三「あはれなり夜半に捨子のな る き止むは親に添寝の夢や見るら て あすかい まィ一ちか 捨ん」 ( 飛鳥井雅親 ) 。俗に小野小町、 赤染衛門などの詠とされていた。 中 一三京都六角通烏丸東入ルの天台 の 宗頂法寺。本堂が六角造り。 子 0 世之介と末亡人との間に生れた 来子が、続編『諸艶大鑑 ( 好色二代 て男 ) 』の主人公世伝に成長を遂げる。 れ 一四案外なものだ。 わ 一五京都市右京区大原野小塩町に ある大原山の別称。山麓の小塩山 後 勝持寺は、世に「花の寺」と称し、 西行庵、西行桜があった。 一六吉岡憲法。文禄・慶長ごろの 人。京都憲法町の染物屋で、吉岡 流剣法の祖。慶長十九年 ( 一六一四 ) 没。 宅柔術の一種。捕縛術と抜刀術。 天鬢をきわめて細くした男の髪 形で、当時の勇み肌が好んだ。 女はおもはくの外 一九ロ髭 ニ 0 筒袖に近い短い袖丈。 をとこだて をしほやまめいばくらくくわらうぜき 小塩山の名木も落花狼藉、今一しほと惜しまるる。けんばふといふ男達、そ = 一種々の咆糸で編んだ帯。 一三背梅花鮫。背筋に梅花に似た いとびん ころとりで ゐあひ 巻 の頃は捕手・居合はやりて、世の風俗も糸鬢にしてくりさげ、二すぢ懸けの大きな粒が頭から尾まで通った鮫 皮。その鮫皮で鞘を巻いた大脇差。 ながわきざし そめわけ くみおびニニ そでした 4 もとゆひうはひげ 刀身一尺八寸 ( 約五五 ) 前後 髻、上髭のこして、袖下九寸にたらず、染分の組帯、せかいらげの長脇指、 とふかくたはれて、なほ恋しく ば、とわが宿を語り、つのれば うま お中をかしくなり、程なく生れ けるを、せんかたなく、夜半に そひね すて ) 」 捨子の声するは母に添寝の夢の - 一まち・ 浮世と、小町が詠みし言の葉も おもひ出されて、いとどあはれ は、ここ六角堂のそのそこに置きてそかへりける。 ひと ふた 0 0 0
好色代男 44 おりちゅうはば すずしひとえ 一生絹の単衣。↓六七ハー注八。 く、水色のきぬ帷子にとも糸にさいはひ菱をかすかに縫はせ、あっち織の中幅 四 ニ「あっち」は「あち」の促音便。 ふきかけてめぐひめりがさ ただびと 前にむすび、今はやる吹懸手拭、塗笠のうち只人ともみえず。すゑみ、の女ま外国の意。舶来の織物。 三中幅帯。普通、一尺二寸 ( 約 いしうす 一でも、水くみ、石臼を引きたるつまはづれにはあらず。きざはしゆたかにあが 六 ) 前後の布幅という。それ を二つ折りにして締める。 六 くみどたちそ り、腰元などにここにてつくりし物語をあらましきかせ、組戸に立添ひ、何お四笠の下に手拭を吹きなびかす よ , つにかぶること。 もふもしらず、鬮をとって、「三度まで三はうらみに存じまする」といふを脇 = 手足の先の意から転じて、身 のこなし、動作の意。 がほ 顔より見れば、惜しむべき黒髪をきりてありける。さてこそうるはしき後家、 六石山寺本堂の東南の間を「源 氏の間」と称し、紫式部が『源氏物 そで あは かりにこの世にあらはるるかと、おもへば、思はるる目つきして、袖すり合せ語』須磨・明石巻を書いたという。 セ観音鬮の三番は凶。 はべ て通り侍る。 ^ 「紫式部と申すは、かの石山 の観世音、仮に此世にあらはれて、 みづか かかる源氏の物語」 ( 謡曲・源氏供 かの女、人までもなく自らよびかへして、「今の事とよ。お腰の物の柄に懸 養 ) 。 おん けられ、我がうすぎぬのあらく裂きたまふこそ、さりとはにくき御しかた、ま九大津市松本。当時は大津の東 南端。 ぜひノ、 一 0 近づきになる手段に。 なくもとのごとくに」と申す程に、いろ / 、わびても聞きいれず、「是非々々 = 古くは『伊勢物語』七十一段の 「恋しくは来ても見よかしちはや むかしの絹を」とさいそく、めいわくして、「都へととのヘに遣はし申すべし。 ぶる神のいさむる道ならなくに」、 しのだろま また、信太妻で知られる「恋しく こなたへ」と申しふくめ、本といふ里にきて、ひそかなるかり家に入れば、 ば尋ね来て見よ和泉なるしのだの 森のうらみ葛の葉」などによる。 かの女、「はづかしながら、たよるべきたよりに、我と袖を裂きまゐらせ候」 ひと かたびら びし つか つか わき
