143 巻第十二 ( 現代語訳三一一三ハー ) 離をおいた。 = そうして出てきたのは何事か。 一ニ気づまりです。 一三まったくもって理屈に合わな いことである。 びと 一四ただ人ではないということを もろこし こ問意味するが、諸説がある。「方異」 今は昔、唐に、孔子、道を行き給ふに、八つばかりなる童あひぬ。孔子レ で、あり方 ( 人格 ) が特別である、 らくやう の意か ひ申すやう、「日の入る所と洛陽と、いづれか遠き」と。孔子いらへ給ふやう、 一五キ、つばりと。はっキ、りと。 「日の入る所は遠し。洛陽は近し」。童の申すやう、「日の出で入る所は見ゅ。 きゅう ちゅうじ 一六名は丘、字は仲尼 ( 前五五一 ~ 前 洛陽はまだ見ず。されば日の出づる所は近し。洛陽は遠しと思ふ」と申しけれ四七九 ) 。中国、春秋時代の思想家。 儒家の祖。『論語』はその言行録。 ば、孔子、かしこき童なりと感じ給ひける。「孔子にはかく物問ひかくる人も宅中国河南省の古都。周代の洛 邑で、後漢・晋・北魏・隋・後唐 の都となった。 なきに、かく問ひけるは、ただ者にはあらぬなりけり」とぞ人いひける。 十七鄭太尉の事 今は昔、親に孝する者ありけり。朝夕に木をこりて親を養ふ。孝養の、い空に天天に通じた。「空」は天なる神。 かぢ 知られぬ。梶もなき舟に乗りて向ひの嶋に行くに、朝には南の風吹きて、北の わらは 十六八歳の童孔子問答の事 153 152 け一つわこっ
ん。意味深い言葉を尽して教えられても、従うような者で はありません。かえって不都合なことが起るでしよう。そ 十二盗跖と孔子の問答の事 んなことはなさってはいけません」。孔子は、「悪人でも人 もろこしりゅうかけい これも今は昔、唐に柳下恵という人がいた。世にも賢い と生れた者は、たまたまよいことを言うと、それに従うこ 者で人に重んじられていた。その弟に盗跖という者がいる。 ともあるものです。それに、『悪いことになろう。よもや ある山の中腹に住んで、いろいろな悪者を招き寄せて自分言うことは聞くまい』ということはまちがいです。まあ、 の仲間として、人のものを奪っては自分のものとしていた。 御覧なさい。教化して見せましよう」と言い放って、盗跖 のもとへおいでになった。 歩く時にはこの悪者どもを二、三千人も引き連れる。道で 出会う人を殺し、恥を与え、よからぬことばかりを好んで 馬から降り、門に立って見ると、その場にはみな、獣や 過していた。ある時柳下恵が道を行くと、孔子に出会った。鳥を殺したり、いろいろの悪事の限りをする者どもが集っ 孔子は、「どこへおいでですか。こちらからお目にかかっ ていた。人を呼んで、「魯の孔子という者がまいった」と うわさ て申しあげたいと思うことがありますが、運よくお会いし 申し入れると、すぐ使いが帰って来て、「噂に聞いている ました」と言う。柳下恵は、「何事です」と聞く。「教訓を人だ。何の用事で来られたか。人を教化する人と聞くが、 してあげようと思うのは、そなたの弟のことです。いろい わしを教化しに来たのか。わしの気にかなえば従おう。気 なます ろな悪事の限りを好んで多くの人を嘆かせていますが、ど に入らねば、そなたの肝を膾にして食ってしまおう」と伝 五 うしてお止めになりませんか」。柳下恵は答えて言う、「私 える。その時に孔子は進み出て庭に立ち、まず盗跖に一礼 十 第の言うことなど、まるで用いようとはしません。それゆえ して上って座に着いた。盗跖を見ると頭の髪は逆立ち、そ よもぎ 巻 嘆きながら年月を送っているのです」。孔子が、「そなたが の乱れぶりは蓬のようだ。目は大きくて、目玉をぎよろっ 教訓されないのなら、私が行って教化しよう。どんなもの かせている。鼻をふくらましていからし、歯をかみしめ、 ひげ でしよう」。柳下恵は、「決しておいでになってはなりませ鬚をそり返らせている。 とうせき のば
