下野 宇都宮 宇都宮氏 / ト山 、。足利氏 栃木 田氏 - ・ ) 歳 越氏。 企氏荒 熊谷 小山氏 i 足立氏 i 。古河 氏 ! 平家物語 332 関東周辺地図 常陸太田 水戸 八田氏 / 小栗氏 珂ハ、 常。陸 石岡 ヶ浦 土浦 ・下河辺氏、 ・川葛西氏 印旛沼 - ・ 手鼓沼下 豊島氏 府中江戸氏 渋谷氏 田戸 川崎。 佐々木氏 飯田氏ー . 。横浜京 庭氏腰・、鎌 須賀 越乱氏 0 、一 三浦氏多、良氏 大多氏井氏 。船橋 千葉氏 。千葉 上総氏 周西氏 。木更津 房総半島 上総 和ⅲ氏 安西氏 安房 白浜 50km ンダーラインをしたものは、頼朝の反対勢力である。 朝が挙兵した時点での関東における勢力分布を示し、ア 「平家物語」関係の地名は太字で示した。氏族名は源頼
伝源頼朝画像 京都・神護寺蔵 衣冠束帯姿の源頼朝である 平治の乱で破れた父義朝の遺志 を継いで伊豆に挙兵した頼朝は 平氏を打倒、建久三年 ( 二九一 I) 征夷大将軍となった。この図は : せえ 鎌倉初期の以絵 ( 肖像画 ) の名 手、藤原隆信の筆と伝えられる 格調の高い肖像画の傑作。涼や かな目元、きりりと引き結ばれ いかにも武家政治を た唇など、 開幕させた若き覇者の意気にあ ふれた面持である。絹本着色の 掛幅装。
都遷治承四年 ( 一一〈 0 ) 六月 = 日、福原へ遷都。法皇は再び福原で監禁される。神武天皇以来遷都の例は多いが、特にすぐ れた都の平安京を、清盛が遷したのは、恐ろしいことであった。人心の動揺は甚だしい。 月見秋、各地で月見が行われたが、′ 徳大寺実定は旧都の近衛河原の大宮 ( 二代后 ) を訪ね、今様を謡い一夜を過す。帰り がけに、供の蔵人と大宮に仕える、待っ宵の小侍従との間に和歌の贈答がある。 物怪之沙汰新都では不吉な怪異があれこれと起る。また源雅頼に仕える青侍は、政権が平氏から源頼朝に移り、さらに藤 原氏へ移ることを暗示する、神々の会議の夢を見る。出家して高野山にいた成頼はこの夢に解説を加える。 早馬九月一一日相模の大庭景親から早馬が到着、八月十七日伊豆の頼朝の旗揚げ、石橋山合戦の敗北を報じた。清盛は激怒。 朝敵揃古来朝敵で成功した例はない。昔は皇威も顕著で醍醐帝の時、鷺が勅命に従い飛び立たぬこともあったほどである。 とら たん 咸陽宮外国の例では燕の太子丹の故事がある。丹は秦の始皇帝に囚われたが、奇跡により帰国できたのち、始皇帝暗殺を しんぶよう 謀った。軻と秦舞陽が刺客として秦に赴いたが、失敗した。「頼朝もこれと同じ運命になろう」という者もあった。 文覚荒行頼朝の謀反は文覚の勧めによる。文覚は俗名遠藤盛遠、出家後那智で不動の加護を得、荒行を重ねた験者である。 勧進帳文覚は帰京後、高雄山に入り神護寺修造を思い立ち勧進をして歩いた。ある日院御所に侵入、勧進帳を読み上げた。 文覚被流文覚は入獄したが、ほどなく大赦で許された。しかし不穏なことを言い散らすので再び捕えられ、伊豆国へ流さ れた。途中、賄賂を要求した護送役人を煙に巻いたり、暴風雨に遭って竜王を叱りつけたりする。 福原院宣伊豆の文覚は頼朝に父義朝の髑髏を見せ、福原から平氏追討の院宣を受け示したので、頼朝も挙兵を決意する。 富士川九月十八日維盛・忠度ら三万余騎が出発。忠度は日頃通う女房を訪ね、歌を詠む。