れたせいもあって、子どものころから、民衆の一人としてる努力をおこたらないでください。 生きたいという願いをもっていた。 西鶴の文学活動をたどってみると、『好色一代男』『諸艶《著者紹介》 大鑑 ( 好色二代男 ) 』『好色五人女』『好色一代女』などの好暉峻康隆 ( てるおかやすたか ) 色物からスタートして、『武道伝来記』『武家義理物語』な 明治四十一年、鹿児島県生れ。昭和五年、早稲田大学国 どの武家物を経て、『日本永代蔵』を起点とする最晩年の文学科卒。近世文学専攻。現在、早稲田大学名誉教授。 『世間胸算用』『西鶴置土産』などの町人物へと進展してい 主著は『西鶴ー評論と研究』『蕪村ー生涯と芸術』『井原 る。 西鶴集一・二 ・三 ( 日本古典文学全集 ) 』 ( 共著 ) 『現代語訳 その間、一作ごとにテーマを変化させながらも、つねに 西鶴全集』『座の文芸蕪村連句』『蕪村集 ( 完訳日本の古 庶民への目配りを忘れていない。そして、時にユーモアを 典 ) 』 ( 共著 ) 等。教育テレビ「お達者くらぶ」の こめて、名もなく貧しい民衆の生きざまを、活写している レギュラー。毎年、春には、各地の千年桜を訪れるのを 点において、他の作家とは大いに異なっているのである。 楽しみにしておられる。 後に、近代文学の作家たちが、こぞって西鶴を愛読した 編集室より 理由の大きな一つは、まさにこの一事であったと言えよう。☆第四十回配本『好色一代男』をお届けいたします。奔流 そして、最後に到達した町人物の作品群において、こうしのような文体にのせた主張が、今日もなお初々しさを失っ た無名の庶民を主人公に据えて、傑作たらしめている点に、ていないのは、驚くべきことではありませんか。 西鶴の偉大さというものをつくづく感ずるのである。 ☆次回配本 ( 六十一年六月 ) は『大鏡一』 ( 橘健二校注・訳 初めは山口先生を通じて、間接的に知った西鶴が、いっ定価千五百円 ) 。道長を頂点とする藤原氏全盛の世とその のまにやら、私のなかで大きく育った幸せを、噛みしめて裏面史を力強く語り尽した歴史物語の傑作です。本書は古 いる。どうか、若い西鶴研究者の皆さん、単なるレポータ本系の平松本を底本とし、流布本系の興味深い逸話も併載 これまさ ーに終らず、西鶴文学のエスプリを体得して、次代に伝えしました。第一冊は、前半の天皇紀と列伝の伊尹までです。
好色一代男 368 貞享四一六八七 年号西暦年齢 五一六八八町 西鶴事項 ニ月『好色五人女』刊。大坂森田版。 閏三月八日、大坂における若衆方の 六月中旬、『好色一代女』大坂岡田 ( 池田屋 ) 版。 随一、鈴木平八没。年二十三。 十一月『本朝二十不孝』刊。本書よりして大坂岡田、同千種の二 ↓男色大鑑・六の五 版元のほかに江戸の万屋清兵衛が加わり、三都版作家への第八月『春の日』 ( 荷寧編 ) 刊。 一歩となる。翌年から元禄元年にかけて、多作時代に入る。 貞享元年京都版、同二年再版、同三年八月三版の『本朝孝子 伝』 ( 藤井懶斎著 ) を意識しての作である。 一月『男色大鑑』刊。大坂深江屋・京都山崎屋版。 三月『懐硯』刊。現存本は再版本にて刊記なし。 四月『武道伝来記』刊。