参上 - みる会図書館


検索対象: 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)
210件見つかりました。

1. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

えんめいく すれども、同じさまにわたらせおはしませば、九月の八日よりにや、延命供始一息災延命を祈るために、延命 菩薩を本尊として『金剛寿命陀羅 。いかなるべき御事尼経』、観世音菩薩を本尊として められて、七日過ぎぬるに、なほ同じさまなる御事なれよ、 『法華経』普門品、地蔵菩薩を本尊 あじゃり がにかと嘆くに、さてもこの阿闍梨に御参りあるは、この春、袖の涙の色を見せとして『延命地蔵経』を読誦、講説 する仏事。延命講 五 つかひ ニ延命供を修する阿闍梨。 したまひしかば、御使に参る折々も言ひ出だしなどしたまへども、紛らはしつつ 三三月の後白河院御八講の折。 かへりごと六 過ぎゅくに、このほどこまやかなる御文を賜はりて、返事を責めわたりたまふ。四袖に紅の涙 ( もとより比喩的 な言い方 ) を流して見せられた。 うすやうもとゆひ 五わたしを好きだということを。 いとむつかしくて、薄様の元結のそばを破りて、夢といふ文字を一つ書きて、 六返事をせよと責め続けなさる。 もレ」′」り セ髻を結ぶ緒。ここはこより。 参らするとしもなくて、うち置きて帰りぬ。 ^ この春のことは夢とお思いに また参りたるに、樒の枝を一つ投げたまふ。取りて片方に行きて見れば、葉なって、お忘れください、の意か。 九樒はモクレン科の常緑小高木。 もの 仏前に供え、また葉や樹皮を粉末 に物書かれたり。 として抹香や線香を作る。 しきみ あかっき 一 0 露 ( 涙 ) に濡れて、夢にも似た 樒摘む暁起きに袖濡れて見果てぬ夢の末ぞゆかしき そなたとの逢瀬をしたいと思うの , 一こち のち 優におもしろくおばえて、この後少し心にかかりたまふ心地して、御使に参意。作者の返夢といふ文字」を しきみ 受ける。「樒摘む山路の露に濡れ にけり暁おきの墨染の袖」 ( 新古 るもすすましくて、御物語の返事もうちのどまりて申すに、御所へ入らせたま 今・雑中小侍従 ) を念頭に置く。 うて、御対面ありて、「かくいっとなくわたらせたまふこと」など嘆き申され = 気がすすんで。 三落ち着いて。 ちゃうもんどころ 一三なでもの はらえ 一三祓の時に用いる衣服。紙の人 て、「御撫物を持たせて、御時始まらむほど、聴聞所へ人を賜はりさぶらへ」 たいめん しきみ ふみ や かたかた 四 そで まぎ つかひ

2. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

87 巻 おほくち しよらぬ御事なれば、御大口ばかりにて、「など、これほど常の御所には人影 = 女房の名。 三女房の名。 たれ もせぬぞ。ここには誰かさぶらふぞ」とて入らせおはしましたるを、東の御方、一三表に。 一四女房の名。 一五女房の名か。 かき抱きまゐらす。「あな悲しゃ。人やある、人やある」と仰せらるれども、 一六院が平素おられる部屋。 ひさしもろちか きと参る人もなし。からうじて、廂に師親の大納言が参らむとするをば、馬道宅女房の名。 天板敷で廊下のように殿舎をつ しさい っゑ にさぶらふ・真清水、「子細さぶらふ。通しまゐらすまじ」とて杖を持ちたるなぐ道。 一九女房の名。『弁内侍日記』宝治 のち を見て、逃げなどするほどに、思ふさまに打ちまゐらせぬ。「これより後、長三年 ( 一 = 四九 ) 正月十九日の粥杖の記 事にそれらしき名が見える。 ニ四たいじゃう ニ 0 女房の名か。動国・さぶらふ」 く人して打たせじ」と、よくよく御怠状せさせたまひぬ。 と見る説もある。 さて、しおほせたりと思ひて居たるほどに、タ供御参る折、三とっさに。急に。 〔三〕院と諸卿、ニ条の 一三廂の間。母屋の四面にある細 くぎゃう 罪科を論ずる 公卿たち、常の御所にさぶらふに仰せられ出だして、「わ長い部屋。 ニ三源 ( 北畠 ) 師親。この年三十二 やく が御身、三十三にならせおはします。御厄に負けたるとおばゆる。かかる目に歳。 一西お詫状をお入れになった。こ ばんじようあるじ こでは、あるいは口頭で謝ったか。 こそ遭ひたりつれ。十善の床を踏んで、万乗の主となる身に杖を当てられし、 一宝以下、後深草院の言葉。所々 ためし に自己敬語を用いている。 いまだ昔もその例なくやあらむ。などかまた、おのおの見継がざりつるぞ。一 ニ六厄年とされる。 めんめん 同せられけるにや」と、面々に恨み仰せらるるほどに、おのおのとかく陳じ申毛加勢 ( 応援 ) しなかったのだ。 ニ ^ 同心 ( 共謀 ) されたのか。 さるるほどに、「さても、君を打ちまゐらするほどのことは、女一房なりと申すニ九弁解し申しあげるうちに。 あ ニ六 じふぜんゆか ニセ ゅふくご ニ九 ちん めんだう

3. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

ひら か」とおっしやったけれども、わたしがとくに物も申さず平親王から八代続いた古い家の伝統とは言いながら、まだ なかより はべ 年も若いのに、珍しく感心な、い遣いだ。仲頼と申してこの 2 に侍っていると、「その身一代だけでなく、子孫までもと、 いわしみず 深く石清水八幡宮にお誓い申したということだ」と御所様御所にお仕えしているのはその人の家人だが、その人が行 既がおっしやる。「ひどくお年もお若いのに、まことに残念方不明だということで、山々寺々を探し歩いていると聞い たので、結局どのようになったと聞くだろうと思うと、わ ずなご決心をなされましたね。もともとあの四条家の人々は、 つねとう と並々ならず家を大切になさいます。経任が大納言の官を所たしまでも落ち着かない』など、お話になっておられたと うかがいました」などと申しあげられた。 望し申し置いたというような事情などがございますのでし かねただ 「ところで、息子の中納言中将兼忠 よう。村上天皇から久しく続いて廃れないのは、ただ久我 いまよう めのとなかつな 〔三三〕今様伝授 は、今様の才がございます。同じこ 家ばかりでございます。あの傅の仲綱は久我重代の家人で おかのや ふびん とならば今様の秘伝をお許しください」と申される。「も ございますのを、岡屋摂政殿下が不憫に思われる訳がござ けんぎん いまして、『兼参せよ』とおっしやったところ、『久我の家ちろんだ。京の御所は面倒だ。伏見で伝授しよう」と御所 様はお約束なさる。 人です。どうしたらよろしいでしよう』と申しましたのに 「明後日ごろ」ということで、急にお出かけになった。披 対して、『久我大臣家は諸家には準ずべきではないから、 兼参してもさしつかえあるまい』と、自身の文でおっしゃ露しないことなので、人は大勢も参らない。お食事は簡単 たかちか なお食事を召しあがる。台所の別当一人などをお連れにな ったなどと申し伝えております。隆親卿が、『わが娘は二 ったのであろうか。あちこちをさんざん歩いて、姿もひど 条の叔母だから、上座にこそ着くべきだ』と申しましたと さきかんばく くくたくたになった衣装を着ていた時だったが、「参れ」 いうのも、おかしなことです。前の関白が新院へ参られて という仰せがあったので、兵部卿にも例の事件以後はとく 何候していた際に、やや久しく世間話なさったついでに、 このような不 に世話を頼むこともできないので、どうしようもないと思 『女性の才能では、歌ほどよいことはない。 とも おみなえしひとえがさね 愉快だったことの中でも、この人の歌が耳にとまった。具案していたところ、女郎花の単衣襲に、袖に秋の野の草花 ( 原文一三四ハー ) ・一カ そで

4. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

くぎゃう 一廂の間。寝殿造りの母屋の四 な悲し」とて逃げ入る。廂にさぶらふ公卿たち、「何か見さわぐ。人魂なり」 面にある細長い一間。天井を張ら と おほゃなぎ と言ふ。「大柳の下に、布海苔といふものを溶きて、うち散らしたるやうなるない。 ニ身体から遊離した魂を招き返 す祭。 ものあり」などののしる。 三道教で、人の寿命を司る神。 うら こよひ しやがて御占あり、法皇の御方の御魂のよし、奏し申す。今宵よりやがて、招四脚気か。「御足の気煩はしく わたらせたまふと聞きしほどに」 まつりたいぎんぶく ( 五代帝王物語 ) 。 魂の御祭、泰山府君など祭らる。 0 めでたい祝宴が突如暗転して、 きう 法皇の病死の前兆である怪異の描 かくて、長月のころにや、法皇御悩みと言ふ。腫るる御事にて、御灸いしい 写へと続くあたりは巧みである。 しとひしめきけれども、さしたる御験もなく、日々に重る御気色のみありとて、東二条院御産を史実より一年後に ずらせたのは、あるいはこのよう な効果を狙っての虚構か。 年も暮れぬ。 五以下、文永九年 ( 一 = 七一 l) の記事。 あらたまの年ともにも、なほ御わづらはしければ、何事も作者は十五歳。「あらたまの」は年 〔 = 〕嵯峨殿の栄えなき にかかる枕詞。 は 正月 栄えなき御事なり。正月の末になりぬれば、「かなふまじ六依然として法皇は患っておら れたので。 さが みこし き御さまなり」とて、嵯峨御幸なる。御輿にて入らせたまふ。新院やがて御幸、セ新年は行事も多く、栄えある 気持になるのにという、い しり しり りゃうにようゐん みくしげどの 〈助からないであろうご様子。 御車の後に参る。両女院御同車にて、御匣殿、御後に参りたまふ。 九嵯峨殿 ( 亀山殿 ) に御幸なさる。 せんもの もろなり みづがめ 道にて参るべき御煎じ物を、種成・師成二人して、御前にて御水瓶二つにし一 0 後深草院のこと。 一六 = 大宮院と東一一条院。大宮院は つねたふほくめんげらふのぶとも うちの たため入れて、経任、北面の下﨟信友に仰せて持たせられたるを、内野にて参藤原姑子。太政大臣実氏の一女。 ながっき ふのり ひさし かた たねなり なや しるし たま そう は四 おもみけしき ひとだま せう

5. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

巻 一月日の過ぎてゆくのが速いこ との比喩。『荘子』などに基づく ニ「早しの意。縁語「年波」 ( 年 齢 ) を導く。「老らくの月日はいと ど早瀬川返らぬ波に濡るる袖か な」 ( 新古今・雑下覚弁 ) によるか。 こまはやせがは 隙ゆく駒の早瀬川、越えて返らぬ年波のわが身に積もるを三「数ふればわが身に積もる年 四 〔こ物思わしき春 月を送り迎ふと何急ぐらむ」 ( 拾 かぞ ももちどり 数ふれば、今年は十八になりはべるにこそ。百千鳥さへづ遺・冬平兼盛 ) 、「尽きもせず同 じ憂き世を惜しむとやわが身に積 ひかげ もる年は見るらむ」 ( 続古今・雑上 る春の日影のどかなるを見るにも、何となき心の中の物思はしさ、忘るる時も 俊成卿女 ) などを念頭に置くか。 はな なければ、華やかなるもうれしからぬ心地ぞしはべる。 四「百千鳥さへづる春は物ごと にあらたまれども我ぞふりゆく」 ことし五くすり くわぎんのゐんのだいじゃうだいじん こぞごゐんのべったう 今年の御薬には、花山院太政大臣参らる。去年、後院別当とかやになりて ( 古今・春上読人しらず ) を引く。 五 ↓一一ハー注七。 ′ ) しょ とろ・ おはせしかば、何とやらむ、この御所ざまには快からぬ御事なりしかども、春六藤原 ( 花山院 ) 通雅。四十一一一歳。 セ ↓六七ハー注一三。 ぐう うら 宮に立たせおはしましぬれば、世の御恨みもをさをさ慰みたまひぬれば、また〈後深草院の皇子煕仁親王。 九台盤所に詰めている女房たち。 のち とが 後までおばしめし咎むべきにあらねば、御薬に参りたまふなるべし。ことさら、一 0 文永八年。↓一一ハー六行。 = 「新しき年ともいはずふるも にようばうそでぐち だいばんどころ 一ころ きめ 女房の袖ロもひきつくろひなどして、台盤所ざまも人々心ことに、衣の色をものはふりぬる人の涙なりけり」 ( 源 氏・葵 ) を引くか ひととせなかのゐんのだいなごん 尽くしはべるやらむ。一年、中院大納一言御薬に参りたりしことなど、改まる年 0 作者の内向的で暗い心情が述べ られている。白楽天の新楽府「上 陽白髪人」などの影響があるか。 ともいはず思ひ出でられて、古りぬる涙ぞなほ袖濡らしはべりし。 ひま ふ - 】とし こころよ としなみ三

6. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

75 巻 もお出入りしているということで。 はべるに」とて、女院御盃を斎宮へ申されて、御所に参る。御几帳を隔てて、 一四お酒を注がないお盃。前斎宮 」し - も なげし さねかめたかあき ぎしゃう 長押の下へ、実兼・隆顕召さる。御所の御盃を賜はりて、実兼にさす。「雑掌は酒をたしなまないのであろう。 一五心残りですから。 ちからな のち 一六大宮院が前斎宮にお盃を勧め なる」とて、隆顕に譲る。「思ひざしはカ無し」とて、実兼、その後隆顕。 られて。飲むことを強いたか のち 、一ーよひ 女院の御方、「故院の御事の後は珍しき御遊びなどもなかりつるに、今宵な宅後深草院にお注ぎする。 一 ^ 下長押の下へ。 - 一とひ む御心落ちて御遊びあれ」と申さる。女院の女房召して、琴弾かせられ、御所一九今日の世話役だから ( あなた ニ四 が頂戴しなさい ) 。 さいをんじ ひちりき へ御琵琶召さる。西園寺も賜ふ。兼行篳篥吹きなどして、更けゆくままにいとニ 0 二条の局があなたへと思って 注いだ盃は辞退できないでしよう。 くぎゃう かぐら ぜんしようじ さとか・ おもしろし。公卿二人して、神楽歌ひなどす。また、善勝寺、例の芹生の里数隆顕の語。 三後嵯峨院。↓一三ハー注一一。 一三後深草院は琵琶をよくした。 へなどす。 ニ三西園寺家の人々も、代々、琵 く一ん しやく いかに申せども、斎宮九献を参らぬよし申すに、御所、「御酌に参るべし」琶をよくした。 ニ四雅楽用の管楽器。 てうし 一宝「芹生の里」を歌う。「芹生の とて、御銚子を取らせおはします折、女院の御方、「御酌を御勤めさぶらはば、 里」は今様か。芹生は洛北の大原 ニ六 の西方。現、左京区大原草生町。 こゆるぎの磯ならぬ御肴のさぶらへかし」と申されしかば、 ニセ ニ六風俗歌「玉垂れ」に「玉垂れの ばいたんおきな ころも あるじ 小瓶を中に据ゑて主はもや 売炭の翁はあはれなりおのれが衣は薄けれど薪を取りて冬を待っこ 魚求きに魚取りにこゆるぎの わかめ 磯の若布刈り上げに」を引く。 そ悲しけれ 毛白楽天の新楽府「売炭翁」に基 いまやう ついた といふ今様を歌はせおはします。いとおもしろく聞こゆるに、「この御盃を、 き一かな たきぎ ニ五 せりふ をがめ ま

7. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

69 巻 のち 勢に三年まで御渡りありしが、この秋のころにや、御上りありし後は、仁和寺下なさりながら。 一九 一 ^ 仁和寺の近くに。 きぬがさ こだいなごんニ 0 に衣笠といふわたりに住みたまひしかば、故大納言、さるべきゅかりおはしま一九衣笠山付近。現、京都市北区。 ニ 0 雅忠の父久我通光室で、後に みもすそがは ししほどに、仕うまつりつつ、御裳濯川の御下りをも、ことに取り沙汰しまゐ大炊助藤原親秀の妻となった、権 中納言藤原親兼女は愷子の祖母。 らせなどせしもなっかしく、人目まれなる御住まひも、何となくあはれなるや三伊勢内宮の前を流れる五十鈴 やまとひめのみこと 川の別名。斎王倭姫命が御裳を うにおばえさせおはしまして、常に参りて、御つれづれも慰めたてまつりなど濯いだという伝承に基づく異名。 一三藤原姑子。↓二六ハー注一一。 たいめん せしほどに、十一月の十日余りにや、大宮院に御対面のために、嵯峨へ入らせ = 三嵯峨殿。 ニ四以下、大宮院の言葉。 ニ四ひとり 一宝愛想がなく。 たまふべきに、「我一人は余りにあいなくはべるべきに、御渡りあれかしーと、 ニ六院政問題。 ニ六 東二条へ申されたりしかば、御政務のこと、御立ちのひしめきのころは、女院毛立坊をめぐっての騒ぎ。 夭大宮院は亀山天皇を支持した。 の御方ざまもうち解け申さるることもなかりしを、このごろは常に申させおは = 九後深草院の言葉。 三 0 そなたは、あの前斎宮にもお 三 0 しましなどするに、「またとかく申されむも」とて入らせたまふに、「あの御方出入りなのだから。 三一わたし一人、院のお供をする。 しり かれのみつぎめ ざまも御入立ちなれば」とて、一人御車の後に参る。枯野の三衣に、紅梅の薄三 = 冬に用いる襲の色目で、表は 黄、裏は薄青。 ぎぬ のち からぎめ 絹を重ぬ。春宮に立たせたまひて後は、みな唐衣を重ねしほどに、赤色の唐衣三三襲の色目。↓一一ハー注三。 三四後深草院の皇子が立太子後は 三六 ひとり 院の女房たちは皆。 をぞ重ねてはべりし。台所も渡されず、ただ一人参りはべりき。 三五織り色。縦糸は紫、横糸は赤。 三六台盤所の女房。 みとせ いりた 三四 つか と ニ九 ニ七 のば とざた 三三 にんなじ

8. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

は君の御病の御訪ひに参り、今日とも知らぬ御身に先立ちて、また失せにける、一「東岱」は中国山東省の泰山。 この世が無常であることを「東岱 とうたい 東岱前後のならひ、始めぬことながら、いとあはれなり。十三日の夜よりは物前後のタ煙昨日もたなびき今日 も立つ」 ( 浄業和讃・無常讃 ) などと いうので、直前の「煙」の縁でこう がなど仰せらるることもいたくなかりしかば、かやうの無常も知らせおはします 言ったか。 ニ人を教化して仏道に導く人。 しまでもなし。 ここでは高徳の僧 みけしき さるほどに、十七日の朝より、御気色変はるとて、ひしめ三藤原資経の男。比叡山の僧侶。 〔三〕後嵯峨法皇崩御 四往生院は嵯峨、清涼寺の西、 ニぜんちしき けいかいそうじゃう わうじゃうゐん 二尊院の北にあった。 御善知識には経海僧正、また往生院の長老参りて、さ 五臨終の際に生ずる、境界愛 すす こんじゃう じふぜんゆか まざま御念仏も勧め申され、「今生にても十善の床を踏んで、百官にいっかれ ( 妻子・家宅等への愛着 ) ・自体愛 ( 自身の命への愛着 ) ・当生愛 ( 善 よみぢみらい じゃうばんじゃうしゃううてな い所に生れたいという愛着 ) の三 ましませば、黄泉路、未来も頼みあり。早く上品上生の台に移りましまして、 種の愛着心。千観の『十願発心記』、 きうり しやば しゅじゃう かへりて娑婆の旧里にとどめたまひし衆生も導きましませ」など、さまざまか『往生要集』に説く。以下、『豊明 絵草子』詞書に類似の表現がある。 五しゅ 六『五代帝王物語』には「卯の時」 つはこしらへ、かつは教化し申ししかども、三種の愛に心をとどめ、懺悔の言 ( 今の午前五時から七時まで ) 。 ぶん 葉に道をまどはして、つひに教化の言葉にひるがヘしたまふ御気色なくて、文セ「一天」と「万民」は対句。 六 0 薬の怪異が法皇に精神的衝撃を とし とりとき ほうギ、よ いってん 永九年二月十七日、酉の刻、御年五十三にて崩御なりぬ。一天かきくれて、万与えたとの風聞や、臨終の際の生 への執着を美化することなく記し みんうれ ころもで ているところに、作家的な冷静な 民愁へに沈み、花の衣手おしなべてみな黒みわたりぬ。 目の確かさがうかがえる。 だいり ^ 亀山殿の別院。 十八日、薬草院殿へ送りまゐらせらる。内裏よりも、頭中将御使に参る。 やまひ やくさうゐんどの とぶら 0 あした とうのちゅうじゃう ばん

9. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

ふしみどの かんぎよ しになって、伏見殿へおいでになられる。夜が更けてゆく 翌朝はまだ夜の中に、「還御」と言 〔一毛〕京に戻る 頃、鵜飼いをお召しになって、鵜舟を端舟としてお船に付 って大騒ぎするので、あのお方と起 けて、鵜を使わせられる。 き別れたが、「憂きから残る ( つらいものが残る ) 」と言いそ しり 鵜飼いが三人参ったのに、御所様はわたしの着ていた単うな様子であるのに、わたしは御所様の御車の後に同乗し えがさね ず衣襲を下賜されなどして、お戻りになって後、またお酒を たが、西園寺大納言も御車に乗る。 きよみず と召しあがってお酔いになったご様子も今宵は並一通りでな 清水の橋の上までは皆御車に続いて車を走らせていたが、 やす このえおおいどの き・よら・′一く 、更けたのでまたお寝みになっている所へ、近衛の大殿御幸は京極から北へなるのに、残りの車は西へと走らせる は参って、「多く重ねる旅寝の夜は興ざめでございます。 ので、別れる時は何となく名残惜しいように、大殿の車の ふしみ そうでなくても伏見の里は寝にくいのに」などとおっしゃ影をつい見送ってしまいましたのは、これはいっからの心 しそく , つつと , っしい・虫なども、 って、「紙燭を付けてください。 のならいなのだろうかと、わが心ながらわけがわからない るでしよう」としつこくおっしやるのもつらいのに、御所気がしました。 様が、「どうして行かないのか」とさえおっしやるのは、 本当に悲しい。 「このような老人の偏屈はお許しになってくださいますか どうかと見えることも、ご後見役になりましよう。古い例 まくらもと も多くあることです」などと、御所様の御枕元で申される。 言いようもなく、悲しいと言っても言葉に尽せるものでは 御所様はいつものようによいご機嫌で、「こちらも ひとり寝は興ざめだから。遠くないあたりで」などと申さ れたので、昨夜と同じ所に宿ったのであった。 へんくっ はしぶね ひと

10. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

よが 一毎夜かかさす。 十日ばかりかくてはべりしほどに、夜離れなく見たてまっ ニ「今よりや」の歌を送ってきた けぶり るにも、「煙の末、いかが」と、なほも、いにかかるぞ、う人「雪の曙」。 三嘆かわしい、感心しない心だ った。院に従ったのになおも初恋 がたてある心なりし。 の人が気になる自身を反省する。 四 あ しさてしも、かくてはなかなか悪しかるべきよし、大納言しきりに申して、出四父の雅忠。 五御所から退出した。 ここちれし でぬ。人に見ゆるも堪へがたく悲しければ、なほも心地の例ならぬなどもてな六家の人に見られるのも。 セ気分が悪いように見せかけて。 ^ 逢わない日数も積ったような して、わが方にのみ居たるに、「このほどにならひて、積もりぬる心地するを、 気がするが 九ふみ 九院からのお手紙。 とくこそ参らめ」など、また御文こまやかにて、 一 0 「かかる」は「懸かる」と「かく ある」の掛詞。上句は、これほど かくまでは思ひおこせじ人しれず見せばや袖にかかる涙を までもわたしがそなたのことを思 あながちに厭はしくおばえし御文も、今日は待ち見るかひある心地して、御っているとは、そなたは思ってく れないだろうの意。 かへりごと一一 = ご返事は前々から考えすぎた 返事、もくろみ過ぎしやらむ。 であろうか。「返事も黒すみ過ぎ ・よ′ ) ろも し」 ( 黒々と細やかに書きすぎただ 我ゅゑの思ひならねどさ夜衣なみだの聞けば濡るる袖かな ろうか ) と解する説もある。 ひかず いくほどの日数も隔てで、この度は常のやうにて参りたれども、何とやらむ三「さ夜衣」と「袖」は縁語。 一三落ち着かない。 もの そぞろはしきゃうなることもあるうへ、 いっしか人の物言ひさがなさは、「大一四女御として入内する形式をと きよう力い によう′ ) 納言の秘蔵して、女御参りの儀式にもてなし、参らせたる」などいふ凶害ども一五人を傷つけること。中傷。 2 〔 0 人のさがない物言 六 ひ ) う かた た ゐ そで そで