一一十一一日高倉院厳島参詣。維盛 おじけ らは富士川に到着。斎藤実盛に敵状を尋ね、その剛勇に怖気づいた平氏は合戦の前夜、水鳥の羽音を敵軍来襲と信じ逃亡。 五節之沙汰翌朝源氏が対陣すると平氏は一兵もなく、笑い物となる。清盛は激怒したが、維盛は処罰どころか恩賞に預か る。昔将門の乱で藤原忠文・清原滋藤が出征した際は、リ 至着前に平定のため勧賞がなかった十一月十三日新内裏完成。 都帰今度の遷都は非難の声が多かったので、清盛も十二月二日、都帰りをすることにした。この遷都は南都・北嶺の圧力 を避けるためだったという。十二月二十三日、知盛・忠度らの軍勢が出発、近江源氏を攻め落した。 奈良炎上高倉宮の事件以来、奈良の僧徒らの反抗が絶えず、ついに清盛は重衡を大将軍として攻めさせ、僧兵は大敗する。 夜、平氏の放った火に大仏は焼け落ち、焼死者もおびただしい数に上った。天下の衰微する前兆であろう。 どくろ
327 巻第六横田河原合戦 ぶせん 峰山の僧徒、伊勢大神宮の祭主、神官に至るまで、全く平 家に背いて、源氏に心を通じていた。四方に天皇の宣旨を 下し、諸国に院宣を遣わすけれども、院宣も宣旨もすべて 平家の命令とばかり心得て、従いつく者は無かったのであ っこ。
の遠火の多さだ。なるほど、ほんとうに野も山も、海も日 えて戦うのです。西国の合戦といいますと、親が討たれて 2 しまうと供養をし、忌が明けてから押し寄せ、子が討たれも、皆、敵でいつばいなのだな。どうしよう」とあわてた。 ひょうろう てしまうと、その悲嘆のために寄せるのをやめます。 - 兵糧その夜の夜半頃に、富士川の沼にたくさん群がっていた水 語 物米がなくなってしまうと、春に田を作って秋に収穫してか鳥どもが、何に驚いたのか、ただ一時にばっと飛び立った 家 ら寄せ、夏は暑いといい冬は寒いといって嫌います。東国羽音が、大風か雷などのように聞えたので、平家の兵士た 平 か しなの では、全くそのようなことはありません。甲斐・信濃の源ちは、「そりや、源氏の大軍が寄せてきたそ。斎藤別当が すそ 申したように、きっと背後にも回っていよう。取り籠めら 氏どもが、土地の事情はよく知っております。富士の裾か おわりがわすのまた ら、背面に回りましよう。このように申すと、あなたをおれてはかなうまい 。ここを退却して、尾張川、洲俣を防げ びえさせ申し上げようとして申すようですが、そうではあや」といって、とる物もとりあえず、我先にと落ちで行っ りません。合戦は軍勢の多少にはよらず、はかりごとによ た。あまりにあわて騒いで、弓を取った者は矢を見つけず、 って決まると言い伝えております。実盛は今回の合戦で生矢を持った者は弓を見つけない。他人の馬には自分が乗り、 き延びて、もう一度都へ参れようとも思っておりません」 自分の馬は他人に乗られる。ある者はつないだままの馬に と申したので、平家の兵どもはこれを聞いて、皆ふるえお乗って、駆けさせようとするので、杭の周囲を際限もなく ののきあった。 巡る。近くの宿場宿場から呼んできて遊んでいた遊女ども は、あるいは逃げる兵士に頭を蹴り割られ、あるいは腰を そのうちに十月二十三日となった。明日は源氏と平家が 富士川で矢合せをすると決めていたのだが、夜になって平踏み折られたりして、わめき叫ぶ者が多かった。 ずするが 翌二十四日の午前六時頃、源氏の大軍二十万騎は、富士 家のほうから、源平の陣を見渡すと、伊豆・駿河の人民百 日の岸に押し寄せて、天にも響き大地も揺れ動くほどに、 姓らが、合戦を恐れて、あるいは野へ逃げ山へ隠れ、ある とき いは船に乗って海・川に浮び、煮炊きする火が見えたのを、鬨の声を、三度あげた。 平家の兵士どもは、「ああ、なんとおびただしい源氏の陣
