じゅいちゐ 鳥院六歳にて、朝覲の行幸其例とぞきこえし。二月廿二日、宗盛公従一位し一『公卿補任』によると、正月二 ワ】 十一日。 じゃうへう ひやうらん ニ辞表を奉ること。『公卿補任』 給ふ。やがて其日内大臣をば上表せらる。兵乱つつしみのゆゑとそきこえし。 五 では二月二十七日。 せだいじんぐうさいしゅじんぐわん ロなんとほくれいだいしゆくまの きんぶぜんそうと 物南都北嶺の大衆、熊野、金峰山の僧徒、伊勢大神宮の祭主、神官にいたるまで、三奈良 ( 南都 ) の興福寺と比叡山 家 ( 北嶺 ) 延暦寺。 しはうせんじ いっかう 平一向平家をそむいて源氏に心をかよはしける。四方に宣旨をなしくだし、諸国 0 屋代本・元和版・正節本ュャ とよむ。 げぢ ゐんぜんせんじ ゐんぜん 五屋代本・元和版キンホウセン。 に院宣をつかはせども、院宣宣旨もみな平家の下知とのみ心得て、したがひっ 正節本キンプウゼン。↓一一三ハー 注一 0 。 く者なかりけり。 0 巻六は治承五年 ~ 寿永一一年の事 件で、だいたい年月を追いながら 記しているが、中で高倉院・平清 盛の死に重点をおき、死者にまっ わる説話を三章ずつ収めている。 編年体に紀伝体を交えた歴史文学 の叙法の一つの型が最もよく見ら れる巻といえる。その間に風雲急 な世相を述べ、信州の合戦で結ん でいるのである。 と の ん てうきん
をにぎッてしやむねをついて、のけにつき倒す。資行判官もとどりはなツてお三あおのけに。 一四恥ずかしがっているさま。 そののち め / 、と大床のうへへにげのばる。其後文覚ふところより馬の尾で柄まいたる 刀の、こほりのやうなるをぬきいだいて、よりこん者をつかうどこそまちかけ くわんじんちゃう たれ。左の手には勧進帳、右の手には刀をぬいてはしりまはるあひだ、思ひま さう・ くぎゃう うけぬにはか事ではあり、左右の手に刀をもッたる様にぞ見えたりける。公卿 てんじゃうびと 挈一よいう 殿上人も、「こはいかに、こま、、 。し力に」とさわがれければ、御遊もはや荒れに ゐんぢゅうさうどう しなののくに あんどうむしやみぎむねそのころたうしよくむ けり。院中の騒動なのめならず。信濃国の住人、安藤武者右宗、其比当職の武一 = 「ま右馬大夫右宗、高雄ノ 文学ヲ生虜リタル者也」 ( 吾妻鏡・ しやどころ たち もんがく 者所でありけるが、何事ぞとて太刀をぬいてはしりいでたり。文覚よろこンで正治一一年一一月条 ) 。屋代本など「安 藤右馬大夫右宗」。 一六現に院御所を警護する武者所 かかる所を、きッてはあしかりなんとや思ひけん、太刀のみねをとりなほし、 の武士。現職の武者所 ( 武士 ) 。 かたな 流文覚が刀もッたるかひなをしたたかにうつ。うたれてちッとひるむところに、 被 宅↓八一一ハー注四。 あんどうむしゃ 文太刀をすててえたりをうとてくんだりけり。くまれながら文覚、安藤武者が右天文覚をしめつけた。 一九賢そうな顔をすること。りこ だいぢから うぶった顔つき。 第のかひなをつく。つかれながらしめたりけり。互におとらぬ大力なりければ、 巻 ニ 0 定。定まった部分。範囲、限 じゃうげ 上になり下になり、ころびあふところに、かしこがほに上下よッて、文覚がは ニ一屋代本・熱田本「拷」 ( 濁点あ たらくところのぢゃうをがうしてンげり。されどもこれを事ともせず、いより ) 。打ちすえる意。 おほゆか 一と ニ 0 たふ たがひ ゃう
