力強い古典である。 分自身が、直接、古典とデートを重ねるようになる。 私も、西鶴のおもしろさの秘密を知りたいという願いか次に、私が西鶴に最も心を魅かれた二点をあげよう。 まずその一つ。西鶴を貫く、強い姿勢は、昨日の自分を ら、さらに深く作品を読み進めていくにつれて、その次に は、こういう作品を書いた作者の心に触れてみたいと思う信じない、つまり、いつも自己批判し、つねに自己に対し ようになってきた。そのためには、作品を深く読むよりほて懐疑的であり続ける生き方である。 かにしかたがない。一見、効果がありそうな科学的な研究同時代に、俳諧という全く違ったジャンルで新しい大衆 や分析だけでは、決して古典は、私たちの心にじかに語り詩を確立した、芭蕉についても言えることだが、特に西鶴 かけてはくれないものである。 に私は強く感ずる。 明日に期待し、停滞を潔しとしない精神ゆえに、西鶴は、 それから、これは私が長い間親しんできて感ずることだ が、古典は読む者の成長につれて、いままで見せなかった、晩年のわずか十二年間に、未知の小説というジャンルで一 新しい扉を開いて見せてくれるということである。古典と作ごとに問題提起して、二十余部の作品を残し、市民文学 いうものは、先方から一方的に語りかけてくるものではなを確立した。われわれがもし、昨日の自己に安住したとき、 くて、こちらの要求と、こちらの成長に応じて、いくらで私自身にまず停滞が訪れ、それはやがて社会全体に及んで いくであろう。 も奥深いものを見せてくれるものなのである。私の体験に もとづく実感では、二十代におもしろかった西鶴、三十代私が西鶴から、いろいろなものを学んだなかで、声を大 にして指摘したい一点は、自己に停滞を許さない、強い前 に感動した西鶴、四十代に納得した西鶴 : : : ということが 確かにあった。そういうものこそ、ほんとうの意味の古典進の姿勢である。私はそれを、ひそかに自分の生き方の一 っとしている。 だろ , っと田 5 , っ 西鶴の作品は、元禄という時代にあって、文化の発展に次に私の心をとらえたのは、西鶴文学の徹底した庶民性 寄与し、歴史的な役割を十分に果しているが、同時に、厚である。 しぶし 私自身、鹿児島の志布志湾に臨む地の浄土真宗の寺に生 い時間の壁を通して、直接、現代のわれわれに語りかける、
こんこん やりて たちばな 立っことを懇々とさとし、遣手の欲得づくの勘定も聞かず、 かぶろ かね 喰いさして袖の橘 ( 三十六歳 ) 銀などはかって手に持たす、禿が居眠りしてもしからず、 おうよう みか寺 ) 島原の三笠という女郎は、情が深くて鷹揚に生れつき、 「毎晩おそくまで用があるのだから無理もない」と、何事 ふ、つさい 太夫職にふさわしい風采である。衣装もよく着こなし、揚も都合よくとりなしてやって喜ばせ、太夫様のことならば 屋への道中姿も一風変り、少し世間ずれしているように見と、常々から思わせておき、実は世之介と忍び会っていた。 えるので、威勢のない男はおそれをなして、めったに会う 世之介はその年から揚屋の権左衛門方で三笠に会い初め ことがない てからというもの、借金のために決った揚屋では会えなく 。しかし馴染んでみると、 しいところの多い女で、 と・一 なった。何事も命が果てるまでと約束し、初めのうちはお 座持ちは賑やかに、床はしめやかに、不思議なほど思いを おうせ もしろく、中頃は味になり、後には不都合なことが重なり、 残させ、別れるなりはや重ねての逢瀬をどんな客にも待ち かご かねさせる。また、客の供の者、駕籠かきにいたるまで、 揚屋からは前々からの勘定書を突きつけられるし、三笠の 木枯しの吹く夜などは目立たぬように事を運んで、酒を飲抱え主からは堰かれる。