43 巻 あたま る時は、ちかよりて頭まで隠せし事、こはき夢見ては、申し / 、と起せしなど、町内各戸から自身番に詰めた。老 人・女子・子供などの家主は代人 もんどころきるもの ひとりみ が認められた。 今おもへば独身はと悲しく、仏の道にこころざし、紋所の着物もうとみはてて、 ^ 大都市における町方の警備施 ・一と一ら もとよりあきな そろばん 世をわたる種とて、元来商ひのとくい殊更にあしらひ、手づから十露盤をかん設。番屋には、番人 ( 五人または 三人 ) がおり、公用・火の番など らち 町内の雑務を処理した。 がヘ銀みる利発も、女は埒のあき難き事もありて、よろづ手代にまかすれば、 九花木・草花を植え込んだ庭園。 が しり′ ) ゑ 一 0 模様のある着物。 いっとなく我になって、様といふ尻声もなく、大方は機嫌とりて、むやくしき しんがん = 銀貨の良否・真贋を見分ける とりみだ 事も程すぎて、ここちよき下主どもの咄より、ふとこころ取乱して、若き者な才能 三わがままになって、様という 敬称をつけて呼ばなくなり。 どと名の立っこそをかし。 一三無益し。むだの意から転じて、 なび たび / 、 「我、後家を引き靡ける事度々なり。葬礼のつきみ、に様子尋ねて、男のはて口惜しの意。 一四下男や下女どもの色つばい話。 はかまかたぬ られて跡はかやう、と申せば、しるべなくても袴肩衣着て、我とは兄弟一ぶん一五上方では手代をいう。 一六播州杉原村 ( 現、兵庫県多可 に申しかはせしにと、しみみ、と弔ひ、その後子供のなりさまを尋ね、火事な郡可美町 ) 原産の上質の薄い和紙。 ↓三二ハー注一 0 。 あ すぎはら どといふ時もかけ合ひ、物毎たのもしくおもはせ、したしみてから杉原にたよ宅江戸時代の少年は十四、五歳 で前髪の左右の生え際を角に剃り り書きつづナ、、 レしくたりが心のままに」と申す程に、ト 耳にもおもしろき時は込んだ。半元服。角前髪という。 天色男ぶりを発揮する。女の目 かど 十五歳にして、その三月六日より角をも入れて、ぬれのきく折にふれて、蛍みをひきつける。 一九大津市石山寺の石山寺観音。 まう るなど催して石山に詣でけるに、しかもその日は四月十七日、湖水も一際涼し四月下旬が蛍狩の季節。 かね 一九 もの′」と がた ともら おほかた こみみ てだい おこ ひときは ほたる
緒。↓七五ハー注一八。 京に来てよい事見た目で大方の 色 一五大坂道頓堀の松本名左衛門座 物 を ~ 七三 ) の の座元。万治・寛文 ( 一六夭 事はとけされて、これもかい 女 ころ全盛。 * むさん一ま 掫一六扇屋の店先で地紙を折る女工。 やりて、「とかくは夢山様の御、 地扇売りにかこつけて春も売った。 しまばら 宅扇の地紙 望み、島原へおせーとて、隠れ 煽天女人禁制の地 ぜんきち 呼一九よしや風に。万治・寛文のこ もなき善吉申すは、「世之介は ろ、江戸で流行した旗本奴よしゃ め 組の伊達風俗で、白柄の長い大小 じめて遊女狂ひ、両人ともにこ そり の 尽 を、反を返して ( 抜刀の姿勢 ) 差し 大 首領の三浦小次郎義也の名に の善吉仕懸けを見ならへーと、 ちなんで、よしや組という。 ばこもちこもの はさみ箱持、小者と召しつれ、よき風の大男、袴高くすそとって、大小よしやニ 0 島原では正月十四日から二、 三日間、揚屋町そのほかの道筋に あみがさ がかりに、編笠ふかく着てさしかかる。