とはすがたり 186 でよ。夜さり、迎へにやるべし」といふ文あり。 心得ずおばえて、御所へ持ちて参りて、「かく申してさぶらふ。何事そ」と げんきもんゐん どの かへりごと 申せば、ともかくも御返事なし。何とあることもおばえで、玄輝門院、三位殿一 と申す御ころのことにや、「何とあることどものさぶらふやらむ。かくさぶら あんない ふを、御所にて案内しさぶらへども、御返事さぶらはぬ」と申せば、「我も知 らず」とてあり。 さればとて、「出でじーと言ふべきにあらねば、出でなむとするしたためを さとゐ ながっき ニ弘長元年 ( 一一一六 D のこととなる。 するに、四つといひける長月のころより参り初めて、時々の里居のほどだに心 巻四でも「四つになりし長月二十 めとど もとなくおばえつる御所の内、今日や限りと思へば、よろづの草木も目止まら日余りにや、仙洞に知られたてま つりて御札の列に連なりて」とい ひと ぬもなく、涙にくれてはべるに、をりふし恨みの人参る音して、「下のほどか」う。 三「雪の曙」、すなわち西園寺実 なぬ そで と言はるるもあはれに悲しければ、ちとさし出でたるに、泣き濡らしたる袖の兼。 つばね 四局に下がっておられるか 五 ↓三三ハー注一一 = 。 色もよそにしるかりけるにや、「いかなることそ」など尋ねらるるも、「問ふに 0 「出でなむとするしたためをす ふみ るに」以下の叙述は、『平家物語』巻 つらさ」とかやおばえて、物も言はれねば、今朝の文取り出でて、「これが心 一・祇王で、平相国清盛に飽きら 細くて」とばかりにて、こなたへ入れて泣き居たるに、「されば、何としたるれて追い出される祇王が、その局 ふみ ↓六七ハー注一六。
女院の御方へ入らせおはしまして、のどかに御物語ありし 〔一を嵯峨殿へのお供 ついでに、「あのあが子が、幼くより生ほし立ててさぶら一後深草院が作者を呼ぶ呼び方。 ぐ ものな あり かたみやづか ふほどに、さる方に宮仕ひも物馴れたるさまなるにつきて、具し歩きはべるに、 ふだ ここでは、東二条院をさす。 しあらぬさまに取りなして、女院の御方ざまにも、御簡削られなどしてはべれどニ 三作者の母、故大納言典侍。 まさただ 四以下、大宮院の言葉。 も、我さへ捨つべきゃうもなく、故典侍大と申し、雅忠と申し、心ざし深くさ 五 いつまで続くことであろうか ↓三三ハー注一八。 ぶらひし、『形見にも』など申し置きしほどに」など申されしかば、「まことに、 六蹴鞠をする場所に面した部屋。 みやづか セ西園寺実兼。恋人の「雪の曙」 いかが御覧じ放ちさぶらふべき。宮仕ひはまた、し馴れたる人こそしばしもさ だが、公人として登場するので、 たよ ぶらはぬは、便りなきことにてこそ」など申させたまひて、「何事も心置かず、このように記す。 ^ 叔父、四条隆顕。 オよさけ 我にこそ」など、情あるさまにうけたまはるも、「いつまで草の」とのみおば九藤原 ( 持明院 ) 長相。従二位相 保の男。この時は右少将従四位下 ゅ。 で十八歳。 一 0 藤原 ( 中御門 ) 為方。↓二〇ハー こよひ 今宵はのどかに御物語などありて、供御も女院の御方にて参りて、更けて御注 = 。この時は右衛門権佐正五位 下で二十歳。 やす つばかた やまもも = 藤原 ( 楊梅 ) 兼行。左中将親忠 寝みあるべしとて、懸りの御壺の方に入らせおはしましたれども、人もなし。 男。この時は左少将従四位下で二 さいをんじだいなごんぜんしようじ ながすけためかたかねゆきすけゆき 西園寺の大納言・善勝寺の大納言・長相・為方・兼行・資行などそはべりける。 + 一歳。 一ニ藤原 ( 山科 ) 資行。右中将資成 男。 明けぬれば、「今日斎宮へ御迎へに、人参るべしーとて、女院の御方より、 六 にようゐん かた ひと ふ 四
