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検索対象: 完訳日本の古典 第41巻 宇治拾遺物語(二)
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1. 完訳日本の古典 第41巻 宇治拾遺物語(二)

143 巻第十二 ( 現代語訳三一一三ハー ) 離をおいた。 = そうして出てきたのは何事か。 一ニ気づまりです。 一三まったくもって理屈に合わな いことである。 びと 一四ただ人ではないということを もろこし こ問意味するが、諸説がある。「方異」 今は昔、唐に、孔子、道を行き給ふに、八つばかりなる童あひぬ。孔子レ で、あり方 ( 人格 ) が特別である、 らくやう の意か ひ申すやう、「日の入る所と洛陽と、いづれか遠き」と。孔子いらへ給ふやう、 一五キ、つばりと。はっキ、りと。 「日の入る所は遠し。洛陽は近し」。童の申すやう、「日の出で入る所は見ゅ。 きゅう ちゅうじ 一六名は丘、字は仲尼 ( 前五五一 ~ 前 洛陽はまだ見ず。されば日の出づる所は近し。洛陽は遠しと思ふ」と申しけれ四七九 ) 。中国、春秋時代の思想家。 儒家の祖。『論語』はその言行録。 ば、孔子、かしこき童なりと感じ給ひける。「孔子にはかく物問ひかくる人も宅中国河南省の古都。周代の洛 邑で、後漢・晋・北魏・隋・後唐 の都となった。 なきに、かく問ひけるは、ただ者にはあらぬなりけり」とぞ人いひける。 十七鄭太尉の事 今は昔、親に孝する者ありけり。朝夕に木をこりて親を養ふ。孝養の、い空に天天に通じた。「空」は天なる神。 かぢ 知られぬ。梶もなき舟に乗りて向ひの嶋に行くに、朝には南の風吹きて、北の わらは 十六八歳の童孔子問答の事 153 152 け一つわこっ

2. 完訳日本の古典 第41巻 宇治拾遺物語(二)

ん。意味深い言葉を尽して教えられても、従うような者で はありません。かえって不都合なことが起るでしよう。そ 十二盗跖と孔子の問答の事 んなことはなさってはいけません」。孔子は、「悪人でも人 もろこしりゅうかけい これも今は昔、唐に柳下恵という人がいた。世にも賢い と生れた者は、たまたまよいことを言うと、それに従うこ 者で人に重んじられていた。その弟に盗跖という者がいる。 ともあるものです。それに、『悪いことになろう。よもや ある山の中腹に住んで、いろいろな悪者を招き寄せて自分言うことは聞くまい』ということはまちがいです。まあ、 の仲間として、人のものを奪っては自分のものとしていた。 御覧なさい。教化して見せましよう」と言い放って、盗跖 のもとへおいでになった。 歩く時にはこの悪者どもを二、三千人も引き連れる。道で 出会う人を殺し、恥を与え、よからぬことばかりを好んで 馬から降り、門に立って見ると、その場にはみな、獣や 過していた。ある時柳下恵が道を行くと、孔子に出会った。鳥を殺したり、いろいろの悪事の限りをする者どもが集っ 孔子は、「どこへおいでですか。こちらからお目にかかっ ていた。人を呼んで、「魯の孔子という者がまいった」と うわさ て申しあげたいと思うことがありますが、運よくお会いし 申し入れると、すぐ使いが帰って来て、「噂に聞いている ました」と言う。柳下恵は、「何事です」と聞く。「教訓を人だ。何の用事で来られたか。人を教化する人と聞くが、 してあげようと思うのは、そなたの弟のことです。いろい わしを教化しに来たのか。わしの気にかなえば従おう。気 なます ろな悪事の限りを好んで多くの人を嘆かせていますが、ど に入らねば、そなたの肝を膾にして食ってしまおう」と伝 五 うしてお止めになりませんか」。柳下恵は答えて言う、「私 える。その時に孔子は進み出て庭に立ち、まず盗跖に一礼 十 第の言うことなど、まるで用いようとはしません。それゆえ して上って座に着いた。盗跖を見ると頭の髪は逆立ち、そ よもぎ 巻 嘆きながら年月を送っているのです」。孔子が、「そなたが の乱れぶりは蓬のようだ。目は大きくて、目玉をぎよろっ 教訓されないのなら、私が行って教化しよう。どんなもの かせている。鼻をふくらましていからし、歯をかみしめ、 ひげ でしよう」。柳下恵は、「決しておいでになってはなりませ鬚をそり返らせている。 とうせき のば

