13 巻 よろづ 万の文反古 せたいだいじ O 世帯の大事は正月仕舞 とら ずいぶんニ 随分尾を見せぬ寅の年の暮 しやくせん 千里にげても借銭はゆるさじ 四 えいぐわひっこみどころ 0 栄花の引込所 五 えどてだいさんよう 江戸手代算用の外 鎌倉へ隠居の年切 ふみほうぐ 初巻目録 六 ねんきり しまひ ま、 一節季仕舞に同じ。年末に掛売 り・掛買いの収支決算をすること。 はたん ニばろを出さない。家計の破綻 を見せない 三寅の縁語。「虎の御門の夜を こめ、千里に行くも奉公」 ( 永代蔵 一の四 ) 。尾・寅・千里は縁語。 は六五四 年年江隠 間切戸居 の米の所 生。出 活一店 費年を 。間預 のっ 給て 料い でだな
′」くらう ぎに葬礼いたします。御苦労ながら、野墓へ御出たのみます」というて来る。 したてものや くだ しろこそで 取りまぜてかしましき中に、仕立物屋より、「縫ひに下されました白小袖を、 用 ぎんす 算ちょろりと盗まれました。せんさくいたしまして出ませずば、銀子たてまして、 五「天下泰平国土安穏」による。 ひがしどなり ′ ) むしん 六江戸・大坂間の物資輸送の航 世御損はかけますまい」と、ことわり申しに来る。東隣から、「御無心なれども、 路を大回し、奥羽日本海沿岸から と申しきた 江戸へ輸送する航路を北回りとい 今晩俄に井戸がつぶれました。正月五ケ日、水がもらひましたいー った。大回しは酢・醤油・酒・ いちだんな る。その跡から一旦那のひとり子、金銀をつかひすごし、首尾さんみ、にて所油・木綿などを輸送する菱垣回船、 伊丹の酒その他を輸送する樟回船 を立ちのくを、母親の才覚にて、御坊さまへ正月四日まで預けにつかはしける。が動き、北回りは秋田・津軽・仙 四 台などの米その他を輸送した。 しはすばうずひま セ陸路、馬で輸送すること。 これもいやとはいはれず。うき世に住むから、師走坊主も隙のない事ぞかし。 ^ 二十五日の誤りか。十二月二 十五日より三十日まで、日本橋四 日市の広小路に小屋を建て、正月 の飾り道具を売った。 ちゃうきうえどだな 九須田町から芝金杉へ至る通り。 四長久の江戸棚 一 0 京特産の羽子板。内裏羽子板。 二十六日より羽子板市が立った。 てんかたいへい こくどばんにん あきな みち / ー、たな 天下泰平、国土万人江一尸商ひを心がけ、その道々の棚出して、諸国より荷物、 = 正月の小児用の玩具。六稜形 の長柄の槌で、木製の玉を打って ふなぢ をかづけ うまかた すまんだ とひや 学、っちょう 船路、岡付の馬方、毎日数万駄の問屋づき、ここを見れば、世界は金銀たくさ遊ぶもの。毬打とも。 ) いカく しょあきんど いなかま 一三通り町は田舎間 ( 六尺を一間 んなるものなるに、これをまうくる才覚のならぬは、諸商人に生れて口をしき ( 現代語訳三六〇ハー ) ) うれい にはかゐど あと き一いカく よ きんぎん のばかおいで しゅび 一火葬場。 ニ銀貨で弁償して。 三最も重要な檀家。 四 ↓一九二ハー注一四。 だいり ひがき たる
巻五あらまし 一つまりての夜市商売が不景気というが、値段によっては大商いもあるわけで、世間は確実に繁栄に向っている。それ おおみそか にしても貧乏人の大晦日は苦しいもので、ある鍛冶屋が正月の酒代がないので、大晦日の夜市に編笠を売りに行ったが、 皆さし詰って哀れな顔をし、さまざまな品物を売りに出している。鍛冶屋もようやく十四文に売ったが、「五月に三十六 文で買って、一度しかかぶらない」と言ったのは、身の恥をあらわしておかしかった。 ひしやく くまのび かんじん ニ才覚の軸すだれ「一升はいる柄杓へは一升よりはいらす」と諺にいうが、それは熊野比丘尼と竜松院の勧進の貰いの ぶげん 相違からもわかることである。分限になるかならぬかは生れつきにあることで、寺子屋の師匠が、子供の時からこすから ねもら・ く金儲けを考える者は分限になれないと言ったが、そのとおり、軸すだれを考案して売るような子供は分限にはなれす、 親の言いつけどおり手習に精出した子供が、長じて分限になった。 