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検索対象: 完訳日本の古典 第43巻 平家物語(二)
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1. 完訳日本の古典 第43巻 平家物語(二)

登殿最期 ) 」「弓流し」「一ノ谷の戦 ( 巻九・敦盛最期 ) 」など を読んだ記憶があるところをみると、戦前の教科書はずい 分『平家物語』を採り入れていたのだろうか。それにして も、その多くは義経が主役であったから、私も御多分にも ほうがん れず「判官びいき」に育ってしまった。 かたき ・昭和年 6 月日子どもの英雄義経をいじめるにつくき敵役は兄の頼朝 今回はその頼朝ゆかりの地を訪ねてみた。 『平家物語』巻五「早馬」の段には、治承四年 ( 一一合 ) 八 伊豆の頼朝ー古典文学散歩ー おおばかげちか 月十七日、頼朝が挙兵し、それを大庭景親が打ち破ったと いう報が、福原の新都に在った清盛のもとに届くところが 尾崎左永子 ある。 いづのくにのるにんうひやうゑのすけよりとも ほうでうしらうときまさ 私が最初に古典の原文に接したのは、ト / 学校四年生のと 伊豆国流人右兵衛佐頼朝、しうと北条四郎時政をつか たち もくだい いづみのはうぐわんかねたか やまき き、国語の教科書にのっていた『平家物語』であった。忘 はして、伊豆の目代、和泉判官兼隆を、山木が館で れもしない「扇の的 ( 巻十一・那須与一 ) 」と「ひょどり越 夜討ちに討ち候ひぬ : さかおとし え ( 巻九・坂落 ) 」。はじめての文語体なのにすらすらと読もちろん頼朝はむやみに挙兵したわけではなく、同年四 げんぎんみよりまさ もちひとおう めて、大いに満足感があった。考えてみれば、当時は日常月源三位頼政の後援で平氏打倒をこころみた以仁王の、平 り・よ - つじ 語も旧カナで書いたので、子どもでもほとんど抵抗なく古家追討の令旨をうけてのことだといわれる ( 吾妻鏡 ) 。しか もんがくしトでつ・にん 文を読めたわけである。現代の高校生が古文に悪戦苦闘しし『平家物語』では、文覚上人の勧めで挙兵したことにな ているのをみるにつけても、たいそう幸せな古典への出発っていて、文覚はそのために福原を往復して後白河法皇の であったと思う。 院宣をもたらしたという。文覚とは、芥川龍之介の『袈裟 くりからおと もりとお その後も「倶梨迦羅落し ( 巻七 ) 」「八艘飛び ( 巻十一・能と盛遠』の盛遠である。十九歳で出家した荒法師であるが、 第巻 日本の古典 月報円 0 0

2. 完訳日本の古典 第43巻 平家物語(二)

* 他に定期観光バス三島ー中伊豆名所コースー修善寺 4 殊に御感心になったと記されているから、鎌倉時代の末に 時間半毎日運行。 は、高貴な人々も関心を持つほどに広まっていたことが推 すうせい ・味 測される。そういう趨勢を受けて、南北朝以後には、日 食事 記・記録の類に、平家を語ったという記事がしばしば出て 江川邸近くのドライプイン「代官屋敷でうなぎ・そばな どを食べさせてくれる。修善寺に足をのばせば鮎、山菜料来る。ただしこの時代の日記は、京都の公家か、京都・奈 理など。天城には猪鍋も多い 良・滋賀の寺院の僧侶の記したものが多く、地方の武家の 土産物 日記は一、二を数えるに過ぎないから、これを以て、社会 椎茸、甘酒、鮎、いちごジャム。 ・宿泊 全体の傾向を云々するわけにはいかないかもしれないが、 近くの韮山温泉のほか、修善寺・長岡・大仁など温泉の宝それでもおおよその動向は推察できるかと思う。なお前代 庫。奈古谷・畑毛にもひなびた温泉旅館がある。 までの公家の日記は、朝廷での諸行事を主としているもの が多かったが、この時代のそれには、宮中の事ばかりでな 5 、知人との交遊などの私事や市井の出来事を記しとめる 南北朝、室町時代の享受者たち のが、目立っている。 いんのごしょ これらの日記によると、琵琶法師らが宮中、院御所をは じめ、貴族の邸宅や寺院に参って平家を語った記事が散見 かんじんへいけ 市古貞次 するが、そのほかに「勧進平家」という語が、しばしば現 れて来る。「勧進」とは、社寺の建造・修理のために金銭 『平家物語』は鎌倉時代に作られた文学・芸能であるが、 もんがく などの寄付を募ることで、文覚が神護寺修造の大願を起し、 それが広く世間に流布したのは、南北朝以降であったよう に思われる。もっとも元亨元年 (lllllll) 四月、後伏見・花勧進帳を持ち歩いて寄付を勧めたことは巻五「勧進帳に ゆいしん 園両上皇が唯心という琵琶法師を呼び、平治・平家を女房見えているが、芸能を演じて勧進をする、いわゆる勧進興 こうわかまい たちと共に聞いたと『花園院宸記』にあり、後伏見上皇は行は、能や曲舞 ( 幸若舞 ) などでもしきりに行われていて、 くせまい

