343 遊里案内 これらの階級には、揚代をはじめとする厳格な格式が適 用されたから、時に売れなくなった太夫は天神に格下げさ れた。これを太夫おろしと称し、また太夫あがり・天神あ がりといって天神・鹿恋が格上げされることもあった。 つばね 最下級が端女郎 ( 局女郎とも ) といって、廓の片隅のせ まい通りに面した小部屋 ( 局 ) でショートタイムの切売り をした。 太夫・天神・鹿恋などの上級妓を抱えて営業するのが女 郎屋で、通常、「亡八」と書いて「くつわ」と称した。 亡八が、求めに応じて遊女を送りこむ家が揚屋、即ち遊 女を揚げて遊興する貸座敷家である。 茶屋は揚屋の付属的存在で、遊客はまず廓の門をくぐる と茶屋に休んで身なりを調え、茶屋の案内で揚屋へ向った。 佐茶屋はまた揚屋の代りもして、昼間に限り鹿恋や端女郎な 持 どの下級女郎を揚げて遊ぶこともできた。同じ茶屋でも編 鼓 太 笠茶屋は、遊客に顔を隠すための編笠を貸した。 廓に向う遊客のなかでも、太夫・天神などの上級妓を目 大 だいじん たいこもちまっしゃ ざすのが大尽 ( 大臣 ) である。大尽には太鼓持 ( 末社とも ) が付きしたがって、座興を盛り立てた。 それでは、つぎに『好色一代男』の舞台となった、三都 やりて 他に、太夫には遣手が付属した。これは、女郎屋に雇わをはじめとする各地の遊廓を訪ねよう。 れて、上級妓を引きまわし、監督する役どころで、四、五 十代の経験者が当った。 トー 遣手 ( 右 )
好色一代男 342 遊里案内 たゆう 、、、品位、容 廓に不可欠な遊女の最高位の者を太夫としし 廓の人々 貌ともにすぐれ、小唄や浄瑠璃をはじめ琴・三味線、和 すごろく 歌・俳諧・書道・茶の湯・囲碁・双六などの諸芸能に堪能 廓遊びのあらましは、『好色一代男』に明らかであるが、 今では耳慣れない名称もいくつかあるので、つぎに概説すであることを要した。 てんじん る。 太夫の次位が天神 ( 天職とも ) 、三位が鹿 ( 囲 ) 。吉原で これに相当する者は格子女郎・散茶女郎と称した。鹿恋に はんや なると、昼夜を二分して半夜といい、揚屋以外の茶屋など でも客を取った。 太夫が馴染みの浅い客に逢う際、座興を助けるのが太鼓 女郎 ( 座持女郎とも ) で、これには主に鹿恋が当った。 ゅうぎり 左 このほか、寛文十二年 ( 一六七 = ) に太夫タ霧が島原から新 禿町に移った後、一人でさばききれぬほど多くの客が押し寄 夫 せたので、鹿恋を一人付きしたがえたことに始るといわれ 太 ひきふね るのが、引舟女郎である。 かむろ このはか、太夫には禿が付いた。禿は、十歳前後からそ の家の第一の太夫について諸事万端を見習い、十四、五歳 しんぞう になると、その太夫の導きで新艘として出世した。これを 禿立ちという。 0 0 さんちゃ か たいこ
巻一あらまし たじまのくにいくの ゅめすけ けした所が恋のはじまり ( 七歳 ) 但馬国生野銀山のほとりから京へ出てきた大尽夢介は、もつばら女色男色の二道に打ち 込む稀代のプレイボーイ。その夢介を父に、かって全盛をうたわれた太夫を母にもっ世之介は、血統書付の色好み。幼児 かわや の頃から、早熟で、ある夜、厠に立ったとき、お付の女中に手燭を消させて口説くというスー ーマンぶりを発揮する。 おば はづかしながら文言葉 ( 八歳 ) 山崎の姨に預けられた世之介が、次に選んだ恋の相手は年上の従姉であった。世之介に恋 うわさ 文の代筆を頼まれたことから、書道の師匠にあらぬ噂が立った。 