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検索対象: 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)
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1. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

189 巻 あやま すゑ ねけるかと誤たれ、明かし暮らして年の末にもなれば、送り迎ふる営みも何のれども神に心をかけぬ間そなき」 ( 新古今・神祇成清 ) 。 こも としごろしゆくぐわん ぎをんやしろ いさみにすべきにしあらねば、年頃の宿願にて、祇園の社に千日籠るべきにて一四「頼みをいふ」から「ゆふだす き」へと続ける。「かくる」は「たす はじ あるを、よろづに障り多くて籠らざりつるを、思ひ立ちて、十一月の二日、初き」の縁語。 0 弘安年間 ( 一 = 天 ~ 八 0 に十一月二 よ はちまんぐうかぐら めの卯の日にて八幡宮御神楽なるにまづ参りたるに、「神に心を」と詠みける日が卯の日であった年はない。弘 安六年十一月五日が乙卯で、亀山 院の石清水御幸があり、院は七日 人も思ひ出でられて、 間参籠した。翌七年十一月五日は 己卯で、石清水社では恒例御神楽 いつもただ神に頼みをゆふだすきかくるかひなき身をぞ恨むる が行われ、やはり亀山院の御幸が さんろう 七日の参籠果てぬれば、やがて祇園に参りぬ。「今はこのあったことが、『勘仲記』などから 〔三五〕法華講讃 知られる。作者の石清水参詣と関 さんがい 世には残る思ひもあるべきにあらねば、三界の家を出でて係があるか否かはわからない。 一五一切衆生の生死輪廻する三種 げだっかど ありあけみとせ 解脱の門に入れたまへ」と申すに、今年は有明の三年に当たりたまへば、東の世界、欲界・色界・無色界。 一六『法華経』の経文の意を講説し ちゃう やまひじり ほっけこうさん一セしゅぎゃう 。↓一八一ハー注一三。 山の聖のもとにて、七日法華講讃を五種の行に行なはせたてまつるに、昼は聴て讃嘆する法会 一セ『法華経』法師品第十に説く もん けちぐわん 三聞に参り、夜は祇園へ参りなどして、結願には、露消えたまひし日なれば、こ同経を受持・読経・誦経・解説・ 書写する五種の修行。 ここち かね 一 ^ 法会などの最終日。↓一〇〇 とさらうち添ゆる鐘も涙もよほす心地して、 一九「音」は泣く音。「鐘」の縁語。 折々の鐘の響きに音を添へて何と憂き世になほ残るらむ ニ 0 以下、弘安七年の記事と見る。 ありし赤子引き隠したるもつつましながら、物思ひの慰めにもとて、年も返作者二十七歳。 うひ あかご さは いとな ひんがし

2. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

巻 一月日の過ぎてゆくのが速いこ との比喩。『荘子』などに基づく ニ「早しの意。縁語「年波」 ( 年 齢 ) を導く。「老らくの月日はいと ど早瀬川返らぬ波に濡るる袖か な」 ( 新古今・雑下覚弁 ) によるか。 こまはやせがは 隙ゆく駒の早瀬川、越えて返らぬ年波のわが身に積もるを三「数ふればわが身に積もる年 四 〔こ物思わしき春 月を送り迎ふと何急ぐらむ」 ( 拾 かぞ ももちどり 数ふれば、今年は十八になりはべるにこそ。百千鳥さへづ遺・冬平兼盛 ) 、「尽きもせず同 じ憂き世を惜しむとやわが身に積 ひかげ もる年は見るらむ」 ( 続古今・雑上 る春の日影のどかなるを見るにも、何となき心の中の物思はしさ、忘るる時も 俊成卿女 ) などを念頭に置くか。 はな なければ、華やかなるもうれしからぬ心地ぞしはべる。 四「百千鳥さへづる春は物ごと にあらたまれども我ぞふりゆく」 ことし五くすり くわぎんのゐんのだいじゃうだいじん こぞごゐんのべったう 今年の御薬には、花山院太政大臣参らる。去年、後院別当とかやになりて ( 古今・春上読人しらず ) を引く。 五 ↓一一ハー注七。 ′ ) しょ とろ・ おはせしかば、何とやらむ、この御所ざまには快からぬ御事なりしかども、春六藤原 ( 花山院 ) 通雅。四十一一一歳。 セ ↓六七ハー注一三。 ぐう うら 宮に立たせおはしましぬれば、世の御恨みもをさをさ慰みたまひぬれば、また〈後深草院の皇子煕仁親王。 九台盤所に詰めている女房たち。 のち とが 後までおばしめし咎むべきにあらねば、御薬に参りたまふなるべし。ことさら、一 0 文永八年。↓一一ハー六行。 = 「新しき年ともいはずふるも にようばうそでぐち だいばんどころ 一ころ きめ 女房の袖ロもひきつくろひなどして、台盤所ざまも人々心ことに、衣の色をものはふりぬる人の涙なりけり」 ( 源 氏・葵 ) を引くか ひととせなかのゐんのだいなごん 尽くしはべるやらむ。一年、中院大納一言御薬に参りたりしことなど、改まる年 0 作者の内向的で暗い心情が述べ られている。白楽天の新楽府「上 陽白髪人」などの影響があるか。 ともいはず思ひ出でられて、古りぬる涙ぞなほ袖濡らしはべりし。 ひま ふ - 】とし こころよ としなみ三

3. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

( 現代語訳一一二〇ハー ) おむろゑんまんゐんしゃうごゐんばだいゐんしゃうれんゐん 御室・円満院・聖護院・菩提院・青蓮院、みなみな御供に参らせたまふ。その九藤原 ( 滋野井 ) 実冬。中納言公 光の一男。この年三十歳。 一 0 性助法親王。以下四人ととも 夜の御あはれさ、筆にも余りぬべし。 に後嵯峨法皇の皇子。この年二十 つねたふ みなひと 経任、さしも御あはれみ深き人なり、出家そせむずらむと、皆人申し思ひた六歳。↓二四ハー注 = 。 = 円助法親王。この年三十七歳。 一五こっ りしに、御骨の折、なよらかなるしじらの狩衣にて、瓶子に入らせたまひたる円満院は園城寺 ( 三井寺 ) の一院。 三覚助法親王。この年二十三歳。 聖護院は園城寺の一院。 御骨を持たれたりしそ、いと思はずなりし。 一三最助法親王。この年二十歳。 よるひる 新院、御嘆きなべてには過ぎて、夜昼御涙の隙なく見えさせたまへば、さぶ菩提院は延暦寺の一院。 一四慈助法親王。この年十九歳。 おんそう りゃうあん けいひっとど らふ人々もよその袖さへ絞りぬべきころなり。天下諒闇にて、音奏・警蹕止ま青蓮院は延暦寺の別院。 一五御骨を安置する時。記録によ すみぞめ れば二月二十日、浄金剛院に安置。 りなどしぬれば、花もこの山のは墨染にや咲くらむとぞおばゆる。 一六表面に皺 ( 凹凸 ) のある織物。 そふく 大納言は人より黒き御色を賜はりて、この身にも御素服を着るべきよしを申宅「深草の野辺の桜し心あらば 今年ばかりは墨染に咲け」 ( 古今・ されしを、「いまだ幼きほどなれば、ただおしなべたる色にてありなむ。取り哀傷上野岑雄 ) を念頭に置く。 天父の雅忠。 0 恩顧を受けた君主の死に際して 分き染めずとも」と、院の御方御気色あり。 廷臣が出家することは、殉死に通 おほみやゐん さても、大納一言、たびたび大宮院・新院の御方へ出家の暇ずるものがある。経任が出家しな 〔一三〕父、出家を許され かったことをことさら記したのは、 忠誠であるにもかかわらす出家を を申さるるに、「おばしめす子細あり」とて、御許されな 許されなかった父雅忠と対比する し。人よりことにはべる嘆きの余りにや、日ごとに御墓に参りなどしつつ、重狙いがあってのことか。 そで 一セ みけしき しゆっけ かりぎめ ひま しさい とも いとま

4. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

ばる。 一藤原惜子。↓六七ハー注一六。 四 ニ絃楽器で、七絃。 むらさきうへ ひんがしかたをんなさんみやきん しゃうことたかちかむすめいままゐ 紫の上には東の御方、女三の宮の琴の代はりに、箏の琴を隆親の女の今参三絃楽器で、 + 三絃。 四隆親は作者の母方の祖父。こ しょまう りにかせむに、隆親、ことさら所望ありと聞くより、などやらむ、むつかしの年七十五歳で、正一一位大納言兵 部卿。↓五一一ハー注六。 まり 、 ) と - ば くて参りたくもなきに、「御鞠の折に、ことさら御言葉かかりなどして、御覧五新参女房の意。藤原識子。文 保元年 ( 一三一七 ) 六月従一位となり、 あかし 鷲尾一品と称す。 じ知りたるに」とて、「明石の上にて、琵琶に参るべし」とてあり。 六絃楽器。四絃。 まさみっちゅうなごん がく 琵琶は、七つの年より雅光の中納言に、初めて楽一一つ、三つ習ひてはべりしセ源雅光。通光の男。作者の叔 父。文永四年 ( 一 = 六七 ) 没、四十一一歳。 を、いたく心にも入れでありしを、九つの年よりまたしばし御所に教へさせお ^ 院が教えてくださって。 九琵琶の三秘曲、流泉・啄木・ 九く そがふまんじうらく はしまして、三曲まではなかりしかども、蘇合・万秋楽などはみな弾きて、御楊真操。 ばんしき 一 0 蘇合香。雅楽。盤渉調の唐楽 くわうぞ 賀の折、白河殿荒序とかやいひしことにも、「十にて、御琵琶を頼りて、いたの曲。管絃にも舞楽にも用いる。 一セ = 雅楽。盤渉調の唐楽の曲。 くわりばくひたかふ したんてんじゅ あかぢ いけして弾きたり」とて、花梨木の直甲の琵琶の紫檀の転手したるを、赤地の三後嵯峨院五 + の御賀。文永五 年、作者十一歳の年の三月に予定 ごさがゐん されたが、蒙古襲来のため、中止。 錦の袋に入れて、後嵯峨の院より賜はりなどして、折々は弾きしかども、 一三禅林寺殿。後嵯峨院の御所。 一四秘曲。底本「くわいそ」。 く、いにも入らでありしを、弾けとてあるもむつかしく、などやらむ、ものくさ 一五後深草院の弾く琵琶を真似て。 一九きめくれなゐうちきもよぎ うはぎうらやまぶきこうちき 一六花梨 ( バラ科の落葉高木 ) の一 ながら出で立ちて、「柳の衣に紅の袿、萌黄の表着、裏山吹の小袿を着るべし」 枚板で甲を作った琵琶。 宅絃の頭部の絃を巻き付ける棒。 とてあるが、なぞしも、かならず人よりことに落ちばなる明石になることは。 116 にしき とし ここの ニ 0

5. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

文永八年 (IIPI) 元旦から同十一年の歳晩まで、作者十四歳から十七歳までのことが回想されている。 十四歳の春を迎えて美しく成長した作者を目の前に、四歳の時からそれまで、ほとんど親代りに面倒を見てきた後深草院 は、彼女を自らの後宮に入れたいとの意向を、父久我雅忠にささやく。そのことを知らない作者は、それ以前から母方の縁 続きである「雪の曙」と慕情を通わしあっていたが、正月半ば、河崎の実家に御幸した院によって、意に反してその愛人と された。しかし、院の女房という待遇は変らぬままに、多くの后妃たちと院の寵を争うという環境に置かれるに至る。中で も后の東二条院は、院の愛人の列に加えられた作者を快く思わなかったが、作者は作者で、この女院の御産に際してのもの きとう ものしい祈疇や盛大な祝賀のさまを見て、女としての幸運を思い、羨望の念を禁じえない。 後深草院の父後嵯峨法皇が崩じた文永九年の夏、父が発病した。その頃、作者は初めて懐妊していた。父はそのことを知 えんめい * 一と って延命の祈疇をもさせたが、病は重くなる一方で、その年の九月、宮女房としての生き方につき、教え諭して世を去った。 二歳の時に母を失った作者は、こうして十五歳の秋に孤独な身の上となった。乳母の家で父の喪に服している作者のもとに、 「雪の曙、が忍んで通って来て、愛情を訴える。作者はその情熱を拒みきれなかった。彼は、一時作者が籠っていた冬の醍 醐の尼僧の房にも通ってくる。 文永十年二月、作者は院の皇子を出産したが、その後も「雪の曙」との忍び逢いを続け、ついにその子を身ごもる。院に は月を偽り、恋人に看護されながら、翌年の九月に女子を生んだ。院には死産と偽って報告した赤子は、恋人がどこへとも ようせつ 知れず抱いて行った。同じ年の十月、前年生れた皇子が夭折した。作者は人間の苦しみ・悲しみを思い、幼い頃から心惹か さいぎト - ろ・ れていた西行のような境涯への憧れをいっそう強くする。後深草院も院政問題がこじれかけて出家を思い立っ三 : オカ若宮の 立坊によってそのことは沙汰止みとなった。 作者の亡父が奉仕したことのある前斎宮が、伊勢から上洛してくる。母后大宮院のいる嵯峨殿でこの異母妹を接待した後 深草院は、好色心から、作者に手引させて情交を結ぶが、幻滅する。これより以前、作者は嫉妬した東二条院によって、そ の御所への出入りを止められていたが、女院はさらに後深草院に使者を送って、作者の振舞いを非難してきた。院は長文の 返信をしたためて、作者を精いつ 。いかばいだてする。一方、作者は嵯峨での夢のような体験が忘れられない前斎宮を召す よう、院に勧める。春宮の生母、東の御方が召される歳晩の夜更け、作者は局で「雪の曙」と忍び逢う。 さたや

6. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

たびかさ やとおばゆるも、わが咎ならぬ過りも度重なれば、御ことわりにおばえて、参一近衛の大殿・亀山院との情事 や「有明の月」との恋も、事の起り けふあす から言えば作者自身の意志による りも進まれず。今日明日ばかりの年の暮れにつけても、「年もわが身も」と、 ものではないので、こう言う。 ニご道理に思われて。自分とし いと悲し。 ては「わが咎ならぬ過り」と思う一 ず ゐ さんぶつじようえん ありし文どもを返して、法華経を書き居たるも、「讃仏乗の縁」とは仰せら方、それが院にとっては不快であ と ることも、作者にはよくわかって つみ あん いるのである。 れざりしことの罪深さも、悲しく案ぜられて、年も返りぬ。 三『源氏物語』幻巻での源氏の歌、 「もの思ふと過ぐる月日も知らぬ 改まる年ともいはぬ袖の涙に浮き沈みつつ、正月十五日に ま 〔毛〕追善供養 間に年もわが世もけふや尽きぬ や、御四十九日なりしかば、ことさら頼みたる聖のもとへる」を引く。 四「有明の月」から送られた消息 かね を裏返して。 まかりて、布薩のついでに、かの御心ざしありし金をすこし取り分けて、諷誦 五供養のために『法華経』を書く。 六「願以今生世俗文字之業狂言 の御布施にたてまつりし包み紙に、 綺語之誤翻為当来世々讃仏乗之 一 0 たび あかっき こんじゃうせぞく この度は待っ暁のしるべせよさても絶えぬる契りなりとも 因転法クハ今生世俗 文字ノ業狂言綺語ノ誤リヲモテ のうぜっ ひじり さんぶつじよう てんばうりん 翻シテ当来世々讃仏乗ノ因転法輪 能説の聞こえある聖なればにや、ことさら聞く所ありしも袖の隙なき中に、 ノ縁トセム ) 」 ( 和漢朗詠集・雑・仏 ありあけふるごと 事白楽天 ) 。 また有明の古事そ、ことに耳に立ちはべりし。 セ以下、弘安五年 ( 一一一八一 l) の記事 きさ、りギ」 、一もゐ つくづくと籠り居て、如月の十五日にもなりぬ。釈尊円寂の昔も、今日始めと見える。作者二 + 五歳。 ^ 僧が半月ごとに集って互いに れいひじり たることならねども、わが物思ふ折からはことに悲しくて、このほどは例の聖自己の罪を懺悔する儀式。 四 ふせ ふみ ふさっ とが ほけきゃう あやま そで しやくそんゑんじゃく そでひま ひじり ふじゅ

7. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

半・正月三が日休 ) 。小町なべ、少将なべ、天ぶら、そば手許に置き、今回の仕事でもさまざまな学恩を蒙った などで、ゆっくりとくつろげる。 『とはずがたり』関係の本は相当の数に上るが、それらの 海宝寺 ( 伏見区桃山最上正宗一一〇 0 七五ー六一一 ー一六七一一 / 十一時 中で最も発行年次の古いものは、「桂宮本叢書」第十五巻、 ~ 十五時・木曜休 ) 。普茶料理で知られた店。ただし、四 人以上で要予約。 物語一である。この本は昭和二十五年三月二十日に初版が 発行され、戦後の『とはずがたり』研究の端緒となったも のだが、手許の本は残念ながらその研究史的に貴重な初版 本ではなく、『むくら』 ( むぐら ) を併せ収めた昭和三十二 雅忠女の横顔 年九月刊の増訂再版本である。読点を打つ以外はすべて底 本のままという方針で翻刻されたこの『とはすかたり』に よって、読んだのであると思う。この本の初めの方には、 久保田淳 仮名沢山の本文の脇に自分で振り漢字がしてある。けれど こがまさたむすめ 後深草院二条、久我雅忠女 , ーー『とはずがたり』の作者も、巻二の途中からは振っていない。だから、どこまで読 が私の心の中に、たとえおばろげでも一つの像を浮び上がみ通せたかは、じつはあやしい らせてきたのま、、 。したいいつごろだったろうか。鼠がの それからも、私はこの作品を遠巻きにしていた。昭和四 べんのないし し餅をあちこちかじり散らすように、この作品の解説を思十年頃、『弁内侍日記』について短い論文を書かされた時、 かゆづえ いつくところから書き始めながら、ふと振り返ってみる。 『とはずがたり』巻二の粥杖騒動と対比して、『弁内侍日 市古貞次先生の御講義で初めてこの作品のことを教えて記』の明るさを確かめようとしたり、中世文学史のデッサ しよくもく 頂いたのは、昭和三十年、大学四年の時のことであったとンを試みた際に、紀行編での矚目の景すべてが自己にはね 思う。その時の教室が異様なまでに↓んと静まり返ってい返ってくるその自照性を取り上げたり、求められるままに たことなどは、塚本康彦氏がすでに回想している。この作図書新聞の類に冨倉徳次郎氏訳『とはずがたり』 ( 昭和四十 品がまださほど脚光を浴びる以前のことであった。 一年刊筑摩書房 ) の紹介をさせて頂いたりという程度のお だくさん

8. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

( 一毛三 ) の記事。作者十六歳。 はじめ 九年・月・日の三つの元の意で、 正月一日、元日に同じ。 一 0 違和感があり。 っ′ ) もり 晦日には、あながちに乳母ども、「かかるをりふし、山深 = 早速、参詣する。 三九〕栄えなき年の初め 一ニ源氏の氏神である石清水八幡 き住まひもいまいまし」など言ひて、迎へに来たれば、、い宮か。 一三通夜の夢に現れた亡き父の面 影。「むばたまの」は「夢」にかかる のほかに都へ帰りて、年も立ちぬ。 九 枕詞だが、ここでは夢の意に用し ぐわんにちぐわんさん つ、 0 よろづ世の中も栄えなき年なれば、元日・元三の雲の上もあいなく、私の袖 一四夢の記として別記があったと かた 一ニやしろ の涙も改まり、やる方もなき年なり。春の初めにはいっしか参りつる神の社も、知られる。 一五出産の気配 きせい 今年はかなはぬことなれば、門の外まで参りて祈誓申しつる心ざしより、むば一六仁和寺性助法親王。↓二四ハー 。も おもかげべちしる ↓二三ハー注天。 たまの面影は別に記しはべれば、これには洩らしぬ。 一 ^ 隆助。権大納言藤原 ( 四条 ) 隆 きさらギ」 よひ ′ ) しょ 如月の十日、宵のほどにその気色出で来たれば、御所ざま衡の男。仁和寺の僧。僧正法眼 〔三 0 〕皇子を産む 「鳴滝」は洛西の鳴滝にあった真言 宗御室派の寺院、般若寺のこと。 も御心むつかしき折から、私もかかる思ひのほどなれば、 一九経海。参議左大弁藤原 ( 吉田 ) たかあきだいなごん よろづ栄えなき折なれど、隆顕の大納一一 = ロ取り沙汰して、とかく言ひさわぐ。御資経の男。僧正に至る。↓二八ハー 一六 一七 一九注一一一。「毘沙門堂」は山科にある延 巻 おむろ ほ , ルば - っ あいぜんわうほふなるたきえんめいく 所よりも御室へ申されて、御本坊にて、愛染王の法、鳴滝、延命供とかや、毘暦寺派の寺院。 ニ 0 権大納言源 ( 北畠 ) 雅家の男。 5 さもんだうそうじゃう かた 沙門堂の僧正、薬師の法、いづれも本坊にて行なはる。わが方ざまにて、親源大僧正、天台座主に至る。 こ、一ち まひぬるなごりも、また忍びがたき心地するこそ、我ながらうたておばえはべ り - ーレか もんと めのと さた わたくしそで ニ 0 しんげん

9. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

くぎゃう 一廂の間。寝殿造りの母屋の四 な悲し」とて逃げ入る。廂にさぶらふ公卿たち、「何か見さわぐ。人魂なり」 面にある細長い一間。天井を張ら と おほゃなぎ と言ふ。「大柳の下に、布海苔といふものを溶きて、うち散らしたるやうなるない。 ニ身体から遊離した魂を招き返 す祭。 ものあり」などののしる。 三道教で、人の寿命を司る神。 うら こよひ しやがて御占あり、法皇の御方の御魂のよし、奏し申す。今宵よりやがて、招四脚気か。「御足の気煩はしく わたらせたまふと聞きしほどに」 まつりたいぎんぶく ( 五代帝王物語 ) 。 魂の御祭、泰山府君など祭らる。 0 めでたい祝宴が突如暗転して、 きう 法皇の病死の前兆である怪異の描 かくて、長月のころにや、法皇御悩みと言ふ。腫るる御事にて、御灸いしい 写へと続くあたりは巧みである。 しとひしめきけれども、さしたる御験もなく、日々に重る御気色のみありとて、東二条院御産を史実より一年後に ずらせたのは、あるいはこのよう な効果を狙っての虚構か。 年も暮れぬ。 五以下、文永九年 ( 一 = 七一 l) の記事。 あらたまの年ともにも、なほ御わづらはしければ、何事も作者は十五歳。「あらたまの」は年 〔 = 〕嵯峨殿の栄えなき にかかる枕詞。 は 正月 栄えなき御事なり。正月の末になりぬれば、「かなふまじ六依然として法皇は患っておら れたので。 さが みこし き御さまなり」とて、嵯峨御幸なる。御輿にて入らせたまふ。新院やがて御幸、セ新年は行事も多く、栄えある 気持になるのにという、い しり しり りゃうにようゐん みくしげどの 〈助からないであろうご様子。 御車の後に参る。両女院御同車にて、御匣殿、御後に参りたまふ。 九嵯峨殿 ( 亀山殿 ) に御幸なさる。 せんもの もろなり みづがめ 道にて参るべき御煎じ物を、種成・師成二人して、御前にて御水瓶二つにし一 0 後深草院のこと。 一六 = 大宮院と東一一条院。大宮院は つねたふほくめんげらふのぶとも うちの たため入れて、経任、北面の下﨟信友に仰せて持たせられたるを、内野にて参藤原姑子。太政大臣実氏の一女。 ながっき ふのり ひさし かた たねなり なや しるし たま そう は四 おもみけしき ひとだま せう

10. 完訳日本の古典 第38巻 とはずがたり(一)

とはずがたり 254 ひま そで 古人が隙を走り過ぎて行く駒にたと 今回御薬の役に参られたのであろう。格別に女房たちの袖 ぐち 〔一〕物思わしき春 だいばんどころ えた、時の移り変りの早さと言った ロも美しく見えるようととのえなどして、台盤所のあたり はやせがわ ら、早瀬川のようなもの、その川波ではないけれども、越でも人々がとくに心配りして、衣装の色などをも尽された えて二度と元に戻らない年波がわが身に積るのを数えてみ のでしようか。いっぞやの年、亡き父中院大納言雅忠が御 ももちどり ると、この年は十八になります。「百千鳥さへづる春 ( た 薬の役に参上したことなどが、「改まる年ともいはず ( 新 くさんの鳥が楽しげにさえずる春 ) 」の日ざしののどかである年であるというのに ) 」ふと思い出されて、昔を懐かしむ涙 のを見るにつけ、何が原因とはっきり言えない心のうちの にやはり袖を濡らしました。 はんもん かたわか 煩悶を、忘れた時もないので、まわりが華やかであるのも、 春宮の御方は、早速御方分ちをしょ 〔ニ〕院を打っ わたしにはうれしくない心地がいたします。 うということで、それも正月十五日 みちまさ 今年の御薬の役には花山院太政大臣藤原通雅が参仕され のうちにと大騒ぎする。いつものように、院の御方・春宮 る。去年、後院別当とかいう役職に就いていらっしやった の御方と二方におなりになって、廷臣や女房はめいめい籤 ので、何ということもなく、こちらの御所のあたりではご に従って分けられる。相手には皆、廷臣に女房を合せられ とうぐら・ おとど もろただ 不快のご様子であったけれども、御所様の御子が春宮にお る。春宮の御方には傅の大臣藤原師忠をはじめとして、皆 立ちになられて、政治上のご不満もすっかりお散じになっ廷臣、院の御方には御所様以外は皆女房で、相手を籤でお たので、また後々まで根に持たれるべきことでもないので、取りになる。わたしは傅の大臣のお相手に当った。「めい ふ