このかた わうくわうべつじよ せいたう 頃年より以来、平氏王皇蔑如して、政道にはばかる事なし。仏法を破滅し一五一方では。正節本・元和版カ ツウハ。次行も同じ。 それわがてう そうべう て朝威をほろばさんとす。夫我朝は神国なり。宗廣あひならんで神徳これ一六代々の祖。 ティレハ 宅元和版「者」。↓四八ハー注五。 かるがゆゑてうていかいき のちすせんよさい ていいみ′ あらたなり。故に朝廷開基の後、数千余歳のあひだ帝猷をかたぶけ、国家一 ^ 延慶本「石橋ノ合戦ノ時モ白 一五旗ノ上ニ此院宣ヲ横ニ結付ラレタ しか すなはかっ をあやぶめんとする者、みなもッて敗北せずといふ事なし。然れば則ち且リケルトゾ聞へシ」 ( 長門本同じ ) 。 0 史実では頼朝が旗上げの際掲げ しんたうみやうじよ かっちよくせんしいしゅ ちゅう もちひとりようじ は神道の冥助にまかせ、且は勅宣の旨趣をまもッて、はやく平氏の一類を誅たのは以仁王令旨 ( 吾妻鏡 ) 。文覚 は治承二年 ( 一一七 0 には赦されてお てうかをんでき ふだいきゅうせんへいりやくっ ちゅうきん して、朝家の怨敵をしりぞけよ。譜代弓箭の兵略を継ぎ、累祖奉公の忠勤をり、頼朝旗上げの時伊豆にいたか 否かは不明。「コノ頼朝、コノ宮 抽でて、身をたて家をおこすべし。ていれば院宣かくのごとし。仍て執達ノ宣旨ト云物ヲモテ来リケルヲ見 テ、サレバョ、コノ世ノ事ハサ思 くだんのごとし シモノヲトテ心ヲコリニケリ。又 如件。 光能卿院ノ御気色ヲミテ、文覚ト テ余リニ高雄ノ事ス、メスゴシテ 治承四年七月十四日 伊豆ニ流サレタル上人アリキ、ソ きんじゃうさきのうひやうゑのすけどの レシテ云ャリタル旨モ有ケルトカ 宣謹上前右兵衛佐殿へ 院 ャ。但是ハ僻事也。文覚・上覚・ ひやうゑのすけ 犠とぞ書かれたる。此院宣をば、錦の袋にいれて、石橋山の合戦の時も、兵衛佐千覚トテ具シテアルヒジリ流サレ タリケル中、四年同ジ伊豆国ニ朝 どのくび タニ頼朝ニナレタリケル、其文覚、 第殿頸にかけられたりけるとかや。 巻 サカシキ事共ヲ、仰モナケレドモ、 上下ノ御ノ内ヲサグリッ、、イヒ LO イタリケル也」 ( 愚管抄五 ) と記す。 めきん しきりのとし てうゐ にしきふくろ さきのうひやうゑのかみみつよしうけたまは 前右兵衛督光能が奉り い . しばしやま るいそ よっしったっ
びわ が、琵琶をかき鳴らし、すばらしい朗詠をなさっておられので、思いがけない突然の事であったせいもあって、左右 すけかた ふぞくさいばら あぜちの た。按察大納言資賢卿が拍子をとって、風俗・催馬楽を歌の手に刀を持っているかのように見えたのであった。公 すけときしいのじじゅうもりさだ ぎようてんじようびと わごん っておられた。右馬頭資時・四位侍従盛定が、和琴をかき卿・殿上人も、「これはどうしたことだ。これはどうした すだれとばり ことだ」とお騒ぎになったので、音楽をなさっていたのも 鳴らし、今様をあれこれと歌い、華やかな簾・帳の中はに ぎやかにざわめいて、まことにおもしろかったので、法皇すっかりめちやめちゃになってしまった。院中の騒動は並 しなののくに みぎむね だいおんじよう つけうた たいていではない。信濃国の住人の安藤武者右宗が、その も声を合せて、付歌をしておられる。そこへ文覚の大音声 むしやどころ 当時は現職の武者所であったが、何事だと、太刀を抜いて がとびこんできて、調子も狂い、拍子もすっかり乱れてし まった。「何者だ。そっ首を突いてしまえ」と仰せられる走り出た。文覚が喜び勇んでかかってくるところを、切っ てはいけないだろうと思ったのか、太刀の峰を持ち直して、 ゃいなや、はやり立った若者たちが我も我もと駆け出た中 すけゆき 、資行判官という者が走り出て、「なんということを申文覚の刀を持っている腕を強く打つ。