死ぬなら今だと思うのだが、太夫 の真心を見捨てかねて、死ぬにも死なれない。自由に会え ませてやる。ちょっとしたことだが、下を恵む太夫の志は 巻 これで十分に通じるというものだ。自分に付いている座持ない身の上なので、人目を忍び、いま少し前に太夫の通っ た跡だと、その道筋を行きっ戻りつしながら、「もしも、 ちの太鼓女郎に対しても、たいていの情事は見逃すが、そ こんな暗がりに鬼の落した小判でもあればよい。話に聞い れでも揚屋の若い衆などと情交のある場合は、末に浮名の たゆう 巻 かかめし せ
解説 一処女作出版の背景 私家版からスタート 『好色一代男』を刊行した天和二年 ( 一六八一 l) 十月、西鶴は巻末の年譜にも見るように、数え年四十一歳であ だんりん った。談林派の俳諧師として既に世に知られていた西鶴が、初めて手を染めたこの作品は、版元の依頼で書 いたわけではない。 書きたいから書いた作品であった。 かしん しあんばしあらとや 刊記 ( ↓一三九ページ ) にある版元、大坂思案橋の荒砥屋孫兵衛可心については、他に出版活動を示す資料 しろうと も見当らないところから、素人版元と推定され、いわば私家版だったことが知られるのである。挿絵は西鶴 さいぎん ばつぶん 説が自ら描き、本文の版下と跋文は弟分の俳諧師、水田西吟に書かせた。跋文に、鶴翁が自分だけの慰みに書 てんごうがき いた「転合書」 ( いたずら書き ) を自分 ( 西吟 ) が勝手に本にした、というのは、もちろんそうした西鶴の立 ほか 解場を隠したレトリックに外ならない 自信たつぶりであったくせに、万事ひかえめなデビューであったが、結果は予想外の好評で、わずかの間 もろのぶ ひしかわ に数種の後刷り本、菱川 ( 河 ) 師宣の絵を添えた江戸版や、絵本まで出版される盛況となり、すっかり流行
ころだ。 山の手のさるお方がことにかわいがられ、いろいろと行 たそがれ時になって、太夫が台所へ行こうとして、廊下 き届いた世話をしてくださったので、いやともいわれず、 を半分ほど行った所で、思わずおならをしたとみえて、ま ほかの客を断って、指の血をしばって誓紙に血判したりし ぎれもないその音が聞えた。世之介も小兵衛も横手を打っ て、しだいに本気になり、いとしさも増してきたとき、そ はるべ て、「おもしろの春辺 ( 屁 ) じゃないか。こいつはいざこ の人はふとある太夫を見初め、吉田と手を切るためにいろ いろやってみたが、どうにもけちのつけようがない。ある ざの種になる。引き返して来たら座敷が臭くておられぬと 夕方、世之介と同道して、お供には出入りの小柄屋の小兵言ってやろう」、「いや、それより二人とも鼻をつまんでい て、あっちから、 いったいどうしたんですと言いだしたと 衛一人だけお連れになり、「何でもかまわないから今日を 最後に難題をもちかけて、首尾よく手を切り、あっちの太きに、今日はいい匂いを嗅ぎにきたと言え」と、それにき 夫へ乗り換えるそ、急げ」と尾張屋清十郎方に行って太夫めて待ち構えていたが、なかなか出てこない。「とても顔 出しのできる所ではない」と、大笑いしているところへ、 に会った。はなから横車を押したが、吉田は早くも悟って 少しもさからわず、酒もふだんと変らぬ飲みぶりなので、 衣装を着替えて、桜を一枝持ちながら吉田がやって来た。 いたじき さかな 二人が目をつけていると、さっきおならを落した板敷の所 こちらはついがぶ飲みになって、無理を肴にするのであっ まで来て、そこでことさら気をつけて、障子を開けて座敷 大尽はわざと酔ったふりをして荒々しく歩きまわると、 かんなべさぎなみ の方へ回ってきたが、ここは一番大事なところだ。