189 巻 あやま すゑ ねけるかと誤たれ、明かし暮らして年の末にもなれば、送り迎ふる営みも何のれども神に心をかけぬ間そなき」 ( 新古今・神祇成清 ) 。 こも としごろしゆくぐわん ぎをんやしろ いさみにすべきにしあらねば、年頃の宿願にて、祇園の社に千日籠るべきにて一四「頼みをいふ」から「ゆふだす き」へと続ける。「かくる」は「たす はじ あるを、よろづに障り多くて籠らざりつるを、思ひ立ちて、十一月の二日、初き」の縁語。 0 弘安年間 ( 一 = 天 ~ 八 0 に十一月二 よ はちまんぐうかぐら めの卯の日にて八幡宮御神楽なるにまづ参りたるに、「神に心を」と詠みける日が卯の日であった年はない。弘 安六年十一月五日が乙卯で、亀山 院の石清水御幸があり、院は七日 人も思ひ出でられて、 間参籠した。翌七年十一月五日は 己卯で、石清水社では恒例御神楽 いつもただ神に頼みをゆふだすきかくるかひなき身をぞ恨むる が行われ、やはり亀山院の御幸が さんろう 七日の参籠果てぬれば、やがて祇園に参りぬ。「今はこのあったことが、『勘仲記』などから 〔三五〕法華講讃 知られる。作者の石清水参詣と関 さんがい 世には残る思ひもあるべきにあらねば、三界の家を出でて係があるか否かはわからない。 一五一切衆生の生死輪廻する三種 げだっかど ありあけみとせ 解脱の門に入れたまへ」と申すに、今年は有明の三年に当たりたまへば、東の世界、欲界・色界・無色界。 一六『法華経』の経文の意を講説し ちゃう やまひじり ほっけこうさん一セしゅぎゃう 。↓一八一ハー注一三。 山の聖のもとにて、七日法華講讃を五種の行に行なはせたてまつるに、昼は聴て讃嘆する法会 一セ『法華経』法師品第十に説く もん けちぐわん 三聞に参り、夜は祇園へ参りなどして、結願には、露消えたまひし日なれば、こ同経を受持・読経・誦経・解説・ 書写する五種の修行。 ここち かね 一 ^ 法会などの最終日。↓一〇〇 とさらうち添ゆる鐘も涙もよほす心地して、 一九「音」は泣く音。「鐘」の縁語。 折々の鐘の響きに音を添へて何と憂き世になほ残るらむ ニ 0 以下、弘安七年の記事と見る。 ありし赤子引き隠したるもつつましながら、物思ひの慰めにもとて、年も返作者二十七歳。 うひ あかご さは いとな ひんがし
巻 一月日の過ぎてゆくのが速いこ との比喩。『荘子』などに基づく ニ「早しの意。縁語「年波」 ( 年 齢 ) を導く。「老らくの月日はいと ど早瀬川返らぬ波に濡るる袖か な」 ( 新古今・雑下覚弁 ) によるか。 こまはやせがは 隙ゆく駒の早瀬川、越えて返らぬ年波のわが身に積もるを三「数ふればわが身に積もる年 四 〔こ物思わしき春 月を送り迎ふと何急ぐらむ」 ( 拾 かぞ ももちどり 数ふれば、今年は十八になりはべるにこそ。百千鳥さへづ遺・冬平兼盛 ) 、「尽きもせず同 じ憂き世を惜しむとやわが身に積 ひかげ もる年は見るらむ」 ( 続古今・雑上 る春の日影のどかなるを見るにも、何となき心の中の物思はしさ、忘るる時も 俊成卿女 ) などを念頭に置くか。 はな なければ、華やかなるもうれしからぬ心地ぞしはべる。 四「百千鳥さへづる春は物ごと にあらたまれども我ぞふりゆく」 ことし五くすり くわぎんのゐんのだいじゃうだいじん こぞごゐんのべったう 今年の御薬には、花山院太政大臣参らる。去年、後院別当とかやになりて ( 古今・春上読人しらず ) を引く。 五 ↓一一ハー注七。 ′ ) しょ とろ・ おはせしかば、何とやらむ、この御所ざまには快からぬ御事なりしかども、春六藤原 ( 花山院 ) 通雅。四十一一一歳。 セ ↓六七ハー注一三。 ぐう うら 宮に立たせおはしましぬれば、世の御恨みもをさをさ慰みたまひぬれば、また〈後深草院の皇子煕仁親王。 九台盤所に詰めている女房たち。 のち とが 後までおばしめし咎むべきにあらねば、御薬に参りたまふなるべし。