宇治拾遺物語 386 番説 146 145 144 143 142 141 140 139 烱 137 1 134 131 Ⅷ 1 四 128 127 126 125 124 盟 号話 九八七六五四 今古十今今今 本訓昔昔昔 昔 日 日 二説抄二 話七五四四八四同 59 文 五 八 話 日 〇 一一古事談四齠十訓抄三ー一 一二今昔一九ー一二 今昔四ー九 法苑珠林三四賢愚経一三宝物集 今昔四ー二五 大唐西域記一〇 打聞集 四今昔一九ー三 続本朝往生伝引 五今昔一二ー三五 本朝法華験記中 六打聞集 撰集抄八元亨釈書一一 七今昔一九ー一八 本朝法華験記下続本朝往生伝今昔一一一 因縁集八三国伝記一〇 古事談三川 九今昔二八ー二四 文徳実録 ( 斉衡元年七月一一二日条 ) 一〇古本説話上Ⅱ世継物語大和物語皿新古今集八 江談抄三権記 ( 長徳四年一一月八日条 ) 道賢上人冥途記 ( 扶桑略記天慶四年条 ) 、十訓抄五ー一七元亨釈書九 日本紀略 ( 永延二年六月一三、一七日条 ) 江談抄一一一続古事談五 類話・関連話等 ー三三発心集一ー五私聚百
うしてあるのです。昔、金持の家がありました。この家は あげおめし 倉かなんかの跡でございます」と。まことに見ると、大き 一上緒の主が金を得る事 な土台石の石などがある。女はさらに、「その腰をかけて うね ひょうえふ おいでになった石は、その倉の跡を畑にしようとして畝を 今は昔、兵衛府の次官である人がいた。冠の上緒が長か ったので、世の人は、「上緒の主」と呼んでいた。ところ掘っているうちに、土の底から掘り出されたものです。そ れがこうして家の中にあるので、退けようと思うのですが、 で西の八条と京極との畑の中にそまつな小家が一軒ある。 ある時、上緒の主がその前を通っていた時にタ立が降って女は力が弱くて、かたづけようもありません。しやくにさ きたので、この家に馬から降りて入った。見れば女が一人わりながらもこうして置いてあるのです」と言った。そこ で上緒の主は、「自分がこの石を是非手にいれよう、後で いる。馬を引き入れて、タ立のやむのを待とうと、平らな からびつ 目の利く者が見つけるかもしれぬ」と思って、女に、「こ 小さな唐櫃のような石があるのに腰をかけていた。小石を たた の石を私がいただきましようよ」と言うと、「ありがたし 持ってこの石を手慰みに叩いていたが、打たれてへこんだ 十 ことです」と言う。そこでそのあたりの知合いの下人に荷 第ところを見ると、そこが金色に光っている。 巻 「珍しいことかな」と思って、はげたところに土を塗って車を借りにやらせて、石を積んで出ようという時に、ただ 隠して、女に尋ねる、「この石はどういう石だ」。すると女で取りあげるのは罪深く思われたので、着ていた綿入れの が答えて言う、「さあ、どういう石でしようか。昔からこ着物を脱いでこの女に与えた。女はわけも分らず、大騒ぎ 巻第十三
のを尋ねて聞く人もいないが、このように尋ねたのは、や ただ、誠の心を起すがよい。そうすれば、財産も豊かに はりただの子供ではなかったのだ」と人々は言い合った。 後生はよい所に生れるだろう」と。この人が、「誠の心と は何です」と問うと、僧が、「誠の心を起すというのは、 語 ほかのことではない。仏法を信することだ」と言う。また 物十七鄭大尉の事 問うて、「それにはどうすればよいのです。はっきりとお 治 ふたごころ 宇今は昔、親に孝行する者がいた。朝夕に木を伐って親を聞きして納得をして、頼みに思い 二心なく信心をしてお 養っていた。その孝養の心が天に通じた。梶もない舟に乗すがりいたしましよう。お聞きしたい」と言った。