小兵衛 燗鍋が漣を立てて見苦しくこばれる酒を、小兵衛が鼻紙で おくみつま かぶろ もうかつなことを言ってはと、しばらく黙っていた。世之 せいたが止らず、吉田の袵の褄まで流れていったとき、禿 くろちゃう ・一ばやし 介も二の足を踏んで、念のためにかの板敷を踏んでみたが の小林が自分の脱いでおいた黒茶宇の着物で、残らず吸い 巻 鳴らなかった。それでも言いそびれているうちに吉田のほ 取って片づけた。吉田に使われている者だけのことはある ふ うから切りだした。「この間からのお仕打、すべて腑に落 3 と、ロにこそ出さなかったが一同は感心した。吉田もきっ しゅんしよういちえあたい ちぬことばかりでございます。初めてお会いしたときから、 とうれしいことであろう。春宵一衣価千枚といいたいと にお か
311 巻七 は、ほら、例のあすこの太夫から来たのじゃないか」と言 人のしらぬわたくし銀 ( 五十一歳 ) う。「どうしてこのわけを知っているんだ、白状しろ」と 「もしもし、まずお戻りなさいまし」と、高嶋屋の女中に 言うと、「いや、その女郎ならそんなに喜ぶには当らない。 呼びかけられて、何の用かと振り返ると、「さる御方から」というのはお前さんに限らず、この頃も半太夫様のお客や あてな ふところ つぶみ と、宛名も書いてない手紙を一本懐に押し込み、わけも薩摩様のお客にそのとおり付け文して、人の客を横取りす あらて 言わずに逃げていく。心当りもないのだが、かねて高嶋屋るのが近頃の新手なんです。その心根のいやなところは、 なかだち もんび の滝川を恋している者があって、自分がその媒をして返事さらさら恋でなく、紋日を欠かさず勤めてくれるほどの大 を待っていたので、それではないかと、家まで帰って見る尽ばかりに目をつけてのやり口なんです。男ぶりなどにか じゅんけい つじあんどん のももどかしく、順慶町の辻行灯に立ち寄って開いて見た まわないという証拠には、河内の庄屋に鼻のない客がある 、腑に落ちぬところがある。よくよく読んでみると、滝のですが、それにも付け文して、この三年が間の身揚りの 川の一件の返事ではなく、さる太夫が自分にそっこん惚れ借銭から、掛買いの借金まで払わせたあげく、しばらくは たといって、うっとりするほど書き口説いてあった。いい 目をつぶって抱かれて寝ていたが、やがて、『顔が気にく 気になった世之介が、連れに向って、「これ見たか、こっ わぬ』と無理難題を吹っかけられ、庄屋殿は仕方なく、 ちから口説いても不首尾に終ることがあるのに、先方から『それが今になって目につきましたか。何やかやもらって もちかけというやっさ。しかも、さる太夫様からだ。世間 おきながら、あんまりひどい仕打でござる。私の変らない しるし に若い者は多いというのに、お見立てにあずかったのは、 真心の印には、遣手に小麦をやれといわれたによって、真 あっぴん おれの上品な厚鬢のせいだろう。世之介にあやかれ」とあ搗きにして二俵まで、今日も運ばせ、親たちのほうに綿が ちり りがたがらせると、「合点がいかぬ」とせせら笑っている。 いるとあれば、塵までよらして百斤 ( 約六〇ハラ ?) も四、五 うそ ほしかぶらうりなすび てんま 躍起になって、「お前に嘘を言うものか、これを見ろ」と 日前に差し上げ、干蕪、瓜、茄子までも、遠い天満の果て 手紙を突きつけると、「なあに見るまでもない。その手紙まで仕送りを続けて、こなたの気に入るように努めたもの がね さつま やりて かわち
