太夫 - みる会図書館


検索対象: 完訳日本の古典 第50巻 好色一代男
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1. 完訳日本の古典 第50巻 好色一代男

きんだいふ また『野郎立役舞台大鏡』 ( 貞享四年刊 ) 金太夫 あたらしゃ に、村山座の若女方、上村今吉弥として 新町下之町の新屋 ( 三軒あり、いずれか まさりぐさ 評判、「一、しうたんのせりふ上手にて 不明 ) 抱えの太夫。『満佐利久佐』には 「金太夫、あたらしゃ清春」とあるが、 男人を泣かす事えもの。一、舞ぶり扇の手 代 上手にてとりまはしりかうなり。一、怨 これとは別代で、延宝期の金太夫であろ 色霊となって、地赤にうろこがたの箔装束 う ( 難波鉦 ) 。↓好色盛衰記・三の一、西 きてかるわざのはたらき、随縁ふしぎの 鶴置土産・一の三、二の三 きんだいふ 妙をえ給ふ・ : 。一、人の奥様となって、 金太夫 りんきに身をもやし、腹たつるふぜい 島原上之町の上林五郎右衛門抱えの初代 よくうつりて上手」とある。↓男色大 金太夫。諸書、島原中之町一文字屋七郎 鑑・六の五、八の四 兵衛抱えの太夫とあるが、同家に金太夫 きぬがヘ という妓名はない。寛文元年三月退廓。 衣江。新町の天神。延宝期 ( 難波鉦 ) 。 容貌無双の傾国と『色道大鏡』に見える。 きんだいふ ↓好色盛衰記・三の五 金太夫 霧山 島原上之町の上林五郎右衛門抱えの太夫。 『難波鉦』記載の太夫桐山のことか。抱 四代目。延宝六年正月出世 ( 色道大鏡 ) 。 くらのすけ 一一 0 八 え主八木屋は、延宝当時、瓢簟町と阿波蔵之介 座と佐渡嶋町にあって、断定しがたい。 島原下之町の大坂屋太郎兵衛抱え。太夫 「けつかうで荒た物、豊国、霧山がほう 野風の引舟女郎。位は鹿恋。↓諸艶大鑑 さき」 ( 好色盛衰記・三の一 ) 。↓西鶴置 くわてう 花鳥 土産・二の三 備後の港町、鞆の遊女。 金吾 けんかう 新町佐渡嶋町上之町の佐渡嶋屋 ( 富士兼好 屋 ) 勘右衛門抱えの太夫。延宝期 ( 難波 佐渡嶋屋 ( 富士屋 ) 勘右衛門抱えの太夫 鉦 ) 。↓諸艶大鑑・六の一、好色盛衰記・ 吉田を、『徒然草』の作者吉田兼好とひ 三の一、西鶴置土産・二の三 つかけて、兼好としゃれて呼んだもの きりやま 一一 0 五 一九八 一六五 ・七の二 とも 一一 0 六 一九三 七 0 小イ ) らし 峰の小曝。延宝・天和期の大坂道頓堀の 若衆方。延宝八年刊の『役者八景』に、 若衆方として紹介、肖像と漢詩を配して ある。『難波の貞は伊勢の白粉』 ( 推定天 和三年刊 ) に、大坂嵐座の若衆方として、 その全盛ぶりを評判。貞享四年春刊の 『野郎立役舞台大鏡』には、すでにその 名が見えない。『道頓堀花みち』 ( 延宝七 年刊 ) に入集し、また『西鶴大矢数』 ( 諸国色里案内 ) 。↓諸艶大鑑・八の二、 椀久一世の物語・下の三、好色一代女・五 の二、西鶴置土産・二の三、好色盛衰記・ 三の一、四の三 こきん 八 0 てらどまり 越後寺泊の遊女。 ・一ぎらし 峰の小ざらし ( 難波の貞は伊勢の白粉 ) 一九八