167 巻 とも てんじゃうびと う点では、「昔の御物語どもなど まかり出でぬ。若き殿上人二、三人は御供にて、入らせおはします。 みき 出で来て、・ : 御酒あまた度まゐり ひとずく とのゐ て、物のおもしろさもとどこほり 「いと御人少なにはべるに、御宿直っかうまつるべし」と ゑひ なく、御酔泣きどもえとどめたま ふたところよる て、二所御寝になる。ただ一人さぶらへば、「御足に参れ」はず」と語る若菜上巻の叙述に似 るか たれゆづ などうけたまはるもむつかしけれども、誰に譲るべしともおばえねば、さぶら九気分がすぐれないと言って。 一 0 わたしがたった一人で伺候し ていると。 ふに、「この両所の御そばに寝させさせたまへ」と、しきりに新院申さる。「た = 足をさすれ。 だしは、所せき身のほどにてさぶらふとて、里にさぶらふを、にはかに、人も三二条は「懐妊中の身体でござ います」と言って。 なしとて参りてさぶらふに、召し出でてさぶらへば、あたりも苦しげにさぶら三立居振舞い 一四『源氏物語』の朱雀院は姫宮の 女三の宮をさえ弟の源氏にお与え ふ。かからざらむ折はーなど申さるれども、「御そばにてさぶらはむずれば、 になったのに。 あやま 一四さん 過ちさぶらはじ。女三の御方をだに御許されあるに、なぞしもこれに限りさぶ三この人 ( 二条 ) に限ってお許し にならないのでしよう。 心にかかりさぶらはむをば』と申し一六法印良性の女藤原永子。亀山 らふべき。わが身は、『いづれにても、御 院の乳母である。↓一一五ハー注一四。 ちか あぜち 三置きはべりし。その誓ひもかひなく」など申させたまふに、をりふし、按察の宅斎宮へお入りになるであろう とお噂申していた亀山院の姫宮。 さき さいぐ、つ ↓一一五ハー注一五。 二品のもとに御渡りありし前の、「斎宮へ入らせたまふべし」など申す宮をや 一〈院が自分に後見させよと新院 に申し入れておられる時だったか うやう申さるるほどなりしかばにや、「御そばにさぶらへ」と仰せらるるとも らか よる まへ なく、いたく酔ひ過ぐさせたまひたるほどに、御寝になりぬ。御前にもさした一九後深草院の作者に対する言葉。 〔を亀山院の誘惑 ゑ かた 一九 すぎくいん
105 巻 すけゆき まことや、明けゆくほどに、「資行が申し入れし人は何と作者に腰や足を打たせる院の指示 の言葉。 さぶらひしそら」と申す。「げにつやつや忘れて。見て参一四帰途の女の ( 院の気に入られ なかったことを嘆く ) 涙に濡れた れ」と仰せあり。起き出でて見れば、はや日さし出づるほどなり。 袖の上も同情されて。 0 巻一での前斎宮との情事ときわ すみごしよっりどの ゃぶ 角の御所の釣殿の前に、い と破れたる車、夜もすがら雨に濡れにけるもしるめて類似した場面であるが、薫物 の香りが漂い、院と女のささめき と・も く、濡れしほたれて見ゅ。あなあさましとおばえて、「寄せよ」と言ふに、供声が聞えてくるという描写、明障 一九子の外には実兼も宿直していると もんした ねりめき いう叙述など、いっそう煽情的で の人、門の下よりただ今出でてさし寄す。見れば、練貫の柳の二つ、花の絵描 あるといえる。 おもて きそそきたりけるとおばしきが、車洩りて、水にみな濡れて、裏の花、表へと一五それはそうと。別の話題に転 ずる際にいう言い方。 