僧が って向いの島に行くと、朝には南の風が吹いて北の島に吹「自分の心がすなわちこれ仏である。自分の心を離れては きつけた。夕方にはまた舟に木を伐って積んでいると、 仏はないと言います。だから自分の心の故に仏はおいでに の風が吹いて家に吹きつけた。こんなふうにしているうち なるのです」。そう言うと、この男は手をすって泣く泣く に長い年月が過ぎて、朝廷にもこのことが聞えて、大臣に 拝んで、それからはこのことを心にかけて夜昼思っていた。 ばんてんたいしやく 任じられて召し出された。その名を鄭大尉といった。 そこで梵天、帝釈や多くの神々が来てお守りになったので、 思いもかけずに財産ができ、家の暮しも豊かになった。臨 終の時には、いよいよ心に深く仏を念じて極楽浄土にすみ 十八貧しい俗人が仏性を観じて富む事 やかに赴いたのであった。このことを見聞きした人は、感 もろこしかたいなか 今は昔、唐の片田舎に一人の男がいた。家が貧しくて財動して尊んだという。 産がない。妻子を養うに力なく、財産を求めても得られな むねゆきろうどう かった。こうして歳月が過ぎていった。思い悩んで、ある 十九宗行の郎等が虎を射る事 僧に会って、財産を得られる方法を聞いた。智恵のある僧 いきのかみ で、答えて言うには、「おまえが財産を得ようと思うなら、 今は昔、壱岐守宗行がその家来をささいなことで殺そう
( 原文一五三ハー ) の所へお送り申しあげたのだった。ほのばのと夜が明ける けでは無理だ。このことを院へ申しあげて何とかしよう」 と一言うと、「憎らしい言いわけよ」と言って、三度上に蹴 時分にお帰りになったという。 年をとられてから、「実は以前こんなめにあいました」 り上げて、へとへとくたくたにして、落ちてくるところを 口を開けて食ってしまった。初めは普通の人間ぐらいの男 と、人にお話しになったのである。それが四条の大納言の ことというのは、本当であろうか と見ているうちに、おびただしく大きくなって、この男を ただ一口で食ってしまったとい , つ。 ようぜいいん 二十一一陽成院の化け物の事 みなせどの 二十三水無瀬殿のむささびの事 今は昔、陽成院が御退位されてからのちの御所は、大宮 よりは北、西洞院よりは西、油の小路よりは東にあたって 後鳥羽院の御時、水無瀬殿に毎夜毎夜山から傘ほどの大 きさのものが光りながら御堂へ飛び込むことがあった。西 つりどの そこは物の怪の住む所であった。大きな池に臨んだ釣殿面や北面の警護の武士たちがおのおの、「この正体を見破 に夜番の者が寝ていたところ、夜半時分に細々とした手で って手柄をたてよう」と、心にかけて注意していたが、そ この男の顔をそっとなでる者がいた。 . 薄気味悪いと思って、 のかいもなく過ぎていった。ところがある夜、かげかたが かみしも 太刀を抜いて片手でつかんでみると、薄黄色の上下を着た ただ一人で池の中島に寝て待っていると、例の光り物が山 から池の上を飛んで行ったので、起きるのももどかしく、 翁が、ことのほかにみすばらしい姿で言った、「自分はこ 十 第こに昔住んでいた主である。浦島太郎の弟である。昔から あおむけに寝たまま十分に引きしばって射ると、手ごたえ この所に住んで千二百余年になるのだ。願わくは聞き届け がして池に落ち込むものがある。その後人々に知らせて、 四てくだされ。ここに社を造って祀ってくだされ。そうすれ火をともしておのおのが見ると、薄気味の悪いほど大きな ばいかようにもお守り申そう」。男が、「わし一人の考えだむささびで、年をとり、毛などもはげ、したたかな格好を ものけ からかさ