りようがえまち なかいおんな 人には見せぬ所 ( 九歳 ) 京都両替町にある母方ゆかりの両替屋に修行に出された世之介。行水する中居女を遠眼鏡で盗み 見たことから、女をおどして、夜、忍んで逢いに行ったが、子供扱いされてしまう。 そでしぐれ くらまやま 袖の時雨は懸るが幸ひ ( 十歳 ) 鞍馬山の知人を訪ねる途中、時雨に難渋する世之介を救ったのは、付近に世を忍んで住む 男であった。若衆気取りの世之介が衆道の契りを迫るが、男は冷たい。そのはずで、男には愛する若衆がいた。だが、そ の若衆は、世之介の熱意に打たれ、恋をゆずるのであった。 尋ねてきく程ちぎり ( 十一歳 ) 伏見の遊廓へ初めて足を踏み入れた世之介は、下級の女郎屋に似合わない、優雅な女郎と やましな 出逢う。身の上を尋ねたとき、素姓をいつわった女の健気な心根に感じ、請け出して山科の実家に帰し、見捨てずに通っ あか 煩悩の垢かき ( 十二歳 ) 須磨の月見に出かけた世之介は、兵庫の遊女に失望し、風呂屋へ足を向けた。湯女の一人に、鼻 しゃれ 筋が通って、洒落た物言いをする女がいたので、宿へ誘ったが、そのさもしさにあきれる。 きよみず 別れは当座ばらひ ( 十三歳 ) 店の銭箱から銀を盗んで、清水・八坂の色茶屋へ上がった世之介は、料理を運ぶ女のいやら へきえき しさに辟易するが、ふと女の腰つきに目をつけて口説くと、すぐに床入りとなった。さんざん悪ふざけを尽したが、女の うわて はうが一枚上手だった。 ナよヂ
347 遊里案内 あぶらかけ えびすまち どろまち しゅもくまち 本名、柳町。撞木町から十六町南西にあった、 本名、夷町。伏見油掛通東の行き当りの町 伏見泥町 伏見撞木町 京橋筋に近い船着場付近の廓。遊女も下品で、 の形が、鐘をつく撞木に似ているので俗称と よっこ。 客も旅人、船頭、馬方などが多かった。貞享四年現在、女 慶長元年 ( 一五九六 ) 、林又一郎という者が秀吉に願って地郎屋十五、六軒、揚屋二軒、鹿恋十五人 ( 諸国色里案内 ) 。 をもらい受け、遊女町を取り立てたが、衰えていたものを、 ↓一の五 しばやまち 同九年十二月に再興した。 本名、馬場町。三井寺の下にあった。京都を 大津柴屋町 初めは昼夜を二分して売る端女郎だけだったが、『好色 出て最初の東海道の宿駅であり、琵琶湖を渡 る北国への往来の拠点でもあったので繁盛したが、所柄、 一代男』に描かれた万治・寛文期 ( 一六五八 ~ 七三 ) には鹿恋に ついで天神もでき、公家なども忍んで通うようになった。 荒つばい廓であった。揚屋は、貞享・元禄当時 ( 一六会 ~ 一七 0 四 ) 十二軒で、夜見世があった。元禄十四年には、鹿恋二 貞享四年現在、女郎屋十一一軒、揚屋五軒 ( 諸国色里案内 ) 。 ↓五の二 ↓一の五十八人、半夜五十人 ( けいせい色三味線 ) 。 4 ソハ冬み 麥な 4 9 2 2 伏見撞木町 ( 色道大鏡 ) 1 大津柴屋町 ( 色道大鏡 )
( 原文一九二ハー ) そなたゆかしさはいかばかり、露の命が消えなかったら、 にお申し越し候ほどに、恋に暇のなき身なれども、折節、 しるし 慈悲のつもりにて会うて進じ申し候。ほかの男をお稼ぎあまた会うまでの印に」と書き流して、岩根の蔦の葉を手折 なじみ るべし。日貸しの小判をお貸しなされ候はば、お世話申すって包みこめ、馴染の金太夫方へと清六に託した。五人の ことづ 太鼓持も涙ながらに思い思いの言伝てをして、「もうしも べく候。当方多忙にて用件のみ申し上げ候。