3. 完訳日本の古典 第41巻 宇治拾遺物語(二)

( 原文一四三ハー ) おそ ( ああすいぶん光るよ、虫のけつつべたに火がついて、小さ ですので住んでおりますが、帝がおいでになるのが畏れ多 な人魂のように、次から次と飛んで行くのが見えるなあ ) 、窮屈に存ぜられます。どういたしたものでございまし 東国の人が詠んだように詠もうといって、本当は貫之が詠よう」と言うので、「それはまったくもっておかしな話だ。 んだのだということである。 おまえの子孫が私にくれたからこそ住んでいるのだ。私が 無理に奪い取って住んでいるというならともかく、礼儀も かわらのいんとおるこう わきまえずに、どうしてそのように恨むのか」と声高らか 十五河原院に融公の霊が住む事 に仰せられると、かき消すように失せてしまった。その時、 今は昔、河原院は融の左大臣の家である。奥州の塩釜の人々は、「やはり、帝はどこか違っておいでになる方です。 風景をまねて庭を造り、潮水を汲みよせて塩を焼かせたり普通の人なら、その大臣に会って、あんなにきつばりとは など、さまざまな風雅の限りを尽して住んでおられた。大ものが言えるだろうか」と言い合ったという。 臣が亡くなってのち、宇多院に進上したものである。延喜 わらわ みかど の帝がたびたび行幸になった。 十六八歳の童が孔子と問答をする事 まだ宇多院がお住みになっておられたころ、夜半時分に もろ・一し たいのやめりごめ 今は昔、唐で孔子が道を歩いて行かれると、八歳ほどの 西の対屋の塗籠を開けて、そよそよと衣すれの音がして人 そくたい がやって来るように思われたので、御覧になると、束帯の子供に出会った。それが孔子に尋ねて言う、「日の入る所 らくよう しやく 装束をきちんと身につけた人が太刀をつけ笏を持って、一一 と洛陽と、どちらが遠いですか」と。孔子が答えられる、 十 第間ばかりさがってかしこまって控えていた。「おまえは誰 「日の入る所は遠い。洛陽は近い」。すると子供が、「日の かとお尋ねになると、「ここのあるじの翁でございます」出たり入ったりする所は見える。洛陽はまだ見えない。だ から日の出る所は近く、洛陽は遠いと思う」と言ったので、 と言う。「融の大臣か」とお聞きになると、「さようでござ います」と言う。「では何事か」と仰せになると、「わが家孔子は賢い子だとお感じになった。「孔子にはこうしても

4. 完訳日本の古典 第41巻 宇治拾遺物語(二)