その頃は正月十六日、この里に人形見人形店が出て、遊客は相手の女郎 やその遣手、揚屋の女房などに買 あげやかど / 、 いかなる太夫も十両十五両がもてあそってやるしきたりであった ( 島原 世出して、揚屋の門々おしわけがたし。 大和暦 ) 。 のろま ニ一いずれも道化た野呂松人形の 四びを調へなぐさむ事そかし。その日の大臣めいわくなり。この豊かなる賑ひ、 名。野呂松人形は、寛文年中、江 とうろく けんさいふんとくむぎま こころなき藤六、見斎、粉徳、麦松も、うき立つばかり見えわたりておもしろ戸の野呂松勘兵衛が使い始めたと 巻 いう道化人形。 一三寛文末から延宝にかけての江 戸吉原新町三浦隠居抱えの太夫小 善吉、男は今なり。江戸では小太夫にほれられ、とても名の立っ次手に人の太夫であろう。 * せ し。 ととの み こだいふ ふう たいふ 一九 にんぎゃうみ どうけ
いろぶくさ の一節「車ヲ停メテ坐シテ愛ス楓 / 、呑みの色服紗、呑みすて 林ノ晩」のもじり。 一四綿やそば殻を入れ、両端をく の煙草盆、いづれかのこる所 くった枕。箱枕に対する。 ひのき 夜一五檜・杉材を木地のままで製し もなし。「間もなき内にかか の た膳や椀。 水 できはべ おほかた 清一六雁の肉に味つけし、杉板にの る御事ども出来侍るは、大方 せて焼いた料理。杉の移り香を賞 おこころ 積美した。へぎ焼とも。 ならぬ御心の付けやう、こと を 宅一人一服すっ飲むように色袱 ま、 肴 そろ 酒紗 ( 赤・紫・鶯など ) が揃えてあり。 さらこたつの御礼は外に申し 天一度だけ使って捨てる新しい また 煙草盆。使い捨てとも。 上げたし」と、又車をはやめ 一九金銀の箔で上皮をまぶして。 こよひちそう てゆく。世之介申すは、「今宵の馳走身にあまってよろこばし。何か土産になニ 0 「京ニテ菓子所。室町今出川 角。一一口能登」 ( 万買物調方記 ) 。 まんぢゅう ただいま 三おもちゃの弓矢 ( 破魔弓 ) と、 るべき事ありや。唯今たくめ」といふ。弥七、「日本一の饅頭あり」と申す。 おま - もり 疫病除けの蘇民将来と書いた護符。 かず 「それは」ときけば、一つを五匁づつにして上を金銀にだみて、その数九百、厄神参りのみやげ。 一三女郎が揚代を自弁して勤めを かた やちゅう ふたくちゃのと 八二ロ屋能登に申し付けて夜中にこしらへさせ、太夫九人の方へ送りまゐらせけ休むこと。借金になる。 ニ三女郎の年季は十年で、年季証 まもり そみんしゃうらい おみやげ 文に記す。ただし、出世の一年と る。太鼓どもも御土産にとて、ちひさき弓矢に蘇民将来の守をととのへて、 最後の一年 ( 礼奉公 ) は十年に含ま 巻 ほかねんき ) ) そくさい ゆくすゑ 「行末ながく御急災に、身あがりも遊ばさず、手形の十年より外に年切りましれず、正味十二年。その年季を延 長して。少しでも長くいてもらい しんじゃう くぜっ 、との意。 て、御勤めのうちにロ舌もなきゃうに」と申して、太夫さまがたへ進上申す。 たばこばん の ま みやげ ロ 0