打たれてちょっとひ たかお じんご すか。立ち去れ」と言ったところ、文覚は、「高雄の神護るむところを、太刀を捨てて、「してやったぞ、おう」と じ 寺に、荘園を一か所寄付してくださらぬうちは、文覚はけ言って組みついた。組みつかれながら文覚は、安藤武者の っして出るものか」といって動かない。そこで首を突こ , っ右の腕を突き刺す。安藤武者は突かれながらも文覚を締め 流としたところ、文覚は勧進帳を持ち直して資行判官の烏幗つけた。両人とも互いに劣らぬ大力だったから、上になり し 覚子をはたと打って打ち落し、げんこつを握って相手の胸を下になり、転げ合って格闘しているところに、院中の上下 もとどり 文 突き飛ばしてあおむけにつき倒す。資行判官は髻をむき出の者どもが、えらそうな顔をして寄ってたかって、文覚の おおゆか 五 しにしておめおめと大床の上へ逃げのばる。その後、文覚およそ動く所はすべて打ちすえた。けれどもこれをものと 第 巻 もせず、いよいよ悪口を言いちらす。文覚を門外へ引き出 は、ふところから馬の尾の毛で柄を巻いた氷のように冷た けびいしちょう して、検非違使庁の下役に渡す。下役は文覚を受け取って 1 く光る腰刀を抜き出して、寄り来る者を突こうと待ちかま えた。左の手には勧進帳、右の手には刀を抜いて走り回るひつばる。ひつばられて立ったままで、御所の方をにらみ つか
つらら 氷柱となり、何もかも一面まっ白で、四方の木々の枝先も かみ合いをして、上がらない。三日目という畤に、文覚は たきつば 見分けがっかない。けれども文覚は、滝壺に下りて浸り、 とうとう息が絶えてしまった。滝壺を死体で汚すまいとし じゅ みずら ふたり 首ぎわまで水につかって、慈救の呪を唱えつづけたが、二、 てか、角髪を結った天の童子が二人、滝の上から降り下っ 語 つまさきてのひら 物三日はよかったが、四、五日にもなった時、耐えきれなく て、文覚の頭のてつべんから、手足の爪先や掌に至るまで、 家 なって、文覚は水に浮き上がってしまった。何千丈という まことに暖かい芳香のする御手で撫で下ろしてくださると 平 いう気がしたかと思うと、夢のような心地で、文覚は生き 高さからあふれ落ちる滝だから、どうしてそのままでいら れよう。ざざっと水に押し落されて、刀の刃のように、あ返った。「いったい、どういうお方でいらっしやるのでし あわ んなに険しい岩角の間を、浮いたり沈んだり、五、六町流ようか、これほど私をお憐れみくださるというのは」と どうじ だいしようふどうみようおう れた。その時、かわいらしい童子が一人来て、文覚の左右お尋ね申し上げる。「私は大聖不動明王の御使いで、矜羯 らせいたか の手をとって、お引き上げになる。人々は不思議に思って、羅・制旺迦という二人の童子である。『文覚はこの上なき 火を焚いて文覚の身体を暖めなどしたので、まだ死ぬべき願を立てて、勇ましい荒行を計画している。行って力を合 時が来ていない命でもあり、間もなく息を吹き返した。文せよ』と、明王のご命令があったので来たのである」とお ひとごこち 覚は少し人心地がついて、大きな眼を見はり、「自分はこ答えになる。文覚は声をはりあげて、「それで、不動明王 さんらくしゃ とそってん の滝に二十一日打たれて、慈救の三洛叉を満たそうと思う はどこにおいでなのだ」。「都率天に」と答えて、童子は雲 大願をもっている。今日はたった五日目だ。七日さえ過ぎ の上はるかにお上りになった。文覚は掌を合せてこれを拝 てもいないのに、どいつがここへ連れてきたのだ」と言っ み申し上げる。「では、自分の行を、大聖不動明王までも たので、見る人はそっとして、ものも言わない。また滝壺ご存じなのだ」と、頼もしい気がして、なおも滝壺に戻っ て立ち、水に打たれた。ほんとうにすばらしくめでたいお に戻って立ち、水に打たれた。 二日目という時に、八人の童子がやって来て、文覚を引示しがあったので、吹いてくる風も身にしみず、落ちてく き上げようとなさったけれども、文覚は激しく抵抗し、つ る水も湯のように感じられる。こうして、二十一日間の大 こんが