ことさら、一 0 文永八年。↓一一ハー六行。 = 「新しき年ともいはずふるも にようばうそでぐち だいばんどころ 一ころ きめ 女房の袖ロもひきつくろひなどして、台盤所ざまも人々心ことに、衣の色をものはふりぬる人の涙なりけり」 ( 源 氏・葵 ) を引くか ひととせなかのゐんのだいなごん 尽くしはべるやらむ。一年、中院大納一言御薬に参りたりしことなど、改まる年 0 作者の内向的で暗い心情が述べ られている。白楽天の新楽府「上 陽白髪人」などの影響があるか。 ともいはず思ひ出でられて、古りぬる涙ぞなほ袖濡らしはべりし。 ひま ふ - 】とし こころよ としなみ三
( 現代語訳一一二〇ハー ) おむろゑんまんゐんしゃうごゐんばだいゐんしゃうれんゐん 御室・円満院・聖護院・菩提院・青蓮院、みなみな御供に参らせたまふ。その九藤原 ( 滋野井 ) 実冬。中納言公 光の一男。この年三十歳。 一 0 性助法親王。以下四人ととも 夜の御あはれさ、筆にも余りぬべし。 に後嵯峨法皇の皇子。この年二十 つねたふ みなひと 経任、さしも御あはれみ深き人なり、出家そせむずらむと、皆人申し思ひた六歳。↓二四ハー注 = 。 = 円助法親王。この年三十七歳。 一五こっ りしに、御骨の折、なよらかなるしじらの狩衣にて、瓶子に入らせたまひたる円満院は園城寺 ( 三井寺 ) の一院。 三覚助法親王。この年二十三歳。 聖護院は園城寺の一院。 御骨を持たれたりしそ、いと思はずなりし。 一三最助法親王。この年二十歳。 よるひる 新院、御嘆きなべてには過ぎて、夜昼御涙の隙なく見えさせたまへば、さぶ菩提院は延暦寺の一院。 一四慈助法親王。この年十九歳。 おんそう りゃうあん けいひっとど らふ人々もよその袖さへ絞りぬべきころなり。天下諒闇にて、音奏・警蹕止ま青蓮院は延暦寺の別院。 一五御骨を安置する時。記録によ すみぞめ れば二月二十日、浄金剛院に安置。 りなどしぬれば、花もこの山のは墨染にや咲くらむとぞおばゆる。 一六表面に皺 ( 凹凸 ) のある織物。 そふく 大納言は人より黒き御色を賜はりて、この身にも御素服を着るべきよしを申宅「深草の野辺の桜し心あらば 今年ばかりは墨染に咲け」 ( 古今・ されしを、「いまだ幼きほどなれば、ただおしなべたる色にてありなむ。取り哀傷上野岑雄 ) を念頭に置く。 天父の雅忠。 0 恩顧を受けた君主の死に際して 分き染めずとも」と、院の御方御気色あり。 廷臣が出家することは、殉死に通 おほみやゐん さても、大納一言、たびたび大宮院・新院の御方へ出家の暇ずるものがある。経任が出家しな 〔一三〕父、出家を許され かったことをことさら記したのは、 忠誠であるにもかかわらす出家を を申さるるに、「おばしめす子細あり」とて、御許されな 許されなかった父雅忠と対比する し。人よりことにはべる嘆きの余りにや、日ごとに御墓に参りなどしつつ、重狙いがあってのことか。 そで 一セ みけしき しゆっけ かりぎめ ひま しさい とも いとま
ばる。 一藤原惜子。↓六七ハー注一六。 四 ニ絃楽器で、七絃。 むらさきうへ ひんがしかたをんなさんみやきん しゃうことたかちかむすめいままゐ 紫の上には東の御方、女三の宮の琴の代はりに、箏の琴を隆親の女の今参三絃楽器で、 + 三絃。 四隆親は作者の母方の祖父。こ しょまう りにかせむに、隆親、ことさら所望ありと聞くより、などやらむ、むつかしの年七十五歳で、正一一位大納言兵 部卿。↓五一一ハー注六。 まり 、 ) と - ば くて参りたくもなきに、「御鞠の折に、ことさら御言葉かかりなどして、御覧五新参女房の意。藤原識子。文 保元年 ( 一三一七 ) 六月従一位となり、 あかし 鷲尾一品と称す。 じ知りたるに」とて、「明石の上にて、琵琶に参るべし」とてあり。 六絃楽器。四絃。 