153 巻 ゆるうちもくるしからず」と泣 笠 夫一 0 島原は四つ時 ( 午後十時ごろ ) き別れしに、「門をしめる」と る に大門を閉め、八つ時 ( 午前二時 しゅうもち一一 よばはる。あるいは主持、さは 耐ごろ ) に開いた。 = 差支えがあって泊れない人。 折三島原の大門を入った所にある りある人かへるにまぎれて、出 あんどん 方出口の茶屋の行灯。延宝・天和・ に貞享度 ( 一六セ三 ~ 八 0 の茶屋数は十三 ロのあんどんうるさく、横顔し め 軒。 くちを の 一三京都三条大橋と四条大橋との て走り出、昔はと口惜しく、ば 之間の鴨川西岸の花街。色茶屋や出 ちゃうこやど なかやど 合宿や島原通いの中宿などがあっ んと町の小宿にかへりぬ。 かくれなき沙汰して、太夫折檻すれども止めず。むごうあたれどもなほ聞か一四台所の土間に下ろして。下女 扱いにして ず。せんかたなく庭におろして、木綿のときあけ物をきせて、味噌こしを持た一 = 綿入着物の中綿を抜いてに 仕立てた着物。 とうふ きらず せ、豆腐より出しこまかなる物を買ひにつかはしけるに、これをも恥ぢず。お一六雪花菜。おから。 ゅゑ ゆきみづき 宅十一月の異名。 六もふ人故なればと、その年の雪見月、はじめてふり積る、にくさもつもりて、 まるはだか ひろには 丸裸になして、広庭の柳にくくり付けて、「重ねてあひ見る事これでもやめぬ か」と責めても、あふまじきとはいはず。死ぬるをきはめ、五七日も食事をた天後輩の妹分の女郎。姉女郎の 指導を受け、出世する時も世話に いもとぢよらう なさけ って、ある日泪をこばすを、妹女郎が、「見る目も情なし」と申せば、「我が身なる。 なみだ さた せつかん もめん や
ちぶみ とこばしら て、この中に女郎、若衆かための証文、大方は血文なり。床柱より琴の糸を引一愛の誠実を誓った起請文。 8 ニ血書。 かぞ 三数えるの意。 きはヘ、女にきらせたる黒髪、八十三までは名札を読みぬ。その跡は計ふるに 四遊女が客に贈る爪は、普通、 男 つめかず いとま ちがひだな 代暇なし。右のかたの違棚の下に、肉つきの爪数をしらず。その外服紗に包みし薄く爪だけをはがした。 六 五寺院の梵鐘鋳造に際しては、 色 かねい にはぜん やま 好物山のごとし。これも何ぞであるべし。ただこの有様は、執心の鐘鋳の場、善祈願が叶うように、鐘に鋳込む銅 鏡と、鐘を釣り上げる綱にする髪 しろむ がきひむく おつぎま の綱かとおもはれ、なほ御次の間をみれば、らく書の緋無垢、血しばりの白無の毛を、女が寄進した。 六寺院における開帳や供養の時、 きるもの一 0 がたぢむらさき ^ あしたなごり九 垢、後の朝の名残をそめ / 、と書きつづけたる着物、十六形の地紫、あれは花仏像の手にたくさんの五色の綱を かけて参詣者に引かせる。仏に導 さみせんきやふ なか かけもの かたみ かれる意を表す。 崎様の念記、紋つきの三味線、脚布を上下、帯を中べりにして姿絵の懸物、そ セ血染めの白無垢。無垢は表裏 しふぢやく のかぎりなく、「これ程まではおほくの女に思ひをさせ、執着御のがれあるま同質同色の小袖。 ^ 逢って別れる翌朝の名残惜し とこ たちま じ」と申す一一 = ロ葉の下より、床の上なるかもじ忽ち四方へさばけ、のびては縮み、さを。 九墨色も詳やかに。 しゃう れ 0 寺、ーし 二三度飛びあがりて物いはぬばかり、生あるけしき、みるに身の毛たっておそ一 0 十六武蔵の形の模様かという。 