ふくはら ごきねん かっせいたいふよ 天下静謐のため、且は聖体不豫の御祈念のためとぞきこえし。今度は福原より一四神仏への願を記し奉納する文。 一五万有の実体、宇宙の本体。満 ごぐわんもん の御幸なれば、斗藪のわづらひもなかりけり。手づからみづから御願文をあそ月にたとえ、雲にさえぎられぬこ とを「雲閑かなり」といった。雲を せっしゃうどの せいじよ 屋代本抜書・延慶本・熱田本は山 ばいて、清書をば摂政殿せさせおはします。 とする。もと山で次の権化智 ( 池 一セいんやう ごんげちふか たかは けだしきくほっしゃうくもしづ ・地 ) と対句をなすものか。 蓋聞、法性雲閑かなり、十四十五の月高く晴れ、権化智深し、一陰一陽の 一六厳島明神をさす。屋代本抜書 かうげんぶさうみぎり それいつくしまやしろしようみやう 風旁に扇ぐ。夫厳島の社は、称名あまねくきこゆるには、効験無双の砌な「権化ノ池 ( 延慶本「地」 ) 深ク」。 宅陰陽の風が交互に吹くように あらは こかいしう そばだ だいじ よろ えうれいしやだん り。遥嶺の社壇をめぐる、おのづから大慈の高く峙てるを彰し、巨海の祠宇宜しきを得ている。 一九ニ 0 一 ^ 厳島神社の建物。 しょト ` う・まい へう それおもんみ そらぐぜいじんくわう 一九屋代本抜書「暗一一」。 におよぶ、空に弘誓の深広なる事を表す。夫以れば、初庸昧の身をもッて、 ニ四 ニ 0 仏の衆生救済の広大な誓願 かんばうしやさんきょ けんいうれいけい ぐんもてあそ かたじけな 忝く皇王の位を践む。今賢猷を霊境の群に翫んで、閑坊を射山の居にたの = 一延慶奎初」をハジメとよむ。 庸昧は凡庸愚昧。 もと まう ずいり 、」たう しゃうみ、めきん しむ。しかるにひそかに一心の精誠を抽で、孤島の幽祠に詣で、瑞籬の下に = = 延慶本「謙遊ヲ厲郷之訓へニ 翫プ」。老子は厲郷の人 ( 史記・老 ほうきゅう こんねんこら あせ めいおんあふ 明恩を仰ぎ、懇念を凝して汗をながし、宝宮のうちに霊託を垂る。そのつげ子伝 ) 。老子の教えのままにつつ ましく悠々と暮すことをいう。 きかしよしう ふゐきんしんご なかんづく 富の心に銘ずるあり。就中にことに怖畏謹慎の期をさすに、もはら季夏初秋の = = 延慶本「閑放」。静かで自由な 生活。 なほ 五 ニ四熱田本「射山之居」。藐姑射 候にあたる。病痾忽ちに侵し、猶医術の験を施す事なし。萍桂頻りに転す。 第 の山。上皇の御所。↓一四ハー注一一一。 巻 ぶろさん きたうもと いよ / 、しんかんむな 弥神感の空しからざることを知んぬ。祈疇を求むといへども霧露散じがた = 五萍は日に、桂は月になそらえ、 ニ六 月日の移り変ることをいう。 とそうぎゃう しんぶ 一宍心のある所。心。 し。しかじ心府の心ざしを抽でて、かさねて斗藪の行をくはたてんと思ふ。 せいひっ かたはらあふ とそう へいあたちま をか めきん しるし ニ五 へいけいしき た
よなき あまりに夜泣をし給ひければ、院きこしめされて、一首の御詠をあそばしてく一夜泣きすとも、の意。 も ニ「ただ守りたてよ」と「忠盛」と ワん をかける。 だされけり。 キョサカフ 語 三元和版「清ク盛ル」。清盛の名 よなき を詠みこんである。 物夜泣すとただもりたてよ末の代にきよくさかふることもこそあれ 家 四それで。その歌によって。 きよもり としひやうゑのすけ とししほん 平さてこそ清盛とはなのられけれ。十二の歳兵衛佐になる。十八の歳四品して四 = 大治四年 ( 一一 = 〈 ) 左兵衛佐、保 延元年 ( 一一三五 ) 従四位下 ( 公卿補任 ) 。 ぞんぢ くわしよく 六クワソク ( 高良本・正節本等 ) 。 位の兵衛佐と申ししを、子細存知せぬ人は、「花族の人こそかうは」と申せば、 クワゾク ( 日葡辞書等 ) 。華族とも。 くわ。ししムく 摂家に次ぎ大臣大将を兼ね、太政 鳥羽院しろしめされて、「清盛が花族は人におとらじな」とぞ仰せける。 大臣まで昇進できる家柄。 てんちてんわう によう′ たいしよくわん 昔も天智天皇はらみ給へる女御を、大織冠に給ふとて、「此女御のうめらんセ清盛の花族 ( 血筋・家柄 ) は他 の人 ( 家 ) に劣らない。