3. 完訳日本の古典 第43巻 平家物語(二)

平家物語 54 ぎたい しんばつつげ く我等が進発の告を待つべし。状を察して、疑殆をなす事なかれ。もッて牒一疑い恐れること。疑い危ぶむ ニ寂光院本・西教寺本・元和 版・正節本など、ここから「大衆 揃」とする。 三裏手。正節本カラメデ。 四京都に駐在して警備に当った 武士。在京武士。 五アワヤとよむ。驚いた時、事 の起ろうとする時などに発する語。 あれ。そりや。 六如意山の辺、近江路の坂であ ながのせんぎ ろう。 永僉議 セ京都市左京区。吉田山の東麓、 神楽岡の辺。 ^ 襲いかかる。突進する ( 天草 だいしゅ 三井寺には又大衆おこッて僉議す。「山門は心がはりしつ。南都はいまだ参版平家物語の赤入れ難語句解 ) 。 あるいは、引いては寄せ、引いて ようち ろくはら は寄せする意か。 らず。此事のびてはあしかりなん。いざや六波羅におし寄せて、夜打にせん。 九武装した僧。勇猛な僧。 ふたて みね からめて 其儀ならば、老少二手にわかッて、老僧どもは、如意が峰より、搦手にむかふ一 0 「もむ」は、激しくもみあい攻 め立てる意。「もうで」は、「もみ あしがる べし。足軽ども四五百人さきだて、白河の在家に火をかけて、焼きあげば、在て」の音便。 一一延慶本「一能房阿闍梨心海ト きゃうにん 京人、六波羅の武士、『あはや事いできたり』とて、はせむかはんずらん。其云者アリ。年来平家ノ祈師ニテ有 ケルガ : こ。 いはさかさくらもと ^ 時岩坂、桜本にひツかけひツかけ、しばしささへてたたかはんまに、大手は伊三同じ僧房に住む者。 ( 現代語訳一一四六ハー ) 治承四年五月廿一日 とぞ書いたりける。 す。 ぎいけ 大衆等 てつ 四 ぎい こと。

4. 完訳日本の古典 第43巻 平家物語(二)