2. 完訳日本の古典 第50巻 好色一代男

好色一代男 342 遊里案内 たゆう 、、、品位、容 廓に不可欠な遊女の最高位の者を太夫としし 廓の人々 貌ともにすぐれ、小唄や浄瑠璃をはじめ琴・三味線、和 すごろく 歌・俳諧・書道・茶の湯・囲碁・双六などの諸芸能に堪能 廓遊びのあらましは、『好色一代男』に明らかであるが、 今では耳慣れない名称もいくつかあるので、つぎに概説すであることを要した。 てんじん る。 太夫の次位が天神 ( 天職とも ) 、三位が鹿 ( 囲 ) 。吉原で これに相当する者は格子女郎・散茶女郎と称した。鹿恋に はんや なると、昼夜を二分して半夜といい、揚屋以外の茶屋など でも客を取った。 太夫が馴染みの浅い客に逢う際、座興を助けるのが太鼓 女郎 ( 座持女郎とも ) で、これには主に鹿恋が当った。 ゅうぎり 左 このほか、寛文十二年 ( 一六七 = ) に太夫タ霧が島原から新 禿町に移った後、一人でさばききれぬほど多くの客が押し寄 夫 せたので、鹿恋を一人付きしたがえたことに始るといわれ 太 ひきふね るのが、引舟女郎である。 かむろ このはか、太夫には禿が付いた。禿は、十歳前後からそ の家の第一の太夫について諸事万端を見習い、十四、五歳 しんぞう になると、その太夫の導きで新艘として出世した。これを 禿立ちという。 0 0 さんちゃ か たいこ

3. 完訳日本の古典 第50巻 好色一代男

かみしも さかな を肴に飲みだし、まんまと酔いつぶれてしまった。「この文字屋の亭主は裃姿、女房も着物をあらため、綿帽子を かぶり、台所には大ろうそくの光り輝く中を、八百屋、肴 ままで帰られるものか、島原へ繰り込め繰り込め」、「もっ ともだ」と、揚屋町の八文字屋へ乗り込み、「空いている屋も勇み立ち、料理人も正式に構え、その威勢あるざまは、 男 もんび 一代の思い出であった。その騒ぎの中へ、太夫様のお座敷 代女郎を千人でも呼べ」と言ったが、あいにく紋日だったの ) しら 色で、太夫は一人もいない。あまりぞっとせぬ天神を集めて拵えに参りました、と言って、下級の女郎が四人やってき こそで みたが、「これではお話にならぬ。わしはともあれ、大坂て、衣桁に十二枚の小袖を掛け、小夜着は山と重ね、小蒲 しょだな の客人に、少しの間も寂しい思いをさせたのではおもしろ団は錦の峰と見まごうばかりである。床には掛物、書棚、 まきえ もら たばこばん くない」と先客に揚げられている太夫にあれこれと貰いを香箱、手文庫、煙草盆、そのほか時代蒔絵の手回り道具が かけてみたが、どれも物にならない。時に八文字屋の女房光り輝いている。 しばらくして門口から声々に呼び継ぎ、「太夫様ご機嫌 が出てきて、「大坂から上ってこられました吉崎様という てしよく よくこれへお出で」と言うと、太夫は二つの手燭を先に立 太夫様、今日が水揚で丸屋七左衛門方にお出ましになって て、階段を静かに上がり、上座の中ほどに座を構えた。左 おりますが、ただ今ご都合を聞き合せましたところ、これ の方には送ってきた一家の女郎十一人が座につく。右の方 には何かわけがあって、貰いがききそうでございます」と ひむく かこい には太夫の後より末座まで鹿恋女郎が十七人、皆、緋無垢 言う。「はじめから金のかかることなら、それもよかろう」 かぶろ かた を着て居並ぶ。御前には引舟女郎と禿が手をつかえて控え と世之介が言うやいなや、七左方へ人橋をかけて、いよい ている。そこへ内儀が出てきて、引合せが済み、「珍しい よお出で、ということになった。 お出会い」と、大坂で見知り越しの太夫であったが、祝言 並の女郎買いと違って、水揚の定めのとおり、太夫に弓 しんもっ を述べているとき、島台や金の大盃が、婚礼のときのよう 舟と天神の二人が付き添い、九日の揚詰、揚屋への進物、 ちょうし さかずきごと に持ちだされ、銚子や加えの盃事も済み、色直しも風情の 下々への祝儀、何しろ奢り第一の世之介の肝煎だけに、万 にわせん じふく おおよう あるものだ。太夫様より揚屋へ時服の進物、次いで庭銭を 事大様に申しつけ、目録にしたためて、まず喜ばした。八 おご きもいり とんにしき こよぎ

