取っておけと申されし。そ や小粒の銀貨。 一五たとえ二人っきりの場合でも、 橋 の見事さ、いつの世か又ある 高女郎 ( 上級妓 ) は金に手を触れない たてまえであったから。 を 一六手紙で無心して。 節 をか 投 する程の事笑しく、女郎も くれ 客もかんたんの一日、暮惜し 宅感嘆と邯鄲の掛詞。盧生が邯 客 鄲で道士から枕を借りて寝ると、 まるやかた る こうりゃん む所へ、丸屋方より、「尾張 枕頭の黄粱がまだ煮えない間に、 り生涯の立身と栄華を夢みたという 」きほど のお客様、先程から御出」 ( 謡曲・邯鄲 ) 。 一 ^ 島原揚屋町西側の揚屋丸屋七 一九 と、せはしき使かさなりぬ。初めてなればもらひもならず、「何の因果にけふ左衛門 一九相手が女郎の馴染客であると、 なみだ ・一とわ の約束はしたぞ」と、高橋泪ながら、勤むる身の悲しさは、「まづまゐりて断その女郎を譲。てもらうこ比がで きたが、初会の客の場合は貰いが かどぐちで きかないしきたりであった。 りを申して今くるうち、世之介様の淋しさは皆様を頼む」と、門ロへ出さまに こもど こさかづきしん かぶろ 七二三度も小戻りして、「わが居ぬうちは小盃で進ぜませい」と、禿も残して丸 ニ 0 ゐ 屋に行き、すぐに座敷へはゆかず、台所につい居て、世之介方へのとどけのかニ 0 たたすんで。 巻 あひだ ぎりもなく書く程に、亭主も内儀も色々わびて、「まづすこしの間奥へ」と申 ぜん たいこもち せど、それは耳にも聞きいれぬ内、「お膳が出まする。二階へ御出ーと太鼓持 0 つかひ をはり さび なんいんぐわ 0 かんたん
好色一代男 342 遊里案内 たゆう 、、、品位、容 廓に不可欠な遊女の最高位の者を太夫としし 廓の人々 貌ともにすぐれ、小唄や浄瑠璃をはじめ琴・三味線、和 すごろく 歌・俳諧・書道・茶の湯・囲碁・双六などの諸芸能に堪能 廓遊びのあらましは、『好色一代男』に明らかであるが、 今では耳慣れない名称もいくつかあるので、つぎに概説すであることを要した。 てんじん る。 太夫の次位が天神 ( 天職とも ) 、三位が鹿 ( 囲 ) 。吉原で これに相当する者は格子女郎・散茶女郎と称した。鹿恋に はんや なると、昼夜を二分して半夜といい、揚屋以外の茶屋など でも客を取った。 太夫が馴染みの浅い客に逢う際、座興を助けるのが太鼓 女郎 ( 座持女郎とも ) で、これには主に鹿恋が当った。 ゅうぎり 左 このほか、寛文十二年 ( 一六七 = ) に太夫タ霧が島原から新 禿町に移った後、一人でさばききれぬほど多くの客が押し寄 夫 せたので、鹿恋を一人付きしたがえたことに始るといわれ 太 ひきふね るのが、引舟女郎である。 かむろ このはか、太夫には禿が付いた。禿は、十歳前後からそ の家の第一の太夫について諸事万端を見習い、十四、五歳 しんぞう になると、その太夫の導きで新艘として出世した。これを 禿立ちという。 0 0 さんちゃ か たいこ
349 遊里案内 ウ町ーコ卩 2 しんちゅうまち した。廓の東部が丸山町、西南部が寄合町 ( 真鍮町とも ) 。 じよううん 廓の入口近く、浄雲が営む茶屋・宿屋の風情が、京都東山 まるやま の円山に通うことから丸山といわれたという。天和当時、 女郎屋百三軒、揚屋はなく女郎屋に宿泊し、遊女総数七百 六十六人。 丸山・寄合町の遊女は能と踊りをたしなみ、女郎屋では 家ごとに舞台を設けて、客の所望にこたえた。 遊女には、日本人のみを客とする日本行き、唐人行き、 おらんだ 阿蘭陀行きの三種があって、中でも日本行きは抜群の妓を ↓八の四 測選んだという。 大 道 色 山 丸 長
