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検索対象: 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)
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1. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

一本船についている小舟。 ことにうらうらとあたりたまふぞ、なかなかあさましき。 ニわたしが着ていた単衣襲を下 ふね ふしみどの 事ども始まりて、今日はいたく暮れぬほどに、御船に召されて、伏見殿へ出賜される。禄として与えた。 三「伏見」に「臥し」を響かせる。 でさせおはします。更けゆくほどに、鵜飼召されて、鵜舟、端舟に付けて、鵜古歌に「恋しきを慰めかねて菅原 や伏見に来ても寝られざりけり」 つか ( 拾遺・恋五源重之 ) とある。た 使はせらる。 と一 だし、菅原の伏見は大和国。作者 くわんぎよ のち 鵜飼三人参りたるに、着たりし単衣襲賜ぶなどして、還御なりて後、また酒と近い時代には、「夢通ふ道さへ 絶えぬ呉竹の伏見の里の雪の下折 ゑ こよひ 参りて酔はせおはしますさまも、今宵はなのめならで、更けぬれば、また御寝れ」 ( 新古今・冬藤原有家 ) 、「片 糸の伏見の里は名のみして逢ひ見 たびね なる所へ参りて、「あまた重ぬる旅寝こそ、すさまじくはべれ。さらでも伏見ぬ恋はよるぞ苦しき」 ( 新続古今・ 四 恋二藤原忠基 ) などがある。 しそく た の里は寝にくきものを」など仰せられて、「紙燭さして賜べ。むつかしき虫な四『源氏物語』タ顔巻に、廃院で、 源氏がタ顔の侍女右近に「渡殿な る宿直人起こして、紙燭さして参 どやうの物もあるらむ」と、あまりに仰せらるるもわびしきを、「などや」と れと言へ」と言っている。 おほ 1 一と 五どうして行ってやらないのか さへ仰せ言あるそ、まめやかに悲しき。 六前に隆親について言われた言 めのと 「かかる老いのひがみはおばし許してむや。いかにぞや見ゆることも、御傅に葉 ( ↓一二〇ハー注一、一二六ハー九行 ) を意識的に繰り返して用いるか 七 ためし なりはべらむ。古き例も多くなど、御枕にて申さるる、言はむ方なく、悲しセ『源氏物語』で、源氏が後見役 として、娘のような女三の宮を妻 ひとね に迎えた例などを念頭に置くか ともおろかならむや。例のうらうらと、「こなたも独り寝はすさまじく。遠カ ^ 院のお枕元で。 よべ 九「あさましけれ」などの語を補 らぬほどにこそ」など申させたまへば、昨夜の所に宿りぬるこそ。 140 うかひ 六 れい ひとへがさねた うかひ ^ まくら うぶねはしぶね かた よる

2. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

とはずがたり 102 ふしみやまいくよろづよさか 一伏見山は持明院統 ( 後深草院 伏見山幾万代か栄ふべきみどりの小松今日をはじめに の皇統 ) の象徴で、煕仁親王 ( 伏見 のちふかくさのゐん 天皇 ) の立坊でこの皇統の将来に 御返し、後の深草院の御歌、 明るい見通しがついたことを、兼 ふしみやまお まっちょ ねのひ 平は寿ぎ、松茸を子日に引く小松 栄ふべきほどぞ久しき伏見山生ひそふ松の千代を重ねて になぞらえて歌うか レ」、つり・、つ なか 中二日の御逗留にて、伏見殿へ御幸などありて、おもしろき九献の御式どもニ「生ひそふ」は底本「おいその」。 伏見山と近江の老蘇では離れすぎ くわんぎよ ているので、誤写と見て改める。 ありて、還御 しかし「生ひ」には「老を掛けるか。 をととし さても、一昨年の七月に、しばし里にはべりて、参るとて、三紙などの上に金・銀の砂子を 〔一三〕院のうわの空なる 散らしたもの。↓九二ハー注 = 。 , 一と うらうへ すなが なかはなだ 恋 裏表に小さき洲流しをして、中縹なる紙に水を描きて、異四中央が縹色の。 五 五泥絵の具。 もの でい うへ けぶり あふぎがみ 物は何もなくて、水の上に白き泥にて、「くゆる煙よ」とばかり書きたる扇紙六「浦にたくあまだにつつむ恋 なればくゆる煙よ行く方ぞなき」 しゃうき むすめ ( 源氏・須磨朧月夜尚侍 ) の歌。 を樟木の骨に具して、張らせに、ある人のもとへ遣はしたれば、その女の、こ セ「上木」とする説もある。 一と ハ みづ れを見て、それも絵をうつくしう描く人にて、ひた水に秋の野を描きて、「異 ^ ただ一面の水。 九「忘れじな難波の秋の夜半の うら あふぎか 浦にすむ月は見るとも」と書きたるをおこせて、扇換へにしたりしを持ちて参空こと浦にすむ月は見るとも」 ( 新 古今・秋上宜秋門院丹後 ) の下句。 一 0 後深草院の言葉。「さきざき りたるを、さきざきの筆とも見えねば、「いかなる人の形見そ」など、ねんご の筆とも見えねば」からを院の言 ろに御尋ねあるもむつかしくて、ありのままに申すほどに、絵のうつくしきょ葉とする説もある。 ば - っド・く = 茫漠とした恋の道。「一目見 うはそら こひぢ り始め、上の空なる恋路に迷ひ初めさせたまひて、三年がほど、とかくその道し人は誰とも白雲の上の空なる恋 ぐ 0 みとせ く、ん みち

3. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

の鐘の音に泣く音を添えて、わたしと起き別れなさるご様あった。 けふ ふしみやまいくよろづよ きめぎめ 伏見山幾万代か栄ふべきみどりの小松今日をはじめに しったいいつ、このような後朝のお言葉をお習いに 子も、 ( 伏見山ーわが君のご子孫ーは幾万年も栄えることでござい なったのだろうかと、ひどくしみじみと感じられるほどに せ ましよう。緑の小松を採る今日を初めとして ) 既お見えになる。お袖をしがらみとして涙を堰くご様子も、 ごふかくさいん ご返事、後深草院の御歌、 ず「洩りて憂き名や ( そのしがらみから涙が洩れ出るように、憂く お うわさ 栄ふべきほどそ久しき伏見山生ひそふ松の千代を重ね とつらい噂が洩れて流れはしないだろうか ) 」と、お気の毒なく て らいである。 ( これからわたしの子孫が栄えるであろう時代を思うと、そ こうして、結願があったのでご退出になったが、好きに れは久しく思われる。あとからあとから生え加わる松ー松茸 なれないといってもやはり、いにかかることで、つまらない ーが千代を幾つも重ねることによって ) 思い悩みもいろいろ加わる心地がします。 くうげ 中二日のご滞在で、伏見殿へ御幸などがあり、おもしろ 〔一 = 〕六条殿の供花と伏九月には御供花が行われた。六条殿 見の松茸狩り い酒宴などがあって、お帰りになる。 の御所が新しいので、そうでなくて おととし も見栄えがするのに、新院の御幸さえあって、「立会いの 〔一三〕院のうわの空なるところで、一昨年の七月に、しばら 恋 く実家に下がっていてから、参院す ためにそちらの女房をお貸しください」など仰せられるの はなだいろ すなが で、めいめい格別に心配りして支度に大騒ぎをなさるけれるというので、裏表に小さな洲流しをして、中は縹色の紙 ゅううつ に水を描いて、ほかの物は何もなくて、水の上に白い泥絵 ども、わたしは、万事、何となく憂鬱な心地ばかりして、 の具で、「くゆる煙よ ( くすぶる煙は行くべき方もない ) 」と いつもは引き込みがちでおりましたので、御供花が終って、 しよみ′、 このえおおい ふしみ まったけ だけ書いてある扇紙を樟木の骨に付けて、張らせに、ある 松茸を採りに伏見の御所へ両院の御幸がある時、近衛の大 どの 殿もご参上なさるだろうということだったが、どんな御故人のもとへやったところ、その人の娘がこれを見て、それ も絵を美しく描く人なので、一面の水に秋の野を描いて、 障がおありだったのか、ご参上はなくて、代りにお手紙が

4. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

119 巻 せんやうもんゐん いよどの ふは御姆が母、宣陽門院に、伊予殿といひける女房、おくれまゐらせてさま替一三後白河法皇の皇女、勤子内親 王。建長四年 ( 一 = 五一 I) 没、七十二歳。 そくじゃうゐん はか うすやう へて、即成院の御墓近くさぶらふ所へ尋ね行く。参らせおく消息に、白き薄様一四↓四八ハー注一。 一五即成就院。伏見寺とも呼ばれ る。正暦二年 ( 究一 ) 恵心僧都開基 に琵琶の一の緒を二つに切りて包みて、 の光明院を橘俊綱が伏見の山荘に 移したもの。現、京都市伏見区深 数ならぬ憂き身を知れば四つの緒もこの世のほかに思ひ切りつつ 草大亀谷東寺町に遺跡がある。 と書き置きて、「御尋ねあらば、都へ出ではべりぬと申せ」と申し置きて、出一六「思ひ切り」の「切り」は、「緒」 の縁語。「四つの緒」は、琵琶が四 絃であることから、琵琶の道をい ではべりぬ。 さるほどに、九献半ば過ぎて、御約束のままに入らせたま宅酒宴。 三ニ〕琵琶を思い切る あかし うへ ふに、明石の上の代はりの琵琶なし。事のやうを御尋ねあ ひんがし るに、東の御方、ありのままに申さる。聞かせおはしまして、「ことわりや、 あが子が立ちけること、そのいはれあり」とて、局を尋ねらるるに、「これを天院が作者を呼ぶ愛称。↓七〇 一九 一一参らせて、はや都へ出でぬ。さだめて召しあらば参らせよとて、消息こそさぶ一九「さだめて召しあらむ。あら ばを続けた言い方。 ニ 0 にがにが らへ」と申しけるほどに、あへなく不思議なりとて、よろづに苦々しくなりて、ニ 0 張合いがなく、意外だ。 三不愉快になって。 うた こよひをんながくニニ 一三演奏するのもばつが悪いこと 今の歌を新院も御覧ぜられて、「いとやさしくこそはべれ。今宵の女楽はあい で - しょ , つ。 くわんぎよ なくはべるべし。この歌を賜はりて帰るべし」とて申させたまひて、還御なり いちを かた く・ ) ん ハー注一。

5. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

じようきゅう 物の最後を飾るこの作品は、その素材のかなり多くを『とはずがたり』に仰いでいる。既に承久の乱を体験 して、政治的に関東に屈服し、さらに南北朝動乱によって救いようのない分裂抗争に明け暮れしながらも、 南北朝時代までは、あるいはさらに応仁の乱までは、王朝文化はなおも残照を保っていた。帝王が人妻に そう つかカ 想してこれを召すという、『なよたけ物語』にも窺われるような退廃の色を濃くしながらも、後嵯峨院の時 てつりつ 代、それに続く後深草・亀山・後宇多・伏見・後伏見の、持明院・大覚寺両統迭立の時代を通じて、王朝文 うち よど 化は息づいていたと見てよいのであろう。彼女はその淀みの裡に生れ育ち、したたかにその毒を吸い、しか もそこから投げ出されて全く異なった空気に触れたのである。しかも作品によって想像される限りでは、晩 年に至るまで悟りの境地に達することはなかった。いつまでも家門への誇りは高く、地方を辺土として蔑視 し、和歌への執着を捨てず、古い信仰によって心の支えとしていた。しかもその信心の深さは動かし難いも のであった。 / 彼女は弱さと強さとを併せ持った女であり、従ってその思い出の記も矛盾や分裂を内にはらん だままにまとめられざるをえなかった。しかし、それゆえにこそその作品は、人々の魂が退廃と信仰の両極 に引き裂かれる過渡的な時代社会と、その中で少なくとも自己を偽らずに生きようとした一人の女の生涯を 生き生きと跡づける果となり、さらにはこの過渡的な中世という時代そのものの一つの指標とするに足る ( 以下、『とはずがたり・二』巻末に続く ) 説作物ともなりえたのである。 解 べっし

6. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

ふしみどの かんぎよ しになって、伏見殿へおいでになられる。夜が更けてゆく 翌朝はまだ夜の中に、「還御」と言 〔一毛〕京に戻る 頃、鵜飼いをお召しになって、鵜舟を端舟としてお船に付 って大騒ぎするので、あのお方と起 けて、鵜を使わせられる。 き別れたが、「憂きから残る ( つらいものが残る ) 」と言いそ しり 鵜飼いが三人参ったのに、御所様はわたしの着ていた単うな様子であるのに、わたしは御所様の御車の後に同乗し えがさね ず衣襲を下賜されなどして、お戻りになって後、またお酒を たが、西園寺大納言も御車に乗る。 きよみず と召しあがってお酔いになったご様子も今宵は並一通りでな 清水の橋の上までは皆御車に続いて車を走らせていたが、 やす このえおおいどの き・よら・′一く 、更けたのでまたお寝みになっている所へ、近衛の大殿御幸は京極から北へなるのに、残りの車は西へと走らせる は参って、「多く重ねる旅寝の夜は興ざめでございます。 ので、別れる時は何となく名残惜しいように、大殿の車の ふしみ そうでなくても伏見の里は寝にくいのに」などとおっしゃ影をつい見送ってしまいましたのは、これはいっからの心 しそく , つつと , っしい・虫なども、 って、「紙燭を付けてください。 のならいなのだろうかと、わが心ながらわけがわからない るでしよう」としつこくおっしやるのもつらいのに、御所気がしました。 様が、「どうして行かないのか」とさえおっしやるのは、 本当に悲しい。 「このような老人の偏屈はお許しになってくださいますか どうかと見えることも、ご後見役になりましよう。古い例 まくらもと も多くあることです」などと、御所様の御枕元で申される。 言いようもなく、悲しいと言っても言葉に尽せるものでは 御所様はいつものようによいご機嫌で、「こちらも ひとり寝は興ざめだから。遠くないあたりで」などと申さ れたので、昨夜と同じ所に宿ったのであった。 へんくっ はしぶね ひと

7. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

とど 、実兼は傾城の思ひざししつるー 宵はまたこれに御留まりあり、次の日ぞ、京の御所へ入らせおはしましぬる。 とは、おそらく後深草院が作者と にようゐん つかひ一ニ 実兼 ( 雪の曙 ) との仲を疑ってあて 還御の夕方、女院の御方より、御使に中納言殿参らる。 〔四一〕東ニ条院の嫉妬 こすりを言っているのであろう。 = 東二条院。 「何事ぞ」と聞けば、「二条殿がふるまひのやう、心得ぬこ 三東二条院の女房。 し - 」うとど とのみさぶらふ時に、この御方の御伺候を止めてさぶらへば、ことさらもてな一三作者のこと。 みつぎぬ どうしゃ 一四三枚重ねの袿。 されて、三衣を着て御車に参りさぶらへば、人のみな、女院の御同車と申しさ せん めんばく ぶらふなり。これ、詮なくおばえさぶらふ。よろづ面目なきことのみさぶらへ いとま 第ャも ふしみ ば、暇を賜はりて、伏見などに引き籠りて、出家してさぶらはむと思ひさぶら一五山城国の伏見。現、京都市伏 ふ」といふ御使なり。 御返事には、 うけたまはり候ひぬ。二条がこと、今さらうけたまはるべきゃうも候はず。 こだいなごんのすけ よるひる 故大納言典侍あり、そのほど夜昼奉公し候へば、人よりすぐれて不憫におば一六作者の母。↓三五ハー注一 0 。 え候ひしか、 。。しカ宅「領状」とも書く。承知しまし しいかほどもと思ひしに、あへなく失せ候ひし形見こよ、、ゝ りゃうじゃう にもと申し置き候ひしに、領掌申しき。故大納言、また最期に申す子細候天二条の父、源雅忠。「最期に 申す子細」とは三五ハー四行の雅忠 しんか ひき。君の君たるは臣下の心ざしにより、臣下の臣たることは、君の忍によの言葉をさす。 かへり′と きみ かた つぎ う ふびん 見区。

8. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

153 巻 やよひ いっそやの五鈷の夢。 ひ合はせらるることさへあれば、何となるべき世の仕儀ともおばえぬに、弥生一四 一五わざと言葉を掛けなかったの ひとずく だ。院が作者を寝所に召さなかっ の初めつ方にや、常よりも御人少なにて、夜の供御などいふこともなくて、二 たことをいう。 とも むねかたい 棟の方へ入らせおはします御供に召さる。 一六一か月あけて様子を見よう。 宅懐妊したので。 いかなることをかなんど思へども、尽きせずなだらかなる御一一 = ロ葉言ひ契りた天「有明の月」との夢のような契 りの結果である妊娠。 まふも、うれしとや言はむ、またわびしとや言はましなど思ふに、「ありし夢 0 巻一に語られた扇に油壺の夢 ( ↓六〇ハー二行 ) とともに、象徴的 のち 一六へだ な夢が語られる。『蜻蛉日記』巻中 の後は、わざとこそ言はざりつれ。月を隔てむと待ちつるも、 いと、い細しや」 に述べる、石山寺で道綱母が見た と仰せらるるにこそ、さればおばしめすやうありけるにこそと、あさましかり夢などと同様、今日の心理学では リビドー ( 性的衝動を発動させる たが しか。違はずその月よりただならねば、疑ひ紛るべきことにしなきにつけては、カ ) で説明可能な夢か。 一九「雪の曙」、西園寺実兼のこと。 見し夢のなごりも、今さら、いにかかるぞはかなき。 ニ 0 巻二の終りに語られた、伏見 一九 の御所での近衛の大殿との夢のよ にひまくら うな情事を恨んで、それ以来、疎 さても、さしも新枕ともいひぬべく、かたみに浅からざり 〔セ〕浅くなりゆく契り 遠になってゆくにつけても。 のち まどほ し心ざしの人、ありし伏見の夢の恨みより後は、間遠にのニ一亡母の遠忌。巻二にも「五月 五日は、たらちめの跡弔ひにまか さっき みなりゆくにつけても、ことわりながら絶えせぬ物思ひなるに、五月の初めるべきついでに」 ( ↓一三一 行 ) とあった。 さと・ の、例の昔の跡弔ふ日なれば、あやめの草のかりそめに、里住みしたるに、彼 = = 「五月」の縁で言い、「仮」に 「刈」を掛けて、「かりそめに」の序 より、 となる。 れい かた ニ 0 ふしみ まぎ しぎ ちぎ ふた

9. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

118 とはすがたり じ たためて並び居て、あなた裏にて御酒盛ありて、半ばになりて、こなたへ入ら ひやうぶきゃう に . よつばう せたまふべきにてあるところへ、兵部卿参りて、女房の座いかにとて見らるる一四条隆親。 ニ懐紙・短冊などを置く小机。 わろ をんなさんのみやぶんだい まへ が、「このやう悪し。まねばるる女三宮、文台の御前なり。今まねぶ人のこれ三作者の父、源雅忠。 四 四上位の者。文応元年 ( 一一一六 0 ) の めひ たかちか三 じゃうしゅ うへゐ は叔母なり。あれは姪なり。上に居るべき人なり。隆親、故大納言には上首な頃、隆親は大納言正二位、雅忠は 権中納言正一一位だった。 しもゐ ゐなほ こる」か ぜんしよう りき。何事に下に居るべきぞ。居直れ、居直れ」と声高に言ひければ、善勝五座り直せ。 六格別の勅命。 さいをんじ べっちよく 寺・西園寺参りて、「これは別勅にてさぶらふものをーと言へども、「何とてあセ誰がお知らせ申しあげようか、 お知らせしてもしかたがないので、 いったん れ、さるべきことかは」と言はるるうへは、一旦こそあれ、さのみ言ふ人もなの意。 ^ わたしは上座から下座へと下 たれ げられた。 ければ、御所はあなたに渡らせたまふに、誰か告げまゐらせむも詮なければ、 九六条殿長講堂の供養の時のこ と。↓九七ハー注一一 0 。 座を下へ降ろされぬ。 一 0 身分の低い者を母とする人も 出だし車のこと今さら思ひ出だされて、いと悲し。姪・叔母には、なじかよ多くいるのだ。あるいは、暗に自 分にとって不快なこの叔母や父方 やど るべき。あやしの者の腹に宿る人も多かり。それも、叔母は、祖母はとて、捧の祖母久我の尼上などの出生が、 さほど高くない ( その生母が身分 げおくべきか。こは何事ぞ。すべてすさまじかりつることなり。これほど面目的に低い ) ことを言おうとしてい るのか ま = 興ざめのしたことである。 なからむことに交じろひて詮なしと思ひて、この座を立つ。 三伏見の地名。後文に「伏見の せうそく 第はやーし 小林といふ所」とある。 局へすべりて、「御尋ねあらば、消息を参らせよ」と言ひ置きて、小林とい い九 つばね ぐるま せん ) かもり なか せん めんばく ささ

10. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

いとな 柴折りくべたる冬の住まひ、樋の水の訪れもとだえがちなるに、年暮るる営 = 「思ひやれ懸樋の水のたえだ えになりゆくほどの心細さを」 ( 詞 花・恋下高階章行女 ) などを念頭 みも、あらぬさまなる急ぎにて過ぎゅくに、二十日余りの月の出づるころ、 に置ノ、、か しり・ あじろぐるま と忍びて御幸あり。網代車のうちゃっれたまへるものから、御車の後に善勝寺三「年暮れしその営みは忘られ てあらぬさまなる急ぎをぞする」 ぞ参りたる。「伏見の御所の御ほどなるが、ただ今しもおばしめし出づること ( 山家集、玉葉・雑一西行 ) を引 - 」・よひ 一五あら ありて」と聞くも、「いっ顕はれて」とおばゆるに、今宵はことさらこまやか一三車の屋形と左右の両側に網代 ぎっしゃ を張った牛車。『飾抄』に「摂政関 白大臣大将乗レ之」という。 に語らひたまひつつ、明けゆく鐘にもよほされて、立ち出でさせおはします。 一四伏見にあった後深草院の御所。 」よこぐも ありあけ ひんがし 有明は西に残り、東の山の端にそ横雲わたるに、むら消えたる雪の上に、ま一五「雪の曙」との密事がいっ露顕 して、身の置き所もなくなるだろ をりし さしぬき むもん なほし うか。「みちのくにありてふ川の た散りかかる花の白雪も折知り顔なるに、無文の御直衣に同じ色の御指貫の御 一七 埋れ木のいっ顕はれて憂き名取り あかっき けむ」 ( 続古今・恋四源時清 ) など 姿も、わが鈍める色に通ひて、あはれに悲しく見たてまつるに、暁の行なひに ↓一卩 1 フ、、刀 、 ) ろもまげさ 出づる尼どもの、何としも思ひ分かぬが、あやしげなる衣に真袈裟などやうの一六わたしの喪服の色。 じんちょう 宅晨朝の勤行。 たれ なにあみだぶつ けしき 一〈粗末な袈裟。 物、気色ばかり引き掛けて、「晨朝下がりはべりぬ。誰がし房は、何阿弥陀仏」 あり ほくめんげらふ など呼び歩くも、うらやましく見居たるに、北面の下﨟どもも、みな鈍める狩 一九 こと がほ 巻ぎめ 衣にて、御車さし寄するを見つけて、今しも事あり顔に、逃げ隠るる尼どもも一九訳ありげな様子で。 あるべし。 ふしみ かー ひ は じんてうさ はつか にぶ