( 原文一四三ハー ) おそ ( ああすいぶん光るよ、虫のけつつべたに火がついて、小さ ですので住んでおりますが、帝がおいでになるのが畏れ多 な人魂のように、次から次と飛んで行くのが見えるなあ ) 、窮屈に存ぜられます。どういたしたものでございまし 東国の人が詠んだように詠もうといって、本当は貫之が詠よう」と言うので、「それはまったくもっておかしな話だ。 んだのだということである。 おまえの子孫が私にくれたからこそ住んでいるのだ。私が 無理に奪い取って住んでいるというならともかく、礼儀も かわらのいんとおるこう わきまえずに、どうしてそのように恨むのか」と声高らか 十五河原院に融公の霊が住む事 に仰せられると、かき消すように失せてしまった。その時、 今は昔、河原院は融の左大臣の家である。奥州の塩釜の人々は、「やはり、帝はどこか違っておいでになる方です。 風景をまねて庭を造り、潮水を汲みよせて塩を焼かせたり普通の人なら、その大臣に会って、あんなにきつばりとは など、さまざまな風雅の限りを尽して住んでおられた。大ものが言えるだろうか」と言い合ったという。 臣が亡くなってのち、宇多院に進上したものである。延喜 わらわ みかど の帝がたびたび行幸になった。 十六八歳の童が孔子と問答をする事 まだ宇多院がお住みになっておられたころ、夜半時分に もろ・一し たいのやめりごめ 今は昔、唐で孔子が道を歩いて行かれると、八歳ほどの 西の対屋の塗籠を開けて、そよそよと衣すれの音がして人 そくたい がやって来るように思われたので、御覧になると、束帯の子供に出会った。それが孔子に尋ねて言う、「日の入る所 らくよう しやく 装束をきちんと身につけた人が太刀をつけ笏を持って、一一 と洛陽と、どちらが遠いですか」と。孔子が答えられる、 十 第間ばかりさがってかしこまって控えていた。「おまえは誰 「日の入る所は遠い。洛陽は近い」。すると子供が、「日の かとお尋ねになると、「ここのあるじの翁でございます」出たり入ったりする所は見える。洛陽はまだ見えない。だ から日の出る所は近く、洛陽は遠いと思う」と言ったので、 と言う。「融の大臣か」とお聞きになると、「さようでござ います」と言う。「では何事か」と仰せになると、「わが家孔子は賢い子だとお感じになった。「孔子にはこうしても
247 巻第十五 おく わぎはひ 後継者と嘱望されたが夭折した。 こき事もなし。我また悪しき事を好めども、災身に来たらず。ほめらるるも = 孔子の弟子。名は仲由。字は べん の、四五日に過ぎず。そしらるるもの、また四五日に過ぎず。悪しき事もよき子路。卞の人。性質粗暴のため、 孔子は常に「義」の道を諭したとい このみしたがふるま う。衛の乱に際し、「義」を守って 事も、長くはめられ、長くそしられず。しかれば我が好に随ひ振舞ふべきなり。 戦死した。『荘子』に「子路、衛君 おそ 汝また木を折りて冠にし、皮をもちて衣とし、世を恐り、おほやけにおぢ奉るヲ殺サント欲シテ事成ラズ。