ない女郎である。床の駆引も品よく、「今宵は眠い」など りよう」と言う。ぐずぐず言っているうちに、肝心の物が み ) 一しら と、それとなく気づかせ、身拵えに立ったのを、金左衛門 くなついて役に立たなくなってしまった。是非なく下りる が注意して見ていると、丁寧にうがいして、ゆっくり髪を ところを、初音は下から世之介の両耳をとらえ、「人の腹 男 こうろりようそで 代なでつけさせ、二つの香炉で両袖をたきしめ、室の八島と の上に今までいながら、なんということです。このままで けむりすそ 色書いた箱から立ちのばる香煙を裾に包みこめ、鏡に横顔ま は下ろしませぬ」と言って、快く身をまかせた。類まれな あいふすま で映し、控えの座敷にさしかかり、間の襖を開けさせ、引床ぶりである。そのあとロ舌をして起き騒ぎ、初音に蹴飛 かぶろ 舟女郎はさがらせて禿ばかりを連れ、枕元近く、燭台の炉 ばされた。何を言って気に障ったのかわからない。 影に立って、「もしもし珍しい蜘蛛が、蜘蛛が」と言った 匂いはかずけ物 ( 四十一歳 ) ので、世之介は夢を破られて、「いやなこと」と起き上が ろうとするところを、しつかりと抱きしめて、「女郎蜘蛛 京の女郎に江戸の張りを持たせ、大坂の揚屋で会うとし がとりつきます」と言いながら帯を解かせ、自分も解いて、 たら、これほど結構なことはあるまい。ここに江戸吉原の ふうさい 「これが悪いか」と肌まで引き寄せ、背中をさすり下ろし名物で、吉田という駆引の上手な女郎がいた。風采は島原 きんだゅう て、「今まではどの女がここいらをいじったのかしら」 一文字屋抱えの金太夫よりもすぐれている。手跡は同じく ふんどし のかぜ と、褌のそこまで手のゆくとき、魂も消えるようであった。島原の野風に劣らず、しかも歌道のたしなみが深かった。 ひにゆう 今はたまりかねて、断りなしに腹の上に乗りかかると、下あるとき飛入という俳諧師が、「涼しさやタベ吉田が座敷 ぶしつけ ほたる わき から胸を押して、「これは不躾なことをなさいます」と言 つき」と詠むと、「蛍飛び入る我が床の中」と即座に脇を う。「我慢ができない、許しておくれ」と言うと、「また、 付けた。これに限らず、その賢さはいつも耳にしているこ うた よい折もありましよう、まず今晩は」と言う。世之介は仕とである。そのうえ唄も上手だし、三味線もこなし、自然 方なく、「こんな首尾で江戸でもふられ、今でも口惜しい とこの勤めに生れついてきたような女で、何事につけても、 ひとりじや下りられない。お前に抱き下ろされてならば下その賢さは思いのほかであった。 ( 原文一六九ハー ) むろ にお ぜっ たぐい
( 原文一六二 これから先、今のような勤めを続けてもしかたがない」と につまって、お前との仲もこれまでだ』とおっしやったの だんな 自分で髪を切って、出家したいからと旦那から暇をもらい で、あまりの悲しさに今の有様、お恥ずかしゅうございま 浮世を捨てて尼寺に駆け込み、後生を願う仏の道にはいっ す」と自害でもしかねない様子であった。世之介がようよ た。この太夫が廓にいたころの誉れは、数え尽せぬくらい うなだめて、それほどの仲になってからこのかたの苦労を である。 きいてみると、これから二度と現れそうにない感心な女で ねざめさい あった。 