平家物語 74 みやなら 平家の人々は、宮拜びに三位入道の一族、三井寺の衆徒、都合五百余人が頸、 ゅふペ 太刀、長刀のさきにつらぬき、たかくさしあげ、タに及ンで、六波羅へかへり 一恐ろしいなどといっても不十 その いる。兵者共いさみののしる事、おそろしなンどもおろかなり。其なかに源一一一分である。大変だなどといっても 十分ではない。言い尽せない。 くびちゃうじっとなふ 位入道の頸は、長七唱がとッて、宇治河のふかき所にしづめてンげれば、それ はみえざりけり。子共の頸は、あそこここよりみな尋ねいだされたり。なかに とし′、ろ おんくび 宮の御頸は、年来参りよる人もなければ、見知り参らせたる人もなし。先年典 わけのやすしげ ニ和気定成。貞相の子。典薬頭 ごれうぢ やくのかみさだなり 薬頭定成こそ御療治のために召されたりしかば、それぞ見知り参らせたるら ( 医薬のことをつかさどる典薬寮 の長官 ) 、侍医で文治四年 ( 一一八八 ) げんじよらう 没、六十六歳。 んとて、召されけれども、現所労とて参らず。宮の常に召されける女房とて、 三現在は病気であること。 四 四あれほど深く愛されて。 六波羅へ尋ねいだされたり。さしもあさからずおばしめされて、御子をうみ参 さいあい 。いかでかみそんじ奉るべき。只一目み参らせて、袖を らせ、最愛ありしかよ、 つはもの わかみやしゆっけ 若宮出家 おんこ そで くび てん

5. 完訳日本の古典 第43巻 平家物語(二)

てうか 九神への参拝。 こそふしぎなれ。平家日ごろは朝家の御かためにて、天下を守護せしかども、 一 0 「給はられたりし」の転訛、あ ちよくめい せっと るいは誤脱。 今は勅命にそむけば、節刀をも召しかへさるるにや、心ばそうそきこえし。 = 長刀の柄を銀で蛭の巻きつい かうや さいしゃうにふだうせいらい ゃう たように間をおいて巻いたもの なかにも高野におはしける、宰相入道成頼、か様の事共をつたへきいて、 = 一巻一一一「大塔建立」 ( 田一九一一一← よ いつくしまだいみやうじん かたうど 「すは平家の代は、やう / 、末になりぬるは。厳島の大明神の、平家の方人を三行 ) には「朝家の御まもり」とあ る。「かため」は、固く守ること。 ただ しやかつらりゅうわう ひめみや し給ひけるといふは、そのいはれあり。但しそれは、沙羯羅竜王の第三の姫宮一三藤原成頼。参議 ( 宰相 ) 。承安 四年 ( 一一七四 ) 出家。高野宰相入道と ぢよじん ・よりと - も はちまんだいばさっ なれば、女神とこそ承れ。八幡大菩薩の、節刀を頼朝にたばうと仰せられける号す。↓田二四四ハー注九。 一四↓田一六五ハー注一五。 ことわり かすがのだいみやうじん そののち かまたり は理なり。春日大明神の、『其後はわが孫にもたび候へ』と仰せられけるこそ一五藤原鎌足。藤原氏の祖。 一六摂政・関白を出す家。 たいしよくわん しつべいけ 心えね。それも平家ほろび、源氏の世つきなん後、大織冠の御末、執柄家の君宅ちょうどその時。 天和光は、仏が智徳の光を和げ だち てんか あるそう一セ 達の、天下の将軍になり給ふべき歟」なンどぞ宣ひける。又或僧のをりふし来隠して衆生を救うためこの世に現 れること。垂跡 ( 迹 ) は、仏が仮に それしんめいわくわうすいしやくはうべん たりけるが申しけるは、「夫神明は和光垂跡の方便まち / 、にましませば、或神となって姿を現すこと。神は仏 之 が衆生を救うために神として現れ ぞくたい ぢよじん いつくしまだいみやうじんぢよじん たもので、そのための便宜的な手 物時は俗体とも現じ、或時は女神ともなり給ふ。誠に厳島の大明神は、女神とは 段はさまざまだから、の意。 一九みやうつうれいしん 第申しながら、三明六通の霊神にてましませば、俗体に現じ給はんもかたかる一九明は智。三明は、過去・現在 巻 ・未来の相を知る智恵。六通はこ いとま・一と べきにあらず」とぞ申しける。うき世を厭ひ実の道に入りぬれば、ひとへに後れに天耳通 ( 自在に衆生の声を知 る通カ ) など三通を加えたもの。 1 せばだいほか うれへ 世菩提の外は、世のいとなみあるまじき事なれども、善政をきいては感じ、愁通は通カ・神通力。 か せっと ぜんせい てんか きん やわら