身、 衛ノ東門ノ上ニ薀セラル」と見え ろ る。「薀」は肉を塩づけにする処刑 も、二たび魯に移され、跡を衛に削らる。などかしこからぬ。汝がいふ所、ま きぎみ 三『今昔』は「木ヲ刻テ冠トシ」と する。 ことに愚かなり。すみやかに走り帰りね。一つも用ゅべからず」といふ時に、 一三『荘子』には「再ビ魯ニ逐ハレ、 あと 孔子またいふべき事覚えずして、座を立ちて急ぎ出でて馬に乗り給ふに、よく迹ヲ衛ニ削ラレ、斉ニ窮シ、陳・ 蔡ニ囲マレ、身ヲ天下ニ容レラレ くつわ あぶみ 臆しけるにや、轡を二たび取りはづし、鐙をしきりに踏みはづす。これを世のズ」と詳しい 一四なぜに賢くないのか。すなわ こうしだふ ち、少しも賢くないではないか、 人、「孔子倒れす」といふなり。 の意。 一五よっぱどおびえていたものと みえて。 一六孔子ほどの聖人君子も時には 失敗する、賢者の一失の意。くじ かえる、くじだおれ、とも。『名 語記』に「孔子ト申セリシ聖人モ何 をちど 事モ越度ナク案ジサダメ用意オハ セシ人ナレドモ、賢者ノ一失トイ ヘル事ノ云々」と見える。
じき言葉を尽して教へ給ふとも、なびくべき者にあらず。返って悪しき事出で = そんなことはしてもむだです。 三聞き従うこと。 来なん。あるべき事にあらず」。孔子日く、「悪しけれど、人の身を得たる者は、一三結果はきっとよくないだろう。 一四まちがっている。 おのづからよき事をいふにつく事もあるなり。それに、『悪しかりなん。よも一五『今昔』巻一〇第一五話には、 「有ル者皆或ハ甲冑ヲ着テ弓箭ヲ ひが ) ) と 聞かじ』といふ事は僻事なり。よし見給へ。教へて見せ申さん」と一言葉を放ち帯セリ。或ハ刀釼ヲ横タへ兵仗ヲ 取レリ。或ハ鹿・鳥等ノ諸ノ獣ヲ 殺ス物ノ具共ヲ隙无ク置キ散セリ。 て、盗跖がもとへおはしぬ。 かくのごと 如此クノ諸ノ悪キ事ノ限リヲ尽タ リ」と、行き届いた説明がある。 馬よりおり 、門に立ちて見れば、ありとあるもの、獣、鳥を殺し、もろもろ 一六食用の獣、すなわち肉を取る つど けだものを「しし」という。「猪の の悪しき事を集へたり。人を招きて、「魯の孔子といふ者なん参りたる」と言 しし」「鹿のしし」の類。 すなはつかひ ひ入るるに、即ち使帰りて日く、「音に聞く人なり。何事によりて来たれるそ。宅 ( 孔子は ) そこにいた一人の者 を呼び寄せて。 うわさ 人を教ふる人と聞く。我を教へに来たれるか。我が心にかなはば用ひん。かな天噂に聞く人。名の知れた人。 なます 一九 一九肝を膾にしてやろう。「膾」は きもなます はすは肝膾に作らんーといふ。その時に孔子進み出でて庭に立ちて、まづ盗跖肉をのまま細かく切。たもの。 『荘子』では、孔子が行くと、折し 五を拝みて上りて座に着く。盗跖を見れば、頭の髪は上ざまにして、乱れたる事も盗跖は人間の肝の膾を食べてい たことになっている。 十 よもぎ ひげ 第蓬のごとし。目大にして見くるべかす。鼻をふきいからかし、牙をかみ、鬚をニ 0 勢い猛なる者の描写。『今昔』 巻 は「頭ノ髪ハ三尺許ニ上レリ」。 ニ一ぎよろりぎよろりと見まわし そらして居たり。 ている。 一三鼻を大きくふくらまして。 盗跖が日く、「汝来たれる故ま 。いかにそ。たしかに申せ」と、怒れる声の、 なんぢ ゅゑ ろ ひまな
