259 巻 かしいことであった。 問い返すと、「昔と違って、あなたも細かいことに気のつ くようにおなんなすったねえ」と笑いながら、話を始めた。 しかし世之介は生れつき色好みで、身のほどをわきまえ といやがたはすは わかおやま ず、若女方をそそのかして色にふけり、ほかの色勤めの邪「あれは問屋方で蓮葉といって、十人並の女を、東国や西 おとくいねどころ 魔をしたので、またその一座も追いだされてしまい、言 , つ国から上ってくる顧客の寝所の世話をさすために抱えてお じだらく うきよしよう たど くのです。ですから自堕落で、気の向くままに男をつくり、 に言えない月日を送って、今日大坂に辿り着いた。浮世小 あいびき 出合宿を替えては次から次へと逢引し、親方の手前も平気 路に自分のことを気にかけている女がいるというので訪ね おろ はら かご てゆくと、花屋の次が煙草の賃刻み、その次の駕籠屋の西で夜昼おかまいなしに遊び歩き、妊めば無造作に堕胎して かきぞめのれん しまいます。着物は男に作ってもらい、小遣銭はあるに任 隣に、これという商売もなく、柿染の暖簾を掛けて、女一 人で暮していた。会ってみると乳母の妹であった。その乳せて使いはたすし、正月の晴着は夏秋まで持ち越さないで 売りとばして蕎奏や酒に替え、傍輩同士が三人寄ると虎渓 母も二、三年前に亡くなっていたが、昔のご恩返しだとい こうらいばし って歓待してくれた。その日の夕方、化粧をした女が、下三笑よろしく、興に乗じて高麗橋を渡って帰ることなど忘 せった しゃれ しまじゅす かちんぞめもめん べにうこん 着には紅鬱金の絹物、上に褐染の木綿着物、縞繻子の半幅れてしまい、神仏に参るにも、置綿にばら緒の雪踏と洒落 きり こまげた ひだりわき 帯を左脇に結び、赤前垂れをして桐の駒下駄を履き、束ねて足音高く、道すがらちょっとした話をするにも聞えよが ごばうはなゅ しに、『タベは手紙を書きかけたまま寝込んで、夜更けて 牛蒡に花柚などさげて、この家に駆け込んで来て、「いっ くしほんまき べっこう たてじま しちふだ から起されたのも知らなかった』とか、『鼈甲の櫛が本蒔 かお願いした縦縞の着物の質札は、お手もとにあったかし ら」と嚊にささやいた。世之介は内心おかしくてたまらず、絵にして三匁五分 ( 約三千五百円 ) でできる』などと、はし たないことをしゃべっているのを聞いたら、恋もさめてし 「あれはどんな女だ」ときくと、「奉公人でもまあ飯炊きに かえり まうでしよう。帰途も真っすぐには帰らず、切れ離れのい 近いほうです」という。「それにしては過ぎた身なりだ。 はたおり みいり い男を出合宿にくわえ込んで、いやといえないくらいの無 収入のいい機織女でも、給金にはおよそめどがあるものだ。 うわ 心をします。世をうかうかと暮したその果ては、仲仕や上 しったいここは給金の少ない半季奉公人はまれな所か」と じ カカ めした え かか
= 住吉神社。宮司は歴代津守氏 らが物そ、天神、小天神とせち かみやしろ なので、津守の神社といった。 一ニ堺の北端郷。 がしこくきはめぬ。二階座敷に 一三堺の北の廓。揚屋三軒。昼の しなさだ すゑみ、 介 うち女郎の貸しありと『色道大鏡』 品を定め、酒もいまだ末々には 之 ちもり 世 に見える。南の廓は津守 ( 乳守と ~ カ 央も ) という。 まはらぬ内に、「かづらき様ち おおしようじ 階一四堺大小路の南宿院町付近にあ った遊女町。天和元年 ( 一六八一 ) 禁止。 