宇治拾遺物語 70 れば大臣にならんと構へける事の、かへりて我が身罪せられけん、いかにくや一逆に。反対に ニ唐楽、大食調の曲。嵯峨 ~ 仁 しかり - け・ん。 明天皇のころには、野の行幸の際 にきまって奏されたというが、醍 醐天皇のころには、あまり奏され ない曲となっていた。 三藤原明衡の子 ( 一 0 五九 ~ 一一 = 三 ) 。 興福寺の僧。師の得業円憲ととも に『高麗笛譜』を編む。『懐竹抄』に 「小笛ニテウックシク吹レケリ」と かう これも今は昔、放鷹楽といふ楽を明暹已講ただ一人習ひ伝へたりけり。白河見える笛の名手。「已講」は僧の職 さんえ 五 六 名で「三会已講師」の略。ここは南 ののみゆきあさて やましなでら七 こよひかど 都の三会 ( 興福寺の維摩会、薬師 院野行幸明後日といひけるに、山階寺の三面の僧坊にありけるが、「今宵は門 寺の最勝会、禁中の御斎会 ) の講 なさしそ。尋ぬる人あらんものか」といひて待ちけるが、案のごとく入り来た師を勤めた者、の意。なお、次話 参照。 る人あり。これを問ふに、「是季なり」といふ。「放鷹楽習ひにかーといひけれ四第七十二代天皇 ( 一 0 当 ~ 延久四年 ( 一 0 七一 I) ~ 応徳三年 ( 一 0 八六 ) すなは くだん 在位。以後、没時まで院政を執る。 ば、「しかなり」と答ふ。則ち坊中に入れて件の楽を伝へけり。 五紫野・嵯峨野・大原野などへ の鷹狩を観るための行幸。 六興福寺。奈良市登大路町にあ る大寺。↓二〇ハー注八。 三堀河院明暹に笛吹かさせ給ふ事 セ未詳。新釈・全註解は、『今 昔』巻一二第二一話により、「西 室・東室・中室ノ各ガ大小ノ房」 だいはんにやみどきゃう これも今は昔、堀河院の御時、奈良の僧どもを召して大般若の御読経行はれをさすかという。 ( 現代語訳二八五ハー ) はうようらくみやうせんこれすゑ 一一放鷹楽明暹に是季が習ふ事 つみ 116
141 巻第十 今は昔、東人の、歌いみじう好み詠みけるが、蛍を見て、 一九 あなてりや虫のしゃ尻に火のつきて小人玉とも見えわたるかな 二東人のやうに詠まんとて、まことは貫之が詠みたりけるとそ。 かはらのゐんとほるこう 十五河原院融公の霊住む事 ちご になりぬれば、かくてのみあるべき事かは、上りなんと思ふに、児のここにてせにしかば、このごろの出で立ち なに一と いそぎを見れど、何言もいはす。 何とありしはやなど思ひ出でられて、いみじう悲しかりければ、柱に書きつけ京へ帰るに、女子のなきのみそ、 悲しび恋ふる」と見える。 ナる。 一三幾月かがたってしまったので。 一四こんなことをして遊んでいた つけなあ。「はや」は感動の気持を 示す助詞。『今昔』巻一一四第四三話 とかく は「此彼遊ビシ事ナド」。 三『土佐日記』は「思ふもものの」 ( あるいは「思ふをものの」 ) 。『今 昔』は「思フ心ノワビシキハ」。 都へと思ふにつけて悲しきは帰らぬ人のあればなりけり と書きつけたりける歌なん今までありける。 あづまうどよ 十四東人歌詠む事 あづまうど この 150 こひとだま のば 一六東国の人。 宅ああ光っているよ。 天虫のやつめの尻に火がついて。 「しや」は相手を卑しめて言う気持 を添える接頭語。ここは東国の田 舎言葉の感じを出そうとしたもの ひとだま 小さな人魂。死人の体から離 れた魂。青白い火の玉 ( 燐火 ) とな って夜、空中を飛ぶものと信じら れていた。