つけ、大声をあげて、「寄付をなさらないのはともかくも、 しやったので、文覚配流の指図をして、東海道経由で船を 2 これほど文覚にひどい目をお見せになったからには、今に 下すのがよいということになり、伊勢国へ連れて行った時、 かたく ほうめん 思い知らせてさしあげますぞ。三界は皆火宅だ。王宮であ放免二、三人をつけられた。この者どもが申したことには、 語 じゅうぜん 「検非違使庁の下役のしきたりとして、こういうことにつ 物っても、滅亡の難は免れることはできない。十善の帝位に 家 あって誇っておられても、冥途への旅に出てしまったあと いては、自然と手心も加えます。どうですお坊さん、これ 平 は、地獄の鬼どもの責めをお逃れになることはできないの ほどの事件に出あって、遠国へ流されなさるというのに、 に」と躍り上がり躍り上がりしながら申した。「この法師知合いはおありにならぬのか。みやげや食糧みたいな物も め、けしからん」というので、そのまま獄へ入れられた。 頼みなさいよ」と言ったので、「文覚はそういう用事を言 資行判官は、烏帽子を打ち落された恥ずかしさに、しばら ってやれるような親しい知人も持ってない。だが、東山の ほうび くは出仕もしない。安藤武者は、文覚と組みあった褒美とあたりになら知人がいる。さあ、それなら手紙を出そう」 いちろう うまのじ・よう・ して、ただちに一臈を経ないで右馬允に任ぜられた。さて と言ったので、変な紙を捜し出して与えた。「こんな紙で びふくもんいん その頃、美福門院がお亡くなりになって、大赦があったのものを書くなんてことはない」といって投げ出す。それで ゆる で、文覚は間もなく赦された。しばらくはどこかで修行を はというので、厚紙を捜し出して与えた。文覚は笑って、 ささ すればよかったのに、そうはせずに、また勧進帳を捧げて 「わしは字が書けないのだ。だからお前らが書け」と言っ 寄付を勧めたが、それなら普通の勧進かといえばそうでは て書かせるには、「『文覚は、高雄の神護寺を建造・供養す なくて、「ああ、この世の中は、今すぐに乱れて、帝も臣る志があって、寄付を勧めておりますうちに、こんな君 も皆滅びてしまうだろうに」などと、恐ろしいことばかり ( 後白河法皇 ) の代にめぐりあって、願いのことを成就しな 言って回るので、「この法師は都に置いてはいけよい。 遠 いばかりか、獄へ入れられて、おまけに伊豆国へ流される いずのくに 国へ流せ」と、伊豆国へ流された。 ことになりました。遠い道のりです。みやげや食糧みたい よりまさちゃくしなかつな 源三位入道頼政の嫡子仲綱が、その頃は伊豆守でいらっ な物も、大切です。この使いの者に下さい』と書け」と言 せのくに
四 そも / 、 よ . りレ」も さんめへいぢ さまのかみよしともむほん 抑かの頼朝と申すは、去る平治元年十二月、ちち左馬頭義朝が謀反によッて、一 0 文覚の記事については諸本に 異同がある。保延五 ( 一一三九 ) 、六年 えいりやく づのくにひるがしま しゅんしう に生れ、建仁三年 ( 一 = 0 三 ) 頃に没。 年十四歳と申しし永暦元年三月廿日、伊豆国蛭島へながされて、廿余年の春秋 = 摂津国の地名 ( 大阪市内 ) 。渡 ことし をおくりむかふ。年ごろもあればこそありけめ、今年いかなる心にて謀反をば辺党がここに住し、文覚も一族。 三『吾妻鏡』文治一一年正月三日条 たかをもんがくしゃうにん たねより 、千葉胤頼が以前に、遠藤左近 おこされけるぞといふに、高雄の文覚上人の申しすすめられたりけるとかや。 