寝覚の菜好み ( 三十九歳 ) 床を離れる様子もしとやかで、酒も程よく飲み、「お呼 もら さどしまちょう 新町佐渡嶋町の揚屋京屋仁左衛門が自慢の庭の松さえ枝び申せ」と、ほかの揚屋から貰いがかかっても聞捨てにし ないぎ て、客に心残りのないように腰を落ち着け、揚屋の内儀、 折れて、少しは惜しまれる大雪の夜、寒さしのぎに飲んだ いとま 1 」 めりげた 酒が回って、さあ、これからは枕を借りて一寝入と、世之女中たちにもうれしがるほどの暇乞いをして、塗下駄の音 あいかたみふね からかさ そで 介と敵娼の御舟はもぐり込むやいなや、同じ寝姿で一緒に も静かに、さしかけ傘から漏れて袖に降りかかる雪も厭わ いびき あいどこあたらしゃ おうよう 鼾をかきはじめた。相床には新屋の金太夫が槌屋の万作に ず、鷹揚な道中ぶりであった。「どうして京では太夫にし まじわ なかったのだろう」と世之介が言うと、「たいして美しく 聞かれて笑われるのも知らず、客と気持よさそうに情交っ ひたい ているうちに、御舟が額にしわをよせて目を見開き、声あありませんからね」と言うので、「馬鹿だなあ、お前たち。 らく、「弓矢八幡、大事は今、七左様のがしませぬ」と世太夫は器量でなるんじゃないそ」と言いながら、いつまで 之介の左の肩先にかみつき、歯ぎしりして大粒の涙をこば も御舟の帰って行く後ろ姿を見送っていた。やがて、ひと した。世之介はびつくりして、「おれは世之介だよ」と騒り寂しく二階に上がると、下では迎えの遅い女郎たちが茶 巻 ぎ立てると、御舟は夢を覚して、「どうぞ、堪忍してくだ 釜のそばに集って、椀を片づけている女中どもの邪魔をし、 こごぶな 四さい。私の島原での浮名は隠すまでもございません。相手煮凍り鮒の鉢を荒らし、湯の、水のと、休むまもなく口を の丸屋七左衛門殿と夢で会いましたところ、『世間の義理動かし、丸盆を割ってそ知らぬ体でくつつけておいたり、 くるわ まくら っちゃ わん
= 銀貨の目方をはかる天秤の中 央の支柱にある針口を小槌でたた いて平衡を調べる音。 ひがみなり 一ニ寄せつけるな、と思い切って 火神鳴の雲がくれ 勘当した気持も。 一三随縁真如の波の略。真理が迷 なにほど てんびん一一ぐち 奥ぶかなる家にて、天秤はり口の響きさもしくも耳に入りて、今おれに何程悟の縁によって、いろいろな現れ 方をするのを波にたとえた仏教語 あげや み′、と もたせたりとも、欲にはせまい。物の見事につかうて、世界の揚屋に目を覚まやかましい浮世の騒ぎも音なしと かかる さして、こいよ、とよべば、一度に十人ばかり返事をさす事ぢやに、親仁一代一四和歌山県東牟婁郡の本宮旧社 地前を流れて熊野川に合流する川 はよせなと、おもひきってのこころ根、さらにうらみとは思はれず。我よからで、歌枕。 一五女色に溺れたあげく心を入れ はべ ひきこも ぬ事ども、身にこたへて覚え侍る。いかなる山にも引籠り、魚くはぬ世を送り替えて。 一六大阪府泉佐野市と大阪府泉南 おそう しんによなみ一四 たにかげ て、やかましき真如の浪も音なし川の谷陰に、ありがたき御僧あり。これもも郡田尻町 宅和歌山市加太町。加太湾をひ かえた漁業地。 とは女に身をそめて、これよりひるがヘし、たふとき道に入らせたまふ。この 一 ^ 加太では、夫の出漁中、公然 かせふじかだ 四人に尋ねんと、浦づたひに泉州の佐野、迦葉寺、迦陀といふ所は、皆猟師の住と船がかりの渡海者を客にとる風 習があった。