よっと借りませう」といふ。は 袋町は堺の妙国寺門前町にあった また 遊 で遊女町。天和一兀年禁止。 や立ちて行く。又女出て、「高崎 の 一五総揚げしたところで。 堺 一六堺の廓は南北とも太夫なく、 様」と呼立つる。座につけば入 天神は二十八匁 ( 約二万八千円 ) 、 かはたちかは 小天神は二十一匁であった ( 色道 替り立替り、一時程のうちに七八度づっ貸す程に、「さてもはんじゃうの所ぞ。 大鏡 ) 。 なじみ かず のぞ せんちゃ あいかた 馴染の客数もあるか」と下を覗けば、物をいふ男もみえず。手枕して煎じ茶が宅敵娼を決め。 のみつく じゃうるりばん ぶ / 、呑尽し、あくびしてはあがり、おりては浄瑠璃本など読み、何の用もな天大坂方言。場所が狭くて十分 な設備や活動ができにくい場合に いう ( 大阪方言事典 ) 。 五きに一座をさましぬ。この里の習ひにて、たび / 、貸しに立つ事を全盛に思は 一九伏見・大坂間十三里 ( 約五二 キロしを一日二回上下した三十石乗 れけるとみえたり。 巻 合船には、当時、新旧があり、新 よもすがら一九 こくのりあひここち 三十石は寛文七、八年 ( 一六六七、 0 よろづかちくろしく、あたら夜終新三十石に乗合の心地するなり。足をのば に建造された。新船の定員は二十 せば寝道具みじかく、蒲団はひえわたる。「なんと世之介様、旅の悲しさをよ八人、水主四人を定法とした。 一八 いっとき こてんじん ふとん なら てまくら ぜんせい
四 巻 安部を名乗る易者 ( 算置 ) がいた 四二十七とあるべきところ。 五「熊野の新宮・本宮の事をか せきもり たりては、鳩の飼料をしんぜられ 因果の関守 よとて銭をとりしより、鳩の飼と いふ名はつけたり」 ( 人倫重宝記 ) 。 あべげき としはつけ 年八卦のあふ事、かならず疑ひたまふな。過ぎし極月の末に、安部の外記と詐欺師。 しなの 六「信濃なるあさまのたけに立 できごころ さんおき つけぶりをちこち人の見やはとが いへる世界見通しの算置が申せしは、「二十八の年は、出来心にて人の女をこ めぬ」 ( 伊勢物語・八段 ) 。 かたわ セ碓氷峠。群馬県と長野県の境 ひて、一命浮雲く、片輪にもなる程の事ありぬべし。兼ねてつつしめ」といへ にある峠。中山道第一の険所。 ききす うさん はとかひ ^ 長野県北佐久郡軽井沢町にあ るを、「何をか申す事ぞ、胡散なる鳩の飼め」と、なんでもなう聞捨てしに、 った宿場。北国街道と中山道との をち そりおと 少しもたがはずこの身になるこそ不思議なれと、剃落されしあたまを隠し、遠分岐点。遊女は宿屋の飯盛女。 九「みがき」と木賊は縁語。木賊 おひわけ しなのぢ うすゐたうげ はづ こちびと 近人にあふも愧かしく、信濃路に入りて、碓井峠を過ぎ、追分といふ所に、遊は茎が堅硬なので、木材や角など を磨くのに用いる。「木賊かる木 とくさ やまがものひびあかぎれ ぐろ 女と名付けて色のあさ黒きをみがき、木賊かる山家者を胼胝をなほさせ、さ曾の麻衣袖ふれて磨かぬ露の玉そ 散る」 ( 謡曲・木賊 ) によって、下文 きそあさぎめ おりはだな き織の肌馴れしを木曾の麻衣に着替へさせ、女郎に仕立てぬるこそあれ、都忘の「木曾の麻衣」にかかる。 一 0 割織。古布を細くさいて横糸 にして織った粗末な織物。 れてこれもここにては面白し。折々は媚びたる者の泊り合せてならはしける = しやらノ、さい さかづき か、盃のまはりも覚え、あひするといふ事もしるぞ、すこしは慰みにもなりて、一 = 盃のやり取りの間に入って取 次をすること。 きをとこ 一三まるつきり武骨な男 まんざらの木男よりはまさるべし。 みどほ あぶな 四 ′ ) くげつ した