以上」 かんばやしやりて さかずき うし、まだ忘れたことは、上林の遣手のまんに、首筋をよ さす盃は百二十里 ( 五十二歳 ) く洗えと、はばかりながらお伝えを」と、あとは大笑いに くさぶき しぐれりようそでぬ なって別れた。益むした野道を下ると、小さな草葺の茶屋 露や時雨で両袖を濡らした濡れの道の第一人者、高尾の とおだんご もみじがさね で十団子を売っている女さえ美しく見えて、手招きなどし 女郎盛りを見ようと、世之介は紅葉襲の旅衣をまとい、八 て行くうちに、やがて手越という里に着くと、酒の看板が 人肩の大乗物に乗り込んで、五人の太鼓持を従えて出かけ せんじゅ なりひら た。ばっと目につくはでないでたちに、色道の神の業平も出ている家があった。「これこそ昔、千手の前の親父が住 びんぎさら あべかわ んだ所だ」と語りながら安倍川を渡ると、東の方で拍板に 乗り移りたもうかと思われるばかり、この世にまたとない 粋な男たちが、夜昼かまわず気ままに旅を続けているうち合せて、「来ずに待たする殿は恨み」と歌っている。「はて、 しり けいせい ここの傾城町だそうな、素通りはなるまい」と尻からげを に、宇津の山辺にさしかかった。島原への伝てでもと思っ だちん ているところへ、三条通の亀屋の清六がやって来て、駄賃下ろし、道中案内図を刷った扇をかざして、「とかく見ぬ もろ・一し うちが花だ」と、遊ばすに済したのは、よくよくつまらな 馬から下りもあえず、「唐土は無事で勤めているか、江戸 きたむき さかずきことづ こむらさき 七 かったからであろう。島原の北向女郎よりもひどいもので では小紫に会って、都へさす盃を言付かって帰るところ ある。三島の宿では、今は絶えた遊女屋の跡まで捜し、女 だ」などと、せわしく立話をした。聞くに、江戸の空が恋 しく、京のことはなお忘れられず、「しばらく待て」と引の通行のやかましい箱根の、これこそ恋の関所を越えて、 むさしの った き留めて、鼻紙に石筆を走らせ、「今日この蔦の細道で清武蔵野の恋草のゆかりの江戸紫を染める染物屋の平吉方に 着いた。「まず吉原の話を聞きたい」と言うと、出してく 六に会って、やつれた旅姿を見せたが、それにつけても、 っ たお
好色一代男 七歳 九歳 けした所が恋はじめ ・一しもと 腰元に心ある事 人には見せぬ所 ぎゃうずい 行水よりぬれの事 ふみことば はづかしながら文一一一一口葉 おもひは山崎の事 巻一目録
あはしまめがみ に櫂立ててしるるなり。こころえて入る事せず。夕暮は淡島の女神おもひやり、一和歌山市加太町の加太神社。 ↓八七ハー注葉。 1 なが ふなびとかぢを 詠めにつづく由良の戸、恋の道かな、と我よりさきにあはれしる人ありてよめニ「由良の門を渡る舟人梶緒絶 えゆくへも知らぬ恋の道かな」 ( 新 男 代 古今・恋一 ) 。由良の戸は紀淡海峡。 色 ひかずふ 好礒枕のちぎりもかさなり、「ここもすみよかりけり」と日数経るうちに、尋 = 「山里はもののわびしきこと こそあれ世の憂きよりは住みよか りけり」 ( 古今・雑下 ) 。 ねきてうらみいふ女、そのかぎりなし。いづれか顔あげて言葉もかへされず、 おほぜい よい加減にたらして、おもひを胸にあまらせける。この身ひとりを大勢して取 せん うつきばら りころされてから何か詮なし。せめてはかたみ、の鬱気晴しに酒をすすめ、む かず かしをかたりて慰め、年月の難儀、いまここに小舟数ならべて沖はるかに出せ む広 - くも たんばたらう ーーカゅふ しに、折節の空は水無月の末、山々に丹波太郎といふ村雲おそろしく、俄に白四「六月の頃丹波の方の山より 五 出る雲を丹波太郎と云ふ。