将監持 ( 茂 ) 遠の推挙によって上西 かの たなべゑんどうさこんのしゃうげんもちとほ ゑんどうむしやもりとほ 門院に仕え、また持遠のよしみで 彼文覚と申すは、もとは渡辺の遠藤左近将監茂遠が子、遠藤武者盛遠とて、 神護寺の文覚上人を師檀とした、 しゃうせいもんゐんしゅ しゅぎゃう とある。これによれば、持遠は上 上西門院の衆なり。十九の歳、道心おこし出家して、修行にいでんとしけるが、 西門院に勤め、文覚と親密であっ たことになり、『元亨釈書』十四で 「修行といふはいかほどの大事やらん、ためいて見ん」とて、六月の日の草も も文覚 ( 俗名盛遠 ) を親衛校尉持遠 かたやま あぶか ゆるがずてッたるに、片山のやぶのなかにはいり、あふのけにふし、虻ぞ蚊その子とする。『遠藤系図』では盛遠 を遠藤六郎滝ロ左馬允為長の子と はちあり どくちゅう し、遠藤太郎判官と記す。 蜂蟻なンどいふ毒虫どもが身にひしととりついて、さしくひなンどしけれども、 一三鳥羽天皇第一一皇女、統子。 一六 しちにち ゃうか 行ちッとも身をもはたらかさず、七日まではおきあがらず、八日といふにおきあ高蔵人所に属し雑事を務める者。 ほっしんだん 荒 一五読み本系には、文覚発心譚が よこれんぼ ある。盛遠が夫のある女に横恋慕 文がツて、「修行といふはこれ程の大事か」と人に問へば、「それ程ならんには、 したため、女は夫の身代りとなり 盛遠に殺される。これを知って夫 第いかでか命もいくべき」といふあひだ、「さてはあんべいごさんなれ」とて、 とともに発心、出家したという。 修行にそいでにける。 一六動かさない。 宅安平。たやすい。「ごさんな くまの ぎゃう 熊野へ参り那智ごもりせんとしけるが、行の、いみに、きこゆる滝にしばらくれ」は「にこそあるなれ」の転。 じふしさい とし一五 一セ
( 現代語訳一一七九ハー ) て勝れることを言ったらしく、謡 曲「調伏曾我」などに用例がある。 ◆文覚は、以下「勧進帳」「文覚被 流」「福原院宣」の主役となり、巻 十一一「六代」「泊瀬六代」でも活躍 勧進帳 する。多くの謎に包まれた僧で、 その説話は後代にも受けつがれた。 わけのきょまろ 一セ延暦年中、和気清麻呂が河内 のち かの じん′、 後には高雄といふ山の奥に、おこなひすましてぞゐたりける。彼高雄に神護国に創建、天長元年 ( ^ = 四 ) 京都高 雄に移転。文覚が再興したことは じ きょまる しようどくてんわう がらん 寺といふ山寺あり。昔称徳天皇の御時、和気の清丸がたてたりし伽藍なり。久『文覚四 + 五箇条起請文』に詳しい 一 ^ 正しくは桓武天皇。 しゅぎう きり かすみ とびら しく修造なかりしかば、春は霞にたちこめられ、秋は霧にまじはり、扉は風に一九和気清麻呂。称徳天皇の代、 道鏡が皇位を望んだ時、勅使とし らくえふ いらかうろ ぶつだん て宇佐八幡の神託を受けてこれを 倒れて、落葉のしたにくち、甍は雨露にをかされて、仏壇さらにあらはなり。 おおすみ はばんだため、大隅に流されたが、 ぢゅうぢ もんがく 住持の僧もなければ、まれにさし入る物とては、月日の光ばかりなり。文覚是許されて光仁・桓武天皇に仕えた。 ニ 0 仏寺の建築などのため寄付を しゅざう くわんじんちゃう じつばうだんな をいかにもして、修造せんといふ大願をおこし、勧進帳をささげて、十方檀那求める趣旨を述べた帳。勧進は勧 帳 め進める、寄付を勧める意。 ニニゐんのごしよほふぢゅうじどの ′ ) ほうが をすすめありきける程に、或時院御所法住寺殿へそ参りたりける。御奉加ある三 + 方は四方 ( 東西南北 ) と四維 ( 四隅 ) と上下で、あらゆる場所・ そうもん ぎよいう せしゅ 第べき由奏聞しけれども、御遊のをりふしできこしめしも入れられず。文覚は天方角。檀那は施主の梵語。 ニ四 巻 一三承安三年 ( 一一当 ) 頃 ( 玉葉など ) 。 ぜいふてきだいいち ごぜんこっ ゃう 性不敵第一のあらひじりなり。御前の骨ない様をば知らず、ただ申し入れぬぞ = 三仏に財物を寄進すること。 一西ぶしつけ、無骨。御前での無 おつば だいおんじゃう 骨、不作法を考えないで。 と心えて、是非なく御坪のうちへやぶりいり、大音声をあげて申しけるは、 たふ たかを くわんじんちゃう だいぐわん 一九 てん