花族を広義 ちん なんし にとり、高貴な生れの意に用いる。 子、女子ならば朕が子にせん。男子ならば臣が子にせよ」と仰せけるに、すな 屋代本「清盛ガ花族ノ人ニハ劣ジ たふのみねほんぐわんぢゃうゑくわしゃう はち男をうみ給へり。多武峰の本願、定恵和尚是なり。上代にもかかるためし物ヲ」 ( 清盛が花族出の人には : ・ ) によるべきだとする説もある。 ありければ、末代にも平太相国、まことに白河院の御子にておはしければにや、 ^ 以下諸書に見える話。『大鏡』 『今昔物語』巻一一十一一は天智天皇、 さばかりの天下の大事、都うつりなンどいふたやすからぬ事ども思ひたたれけ『元亨釈書』『多武峰略記』は孝徳 天皇のこととする。また女御の生 るにこそ。 んだ子を『大鏡』は藤原不比等とす る。 おなじきうるふ はつかのひごでうのだいなごんくにつなのきゃう ちぎり 同閏二月廿日、五条大納一一 = ロ邦綱卿うせ給ひぬ。平太相国とさしも契ふか九藤原鎌足。 一 0 奈良県多武峰の妙楽寺。鎌足 どうにちゃまひ う、心ざしあさからざりし人なり。せめてのちぎりのふかさにや、同日に病つの遺骨を収める。 と の ん へいたいしゃうこく しん ごえい
うえわらわ 中にもあはれなりし御事は、中宮の御方に候はせ給ふ女房の召し使ひける上一上童 ( 屋代本 ) とも。院宮に召 0 し使われている少年・少女。ここ ほかりようがんしせき めのわらわ は女童である。 童、思はざる外竜顔に咫尺する事ありけり。ただよのつねのあからさまにても 語 ニ「思いのほか」と同じ。屋代本 物なくして、主上常は召されけり。まめやかに御心ざしふかかりければ、主の女「思外 = 」。思いがけなく。 家 三貴人に接近すること。↓一二 しゅう えうえい 平房も召し使はず、かへッて主の如くにぞいっきもてなしける。「そのかみ謡詠五注実。 四かりそめ ( ほんの一時 ) のこと ひいさん なん きくわん にいへる事あり。女をうんでも悲酸する事なかれ。男をうんでも喜歓する事なでもなくて。 五真実に。まじめに。 きさき ぢよひ かれ。男は侯にだも封ぜられず。女は妃たり」とて后にたっといへり。「この人六大切に待遇した。 ソノカミエイヤゥニ リイへルコト セ元和版「当時謡詠有レ云。 によう′ ) きさき こくもせんゐん ウムデモラナカレキグワンスルコトテモヲナカレヒ 女御后とももてなされ、国母仙院ともあふがれなんず。めでたかりけるさいは生レ男勿 = 喜歓→生レ女勿 = 悲 タリヒ サンスルコト ハレスホウゼカウニタモハ 酸→男是不レ封レ侯。女為レ妃」。 あふひのまへ 「当時謡詠ニ云ヘル事有リ。女ヲ ひかな」とて其名をば葵前 る生ミテモ悲酸スルコト勿レ、男ヲ ない / 、あふひにようご ま生ミテモ喜歓スルコト勿レト。又 といひければ、内々は葵女御 云フ、男ハ侯ニダモ封ゼラレズ、 なンどぞささやきける。主上 女ハ妃トナルト」 ( 白氏文集・長恨 歌伝 ) 。「長恨歌伝」の引用である そののち 殿が、「そのかみ・ : あり」を地の文と 是をきこしめして、其後は召 はすることもできる。また「そのか おんこころ 皇 み」から「めでたかりけるさいはひ されざりけり。御心ざしのつ 天 かな」まで、ことばだとする解も 退ある。そのほうがよいかもしれな きぬるにはあらず、ただ世の を 前 葵 〈「ひさん」の訛。悲しみいたむ そしりをはばからせ給ふによ なんこう ぢよ 。ド勹ツレ 、響ク - っ 四 しゅう しゃう
