厳島御幸治承四年 ( 一一合 ) 二月、高倉天皇は三歳の安徳天皇に譲位、外戚の平氏の勢威は絶頂に達した。三月、新院は法 いつくしま 皇に不満な清盛の心を和らげるため、厳島参詣を思い立ち、出発に際して法皇に面会する。 還御厳島参詣を終え、帰途風流の遊興もあって福原を経て帰京。四月、新帝は紫宸殿で即位、異例の事との声が多かった。 源氏揃当時、法皇の第一一皇子で不遇であった高倉宮に対し、頼政は諸国の源氏を列挙し平氏討滅の旗揚げを勧める。宮も たんぞう 決意し、新宮の行家に命じ令旨を頼朝に伝えさせる。熊野別当湛増がこれを知り、那智・新宮の勢に戦を挑むが大敗する。 いたち 鼬之沙汰五月十二日、鳥羽殿で鼬が騒いだので、法皇は陰陽頭安倍泰親に占わせたところ、三日以内に吉事と凶事とがあ るという。宗盛のとりなしで、清盛もようやく法皇の幽閉を解く。湛増から高倉宮謀反の報が届いた。 信連高倉宮は頼政の急報により三井寺へ逃れる。あとに残った長兵衛尉信連が、追捕に来た平氏の軍を相手に奮戦する。 競頼政の謀反は、宗盛が頼政の子仲綱の愛馬を奪い仲綱を侮辱したからである。五月十六日夜、頼政一族が三井寺に赴い きおう た際、一人遅れた家来の渡辺競は宗盛に仕えると見せかけ、彼の愛馬をだまし取って三井寺に参じ、仲綱の恨みをはらす。 ちょう 2 レト - う・ 山門牒状三井寺では大衆が清盛を討っことを決め、同じ天台宗の山門 ( 延暦寺 ) に協力を求める牒状を送った。 南都牒状山門では清盛の買収もあって同調しない。三井寺は興福寺へも牒状を送り、同寺からは同心の返牒が届く。 永僉議三井寺では夜のうちに清盛邸を攻める計画をたてたが、平氏に内通する真海阿闍梨がわざと議論を引きのばした。 からめて 大衆揃三井寺の大衆と源氏の武士とが大手・搦手に分れて出発したが、夜が明け放れたため夜討は中止となった。高倉宮 は、愛用の笛を金堂に奉納して興福寺へ移ろうとする。慶秀という老僧が別れを惜しむ。 たじま 橋合戦源氏方は、宮を宇治の平等院で休ませ、追って来た平氏の大軍と川を挟んで激しく戦う。矢切の但馬、筒井の浄妙 明秀、一来法師などのめざましい活躍があったが、平氏は足利又太郎忠綱の指揮で川を渡る。 宮御最期平等院へ攻め入った平氏と乱戦。頼政は宮を逃して自害、一族も討死。宮は奈良への途中、平氏に討たれる。 若宮出家戦死者の首実検がある。高倉宮の若宮 ( 生母三位局 ) は清盛邸へ連れられたが、宗盛の計らいで法師となった。 通乗之沙汰奈良にいた他の若宮は出家して北国へ下向、後に義仲が皇位に即けようとする。高倉宮謀反は少納言伊長が帝 王の相ありと告げた故だが、彼の誤りで、才学すぐれた皇子でも即位しない例は多い。以後平氏は思うままに賞を行う。 頼政は歌と弓の名人で、近衛・一一条両帝を脅かす怪鳥を二度も退治し、しかも巧みに連歌を返して名を挙げた。 三井寺炎上平氏は三井寺を焼き払い、僧たちを処罰した。こうした騒乱は平氏の世も末に近づいた前兆かと噂された。