さんだん 三平太郎殿ある年、大晦日と節分の合致した夜、平太郎殿讃談のある真宗の寺に、参詣人が三人しかない。言葉巧みに 帰らせようとする住職に、三人が告白する。老婆は息子が掛取りから逃れる手段として、女房に追い出された伊勢の男は 一夜の宿として、三番目の男は履物泥棒の目的で寺に来たものであった。浮世の厳しさを住職は思い知らされるが、その 住職もまた大晦日の現実に巻き込まれて忙しい一日を過す。 かせ だいみようぎ 四長久の江戸棚江戸は諸国の商人の稼ぎ場で、年末の江戸の繁盛は、土地に住む人の気質が大名気だからである。江戸 かねびきやく から上方への銀飛脚の宿を見ると、多量の金銀が上ったり下ったりしているが、これほど多い金銀なのに、江戸にも小判 一両持たないで年をとる者がいる。一夜明ければ、豊かな正月となった。 かみがた かじゃ
ただいま しよう』と口々に言って追い出しましたので、あまりに悲来て、「姪御様が、只今やすやすとご安産なさいました。 3 しくて泣くこともできません。明日は故郷に帰ることに決お知らせいたします」と言う。まもなく、そのあとから、 さしものし 「指物師の九蔵が、今さっき掛乞いと口論をされまして、 めましたが、今夜一夜を明かす場所がなく、私は法華宗で 用 算すけれど、ここへ参りました」と、その身の始末を打ち明首をくくって死なれました。夜半過ぎに葬式を出します。 間けることも、哀れにもまたおかしいことである。 ご苦労ですが、火葬場までおいでください」と言って来る。 また一人の男は大笑いして、「私のことは、あれこれと取り交ぜてうるさい最中に、仕立物屋から、「縫いによこ しろこそで かけ ) 一 せんさく 申しにくいほどです。家にいますと、方々の掛乞いが生か されました白小袖を、ちょっとの隙に盗まれました。詮索 ぜにもん して出ません時は、金で弁償して、ご損はかけません」と、 しておかない体です。誰に頼んでも、銭十文の借り所もあ 了解を求めに来る。東隣から、「ご無心ですが、今晩にわ りません。酒は飲みたいし、体は寒くなってきます。いろ おおみそか いろと無分別なことも考えてみましたが、大晦日を切り抜かに、井戸がつぶれました。正月五か日間、水がもらいと けるくふうもっきません。たいへんあさましい考えですが、 うございます」と言って来る。そのあとから、いちばん大 だんか もんとでら 今宵は門徒寺に、平太郎殿の讃談を聞く信者が多数集って事な檀家の一人息子が、金をつかいすぎて、さんざんの不 ぞうり せった 来るだろう。その草履や雪踏を盗み取り、酒代にあてよう首尾で、親からよその土地に追放されるのだが、母親の考 」ぼう えで、御坊様へ正月四日まで、と預けによこした。これも と心がけてみましたが、ここだけでなく、どこのお寺にも いやだと言われず、この世に住んでいる以上は、暇なはす お参りの人が一人もなく、仏様をだますこともできないも しわすばうず の師走坊主も、暇のないことである。 のです」と、身の上を打ち明けて、涙を流した。 よ・一で ちょうきゅうえどだな 住職も横手を打って、「さてさて、その身の貧乏からは、 四長久の江戸棚 さまざまに悪心もおこるものです。皆さん方もみな仏体で うキ、よ すが、どうにもならない憂世ですな」と、つくづく人間世 天下泰平、国土安穏の御代であるから、万人ともに江戸 あわ 界の無常を思っていられるうちに、女が慌ただしく走って での商売を心がけ、その商売、商売の支店を出して、諸国 ( 原文三〇一一ハー ) めいご すき