やわたがくにんばう ろそうな若衆たちの有様であった。ともかく酒にして、金は、八幡の学仁坊と豆山の四郎右衛門というとびきりの男 しゅう あらなだ 4- ごうかくない 幻剛の角内と九兵衛を呼びだし、祝儀をやって後は酔いが回色好きで、この二人にかかっては飛子も荒灘を乗り切ると よふ さかずき って盃のやりとりにロ舌などしかけ、夜更けまで、月がゆ同様の憂き目を見ます。二人にもまれた後は、どんな客で 男 代がんだの、花がねじれたのと我儘を言いつのってきたので、 も相手にできるようになります。それから先は欲一方で、 き・一り 色潮合を見計って寝支度をした。 あるときは樵をそそのかして、たまに握った小遣銭をはた ひっきりまくら かせたり、漁師の潮じみた着物を剥ぎ取ったり、まきあげ 横縞の木綿蒲団に、栴檀の丸木の引切枕を並べ、生残り めかけぶ すりばち の蚊もいようというので、擂鉢にすり糠を煙らせた。煙と る算段ばかりで衆道の意気地はどうなったやら、情ないこ きやら うそ とです」と語った。作り話のようだが、まんざら嘘とも思 思うとこれも香木をたいているような気がして、いっしか ひぜん えない 若衆に近寄ると、皮癬がなおってまだ間もない手を打ちか けてくるのも、うれし悲しい気持であった。それでも勤め 「それじゃ、いやな客をとったときはどんな気がする」と あかぎれ だと思えばこそ、こうもするのだといとしくなった。「今尋ねると、「たとえば皹が切れていたり、生れてから楊枝 までどんな村や国々を回ってきたのだ」ときくと、「これを使ったことのない客でも、いやといえた義理ではありま せんが、秋の夜長に宵から夜明けまで自由にされるそのつ までうちとけたうえは、包み隠ししてどういたしましよう。 とび いとより 私は初め京の糸縷権三郎殿に抱えられていたのですが、飛らさ、無念さ、人知れぬ涙を流しながら今まで辛抱してき 子の親方の笛吹きの喜八方に引き取られたのを振出しに、 たかいがありまして、来年の四月には年が明くのを楽しみ あき びっちゅう あさって かねしよう 安芸の宮島の芝居好きの客を相手にするかと思うと、備中 に、い祝をしています。しかも明後日から金性の者は有卦に みやうちさめき こんびら はいって、七年の間は幸せが続くと申します」と答えた。 の宮内、讃岐の金毘羅に行くこともありました。そんなふ あんりゅうまちかく かわち うできまった塒もなく、住吉安立町の隠れ家、または河内金性ならば年頃からいって二十四の金であろう。おれより かしわら とうのみわ の柏原、この村に来ては今井多武峰の坊さんたちをまるめ十も年上だ、と世之介もすっかりしらけてしまった。かり 込んでいます。その連中の中でも一段と思いやりのないの そめにもこんな遊びの席で、年齢の話はやめたほうがよい ねぐら ぶとん くぜっ せんだん ーわ嚇んまま か こん う しお ねん
ねぎめさい 巻六あらまし たちばな 喰ひさして袖の橘 ( 四十二歳 ) 島原の三笠は太夫職にふさわしい名妓であった。命限りと通いつめた世之介であったが、 せつかん 不都合が重なり、借金のために揚屋から堰かれる身となった。それでも忍び逢っていると、評判になり、親方に折檻され ても、心変りしない気丈な三笠であった。 身は火にくばるとも ( 四十三歳 ) 生玉神社の蓮の葉刈りを見に集った世之介の一行が評判した新町の太夫のなかで、無欲 で橢が深く、諸芸に達し、手管の名人と折紙がついたタ霧に、世之介は手をまわして忍び逢い、その真価を知る。 心中箱 ( 四十四歳 ) 四条河原の涼み床で出逢った太鼓持の柳の馬場の長七夫婦をわが家へ伴った世之介は、土用干しの最 ふじなみ 中の、心中箱にまつわる回想から、島原の太夫藤浪との深い縁を思い起すのであった。 みふね 寝覚の菜好み ( 四十五歳 ) 大雪の夜、新町の揚屋で世之介が逢った御舟は、心情・座配とも、実にみごとな太夫であっ た。夜も明けて、帰る道すがら世之介一行がふと耳にした女郎たちの内輪話は、粋とは裏腹の、はしたないものであっ はつね ながめは初すがた ( 四十六歳 ) 島原の出口の茶屋で世之介が出逢った太夫初音の年始姿は、輝くばかりであった。思いが つのり、月末にようやく逢うことができた世之介を、初音は座敷でうろたえさせ、床ではまた先手を取ってあしらうとい う、見事なさばきぶりであった。 匂ひはかづけ物 ( 四十七歳 ) 江戸吉原の吉田は、彊のある、駆引の上手な太夫であった。吉田に馴染んでいた大身の旗本 。 : 別な太夫を見そめ、世之介を連れて手を切りに出かけ難題を吹っかけたが、ことごとく裏をかかれ、世之介らの仕打 はよろしくないと評判が立った。 かしよばおり 全盛歌書羽織 ( 四十八歳 ) 世間普通の女郎は、何人かの馴染客をうまくさばいて、おれこそ客色と思いこませるものだが、 のあき 新町の太夫野秋は、全盛の世之介と尾張の伝七を公然と平等に馴染客として迎えた。 いくたま せ はす きやくいろ