都遷治承四年 ( 一一〈 0 ) 六月 = 日、福原へ遷都。法皇は再び福原で監禁される。神武天皇以来遷都の例は多いが、特にすぐ れた都の平安京を、清盛が遷したのは、恐ろしいことであった。人心の動揺は甚だしい。 月見秋、各地で月見が行われたが、′ 徳大寺実定は旧都の近衛河原の大宮 ( 二代后 ) を訪ね、今様を謡い一夜を過す。帰り がけに、供の蔵人と大宮に仕える、待っ宵の小侍従との間に和歌の贈答がある。 物怪之沙汰新都では不吉な怪異があれこれと起る。また源雅頼に仕える青侍は、政権が平氏から源頼朝に移り、さらに藤 原氏へ移ることを暗示する、神々の会議の夢を見る。出家して高野山にいた成頼はこの夢に解説を加える。 早馬九月一一日相模の大庭景親から早馬が到着、八月十七日伊豆の頼朝の旗揚げ、石橋山合戦の敗北を報じた。清盛は激怒。 朝敵揃古来朝敵で成功した例はない。昔は皇威も顕著で醍醐帝の時、鷺が勅命に従い飛び立たぬこともあったほどである。 とら たん 咸陽宮外国の例では燕の太子丹の故事がある。丹は秦の始皇帝に囚われたが、奇跡により帰国できたのち、始皇帝暗殺を しんぶよう 謀った。軻と秦舞陽が刺客として秦に赴いたが、失敗した。「頼朝もこれと同じ運命になろう」という者もあった。 文覚荒行頼朝の謀反は文覚の勧めによる。文覚は俗名遠藤盛遠、出家後那智で不動の加護を得、荒行を重ねた験者である。 勧進帳文覚は帰京後、高雄山に入り神護寺修造を思い立ち勧進をして歩いた。ある日院御所に侵入、勧進帳を読み上げた。 文覚被流文覚は入獄したが、ほどなく大赦で許された。しかし不穏なことを言い散らすので再び捕えられ、伊豆国へ流さ れた。途中、賄賂を要求した護送役人を煙に巻いたり、暴風雨に遭って竜王を叱りつけたりする。 福原院宣伊豆の文覚は頼朝に父義朝の髑髏を見せ、福原から平氏追討の院宣を受け示したので、頼朝も挙兵を決意する。 富士川九月十八日維盛・忠度ら三万余騎が出発。忠度は日頃通う女房を訪ね、歌を詠む。一一十一一日高倉院厳島参詣。維盛 おじけ らは富士川に到着。斎藤実盛に敵状を尋ね、その剛勇に怖気づいた平氏は合戦の前夜、水鳥の羽音を敵軍来襲と信じ逃亡。 五節之沙汰翌朝源氏が対陣すると平氏は一兵もなく、笑い物となる。清盛は激怒したが、維盛は処罰どころか恩賞に預か る。昔将門の乱で藤原忠文・清原滋藤が出征した際は、リ 至着前に平定のため勧賞がなかった十一月十三日新内裏完成。 都帰今度の遷都は非難の声が多かったので、清盛も十二月二日、都帰りをすることにした。この遷都は南都・北嶺の圧力 を避けるためだったという。十二月二十三日、知盛・忠度らの軍勢が出発、近江源氏を攻め落した。 奈良炎上高倉宮の事件以来、奈良の僧徒らの反抗が絶えず、ついに清盛は重衡を大将軍として攻めさせ、僧兵は大敗する。 夜、平氏の放った火に大仏は焼け落ち、焼死者もおびただしい数に上った。天下の衰微する前兆であろう。 どくろ
- もり 盛今度のいくさに命いきて、ふたたび都へ参るべしとも覚え候はず」と申しけ一延慶本・長門本は、実盛がこ -4 -4 こで千騎を引き連れて帰京したと つはものども する。また平氏が、頼朝の遣わし れば、平家の兵共これをきいて、みなふるひわななきあへり。 た使者を切り捨てたと聞いて、頼 語 ゃあはせ 物さる程に十月廿三日にもなりぬ。あすは源平富士河にて矢合とさだめたりけ朝が、軍使の首を切ることは昔か 家 ら聞いたことがない、平氏の運が づするが にんみん 平るに、夜に入ッて、平家の方より源氏の陣を見わたせば、伊豆、駿河の人民尽きたのだと言うことや、奥州か ら馳せ参じた義経と頼朝との対面 あるい ひやくしゃうら 百姓等がいくさにおそれて、或は野に入り山にかくれ、或は舟にとり乗ッて、などを記している。 ニ両軍が戦闘開始に当り、合図 つはもの うみかは かぶらや として鏑矢を射合せること。 海河にうかび、いとなみの火の見えけるを、平家の兵ども、「あなおびたたし 三営み。生活のための仕事。