ますのは、前に行く者が、あとから貴人がおいでになった だいぜんのたいふもちながぜんく ならば、車の向きを変えて貴人の御車の方へ向けて、牛を 一大膳大夫以長の前駆の作法の事 しじくびき 車からはずして榻に軛を置いてお通し申すのをこそ礼儀と くろうど たちばなのだいぜんのすけ これも今は昔、橘大膳亮大夫以長という蔵人の五位は申しますのに、前に行く人がたとい車を停めましても、 ほっしようじ 尻をお向けになってお通し申すのは礼にかなってはおりま がいた。法勝寺の千僧供養に鳥羽院が御幸になった折に せず、無礼をいたすと見受けましたので、そのような人に 宇治の左大臣もお出かけになった。前を公卿の車が進んで は降りてやる必要はないと思って、降りなかったのです。 いた。あとから左大臣がおいでになると、先の公卿が車を もしも誤ってああした無礼をしたのでしたなら、そばへ寄 停めて控えたので、左大臣の御前駆の随身は馬から降りて って一言申したいと思いましたが、なにせ以長はもう年を 通った。ところがこの以長一人は降りなかった。どういう とりましたので、がまんをしていたのです」と申したので、 わけかと左大臣は見ていたが、供養もすんでお帰りになっ 八 た。さてお帰りになってから、「どうしたことか。公卿が左大臣殿は、「さあて、このことはいったいどうしたもの 第 であろう」と、さる御方に、「実はこういうことです。な 出会って礼を尽して車を停めたので、御前駆の随身たちが みな降りたのに、初、いの者ならいざ知らず、以長ほどの者んとしたものでございましよう」と申しあげられると、 が降りなかったのは」と仰せられた。以長は、「これはま「以長はまことに老練な侍のようです」と仰せごとがあっ ながえ た。昔は、牛を車からはずして、榻をば轅の中に、下車し た何という仰せでございましよう 。礼にかなった法と申し 巻第八 しり
1 一 1 ロ と、居並んでいた侍たちが見て驚き、不思議がっていろい がて任期が終る年、七つ八つほどでいかにも美しい子をこ ろと尋ねたが、これこれとわけを聞いて、みな感心した。 のうえもなくかわいがっていたが、その子がしばらくわず ところで、この侍はその後姿が見えなくなったので、ど らって亡くなった。それで泣き悲しんで、それこそ病気に 物うしたかと守が尋ねさせたところ、北山に尊い聖がいた なるほど慕わしく思い続けているうちに、幾月かたってし まった。「こ , っしているわナこま、 拾侍はそこへ行ってこのもらった衣を二つながら差し出して レレ。しかない。都に上ろう」 宇言うのであった。「私も年老いてしまいました。身の不幸と田」うにつけて、「子供がここでこんなことをしていたな は年ごとにまさります。この世の私はどうしようもない者あ」などと思い出されて、せつなく悲しかったので、柱に に生れついているようです。せめて後生だけでも何とかし書きつけた。 て助かりたいと思って、法師になろうと思うのですが、授 都へと思ふにつけて悲しきは帰らぬ人のあればなりけ 戒の師に差しあげるべき物がありませんでしたので、今ま で過してしまいました。このたびこうして思いがけない物 ( 都へ帰ろうと思うにつけても悲しいのは、自分とともに帰 をいただきましたので、このうえもなくうれしく存じまし らぬわが子があるからだ ) て、これを布施に差しあげるのです」。そして、「法師にし こう書きつけた歌が最近まで残っていたという。 てください」と涙にむせびながら泣く泣く言ったので、聖 あずまびと はたいそう尊んで法師にしたのであった。そうして、そこ 十四東人が歌を詠む事 ゆくえ から行方も知れず姿を消したという。居所は分らなかった。 今は昔、東国の人が歌を非常に好んで詠んでいたが、蛍 つらゆき を見て、 十三貫之の歌の事 こひとだま あなてりや虫のしゃ尻に火のつきて小人玉とも見えわ くだ たるかな 今は昔、貫之が土佐守になって任国に下っていたが、や ふせ