四角と三角を組合せた形。 ろしく、「これは」と尋ねければ、「これは春も覚えがあらう。段々わけあって = 島原の太夫。 * 三掛軸の表具の天地。 ふぢなみ 一三表具の左右。 藤浪にきらせたる髪と爪なり。中にも今にわすれねば、かく置き所までをうづ 一四美人画。 あだ うつつまみ 高く、仮にも化には思はず。ある時は夢、ある時はまばろし、又は現に目見え一五女郎に切らせた髪。 一六生物のようであった。 、つ て、今請けられてゐる男の首尾もかたる。さらに逢はぬとはおもはず。人には宅特別にして。 つな と しゅび あ ふくさ
225 巻ノ うづらやきとり 五両の鶉を焼鳥にして太夫の きんばく 介 一ニ縒金 ( 絹糸や綿糸に金箔をよ 之 き一かな 世 り付けたもの ) で組んだたすき。 肴にせし事も、今この酒宴に る じ玉は美称 一三綾杉。ヒムロの異称 おどろき、風俗も替りてしを 人 異 ためしまっかげ 一五岩間の泉。「千代の例を松蔭 らし」と誉むれば、「都の女 景 風 の、岩井の水は薬にて」 ( 謡曲・養 ふぜい 見老 ) 。 郎様がたの風情が見たい」と 張 一六鶉の鳴き声を賞美して競い合 の 山 、名鳥は二十両 ( 約百二十万円 ) 、 いふ。「それこそわけ知りの 崎三十両で売買したと諸書に見える。 むつのかみ 長 宅陸奥守橘為仲が、任果てて帰 世之介様に尋ねられーとい 京のとき、宮城野の萩を長櫃十一一 ふ。「幸びこのたび持たせたる物あり」とて、長櫃十二棹運ばせ、この中より棹に入れて持参したという故事 ( 無名抄 ) による。 太夫の衣装人形、京で十七人、江戸で八人、大坂で十九人、かの舞台に名書き一〈衣装っき。 一九「物の名も所によりてかはり てならべける。めい / 、の仕出し・顔つき・腰つきひとり / 、替りて、所によけり難波の蘆は伊勢の浜荻」 ( 尤の あこあしカり 草紙 ) 。謡曲「阿漕」「蘆刈」にもこ ながさきぢゅう たれ 「、りてこれは誰、それはどなた、いづれかいやらしきはあらず。長崎中寄っての歌が見える。 よる ニ 0 「おきもせす寝もせで夜を明 かしては春のものとてながめくら 詠め暮しつ。 しつ」 ( 伊勢物語・一一段 ) 。 0 外国貿易の窓口、長崎の、一味 変った廓紹介。 が 0 しだ 一八 ながびつ 一を 一九
19 巻 鑑定など ) 。 = 京都市中京区両替町通一一条下 ル。金座・銀座・朱座・両替商が あった。 人には見せぬ所 一ニ親が死んで遺産を相続したら、 直ちに元金を倍にして返すという きよう つづみ あけ 鼓もすぐれて興なれども、「跡より恋の責めくれば」と、そこばかりを明く契約で借りる金。『本朝二十不孝』 巻一の一に詳しい。銀三百目は約 のち には . か れうつ程に、後には親の耳にもかしがましく、俄にやめさせて、世をわたる男三十万円。 一三端午の節句 ( 五月五日 ) の前日、 りゃうがへまちかすがや ゆかり かねみなら 芸とて、両替町に春日屋とて母かたの所縁あり、このもとへ銀見習ふためとて軒にを葺く。 一四塀越しに姿を見せている柳。 つかはし置きけるに、はや死一ばい三百目の借り手形、いかに欲の世の中なれ一五軒下の雨だれをうける石畳。 一六篠竹で作った人目よけの塀。 宅呉服町の京都室町に、当時、 ばとて、かす人もおとなげなし。 笹屋という有名な呉服所があった。 