こ とほび こは食事 ( 炊事 ) のための火。 の源氏の陣の遠火のおほさよ。げにもまことに野も山も、海も河も、みなかた 四遠くに見える。「おびたたし」 と「おほさ」は、類似の語を重ねて きでありけり。 しかがせん」 る強調したもの。 や を 五浮島が原にある沼。 とぞあわてける。その夜の夜 六尾張河は木曾川の古名。洲俣 ぶ 五 めま 勇 は墨俣とも書く。岐阜県安八郡墨 半ばかり、富士の沼に、、 岡 の俣町。美濃・尾張の国境。 みづとり セ以下、平氏のあわて騒ぐさま らもむれゐたりける水鳥ども 東 を生き生きと描いた文章として知 関 られている。 よここかおどろきたりけ ・カナ′ー 盛 ^ 「驂すれば」。走らせるので。 駆り立てるので。 ん、ただ一度にばッと立ちけ 藤九午前六時頃。 はおと おほかぜ 斎 一 0 鬨と同じ。戦闘に際して軍勢 る羽音の、大風いかづちなン ニ暠 はん おば 一畚 とき
新院崩御治承五年 ( 二八 l) 正月となったが、行事は一切行われず、不吉な新年である。南都の処分が行われ、興福寺別当 永縁も病死し、南都は荒廃した。高倉院は数々の心痛のうちに病床につき、正月十四日、崩御された。 紅葉故高倉院は風流を愛し、慈愛深い君であった。大切にする紅葉を、掃除の下人が燃やしてもとがめなかったし、盗賊 に主人の衣装を奪われた女童を憐れんで、新しい衣装を与えたりした。 葵前院は女房に仕える少女葵前を愛したが、噂が立ったので、世の非難を憚り逢うのを止めた。少女は病臥後数日で死ぬ。 小督院を慰めるため中宮は小督を参らせた。彼女は清盛婿、冷泉隆房の恋人だったので清盛は二人の婿を取られたと憤慨、 これを知り小督は失踪。八月の月夜、仲国は院命で小督を嵯峨に尋ね連れ帰ったが、清盛に捕えられ尼にして追放される。 廻文清盛は高倉院崩御後間もないのに、法皇を慰めようと自分の娘を御側に差し出した。その頃、帯刀先生義賢の子、木 曾冠者義仲は信濃国で成人、頼朝と並んで平氏を滅そうと思い立つ。さっそく廻文が出され信濃・上野の源氏が従う。 飛脚到来木曾征討の計を廻らす間に河内の武蔵権守義基父子、九州の緒方三郎ら、伊予の河野通清らの謀反の報が届く。 入道死去熊野別当も源氏につき、全国に平氏討滅の火の手が上がる。宗盛が関東征伐に出立の前夜、清盛が発病。重い熱 うるう 病で、清盛妻は地獄から迎えが来た夢を見る。清盛は「頼朝の首を墓前に供えよ」と言い残し、閏二月四日悶死する。 築島葬送の夜清盛邸が焼け、院御所の留守居役が乱酔するなど不思議な事が多く、戦乱のため清盛の死を弔う暇もない。 だが清盛には凡人と思えぬことが多かった。船の安全のため福原の経の島を築き人柱を退けたというのもその一例である。 慈心房また清盛は、慈恵僧正の生れ変りだともいわれた。清澄寺の僧、慈心房尊恵が閻魔庁の大法会に招かれ、閻魔法王 から、清盛が慈恵僧正の化身で天台の仏法護持のために再誕したのだと教えられたという。 祇園女御清盛は白河院の子ともいう。院の供をした忠盛が妖怪ふうの者を老法師と見抜いた賞として懐妊中の祇園女御を 賜ったが、その腹から生れたのが清盛だという。二月二十日清盛と親しい五条大納一一 = ロ死去、如無僧都の子孫で、母の祈願で 出世した。二十二日法皇法住寺殿に御幸。三月南都復興開始。東国源氏を討っため知盛らが出発、十六日源行家らを破った。 しわがれごえ 嗄声城太郎助長は義仲追討に出発しようとしたが、「大仏を焼いた平氏の味方を捕えよ」との嗄声が天に響き、助長は頓 死。七月十四日養和と改元。筑後守貞能が九州追討に出発。また治承三年に流された公卿らが赦されて帰京する。 横田河原合戦謀反鎮圧の祈疇が各所で行われる。養和二年四月十日、法皇が山門に命じて平家を追討するとの噂が立つ。 寿永と改元。九月城四郎が横田河原で義仲と戦い大敗。だが平氏は己の滅亡を悟らす、寿永一一年世はますます離反する。