巻四あらまし 一南部の人が見たも真言京の商人が長崎滞在中の知人に、京都の様子を知らせた手紙である。川原町の利平が奥州へ行 商の留守、南部から来た人の話によって、利平が最上川の洪水で死んだと信じた人々が、女房に家のためだからと、利平 の弟と結婚させたところ、その翌日、利平が無事に帰って来る。利平兄弟は運命の暴力に抗して、人間の誇りを保っため に自害し、女房も行方知れずになった、と伝えている。 ニこの通りと始末の書付江戸に下って成功した男が、勝手元不如意になって、相談の手紙をよこした大坂の親類へ与え た、返事の手紙である。自分が大坂を立ち退く時の不人情な仕打ちへの恨みと、江戸に出てから成功するまでの苦労をつ づり、江戸へ下ったら世話をしてやるが、そのためにはどのような身の持ちょうが必要かを説いている ひっそく 三人のしらぬ祖母の埋み金親に勘当されて飛騨に逼塞させられた男が、京都の腹違いの兄にあてた手紙である。父親の 知らない自分のさまざまの借金の跡始末をこまごまと頼み、隠居した祖母がへそくり金五百両を庭の隅に埋めていたのを、 掘り出して使ってしまっていることを告白している。
283 巻 五 胸算用 むね 二才覚の軸すだれ 親の目にはかしこし えどまは あぶらだる 江戸回しの油樽 よいち 一つまりての夜市 ふみほうぐ はぢなか / 、 文反古は恥の中々 ふうぞく いにしへに替る人の風俗 ぎん 目録 さいカくぢ・く よ、つ 大晦日は一日千金 巻五 ひがき 四菱垣回船で大坂から江戸へ回 漕される油檜。 すだれ 三筆の軸で作った簾。 一年も押し詰っての。大晦日の。 ニ夜間に立っ商いの市。
巻五あらまし 一広き江戸にて才覚男親類から見限られて、江戸に出て成功した男が、故郷堺の親類からの手紙に対してつづった返事 かわおや である。身持を実直に持って人に信用させ、くふうをこらして銀親を確保するのが商売に成功する秘訣であることを、自 分の場合を例に引いて説き、親類の子供を商人として成功させて帰郷させるから、江戸へよこすよう言い送っている。 ニニ膳居ゑる旅の面影盲目になった孫を持っ老婆が、盲目になった理由と、嫁が密通した結果息子を失ったこと、嫁も 自殺したことを知人に告げた手紙である。抱き乳母のさし櫛の先が孫の目にささって失明したこと、嫁が密夫に息子を討 たせたこと、息子の亡魂が密夫の逃走中に幽霊となってあらわれ、密夫が自訴して討たれ、嫁も投身自殺したこと、盲目 - 一うとう の孫を将来、勾頭にするよう計画していることなどを述べている。 三御恨みを伝へまゐらせ候馴染客に裏切られた大坂新町の遊女が、死を覚悟して、その客に送った抗議の手紙である。 馴れそめの当初から書き出し、自分がいかに誠実を尽したかを、心中立てのひとつひとつをあげて説き、今の全盛はすべ てあなたゆえと感謝しながらも、その客に捨てられては女郎の一分が立たない、死ぬ以外にないと、客の覚悟を問うたも のである。 いんせ、 四桜よし野山難儀の冬出来心から人々の意見も聞かす出家し、吉野に隠棲した男が知人にあてた手紙である。吉野にい . はま・内、、ば・つず る生臭坊主の生活を暴露し、生活の苦しさを述べ、寝覚寂しいままに若衆を一人抱えたいからと、こまかく条件をあげて、 世話をしてくれるよう言い送ったものである。 ねぎめ
ださるべく候。以上。 五月二十八日 反 文 の ながまち 万大坂長町五丁目 うちはや 団屋源五左衛門様 だんこ ニ世帯を持ちくずして。 この文の子細を考へ見るに、この男手前をしそこなひ、兄にも談合なしに 三資本を持つ者のみが富み栄え いづく かねかねまう る、の意。「されども古代に替り、 江戸へくだるとしれたり。何国にても今の世、金が金を儲ける時になりぬ。 銀が銀まうけする世となりて、利 かげふせい てうせき かく ) ) つねてい 朝夕その覚悟して、それ / 、の家業、精に入るべし。ない所には一匁ない物発才覚ものよりは、常体の者の、 資を持ちたる人の、利徳を得る時 ぐわせき につほんごくきんぎん は銀なり。日本国の金銀あつまり、瓦石のごとく見えし江戸より、わづか十代にそなりける」 ( 西鶴織留六の 四 ) 。 きゃうだい なが / 、むしんまうしこ ◆人生に絶望した主人公の最後の 匁あまりに手づまり、長々と無心申越すもいまだ兄弟のよしみなればなり。 望みとして、故郷で死にたいとの よだいじ 、心情が、ここに明らかにされてし 他人のかたへ銭一文の事にてもいひ難し。世は大事なり。 る。書簡体本来の性格が、主人公 の心情の表白を真実性のあるもの としている点を理解したい。 かね ふみしさい 彎来る十九日の栄耀献立 きた ぜにもん ええうこんだて がた てまへ しろ ちゃう 江戸白がね町 源右衛門判 はん′一くちょう 一現、中央区日本橋本石町と日 本橋本町との間。 かね もとで ( 現代語訳一三三ハー )