317 巻七 にふとあなたのことを思いだして下に着て出ましたところ、 ロ添えて酒軽籠 ( 五十四歳 ) 庄介様にねだられ、いやと言えないはめになりまして、快 かねしよう その金性の男の恋は、雑書どおり、始めよし、後わるし く差し上げました。他意あるわけではございません。一日 であった。その金は大枚三百両 ( 約千八百万円 ) で、その大 二日してちょろけん一巻、有り合せたからと送ってまいり まちかねふもと あづま 尽客はそれで新町の太夫吾妻を請け出して、待兼山の麓近 ましたが、その中に一歩金が五十、このことは何とも書か ぜいたくぎんまい い山本村に迎えて贅沢三昧に暮したが、吾妻はそれを少し ず、そっとくださいました。そのまま開けても見ず、うる もうれしく思わず、物思いに沈んでままならぬ身の行く末 さく催促しておりました呉服屋の左兵衛に遣わしました。 を嘆いていた。世之介と言い交したことを忘れず、書置を ただ私の身の上は、何かにつけて、あなた様がこちらにい かみそり して剃刀に手を触れたこともあったという。いったん廓の らっしゃいませんので、悲しいことが積ります」とこまご まと廓の暮しを書きつづけてあるのを、涙にくれて読むう苦しみから救いだしてもらったことは、不本意ではあった まばろし ちに、和州の幻が後ろに立ち添い、「私はいよいよ京へ住がご恩を無にすることはできない。ただこの上は浮名のた あさって な寺、け たないような死に方をしようと、思いつくこそ夢の春、花 替えの相談がきまり、明後日は、情なくも大坂を発ちま のしおれるように湯水も絶って、いっとなく衰え、延宝五 す」と言いさして涙ぐみ、「この頃少し売れなくなったか らといって、京へやるとはむごい仕打です。私は京へ上っ年 ( 一六七七 ) 五月八日の明け方、ついにむなしくなった。 まことに惜しい太夫であった。情が深く、物柔らかに賢 たら追っつけ死んでしまいます」と言う。それは、と悲し よあしいつあし く、行儀正しいことを旨として、いったん座についたら仮 く見上げると、四足五足足音がして、しょんばりと後ろを かぶろ にも台所へ立たず、禿が耳打ちすることもなかった。客へ 見返ったかと思うと、消え失せてしまった。いかに幻なれ の手紙も人目を忍ばず、型のごとくざっと書き、その日の ばとて、このまま見捨ててはおかれないと、世之介は再び なにわ 客の気に背くようなことをしない。まして初会のときはな 難波の色里へ帰った。 おさら一座を引き締め、小用など立たねばならぬ用のとき さと さかかるこ たいまい ( 原文二〇一ハー ) くるわ
かなすぎ くるわっじたたず 私に飽かれるまでとのお申出でございましたが、なるほど金杉の馬方までも、君を思えばはだしで廓の辻に佇み、雲 3 今日限り愛想が尽きました。これからもうお目にかかりまめ、風めと卑しまれる者までも、太夫の道中姿を拝んで、 すまい」と言い捨て、表の見世に出て何くわぬ顔で犬にち半分は死んだようになって帰って行くのであった。 男 かし - よばおり 代んちんをさせて遊んでいるのよ、、 。しささか心憎い振舞であ 全盛歌書羽織 ( 四十二歳 ) 色っこ。 オ二人は是非なく、屁をひっかけられたうえに、たく ほんおくじま らみの裏までかかれ、別れも告げずに帰っていった。「世 客は本奥縞の流行姿、女郎の衣装も洒落て、墨絵で源氏 ひょく そでぐち 絵巻を描かせ、紋所も小さくして比翼に並べ、袖ロも黒く、 之介と小兵衛の仕打はよくない」と評判が立って、そのた すそやまみち めに吉田の代りに目をつけていた太夫も、つ いに会ってく 裾も山道形に袍をとったりしている。