「本亭主猟よりかへ むすめ はまべ 居せし浜辺なり。人の娘子にかぎらず、しれたいたづら、所そだちも物まぎれりぬれば、かどに船の櫂をたてお 巻 く也。これをみては、他所の夫ゅ いとま かぬ作法也」 ( 好色貝合 ) 。 して、むらさきの綿帽子あまねく着る事にぞありける。男は釣の暇なく、その 一九田舎者のくせに都会の風俗に 留守にはしたい事して、誰とがむる事にもあらず。男の内に居るには、おもて似せて。 一 0 わたばうし つり れふしすま おやぢ
59 巻 三最上 ( 現、山形県 ) 羽黒山の羽 てて、まだ足もとのあかい内 黒派は古来の修験道の一派 る むかひをか 一三山伏が、修行のため奈良県吉 、入り日も向の岡を出て行く と 婿野郡大峰山に分け入ること。 もがみやまぶしだいらくゐん 一四「大峰にておもひがけずさく の に、最上の山伏大楽院といふ人 娼 らのはなを見てよめる / もろとも 私 . みねい せんだっ で にあはれと思へ山桜花よりほかに 先達して、峰入りとて由々しく 坂 大 しる人もなし」 ( 金葉・雑上僧正 ーし 行尊 ) 。 通られけるに、衣にすがりて吉 出 一五仏教語で情欲のおさえがたい ばしんえん とも 逃ことを意馬心猿という。それに道 野までの供頼み侍るに、これを 戸中の駄賃馬をかけた。 江 一六愛知県岡崎市内を流れて知多 見て、「あはれと思へ山桜、花 湾に注ぐ矢作川に架る大橋。 より外に秋は友とする人もあらずやーと師弟の約束、こころの馬を急がせ、岡宅大峰をいう。仏教を好み呪術 をよくしたという役行者は、大峰 いでひのきがさ わかさ を開くに当って、前鬼・後鬼の男 崎の長橋わたりて、すぎし年、若狭、若松と住みける昔をおもひ出、檜笠をか 女二匹の鬼を使役したという。入 ぎんげ ごきぜんき みね ひかず たぶけ、旅の日数の今は後鬼前鬼の峰おそろしく、今までの懺悔物語、こころ山の際、すべての罪を懺悔しない と仏罰を受けるという俗習は、大 ばだい ごせ と心はづかしく、後世こそまことなれ、菩提の道、岩のあらけなく踏み分けて、峰のみならず諸方にある。 一九 一〈奈良県吉野郡天川村の哩が茶 どろかは よめ げかう 下向にここ哩が茶屋とかや、又もとの水にかへりて、とても泥川すむべき心に屋。精進落しの色茶屋であろう。 ニ 0 一九前記の天川村字洞川 くぢらざいくみみか なにはひがしみなみふぢたな ニ 0 大坂の谷町筋の小谷観音堂に あらねば、道かへて、難波の東南、藤の棚かりて、鯨細工耳掻きなどして、一 あった有名な藤。地名の藤の棚と 店借る ( 借家する ) の掛詞。 日暮し・もはか . なし。 ま、 一四 さんげ たな
まもり あいかた 日は国へ帰る名残だといって、女が二月堂のお護符や、西 衛門という揚屋に上がった。敵娼を見立てるのも手軽で、 はなむけ だいじ ほうしんたん ちとせ ちょうどあいていた志賀、千歳、きさ、などという女郎は大寺の豊心丹などを餞別していた。客もおもしろい男で、 おうみ さかずき 「国の山の神を見て瘧でもふるうようなことがあったら、 盃だけで帰し、その後近江という女を呼ぶと、今思えば しんまち これで落そう」と、笑いながら起き上がって、亭主を呼び たしか大坂の新町で玉の井という名で勤めていた顔見知り だし、「今度の遊びには、たいして金も使わなかった。お の女であった。