まさみっちゅうなごん がく 琵琶は、七つの年より雅光の中納言に、初めて楽一一つ、三つ習ひてはべりしセ源雅光。通光の男。作者の叔 父。文永四年 ( 一 = 六七 ) 没、四十一一歳。 を、いたく心にも入れでありしを、九つの年よりまたしばし御所に教へさせお ^ 院が教えてくださって。 九琵琶の三秘曲、流泉・啄木・ 九く そがふまんじうらく はしまして、三曲まではなかりしかども、蘇合・万秋楽などはみな弾きて、御楊真操。 ばんしき 一 0 蘇合香。雅楽。盤渉調の唐楽 くわうぞ 賀の折、白河殿荒序とかやいひしことにも、「十にて、御琵琶を頼りて、いたの曲。管絃にも舞楽にも用いる。 一セ = 雅楽。盤渉調の唐楽の曲。 くわりばくひたかふ したんてんじゅ あかぢ いけして弾きたり」とて、花梨木の直甲の琵琶の紫檀の転手したるを、赤地の三後嵯峨院五 + の御賀。文永五 年、作者十一歳の年の三月に予定 ごさがゐん されたが、蒙古襲来のため、中止。 錦の袋に入れて、後嵯峨の院より賜はりなどして、折々は弾きしかども、 一三禅林寺殿。後嵯峨院の御所。 一四秘曲。底本「くわいそ」。 く、いにも入らでありしを、弾けとてあるもむつかしく、などやらむ、ものくさ 一五後深草院の弾く琵琶を真似て。 一九きめくれなゐうちきもよぎ うはぎうらやまぶきこうちき 一六花梨 ( バラ科の落葉高木 ) の一 ながら出で立ちて、「柳の衣に紅の袿、萌黄の表着、裏山吹の小袿を着るべし」 枚板で甲を作った琵琶。 宅絃の頭部の絃を巻き付ける棒。 とてあるが、なぞしも、かならず人よりことに落ちばなる明石になることは。 116 にしき とし ここの ニ 0
文永八年 (IIPI) 元旦から同十一年の歳晩まで、作者十四歳から十七歳までのことが回想されている。 十四歳の春を迎えて美しく成長した作者を目の前に、四歳の時からそれまで、ほとんど親代りに面倒を見てきた後深草院 は、彼女を自らの後宮に入れたいとの意向を、父久我雅忠にささやく。そのことを知らない作者は、それ以前から母方の縁 続きである「雪の曙」と慕情を通わしあっていたが、正月半ば、河崎の実家に御幸した院によって、意に反してその愛人と された。しかし、院の女房という待遇は変らぬままに、多くの后妃たちと院の寵を争うという環境に置かれるに至る。中で も后の東二条院は、院の愛人の列に加えられた作者を快く思わなかったが、作者は作者で、この女院の御産に際してのもの きとう ものしい祈疇や盛大な祝賀のさまを見て、女としての幸運を思い、羨望の念を禁じえない。 後深草院の父後嵯峨法皇が崩じた文永九年の夏、父が発病した。その頃、作者は初めて懐妊していた。父はそのことを知 えんめい * 一と って延命の祈疇をもさせたが、病は重くなる一方で、その年の九月、宮女房としての生き方につき、教え諭して世を去った。 二歳の時に母を失った作者は、こうして十五歳の秋に孤独な身の上となった。乳母の家で父の喪に服している作者のもとに、 「雪の曙、が忍んで通って来て、愛情を訴える。作者はその情熱を拒みきれなかった。彼は、一時作者が籠っていた冬の醍 醐の尼僧の房にも通ってくる。 文永十年二月、作者は院の皇子を出産したが、その後も「雪の曙」との忍び逢いを続け、ついにその子を身ごもる。院に は月を偽り、恋人に看護されながら、翌年の九月に女子を生んだ。院には死産と偽って報告した赤子は、恋人がどこへとも ようせつ 知れず抱いて行った。同じ年の十月、前年生れた皇子が夭折した。作者は人間の苦しみ・悲しみを思い、幼い頃から心惹か さいぎト - ろ・ れていた西行のような境涯への憧れをいっそう強くする。後深草院も院政問題がこじれかけて出家を思い立っ三 : オカ若宮の 立坊によってそのことは沙汰止みとなった。 作者の亡父が奉仕したことのある前斎宮が、伊勢から上洛してくる。母后大宮院のいる嵯峨殿でこの異母妹を接待した後 深草院は、好色心から、作者に手引させて情交を結ぶが、幻滅する。これより以前、作者は嫉妬した東二条院によって、そ の御所への出入りを止められていたが、女院はさらに後深草院に使者を送って、作者の振舞いを非難してきた。院は長文の 返信をしたためて、作者を精いつ 。いかばいだてする。一方、作者は嵯峨での夢のような体験が忘れられない前斎宮を召す よう、院に勧める。春宮の生母、東の御方が召される歳晩の夜更け、作者は局で「雪の曙」と忍び逢う。 さたや