327 巻第六横田河原合戦 ぶせん 峰山の僧徒、伊勢大神宮の祭主、神官に至るまで、全く平 家に背いて、源氏に心を通じていた。四方に天皇の宣旨を 下し、諸国に院宣を遣わすけれども、院宣も宣旨もすべて 平家の命令とばかり心得て、従いつく者は無かったのであ っこ。
が一斉にあげる大声で、これをす どの様にきこえければ、平家 走ることを「鬨をつくる」という。戦 いの始めに合図として行う場合は、 の兵ども、「すはや源氏の大 平大将が大声で「えいえい」と掛け声 さいとうべったう え を発すると、全軍が「おう」と応じ、 勢の寄するは。斎藤別当が申 び お これを三度繰り返すのが通例 0 『吾妻鏡』治承四年十月一一十日条 しつる様に、定めて搦手もま に「頼朝が賀島に到り、維盛・忠 の 度らは富士川西岸に陣した。半更 はるらん。とりこめられては 水 に及び武田信義が平氏陣の背後を 前襲おうとしたところ、富士の沼に かなふまじ。ここをばひいて、 の 集まる水鳥が群がり立ち、その羽 をはりがはすのまた 戦音に平氏の軍が驚き騒いだ。そこ 尾張河洲俣をふせげや」とて、 で忠清らが相談して、夜明けも待 たすに帰京した」とある。『山槐 とる物もとりあへず、我さきにとぞ落ちゅきける。あまりにあわてさわいで、 記』治承四年十一月四日条には、 弓とる者は矢を知らず、矢とる者は弓を知らず。人の馬にはわれ乗り、わが馬一日に忠清から宗盛あてに、頼朝 数万騎に対して官兵わずか千騎で くひ あるい はかなわぬので、一時退却して遠 をば人に乗らる。或はつないだる馬に乗ッてはすれば、杭をめぐる事かぎりな 江国府へ行きたいとの手紙が来た かしら いうくんいうぢよ 士 ことを記す。同六日条にも十九日 し。ちかき宿々よりむかへとッてあそびける遊君遊女ども、或は頭けわられ、 富 のさまを「宿ノ傍ノ池ノ鳥数万、 俄ニ飛ビ去ル。其羽音雷ト成リ、 第腰ふみ折られて、をめきさけぶ者おほかりけり。 巻 官兵皆軍兵ノ寄セ来ルヲ疑ヒ夜中 うのこく ふじがは あくる廿四日卯刻に、源氏大勢廿万騎、富士河におし寄せて、天もひびき大引退ク。上下競ヒ走リ、自ラ宿ノ 屋形、中持、雑具等ヲ焼ク」と記 とき さんがど している。 地もゆるぐ程に、時をぞ三ケ度、つくりける。 ぜい つはもの ゃう ゃう しゆくみ、 おほ 2
もちひと んさんみよりまさ 源三位頼政は高倉宮以仁王擁 し、三井寺の衆徒と共に字治の平 等院に立て籠った。平氏は一一万余 せんめつ 騎の大軍で宮方を殲滅せんと殺 到、宇治川を挟んでの「橋合戦」 ( 六〇ページ ) が始まる。本冊のク ライマックスの一つで、戦闘描写 は精細を極める。 上図は、橋板を外された字治橋へ 押し掛けた平家の軍勢が、前が見 えすに次々に川へ落ちこむ場面。 平家の専横に立ち向う最初の本格 的な合戦である。 「三井寺にはそのかくれなし。 ーちにんたうせんつはもの : 一人当千の兵者ぞや。我と思 第・ンざん はむ人々は、寄りあへや、見参せ なぎなた む」とおめいて大長刀を振り回す めいし心うやぎり 浄妙明秀や矢切の但馬、一来法師