大坂岡田 ( 池田屋 ) ・江戸万屋版。 五月西鶴が版下・挿絵を書いた『西行撰集抄』が刊行される。 一月生類憐みの令が発布される。 同役者評判記『野郎立役舞台大 鏡』刊。藤田皆之丞の評判中に、 「西鶴法師がかける永代蔵の教 にもそむき」とある。 五月『好色破邪顕正』 ( 白眼居士 ) 同『諸国敵討』 ( 内題「武道一覧」 大坂西沢版 ) 刊。 六月三日、大坂御堂前の仇討。↓武 家義理物語・二の一、二 九月片岡旨恕 ( 宗因門 ) 作『好色旅 日記』刊 ( 京都 ) 。 十月芭蕉、『笈の小文』の旅に出発。 十ニ月二十七日、京都早雲座の立役、 嵐三郎四郎自害。↓嵐無常物語 いみな 一月『日本永代蔵』刊。大坂森田・京都金屋・江戸西村の三都版。ニ月将軍綱吉の息女鶴姫の諱を避け ニ月『武家義理物語』刊。大坂安井・京都山岡・江戸万屋の三都 て、鶴字使用を禁ずる ( 鶴字法 一般事項
恋慕し、誤って殺し、悔悟発心し 行て菩提を弔うために築いたという。 丸三京都市南区の町名。東寺二王 え 門の西。羅生門のあった所。 一三島原の入口の丹波ロ壱貫町の の 世 茶屋。客の送迎をする。 見 たかはし 一四島原の太夫、二代目高橋。 * 上 ↓一六五ハー注一一 0 。 茶一六揚屋町の東側に三文字屋清左 「この朝詠めのおもしろさ、 の 衛門、西側に三文字屋権左衛門の ロ さいぎゃう まっしまあけばのきさ 出 二軒の揚屋があった ( 色道大鏡 ) 。 西行は何しって松島の曙、蚶 の 原宅「松島や雄島の磯も何ならず 島 0 ただ象潟の秋の夜の月」 ( 山家集 ) 。 潟のゆふべを誉めつるぞ。き 天南から三軒目の出口の茶屋 から あさあけ のふは新町の暮を見捨て、その目をすぐにけふ島原の朝明、これが唐にもある ( 色道大鏡 ) 。 一九洛北の岩倉は松茸の名所。 べきや。世之介なんと」、「もっとも」と、藤屋の彦右衛門方に立ちよれば、夜ニ 0 島原の天神。 * 三身請されて退廓すること。 まったけ かま 一九 ぜんあんどん 前の行燈消え、かたてに物さびたる釜はたぎりて、岩倉の松茸を焼いて、中椀一三「わが庵は都の辰巳しかそ住 ニ 0 む世をうち山と人はいふなり」の かせん みきょ 作者の喜撰法師は六歌仙の一人な 七にふたっ飲み、「これは」といふ所へ、歌仙仕合せの身清め、姿も人のおかた しゃれ ので宇治に住むと洒落た。↓一八 なごり めきて出られける。「御名残も今なり。何国へ」と申せば、「我が庵は」とばか四ハー注一一。 巻 ニ三京都六角通烏丸東入ル、天台 いひす 宗頂法寺。仏堂の構造が六角形ゅ り云捨て別れ侍る。 りつか えの名。院主は代々、立花の池坊 ニ三かくだう ワ】 「なんの、宇治へはゆくまじ。しらぬ事か、六角堂の裏あたりへ行く人よ」との家元で、堂後に住んでいた。 か い、、オこ てよろこばしませい」と、 をたたきて出口の茶屋にった へて、はや三文字屋に人をや る。 あさなが うぢ 一六もんじゃ もん 一八 かた なかわん や
西鶴自筆発句短冊 住吉奉納 大矢数弐万三千 五百句 神力誠を以息の根留る大矢数 二萬翁 兵庫県伊丹市・柿衛文庫蔵 『好色一代男』を発表した一一年後あまりのスピードに書き手も追い つかなかったと見えて、現在伝わ の貞享一兀年 ( 一六八四 ) 六月五日、 西鶴は大坂住吉神社において、三るのは、興行に際して神社に奉納 やかず 度めの矢数俳諧興行に挑戦し、一した最初の百韻の発句ばかりであ 昼夜独吟一一万一一一千五百句を達成しる。烈しい気魄を伝えるこの句が、 事実上の俳諧への訣別となった。 た。時に西鶴は四十一一一歳の男盛り 署名の一一万翁は西鶴の号。 約四秒間に一句を吐き続けたが、