143 巻第十二 ( 現代語訳三一一三ハー ) 離をおいた。 = そうして出てきたのは何事か。 一ニ気づまりです。 一三まったくもって理屈に合わな いことである。 びと 一四ただ人ではないということを もろこし こ問意味するが、諸説がある。「方異」 今は昔、唐に、孔子、道を行き給ふに、八つばかりなる童あひぬ。孔子レ で、あり方 ( 人格 ) が特別である、 らくやう の意か ひ申すやう、「日の入る所と洛陽と、いづれか遠き」と。孔子いらへ給ふやう、 一五キ、つばりと。はっキ、りと。 「日の入る所は遠し。洛陽は近し」。童の申すやう、「日の出で入る所は見ゅ。 きゅう ちゅうじ 一六名は丘、字は仲尼 ( 前五五一 ~ 前 洛陽はまだ見ず。されば日の出づる所は近し。洛陽は遠しと思ふ」と申しけれ四七九 ) 。中国、春秋時代の思想家。 儒家の祖。『論語』はその言行録。 ば、孔子、かしこき童なりと感じ給ひける。「孔子にはかく物問ひかくる人も宅中国河南省の古都。周代の洛 邑で、後漢・晋・北魏・隋・後唐 の都となった。 なきに、かく問ひけるは、ただ者にはあらぬなりけり」とぞ人いひける。 十七鄭太尉の事 今は昔、親に孝する者ありけり。朝夕に木をこりて親を養ふ。孝養の、い空に天天に通じた。「空」は天なる神。 かぢ 知られぬ。梶もなき舟に乗りて向ひの嶋に行くに、朝には南の風吹きて、北の わらは 十六八歳の童孔子問答の事 153 152 け一つわこっ
て親の家に帰って行き、銭を亀に換えてしまったことを話 そうと思っているうちに、親のほうから、「どうしてこの 四亀を買って放す事腿 銭を返してよこしたのか」と尋ねる。子が、「そんなこと てんじく 昔、天竺の人が宝を買うために、銭五十貫を子に持たせ はありません。その銭はこれこれで亀に換えて放してやっ てやった。その子が大きな川のほとりを通って行くと、舟たので、そのことを申しあげようと思ってまいったので に乗っている人がいる。舟の方を見やると、舟から亀が首す」と言うと、親が、「黒い着物を着た、同じ風体の人が を差し出している。銭を持った子が立ち止って、この亀の五人、それそれ十貫ずつ持って来たのだ。これがそうだ」 ことを、「どうするのですか」と聞くと、「殺してあること と言って見せると、この銭はまだ濡れたままである。 に使おうとしているのだ」と言う。「その亀を買いましょ なんと、買って放した亀が、その銭の川に落ち込むのを う」と言うと、この舟の人が、「非常に大事なことがあつ見て、それを拾いあげて親のもとに、子の帰らぬ先に届け ていたのである。 て用意した亀だから、いかに高い値段でも売るわけに、か ない」というようなことを言うので、なおも無理やりに手 をすって頼み込んで、この五十貫の銭で亀を買い取って、 五夢を買う人の事嫺 放してやった。 びっちゅうのくに 子供は心に思う、「親が宝を買うために隣の国へやる銭 昔、備中国に郡司がいた。その人の子に、ひきのまき人 を、亀に換えて使ってしまったわけだから、親はどんなに という者があった。まだ若者であった時、夢を見たので、 十 第腹を立てられるだろう」と。かといってまた、親のもとに 夢占いをさせようと思って、夢解きの女のもとに行って、 戻らずにすませるわけにはいかないので、帰って行くと、 夢合せをしてから話をしていた時に、大勢の人ががやがや 言いながらやって来た。国守の御子の長男の君がおいでに 途中に人がいて、「あなたに亀を売った人は、この下流の 渡し場で舟がひっくり返って死んだ」と言う。それを聞い なったのだった。年は十七、八ばかりの若者でいらっしゃ