がんかい 盗跖が、「おまえが来たわけは何だ。はっきりと申せ」 た。またおまえの弟子に顔回という者がいた 。立派に教育 と怒った声で、高く恐ろしげな調子で言う。孔子はお思い されたが、不幸にして短命だった。また同じ弟子で子路と になる、「前もって聞いていたことではあるが、これほど いう者がいた。それも衛の門で殺された。だから賢いやっ 語 物までに恐ろしい者とは思わなかった」と。顔つきや物腰やらが、結局よいということもない。わしはまた悪いことを 拾声までが人間とは思われない。肝がつぶれて自然と身震い 好むが、災いは身にかからぬ。ほめられる者もせいぜい四、 そし 宇されるが、じっとこらえて口を開いた。「人の世に生きる五日にすぎぬ。謗られる者もまたわずか四、五日にすぎな 道は、道理をもって身の飾りとし、心の規範とするもので 悪いこともよいことも、いつまでもほめられ、いつま ある。天をいただき大地を踏んで、四方を堅めとし、朝廷でも謗られるわけではないのだ。だから自分の好みに従っ しもじも を敬い申しあげる。下々の者を憐んで、人に情けを施すの てふるまうべきだ。おまえはまた木を折って冠とし、皮を を旨とするものである。ところが聞くところによると、あ もって衣とし、世を恐れ、朝廷をかしこみ申すにもかかわ なたは勝手気ままに悪いことばかりをしているようだが、 らず、二度も魯を追われ、衛にもおれなくなった。どうし 当座は満足するようでも、身の果ては悪いものだ。だから て賢くふるまえぬのか。おまえの言うことはまったくばか やはり、人は善に従うのがよいのだ。それであなたも私のげている。さっさと走り帰れ。何ひとつも聞き用いること 申すことに従われるのがよい。そのことを申そうと思って はない」。その時孔子は、また言うべき言葉も思い浮ばず、 いかずち まいったのである」と言った。その時に盗跖は雷のような . 座を立って急いで退出して馬に乗られたが、よくよくおび くつわ あぶみ 声を出して笑って言う、「おまえの言うことなど一つも当 えていたものとみえて、轡を二度も取りはずし、鐙を何度 ぎようしゅん みかど っておらぬ。そのわけは、昔、堯、舜という二人の帝が非 も踏みはすした。これを世の人は、「孔子倒れする」とい うのである。 常に尊敬された。しかしながら、その子孫は、わずかに針 さすほどの土地さえ治めていない。また、世に賢人と言わ しゆくせい しゅようざん れるのは、伯夷、叔斉だ。それも首陽山に倒れて飢死にし うえじ しろ
宇治拾遺物語 244 一底本および諸本「りうかくゑ い」。吉田本に「柳下恵」の傍記が ある。『荘子』は「柳下季」とする。 前六世紀ごろの人。春秋時代、魯 の大夫。姓は展、名は獲、字は季。 僖公に仕え高徳をうたわれた。 もろこしりうかけい これも今は昔、唐に柳下恵といふ人ありき。世のかしこき者にして、人に重「柳下」の称は、柳樹の下に住んだ からとも、菜を柳下に食したから おとうとニ あ くせらる。その弟に盗跖といふ者あり。一つの山の懐に住みて、もろもろの悪とも言われる。 ニ中国古代の大盗賊。黄帝時代 はんりよ しき者を招き集めておのが伴侶として、人の物をば我が物とす。歩く時はこのの大盗とも、秦代の大盗ともいわ れる伝説的存在。柳下恵の弟とい ぐ あ まろま う根拠はなく、おもしろい寓話を 悪しき者どもを具する事、二三千人なり。道にあふ人を汝し、恥を見せ、よか 構えるための取り合せ らぬ事の限を好みて過すに、柳下恵道を行く時に孔子にあひぬ。