ふたっこそでニ 0 あ ほり、練貫の二小袖へうつり、さま悪しきほどなり。夜もすがら泣き明かしけ一六どうしておりますでしよう。 「そら」は、「 : ・かしら」というよう な言い方に当るか。 る袖の涙も、髪は、洩りにゃあらむ、また涙にや、洗ひたるさまなり。「この 宅すっかり忘れていた。「つや あり一ま ーカに、つ 有様なかなかにはべり」とて、降りず。まことに苦々しき心地して、「わがもつや」は下に打消の表現を伴って、 「全然」「少しも」の意を表す副詞。 きぬ こよひ 一一とにいまだ新しき衣のはべるを着て、参りたまへ。今宵しも大事のことあり天「練貫、は生糸を経、練糸を緯 として織った絹織物。「柳」は襲の て」など言へども、泣くよりほかのことなくて、手をすりて、「帰せ」と言ふ色目で、表白、裏青。 一九ざっと描いた。雑に描いた。 ニ 0 色がうつり。 さまもわびし。夜もはや昼になれば、「まことに、また何とかはせむ」にて、 ニ一現代の感覚でいえば、昨夜。 帰しぬ。 一三手を合せて。懇願するさま。 〔一五〕ささがにの女 お
159 巻 例の方ざまへ立ち出でたまひつつ、「憂きはうれしき方もおもほえで左右にもぬるる袖か 〔一 0 〕後深草院の嫉妬 な」 ( 源氏・須磨光源氏 ) の歌を引 うち く。↓二〇ハー注六。 やと思ふこそ、せめて思ひ余る心の中、我ながらあはれ 一 0 「世の中の憂きは今こそうれ のが に」など仰せらるるも、憂かりしままの月影は、なほなほ逃るる心ざしながら、しけれ思ひ知らずはいとはましゃ は」 ( 千載・雑中寂蓮 ) の歌を踏ま あす けちぐわん こよひ 明日はこの御談義結願なれば、今宵ばかりの御なごり、さすがに思はぬにしもえるか。 = 法会などの最終日。また、そ よ の日の作法をも。↓一〇〇ハー注一一一。 なきならひなれば、夜もすがらかかる御袖の涙も所せければ、何となりゆくべ 三どうなってゆくこの身の果て おほごと たが とも思われないのに。あるいは、 き身の果てともおばえぬに、かかる仰せ言をつゆ違はず語りつつ、「なかなか、 「哀れなり何となるみ ( 成る身と鳴 たよ かくては便りもと思ふこそ、げになべてならぬ心の色も知らるれ。不思議なる海の掛詞 ) の果てなればまたあく がれて浦伝ふらむ」 ( 続古今・羇旅 ことさへあるなれば、この世一つならぬ契りも、 藤原光俊 ) の歌を念頭に置くか。 いかでかおろかなるべき。 一三作者が懐妊したこと。 ひとすぢわれな 『一筋に我撫でおほさむ』とうけたまはりつるうれしさも、あはれさも、限り一四あるということだから。「な れ」は伝聞を表す。 なく。さるから、いっしか心もとなき心地するこそ」など、泣きみ笑ひみ語ら一五もつばらわたしが撫育しよう。 後深草院の言葉。 三ひたまふほどに、明けぬるにやと聞こゆれば、起き別れつつ出づるに、「また一六そうだから。 宅泣いたり笑ったり。この句に 「有明の月」の感激ぶりや喜びのさ いつの暮れをか」と思ひむせびたまひたるさま、我もげにと思ひたてまつるこ まがよく表れている。 そ、 一 ^ 「有明」は空に残る有明の月と ともに、人としての「有明の月」を 意味する。 一ハそで やどありあけ お。もかげ わが袖の涙に宿る有明の明けても同じ面影もがな れいかた そで 一七 かた