たびかさ やとおばゆるも、わが咎ならぬ過りも度重なれば、御ことわりにおばえて、参一近衛の大殿・亀山院との情事 や「有明の月」との恋も、事の起り けふあす から言えば作者自身の意志による りも進まれず。今日明日ばかりの年の暮れにつけても、「年もわが身も」と、 ものではないので、こう言う。 ニご道理に思われて。自分とし いと悲し。 ては「わが咎ならぬ過り」と思う一 ず ゐ さんぶつじようえん ありし文どもを返して、法華経を書き居たるも、「讃仏乗の縁」とは仰せら方、それが院にとっては不快であ と ることも、作者にはよくわかって つみ あん いるのである。 れざりしことの罪深さも、悲しく案ぜられて、年も返りぬ。 三『源氏物語』幻巻での源氏の歌、 「もの思ふと過ぐる月日も知らぬ 改まる年ともいはぬ袖の涙に浮き沈みつつ、正月十五日に ま 〔毛〕追善供養 間に年もわが世もけふや尽きぬ や、御四十九日なりしかば、ことさら頼みたる聖のもとへる」を引く。 四「有明の月」から送られた消息 かね を裏返して。 まかりて、布薩のついでに、かの御心ざしありし金をすこし取り分けて、諷誦 五供養のために『法華経』を書く。 六「願以今生世俗文字之業狂言 の御布施にたてまつりし包み紙に、 綺語之誤翻為当来世々讃仏乗之 一 0 たび あかっき こんじゃうせぞく この度は待っ暁のしるべせよさても絶えぬる契りなりとも 因転法クハ今生世俗 文字ノ業狂言綺語ノ誤リヲモテ のうぜっ ひじり さんぶつじよう てんばうりん 翻シテ当来世々讃仏乗ノ因転法輪 能説の聞こえある聖なればにや、ことさら聞く所ありしも袖の隙なき中に、 ノ縁トセム ) 」 ( 和漢朗詠集・雑・仏 ありあけふるごと 事白楽天 ) 。 また有明の古事そ、ことに耳に立ちはべりし。 セ以下、弘安五年 ( 一一一八一 l) の記事 きさ、りギ」 、一もゐ つくづくと籠り居て、如月の十五日にもなりぬ。釈尊円寂の昔も、今日始めと見える。作者二 + 五歳。 ^ 僧が半月ごとに集って互いに れいひじり たることならねども、わが物思ふ折からはことに悲しくて、このほどは例の聖自己の罪を懺悔する儀式。 四 ふせ ふみ ふさっ とが ほけきゃう あやま そで しやくそんゑんじゃく そでひま ひじり ふじゅ
半・正月三が日休 ) 。小町なべ、少将なべ、天ぶら、そば手許に置き、今回の仕事でもさまざまな学恩を蒙った などで、ゆっくりとくつろげる。 『とはずがたり』関係の本は相当の数に上るが、それらの 海宝寺 ( 伏見区桃山最上正宗一一〇 0 七五ー六一一 ー一六七一一 / 十一時 中で最も発行年次の古いものは、「桂宮本叢書」第十五巻、 ~ 十五時・木曜休 ) 。普茶料理で知られた店。ただし、四 人以上で要予約。 物語一である。この本は昭和二十五年三月二十日に初版が 発行され、戦後の『とはずがたり』研究の端緒となったも のだが、手許の本は残念ながらその研究史的に貴重な初版 本ではなく、『むくら』 ( むぐら ) を併せ収めた昭和三十二 雅忠女の横顔 年九月刊の増訂再版本である。読点を打つ以外はすべて底 本のままという方針で翻刻されたこの『とはすかたり』に よって、読んだのであると思う。この本の初めの方には、 久保田淳 仮名沢山の本文の脇に自分で振り漢字がしてある。けれど こがまさたむすめ 後深草院二条、久我雅忠女 , ーー『とはずがたり』の作者も、巻二の途中からは振っていない。