せきしゅう しい遊女たちだけが集って酒盛していたが、 石州という太の中の揚屋どもをびつくりさせ、一度『来いよ』と呼んだ 8 さかずきかぶろ 夫が、自分でほした盃を禿に言いつけて、門にいる善吉に、 だけで、一度に十人ばかり返事をさせてみせるのだが」と 「知らぬお方様へさします」と届けてきた。「これはかたじ 思うにつけても、「親父が、おれの生きているうちは寄せ 男 代けない」と二つ飲んで返し、石州がその盃をいただくとき、 つけるな、と思いきって勘当した気持も、さらさら恨みと さかな こくたんっぎおむすじがけ 色善吉は「お肴に」と、挟箱から黒檀の接棹、六筋懸の三味は思われない。今までしてきた自分の悪行が、ひしひしと 線を取りだし、「僕、唄え」と言いつけると、かしこまっ 身にこたえて思いあたる。どんな山奥にでも引きこもって、 ひとふし て弄斎の一節、その声の美しさ、弾き手は上手、さすがに精進潔斎の日を送りたいものだ」と思い込んでいたやさき、 まとり 石州の見立てと一同は感心して善吉を内に招き入れた。そやかましい浮世の騒ぎも聞えてこない紀州の音無川の犂に、 なじみ の日はぜひに会いたいと石州のほうからもちかけ、馴染客ありがたい坊さんがあることを聞いた。この人ももとは女 には断り状を出して善吉とうちとけたが、もとより悪かろ色にれたあげく、心を翻して仏道にはいられたというこ うはすはない。世之介は太鼓女郎にさえふられて、そのロ とだ。この人に導いてもらおうと、海岸伝いに泉州の佐野、 かしようじかだ 惜しさ、忘れても、人に買ってもらって遊ぶべき所ではな嘉祥寺、加太などという部落を辿って行った。この辺りは 。こんなことで終ってたまるものかと、ひそかに期するみんな漁師の住んでいる浜辺で、ことに加太は人の娘に限 いなかもの ところがあった。 らず、女房まで公然と色にふける土地柄で、田舎者のくせ ひがみなり に都の風俗に似せて、一人残らず紫の綿帽子を着けている。 火神鳴の雲がくれ ( 三十四歳 ) 男は漁で忙しいので、その留守の間は何をしても准一人と かねはかてんびんはりぐちたた 奥深な造りの裕福な家で、銀を衡る天秤の針口を叩く音がめる者もない。亭主が家にいるときには、表に櫂を立て が、さもしくも耳に響いてきたとき、世之介は思うのであ て目印にしているので、誰も、つつかり忍び込むようなまね あわしま った。「今おれにどれだけの金を持たせても、欲に渇いて はしない。夕暮になると世之介は、淡島の女神を思いやり、 握り込むようなまねはすまい。もののみごとにつかって世また一望のうちに由良の戸を眺めるにつけても、「行方も ろうさい でっち うち か
( 原文一三二ハー ) やりて あべのなかまろ まき散らすと、禿や遣手やお供の男どもが、上を下へとご阿倍仲麻呂は故郷の月を思い、三笠の山に出でし月かも、 った返す。諸方からの進物は廊下に置き並べ、それを帳面と心をこめて詠まれたが、自分はそれとあべこべに、あち どうとんばり につける女、取次の女など、気の小さい者が見たらびつく らの月が思いやられると、淀の川船で大坂の道頓堀に着き、 こうた りするだろう。二人の仲を祝う小唄の声は楽しげである。 馴染の野郎の家に二、三日しけ込んだが、情のこもった亭 きんす 主ぶりに、名残の床を離れるとき、金子五百両 ( 約三千万 都の姿人形 ( 五十九歳 ) 円 ) を贈った。およそ歌舞伎役者の一生というものは、今 日はは . なや、・カ ( カ日。 、、、こ。ゝ、月日まの壘ョがとけるよ , つに、さつま 舶来の貨物を入札しに長崎へ下る人に、自分もあとから しゃ ことづ かねばこ りと本来の武骨な男になってしまうものだ。あるときは闘 行くつもりがあるから、と世之介は、銀箱を先に託けた。 