此雲出 ま だち かみなりへそ るときはタ雨あり」 ( 俚言集覧 ) 。 雨して、神鳴臍をこころ懸け、落ちかかる事間なく時なく、大風、いなびかり、 五「間なく時なく」は和歌用語。 『古今集』や『続古今集』に用語例あ 女の乗りし舟ども、 いかなる浦にか吹きちらして、その行方しらず。 うら なみ ふたとき とき されども世之介は浪によせられて、二時あまりに吹飯の浦といふ所にあがり六一時は今の約二時間 セ大阪府泉南郡岬町深卍鶴の うもがひ ぬ。しばしが程は気を取りうしなひ、そのまま真砂の埋れ貝、しづみはつるを、名所。 ^ 生死の境をさまよいながら堺 ひら あぶなしゃうじ 流れ木拾ふ人に呼びいけられ、かすかに田鶴の声のみきき覚えて、浮雲き生死までたどりついて。 かい 0 いそまくら をりふし みなづき たづ ふけい ゆきがた いだ
89 巻 飛十円 りて、夕暮の帰り姿は、前だれ 之 一五お腹が大きくなった。 世 すりめか る 一六奥州街道の宿場。福島県二本 提げてすその摺糠をはらひ、身 め そ 松市の北二里 ( 約八は ) 。大宮は 二本松の南三里にある本宮の誤り をもみ骨をりて、かたちのあし を であろう。道順からいえば、本宮 女 巫 ー二本松ー八町の目となる。 きをうらむ。しぶりかはのむけ る す 宅伊達氏六十二万石の城下町仙 ひるね て 台では、伊達綱村が襲封した万治 立 たる女は、心のまま昼寝して手 湯 三年 ( 一六六 0) の秋、遊女を禁止した。 で 神天「松島や雄島の海士に尋ねみ 足もあれす、鼈甲のさし櫛、花 竈んぬれては袖の色やかはると」 ( 続 千載・恋二正三位知家 ) 。雄島は の露といふ物もしりて、すこし 松島群島の一つで、松島湾の西岸 に、い小松崎から渡月橋を架す 匂ひをさす事、親方も見ゆるすぞかし。一日三十六文の定め、これさへとりて しほひ 一九「我が袖は汐干に見えぬ沖の 石の人こそ知らね乾くまぞなき」 もどればなり。 ( 千載・恋二二条院讃岐 ) 。 ニ 0 「君をおきてあだし心をわが これにも馴染みて、「腹むつかしくなると申せば聞捨てて、なほ奥すぢに 持たば末の松山波も越えなむ」 ( 古 せんだい 力。カ さし懸り、八町の目、大宮のうかれ女を見尽し、仙台につきてみれば、この所今・東歌 ) 。歌枕の末の松山は、宮 一八 城県多賀城市八幡付近といわれる。 まっしまをじま けいせいまち の傾城町はいつの頃絶えて、その跡なっかしく、松島や雄島の人にもぬれて見ニ一塩竈市にある塩竈神社。 ゆだて 一三湯立をする巫女。笹の葉を大 むと、身は冲の石、かわく間もなき下の帯、末の松山腰のかがむまで色の道は釜の熱湯に浸し、それをわが身に ふりかけて神がかりとなり、託宣 しほがま を受ける。 やめじと、けふ塩竈の明神に来て、御湯まゐらせける人をみるから恋ひそめ、 一九 べつかふ 一五 め おゅ ニ 0 ききす 0 おく
65 巻 好色一代男 二十二歳 二十三歳 二十一歳 そで さかなうり 袖の海の肴売 しもせき 下の関遊女の事 是非もらひ着物 うきよせうぢはすはをんな 浮世小路蓮葉女事 すてがね 恋の捨銀 京手かけ者の事 て もの きるもの 巻三目録
211 巻 八 好色一代男 五十六歳 五十七歳 五十八歳 こひぎと 一盃たらいで恋里 しまば、らよしぎき 島原吉崎事 ねくるま らく寝の車 まっしややくじん 末社厄神参りの事 な一け 情のかけろく こむらさき 江戸小紫事 巻八目録