ているので、皆窮屈に思って「脱げ」と言うのだが、どう りげに見えるし、一間をわざと薄暗くこしらえているのは、 くせもの いよいよ曲者に違いない。「ここは」と友達にきくと、京しても脱がない。「お前は十六だから元服して出来たての おが さかやき あいまいやど 都でも知られた曖昧宿であった。「小川通の糸屋の見世女、業平というわけだ。月代の似合ったお顔をちょっと拝ませ やっ かのこゅ 室町通の牙婆、そのほか鹿子結いの女工にいたるまで、皆てくれ」と、いたずらな奴がいて、ひょいと頭巾をとると、 ひたいぎわ ここへ男をくわえ込むのだ」と言っているところへ、年頃左の額際が四寸あまり血ばしり、まさしく打傷があった。 だれ はたち みんな驚いて、「一体誰にこんな目にあわされたのだ。男 は二十歳ばかりの小作りな女がやってきた。目が澄んでい かんべん だて て、そばかすのある、何となく男好きのする顔だちであ伊達仲間にひけをとらせたとあっては、勘弁がならない。 ちゅうろくてんせいはち 、こ」り - 一んにやくかいどう たとえ今売出しの天狗の金兵衛、中六天の清八、花火屋の る。氷菎蒻に海棠の花を折り添えて妙寿に渡し、大勢いる あた 人々を恥じらいながら、「今日は今熊野辺りで売っている万吉でも容赦はない。我々が付いていて仕返しをしないで 目薬を買ってこいとおっしやるので、そのお使いにまいり置かれるものか」と言うので、世之介は閉ロして、「とん でもないことでお恥ずかしい。横恋慕からこの始末だ」と ました」と言い捨てて、せかせかと帰ってゆくので、「あ からすまる れは」と妙寿に尋ねると、「烏丸通の、名を言えば皆さん打ち明けると、「それはまたどうしたわけだ」と問いつめ られ、言わねばならぬ破目になった。「皆さんの考えとは ご存じの、さるご隠居の召使ですが、同じ家の奥向きを捌 ほかかた 尸物屋の源 大違い、実は、うちの別宅のある河原町に、ト司 く手代と懇ろにしている身の上ですから、外の方には思い も寄りません」と答えた。「それじゃあ、ならずの森の柿介といって、丹後の宮津に通い商いをする者がある。留守 を頼むというので、折々は訪ねて、火の元などに気をつけ の木で、食うに食えない。何か口にはいる物はないか」と さわらぎちょう てやっていたが、源介の女房はもと椹木町のさるお屋敷に もちかけると、妙寿は引き取って、「そうですね。何かご 〕ちそう 奉公していたことがあるそうで、いかにも優しい様子に 馳走でもいたしましようよ」と受け流した。 えかねて、いろいろと道ならぬ思いを書き口説いてたびた 貯お昼過ぎになると、羽織や重ね着が苦になるほどばかば ずきん かしてきたのに、世之介だけは頭巾をかぶってきちんとしび文をやったが、一向に返事がない。それであるとき面と ねんご ひとま かき なりひら てんぐ