らうをう・ いつくしまだいみやうじん 臈にてましますやらん」と、ある老翁に問ひ奉れば、「厳島の大明神」とこた一年老い経験豊かな人。評定の 座などで指導的立場を占める長老。 しゆくらう ひごろ そののちぎしゃう へ給ふ。其後座上にけだかげなる宿老のましましけるが、「この日来平家の預ニ朝敵を討っために出発する将 軍に、しるしとして天皇から与え 語 づのくにるにんよりとも 物かりたりつる節刀をば、今は伊豆国の流人頼朝にたばうずるなり」と仰せられられる刀。 家 三源氏の守護神。 そののち そのおん なほ 四藤原氏の守護神。「春日大明 平ければ、其御そばに猶宿老のましましけるが、「其後はわが孫にもたび候へ」 神」の名をあげない本もある。 しだい たけしうちのすくね と仰せらるるといふ夢を見て、是を次第に問ひ奉る。「節刀を頼朝にたばうと五武内宿禰 ( たけのうちのすく ね ) 。記紀に見える廷臣。景行天 はちまんだいばさっそののち おほせられつるは、八幡大菩薩、其後はわが孫にもたび候へと仰せられつるは皇から仁徳天皇まで五朝にかけて 四 仕え、三百歳くらいの長寿を保つ たけうちだいみやうじん かすがのだいみやうじん たとされる。石清水八幡宮の末社、 春日大明神、かう申す老翁は、武内の大明神」と仰せらるるといふ夢を見て、 高良神社に祭られる。 がらいの げんだいふはうぐわんすゑさだ にふだうしゃうこく これを人にかたる程に、入道相国もれきいて、源大夫判官季貞をもッて、雅頼六巻一一「少将乞請」 ( ↓田一一八 ハー注一 ) にも出る清盛の家来。屋代 これ きゃう ゅめみせいし 本「摂津判官盛澄」、延慶本「行隆」、 卿のもとへ、「夢見の青侍、いそぎ是へたべ」と宣ひっかはされたりければ、 長門本「越中次郎兵衛盛次」、とあ ちくでん がらいのきゃう り、元和版には人名が無い かの夢見たる青侍、やがて逐電してんげり。雅頼卿いそぎ入道相国のもとへゅ セ「それに・ : ふしぎなれ」の一文 は屋代本に無く、覚一本系でも、 きむかッて、「まッたくさること候はず」と、陳じ申されければ、其後さたも 竜大本・西教寺本には無い。後補 きよもり物一う じんばい あきのかみ なかりけり。それにふしぎなりし事には、清盛公いまだ安芸守たりし時、神拝のものとも考えられている。 ^ 以下の小長刀のことは巻一 しろかねひる れいむ いつくしまだいみやうじん ついで の次に、霊夢をかうぶ , て、厳島の大明神よりう 00 に給はれたりし、銀の蛭「教訓状」 ( 田一 = 一九行 ) と類 し、巻三「大塔建立」 ( 田一九三ー にはか まき こなぎなた 巻したる小長刀、常の枕をはなたずたてられたりしが、ある夜俄にうせにける四行 ) にも見える。 せっと せっと
5 凡例 凡例 一、本書の底本には、東京大学国語研究室所蔵の『平家物語』 ( 旧高野辰之所蔵。通称高野本、覚一別本 ) を用 まなあった やしろ げんな 、覚一系の諸本および元和七年 (一六 lll) 板本 ( 元和版 ) 、屋代本、真字熱田本などを参照した。本巻には、 巻第四から巻第六までを収めた。巻第七以下は、本書の第三冊 ~ 第四冊に収める。 さしえ 一、本文中の挿絵は、明暦二年 ( 一六契 ) 板本に収められたものの一部である。 一、本文は、読みやすいようにと考え、つぎのような操作を行った。 1 目録・章段 イ底本では、それぞれの巻頭に目録を掲げているが、本文中には特に章段を設けず、該当箇所の行頭 右脇に章段名 ( 目録と表記などの異なるものがある ) を補入する体裁をとっている。本書では一貫して、 本文中に補入された章段名によって、章段を区切った。 句読点・段落 イ句読点は、底本にある朱点を尊重しながら、本文の語調を生かしつつ、適宜に施した。 ロ段落も、本文理解のために適当と考える箇所に、新たに設けた。現代語訳の段落は、本文に準じて 設けた。 3 会話・心中思惟 かくいち