4. 完訳日本の古典 第50巻 好色一代男

『色道大鏡』に、島原下之町の林与次兵 一一代目。延宝一兀年三月出世。 たかま 衛抱えの太夫で早世、とある石州であろ高間 う。『西鶴置土産』巻一の二に「太夫の 新町佐渡嶋町上之町の佐渡嶋屋 ( 富士 屋 ) 勘右衛門抱えの太夫。延宝期 ( 難波 男石州を提げづめにして、いかないかな脇 代 の男には、ひぢりめんの戸帳をがませず、 鉦・嵐無常物語 ) 。髙天とも。諸艶大鑑・ 色 この女郎を秘仏の太夫と名高く」とある 六の三、好色盛衰記・三の一、四の一 たかを 太夫と同一人であろう。 高雄 背山 初代の高雄 ( 尾 ) 太夫。吉原京町の三浦 新町佐渡嶋町上之町の佐渡嶋屋 ( 富士 屋四郎左衛門抱え。退廓後、尼となり、 屋 ) 勘右衛門抱えの太夫。『諸艶大鑑』 日本堤西方寺中の庵で念仏行者となる。 そのかみ 巻五の五に「昔日藤屋の太夫背山也」と 万治三年 ( 一六六 0 ) 一月二十五日没 ( 高尾 まさりぐ ある。明暦二年 ( 一六五六 ) 刊の『満散利久 たかを 佐』、延宝八年序の『難波鉦』に見えな高雄 いから、寛文・延宝期の太夫であろう。 吉原京町の三浦屋四郎左衛門抱えの太夫。 延宝八年刊の『吉原人たばね』に見える ↓好色盛衰記・三の一、西鶴置土産・二の 四代目高尾。水谷庄左衛門に身請された たかはし たかはし 高崎 堺の廓の遊女。 高橋 島原下之町の大坂屋 ( 杉村 ) 太郎兵衛抱 えの太夫。初代。寛文六年出世。寛文十 一年退廓。↓諸艶大鑑・一の四 高橋 島原下之町の大坂屋太郎兵衛抱えの太夫。 せやま たかさき た行 一一 0 六 滝井山三郎 ( 新野郎花垣 ) 一一 0 五滝川 ので「水谷高尾」という。 たきがは 新町佐渡嶋町下之町南側の高嶋屋 ( 二軒 あり、いずれか不明 ) 抱えの天神 ( 難波 鉦 ) 。↓好色盛衰記・三の一 たきゐさんぎぶらう 滝井山三郎 寛文初年、京都で若女方として舞台をふ み、寛文三年には江戸に下って評判をと り、同五年十月には市村座の「梅が妻ー で大当りをとって、まもなく十二月には 京都へ引き上げた。寛文七年、再び江戸 へ下って中村勘三郎 ( 二代目 ) 座に属し たが、当年より町奉行となった島田出雲 守に寵されたので、山三郎は江戸四座の ほかに一座を立てる事を願ったが成就し なかった。同年八月、勘三郎が急死した ので、その死は山三郎がその跡に代らん ための毒殺であったと『久夢日記』が伝 しんやろうはながき えている。延宝二年刊の『新野郎花垣』 に、「此君人にこへ、おすがた心ばせ又 有べきともおもはれず。ぬれ狂言のしな せぶり、うたふ小歌のひとふし、かりや うびんがともいふべし」と評判し、肖像 の賛に、「新しばゐとりたてたき井心ね は流れにすめる役者すくわむーとある。 こ、「さ 『古今役者物語』 ( 延宝六年刊 ) 一三四