も 「何か舶来品をお望みでございますか」と、その人が尋ね鶏を好み、あるときは植木に凝るが、間もなく人気を失っ ると、「日本物を買うための元手だ」と答えた。さては丸てその家を売り、京に住むかと思えば江戸・大坂と宿を替 かね 山でのご遊興だけがお目当ですか、おつつけあちらでお待え、一生、居所も定まらず、「なんの罪もなく、銀もない おん ちします、と言い残し、その日は六月十四日の祇園祭で、 ものだ」と、役者の柊木兵四郎が笑わせて、船着きまで送 ってくれた。ほどよい風に穏やかな船旅を続けて、志す大 都の夏の風物も見納めになる月の渡る日であるが、私は みなと 湊に着い 玉鉾の商いの道を急ぎますから、と先に発っていった。 長崎の町の入口の桜町を見渡すと、はや心が浮き立って 世之介は、決心したことがあるから、と言って、金銀を こんりゅう 「、らくちゅう きて、宿に足もとどめず、すぐ丸山に行ってみると、女郎 洛中にまき散らし、社塔や常夜灯を建立し、歌舞伎若衆に なじみ 家を買ってやり、馴染の女郎は自由にしてやったりして、 屋の有様は聞きしにまさり、一軒に八人から九人、十人と くらかね 巻 毎日遣いくずしたが、まだ残っている内蔵の銀は、何に遣夜見世を張っている家がある。中国人は区別して、そのた めの女があるということだ。情が深くて、女郎を人に見せ えばいいものか。さて、このたびは長崎に下り、よい慰み ることさえ惜しがり、昼夜ともに、媚薬をのんでは、飽か があればよいがと、八月の十三日に発っことになった。昔、 たまばこ つか た ひいらぎ みかさ びやく おお
もみうらすげがさ て、紅裏の菅笠に紅白綯交ぜの紐をつけている。そのとき 言い合い、あるいは鞘が触れたといっては咎め、または男 こむろぶし だて たてひ けんか は馬子が宿場入りの小室節を歌っている最中で、二人の馬伊達の達引きなど、いたるところで喧嘩があり、踏むの、 り、よ - つくち たた ずきん 子が勇んで馬の両口をとっていた。 叩くの、頭巾をとるの、羽織が見えぬのと、ただ騒がしい ふところ 娘たちは世之介を見かけると、「もうしもうし」と馬子一方で、さんばら髪で片肌を脱ぎ、懐には鼻ねじ、手には しらはと に抱き下ろされて左右から甘えかかり、「私たちはお伊勢白刃取りの十手を握りしめ、ここの色町を喧嘩の場所と心 様へ参るところです。あなた様は何だってここにおいでに得ているような有様である。命知らずの寄合、身分ある者 なります」と言うので、「勘六の女郎狂いの太鼓を持ちに の夜行く所ではない。 ひょうさくこだゅう その夜は知合の揚屋で、兵作、小太夫、虎之介などいう 来たが、どうも頭が痛い。もんでくれ」と言うと、一人は 頭、一人は足、一人は腰をさすりだした。しばらく自分た名のある女郎を集めておもしろく遊び、その明けの日は禿 ちの宿にも行かないで、「その柴屋町を見せてください。 たちの出発を見送る祝いの酒盛だというので、格子女郎を 帰ってから太夫様に話の種にもなります。見物したい」と 一人残らず昼夜揚詰にして、酒を過して酔ったまぎれに、 かぶろ せがむので、「それでは連れて行こう」と三人の禿を先に 三人の禿に向って、「なんでも道中は望みどおりにしてや 立て、南ロの門からはいって行った。都に近い土地なのに、 ろう。めいめい遠慮なく言ってみろ」と言うと、「太夫様 つばね 女郎の風俗も変り、局にいる端女郎たちは大声ではしたな から何もかも気をつけていただいていますので、一つもこ おおまた じだらく く物を言い、道を歩くにも大股でせわしく、着物も自堕落のうえに願いはございません。