「いづくへお三『荘子』盗跖篇は「従卒九千人」。 四儒家の祖 ( 前五五一 ~ 同四七九 ) 。名 は丘、字は仲尼。初め魯に仕え、 はするぞ。みづから対面して聞えんと思ふ事のあるに、かしこくあひ給へり」 のち諸国に遊説、晩年は再び魯で といふ。柳下恵、「いかなる事ぞ」と問ふ。「教訓し聞えんと思ふ事は、そこの暮し、『春秋』を編述する。↓田一 九七ハー注一二。 あ かぎり なげ 舎弟、もろもろの悪しき事の限を好みて多くの人を歎かする、など制し給はぬ五都合よく。折よく。 六そなたの実の弟。 そ」。柳下恵答へて日く、「おのれが申さん事を敢へて用ふべきにあらず。されセまるで耳を貸そうともせぬ。 ^ どんなものでしようか ば歎きながら年月を経るなり」といふ。孔子の日く、「そこ教へ給はすは、我九決しておいでになってはなり ません。 九 行きて教へん。いかがあるべき」。柳下恵日く、「さらにおはすべからず。いみ一 0 立派な意味深い言葉。 かギ、り 十二盗跖と孔子と問答の事 たうせき すご ふ 197 あ やまふところ 五 あ
高く恐ろしげなるをもていふ。孔子思ひ給ふ、かねても聞きし事なれど、かく一気を取り直しがまんして。 ニ朝廷。 きも ) 」ころ ばかり恐ろしき者とは田 5 はざりき。かたち、有様、声まで人とは覚えず。肝心三現在は思いのままのように見 えるが 語 くだ ゃう かギ一り・ 物も砕けて震はるれど、思ひ念じて日く、「人の世にある様は道理をもて身の飾四でありますから、やはり。 五中国古代の伝説的聖王。陶唐 おきて しゅん 氏。舜と並び称される理想的帝王。 治とし、心の掟とするものなり。天をいただき、地を踏みて、四方を固めとし、 六中国古代の聖天子。有虞氏。 な ) け しもあはれ ぎよう おほやけを敬ひ奉る。下を哀みて人に情をいたすを事とするものなり。しかる堯の知遇を得て摂政となり、堯の 没後、帝位につき、よく国を治め あ に承れば、、いのほしきままに悪しき事をのみ事とするは、当時は心にかなふや セ針を刺し立てるほどのわずか 四 をはり な土地をも領知しない。 うなれども、終悪しきものなり。さればなほ人はよきに随ふをよしとす。しか 〈中国周初の人。孤竹君の子。 れば申すに随ひていますかるべきなり。その事申さんと思ひて参りつるなり」叔斉は弟。父王は弟の叔斉を後嗣 にしようとしたが、叔斉は兄に位 といふ時に、盗跖雷のやうなる声をして、笑ひて日く、「汝がいふ事ども一つを譲ろうとし、二人して出国。周 五 六 の文王のもとに赴くが、文王すで げうしゅん みかど たふと になく、子の武王の殷の紂王討伐 も当らず。その故は、昔、堯、舜と申す二人の帝、世に貴まれ給ひき。しかれ を諫めて容れられす、周の粟を食 わらび うのを恥じて首陽山に隠れ、蕨で どもその子孫、世に針さすばかりの所を知らず。また世にかしこき人は伯夷、 命をつなぎ、ついに餓死した高潔 しゅゃうさん がんくわい な兄弟と伝えられる。 叔斉なり。首陽山に伏せり、飢ゑ死にき。またそこの弟子に顔回といふ者あり 九中国山西省永済県の南にある き。かしこく教へ給ひしかども、不幸にして命短し。また同じき弟子にて子路雷首山。 一 0 孔子の第一の高弟 ( 前五五 = ~ 同 つひ 四七九 ) 。字は子淵。魯の人。孔子の といふ者ありき。衛の門にして殺されき。しかあれば、かしこき輩は遂にかし しゆくせい たうせきいかづち ゑい したが なんぢ は八 く