5. 完訳日本の古典 第50巻 好色一代男

343 遊里案内 これらの階級には、揚代をはじめとする厳格な格式が適 用されたから、時に売れなくなった太夫は天神に格下げさ れた。これを太夫おろしと称し、また太夫あがり・天神あ がりといって天神・鹿恋が格上げされることもあった。 つばね 最下級が端女郎 ( 局女郎とも ) といって、廓の片隅のせ まい通りに面した小部屋 ( 局 ) でショートタイムの切売り をした。 太夫・天神・鹿恋などの上級妓を抱えて営業するのが女 郎屋で、通常、「亡八」と書いて「くつわ」と称した。 亡八が、求めに応じて遊女を送りこむ家が揚屋、即ち遊 女を揚げて遊興する貸座敷家である。 茶屋は揚屋の付属的存在で、遊客はまず廓の門をくぐる と茶屋に休んで身なりを調え、茶屋の案内で揚屋へ向った。 佐茶屋はまた揚屋の代りもして、昼間に限り鹿恋や端女郎な 持 どの下級女郎を揚げて遊ぶこともできた。同じ茶屋でも編 鼓 太 笠茶屋は、遊客に顔を隠すための編笠を貸した。 廓に向う遊客のなかでも、太夫・天神などの上級妓を目 大 だいじん たいこもちまっしゃ ざすのが大尽 ( 大臣 ) である。大尽には太鼓持 ( 末社とも ) が付きしたがって、座興を盛り立てた。 それでは、つぎに『好色一代男』の舞台となった、三都 やりて 他に、太夫には遣手が付属した。これは、女郎屋に雇わをはじめとする各地の遊廓を訪ねよう。 れて、上級妓を引きまわし、監督する役どころで、四、五 十代の経験者が当った。 トー 遣手 ( 右 )

6. 完訳日本の古典 第50巻 好色一代男

ねぎめさい 巻六あらまし たちばな 喰ひさして袖の橘 ( 四十二歳 ) 島原の三笠は太夫職にふさわしい名妓であった。命限りと通いつめた世之介であったが、 せつかん 不都合が重なり、借金のために揚屋から堰かれる身となった。それでも忍び逢っていると、評判になり、親方に折檻され ても、心変りしない気丈な三笠であった。 身は火にくばるとも ( 四十三歳 ) 生玉神社の蓮の葉刈りを見に集った世之介の一行が評判した新町の太夫のなかで、無欲 で橢が深く、諸芸に達し、手管の名人と折紙がついたタ霧に、世之介は手をまわして忍び逢い、その真価を知る。 心中箱 ( 四十四歳 ) 四条河原の涼み床で出逢った太鼓持の柳の馬場の長七夫婦をわが家へ伴った世之介は、土用干しの最 ふじなみ 中の、心中箱にまつわる回想から、島原の太夫藤浪との深い縁を思い起すのであった。 みふね 寝覚の菜好み ( 四十五歳 ) 大雪の夜、新町の揚屋で世之介が逢った御舟は、心情・座配とも、実にみごとな太夫であっ た。夜も明けて、帰る道すがら世之介一行がふと耳にした女郎たちの内輪話は、粋とは裏腹の、はしたないものであっ はつね ながめは初すがた ( 四十六歳 ) 島原の出口の茶屋で世之介が出逢った太夫初音の年始姿は、輝くばかりであった。思いが つのり、月末にようやく逢うことができた世之介を、初音は座敷でうろたえさせ、床ではまた先手を取ってあしらうとい う、見事なさばきぶりであった。 匂ひはかづけ物 ( 四十七歳 ) 江戸吉原の吉田は、彊のある、駆引の上手な太夫であった。吉田に馴染んでいた大身の旗本 。 : 別な太夫を見そめ、世之介を連れて手を切りに出かけ難題を吹っかけたが、ことごとく裏をかかれ、世之介らの仕打 はよろしくないと評判が立った。 かしよばおり 全盛歌書羽織 ( 四十八歳 ) 世間普通の女郎は、何人かの馴染客をうまくさばいて、おれこそ客色と思いこませるものだが、 のあき 新町の太夫野秋は、全盛の世之介と尾張の伝七を公然と平等に馴染客として迎えた。 いくたま せ はす きやくいろ