147 巻 の早い後深草院のお心なので。 一五そうだったのか、二人の間に 入らせたまひぬれば、さりげなきよしにもてなしたまへれは情事があったのだな。 〔三〕院に告白する 一六「有明の月ーは何事もない様子 たもと ども、絞りもあへざりつる御涙は包む袂に残りあれば、 宅「有明の月」がお帰りになった のち 後。 かが御覧じ咎むらむとあさましきに、火ともすほどに還御なりぬる後、ことさ 天御足などおさすり申しあげて。 よひ 一八あし との′ ) も 一九「有明の月」が幼くていらっし らしめやかに、人なき宵のことなるに、御足など参りて、御殿籠りつつ、「さ やった時から。 て、思ひのほかなりつることを聞きつるかな。されま、 。いかなりけることにか。ニ 0 わたし ( 院 ) と「有明の月」とは 互いに疎遠でない間柄と。 しはけなかりし御ほどより、かたみにおろかならぬ御事に思ひまゐらせ、かやニ一男女の愛欲の道。 うの道には思ひかけぬことと思ふに」と、うちくどき仰せらるれば、「さるこ あひみ となし」と申すともかひあるべきことしあらねば、相見しことの初めより、別一三少しのうそ偽りもなく。「月 の影ーの縁語で「曇り」と言った。 れし月の影まで、つゆ曇りなく申したりしかば、「まことに不思議なりける御 = 三作者の叔父の四条隆顕。善勝 ニ四 寺大納言。 ちぎ たかあきみちしば 三契りかな。さりながら、さほどにおばしめし余りて、隆顕に道芝せさせられけ = 四恋の手引をさせ。 一宝愛執の思いは人の区別のない な一け ことである。 るを、情なく申したりけるも、御恨みの末も、かへすがヘすよしなかるべし。 ニ六 ニ七 ニ六真済。↓一三八ハー注八。 かきのもとそうじゃうそめどのきさきもの 昔の例にも、かかる思ひは人を分かぬことなり。柿本の僧正、染殿の后の物の毛藤原明子。太政大臣良房女。 文徳天皇の皇后、清和天皇母后。 ぶつばさっ 怪にて、あまた仏菩薩のカ尽くしたまふといへども、つひにはこれに身を捨て昌泰三年 ( 九 00 ) 没、七十三歳。 さましきや。 一九 ためし とが ニ 0
ほどに、起き上がらむとするもかなはねば、「ただ、さてあれ」とて、枕に御三「御幼く」「聞かせおはしま しー「おばしめし」は、いずれも自 そでほか 座を敷きて、つい居させたまふより、袖の外まで洩る御涙も所せく、「御幼く己敬語。 一三この娘。雅忠が作者をさして いまど な つか 、つ より馴れ仕うまつりしに、今はと聞かせおはしましつるも悲しく、今一度とお 一四藤原 ( 四条 ) 隆親女。大納言典 ばしめしたちつる」など仰せあれば、「かかる御幸のうれしさも置き所なきに、侍。あるい近子といったか。 三幼い頃に。 ふたば かた 一六覆うには狭い袖だが ( 自分の この者が心苦しさなむ、思ひやる方なくはべる。母には二葉にておくれにしに、 力も十分ではないが ) 、わたしが われ 我のみと思ひはぐくみはべりつるに、ただにさへはべらぬを見置きはべるなむ、庇護しよう。「涙をもほどなき袖 にせきかねていかにわかれをとど うれ むべき身ぞ」 ( 源氏・浮舟浮舟の あまたの愁へにまさりて、悲しさもあはれさも、言はむ方なくはべる」よし、 君 ) 。 そで さは 泣く泣く奏せらるれば、「ほどなき袖を、我のみこそ。真の道の障りなく」な宅愛執の念を残して菩提への道 に障り・と - なら。ないよ , つに。 ど、こまやかに仰せありて、「ちと休ませおはしますべし」とて、立たせたま天院の自己敬語。 一九作者の父方の祖父源通光。宝 治二年 ( 一一一哭 ) 没、六十二歳 ひぬ。 ニ 0 第八十一一代の天皇。高倉天皇 「明け過ぐるほどに、いたくやつれたる御さまもそら恐ろし」とて、急ぎ出での第四皇子。後深草院の曾祖父に ニ 0 当る。延応元年 ( 一一三九 ) 崩、六十歳。 