八相応和尚都卒天にのばる事、染殿の 后祈り奉る事 九仁戒上人往生の事 十秦始皇天竺より来たる僧禁獄の事 校訂付記・ : 関係説話表 : ・ 固有名詞索引 : ・ = 三五 : ・ ・ : 三七五 十一後の千金の事 ・ : 三七 = 十二盗跖と孔子と問答の事 ・ : 三七四 ロ絵目次 宇治拾遺物語絵巻 宇治拾遺物語絵巻 : ・ 慈覚大師画像 〈装丁〉中野博之 ・ : 三八九 ・ : 三七六 ・ : 三七セ
孔子 興正僧都 こうずけどの 語上野殿〈源頼信〉 こうどの 遺守殿〈源頼信〉 拾 〈慶植〉 ~ 于興福寺 ・ノや 高野 - 一うや 空也上人 国司〈橘俊綱〉 極楽 極楽寺 国隆寺 胡国 後三条院 小式部内侍 後拾遺 五条 五条西洞院 五条の斎 五条の天神 五条の道祖神 胡人 後朱雀院 ごだいさん 五台山 さごろも 小藤太 三六・三セ狭衣 一一三 0 塩釜 ぎす じかく 一九 ^ ・一四三・ = 四四・一一四五・ = 四六・ = 四七後徳大寺左大臣〈藤原実定〉一一三 0 座主〈静観僧正〉 五九慈覚大師 一三八後鳥羽院 一五四佐多 ( さた ) 一 = 0 ・ニ三四巻経 なかつね 一 0 三子なる人〈伴中庸〉 六七左大臣殿〈藤原頼長〉一発・一四信貴 さたいふ えいじっ 一 0 三・一 0 四近衛殿 一五佐大夫 七一一・七三持経者〈叡実〉 一七一護仏院 さだしげ = 0 一・一一 0 一一・一一 0 三・一一 0 六重秀 一 0 七是季 七 0 貞高 八四始皇 七四 定頼 地主権現〈日吉の二宮・大山咋 薩摩の氏長 一六八神〉 さとなり = 四・ = 五斎 ( ーの神 ) 一六・六 0 ・一 = 0 七一一四条 四一・一三五・西院 一三九佐渡国 一・一三三・一三四四条大納言〈藤原公任〉三三・一五三 一三六・一六一・一一四・二七・二九・一耄・一一四 0 西大寺 一三実重 一五一四条宮〈藤原寛子〉 さいてん 一三 0 ・一一三一・ = 三一一西天 一一四一実房 一三三地蔵 ( ー菩薩 ) 三九・四 0 ・四一・一 = ・ さいてんじく おきな ニ・ = 三西天竺 一一一四鯖売る翁 三 0 ・三一 物、いレ」ろ・ さふ = 一一三・ = 一一五西塔 ( 山のー ) 犬・発・三四左府〈藤原頼長〉 一六 0 ・一三地蔵会 一毛 さえ じちいん = 三塞 ( ーの神 ) 〈 = ・一 = 0 淵の池 一 0 六実因〈具房僧都〉 ゆきとお 空・宅〈左衛門尉源行遠↓行遠 三条院 一六三七条 発・二六 さかの里 = ニ三条右大臣〈藤原定方〉三三七条町 七一一嵯峨帝 三五三条大后の宮〈藤原詮子〉一三一一七大寺 一九九 一五釈迦仏 一一 0 八 一一四一一三条中納言 ^ 藤原朝成〉一 = 三七宮〈覚快法親王〉 さかむ じっそうばう 一六釈迦牟尼如来 三滝 = 三五実相房僧正 九 0 釈迦牟尼仏 一一四一三位〈藤原実光〉 会信濃 さき 一五前の入水の上人 一一七山陽道 七四信濃国 一一一一三・ = 一一四左京 一六三 四の宮河原 し 一五一左京の大夫六一・六ニ・六三・六四・六五 じえ 一兊・一九 0 ・一九一左京の大夫〈源邦正・青常〉九四慈恵僧正 ( ー良源 ) 一五五・一一一六志摩国 にー ) のレっいーれ これすえ ・一とうだ だいぶ あさひら 一七八・一三六 二 0 ・一三三 一 = 九・一三 0