の遠火の多さだ。なるほど、ほんとうに野も山も、海も日 えて戦うのです。西国の合戦といいますと、親が討たれて 2 しまうと供養をし、忌が明けてから押し寄せ、子が討たれも、皆、敵でいつばいなのだな。どうしよう」とあわてた。 ひょうろう てしまうと、その悲嘆のために寄せるのをやめます。 - 兵糧その夜の夜半頃に、富士川の沼にたくさん群がっていた水 語 物米がなくなってしまうと、春に田を作って秋に収穫してか鳥どもが、何に驚いたのか、ただ一時にばっと飛び立った 家 ら寄せ、夏は暑いといい冬は寒いといって嫌います。東国羽音が、大風か雷などのように聞えたので、平家の兵士た 平 か しなの では、全くそのようなことはありません。甲斐・信濃の源ちは、「そりや、源氏の大軍が寄せてきたそ。斎藤別当が すそ 申したように、きっと背後にも回っていよう。取り籠めら 氏どもが、土地の事情はよく知っております。富士の裾か おわりがわすのまた ら、背面に回りましよう。このように申すと、あなたをおれてはかなうまい 。ここを退却して、尾張川、洲俣を防げ びえさせ申し上げようとして申すようですが、そうではあや」といって、とる物もとりあえず、我先にと落ちで行っ りません。合戦は軍勢の多少にはよらず、はかりごとによ た。あまりにあわて騒いで、弓を取った者は矢を見つけず、 って決まると言い伝えております。実盛は今回の合戦で生矢を持った者は弓を見つけない。他人の馬には自分が乗り、 き延びて、もう一度都へ参れようとも思っておりません」 自分の馬は他人に乗られる。ある者はつないだままの馬に と申したので、平家の兵どもはこれを聞いて、皆ふるえお乗って、駆けさせようとするので、杭の周囲を際限もなく ののきあった。 巡る。近くの宿場宿場から呼んできて遊んでいた遊女ども は、あるいは逃げる兵士に頭を蹴り割られ、あるいは腰を そのうちに十月二十三日となった。明日は源氏と平家が 富士川で矢合せをすると決めていたのだが、夜になって平踏み折られたりして、わめき叫ぶ者が多かった。 ずするが 翌二十四日の午前六時頃、源氏の大軍二十万騎は、富士 家のほうから、源平の陣を見渡すと、伊豆・駿河の人民百 日の岸に押し寄せて、天にも響き大地も揺れ動くほどに、 姓らが、合戦を恐れて、あるいは野へ逃げ山へ隠れ、ある とき いは船に乗って海・川に浮び、煮炊きする火が見えたのを、鬨の声を、三度あげた。 平家の兵士どもは、「ああ、なんとおびただしい源氏の陣
おんじようじ ・一うふくじ 長者 ( 基房 ) を流されている。今度でなければいっ恥を 園城寺から書状を送る、興福寺の寺務所へ。 すすぐことができよう。望むところは衆徒が内には仏法 特に力を合せて、当寺の破滅を助けてもらいたいと乞う の破滅を救い、外には道に背き悪事を行う同類を退ける 書状。 語 ことで、そうしたら同慶の至りであり、まことに本望で 物右につき、仏法の特にすぐれている事は、王法を守るた 家 ある。衆徒の評議はこのとおりである。そこで書状を送 めであり、王法がまた長く久しく続く事は、すなわち仏 平 . きもり ること右のとおりである。 法によるものである。いま入道前太政大臣平朝臣清盛公、 じようかい わたくし 治承四年五月十八日 大衆ら 法名浄海は、ほしいままに国威を私し、朝政を乱し、宮 と書いてあった。 城の内外で、人々の恨みをつくり、嘆きを生じているの で、今月十五日の夜、一院 ( 後白河院 ) 第二皇子は、思 奈良興福寺の衆徒はこの書状を開き見て、すぐに返書を いがけない災難をのがれるために、急に寺にお入りにな送った。