流れの身が今ここに住みついているのもお しゃれ もしろく、その夜は客がないのを幸い、揚屋の女房に約束そらく今こそ粋になったと思う」と一言うと、亭主も洒落た 男で、「どうして、まだなかなかですよ。本当の粋はこん させ、更けゆくまで差向いで気がねなく話した。 うち ちょうし かぶろ 土地のならわしで禿が付かず、女郎が自分で銚子など持な所へ来すに、家で小判を数えていますーと言ったので、 みな みんな、「これはもっともだ」と感心しているのを、世之 ち運ぶのも、見馴れぬうちは一興であった。「おやすみな 介はよそながら聞いて、こんな田舎にも案外苦労人がいる さい」と若い衆が迎えに来たので、小座敷にはいると、六 ものだと思った。夜も明けて、その日はそのまま帰ったが、 畳一間を幾つにも仕切った部屋で、湊紙で腰張した壁に 上手な筆跡で、「君命、我は思へど」などと落書きがして女に未練が残り、またもや近江を宿に呼び寄せ、商売用の ある。どんな人がここに寝て書いたのだろうかと、そのま晒布に商標など縫い入れさせて、かわいがったりられたり うるしばん した挙句、固めの誓紙を取り交し、晒布に押した漆判の朽 ますわっていて、まだ横にもならないうちに、さっきの若 ちないように、末永く変るまいと祈ったことであった。 い衆が潜り戸を鳴らしてはいってきて、「もし、お茶をお ちやわん 上がりなさい」と、湯桶に茶碗を添えて置いていった。こ 旅のでき心 ( 十八歳 ) の手軽さ、伏見から下る乗合船に乗っているような気がし おおでんまちょう 巻 江戸の大伝馬町三丁目に、絹綿の出店があった。そこの て、「一晩のことだから、足がさわっても互いにご免」と あいどこ 決算を調べてこいというので、十八歳の十二月九日に京都 的ごろ寝して、相床の様子をきくと、伊賀の上野の米屋が、 あわた を出発した。粟田山を越え、雪の降り積った逢坂山の杉の 大崎という女郎と四、五遍も馴染んだらしい口ぶりで、明 ふ みなとがみ お・一り おうさか
かすが 言訳するほど変な具合になって、ロのうるさい世間のこと金銀の目利きなど習わせなくてはと、両替町にある春日屋 うわ、 なので、つまらないことでいつの間にかとんでもない噂を という母方の親戚の両替屋に世之介を預けた。すると、行 かね くやいなや、「死一倍」という高利の銀を三百目 ( 約三十万 立てられてしまった。 男 円 ) も借りてしまった。いかに欲の世の中とはいえ、子供 代世之介はに向って、実は私がおさか殿を思っているの を相手に貸す人もおとなげないことである。 色だと打ち明けたので、「今までは子供だとばかり思ってい たんご たのに、あきれたものだ。明日は妹のところへ知らせて、 その頃、世之介九歳の五月四日、端午の節句の前日のこ あやめふ 京でも大笑いさせてやろう」と思ったが顔色には出さず、 とであった。菖蒲を葺いた軒先近く、いつばいに茂った見 このしたやみ 「自分の娘ながら、おさかは器量も十人並だから、さる所越しの柳の木下闇で、中居ぐらいの女が菖蒲湯の行水をつ あまおちいし かきねささ へ縁づくことになっている。本当に年さえどうにかつりあかおうとして、雨落石のそばの篠竹の人目よけの垣根に笹 やじまかたびら えば、世之介の嫁にやってもいいのに」と言いながら、何屋縞の帷子や腰巻を脱ぎかけ、「我よりほかには松風ばか り、壁よりほかには聞く人も見る人もあるまい」とすっか 事も心一つで済せた。