だから、どこまで読 が私の心の中に、たとえおばろげでも一つの像を浮び上がみ通せたかは、じつはあやしい らせてきたのま、、 。したいいつごろだったろうか。鼠がの それからも、私はこの作品を遠巻きにしていた。昭和四 べんのないし し餅をあちこちかじり散らすように、この作品の解説を思十年頃、『弁内侍日記』について短い論文を書かされた時、 かゆづえ いつくところから書き始めながら、ふと振り返ってみる。 『とはずがたり』巻二の粥杖騒動と対比して、『弁内侍日 市古貞次先生の御講義で初めてこの作品のことを教えて記』の明るさを確かめようとしたり、中世文学史のデッサ しよくもく 頂いたのは、昭和三十年、大学四年の時のことであったとンを試みた際に、紀行編での矚目の景すべてが自己にはね 思う。その時の教室が異様なまでに↓んと静まり返ってい返ってくるその自照性を取り上げたり、求められるままに たことなどは、塚本康彦氏がすでに回想している。この作図書新聞の類に冨倉徳次郎氏訳『とはずがたり』 ( 昭和四十 品がまださほど脚光を浴びる以前のことであった。 一年刊筑摩書房 ) の紹介をさせて頂いたりという程度のお だくさん
( 一毛三 ) の記事。作者十六歳。 はじめ 九年・月・日の三つの元の意で、 正月一日、元日に同じ。 一 0 違和感があり。 っ′ ) もり 晦日には、あながちに乳母ども、「かかるをりふし、山深 = 早速、参詣する。 三九〕栄えなき年の初め 一ニ源氏の氏神である石清水八幡 き住まひもいまいまし」など言ひて、迎へに来たれば、、い宮か。 一三通夜の夢に現れた亡き父の面 影。「むばたまの」は「夢」にかかる のほかに都へ帰りて、年も立ちぬ。 九 枕詞だが、ここでは夢の意に用し ぐわんにちぐわんさん つ、 0 よろづ世の中も栄えなき年なれば、元日・元三の雲の上もあいなく、私の袖 一四夢の記として別記があったと かた 一ニやしろ の涙も改まり、やる方もなき年なり。春の初めにはいっしか参りつる神の社も、知られる。 一五出産の気配 きせい 今年はかなはぬことなれば、門の外まで参りて祈誓申しつる心ざしより、むば一六仁和寺性助法親王。↓二四ハー 。も おもかげべちしる ↓二三ハー注天。 たまの面影は別に記しはべれば、これには洩らしぬ。 一 ^ 隆助。権大納言藤原 ( 四条 ) 隆 きさらギ」 よひ ′ ) しょ 如月の十日、宵のほどにその気色出で来たれば、御所ざま衡の男。仁和寺の僧。僧正法眼 〔三 0 〕皇子を産む 「鳴滝」は洛西の鳴滝にあった真言 宗御室派の寺院、般若寺のこと。 も御心むつかしき折から、私もかかる思ひのほどなれば、 一九経海。参議左大弁藤原 ( 吉田 ) たかあきだいなごん よろづ栄えなき折なれど、隆顕の大納一一 = ロ取り沙汰して、とかく言ひさわぐ。御資経の男。僧正に至る。↓二八ハー 一六 一七 一九注一一一。「毘沙門堂」は山科にある延 巻 おむろ ほ , ルば - っ あいぜんわうほふなるたきえんめいく 所よりも御室へ申されて、御本坊にて、愛染王の法、鳴滝、延命供とかや、毘暦寺派の寺院。 ニ 0 権大納言源 ( 北畠 ) 雅家の男。 5 さもんだうそうじゃう かた 沙門堂の僧正、薬師の法、いづれも本坊にて行なはる。わが方ざまにて、親源大僧正、天台座主に至る。 こ、一ち まひぬるなごりも、また忍びがたき心地するこそ、我ながらうたておばえはべ り - ーレか もんと めのと さた わたくしそで ニ 0 しんげん