たち こがのだいじゃうだいじんびは ごとばのゐん ニ一承久三年 ( 一一一 = 一 ) 七月十三日、 たまふに、久我太政大臣の琵琶とて持たれたりしと、後鳥羽院の、御太刀を、 承久の乱に敗れて北条氏により隠 うつ 遥かに遷されたまひけるころとにや、太政大臣に賜はせたりけるとてありしを、岐に遷された時のことをいう。 「ころとにや」は「ころとかや」の誤 はなだうすやうふだ りかと見る説もある。 御車に参らすとて、縹の薄様の札にて、御太刀の緒に結びつけられき。 一九 みゆき ま、 ) と かた まくら一 0 ひご
45 巻 九 - 一とと 十九日は九月二十三日なれば、鳴き弱りたる虫の音も袖の露を一一 = ロ問ひて、いと ^ 中陰果てて帰る袖の袂に置く 涙。 悲し。御所よりは、「さのみ里住みも、、ゝ し力にいかに」と仰せらるるにも動か九「さりともと思ふ心も虫の音 も弱りはてぬる秋の暮かな」 ( 千載 かみなづき まがき ・秋下俊成 ) 、「鳴き弱る籬の虫 れねば、いっさし出づべき心地もせで、神無月にもなりぬ。 もとめがたき秋の別れやかなしか るらむ」 ( 同・離別紫式部 ) などに 十日余りのころにや、また使あり。「日を隔てずも申した よるか。 三ニ〕心のほかの新枕 きに、御所の御使など見合ひつつ、ころとも知らでやおば一 0 『源氏物語』浮舟巻で浮舟が匂 かおる 宮と密通したことを知った薫が送 ひかず しめされむと、心のほかなる日数積もる」など言はるるに、この住まひは四条った歌「波こゆるころとも知らず 末の松待つらむとのみ思ひけるか おもて すみついぢ 大宮の隅なるが、四条面と大宮との隅の築地、いたう崩れ退きたる所に、さるな」を引くか。 = 以下、『伊勢物語』五段の心を 、つばら もと ふたもと とりといふ茨を植ゑたるが、築地の上へひゆきて、元の太きがただ二本ある踏まえた叙述。 一ニさるとりいばら。「さんきら ばんひと い」ともいう。ュリ科の落葉低木。 ばかりなるを、「この使見て、『ここには番の人はべるな』と言ふに、『さもな かよぢ し』と人言へば、『さてはゆゅしき御通ひ路になりぬべし』と言ひて、この茨一三恋人にとってのたいへんなお 通い路。 もとかたな の元を刀して切りてまかりぬ」と言へば、とは何事ぞと思へども、必ずさしも一四上の語を受けていう。↓一八 ねひと つまど たた 思ひょらぬほどに、子一つばかりにもやと思ふ月影に、妻戸を忍びて叩く人あ 一五女の童。 一六鶴目に属する。その鳴声は戸 たた を一叩 ) 、よ , つに聞、んることから、し わらは 中将といふ童、「水鶏にや、思ひょらぬ音かな」と言ひて開くると聞くほどばしば「叩く」と形容される。 0 すみ くひな さとず つかひ
とはすがたり 「げに」とて文あり。 かへりごと 一後深草院。 とばかり御返事に申さる。 0 東二条院の抗議に対する院の返 ことあ のち その袤ま、 、とど事悪しきゃうなるもむつかしながら、ただ御一所の御心ざ事は、この頃の院の作者への愛情 が並々ならぬものがあったことを 物語る。記憶による叙述とは考え しなほざりならずさに、慰めてそはべる。 にくいが、草稿などを見せられて、 のち まことや、前斎宮は、嵯峨野の夢の後は、御訪れもなけれ写しておいたものを、ここで院の 愛情の証として引くか 〔四ニ〕嵯峨野の夢の後 三みちしば ニ嵯峨殿での旅寝で結んだ夢の ば、御心の内も御心苦しく、わが道芝もかれがれならずな ような思い出 ( 後深草院との契り ) 。 