そう図に乗って何かと賢ぶった。「人の身分というものは、 『神ならぬ身ですからお許しくださいまし』と勝手に立っ かぶろ ・つぐいす・ つきやま 2 たとえどんな着物を着ているにしろ、脇差や印籠などの拵て禿に耳うちし、手飼いの鶯を放させ、築山の方であわた え、または手足の様子でだいたいは見当のつくものだ。こ だしく、『もうし、もうし』と声をたてた。三人一度に、 男 代とに自分が連れているのは、堀川の勝之丞といって、広い 『何事か』と障子を開けて立ち出るところをとくと見澄し、 ・一ぞうりと でっち 色京でも並びのない小草履取りで、誰の目にも立っ僕だ。こ改めて本物の大尽様へ盃をさした。その鮮かな捌きをいす れを連れているほどの者を安く踏むというのは、気がきかれもほめて、あとでそっと子細をきくと、『お三人とも桑 ぞめもめんたび ぬからだ。とても床へはいってみてもしかたがあるまい 染の木綿足袋を履いておられましたが、お一人だけ鼻緒ず はさ・みば・一 人形でも回して遊べ」と、世之介は挟箱から畳み屋台を取れのあとのないお方がありました。いつも乗物に乗ってい うわまくつら りだして組み立てさせた。上幕、面隠し、首落しまで本舞らっしやる御方様、この御方こそと思いざしをしたのでご 台に変らず、五尺 ( 約一・五 X) にも足りない舞台に金銀ざいます』ということであった」。 こじようるり しりでもの をちりばめて、思うままに仕掛け、古浄瑠璃の六段そのま しのだづま 今ここへ尻が出物 ( 四十一歳 ) まに人形が動きだした。そのうちに、「信太妻の女房の人 なり 形が江戸風の装をしている」と言いだし、「世之介様、そ まだ見ない廓もあるのだが、地方の遊女がなんともおも れはそっくり吉原のあの太夫様に生き写しじゃありませんしろくないのに懲り果てて、世之介は順風をさいわいに大 みおっくし か」と言うと、「よく気のつくやつだ。あるに似せて作ら坂へ引き上げることにした。懐かしい川口の澪標も近づき、 あわ せたのだ。この太夫にこんな話がある」と言って世之介は、 やがて三軒屋に着いた。昔はここにも遊女があって、「淡 この太夫の逸話を語った。「あるとき、この太夫のもとに、 路に通う鹿の巻筆」などと歌っていたが、それも夢となっ ある大名がお忍びで会いに来たことがあった。二人の供に た。蘆の上葉に秋の初風の訪れる折柄、笛太鼓で世間をは も同じ装をさせ、揚屋の市左衛門方の座敷で、『このうち ばかる気色もなく、天下の町人が楽しみをきわめている。 おばしめ さかずき とやま こじまつまのじよう で思召しの方へお盃を』と言ったが、太夫は少しも騒がず屋形船の中には外山千之介、小嶋妻之丞、同梅之介などを なり かし - 、 かつのじよう 第一しら じ けしき まきふで
もみうらすげがさ て、紅裏の菅笠に紅白綯交ぜの紐をつけている。そのとき 言い合い、あるいは鞘が触れたといっては咎め、または男 こむろぶし だて たてひ けんか は馬子が宿場入りの小室節を歌っている最中で、二人の馬伊達の達引きなど、いたるところで喧嘩があり、踏むの、 り、よ - つくち たた ずきん 子が勇んで馬の両口をとっていた。 叩くの、頭巾をとるの、羽織が見えぬのと、ただ騒がしい ふところ 娘たちは世之介を見かけると、「もうしもうし」と馬子一方で、さんばら髪で片肌を脱ぎ、懐には鼻ねじ、手には しらはと に抱き下ろされて左右から甘えかかり、「私たちはお伊勢白刃取りの十手を握りしめ、ここの色町を喧嘩の場所と心 様へ参るところです。あなた様は何だってここにおいでに得ているような有様である。命知らずの寄合、身分ある者 なります」と言うので、「勘六の女郎狂いの太鼓を持ちに の夜行く所ではない。 ひょうさくこだゅう その夜は知合の揚屋で、兵作、小太夫、虎之介などいう 来たが、どうも頭が痛い。