平家物語 94 だい / 、 一三十度以上、四十度に達した。 このかた、代々の帝王、都を他国他所へうっさるる事、卅度にあまり四十度に 実際には四十度以上。 けいかうてんわう ニはじめ大和国纏向宮に居り、 及べり。神武天皇より景行天皇まで十二代は、大和国こほりみ、に都をたて、 のち近江国志賀の高穴穂宮に移る あふみのくに しが せいむてんわう 他国へはつひにうっされず。しかるを成務天皇元年に、近江国にうつッて志賀 ( 書紀 ) 。 四 三成務天皇は景行天皇の居た高 とよらのこほり ちゅうあいてんわう の郡に都をたつ。仲哀天皇二年に、長門国にうつッて、豊浦郡に都をたつ。其穴穂宮で即位か。『古事記』には景 行天皇の近江還幸は無い。 じんぐうくわうごうおんよ かのみやこ みかど くまそ 国の彼都にて、御門かくれさせ給ひしかば、きさき神功皇后御世をうけとらせ四熊襲を討っために遠征、長門 六 国 ( 山口県 ) 豊浦の津に泊り、豊浦 かうらい けいたん によたい 給ひ、女帝として、鬼界、高麗、荊旦までせめしたがヘさせ給ひけり。異国の宮に住む ( 書紀 ) 。 五九州南方の諸島。薩南諸島。 ごたんじゃう ちくぜんのくにみかさのこほり いくさをしづめさせ給ひて、帰朝の後、筑前国三笠郡にして、皇子御誕生、其六朝鮮半島にあった国。 七契丹 ( 屋代本・元和版など ) 。 所をばうみの宮とぞ申したる。かけまくもかたじけなく、八幡の御事これなり。高麗の西北方にいた部族。のち中 りよう 国東北部を中心に建国、遼と号し そののちじんぐうくわうごう おうじんてんわう た。鬼界・高麗・契丹は、日本周 位につかせ給ひては、応神天皇とぞ申しける。其後神功皇后は、大和国にうつ 辺の外国をいう際に用いる慣用句。 おなじきくにかるしまあかり いはねわかぎくら ッて、岩根稚桜のみやにおはします。応神天皇は、同国軽島明の宮に住ませ ^ 福岡県粕屋郡の辺。 うみのみや 九産宮。粕屋郡宇美町の辺。 りちゅうてん たかっ にんとくてんわう いわれ 給ふ。仁徳天皇元年に、津国難波にうつッて、高津の宮におはします。履中天一 0 『日本書紀』に磐余に都したと あり、注に若桜の宮というとある。 とをち はんせいてんわう 皇二年に、大和国にうつッて、十市の郡に都をたつ。反正天皇元年に、河内国磐余は奈良県桜井市の辺。 = 奈良県橿原市大軽の軽寺。 . しばがき いんぎようてんわう たかいち 三飛鳥宮。高市郡明日香村。 にうつッて、柴垣の宮に住ませ給ふ。允恭天皇四十二年に、又大和国にうつッ 一三宮をこしらえて住むこと。 はっせあさくらみやゐ ゅうりやくてんわう て、飛鳥のあすかの宮におはします。雄略天皇廿一年に、同国泊瀬朝倉に宮居一四元和版・正節本オトグン。山 わう とぶとり一 きかい つのくになには きてう ながとのくに やはた
さいしょ とうこんだう こうぶくじたんかいこうごぐわんとうじるいたいてら 興福寺は淡海公の御願、藤氏累代の寺なり。東金堂におはします仏法最初の一六烏瑟沙の略。仏の頭頂にあ る隆起。「烏瑟高く顕れて晴天の しめんらう しやかざうさいこんだう じねんゅじゅっくわんぜおんるり 釈迦の像、西金堂におはします自然涌出の観世音、瑠璃をならべし四面の廊、翠濃く、白毫右に旋りて秋月の光 満つ」 ( 往生要集上・大文第一 I)O けぶり たふ しゆたん にかいろうくりん 朱丹をまじへし二階の楼、九輪そらにかかやきし二基の塔、たちまちに煙とな宅仏の眉間にある白い巻毛。 たと 一 ^ 欠ける事なき仏の姿を譬える。 じゃうぎいふめつじつほうじゃくくわうしゃうじんおんほとけ るこそかなしけれ。東大寺は常在不滅実報寂光の生身の御仏とおばしめしな一九熱ですべてが溶解するをいう。 ニ 0 顔かたち。仏の容貌を相・好 こんどう一四ぢゃうるしゃ しゃうむくわうてい ずらへて、聖武皇帝、手づから身づからみがきたて給ひし、金銅十六丈の盧遮により表す。 三五逆重罪を雲にたとえる。 