その頃九歳の五月四日の事そかし。あやめ葺きかさぬる軒のつま、見越の柳そこで売り出した縞帷子。 天腰巻。 したやみゆふまぐれ一五 たけひとよけ ささやじまかたびら しげりて、木の下闇のタ間暮、みぎりにしのべ竹の人除に、笹屋縞の帷子、女一九中居は客の接待、使い役など を勤めた。 しゃうぶゅ によノばう ニ 0 諺。隠すことは必ず漏れるも の隠し道具をかけ捨てながら、菖蒲湯をかかるよしして、中居ぐらゐの女房、 のだが、聞かれても壁だけだ、の ま、 「我より外には松の声、もし聞かば壁に耳、みる人はあらじ」と、流れはすね意。 はすね 三蓮根は小児の瘡の一種。 へそ あか めかぶくろ のあとをも恥ちぬ臍のあたりの垢かき流し、なほそれよりそこらも糠袋にみだ一三四方の柱だけで壁がなく、四 方葺きおろしの屋根の小屋。庭園 ゆだま あづまやむね カカ ちんとほめ れて、かきわたる湯玉油ぎりてなん。世之介四阿屋の棟にさし懸り、亭の遠眼の休み所とする。亭ともいう。 ころ しにいち ニ 0 なかゐ のき みこし かさ
恋慕し、誤って殺し、悔悟発心し 行て菩提を弔うために築いたという。 丸三京都市南区の町名。東寺二王 え 門の西。羅生門のあった所。 一三島原の入口の丹波ロ壱貫町の の 世 茶屋。客の送迎をする。 見 たかはし 一四島原の太夫、二代目高橋。 * 上 ↓一六五ハー注一一 0 。 茶一六揚屋町の東側に三文字屋清左 「この朝詠めのおもしろさ、 の 衛門、西側に三文字屋権左衛門の ロ さいぎゃう まっしまあけばのきさ 出 二軒の揚屋があった ( 色道大鏡 ) 。 西行は何しって松島の曙、蚶 の 原宅「松島や雄島の磯も何ならず 島 0 ただ象潟の秋の夜の月」 ( 山家集 ) 。 潟のゆふべを誉めつるぞ。き 天南から三軒目の出口の茶屋 から あさあけ のふは新町の暮を見捨て、その目をすぐにけふ島原の朝明、これが唐にもある ( 色道大鏡 ) 。 一九洛北の岩倉は松茸の名所。 べきや。世之介なんと」、「もっとも」と、藤屋の彦右衛門方に立ちよれば、夜ニ 0 島原の天神。 * 三身請されて退廓すること。 まったけ かま 一九 ぜんあんどん 前の行燈消え、かたてに物さびたる釜はたぎりて、岩倉の松茸を焼いて、中椀一三「わが庵は都の辰巳しかそ住 ニ 0 む世をうち山と人はいふなり」の かせん みきょ 作者の喜撰法師は六歌仙の一人な 七にふたっ飲み、「これは」といふ所へ、歌仙仕合せの身清め、姿も人のおかた しゃれ ので宇治に住むと洒落た。↓一八 なごり めきて出られける。「御名残も今なり。何国へ」と申せば、「我が庵は」とばか四ハー注一一。 巻 ニ三京都六角通烏丸東入ル、天台 いひす 宗頂法寺。仏堂の構造が六角形ゅ り云捨て別れ侍る。 りつか えの名。院主は代々、立花の池坊 ニ三かくだう ワ】 「なんの、宇治へはゆくまじ。しらぬ事か、六角堂の裏あたりへ行く人よ」との家元で、堂後に住んでいた。 か い、、オこ てよろこばしませい」と、 をたたきて出口の茶屋にった へて、はや三文字屋に人をや る。 あさなが うぢ 一六もんじゃ もん 一八 かた なかわん や