7. 完訳日本の古典 第50巻 好色一代男

な行 ながっ 長津 男新町瓢簟町の扇屋四郎兵衛抱えの太夫。 代 寛文・延宝期。明暦一一年刊の『満散利久 色佐』に、さかい屋の太夫長津の名がみえ るが、延宝八年の『難波鉦』には見えな ↓好色盛衰記・三の五、西鶴置土 産・二の三 にな日 下関稲荷町の遊女。 のあき 野秋↓野関 のかぜ 野風 島原下之町の大坂屋 ( 杉村 ) 太郎兵衛抱 えの太夫。延宝四年十月に出世 ( 色道大 鏡 ) 。↓好色一代女・一の四 のかぜ 野風 ききようや 島原下之町の桔梗屋喜兵衛抱えの太夫。 寛文九年に退廓。 野世 島原下之町の大坂屋太郎兵衛抱えの天神 野瀬。延宝七年五月出世。太夫高橋に導 かれる ( 色道大鏡 ) 。 のぜき 野関 新町のあたらしゃ清春抱えの太夫。『満 散利久佐』に評判が載る。 一六五・一一 0 八 はなかは 一五五花川 『子孫大黒柱』巻二の四の説によれば、 備後の港町、鞆の遊女。 一一代目岩井半四郎の手代で俳号補天とし花崎 ているが、大坂の座元で立役を勤めた初 初代。島原下之町の桔梗屋喜兵衛抱えの 代半四郎の手代であろう。初代は元禄十 太夫。寛文十一年十月出世。延宝三年五 二年没で享年四十八歳 ( 一説、五十二 月退廓。なお、一一代目も、初代と同じく 歳 ) 。天和一一年現在としても三十歳そこ 桔梗屋喜兵衛抱え。延宝五年七月、天神 そこである。 より太夫に出世 ( 色道大鏡 ) 。↓諸艶大 鏡・一の四、五の一、好色五人女・三の一、 好色盛衰記・四の五、浮世栄花一代男・一 はかたこぢよらう 博多小女郎 の四 はんだいふ 伝説的人物。慶長 ( 一五九六 ~ 一六一五 ) のころ半太夫 柳町にいた小女郎は強力で、唐人が博多 『難波鉦』に天神として記載。『諸艶大 港で暴れた時、その長を捕えた功によっ 鑑』巻二の二には、新町の太夫とある。 て妓長となったという。ただし『諸国色 ↓好色盛衰記・三の五 ひやうさく 里案内』には、、 月十郎という唐人宿の女兵作 と唐人との間にできた娘が女郎になった 大津柴屋町の遊女。 ひやうしらう ので、「そのいはれにて、女郎を博多小 兵四郎 ひいらぎや 女良といふ」という異説がある。 柊屋。上方の立役。初代坂田藤十郎の はつね = 0 八初音 妹婿。江戸長唄坂田派の祖、坂田兵四郎 ひらぎ 島原上之町の上林五郎右衛門抱えの太夫。 の父。「世に住めばいやな年越し、と柊 三代目。なお、二代目は、寛文元年廓内 兵四郎と語りてこれを笑ひける」 ( 男色 にて病死 ( 色道大鏡 ) 。 大鑑・七の一 l) 。↓好色盛衰記・三の一 はっゆき ふぢなみ 一当初雪 一六五藤浪 新町の太夫。延宝期 ( 難波鉦 ) 。↓諸艶 下関稲荷町の遊女。 ふぢなみ 大鑑・三の五 藤浪 = 0 三 の平 一六尻 一三九 はなさき とも 一八九 七 0