247 巻第十五 おく わぎはひ 後継者と嘱望されたが夭折した。 こき事もなし。我また悪しき事を好めども、災身に来たらず。ほめらるるも = 孔子の弟子。名は仲由。字は べん の、四五日に過ぎず。そしらるるもの、また四五日に過ぎず。悪しき事もよき子路。卞の人。性質粗暴のため、 孔子は常に「義」の道を諭したとい このみしたがふるま う。衛の乱に際し、「義」を守って 事も、長くはめられ、長くそしられず。しかれば我が好に随ひ振舞ふべきなり。 戦死した。『荘子』に「子路、衛君 おそ 汝また木を折りて冠にし、皮をもちて衣とし、世を恐り、おほやけにおぢ奉るヲ殺サント欲シテ事成ラズ。身、 衛ノ東門ノ上ニ薀セラル」と見え ろ る。「薀」は肉を塩づけにする処刑 も、二たび魯に移され、跡を衛に削らる。などかしこからぬ。汝がいふ所、ま きぎみ 三『今昔』は「木ヲ刻テ冠トシ」と する。 ことに愚かなり。すみやかに走り帰りね。一つも用ゅべからず」といふ時に、 一三『荘子』には「再ビ魯ニ逐ハレ、 あと 孔子またいふべき事覚えずして、座を立ちて急ぎ出でて馬に乗り給ふに、よく迹ヲ衛ニ削ラレ、斉ニ窮シ、陳・ 蔡ニ囲マレ、身ヲ天下ニ容レラレ くつわ あぶみ 臆しけるにや、轡を二たび取りはづし、鐙をしきりに踏みはづす。これを世のズ」と詳しい 一四なぜに賢くないのか。すなわ こうしだふ ち、少しも賢くないではないか、 人、「孔子倒れす」といふなり。 の意。 一五よっぱどおびえていたものと みえて。 一六孔子ほどの聖人君子も時には 失敗する、賢者の一失の意。くじ かえる、くじだおれ、とも。『名 語記』に「孔子ト申セリシ聖人モ何 をちど 事モ越度ナク案ジサダメ用意オハ セシ人ナレドモ、賢者ノ一失トイ ヘル事ノ云々」と見える。

5. 完訳日本の古典 第41巻 宇治拾遺物語(二)

じき言葉を尽して教へ給ふとも、なびくべき者にあらず。返って悪しき事出で = そんなことはしてもむだです。 三聞き従うこと。 来なん。あるべき事にあらず」。孔子日く、「悪しけれど、人の身を得たる者は、一三結果はきっとよくないだろう。 一四まちがっている。 おのづからよき事をいふにつく事もあるなり。それに、『悪しかりなん。よも一五『今昔』巻一〇第一五話には、 「有ル者皆或ハ甲冑ヲ着テ弓箭ヲ ひが ) ) と 聞かじ』といふ事は僻事なり。よし見給へ。教へて見せ申さん」と一言葉を放ち帯セリ。或ハ刀釼ヲ横タへ兵仗ヲ 取レリ。或ハ鹿・鳥等ノ諸ノ獣ヲ 殺ス物ノ具共ヲ隙无ク置キ散セリ。 て、盗跖がもとへおはしぬ。 かくのごと 如此クノ諸ノ悪キ事ノ限リヲ尽タ リ」と、行き届いた説明がある。 馬よりおり 、門に立ちて見れば、ありとあるもの、獣、鳥を殺し、もろもろ 一六食用の獣、すなわち肉を取る つど けだものを「しし」という。「猪の の悪しき事を集へたり。人を招きて、「魯の孔子といふ者なん参りたる」と言 しし」「鹿のしし」の類。 すなはつかひ ひ入るるに、即ち使帰りて日く、「音に聞く人なり。何事によりて来たれるそ。宅 ( 孔子は ) そこにいた一人の者 を呼び寄せて。 うわさ 人を教ふる人と聞く。我を教へに来たれるか。我が心にかなはば用ひん。かな天噂に聞く人。名の知れた人。 なます 一九 一九肝を膾にしてやろう。「膾」は きもなます はすは肝膾に作らんーといふ。その時に孔子進み出でて庭に立ちて、まづ盗跖肉をのまま細かく切。たもの。 『荘子』では、孔子が行くと、折し 五を拝みて上りて座に着く。盗跖を見れば、頭の髪は上ざまにして、乱れたる事も盗跖は人間の肝の膾を食べてい たことになっている。 十 よもぎ ひげ 第蓬のごとし。目大にして見くるべかす。鼻をふきいからかし、牙をかみ、鬚をニ 0 勢い猛なる者の描写。『今昔』 巻 は「頭ノ髪ハ三尺許ニ上レリ」。 ニ一ぎよろりぎよろりと見まわし そらして居たり。 ている。 一三鼻を大きくふくらまして。 盗跖が日く、「汝来たれる故ま 。いかにそ。たしかに申せ」と、怒れる声の、 なんぢ ゅゑ ろ ひまな

6. 完訳日本の古典 第41巻 宇治拾遺物語(二)