73 巻 いひわけしか の言分・仕懸け、どの床も替る 事なし。人とは物をもいはせ ず、せはしく気のつまる事に さわ ぞ。五七日噪ぎの内に、のこら まぶ ず密夫となれる。さすがおろか なるやりくりにて、後はあらは れてむごく見かぎられて、ここ いとま′」 をも暇乞ひなしに上りぬ。 一五本章の主題である蓮葉女が、 浮気の相手の男から着物をねだり 取る、という話を題とした。 一六狩衣。中古・中世における公 家の常用略服。ここは旅衣の意。 すおうなだ 宅周防灘に面した大分県中津市。 一 ^ 日のよしあし。日和。 是非もらひ着物 一九芝居の櫓太鼓。開場と閉場を 知らせる太鼓を打っ櫓 やど ニ 0 元禄十三年 ( 一七 00 ) 十一月に改 かり衣しらぬ道筋を尋ねて、中津といふ所を過ぎて、いかなる方に舎るべき 一ハ 名して役者兼作者となった福岡弥 はるか つじだう あすひなみ たよりなく、その夜は辻堂にあかして、明日の日並を待ちしに、遥なる里ばな五四郎の初名。若衆方から立役を 経て親仁方に転じ、藤村宇左衛門 ふぢむらいっかく やぐらだいこ と改名。 * れに矢倉太鼓の聞え侍る。「これは藤村一角が旅芝居」と、声立ててよびぬ。 一四 一六ごろも のば きるもの とこ なかっ 0 の 魚 画 遊 一四間夫とも書く。揚代を払わな いで女郎と忍び逢う情夫。 れ 0 地方の廓としては格式のある、 わ 誘下関稲荷町を見学。 大 一三女は女でほかの女郎とはロを きかせす。
= 銀貨の目方をはかる天秤の中 央の支柱にある針口を小槌でたた いて平衡を調べる音。 ひがみなり 一ニ寄せつけるな、と思い切って 火神鳴の雲がくれ 勘当した気持も。 一三随縁真如の波の略。真理が迷 なにほど てんびん一一ぐち 奥ぶかなる家にて、天秤はり口の響きさもしくも耳に入りて、今おれに何程悟の縁によって、いろいろな現れ 方をするのを波にたとえた仏教語 あげや み′、と もたせたりとも、欲にはせまい。物の見事につかうて、世界の揚屋に目を覚まやかましい浮世の騒ぎも音なしと かかる さして、こいよ、とよべば、一度に十人ばかり返事をさす事ぢやに、親仁一代一四和歌山県東牟婁郡の本宮旧社 地前を流れて熊野川に合流する川 はよせなと、おもひきってのこころ根、さらにうらみとは思はれず。我よからで、歌枕。 一五女色に溺れたあげく心を入れ はべ ひきこも ぬ事ども、身にこたへて覚え侍る。いかなる山にも引籠り、魚くはぬ世を送り替えて。 一六大阪府泉佐野市と大阪府泉南 おそう しんによなみ一四 たにかげ て、やかましき真如の浪も音なし川の谷陰に、ありがたき御僧あり。これもも郡田尻町 宅和歌山市加太町。加太湾をひ かえた漁業地。 とは女に身をそめて、これよりひるがヘし、たふとき道に入らせたまふ。この 一 ^ 加太では、夫の出漁中、公然 かせふじかだ 四人に尋ねんと、浦づたひに泉州の佐野、迦葉寺、迦陀といふ所は、皆猟師の住と船がかりの渡海者を客にとる風 習があった。「本亭主猟よりかへ むすめ はまべ 居せし浜辺なり。人の娘子にかぎらず、しれたいたづら、所そだちも物まぎれりぬれば、かどに船の櫂をたてお 巻 く也。これをみては、他所の夫ゅ いとま かぬ作法也」 ( 好色貝合 ) 。 して、むらさきの綿帽子あまねく着る事にぞありける。男は釣の暇なく、その 一九田舎者のくせに都会の風俗に 留守にはしたい事して、誰とがむる事にもあらず。男の内に居るには、おもて似せて。 一 0 わたばうし つり れふしすま おやぢ