くぎゃう 一廂の間。寝殿造りの母屋の四 な悲し」とて逃げ入る。廂にさぶらふ公卿たち、「何か見さわぐ。人魂なり」 面にある細長い一間。天井を張ら と おほゃなぎ と言ふ。「大柳の下に、布海苔といふものを溶きて、うち散らしたるやうなるない。 ニ身体から遊離した魂を招き返 す祭。 ものあり」などののしる。 三道教で、人の寿命を司る神。 うら こよひ しやがて御占あり、法皇の御方の御魂のよし、奏し申す。今宵よりやがて、招四脚気か。「御足の気煩はしく わたらせたまふと聞きしほどに」 まつりたいぎんぶく ( 五代帝王物語 ) 。 魂の御祭、泰山府君など祭らる。 0 めでたい祝宴が突如暗転して、 きう 法皇の病死の前兆である怪異の描 かくて、長月のころにや、法皇御悩みと言ふ。腫るる御事にて、御灸いしい 写へと続くあたりは巧みである。 しとひしめきけれども、さしたる御験もなく、日々に重る御気色のみありとて、東二条院御産を史実より一年後に ずらせたのは、あるいはこのよう な効果を狙っての虚構か。 年も暮れぬ。 五以下、文永九年 ( 一 = 七一 l) の記事。 あらたまの年ともにも、なほ御わづらはしければ、何事も作者は十五歳。「あらたまの」は年 〔 = 〕嵯峨殿の栄えなき にかかる枕詞。 は 正月 栄えなき御事なり。正月の末になりぬれば、「かなふまじ六依然として法皇は患っておら れたので。 さが みこし き御さまなり」とて、嵯峨御幸なる。御輿にて入らせたまふ。新院やがて御幸、セ新年は行事も多く、栄えある 気持になるのにという、い しり しり りゃうにようゐん みくしげどの 〈助からないであろうご様子。 御車の後に参る。両女院御同車にて、御匣殿、御後に参りたまふ。 九嵯峨殿 ( 亀山殿 ) に御幸なさる。 せんもの もろなり みづがめ 道にて参るべき御煎じ物を、種成・師成二人して、御前にて御水瓶二つにし一 0 後深草院のこと。 一六 = 大宮院と東一一条院。大宮院は つねたふほくめんげらふのぶとも うちの たため入れて、経任、北面の下﨟信友に仰せて持たせられたるを、内野にて参藤原姑子。太政大臣実氏の一女。 ながっき ふのり ひさし かた たねなり なや しるし たま そう は四 おもみけしき ひとだま せう
とはずがたり 254 ひま そで 古人が隙を走り過ぎて行く駒にたと 今回御薬の役に参られたのであろう。格別に女房たちの袖 ぐち 〔一〕物思わしき春 だいばんどころ えた、時の移り変りの早さと言った ロも美しく見えるようととのえなどして、台盤所のあたり はやせがわ ら、早瀬川のようなもの、その川波ではないけれども、越でも人々がとくに心配りして、衣装の色などをも尽された えて二度と元に戻らない年波がわが身に積るのを数えてみ のでしようか。いっぞやの年、亡き父中院大納言雅忠が御 ももちどり ると、この年は十八になります。「百千鳥さへづる春 ( た 薬の役に参上したことなどが、「改まる年ともいはず ( 新 くさんの鳥が楽しげにさえずる春 ) 」の日ざしののどかである年であるというのに ) 」ふと思い出されて、昔を懐かしむ涙 のを見るにつけ、何が原因とはっきり言えない心のうちの にやはり袖を濡らしました。 はんもん かたわか 煩悶を、忘れた時もないので、まわりが華やかであるのも、 春宮の御方は、早速御方分ちをしょ 〔ニ〕院を打っ わたしにはうれしくない心地がいたします。 うということで、それも正月十五日 みちまさ 今年の御薬の役には花山院太政大臣藤原通雅が参仕され のうちにと大騒ぎする。いつものように、院の御方・春宮 る。去年、後院別当とかいう役職に就いていらっしやった の御方と二方におなりになって、廷臣や女房はめいめい籤 ので、何ということもなく、こちらの御所のあたりではご に従って分けられる。相手には皆、廷臣に女房を合せられ とうぐら・ おとど もろただ 不快のご様子であったけれども、御所様の御子が春宮にお る。春宮の御方には傅の大臣藤原師忠をはじめとして、皆 立ちになられて、政治上のご不満もすっかりお散じになっ廷臣、院の御方には御所様以外は皆女房で、相手を籤でお たので、また後々まで根に持たれるべきことでもないので、取りになる。わたしは傅の大臣のお相手に当った。「めい ふ