169 巻 ( 現代語訳三〇二ハー ) ^ 「さればさる人、長崎の寝道 具にて、京の女郎に、江戸のはり をもたせ、大坂の九軒町にて遊び たしと、願ひしとかや」 ( 難波鑑 ) 匂ひはかづけ物 による。京都島原の女郎は優雅で 美人が多く、江戸吉原の女郎は土 あげや 地がら張り ( 意気地 ) が強く、大坂 京の女郎に江戸の張をもたせ、大坂の揚屋であはば、この上何かあるべし。 新町は・揚屋の設備が豪華であると ・よしは、ら よしだ いちもんじゃ きんだいふ くぜっじゃうず ここに吉原の名物、吉田といへるロ舌の上手あり。風儀は一文字屋の金太夫にの意。 九寛文期 ( 一六六一 ~ 当 ) の太夫。 * のかぜほど かだう 見ますべし。手は野風程書いて、しかも歌道にこころざし深し。ある時飛入と一 0 島原の太夫。 * = 島原の太夫。 * ゅふペ ほたるとびい いへる俳諧師、「涼しさやタ吉田が座敷つき」とあるに、「蛍飛入る我が床のう三江戸の貞門系の俳諧師島田飛 入。『伊勢踊』 ( 寛文八年 ) などに入 まいど ひと ち」と即座の脇、これにかぎらず毎度聞きふれし事ぞかし。一ふしうたうて引集。 一三連俳における第二句目。 ほか いて、自然とこの勤めにそなはりし女なり。よろづかしこき事おもひの外なり。一四唄も上手で、三味線もこなし。 一五大身の旗本。 ことさらふびん 一六お仕打ち。面倒を見てくださ 山の手のさる御方、殊更に不便がらせたまひ、数々かたじけなき御しなし、 ったので。 六いやといはれず、外をやめて指に疵などっけて、まことのこころになって御尤宅ほかの馴染客を断。て、指の 血をしばり、誓紙に血判すること。 一 ^ 退き端。吉田と手を切る潮時 愛しさもます時、さる太夫を恋ひ初め、吉田のきばを色々仕懸けたまへども、 一九「世之介と同道して・ : 」と補っ くれがた こづかや て読む。小柄屋は本職の太鼓持で 一つも憎むべき事あらず。ある暮方に、ト / 柄屋の小兵衛ばかり召連れられ、 なく、出入りの道具屋。 「何によらず今日をかぎりに難儀を申し懸け、手をよく退きてあそびを替へるニ 0 まんまと手を切り。 と わき ニ 0 の ひにふ
好色代男 88 しゃ れて、「お年は」と問へば、うそなしに今年二十一社、茂りたる森はおもひ葉一二十一歳と二十一末社をかけ る。「麓に山王二十一社、茂りた るす る峰は八王寺」 ( 謡曲・兼平 ) 。 となり、世之介二十七の十月、「神のお留守、きく人もなきぞ」とさまみ、く ニ男女相愛のたとえ。 三十月は神無月。この月に日本 一どきて、それより常陸の国鹿島に伴ひ行きて、その身も神職となって、国々 国じゅうの諸神が出雲の大社に集 所々に廻る。 り、男女の縁を結ぶという ( 俗説 ごめん 水戸の本町に入りて、「これやこなたへ御免なりましよ。過ぎつる二十五日四茨城県鹿島郡鹿島町の鹿島神 宮。 くぜってんじん ごふくりふ こひかぜ 五水戸市の下町の大通り。 のロ舌、天神にまけさせられ、大じん御腹立あって、すなはち恋風をふかせ、 六毎月二十五日は天神の縁日。 はたち なき、け 十七より二十までの情しらすの娘、りんきつよき女房を取りころさんとの御事天神を太夫の次位の天神 ( 遊女 ) に 見立てた。 ふみへんじ なり。こはい事かな。これおそろしおもはば、文の返事もしたり、こころを懸セ天照大神の略。大尽客に見立 てた。 くる男によろこばせたがよい」と、わけもきこえぬ事どもをふれて、「さてこ おしおき さだ の所のなぐさみ物は」と尋ねければ、御仕置かたく、 定めての遊女といふ事も〈お上のお米蔵の摺り。 九下女。 さび おくらもみひき 一 0 簡単になびくのは、ろくな女 なくて、物の淋しきあしたは、御蔵の籾挽とて、やとはるる女のあるぞかし。 ではない げすひま やしきまち これは人のつかひ下主、隙の時はつかはしける。数百人っれだうて屋敷町を行 = 馴染の男。 三渋皮のむけた。垢ぬけした。 そで がてん く。その中によきもの見立てて、袖をひけども合点せず。なるはいやかたぎな一三江戸産の化粧水。↓五七ハー注 ちいん り。しをらしき女は大方知音ありてそこにたよりぬ。所々にそれ / 、の恋はあ一四のひき賃一日分。約五百四 みと 九 ひたち 四 かしま す 六 かみ かんなづき