三わたしの道しるべもとぎれと ど思ふにとわびしくて、「さても、年をさへ隔てたまふべきか」と申したれば、 ぎれでなくしたい。 四ご養母と申しあげた尼君。右 大臣藤原 ( 近衛 ) 道経の女か。 みなかみ 五「涙川落つる水上早ければ堰 「いかなる隙にても、おばしめし立て、など申されたりしを、御養ひと聞こ きぞかねつる袖のしがらみ」 ( 拾 がほ あまごぜん えし尼御前、やがて聞かれたりけるとて、参りたれば、いっしかかこち顔なる遺・恋四紀貫之 ) 。 六伊勢の御神。一生独身でお過 そで しになるであろう、の意。 袖のしがらみ堰きあへず、「神よりほかの御よすがなくてと思ひしに、よしな 七どのような支障がありましょ ものおも き夢の迷ひょり、御物思ひのいしいしとくどきかけらるるもわづらはしけれうか。「湊入りの葦別け小舟陬り 多みわが思ふ君に逢はぬ頃かも」 ひま つかひ ひま ( 万葉・巻十一 ) などの古歌による。 ども、「隙しあらばの御使にて参りたるーと答ふれば、「これの御隙はいつも、 ^ 障害を乗りこえようというこ はやましげやま 七あしわ 何の蘆分けかあらむ」など聞こゆるよしを伝へ申せば、「端山繁山の中を分けとならば。「筑波山端山繁山しげ けれど思ひ入るにはさはらざりけ こ、一ち り」 ( 新古今・恋一源重之 ) による。 むなどならば、さもあやにくなる心いられもあるべきに、越え過ぎたる、い地し ひま ふみ せ 九 さがの や し な 一ひとところ せ
とはすがたり ながっき おとど 一亀山天皇。この年二十四歳。 も、大臣の嘆き、内の御思ひ、身に知られていと悲し。 ニ金銀で作った造花の枝。 うちえだ ふじゅ ずずをみなへし ふじゅもん 五七日にもなりぬれば、水晶の数珠、女郎花の打枝につけて、諷誦にとて賜三諷誦文の布施の料として。 ふだ ふ。同じ札に、 四秋の弔問の歌なので、「そう そで 四 でなくても秋は露が繁く置く」と さらでだに秋は露けき袖の上に昔を恋ふる涙そふらむ っ , ) 0 かやうの文をも 、、かにせむともてなし喜ばれしに、「苔の下にも、さこそ 五贈歌の「さらでだに」に対して 「さらでも」という。「かかる」は と、置き所なくこそ」とて、 「懸かる」と「かくある」の掛詞。 五 六「八月九月正長夜千声万声 思へたださらでも濡るる袖の上にかかる別れの秋の白露 六 無了時 ( 八月九月正ニ長キ夜千 せんばんせい 頃しも秋の長き寝覚めは、物ごとに悲しからずといふことなきに、千万声の声万声了ム時ナシ ) 」 ( 和漢朗詠集・ 秋・擣衣白楽天 ) によって書く。 きめたおと むな おもかげ ちたび きぬた セ「千度うつ砧の音に夢さめて 砧の音を聞くにも、袖にくだくる涙の露を片敷きて、空しき面影をのみ慕ふ。 物思ふ袖の露そくだくる」 ( 新古 くも 露消えにし朝は、御所御所の御使より始め、雲の上人おし今・秋下式子内親王 ) を念頭に置 三 0 〕恋人の弔問 なべて、訪ね来ぬ人もなく、使をおこせぬ人なかりし中に、 ^ 源基具。村上源氏、内大臣具 もとともだいなごんひとり 実の男。雅忠の甥に当る。この年 基具の大納言一人訪れざりしも、世の常ならぬことなり。 四十一歳。 九恋人「雪の曙 ( 西園寺実兼 ) 」。 その折のその暁より日を隔てず、「心の内はいかにいかに」と弔ひし人の、 一 0 諒闇で、天下の人がおしなべ て喪服を着ている時分なので。 長月の十日余りの月をしるべに、訪ね入りたり。なべて黒みたるころなれば、 ( 現代語訳一三八ハー ) ころ あかっき ねざ そで あした かたし つかひ しらっゅ とぶら うへびと