その返書にいうのには、 った。そこで院宣と称して、宮を寺からお出しするよう 興福寺からの書状を送る、園城寺の寺務所へ。 しゆと 送付のご書状、一枚に記されたもの。右は入道浄海のた にと、責められたが、衆徒はひたすら宮を惜しみ申し上 げている。それゆえあの禅門 ( 清盛 ) は武士を当寺に入 めに、貴寺の仏法を滅ばそうとするとのことである。 、二つなが ご返書。天台・法相二宗の宗義を立てているが、経文の れようとしている。仏法といし 、王法といし しやか ら一時にまさに破滅しようとしている。昔、唐の武宗皇 章句は、同じ釈迦一代の経文から出ている。奈良興福 しようりようぜん によらい 帝が、軍兵をもって、仏法滅亡をはかった時、清涼山の 寺・京都延暦寺は共に如来の弟子である。自分の寺もよ もっ だいばだった 衆徒らは、合戦をして、これを防いだ。帝王の権威を以 その寺も互いに力を合せて提婆達多のような魔障を屈伏 かす させるべきである。 てしても、やはりこのとおりである。まして清盛のよう 、ったい清盛入道は、平氏の糟であ まさもり くらんど むはん り、武家のごみのようなものである。祖父正盛は蔵人五 な謀反など八虐罪を犯した連中ではなおさらのことだ。 とりわけ奈良では、前例がないのに、罪もない藤原氏の 位の家に仕えて、諸国の受領の使用人となった。大蔵卿
平家物語 24 しゆっし たかみくら たかみくらへ参らせ給ひける、御有様めでたかりけり。平家の人々、みな出仕一高御座。天皇の玉座。 ニ色。喪服の色から、喪服、ま きんだち たは服喪することの意。正節本 せられけるなかに、小松殿の公達は、こそおとどうせ給ひしあひだ、いろにて 「倚廬」は天子服喪中の仮屋をいし ろうきょ 転じて臣下の服喪中の籠居をいっ 籠居せられたり。 たものか ・厳島御幸」「還御」は、巻頭目 録に「厳島御幸付還御」とあるよう 一連の章段である。高倉院が 譲位後、平氏の崇敬する厳島神社 に参拝することを記したもので、 源氏揃 院の政治的配慮がうかがわれ、平 氏の思うままであった様がよく出 ている。この二章のもとになった こうし くらんどゑもんのごんのすけさだなが ゐらん 蔵人衛門権佐定長、今度の御即位に、違乱なくめでたき様を、厚紙十枚ばのは源通親の紀高倉院厳島御 幸記』であろうが、『平家物語』の しる はつでう かりにこまみ、と記いて、入道相国の北の方、八条の二位殿へ参らせたりけれ制作を考える上で問題を提供して ば、ゑみをふくんでそよろこばれける。かやうにはなやかにめでたき事どもあ三藤原為隆の孫。元房の子。養 和元年 ( 一一八一 ) 蔵人、寿丞兀年 ( 一一八 せけんなほ 一 l) 右衛門権佐兼任。この時は安房 りしかども、世間は猶しづかならず。 守であった。 そのころ五 わうじ かがのだいなごんすゑなりのきゃうむすめ もちひとおほきみ とりこがみ 其比一院第二の皇子、以仁の王と申ししは、御母加賀大納言季成卿の御娘四厚手の鳥の子紙。 五後白河法皇。 たかくら えいまん なり。三条高倉にましましければ、高倉の宮とそ申しける。去んじ永万元年十六オンパワ ( 正節本 ) 、オンハワ ( 天草本 ) 。 こんゑかはら おんげんぶく 二月十六日、御年十五にて、忍びつつ近衛河原の大宮の御所にて、御元服ありセ藤原公実の子。保元二年 ( ( 現代語訳一一三一 :-) げんじぞろへ 六 ゃう 四