6. 完訳日本の古典 第43巻 平家物語(二)

室町時代の一つの流行であった。入場料を徴収して、その時間の制約があって、一夜に一句乃至五句を語ったように 中のいくらかを、その社寺に差し出したのであろうが、詳思われる。平曲では、章段を句と呼んでいたのである。 しいことは分らない。とにかくこのように一般の大衆を集『平家物語』の諸本の中に百二十句本と呼ばれる伝本があ めて催された「勧進平家」の記事を拾い出してみると、矢るが、十二巻の各巻を十句 ( 十章 ) に分けて、全百二十句 田地蔵堂・恩徳寺・五条高倉薬師堂・四条坊門大宮の大より成っている ( 八坂流の本で「古典文庫」に複製され、「新潮 堂・峨 ( 釈迦堂か ) ・土御門妙楽寺・仁和寺・誓願寺・一 日本古典集成」はこれを翻刻している ) 。室町時代にも、この 条堀川浄菩提寺などで、それが行われていた。 ような句を単位として語ったものらしい また勧進とは記されていないが、寺で説教があった後に、前述の勧進興行の際は数日間連続して行ったことが多く、 平家が語られたこともあったらしい。中原師守は、貞和一一一十七日間、十一日間など語った記録が残っているが、こう 年 ( 一三四セ ) 二月、矢田地蔵堂に赴き、「説法井覚一平家」を いう時にはかなりの句数に上ったことが推測される。文安 聴聞しているし、山科家の家司大沢久守は、文明四年 ( 高元年 ( 一ミ ) には誓願寺で、珍一・重一が四月三日から五 八月、近江の今津の堂で談義を聞き、次いで平家を聞月五日まで勧進平家を行っており、中原康富は四月七日と いている。これらも大勢の聞き手があったに相違ない。ま最終の五月五日に聞いているが、五日条に「勧進一部今日 た貞治二年 ( 一三六三 ) 二月、中原師茂は師守を同伴して北野終」とあるので、三十余日で平家の全部を語り終えたので 神社に参り、覚一及び弟子行一・明一らの平家を聞いてい あろう。また文明二年 ( 一四七 0) にはト一が京都に六十日間 る。「社僧座北、南面着座」とあって、師茂らの座席は南滞在し、将軍家で二十一か度にわたって平家一部を語った 側だったらしいが、その他の聴衆が庭に居たのであろう。 旨を、奈良に下ったト一が話している ( 大乗院寺社雑事記 ) 。 ところで平曲者たちは、『平家物語』のどういうところ応仁の乱の余既がなおくすぶる中で、琵琶法師の平曲に義 を語ったのか。「平家有り」「平家を語る」というふうな簡政が耳を傾けていたのは、驚くべきことといわなければな 単な記載にとどまるものが多い。「一句を語る」「両三句をらない。 語る」など句数を加えたものが若干見られるが、実際には、次に具体的にどの句を語ったか、どんな章段が好まれて

7. 完訳日本の古典 第43巻 平家物語(二)