がんかい 盗跖が、「おまえが来たわけは何だ。はっきりと申せ」 た。またおまえの弟子に顔回という者がいた 。立派に教育 と怒った声で、高く恐ろしげな調子で言う。孔子はお思い されたが、不幸にして短命だった。また同じ弟子で子路と になる、「前もって聞いていたことではあるが、これほど いう者がいた。それも衛の門で殺された。だから賢いやっ 語 物までに恐ろしい者とは思わなかった」と。顔つきや物腰やらが、結局よいということもない。わしはまた悪いことを 拾声までが人間とは思われない。肝がつぶれて自然と身震い 好むが、災いは身にかからぬ。ほめられる者もせいぜい四、 そし 宇されるが、じっとこらえて口を開いた。「人の世に生きる五日にすぎぬ。謗られる者もまたわずか四、五日にすぎな 道は、道理をもって身の飾りとし、心の規範とするもので 悪いこともよいことも、いつまでもほめられ、いつま ある。天をいただき大地を踏んで、四方を堅めとし、朝廷でも謗られるわけではないのだ。だから自分の好みに従っ しもじも を敬い申しあげる。下々の者を憐んで、人に情けを施すの てふるまうべきだ。おまえはまた木を折って冠とし、皮を を旨とするものである。ところが聞くところによると、あ もって衣とし、世を恐れ、朝廷をかしこみ申すにもかかわ なたは勝手気ままに悪いことばかりをしているようだが、 らず、二度も魯を追われ、衛にもおれなくなった。どうし 当座は満足するようでも、身の果ては悪いものだ。だから て賢くふるまえぬのか。おまえの言うことはまったくばか やはり、人は善に従うのがよいのだ。それであなたも私のげている。さっさと走り帰れ。何ひとつも聞き用いること 申すことに従われるのがよい。そのことを申そうと思って はない」。その時孔子は、また言うべき言葉も思い浮ばず、 いかずち まいったのである」と言った。その時に盗跖は雷のような . 座を立って急いで退出して馬に乗られたが、よくよくおび くつわ あぶみ 声を出して笑って言う、「おまえの言うことなど一つも当 えていたものとみえて、轡を二度も取りはずし、鐙を何度 ぎようしゅん みかど っておらぬ。そのわけは、昔、堯、舜という二人の帝が非 も踏みはすした。これを世の人は、「孔子倒れする」とい うのである。 常に尊敬された。しかしながら、その子孫は、わずかに針 さすほどの土地さえ治めていない。また、世に賢人と言わ しゆくせい しゅようざん れるのは、伯夷、叔斉だ。それも首陽山に倒れて飢死にし うえじ しろ

7. 完訳日本の古典 第41巻 宇治拾遺物語(二)

宇治拾遺物語 244 一底本および諸本「りうかくゑ い」。吉田本に「柳下恵」の傍記が ある。『荘子』は「柳下季」とする。 前六世紀ごろの人。春秋時代、魯 の大夫。姓は展、名は獲、字は季。 僖公に仕え高徳をうたわれた。 もろこしりうかけい これも今は昔、唐に柳下恵といふ人ありき。世のかしこき者にして、人に重「柳下」の称は、柳樹の下に住んだ からとも、菜を柳下に食したから おとうとニ あ くせらる。その弟に盗跖といふ者あり。一つの山の懐に住みて、もろもろの悪とも言われる。 ニ中国古代の大盗賊。黄帝時代 はんりよ しき者を招き集めておのが伴侶として、人の物をば我が物とす。歩く時はこのの大盗とも、秦代の大盗ともいわ れる伝説的存在。柳下恵の弟とい ぐ あ まろま う根拠はなく、おもしろい寓話を 悪しき者どもを具する事、二三千人なり。道にあふ人を汝し、恥を見せ、よか 構えるための取り合せ らぬ事の限を好みて過すに、柳下恵道を行く時に孔子にあひぬ。「いづくへお三『荘子』盗跖篇は「従卒九千人」。 四儒家の祖 ( 前五五一 ~ 同四七九 ) 。名 は丘、字は仲尼。初め魯に仕え、 はするぞ。みづから対面して聞えんと思ふ事のあるに、かしこくあひ給へり」 のち諸国に遊説、晩年は再び魯で といふ。柳下恵、「いかなる事ぞ」と問ふ。「教訓し聞えんと思ふ事は、そこの暮し、『春秋』を編述する。↓田一 九七ハー注一二。 あ かぎり なげ 舎弟、もろもろの悪しき事の限を好みて多くの人を歎かする、など制し給はぬ五都合よく。折よく。 六そなたの実の弟。 そ」。柳下恵答へて日く、「おのれが申さん事を敢へて用ふべきにあらず。されセまるで耳を貸そうともせぬ。 ^ どんなものでしようか ば歎きながら年月を経るなり」といふ。孔子の日く、「そこ教へ給はすは、我九決しておいでになってはなり ません。 九 行きて教へん。いかがあるべき」。柳下恵日く、「さらにおはすべからず。いみ一 0 立派な意味深い言葉。 かギ、り 十二盗跖と孔子と問答の事 たうせき すご ふ 197 あ やまふところ 五 あ