その後は気をつけて見れば見るほど かさあと 早熟たことであった。「すべてどんなことでも、道にはずり気をゆるして、瘡の痕のある臍のあたりの垢をかき流し、 ぬかぶくろ れたことは、たとえ頼まれても、うつかり引き受けて書く なおその下の辺りまでこすりちらす糠袋に乱れて、行水の あぶら あずまや ものではない」と、迷惑された法師が言われた。 湯もすっかり脂ぎっていた。折から世之介は四阿屋の屋根 ちん とおめがね にやってきて、亭に備えつけの遠眼鏡を持ちだし、行水の のぞ みとが 人には見せぬ所 ( 九歳 ) 女をあからさまに覗いて、たわいもないことを見咎めてい うたい るのもおかしい。女はそれにふと気がついたが、恥ずかし 鼓もなかなかおもしろいものだが、世之介が謡の「跡よ くて声も立てえず、手を合せて拝んだが、なお顔をしかめ り恋の責めくれば」というところだけを明け暮れ打ちつづ けるので、後には親の耳にもうるさくなって、にわかにや て指さして笑うので、たまりかねて、ろくにふきもせず、 そでがき めりげた めさせ、もう、 しいかげんに世を渡る男の表芸である計算、 塗下駄をつつかけると、袖垣のまばらな所から女を呼び止 なかい しのだけ へそ あか
巻ニあらまし ふりそで はにふの寝道具 ( 十四歳 ) 十四の春も過ぎて、振袖を詰袖に着替えた世之介は、思うところあって初瀬詣でに出かけた。 かげま その帰り道、旅回りの陰間の忍び宿に泊って、つらい稼業の実態を聞く。 髪きりても捨てられぬ世 ( 十五歳 ) 後家ほどなびきやすいものはないと話に聞いた、火遊びがおもしろい年頃の世之介 は、石山寺に参詣した折、袖すり合せた上品な後家に口説かれて、できた子供を、始末に困って六角堂に捨てた。 女はおもはくの外 ( 十六歳 ) 元服した世之介が、むし暑いのに頭巾を脱がない。不審に思った仲間が無理に脱がせると、 額に打ち傷があった。実は、人妻に横恋慕して、忍び込むところを、割木でぶたれたという。 さらしめの 誓紙のうるし判 ( 十七歳 ) 商いの道を知らなくてはと、奈良名産の晒布の仕入れにやられた。すると商売はそっちのけ きつじなるかわ で、木辻・鳴川の廓に遊び、女郎に誓紙を書かせる始末であった。 えじり するが 旅のでき心 ( 十八歳 ) 江戸の出店の歳末の決算を聞くために、初めて東海道を江戸へ向った世之介は、駿河の江尻の宿で わかさ い、当かわ 若狭・若松という姉妹の遊女に馴染んで身請し、三河の芋川でうどん屋を開業したが、左前となり、二人の女とも別れて しった。 たど ししようくっ 出家にならねばならず ( 十九歳 ) やっとの思いで江戸の出店に辿り着いた世之介は、それにも懲りす江戸中の私娼窟を漁 り歩く。その行状が京都に知れて勘当を申し渡されたが、出店の番頭の計いで、坊主にされた。だが、なおも美少年の草 履取りをかわいがるのであった。 ゃなか 裏屋も住み所 ( 二十歳 ) 江戸谷中での坊主暮しにも飽きた世之介は、通りかかった大峰参りの山伏の弟子となって、大坂 みみか へと帰り着く。鯨細工の耳掻き作りのしがない身の上となったが、性懲りもなく私娼を漁ったあげく、その入り婿となっ はっせ
