであろうか、写経 156 たもと いくしお

5. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

ゅ ゅふづくよ 心はすすめどもはかも行かで、弥生の初めになりぬ。タ月夜華やかにさし出で一後深草院の御面影。 ニ「空になる」から「鳴海潟」へと ここち て、都の空も一眺めに思ひ出でられて、今さらなる御面も立ち添ふ心地する続ける。「杉村」には「過ぎ」を掛け るか。鳴海潟は尾張国の歌枕 みかき けふさか みがほ た にほこずゑ 御垣の内の桜は今日盛りと見せ顔なるも、誰がため匂ふ梢なるらむとおば三「かけよ」「引き」はともに「御 注連縄」の縁語。 しえて、 四駿河国の歌枕。平安時代に設 おきっ 置された。現、静岡県清水市興津 なるみがた すぎむら 清見寺がその跡であるという。 春の色も弥生の空に鳴海潟今いくほどか花も杉村 五「遊子猶行於残月凾谷鶏鳴 やしろまへ ふだ かーれ - 、 ( 遊子ナホ残月ニ行ク凾谷ニ鶏 社の前なる杉の木に札にて打たせはべりき。 鳴ク ) 」 ( 和漢朗詠集・雑・暁 ) を踏ま こも 思ふ心ありしかば、これに七日籠りて、また立ち出ではべりしかば、鳴海のえるか。 六「昔より思ふ心は有磯海の浜 しほひがた ゅ やしろかへ かすみま あけたま 潮干潟をはるばる行きつつぞ社を顧りみれば、霞の間よりほの見えたる朱の玉の真砂の数も知られず」 ( 続古今・ 恋一一閑院大君 ) を引くか がき あしたかやま セ駿河国の歌枕。愛鷹山南麓の 垣神さびて、昔を思ふ涙は忍びがたくて、 低湿地。現、沼津市原、富士市吉 たが 原。「いっとなき思ひは富士の煙 神はなほあはれをかけよ御注連縄引き違へたる憂き身なりとも にて打臥す床や浮島が原」 ( 山家 きよみせき五 清見が関を月に越えゆくにも、思ふことのみ多かる心の内、集・下 ) 。 〔四〕富士の裾・宇津の ^ 『伊勢物語』九段の「富士の山 しろたへ 山・三島の社 来し方行く先辿られて、あはれに悲し。みな白妙に見え渡を見れば、五月のつごもりに、雪 いと白うふれり。時知らぬ山は富 すそうきしまはら かのこ りたる浜の真砂の数よりも、思ふことのみ限りなきに、富士の裾、浮島が原に士の嶺いっとてか鹿子まだらに雪 のふるらむ」という叙述を受ける。 たかね 行きつつ、高嶺にはなほ雪深く見ゆれば、五月のころだにも鹿の子まだらには九『古今集』仮名序に「今は富士 六 まさ′ ) ひとつなが かた みしめなはひ やよひ お も げ か

6. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

になられる」などと言っているうちに、遊義門院の御幸が ったならば、どのようだったかなどと思われて、 まずお急ぎになるということで、北面が門院の御車を寄せ さてもかく数ならぬ身は長らへて今はと見つる夢そ悲 しき ると拝見していると、また、まだしばらくお出にならない ( それにしても、このようにものの数でもないこの身は長ら ということで、また車を退けて帰り入らせられたかと思わ えて、東二条院様のご葬送を、夢かと思いながら拝すること れることが二、三度にもなったので、お母君の最期のお姿 は悲しい ) を御覧になるのもまたいつのことかと、遊義門院がお名残 惜しくお思いでいらっしやることも、哀れに悲しく思われ ご葬送は伏見殿の御所ということで、 ニ三〕後深草院発病 て、大勢見物する人たちもいるので、それに紛れて御車近 法皇様も遊義門院様もいらっしやる くに参ってうかがうと、すでに御車に召されたと思ううち とうかがったので、お嘆きのほどもさぞかしと推量し申し に、「またお戻りになられたのだろうか」と言っているの あげたけれども、消急を伝えた風の便りも跡絶えてしまっ が聞える。お召しになった後も、普通ではないお心まどい た後は、どのようにして申し出るべき方法もないので、空 たもと うわさ のご様子は、他人の袂も涙でいつばいなくらいにお噂した しく心だけで嘆いて明かし暮しておりますうちに、同じ年 ので、心ある者も心ない者も、袂を絞らぬ人はいない。宮 の六月頃であろうか、法皇が御不予という噂が聞えてきた。 お - 一り 様は大勢いらっしやったけれども、皆、先立ってお亡くな御瘧気味だなど申すので、人知れすもうお落ちなさった とい , っことを , つけたまわるだろ , つかと思っている , っちに、 りになられて、遊義門院がただお一人いらっしやったのだ えんまてんく 五 から、お互いのご愛情の深さはさこそとお思いやられる通重態におなりになったということで、閻魔天供とかいう祈 とう り、お悲しみがひどくお見えであったことこそ、数ならぬ疇が行われるなどとうけたまわったので、事の有様も知り 巻 身であるこのわたしが父を失った時の思いにも、つい比べ たくて、参ってうかがったけれども、誰にお尋ねしようも 5 られるような心地がしました。 ないので、空しく帰る時、心の内にこのように思っており ご葬送の御幸を拝見するにつけても、昔のままの身であ

7. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

作者六五あはれいつまで こそ思ひ定めね こよひ 隈もなき月さへつらき今宵かな曇らま、 物思ふ身の憂きことを思ひ出でば苔の下にも , つれしからきし 作者六八 あはれとは見よ のち 露消えし後のみゆきの悲しさに昔にかへるわ 手に馴れし昔の影は残らねど形見と見れば濡 たもと 作者六九 が袂かな るる袖かな 墨染の袖は染むべき色ぞなき思ひは一つ思ひ 月出でむ暁までの形見ぞとなど同じくは契ら なれども ざりけむ 作者六九 あきぎり ふしぶし 春着てし霞の袖に秋霧のたち重ぬらむ色そ悲 世を厭ふならひながらも竹簀垣憂き節々は冬 しき 作者七一一 そ悲しき ねお さく・りばな かすみ 悲しさのたぐひとそ聞く虫の音も老いの寝覚 霞こそ立ちへだっとも桜花風のってには思ひ ながっき めの長月のころ おこせよ 作者七三 くもぢ いづかたの雲路ぞとだに尋ねゆくなどまばろ 花のみか忘るる間なき言の葉を心は行きて語 らざりけり しのなき世なるらむ 広沢の入道七三 ふたおや 二親の形見と見つる玉くしげ今日別れゆくこ 覧さてもかく数ならぬ身は長らへて今はと見つ 作者七六とぞ悲しき 歌る夢ぞ悲しき いかにして死出の山路を尋ね見むもし亡き魂 中夢ならでいかでか知らむかくばかり我のみ袖 の影やとまると 作者七七 録にかくる涙を のはら われ 付 峰の鹿野原の虫の声までも同じ涙の友とこそ 君ゅゑに我先立たばおのづから夢には見えよ 跡の白露 作者七八聞け くさば つれなくぞめぐりあひぬる別れつつ十づっ三 あだし野の草葉の露の跡とふと行き交ふ人も たかすがき かさ なたま 作者七九 作者八 0 作者公一 作者八三 作者八三 作者会 作者会 作者八七 作者八七 作者公

8. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

とはずがたり 132 なるみ むな 思われたものの、お目にかかることもなく空しく月日を重 かねてよりよそに鳴海の契りなれど返る波には濡るる そで ねて、翌年の九月の頃にもなった。 袖かな ふしみ ( 前々から、よそになるはずのご縁ではありますがーお別れ 伏見の御所にいらっしやった機会に、総じてお心静かで、 して鳴海の浦に参らねばならない定めなのですがー立ち返る他人が知るついではないであろうという由のことをたびた 波に濡れるーいざ帰るとなるとお名残惜しさの涙に濡れるー び言われるので、思い初め申しあげたきまりわるさは、そ しも 袖でございます ) れもそうだと思ったのだろうか、人目を忍びつつ、下の御 あった 熱田の宮では造営工事が盛んに行わ所の付近に参った。御所様のご意向を知らせた人が出て来 〔三 0 熱田宮経供養 れていて、繁雑だったけれども、宿て案内をするのも、事改った感じがしておかしかったが、 こうらん しゆっぎよ くたいどう 願を果すのがそう延び延びになるのも本意でないので、ま出御をお待ち申しあげる間、九体堂の高欄に出て見渡すと、 け′一んきよう うじがわ みなと た修法の場所を準備などして、『華厳経』の残り三十巻を世を憂しという宇治川の川波も、わたしの袖の涙の湊に寄 どうし ここで書写申しあげて、供養いたしましたが、導師なども る心地がして、「月ばかりこそよると見えしか ( 月ー波ーば たいしたことのない田舎法師なので、何の区別がわかりそ かりが寄ると見えたよ ) 」と歌ったとかいう古歌まで思い続 じゅうらせつ しょや うでもなかったけれども、十羅刹の法楽であるので、さま けていると、御所様は初夜過ぎる時分においでになられた。 隈なく照らし出す月光に、以前拝見したのとはうって変 ざまに供養して、また上京いたしました。 おとこやま おもかげ さて、思いもかけなかった男山で、 られた御面影は、わたしの目に映るのも涙に曇るような心 ひざ 〔三九〕伏見の御所に参る 御所様と偶然の機会にめぐり逢った 地がして、まだ幼くて明け暮れお膝の下にいた昔から、も あの感激は、この世のほかまでもお忘れ申しあげることは う二人の間はおしまいだと思いあきらめた時のことまで、 到底あるまいと思われたが、御所様は縁ある人を通じて、 数々の思い出話をおうかがいするにつけても、自分自身の たびたびわたしの古い住所をもお尋ねくださったけれども、昔のことながら、どうして哀れも深くないことがあろうか。 うれ 何と思い立つべきでもないから、しみじみとかたじけなく「憂き世の中に住んでいる限りは、そうは言っても愁うる

9. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

とはずがたり 80 しまここち おもかげ 一十六夜の月を見た悲しみの独 昔を思ひつづくれば、折々の御面影、ただ今の心地して、何と申し尽くすべき 白の歌。 すのば ャ ) とは ニ仏教説話では、「菩薩・天人 言の葉もなく、悲しくて、月を見れば、さやかに澄み昇りて見えしかば、 ・天竜八部・若干の衆会・異類の こよひ 輩、皆各嘆かずと云ふ事なし。 隈もなき月さへつらき今宵かな曇らばいかにうれしからまし 其の時に、大地・諸山・大海・江 とりけだもの うれ しやくそんにふめつ じっげつ 釈尊入滅の昔は、日月も光を失ひ、心なき鳥・獣までも愁へたる色に沈み河、皆悉く震動す」 ( 今昔・巻三・仏 入涅槃給後入棺語第三十一 ) など われ けるにと、げにすずろに月に向かふ眺めさへつらくおばえしこそ、我ながらせと語られる。 三痛切なこと。 ・隈もなき」の詠は、保元の乱に めてのことと思ひ知られはべりしか。 敗れた崇徳院が出家して仁和寺に いると聞いて、駆けつけた西行が 夜も明けぬれば、立ち帰りても、なほのどまるべき心地も 詠んだ、「かかる世に影も変らす 〔を葬送の車を追う さうそうぶぎゃう へいちゅうなごん六 せねば、平中納言のゆかりある人、御葬送奉行と聞きしに、澄む月を見るわが身さへ恨めしき かな」 ( 山家集・下 ) の歌を連想させ くわんとほ に . よノばう ゆかりある女房を知りたることはべりしを尋ねゆきて、「御棺を遠なりとも今るような歌である。 四気の休まりそうな心地もしな かた 一度見せたまへ」と申ししかども、かなひがたきよし申ししかば、思ひやる方いので。 五平仲兼。兵部卿時仲の男。権 なくて、いかなる隙にても、さりぬべきことやと思ふ。試みに女一房の衣をかづ中納言従二位に至る。この年は前 権中納言で五十七歳。嘉元三年 ( 一 みかうし ) しょ 三 0 五 ) 、五十八歳で出家。没年未詳。 きて、日暮らし御所にたたずめどもかなはぬに、すでに御格子参るほどになり 六藤原 ( 日野 ) 資冬。権大納言俊 みすとほ て、御棺の入らせたまひしやらむ、御簾の透りよりやはらたたずみ寄りて、火光の男。その妻が平仲兼の女であ つつ ) 0 の光ばかり、さにやとおばえさせおはしまししも、目も昏れ、心もまどひてはセそっと。 ひま 四 きぬ ひ

10. 完訳日本の古典 第39巻 とはずがたり(二)

178 とはずがたり さて、新帝はやがて ( 仁治三年正月 ) 二十日、土御門殿にて御元服あり。 ・ : 今日冷泉万里小路の御所 へ入らせ給ひて、賢所・剣璽など渡しまゐらせて、践祚の儀あり。この御所は、四条大納一一一一口隆親卿の家 なり。閑院ふたがりぬるうへは、清涼殿造替のほど、さりぬべき所なきによりて、この家を御所とす。 御脱履 ( 譲位 ) ののちも、始中終この御所に渡らせたまふ。めでたき吉所なり。 やがて、後嵯峨天皇には西園寺実氏の女姑子 ( 大宮院 ) が女御として入内するが、姑子の生母は四条隆衡 きたやまじゅごう 女貞子 ( 北山准后 ) であった。その姑子所生の男御子が後深草・亀山の両天皇であり、後深草天皇の后公子 ( 東二条院 ) は姑子の同母妺であった。このようにして、四条家の皇室への結び付きは二重三重に深くなった ことになる。 西園寺家 では、四条家と姻戚関係で深く結び付いている西園寺家はどのような家筋であろうか。 きんすえ せいが しょだいぶ この家も藤原氏北家の出だが、公季流、また世に閑院流と呼ばれる清華家で、諸大夫の家とされる四条家 よりは遥かに家格の高い名家である。四条家の隆季などとほば同じ時代に実宗という公卿がいる。権大納一一一一口 あぜちきんみち 按察使公通の男で、土御門天皇の代に内大臣にまで至った。その嫡男が公経である。彼は父・祖父の代から つなが じみよういん 既に姻戚関係で深く繋っている藤原氏頼宗流の持明院家の女性、一条能保女全子を妻とし、実氏を儲けたが、 能保は左馬頭源義朝女を妻としていたから、公経も将軍頼朝と縁続きということになる。この関係が彼の生 うしろだて すうよう 涯に決定的な影響力を持ったのであった。公経は鎌倉幕府の後楯もあって枢要の臣の地位に近づくことがで ゅばどの じようきゅうき きたが、またそれゆえに後鳥羽院の勘気を蒙り、承久の乱直前には弓場殿に幽閉されている。『承久記』に だっし さいおんじ いんせき かんき さいおんじ