8. 完訳日本の古典 第41巻 宇治拾遺物語(二)

高く恐ろしげなるをもていふ。孔子思ひ給ふ、かねても聞きし事なれど、かく一気を取り直しがまんして。 ニ朝廷。 きも ) 」ころ ばかり恐ろしき者とは田 5 はざりき。かたち、有様、声まで人とは覚えず。肝心三現在は思いのままのように見 えるが 語 くだ ゃう かギ一り・ 物も砕けて震はるれど、思ひ念じて日く、「人の世にある様は道理をもて身の飾四でありますから、やはり。 五中国古代の伝説的聖王。陶唐 おきて しゅん 氏。舜と並び称される理想的帝王。 治とし、心の掟とするものなり。天をいただき、地を踏みて、四方を固めとし、 六中国古代の聖天子。有虞氏。 な ) け しもあはれ ぎよう おほやけを敬ひ奉る。下を哀みて人に情をいたすを事とするものなり。しかる堯の知遇を得て摂政となり、堯の 没後、帝位につき、よく国を治め あ に承れば、、いのほしきままに悪しき事をのみ事とするは、当時は心にかなふや セ針を刺し立てるほどのわずか 四 をはり な土地をも領知しない。 うなれども、終悪しきものなり。さればなほ人はよきに随ふをよしとす。しか 〈中国周初の人。孤竹君の子。 れば申すに随ひていますかるべきなり。その事申さんと思ひて参りつるなり」叔斉は弟。父王は弟の叔斉を後嗣 にしようとしたが、叔斉は兄に位 といふ時に、盗跖雷のやうなる声をして、笑ひて日く、「汝がいふ事ども一つを譲ろうとし、二人して出国。周 五 六 の文王のもとに赴くが、文王すで げうしゅん みかど たふと になく、子の武王の殷の紂王討伐 も当らず。その故は、昔、堯、舜と申す二人の帝、世に貴まれ給ひき。しかれ を諫めて容れられす、周の粟を食 わらび うのを恥じて首陽山に隠れ、蕨で どもその子孫、世に針さすばかりの所を知らず。また世にかしこき人は伯夷、 命をつなぎ、ついに餓死した高潔 しゅゃうさん がんくわい な兄弟と伝えられる。 叔斉なり。首陽山に伏せり、飢ゑ死にき。またそこの弟子に顔回といふ者あり 九中国山西省永済県の南にある き。かしこく教へ給ひしかども、不幸にして命短し。また同じき弟子にて子路雷首山。 一 0 孔子の第一の高弟 ( 前五五 = ~ 同 つひ 四七九 ) 。字は子淵。魯の人。孔子の といふ者ありき。衛の門にして殺されき。しかあれば、かしこき輩は遂にかし しゆくせい たうせきいかづち ゑい したが なんぢ は八 く

9. 完訳日本の古典 第41巻 宇治拾遺物語(二)