あは ひばちしか くぎかすがひ 一駕籠かき。力者のなまりとい らべて、中のへだてを取りはなち、釘鎹にてとち合せ、中に火鉢を仕懸け、 ろくしやく まくらびやうぶてめぐひかけ 1 すみたな 角に棚をつらせ、枕屏風・手拭掛まで入れて、六尺十二人すぐりて、ちひさき 0 大津の柴屋町で粋人の実力を発 揮する世之介。 男 代家のありくがごとし。何事もなればなる物そかし。 ニ滋賀県坂田郡米原町朝妻筑摩 色 は琵琶湖東岸の港。奈良時代以来、 東国から京坂への旅客は、ここで 乗船して大津に渡ったので要港と して栄え、渡し船に遊女を乗せて 欲の世の中にこれは又 旅人を慰めたという。朝妻船とい う。慶長九年 ( 一六 0 四 ) 、井伊直勝が がうしうあらまばんしうむろっ 本朝遊女のはじまりは、江州の朝妻、播州の室津より事起りて、今国々にな彦根に入って米原港を開いて後、 廃止。 しまめの りぬ。朝妻にはいつのころにか絶えて、賤の屋の淋しく縞布を織る。男は大網三諸書に日本遊廓の始りという 兵庫県室津港の小野町廓は、中古 ふうぎ むろ みなと よひ を引きて夜日を送りぬ。室は西国第一の湊、遊女も昔にまさりて、風儀もさの以来の瀬戸内海の要港の廓として 栄えたが、近世に入って衰えた。 み大坂にかはらずといふ。浮世の事はしまうた屋の金左衛門を誘引ひて、同じ寛文・延宝当時 ( 一六六一 ~ 八 l) 、太夫 なく、天神と鹿恋のみ。 へうきんだま六 四店商いをやめて金融業で暮し こころの瓢金玉、ぬけ舟を急がせ、その夕暮の空ほでりして恋の湊に押付け、 ている上流町人。しも ( 仕舞 ) うた まづは碇をおろさせける。しかも七月十四日の夜なり。この所は十三日切によ屋は、略してしもた屋とも。 ひょうきんもの 五剽軽者。気軽者。 たがひ 。ありさま あみ ろづ世のやかましき事をも互にすまして、盆の有様をみせて、男はちひさき編六「番々を定め、役義にかゝり ゐる舟の、さしぬけて所用を達す おほをどり なげづきん 笠をかづき、女は投頭巾に大小を指すもありて、女郎まじりの大踊、みるからるなどを、ぬけ舟つかふといふ」 がさ ほんてう また 四 しづやさび さそ みなとおしつ ぎり りきしゃ
まくら しふしん いしがきまちこひや , 一 一現、京都川端四条下ル宮川町 我を忘れ給ふか。石垣町の鯉屋の小まんが執心思ひしらせんーといふ。枕わき 付近で、色茶屋が多かった。 く↓つばし ざし抜きうちに、手ごたへしてうせぬ。うしろの方より、女嘴をならし、「我ニ茶屋女の名。『色里三所世帯』 中の一、『真実伊勢物語』巻一の二 こころだま ひょく こびききちすけ にも登場。 * 代は木挽の吉介が娘おはつが心魂なり。ふたりが中は比翼というておもひ死をさ 三枕元に置く護身用の脇差。 色 カーカ 好した、そのうらみに」と飛んで懸るを、これもたちまち斬りとめぬ。庭の片す四伐木切断作業をする山男。 五比翼の鳥。生涯、離れぬと約 たけ 束して。↓一四ハー注一一。 みより長二丈ばかりの女、手足楓のやうに見えしが、風ふき懸ける声して、 どくか もみぢみ たかを 六京都市右京区梅ケ畑にある紅 「我はこれ高雄の紅葉見にそそのかされて、一期の男に毒を飼ひて、そなたに 葉の名所。清滝川の西岸。 じろきちかか くセ一生連れ添う男に毒を盛って。 思ひ替へしに、はやくも見捨てたまひぬ。次郎吉が嚊見しったか」とかみつ を、くみ臥せて討ちとめぬ。