の生活意識や風俗を、きわめて肯定的に、大胆に、しかも高度のテクニックをもって描いてみせたことによ る。そしてそのテーマは、封建制度の道徳と法律によってがんじがらめに縛られていた愛欲の自由という庶 男民の見果てぬ夢を、現実のものとして描くというものであった。冒頭 ( ↓一三ページ ) に言う。 うきょ いるさやま たじま ほとり 桜もちるに嘆き、月はかぎりありて入佐山、ここに但馬の国かねほる里の辺に、浮世の事を外になして、 ゅめすけかへな 好色道ふたつに寝ても覚めても夢介と替名よばれて : ・ うきょのすけ 主人公の浮世之介、略して世之介の父親を紹介した巻頭の一節は、短文ながら重要な意味をはらんでいる。 うきょ まず、中世的な憂世に代る浮世之介は、享楽的で現代的なプレイ・ポーイという意味であり、月と花との ふうえい 否定は、中世以来の詩歌の主流となっている花鳥諷詠、自然美尊重の排撃であり、続いてそれを裏返した人 間性、即ち経済力を背景とした愛欲の肯定を主張している。いかにも、新興の経済都市大坂の町人らしい生 解釈である。 ここで注目すべき点は、愛欲が前近代的な「色道」の名をもって説かれていることである。色道といえば、 おうぎ 遊里におけるテクニックやエチケットや粋という美意識を解説した先行の遊女評判記類、特にその奥儀をき しきどうおおかがみ わめんものと、「六十余州を歴行し、積年三十有余」の体験にもとづいて『色道大鏡』 ( 延宝六年序 ) 十八巻 きぎん を書き上げた藤本箕山の情熱が想い起される。 くるわ 幕府は、一般社会の恋愛を厳しく規制した反面、公許の廓制度を安全弁として公認し、道徳の圏外におい た。そこはまた、身分制度の圏外にもあり、浪費も自由であったから、政治に直接関与することを許されな しん かった町人階級のエネルギーと経済力は、一六五〇年前後から廓を社交場化するにいたった。特に島原と新 まちょう 町を擁する上方では、和歌・俳諧・茶の湯・香道・能狂言などにわたって教養ゆたかな上層町人が、これま しきだう かみがた ほか
まくら 「さいわい、このたび持ってこさせたものがある」と長櫃 ず枕を重ねるという。日本人にまねのならぬことはこれだ。 さお 8 おらんだ 紅毛は居留地の出島に呼んで遊び、また中国人は市中の宿十二棹を運び込ませた。中から太夫の衣装人形、京島原で 十七人、江戸吉原で八人、大坂新町で十九人、さいぜんの にも自由に呼ぶことができて、不自由なく暮している。 男 しじようがわら 能舞台にそれそれ名を書き記して並べた。めいめいの衣装 代京の四条河原の若衆遊びや、島原で一座したことのある つき、顔つき、腰つき、一人一人変っている。これはどこ 色人々が、世之介の下りを珍しがって、女郎どもに能をさせ てお目にかけるという。招かれて行くと、庭に常舞台があの誰、それはどなたと眺めたが、どれ一つとしていやらし してわき はやしかたじうたい いのはなく、長崎じゅうが集って、ほればれと眺め暮した。 