はんでん なぶつうしつ びやくがうあらた オホレ おば 一三屋代本「朧」。「朧る」は、おば 那仏、烏瑟たかくあらはれて、半天の雲にかくれ、白毫新にをがまれ給ひし、 ろになる、霞む、ばんやりする意。 まんぐわっそんよう ごしん一九 満月の尊容も、御くしは焼けおちて大地にあり。御身はわきあひて山のごとし。ニ三菩薩修行による階位。四十一 ニ 0 階ある。瓔珞は珠玉や貴金属を編 ごぢゅう さうがう 八万四千の相好は、秋の月はやく五重の雲におばれ、四十一地の瓔珞は、夜のんだ装身具で、菩薩の階位を表す。 もう ) 一 ・ゅ・つレ」、フ ニ四 ニ四殺生・偸盗・邪婬・妄語・両 じふあく けぶりちゅうてん しんい あっく 星むなしく十悪の風にただよふ。煙は中天にみち / 、、ほのほは虚空にひまも舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・邪 見の十悪。 上なし。まのあたりに見奉る者、さらにまなこをあてず。はるかにったへきく人 = = 法相宗を興福寺、三論宗を東 ニ六 炎 大寺に伝えていたので、こういう。 ほっさうさんろんほふもんしゃうげう 奈は、肝たましひをうしなへり。法相、三論の法門聖教すべて一巻のこらず。我 = 六屋代本「法文」がよいか。 毛中インド拘談弥国の王。赤栴 てんぢくしんだん うでん 第朝はいふに及ばず、天竺震旦にも、これ程の法滅あるべしともおばえず。優填檀 ( 香木 ) で仏像を刻んだという。 ニ九 夭精美な黄金。閻浮檀金とも。 とうじんおんほとけ だいわうしまごん びしゆかつま しやくせんだん 大王の紫磨金をみがき、毘須羯磨が赤栴檀をきざんじも、わづかに等身の御仏磨いたのは正しくは毘須羯磨。 三 0 堯毘首羯磨。諸天の一。 なんえんぶだい きうそんご ゆいいちぶさうおんほとけ なり。況哉これは、南閻浮提のうちには、唯一無双の御仏、ながく朽損の期あ三 0 閻浮提。人間世界。 きも いはんや み とうだいじ だいぢ ほふめつ ぢゃうらく くわん ニ七
( 現代語訳一一六九ハー ) 物語』『十訓抄』にも、実定が恋人 物かはと君がいひけん鳥のねのけさしもなどかかなしかるらん 小侍従のもとから暁に帰る時の逸 話として載るが、場所は大宮御所 女房涙をおさへて、 ではない。なお、これらには小侍 従の返歌は無い。 またばこそふけゆく鐘も物ならめあかぬわかれの鳥の音ぞうき セ問題になる、つらいものとな る意。屋代本・延慶本・元和版な 蔵人かへり参ッて、このよし申したりければ、「さればこそなんぢをばっかは ど「つらからめ」。 くらんど だいしゃう ^ しつれ」とて、大将大きに感ぜられけり。それよりしてこそ物かはの蔵人とは ^ 四部合戦状本に「美濃国ニ家 領不日賜、于レ今子孫相伝トソ承 ル」、長門本に「津の国なるしきの いはれけれ。 庄」を給うた、とある。 九『今物語』『十訓抄』、四部合 戦状本・長門本などには「やさの 蔵人」とよばれた、とある。 0 ・・都遷」で平氏の悪行を非難し平 安京への愛着を記した作者は「月 見」で都への郷愁と公家の風流を 描く。実定上京がそれだが、終りに 之 蔵人・小侍従の歌の贈答があって、 ふくはら 物福原へ都をうっされて後、平家の人々夢見もあしう、常は心さわぎのみして、みやびの情緒がよく示されている。 一 0 一間は柱と柱の間の長さ。こ へんげ にふだう ひとま こは一間四方の室。 第変化の物どもおほかりけり。ある夜入道のふし給へるところに、一間にはばか 巻 = 満ちふさがる。いつばいにひ にふだうしゃうこく ろがる。 る程の物の面いできて、のぞき奉る。入道相国ちッともさわがず、ちゃうどに 三強くにらむさま。はたと。は ったと。 らまへておはしければ、ただぎえに消えうせぬ。岡の御所と申すは、あたらし もつけのさた 物怪之沙汰 おもて