八相応和尚都卒天にのばる事、染殿の 后祈り奉る事 九仁戒上人往生の事 十秦始皇天竺より来たる僧禁獄の事 校訂付記・ : 関係説話表 : ・ 固有名詞索引 : ・ = 三五 : ・ ・ : 三七五 十一後の千金の事 ・ : 三七 = 十二盗跖と孔子と問答の事 ・ : 三七四 ロ絵目次 宇治拾遺物語絵巻 宇治拾遺物語絵巻 : ・ 慈覚大師画像 〈装丁〉中野博之 ・ : 三八九 ・ : 三七六 ・ : 三七セ

10. 完訳日本の古典 第41巻 宇治拾遺物語(二)

孔子 興正僧都 こうずけどの 語上野殿〈源頼信〉 こうどの 遺守殿〈源頼信〉 拾 〈慶植〉 ~ 于興福寺 ・ノや 高野 - 一うや 空也上人 国司〈橘俊綱〉 極楽 極楽寺 国隆寺 胡国 後三条院 小式部内侍 後拾遺 五条 五条西洞院 五条の斎 五条の天神 五条の道祖神 胡人 後朱雀院 ごだいさん 五台山 さごろも 小藤太 三六・三セ狭衣 一一三 0 塩釜 ぎす じかく 一九 ^ ・一四三・ = 四四・一一四五・ = 四六・ = 四七後徳大寺左大臣〈藤原実定〉一一三 0 座主〈静観僧正〉 五九慈覚大師 一三八後鳥羽院 一五四佐多 ( さた ) 一 = 0 ・ニ三四巻経 なかつね 一 0 三子なる人〈伴中庸〉 六七左大臣殿〈藤原頼長〉一発・一四信貴 さたいふ えいじっ 一 0 三・一 0 四近衛殿 一五佐大夫 七一一・七三持経者〈叡実〉 一七一護仏院 さだしげ = 0 一・一一 0 一一・一一 0 三・一一 0 六重秀 一 0 七是季 七 0 貞高 八四始皇 七四 定頼 地主権現〈日吉の二宮・大山咋 薩摩の氏長 一六八神〉 さとなり = 四・ = 五斎 ( ーの神 ) 一六・六 0 ・一 = 0 七一一四条 四一・一三五・西院 一三九佐渡国 一・一三三・一三四四条大納言〈藤原公任〉三三・一五三 一三六・一六一・一一四・二七・二九・一耄・一一四 0 西大寺 一三実重 一五一四条宮〈藤原寛子〉 さいてん 一三 0 ・一一三一・ = 三一一西天 一一四一実房 一三三地蔵 ( ー菩薩 ) 三九・四 0 ・四一・一 = ・ さいてんじく おきな ニ・ = 三西天竺 一一一四鯖売る翁 三 0 ・三一 物、いレ」ろ・ さふ = 一一三・ = 一一五西塔 ( 山のー ) 犬・発・三四左府〈藤原頼長〉 一六 0 ・一三地蔵会 一毛 さえ じちいん = 三塞 ( ーの神 ) 〈 = ・一 = 0 淵の池 一 0 六実因〈具房僧都〉 ゆきとお 空・宅〈左衛門尉源行遠↓行遠 三条院 一六三七条 発・二六 さかの里 = ニ三条右大臣〈藤原定方〉三三七条町 七一一嵯峨帝 三五三条大后の宮〈藤原詮子〉一三一一七大寺 一九九 一五釈迦仏 一一 0 八 一一四一一三条中納言 ^ 藤原朝成〉一 = 三七宮〈覚快法親王〉 さかむ じっそうばう 一六釈迦牟尼如来 三滝 = 三五実相房僧正 九 0 釈迦牟尼仏 一一四一三位〈藤原実光〉 会信濃 さき 一五前の入水の上人 一一七山陽道 七四信濃国 一一一一三・ = 一一四左京 一六三 四の宮河原 し 一五一左京の大夫六一・六ニ・六三・六四・六五 じえ 一兊・一九 0 ・一九一左京の大夫〈源邦正・青常〉九四慈恵僧正 ( ー良源 ) 一五五・一一一六志摩国 にー ) のレっいーれ これすえ ・一とうだ だいぶ あさひら 一七八・一三六 二 0 ・一三三 一 = 九・一三 0