豆守を大将軍にて、悪僧ども六波羅におし寄せ、風うへに火かけ、一もみもう一三「義」と同じ。義理。延慶本 「争我寺ノ名ヲモ惜ミ衆徒ノ威ヲ モ思ハデ侍ル・ヘキ」とある。 でせめんに、などか太政入道、焼きだいてうたざるべき」とぞ僉議しける。 一四「昔より源平両家左右の翅に その いちによばうあじゃりしんかいでしどうじゅくすじふにん て、共に朝家の御まばり也」 ( 金刀 其なかに平家のいのりしける、一如房の阿闍梨真海、弟子、同宿数十人ひき 比羅本保元物語中 ) 。 かたうど 具し、僉議の庭にすすみいでて申しけるは、「かう申せば、平家の方人とやお一五内々に ( こっそり ) 見た平氏の 館の様子も。あるいは館の内部 ばしめされ候らん。たとひさも候へ、いかンが衆徒の儀をもやぶり、我寺の名 ( 実際 ) の様子か。 一六元和版・延慶本などキャウシ さう ウとよむ。 をも惜しまでは候べき。昔は源平左右にあらそひて、朝家の御まばりたりしか つば 宅打ち合いするために用いる鍔 ・よ てんか ども、ちかごろは源氏の運かたぶき、平家世をとッて、廿余年、天下になびかのついた長い刀。 え 天白木のままで塗っていない柄。 ない / 、たちありさま 一九小勢で勝っことができる、そ ぬ草木も候はず。内々の館の有様も、小勢にてはたやすうせめおとしがたし。 の証拠 ( 例証 ) を他にひくまでもな こと さればよく / 、外にはかり事をめぐらして勢をもよほし、後に寄せさせ給ふ 一一 0 園城寺建立の願を立てた人。 ほど 実際は大友与多が、父弘文天皇 べうや候らん」と、程をのばさんがために、なが / 、とぞ僉議したる。 ( 大友皇子 ) の遺言により、天武天 議 じようゑんばうあじゃりけいしう 僉ここに乗円房の阿闍梨慶秀といふ老僧あり。衣のしたに腹巻を着、大きなる皇の許可を得て勅願寺としたもの。 ↓八六ハー一二行。 うちがたな ほふしがしら しらえおほなぎなたっゑ おおあ 四打刀、まへだれにさし、法師頭つつむで、白柄の大長刀杖につき、僉議の庭に三天智天皇十年 ( 六七 l) 十月大海 まのみこ 人皇子 ( 天武天皇 ) は吉野に引退。 ま、 し・よう - 一 すすみいでて申しけるは、「証拠を外にひくべからず。我寺の本願、天武天皇以下、弘文天皇が即位したが、翌 じん 年六月大海人皇子が挙兵する、壬 しん は、いまだ東宮の御時、大友の皇子にはばからせ給ひて、吉野のおくをいでさ申の乱を記している。 くさき ま、 ころも かざ ひと

8. 完訳日本の古典 第43巻 平家物語(二)

かねつな ひたたれ からあやおどしよろい 夫判官兼綱は、紺地の錦の直垂の上に、唐綾縅の鎧を着て、 、涙をはらはらと流して、「とてもお首を討てるとも思 しらあしげ ちょう 白葦毛の馬に乗り、父を逃げのびさせようと、立ち返ってわれません。ご自害なさいましたら、その後にはお首を頂 かずさの 、立ち返っては戦い、 防ぎ戦う。上総太郎判官が射戴しましよう」と申したので、「なるほどもっともだ」と 語 うちかぶと なむあみだぶつ 物た矢で、兼綱は内甲を射られてひるむところに、上総守の 言って、西に向い、高らかに南無阿弥陀仏と十遍唱え、最 わらわ 家 召し使う童、次郎丸という剛の者が、馬を押し並べて引っ 後の詞があわれである。 平 むもれ 組んで、どしんと馬から落ちた。源大夫判官は内甲の射ら 埋木の花さく事もなかりしに身のなるはてそかなしか りける れた所も重傷だが、評判の大力だったので、童を取り押え て、首を取り、立ち上がろうとするところに、平家の兵士 ( 自分の一生は埋木の花の咲くこともないように、世に埋も れて栄華に時めくこともなかったのに、今こうして哀れな最 ども十四、五騎がひしひしと折り重なって、とうとう兼綱 を討ってしまった。伊豆守仲綱も、重傷をたくさん受け、 期をとげる、わが身のなれの果てはまことに悲しいことだ ) つりどの しもこみ・べ 平等院の釣殿で、自害する。その首を、下河辺の藤三郎清これを最後の詞として、太刀の先を腹に突き立て、うつむ おおゆか 親が取って、大床の下へ投げ入れた。六条蔵人仲家、その きざまに貫かれて亡くなられた。そういう時に歌を詠める なかみつ 子蔵人太郎仲光も、さんざんに戦って、分捕りをたくさん はずはなかったが、若い時からひたすら好んだ道なので、 して、とうとう討死にしてしまった。この仲家というのは、最期の時も歌をお忘れにならなかったのである。その首を たてわきのせんじようよしかたちゃくし 故帯刀先生義賢の嫡子である。父に死なれて孤児だった 唱が取って、泣く泣く石にくくりつけ、敵の中をこっそり のを、三位入道が養子にしてかわいがっておられたが、常抜け出して、宇治川の深い所に沈めてしまった。 日頃約束していたとおりに同じ場所で死んでしまったのは、 競の滝口を、平家の侍どもは、なんとしてでも生捕りに まことに痛ましいことであった。 しようとうかがったが、競のほうでも先に、い得ていて、さ ちょうじっとなう 三位入道は、渡辺長七唱を呼んで、「私の首を討て」とんざんに戦い、致命傷を負って、腹をかき切って死んでし 言われたところ、唱は主人の生き首を討っことを悲しく思 まった。円満院の大輔源覚は、もう今は高倉宮もはるか遠 きおう げんかく