巻第五・ 都遷・ : 月見 物怪之沙汰 早馬 朝敵揃 : 咸陽宮・ : 文覚荒行・ : 巻第六 新院崩御 紅葉 : ・ 督 廻文 : ・ 原文現代語訳 一 0 八 : ・ 一一九八 ・ : き 0 ・ : 三 0 三 ・ : 三 0 八 勧進帳・ : 文覚被流 : 福原院宣 : 富士川 五節之沙汰・ : 都帰・ : 奈良炎上 : ・ 飛脚到来 : ・ 入道死去 : ・ 築島 慈心房 : ・ 祇園女御 一九三 : 原文現代語訳 一一九八 ・ : 三 0 九 : 三一四
をにぎッてしやむねをついて、のけにつき倒す。資行判官もとどりはなツてお三あおのけに。 一四恥ずかしがっているさま。 そののち め / 、と大床のうへへにげのばる。其後文覚ふところより馬の尾で柄まいたる 刀の、こほりのやうなるをぬきいだいて、よりこん者をつかうどこそまちかけ くわんじんちゃう たれ。左の手には勧進帳、右の手には刀をぬいてはしりまはるあひだ、思ひま さう・ くぎゃう うけぬにはか事ではあり、左右の手に刀をもッたる様にぞ見えたりける。公卿 てんじゃうびと 挈一よいう 殿上人も、「こはいかに、こま、、 。し力に」とさわがれければ、御遊もはや荒れに ゐんぢゅうさうどう しなののくに あんどうむしやみぎむねそのころたうしよくむ けり。院中の騒動なのめならず。信濃国の住人、安藤武者右宗、其比当職の武一 = 「ま右馬大夫右宗、高雄ノ 文学ヲ生虜リタル者也」 ( 吾妻鏡・ しやどころ たち もんがく 者所でありけるが、何事ぞとて太刀をぬいてはしりいでたり。文覚よろこンで正治一一年一一月条 ) 。屋代本など「安 藤右馬大夫右宗」。 一六現に院御所を警護する武者所 かかる所を、きッてはあしかりなんとや思ひけん、太刀のみねをとりなほし、 の武士。現職の武者所 ( 武士 ) 。 かたな 流文覚が刀もッたるかひなをしたたかにうつ。うたれてちッとひるむところに、 被 宅↓八一一ハー注四。 あんどうむしゃ 文太刀をすててえたりをうとてくんだりけり。くまれながら文覚、安藤武者が右天文覚をしめつけた。 一九賢そうな顔をすること。りこ だいぢから うぶった顔つき。 第のかひなをつく。つかれながらしめたりけり。互におとらぬ大力なりければ、 巻 ニ 0 定。定まった部分。範囲、限 じゃうげ 上になり下になり、ころびあふところに、かしこがほに上下よッて、文覚がは ニ一屋代本・熱田本「拷」 ( 濁点あ たらくところのぢゃうをがうしてンげり。されどもこれを事ともせず、いより ) 。打ちすえる意。 おほゆか 一と ニ 0 たふ たがひ ゃう
都遷治承四年 ( 一一〈 0 ) 六月 = 日、福原へ遷都。法皇は再び福原で監禁される。神武天皇以来遷都の例は多いが、特にすぐ れた都の平安京を、清盛が遷したのは、恐ろしいことであった。人心の動揺は甚だしい。 月見秋、各地で月見が行われたが、′ 徳大寺実定は旧都の近衛河原の大宮 ( 二代后 ) を訪ね、今様を謡い一夜を過す。帰り がけに、供の蔵人と大宮に仕える、待っ宵の小侍従との間に和歌の贈答がある。 物怪之沙汰新都では不吉な怪異があれこれと起る。また源雅頼に仕える青侍は、政権が平氏から源頼朝に移り、さらに藤 原氏へ移ることを暗示する、神々の会議の夢を見る。