8. 完訳日本の古典 第50巻 好色一代男

八嶋 ぎになをる」とある。↓男色大鑑・五の 四 備後の港町、鞆の遊女。 やちょ 八千代 一九七夕霧 このむらや 男新町瓢簟町の木村屋又次郎抱えの太夫 新町瓢簟町の扇屋四郎兵衛抱えの太夫。 代 ( 難波鉦 ) 。 扇屋が寛文十一一年に島原より新町へ移転 やまぶき 色山吹 したのに伴って新町に移り、全盛をきわ ひきふね 好 鈴鹿の関宿にいたという、土地の小唄に めた。助手格の引舟女郎 ( 鹿恋 ) を連れ もうたわれた遊女。 るのは、このタ霧に始る。延宝六年正月 やまもとかんたらう 山本勘太郎 六日、在職中に病死。歌舞伎・浄瑠璃の 一一代目。上方役者。天和・貞享年中の若 タ霧物のモデル。 よしかは 衆方 ( 野郎立役舞台大鏡 ) 。京都の役者吉川 時之太鼓 ) 。 よしの 評判記『野郎虫』 ( 万治三年刊 ) に、「伊 『難波鉦』に天神として記載。抱え主伏吉野 兵衛内山本小勘」とあるのがそれで、 見屋は、延宝当時、新町に伏見屋という 六条三筋町の林与次兵衛抱えの太夫。一一 「いまだ少年也。後々は一座の太夫に成 屋号の女郎屋が十一軒もあり ( 色道大 代目。禿名林弥。本名松田徳子。元和五 ゅへに、勘太郎になすらへて小勘とそい 鏡 ) 、いずれか不明。↓好色盛衰記・三の 年五月、十四歳で太夫に出世。才色兼備 ふなる。・ : ゆくすゑはこかん太郎が跡っ の名妓。寛永八年、廓の掟に背いて賤客 よしギ、き 吉崎 をとったために退廓、灰屋紹益の妻とな 島原上之町の喜多八左衛門抱えの太夫。 る。寛永二十年八月没、三十八歳。 よしをか 新町から移って、延宝元年三月二十一日吉岡 一六五 とつをき 仙 ( 東寺御影供の日 ) 出世して太夫となり、 新町の太夫。「ひんと反った物、取て置 歌 むかふば 霧 女 同三年十二月に退廓。二十五歳 ( 色道大 の雪踏、よし岡が向歯」 ( 好色盛衰記・三 諧 鏡 ) 。 よしだ 今 古吉田 吉原新町の彦左衛門抱えの太夫。寛文期 「みじかきもの吉田がきだてーとあり、 意気地の強い女郎であった ( 吉原讃嘲記 やしま とも 七 0 ゅふぎり 一六九 一九八 わ行 若狭 江尻宿にいたという姉妹の遊女 ( 一目玉 わかさ せつだ 吉田 ( 古今俳諧女歌仙 ) 一つ 五三 ひとめたま

9. 完訳日本の古典 第50巻 好色一代男

たちばな おもかげ の橘の定紋を付けてあったが、一度使ったら捨ててしまう その面影は雪むかし ( 四十九歳 ) 当座の新しい道具も、所によってはおもしろいものだ。し たゆうたかはし ばらくして台所で、「久次郎が宇治からただ今帰りました」 初代の太夫高橋に思いをかけない男とてはなかった。 あいきよう と言う声がして、やがて水漉しが始った。さては、わざわ 「太夫に生れついたような女で、顔に愛敬があり、目がば ざ宇治橋の三の間の水を汲みにやったのかと、ひとしおう っちりとして、腰つきに何ともいわれぬ味があって、まだ そろ ほかによいところがある」と、帯解いて寝たことのある人れしかった。客が揃うと高橋は墨をすって、「この雪をた だ眺めておいでなさることもございますまい」と、当座の が語った。そこまで言わなくても、髪の結い方といし禾 ほっ 俳諧を求めたので、例の白紙の掛物に各々筆をとって、発 ロな口のきき方といし 、この太夫の風采をすべてにつけて なかだ 句より五句目まで、いずれもみごとな付句であった。中立 今に見習う者が多い つば ある初雪の朝、高橋はにわかに思い立って、壺のロを切ちの後の案内に、獅子踊の三味線を弾いたので、一同うき かんばやし うきとして囲いにはいると、竹の筒ばかり掛けてあって花 り、茶の湯を催すことになった。上林抱えの太夫たちも加 が生けてないのは不思議であった。察するに今日は太夫ば わって、世之介を正客とし、揚屋の八文字屋喜右衛門方の びようぶ 巻 二階座敷を屏風で囲って茶室に仕立て、白紙を表具した掛かりの集り、これにまさる花があろうか、と思われてのこ とであろう。 7 物を掛けてあるのは、何か深い趣向がありそうに見えた。 しろじゅすさんば まかい てんもくみずこば 高橋その日のいでたちは、紅梅染の下着に白繻子に三番 茶菓子は雛の行器に盛り、その他、天目や水翻しにも太夫 もの ひな 巻七 ふうさい かけ ま つけく