り、囃子方、地謡はもとより、太夫、脇まですべて女で、 うたい とこせめどうぐ 定家、松風、三井寺の三番をしめやかに、謡や囃子の調子 床の責道具 ( 六十歳 ) をひときわ低くしたのもなお優しく、またとない遊興であ 合せて二万五千貫目 ( 約二百五十億円 ) 、母親から思う存 たわけ おおかん じぎいかぎ はつもみじ 折からの初紅葉の木陰に、自在鉤を下ろして、金の大燗分に遣えと譲られた金で、明け暮れ情痴を尽しはじめてか うつ もろこししゅこうぎん 鍋を掛け、唐土の酒功讃の心を遷すのだといって、三十五ら二十七年になる。まことに広い世間の遊女町を残る所な よりきん、 くれない く見回って、身はいっとなく恋にやつれ、ふっと浮世に、 人の遊女が思い思いのいでたち、紅の網前垂れ、縒金のた 、、あやす 今という今、未練がなくなってしまった。親はなし、子は すき、綾杉の思い葉をかざし、岩井の水は千代ぞ、とばか り、乱れ遊びの大宴会であった。「私も京で三十五両 ( 約なし、定まる妻女もない。つくづく思えば、いつまでも愛 さかな うずら 二百十万円 ) の鶉を焼鳥にして、太夫の肴にしたこともあ欲に溺れ、思いとどまることを知らず、すでにはや来年は はんけ るが、今、この酒宴の豪勢さには驚きました。それに、女本卦にかえるほど年寄って、桑の木杖がなくては頼りない たちの風俗も変っていて、しおらしい」とほめると、「都ほど足も弱り、耳も遠くなって、しだいに見苦しくなり果 ててしまった。自分ばかりでもない。見知り越しの女が白 の女郎様方の様子が見たい」と女郎たちが言う。「それこ 髪頭になり、額に皺のよった姿を見て、むかむかとしない そ粋人の世之介様にうかがいなさい」と言う。世之介は、 ていか なべ が おば しわ ながびつ しら
( 原文二一六 あいさっ 地なればこその自由さ、他国でできることか」と、今更の改めて申し上げたい」と世之介が挨拶して、再び車を急が ちそう みやげ ようにありがたかった。冴え返る月が出ると、見渡す竹田 せた。「今夜の馳走は身に余る喜びであった。何か土産に よあらし 辺りの竹の葉末に夜嵐が吹きすさび、袖もおのずと湿って、 なるような物はあるまいか。今すぐにみんなで考えてく がんさい まんじゅう 悲しくもないのに涙をこばしたのかと思われた。三味線のれ」と世之介が言うと、願西の弥七が、「日本一の饅頭が あります」と言う。それはときくと、一つに銀五匁 ( 約五 音もいっしかとまり、あまり慰みが過ぎて、かえってしら けてしまった。 千円 ) かけて、上に金銀の箔を置いた饅頭はいかがでしょ のとあつら うと言うので、それにして、その数九百、二ロ屋能登に誂 南の方を見やると、小枝橋の橋詰に、島原の太夫の紋を ちょうちん 付けた提灯が、いくっとなくちらついている。「これは」 えて夜中につくらせ、九人の太夫方へ届けさせた。太鼓持 どもも、お土産といって、悪魔払いのおもちゃの弓矢に蘇 ときくと、「太夫様方から、皆様をお見送り申し、ここで いっこん やり みんしようらい 一献差し上げませい、と仰せつかりまして」と、九人の遣民将来のお守りをととのえて、「行く末ながくご息災に、 て 手が車を停め、松風が身にしむ夜寒のおもてなしにと、京 身揚りもなさらず、証文に書いた十年よりほかに年季を増 くちげんか ふとん わらぶき おき′、 から持ってきたいくつかの蒲団で、近くの藁葺の家に置炬して、お勤めのうちはお客とロ喧嘩もなさらないように」 くくまくら と言って、太夫様へ差し上げ、なおその上に女郎長久と祈 燵を仕掛け、括り枕の用意まであって、ここで一寝入なさ かんなべ れては、と勧められた。そのほか、銀の燗鍋に数々の名酒った。 