出家して高野山にいた成頼はこの夢に解説を加える。 早馬九月一一日相模の大庭景親から早馬が到着、八月十七日伊豆の頼朝の旗揚げ、石橋山合戦の敗北を報じた。清盛は激怒。 朝敵揃古来朝敵で成功した例はない。昔は皇威も顕著で醍醐帝の時、鷺が勅命に従い飛び立たぬこともあったほどである。 とら たん 咸陽宮外国の例では燕の太子丹の故事がある。丹は秦の始皇帝に囚われたが、奇跡により帰国できたのち、始皇帝暗殺を しんぶよう 謀った。軻と秦舞陽が刺客として秦に赴いたが、失敗した。「頼朝もこれと同じ運命になろう」という者もあった。 文覚荒行頼朝の謀反は文覚の勧めによる。文覚は俗名遠藤盛遠、出家後那智で不動の加護を得、荒行を重ねた験者である。 勧進帳文覚は帰京後、高雄山に入り神護寺修造を思い立ち勧進をして歩いた。ある日院御所に侵入、勧進帳を読み上げた。 文覚被流文覚は入獄したが、ほどなく大赦で許された。しかし不穏なことを言い散らすので再び捕えられ、伊豆国へ流さ れた。途中、賄賂を要求した護送役人を煙に巻いたり、暴風雨に遭って竜王を叱りつけたりする。 福原院宣伊豆の文覚は頼朝に父義朝の髑髏を見せ、福原から平氏追討の院宣を受け示したので、頼朝も挙兵を決意する。 富士川九月十八日維盛・忠度ら三万余騎が出発。忠度は日頃通う女房を訪ね、歌を詠む。一一十一一日高倉院厳島参詣。維盛 おじけ らは富士川に到着。斎藤実盛に敵状を尋ね、その剛勇に怖気づいた平氏は合戦の前夜、水鳥の羽音を敵軍来襲と信じ逃亡。 五節之沙汰翌朝源氏が対陣すると平氏は一兵もなく、笑い物となる。清盛は激怒したが、維盛は処罰どころか恩賞に預か る。昔将門の乱で藤原忠文・清原滋藤が出征した際は、リ 至着前に平定のため勧賞がなかった十一月十三日新内裏完成。 都帰今度の遷都は非難の声が多かったので、清盛も十二月二日、都帰りをすることにした。この遷都は南都・北嶺の圧力 を避けるためだったという。十二月二十三日、知盛・忠度らの軍勢が出発、近江源氏を攻め落した。 奈良炎上高倉宮の事件以来、奈良の僧徒らの反抗が絶えず、ついに清盛は重衡を大将軍として攻めさせ、僧兵は大敗する。 夜、平氏の放った火に大仏は焼け落ち、焼死者もおびただしい数に上った。天下の衰微する前兆であろう。 どくろ
ちゃうしもペ 「これは庁の下部をあざむくにこそ」と申せば、「さりとては文覚は、観音をこ 一底本「安濃」と傍書。安濃津。 そふかうたのみたてまったれ。さらでは誰にかは用事をばいふべき」とぞ申し津市安濃川の河口。『盛衰記』は渡 みちゅき 辺から船出したとし、簡単な道行 語 がある。 物ける。 おまえ 家 ニ三重県大王崎から静岡県御前 せのくにあの とほたふみてんりゅうなだ にはかおほかぜ 平伊勢国阿野の津より舟に乗ッてくだりけるが、遠江の天竜灘にて、俄に大風崎に至る。遠州灘。 三水手は水夫、船乗。梶取 ( 楫 ふき大なみたツて、すでに此舟をうちかへさんとす。水手梶取どもいかにもし取 ) はカジトリの転。船の運航の 責任者。船頭。 あるい みやうがう てたすからんとしけれども、波風いよ / 、あれければ、或は観音の名号をとな あるいさいご へ、或は最後の十念におよぶ。されども文覚これを事ともせず、たかいびきか四臨終に当って十回念仏を唱え 竫 0 こ A 」。 いてふしたりけるが、なにと か思ひけん、いまはか , っとお ばえける時、かッばとおき舟 五 おきかた の舳にたツて、奥の方をにら だいおんじゃう りゅう まへ、大音声をあげて、「竜 王ゃある、竜王ゃある」とぞ ようだりける。「いかにこれ わう へ すいしゆかんどり っ . 文覚は伊勢の阿野津から船で伊豆へ流される。 五沖と同じ。 六延慶本は、竜王について人々 に長々と談義するところがある。 セ「よびたりける」の音便。