もんでくれ」と言うと、一人は 頭、一人は足、一人は腰をさすりだした。しばらく自分た名のある女郎を集めておもしろく遊び、その明けの日は禿 ちの宿にも行かないで、「その柴屋町を見せてください。 たちの出発を見送る祝いの酒盛だというので、格子女郎を 帰ってから太夫様に話の種にもなります。見物したい」と 一人残らず昼夜揚詰にして、酒を過して酔ったまぎれに、 かぶろ せがむので、「それでは連れて行こう」と三人の禿を先に 三人の禿に向って、「なんでも道中は望みどおりにしてや 立て、南ロの門からはいって行った。都に近い土地なのに、 ろう。めいめい遠慮なく言ってみろ」と言うと、「太夫様 つばね 女郎の風俗も変り、局にいる端女郎たちは大声ではしたな から何もかも気をつけていただいていますので、一つもこ おおまた じだらく く物を言い、道を歩くにも大股でせわしく、着物も自堕落のうえに願いはございません。ただ駄賃馬があとさきにな おしろい 五 って、思うように話ができないのでつまりません。三人一 に帯ゆるく、白粉もけばけばしく塗りたて、上下の区別も かきもち なく一様に三味線を握って、頭を振りながら歌っている。 緒に昼も寝ながら、自分で掻餅を焼いて、それを慰みにし 】ひやか 素見して歩く者は、馬方、丸太船の船頭、湖畔の漁師、相ていけたらどんなに楽しいことでしよう」と言う。「それ う ちょう すしゃ こそ何よりたやすい望みだ」と、即座に乗物二梃並べて、 撲取り、鮨屋の息子、小問屋の手代などで、恋も遠慮もあ くぎかすがいと ったものでなく、むやみやたらに顔見知りの女郎と悪口を中の隔てを取り放ち、釘鎹で綴じ合せ、中に火鉢を置き、 すも さや とが
277 巻四 おとこだてふう はかますそ わらぞうり 藁草履を履いた女中たちが二十四、五人、同じ年頃、同じ袴の裾を高くからげて、大小をよしや組の男伊達風にばっ こみ、編笠を深くかぶって出かけた。ちょうどその日は正 風俗で、供の男女ははるかに下がって行く。「これはどん くるわ 月十六日で、ここの廓では例年のように人形見世が出てい な人たちだ」ときくと、「さる御所方の奥女中様たちで、 たので、揚屋の門々は押し分けられないほどの人出であっ あの中にはご主人もお一人紛れ込んでおいでの由ですが、 どなたとも見分けがっきません。こんなにして毎日のご遊た。この日どんな太夫でも十両 ( 約六十万円 ) や十五両の 人形を買ってうれしがるのだから、こんな日に出会った大 山、変ったお物好きです」と答えた。 とうろく おやま なぎえもん 「いや実に結構なことだ。この前松本名左衛門という女方尽こそ、いい迷惑だ。この豊かな賑わいに、無心の藤六 けんさいふんとくむぎま も、あんな身分の方とよい夢を見たということだが、我ら見斎、粉徳、麦松などの道化人形までが浮き立つように見 えるのもおもしろい にはとても及ばぬ恋だ。見るも聞くもかなわぬことを思う 善吉は今が男盛りである。江戸の吉原では小太夫に惚れ より、知恵自慢の世之介の世話で、自由になるものを呼ば うではないか」ということになった。そこで世之介が扇屋られ、いっそ浮名の立ちついでに、人にまねのできないこ はやり とをしてやろうと、あるとき、雪のちらほら降る朝、帰っ レいま流行の地紙を持ってこいと宿に呼び寄せて、 の女工こ 「いかがです」と言うと、「雨の日のつれづれか、または女て行く善吉を、太夫が腕のまくれるのもかまわず傘を差し みもん おおもんぐち かけ、しかもはだしで大門口まで送って出たのは前代未聞 人禁制の高野山ででも見たら我慢もできよう。京へ来て、 かかめし ふるまい しろもの の振舞であった。