361 巻五 ・一うじ - まち・ せとものちょう から、あるいは船路で、あるいは馬方をつけて陸路を馬の蔵野で見るのに似ている。瀬戸物町や麹町の鳥屋の店先の がんかも 背で荷物を送るが、その荷物は毎日数万駄、問屋に到着し雁や鴨は、まるで雲の黒いのを地上に延ばしたようである。 ほんちょう 本町の呉服店の反物は、五色の京染や、屋敷向きの散らし て、この江戸を見ると、世の中に金銀は多量にあるのに、 この金銀を儲けるくふうができないのは、商人に生れて口模様に四季の景色を染め出し、美女の色香を増すことであ てんまちょうつみわた る。伝馬町の摘綿は、み吉野の雪の曙かと思うほど見よい 惜しいことである。 とおちょう さて、十二月十五日よりの江戸の通り町の繁盛を見ると、風物で、タベには提灯が家々に連なり、道も明るく、大晦 日の夜にはいって、春でもないのに一夜千金の賑わいを見 世の中で宝の市というのはここのことであろう。いつもの せている。家々で大きく商いをし、ことに足袋や雪踏は、 日用品を売る店はふりむきもしないで、正月の様子を見せ きようはごいたぎっちょう る店に近寄り、京羽子板や毬打に金銀をちりばめたものや、あらゆる職人が万事の買物の買いおさめとして、夜の明け はまゆみちょう 破魔弓一挺を小判二両も出して買う人があるのは、諸大名方に求めに来る。ある年には、江戸中の店で、雪踏が一足、 たいき の子息だけでなく、町人までも、万事につけて大気である足袋が片一方もないことがあった。幾万人が履くからとい って、このようなことは、日本第一の大都会だからあるこ からだ。町筋の中央に仲店を出して、商売に暇なく、銭は ふん とである。宵の頃は一足が七、八分の雪踏が、夜半過ぎに 水のように流通し、銀貨は雪のようである。富士の山容は とどろ 豊かで、日本橋を往来する人々の足音は、百千万の車の轟は一匁二、三分となり、夜明け方には一足二匁五分になっ ふなちょう たけれど、買う人ばかりで、売る人はなかった。またある くように聞える。船町の魚市場での、毎朝の売帳に見る売 だいだい かけこだい 上げ量は、四方を海で囲まれているといっても、浦々に魚年は、掛小鯛二枚で十八匁したこともある。橙一つで金 すだちょう うわさ の種もあることだ、と噂するほど膨大である。神田須田町二歩したこともあったが、高いので買わないということも ない。京や大坂では、相場違いの品は、たとえ祝儀の品物 の青物市場の野菜、毎日の大根など、百姓馬につけて絶え この点 であっても、なかなか買うような人の心ではない。 ず運び、数万駄もあるのは、とにかく畑が動いているよう だいみようぎ とうがらし はんぎりおけ である。半切桶に移し並べた唐辛子は、秋深い竜田山を武から、江戸の人間の気性を大名気というのである。京や大 うまかた だ たったやま あけばの たび
世間胸算用 2 へいたらうどの 一一一平太郎殿 かしましのお祖母を返せ - つは一 一夜にさまみ、の世の噂 ちゃうきうえどだな 四長久の江戸棚 きれめの時があきなひ 春の色めく家並の松 いへなみ しんらん ひたち 一親鸞上人が常陸 ( 現、茨城県 ) 在住時代の在俗の弟子真仏、俗名 平太郎。種々、奇特の行いがあり、 節分の夜、高田専修寺派を除く浄 土真宗の寺院では、平太郎殿の事 績を讃談した。 ニ行方知れずになったお婆を捜 す時の呼び声。 三諸国の商人が江戸に置いた支 店。 四品物が少ない時に、かえって 商売がある、の意。 五家ごとに立てられている門松。 六不景気になった。 セ「大場所」の略。大都会。 ^ 心玉。、いに同じ。 あるものは金銀ぢや」 ( ↓一一六四 一 0 逆算して寛文元年 ( 一六六一 ) 。明 暦 ( 一六璧 ~ 夭 ) を境に、武士の経済 的窮迫が深まり、町人の経済力が 伸びた。