以前の客は目のつま あみがさ ひも うねたび れなかった。 った編笠をかぶり、女郎は紅のくけ紐のついた畦足袋など 吉田は何も隠さず、末々の女郎、揚屋の内儀、重都とい 履いていたが、今の小粋な素足に思い比べると、野暮った やりて う座頭、遣手の万など集めて、その中でありのままに語っ いことであった。しかし、身なりというものは、その時々 た。「もしあのとき、向こうから難題をもちかけてきたら、 の流行に従うのがいちばんいいのだ。近頃の客はしだいに おご 『それは卑しい言いがかりというもの、もっと気のきいた 奢りがつのって、名香をたいて比べ、後には火事のように かぶろりんや かん やり方がありましよう』と言おうために、わざと板敷の踏ばんばんたいて、禿の林弥に酒の燗をさすにいたっては、 からかんようきゅう み所を変えてゆきますと、あの方々も用心なすって、うか 唐の咸陽宮に銀四万貫目 ( 約四百億円 ) の小遣を持たせて がんもん つに物をおっしやらないのがおかしいじゃありませんか おいたとしても、ついに。門から夜逃げするのが落ちで あろう。 いかにもこき手はこの私です」と、すばりと言ってのけた。 こひっ この話が伝わっても、誰一人悪く一一一一口う者とてはなく、その 初雪の朝、世之介が着て出た紙子羽織というのが、古筆 りよう、きわ さんしゅもの 利発を感じ、我先にと吉田に会いたがった。この太夫を恋見の了佐極めの真跡帖のうち、定家の歌切、頼政の三首物、 . しばう い慕うこと、八王子の柴売り、神田橋に立っ願人坊主、芝素性法師の長歌、その他世々の歌人の筆跡を継ぎ合せた物 へ ふるまい み ながうた ふき もみ かみ・一 うたぎれ しゃれ
一四「影なびく光をそへてこの宿 大二階にあがれば、南の空よ 介 の月も昔をうっすとぞ見る」 ( 新千 之 世載・慶賀権大納言公直母 ) 。 り影のさし入る月もむかし、こ め 一五未詳。 さぶ 一六推定、万治・寛文期 ( 一六夭 ~ 七 ら こに加賀の三郎などが逢ひし太 三 ) の太夫。 * を いちはしぢゃうやどきんまみなとがみ 郎宅揚屋をきめて自分専用の部屋 夫市橋が定宿、金の間も湊紙の る をもち、客を迎えること。 す 天湊村 ( 現、大阪府堺市西湊 屁 腰張に替りぬ。「その時見しは、 倣町・東湊町 ) 産の下等な鳥の子紙。 ふすま ながづくゑしょゐんすずりひっかかう 町壁や襖の腰張り用。 四尺の長机に書院硯・筆掛・香 ニ 0 坂一九書院 ( 居間兼書斎 ) 用の大硯。 からものだうぐ 大 ニ 0 舶来道具。 、さまみ、の唐物道具置捨て ニ一盲人四官の最下位の座頭。平 いちかたじようかた だれ てかへれども、誰がひとつ手にとらずあるに、今は木枕もたらず。煙草あけて家琵琶二流 ( 一方と城方 ) の城方に 属する座頭は、名の上に城の字を かぶろ ゆくやら、吸啜が見えぬ事、よもや禿はとらぬはず」と、おもしろからぬ咄す冠した。ここは太鼓持の座頭。 一三酒の女房詞。 じゃうはるさみせんほうがちゃう ニ三一寝入りしてから、気乗りの る内に、城春が三味線の奉加帳、「心得た。小判の次手になんでも無心はござ しないセックスをしている最中に。 五らぬか」と悪口いうて、「女郎衆はまだか。顔見て、立ちながらいなす事ぢや = 0 新町廓では「四つ門」といし 夜の四つ時 ( 午後十時ごろ ) に廓内 なじみ とこでまゐったやら、ささ過ごしてを打ち回る「限りの太鼓」を合図に が」といふ所へ、世之介馴染がござった。。 東西の大門を閉めた。宿泊しない 巻 みえける。その内に床をとる。「めづらしう寝もせうか」と、帯もとかずに鼾客は、この時、廓を出る。「御立 ち」はその直前、客の帰宅を促す 4- かきて思はしからぬ夢みる時、「御立ちーと庭から呼立つる。「罷り帰る」と起声。 おほにかい きせる と - 一 あ ニ四 ついで きまくら まか いびき おき ぎとう