10. 完訳日本の古典 第50巻 好色一代男

好色一代男 350 あづま 一、『好色一代男』をはじめとする西鶴作品には、しばしば、当時実在の人物 が、実名あるいは仮名で登場し、作品にリアリティーを与えている。ここで は、特に世之介の生涯を彩った役者と遊女をとりあげて、五十音順に配列し、 簡単に紹介した。即ち、脚注欄の * 印と対応するものである。 他の西鶴作品にも登場する場合は、↓印を付して末尾に示した。 一、見出しの人名の下の数字 ( 一 = 三など ) は、所出のページを示すものである。 うえむら 屋 ) 勘右衛門抱えの太夫。寛文・延宝期 女方の上村吉弥 ( 大吉弥 ) と並称され、 めれ あ行 ( 一六六一—<I)O 延宝初年に摂津国河辺郡山 お山小太夫と呼ばれた。濡・愁嘆をよく あら・ーし - っ 一一 0 八 奥州 本村の庄屋坂上与次右衛門 ( 歌謡・浄瑠 し、傾城役が得意。延宝六年 ( 一六大 ) 春、 璃では山崎与次兵衛 ) に、三百両 ( 約千 京都北側芝居で、「吉野身受」の吉野太 島原中之町の一文字屋 ( 梅村 ) 七郎兵衛 八百万円 ) で身請された ( みをつくし ) 。 抱えの太夫 ( 諸国色里案内 ) 。 夫を演じ、半年余りの大入りをとった。 まき あげ巻 ↓諸艶大鑑・二の二、三の五、八の五、 元禄初年没という。↓男色大鑑・六の一 好色盛衰記・三の五、西鶴置土産・四の三 揚巻・総角とも。新町佐渡嶋町上之町の あふみ 佐渡嶋屋 ( 富士屋 ) 勘右衛門抱えの太夫。近江 なにわどら 奈良木辻の廓の遊女。 延宝期 ( 一六七三 ~ 八一難波鉦 ) 。↓諸艶大 い′はー ) 鑑・七の三、八の三、四、好色盛衰記・一一一市橋 万治・寛文 ( 一六夭 ~ 七三 ) のころの新町の の一、西鶴置土産・二の三 そのころ よぎかり あさづま 太夫か。「其比は色あそびの世盛、市橋 朝妻 が定宿、八畳敷の金の間はまくりて、勝 新町佐渡嶋町上之町の佐渡嶋屋 ( 富士 手屏風になりぬ」 ( 好色盛衰記・三の四 ) 。 屋 ) 勘右衛門抱えの太夫。延宝期。「こ いとう 一三三 れもむかしは藤屋太夫職と大坂に名高き伊藤 一一代目伊藤小太夫。万治年間に襲名した 朝妻」 ( 西鶴置土産・五の三 ) 。西鶴はい ごんぎぶらう 京都の女方で、小太夫鹿子の創始者。寛糸より権三郎 つも富士屋を藤屋と書いている。↓諸艶 いにしえひゅうが 文元年、上方から江戸に下り、古日向 京都の歌舞伎芝居の草分け。寛文九年 大鑑・二の二 むきところ だゅう 吾妻 太夫 ( 都伝内 ) 座に属した ( 剥野老 ) 。 ( 一六六九 ) 正月に名代を公許された。「糸よ り権三郎は、女の糸よるさまを、似せけ 新町佐渡嶋町上之町の佐渡嶋屋 ( 富士 寛文末年にはまた上方に帰り、当時の名 登場役者・遊女一覧 一一 0 五 2 の・一 五 0 / い、、 44 ′ノ、ノド 1- 伊藤小太夫 ( 古今四場居百人一首 )