もつばらの評判になって、抱え主が二人 よい物を見た目では一とおりの代物では : : : 」とけなされ の仲を堰いたが、それもかまわず太夫のほうから身を捨て て、これも帰してしまった。「このうえは夢山様のかねて て、思うにまかせぬ仲を嘆くほどの男、どこかに人知れぬ のお望みどおり、島原へ繰り込め」ということになったが、 その道に隠れもない善吉が言うには、「世之介にしても初味なところがあるからであろう。江戸の色町で善吉を知ら めての女郎買いだから、二人ともこの善吉のやり方を見習ぬ者はなかったが、島原ではまるで近づきがなく、揚屋の はさ、みば - 一 はさみばこ 丸太屋の店先に挟箱を下ろさせ、腰かけて内を見ると、美 いなさい」と、挟箱持ちと下男を従え、りつばな大男が、 あみがさ せ たゆう
さかたみなと し、明けて男盛りの二十六の春、酒田港に初めて辿り着い 人たちである。亭主のもてなし、お内儀のお世辞、とかく さいぎよろ・ はすはおんな 2 た。この浦の景色、桜は波に映り、その美しさ、西行が、 金銀の光はありがたい。この問屋にも上方の蓮葉女らしい あま よ みなり 「花の上漕ぐ蜑の釣舟」と詠んだのはここのことだなと思者が十四、五人も居間に見えたが、その身形もおかしな風 男 かんじんびくに 代いながら、お寺の門前から眺めていると、勧進比丘尼が声で、髪はぐるぐる巻にして、いやらしいほど口紅粉を塗り、 そろ そで しゅちん 色を揃えて歌いながらやってきた。これはと近づいてみると、鹿子模様の袖の小さい着物に、繻珍の帯を締め、どれでも かちんぞめめのこ くろりんず 褐染の布子に黒綸子の半幅帯を前結びにして、頭はどこで お目にとまったらと言いたそうな色つばい姿をして、客一 くろずきん とうりゅう も同じように黒頭巾で包んでいる。元来、勧進比丘尼は売人に一人ずつ、十日、二十日、三十日も逗留中は寝道具の かしら 色などする身の上ではなかったのだが、いっ頃からか、頭上げ下ろしから朝夕の食事の給仕、そのほか腰をもませた おりよう ひげ た いちぶ の御寮が風儀を乱し始めて、ついに遊女同然に相手かまわり髭を抜かせたり、自由に使ったあげく、発っときに一歩 ず、百文 ( 約千五百円 ) 出せば二人買えるというのも馬鹿 ( 約一万五千円 ) やると、金を珍しがって喜ぶそうである。 らしいだ これは皆、問屋の使用人というわけではなく、各自家をも めったまち せいりん 「あれは確かに江戸の神田滅多町でひそかに馴染んだ清林っていながら、旅人を目当に集ってくるのだそうだ。思う せつつのくにありまゆな という尼が連れていた小比丘尼に相違ない」と思い、呼び にこのいたずらは、摂津国の有馬の湯女と似たようなもの と・一ろ しやく すげがさ 止めて、「あの時分はまるつきり子供で、菅笠が歩いてい だ。所言葉で異名を杓という。「人の心を酌むということ るようだったが、はや一人前になったなあ」などと昔話を か」と土地の人にきいてみたが、子細は知らなかった。世 之介はいいかげんにあしらわれて、仕方なく、その家の下 した。話の末に、「さてそのお姿はどうなすったのです」 う . わさ ときかれたので、「遊び過して胸につかえたから、気晴し男を誘いだし、暮方から浜に出た。かねて噂に聞いていた つかままくら しばら に暫く商売をしているのだ」と言い捨てて別れた。それか有様を見ると、人の女房らしい者がわざと船頭に捉って枕 ら、さる問屋に知合があったので頼ってゆくと、繁盛の港を並べ、しどけなくうちとけた後で、物をやれば取るし、 かんびよう だけに諸国との取引も多く、客は皆算盤一つで暮しているやらねばそのまま帰ってゆく。これを、ここで干瓢という。 そろばん かのこ くちべに ふう