この時、目もくらみ気勢もっきはて、浮世のかぎ おほづな キ」かさま りとおもふに、又、空より十四五間も続きし大綱のさきに女の首ありて、逆に のちょ かみだいご ^ 京都市伏見区醍醐にある真言 舞ひさがり、「我こそ上の醍醐あたりに、身を衣になし、後の世を大事とおこ 宗醍醐派の総本山。山上の諸堂を しふぢやく ふたたび しも かみ なひすましてあるを、二度髪をのばさせ、ほどなく迷はし給ふ事、執着そこを上の醍醐、山麓の諸堂を下の醍醐 九 とい , っ のど のどぶえ 九喉笛をなまって「のどびえ」と さらせじ」とひまとひて、息をとめ、喉びに喰ひっく所を、すかしてさし殺 いった ( かたこと ) 。 かたをが 一 0 身をかわして。 し、もはやこれまでと念仏申し、心の剣を捨てて西の方を拝みあやふかりしに、 = 邪見な心。「不義より起る心 らうにん かの牢人立帰りて見れば、そこら血しほに染めて、世之介前後をしらず。おどの剣」 ( 平家女護島 ) 。 かいで ち つるぎ 2 ころも
好色代男 30 五 し、つく なかだか 一浮名が立ったら邪魔をします。 「名のたたば水さします」などと、ロびるそって中高なる顔にて、秀句よくい 四 湯をうめる意にかけた。 ただのり おんな ニ鼻の高い へる女あり。とらへて、「御名ゆかしき」と問へば、「忠度」と申す。「いかさ くちあ、 三地ロ・ロ合とも。同音異義の 洒落。 一まこれをただは置かれじ」と、うす約束するより、はやあがり湯のくれやう、 四お名前を伺いたい。謡曲「忠 ゆかた ひいれ びんみづ ちらしをのませ、浴衣の取りさばき、火入に気をつけ、鬢水を運び、鏡かすや度」の文句取り。忠度は平忠度。 五香煎。「こがし」とも。焦した ふうぎ しろおび ^ ちんびういきようさんしよう ら、そのもてなし何国も替る事なし。風儀は、ひとっ着物つまだかに、白帯こ米に陳皮・茴。・山椒などの香料 をまぜた粉を白湯に入れて服する。 てうちん ころまま引きしめ、「やれたらば親かたのそん、久三、挑灯ともしや」といふ六鬢髪を梳くのに用いるさねか ずらの茎の粘液。 ギつめ・ てうしだか セ上着一枚だけの仕事着。 かた手に草履取出し、くぐり戸出るより調子高に傍輩を謗り、「朝夕の汁がう ^ 思う存分。 すいーの、「はさみをくれるはずぢやがたるるかしらぬ」と、ひとっとして聞九破れたら。久三は下男の通称。 一 0 「たる」は剃るに同じ。転じて、 おきわた くべき事にもあらず。座敷に入りさまに置綿を壁につけ、立ちながらあんどん切れるの意。 一一綿帽子。真綿製の飾り帽子。 こぐら がんくび まはして、すこし小闇き中程に座して、雁首火になる程はなさず、をり / 、あ三午前二時を報ずる鐘。 一三湯女の商売用語。 ・ようしゃ せうべん しゃうじ くびして、用捨もなく小便に立ち、障子引きたつるさまも物あらく、からだを一四女に不自由している。 一五寛永・正保 ( 一六一一四 ~ 哭 ) のころ、 はなししか びやうぶ さえきちょう 神田駿河台下の佐柄木町の堀丹後 横に置きながら屏風へだてたるかたへ咄を仕懸け、身もだえして蚤をさがし、 守屋敷前に数軒の湯女風呂があり、 よなか一ニ 夜半八つの鐘のせんさく、我がこころにそまぬ事は、返事もせずそこ / 、にあ旗本奴・町奴などの男伊達が集り、 はでな風俗を競った。その風俗を いびき しらひ、鼻紙も人のつかひ、その後鼾のみ。どこやら冷えたるすねを人にもた歌舞伎に移して丹前風という。 て いづく わ ど きるもの ひ そし ゅ のみ しる しゃれ