( 原文五五ハー ) を離さず、うかうかと暮しているうちに、店もさびれてし たが、姉妹が江尻で旅人の足を留めていたときの話など、 ふもと ほっしん なかなかおもしろかった。 。後には二人の女も花園山の麓村で心から発心して もえぎ ていはっ みなづき 「六月の頃、蚊の声のもの悲しい夜などは、萌黄色の二畳剃髪し、世に見捨てられ、頼みにしていた世之介にも捨て っ はだ づりの蚊帳を、目当の客の次の間に吊って、『肌を見る人られて、心底からの道心者となった。 ひと しゆっけ もないのだから、いっそ裸で寝ようかしら』などと独り言 おとぎ 出家にならねばならず ( 十九歳 ) を言うと、きまってその声につられ、『そんなら御伽にま あかねいろ 茜色の日影を見ては夜が明けたと思い、燭台の光で日の いろうか』と客のほうから仕掛けてきて、わけなく話がま わか ふとん とまるのです。また冬の夜は、蒲団を貸すようにして貸さ暮れたことを知るという有様で、昼夜の分ちもなく恋にお す、客を寒い目にあわせたり、鶏の止り竹に湯を入れ、ま ばれた挙句、あさましい姿になって江戸に辿り着くと、出 店の一同は喜んで、「お行方の知れないのを、おふくろ様 だ夜も明けぬのに鳴かせて追いだしたり、いろいろむごい がどんなにか嘆いてこられたことでしよう」と、流浪中の ことをしましたが、その報いはどんなでしよう。お陰で、 ほろ・レ」み′ 難儀を思いやっていたわった。ところが、世之介の放蕩は 今そんな苦界から足を抜くことができて、こんなうれしい 一向にやむ気配もなかった。深川八幡の茶屋女、築地や本 ことはありません」と、姉妹は無性に喜んでいた。ところ じよいりえちょう こづかいせん が、ここに一つ困ったことは、道中の小遣銭が乏しくなり、所入江町の私娼、目黒不動門前の茶屋女から、品川の茶屋 ゃなかさんぎき おとわ いっ音羽の山を見られるかわからない有様なので、姉妹の女、小石川の白山神社前や谷中の三崎などに巣くう怪しげ あさ い - もかわ うわぎ な女を漁り、浅草橋の内で、目くばせ一つで話がまとまる 上着など売り払って、やっと芋川という村まで辿り着いた じゅくしゆくば むかしなじみ ことまで覚え、果てはお針女の出合宿、板橋宿の宿場女郎 ここに若松の昔馴染がいたので、その人の世話で住み荒ら ささぶき 巻 まで見尽した挙句、吉原へ足を向けるようになられたのは した笹葺の小家を手に入れ、所名物の平打うどんを打っこ 末恐ろしいことであった。 1 とを覚え、往来の客足を留め、吉野の山を雪かと見れば、 この放蕩ぶりが京の親元に知れて、勘当の由を厳しく言 など歌って、鍋の下を焚きつける片手にも世之介は三味線 かや なべ た はくさん つきじ ほん
へやらせらるるに、本のは手く だの男につかはし、外の大臣へ 五人も七人も、きさまゆゑにき る、と文などに包みこみて送れ ば、もとより人に隠す事なれ まもりぶくろ ば、守袋などに入れて、ふかく かたじけながる事の笑しゃ。と かく目のまへにてきらし給へ」と申す。「今までしらぬ事なり。さもあるべし」 しびと たづ と、死人を見れば我が尋ぬる女、「これは」としがみ付き、「かかるうきめにあ九ここが思案のしどころ。作者 の感想 ふ事、いかなる因果のまはりけるそ。その時連れてのかずばさもなきを、これ 0 土葬の女を掘り起すくだりは らせいもん 『今昔物語』巻一一十九の「羅城門の わざ りゃうまなこ 四皆我がなす業」と、泪にくれて身もだえする。不思議やこの女、両の眼を見ひ七層に登りて死人を見る盗人のこ かつら と」の。ハロディー。百姓は鬘にし ま 一もと いち′」 ようと女の死体の黒髪を抜く老婆、 らき笑ひ顔して、間もなく又本のごとくなりぬ。「二十九までの一期、何おも 世之介はそれを咎める盗賊に当る。 ふんべつどころ 廓遊びの虚実をあばく一章。 ひ残さじ」と自害をするを、二人の者色々押しとどめて帰る。分別所なり。 わ ふみ いんぐわ なみだ をか ほん ま、 っ セ手管は、遊女が客をあやつる 介 駆引の意。「手くだの男」は客の目 之 世を盗んで逢う情夫。間夫。 あ 巡 と 女 れ 族 家 後 牢 出 てくだ まぶ