9. 完訳日本の古典 第43巻 平家物語(二)

平家物語 70 うちかぶと わらは だいぢから 内甲もいた手なれども、きこゆる大力なりければ、童をとッておさへて頸をか一隙間なく。ゆるみなく。びつ しり・と。 つはもの き、立ちあがらんとするところに、平家の兵者ども十四五騎、ひし / 、とおち = 寝殿造の東西の廊の南端にあ る泉水に臨む建物。平等院の釣殿 は、宇治川に臨んで建てられてい かさなツて、つひに兼綱をばうッてンげり。伊豆守仲綱も、いた手あまたおひ、 た ) い , つ。 とうギ一ぶらうきょちか おほゆか くび しもか、つべ つりどの 平等院の釣殿にて自害す。その頸をば、下河辺の藤三郎清親とッて、大床のし三本姓藤原。藤原秀郷の子孫、 小山氏の一族で関東に住した。 くらんどのたらうなかみつ ろくでうのくらんどなかいへ たへそ投げ入れける。六条蔵人仲家、其子蔵人太郎仲光も、さんみ、にたたか四底本振りがな「ヤウシ」。正節 本「ヤウジ」によったが、日葡辞書 こたてはきせん つひうちじに ひ、分どりあまたして、遂に打死してンげり。この仲家と申すは、故帯刀の先・ロ氏文典によれば清濁両様にし 四 ったらしい ゃうじ ふびん じゃうよしかたちゃくし 生義賢が嫡子なり。みなし子にてありしを、三位入道養子にして、不便にし五「つかまつりつ」の転。討っこ とをする、の意。 ひごろちぎりへん 六「げにも」と同じ。なるほど。 給ひしが、日来の契を変ぜず、一所にて死ににけるこそむざんなれ。 その通りだ。 しゅう くび わたなべのちゃうじっとなふ 三位入道は、渡辺長七唱を召して、「わが頸うて」と宣ひければ、主のいけセ十ペんの念仏。念仏は「南無 阿弥陀仏」と唱えること。 つかま くびうたん事のかなしさに、涙をはら / 、とながいて、「仕ッっともおばえ候 ^ 長い間、地中に埋まっていて 半分炭化した木。世間から見捨て そののち られて、誰にも認められない境遇 はず。御自害候はば、其後こそ給はり候はめーと申しければ、「まことにも」 などをたとえていうことが多い かうしゃうセ 九花が咲くように栄華な境遇に とて西にむかひ高声に十念となへ、最後の詞そあはれなる。 なること。出世すること。 むもれぎ九 一 0 わが身のなれの果て。最期。 埋木の花さく事もなかりしに身のなるはてそかなしかりける な 「実が生る」をかける。花と実とは これを最後の詞にて、太刀のさきを腹につきたて、うつぶさまにつらぬかッて縁語。 ぶん で はら で くび

10. 完訳日本の古典 第43巻 平家物語(二)

平家物語二 平家物語二 日本の古典 小学館 定価 1 , 5 圓円 I S B N 4-0 9 - 5 5 6 0 4 5 - 6 C 1 5 9 5 \ 1 5 0 0 E