そろ さかながん ぜんわん なさけ を揃え、白木の膳椀で茶づけ飯の用意、肴には雁の板焼に 「、しおいわし 情のかけろく ( 五十七歳 ) 塩鰯を置き合せるなど、しおらしい心遣いであった。あと くら いろぶくさそろ だちん その駄賃馬を三条の橋に待たせ、「鞍に財布は付けてあ の点茶は、一人一服ずつ飲むように色袱紗が揃えてあり、 もど たばこばん ほかに使い捨ての煙草盆まで用意してあって、何一つ行き るか、今すぐ戻ってくるそ」と気ぜわしく供の者に言いっ けておいて、「急に江戸へ下ることになりましたので、世 届かぬところがない。「わずかの間にこれだけのお支度の いとま′ ) できたのは、大方ならぬお心遣い、なかにも炬燵のお礼は之介様へお暇乞いにまいりました」と、日頃目をかけてい たっ よそ そで
に思い立って、逢坂山を越え、早くも大津の入口の宿屋町 呼びだし、吉野一人のもてなしで一座の人々は帰る時刻を 八町に着くと、「泊りじやござらぬか」という客引女の呼 忘れ、夜明けになってめいめい家へ帰って言われるには、 び声に誘われて、広くてきれいな宿を取り、「なんと、女 「どうして、世之介殿が吉野に暇を出されるものですか。 男 くるわはや 代同じ女の我々さえ、あんなにおもしろいんですもの。その子衆、今ここの廓で流行るのは誰じゃ」と問うと、「石山 よめ′一 の観音様が流行ります」と言う。「さても人を安く踏むや 色優しさ、賢さ、どんな人の嫁御になっても恥ずかしくない 人です。一門三十五、六人の女の中に並べて、これはと似つだ」と小しやくにさわって、あとで亭主に会って、「女 郎町の案内を頼む」と言うと、「それはおやめになったほ た女さえないくらいです。皆様ご勘弁なすって奥様に直さ うがいいでしよう。六匁 ( 約六千円 ) や七匁では、足りま れたら」と、よろしくとりなした。ほどなく結婚の祝儀を しまだい さかだる せんから」と言う。勘六は歯ぎしりして口惜しがり、「隠 取り急ぎ、贈物の酒樽や杉折を山と積み重ね、島台の装い ともしらが たかさごうたい あいおい 「相生の松風」と高砂の謡もめでたく、吉野は共白髪の九れ遊びだからこそ供も連れず、身なりもわざと野暮な格好 で出かけたのに」と、むやみにせきこむので、世之介はお 十九までと祝い納めた。 かきもち かしがり、「お前に預けた金を出して見せてやれ」と笑っ ねがいの掻餅 ( 三十六歳 ) ている。台所では大声をあげて、「今夜は女郎買様のお泊 ふるでら 「三井の古寺鐘はあれど、という文句じゃないが、遣い捨りじゃ」などと、勘六を見ては指さしておかしがっている しばやまち ので、世之介も今は我慢しきれず、表に出ると、「京から てる金はあるのに暇がなくて、一度も大津の柴屋町を見た うなぎ ことがないというのも異な話だ。昔、長等山の山の芋が鰻結構な伊勢参りがあるぞ」と、門口にこそって、祭の行列 くろふね さぎなみよど を見るように騒いでいた。大坂の黒舟、伏見の漣浪、淀の になったとかいうことだが、あの辺りには何か変ったこと そろ だちん はんかい があるからなんだろう。さあ、行こう」と世之介が言いだ樊喰という名のある駄賃馬ばかりを三頭揃え、七枚重ねの からいとくっ ふとんしろちりめん ひも すと、「心得ました」と太鼓持の勘六がお供をして、三条蒲団を白縮緬のくけ紐で締めかけ、馬にも唐糸の沓を履か おおふりそで せ、いずれも十二、三の娘が四色に染め分けた大振袖を着 通の白川橋から、大津への戻り駕籠に乗り込んだ。にわか ( 原文一二六 ながらやま おうさか