ただ駄賃馬があとさきにな おしろい 五 って、思うように話ができないのでつまりません。三人一 に帯ゆるく、白粉もけばけばしく塗りたて、上下の区別も かきもち なく一様に三味線を握って、頭を振りながら歌っている。 緒に昼も寝ながら、自分で掻餅を焼いて、それを慰みにし 】ひやか 素見して歩く者は、馬方、丸太船の船頭、湖畔の漁師、相ていけたらどんなに楽しいことでしよう」と言う。「それ う ちょう すしゃ こそ何よりたやすい望みだ」と、即座に乗物二梃並べて、 撲取り、鮨屋の息子、小問屋の手代などで、恋も遠慮もあ くぎかすがいと ったものでなく、むやみやたらに顔見知りの女郎と悪口を中の隔てを取り放ち、釘鎹で綴じ合せ、中に火鉢を置き、 すも さや とが
321 巻七 取り返し、暮方から表に床几を据えさせ、菊の節句の翌日 の九月十日の月も、さすが都だけあって趣のある眺めであ った。連なる女郎は太夫の高橋と野風、天神の志賀、遠州 野世、引舟女郎の蔵之介の賢さ、対馬が利発、三吉、土佐 つれびき の合奏で興を添えると、思わず酒を過してしまった。かっ もろこし かおる て親しくした仲なので、通りかかった唐土を笑わせ、薫に 横目を使われ、奥州にうなずかせるなど、世之介にしても 太夫たちにしても、過ぎし日のばるることや、思いを残 させたことがあるのだろう。女郎は物柔らかだし、衣類は 数を尽している。ここの遊びを覚えたら、他の土地はどこ でもお粗末になってしまう。夜更けて床をとるにも三つ蒲 とんかえよぎ 団に替夜着を用意し、枕もありふれたものではない。寝巻 などはあるともいわずに着せてくれ、はなから帯を解いて 万事は付き添う引舟女郎に身をまかせ、煙草も自分では詰 めず、夜着もかけてもらい、優しい太夫のお言葉を聞き寝 入りにして、さそかし結構な夢を見ることであろう。 しようぎす
に受けるとは、正直、自分でも意外でした。今なら直木 さいぎん 賞と芥川賞、一べんにもらえていると、友人の西吟が耳 はや 元でささやきます。当時、流行っていた遊女評判記を作 くるわ 品に生かしたのは私の才覚、あの頃は廓に入りびたりで 第巻好色一代男 した。けど、生来、私はおばれるということのない男、 ・昭和礙年 4 月日楽しみながらも醒めた部分をもっているのが、現代人と 共通しているのかもしれまへんな。 大学の頃、宗政五十緒先生の授業で初めてその魅力を知 島原夢の道行ー古典文学散歩ー って以来、西鶴さんは私がタイムトンネルを通り抜けてで も、直接、会ってみたい古典作家の一人でした。そんな思 柳瀬万里 いが通じたのかも知れません。 この機会を逃したら、もうお目にかかれないかもしれな ある日の暁方、東の空がばおっと白みかけた頃、西鶴さ い。私は思い切って、話しかけてみました。 んが私の枕元に立って、こ , 2 言いました。 「西鶴さんは『一代男』のなかで、 うきよっき 京の女郎に江戸の張をもたせ、大坂の揚屋であはば、 浮世の月見過しにけり末二年 この上何かあるべし と詠んで五十二歳でこの世を去ってから、はや三百年近 くもたちます。世の中もえらく変ってしまいました。そと、ずばり、男性の夢を言い切ってますが、そんなに島原 もそも私は処女作『好色一代男』で全国的な作家になっは女郎のよいところでしたか」 そらもう、当時の廓は日本国中で二十五か所ほどあ たけど、断っておきますが、あの作品は、今の学者さん 、どれをと ったけど、格式といい、遊女の美しさといい が言うように長いことかかって書いたものではありませ っても島原が一番。女郎は物柔らかで、着ている物も数 ん。世間をあっと言わせようとは思ったけれど、あんな 日本の古典月報 4 すゑ