おなじき とをかのひみののもくだい 一国司に代って国務を行う者。 同三月十日、美濃目代都へ早馬をもッて申しけるは、「東国の源氏ども、 地方官の代官。 ニ直接話法から間接話法に転じ すでに尾張国までせめのばり、道をふさぎ人をとほさぬ」よし申したりければ、 ているが、便宜上「」をつけた。 語 うって たいしゃうぐん さひやうゑのかみとももりひだんのちゅうじゃうきよっねこまつの 物やがて打手をさしつかはす。大将軍には左兵衛督知盛、左中将清経、小松三清盛の子。清経・有盛は重盛 家 の子、維盛の弟。 せうしゃうありもり はつかう 平少将有盛、都合其勢三万余騎で発向す。入道相国うせ給ひて後、わづかに五四五 + 日。一旬は + 日。 しゅん 旬をだにも過ぎざるに、さこそ乱れたる世といひながら、あさましかりし事ど じふらうくらんどゆきいへひやうゑのすけ きゃうのきみぎゑん 三源義朝の子。母は常磐。義経 もなり。源氏の方には大将軍十郎蔵人行家、兵衛佐のおとと卿公義円、都合 の兄。 をはりがは りや、つばう 六木曾川の古名。 其勢六千余騎、尾張川をなかにへだてて源平両方に陣をとる。 セ『吾妻鏡』『玉葉』によると、 おなじき 同十六日の夜半ばかり、源氏の勢六千余騎、河をわたいて平家三万余騎が三月十日に合戦が行われ、源氏方 が大敗した。 とら・こく ゃあはせ ↓一四四ハー注 = 。 中へをめいてかけ入り、明くれば十七日寅の剋より矢合して、夜の明くるまで ^ たたかふに、平家のかたにはちッともさわがず、「敵は川をわたいたれば、馬、 もののぐ おほぜい 物具もみなぬれたるぞ。それをしるしでうてや」とて、大勢のなかにとりこめ て、「あますな、もらすな」とてせめ給へば、源氏の勢のこりずくなに打ちな九 ( 敵を ) 残すな。 され、大将軍行家からき命いきて川よりひンがしへひきしりぞく。卿公義円は一 0 「おふものい」の転。オンモノ イともいう。馬に乗り、獣などを おものい ふか入りしてうたれにけり。平家やがて川をわたいて源氏を追物射に射てゆく。追いかけて射ること。はせゆみ。 てき
厳島御幸治承四年 ( 一一合 ) 二月、高倉天皇は三歳の安徳天皇に譲位、外戚の平氏の勢威は絶頂に達した。三月、新院は法 いつくしま 皇に不満な清盛の心を和らげるため、厳島参詣を思い立ち、出発に際して法皇に面会する。 還御厳島参詣を終え、帰途風流の遊興もあって福原を経て帰京。四月、新帝は紫宸殿で即位、異例の事との声が多かった。 源氏揃当時、法皇の第一一皇子で不遇であった高倉宮に対し、頼政は諸国の源氏を列挙し平氏討滅の旗揚げを勧める。宮も たんぞう 決意し、新宮の行家に命じ令旨を頼朝に伝えさせる。熊野別当湛増がこれを知り、那智・新宮の勢に戦を挑むが大敗する。 いたち 鼬之沙汰五月十二日、鳥羽殿で鼬が騒いだので、法皇は陰陽頭安倍泰親に占わせたところ、三日以内に吉事と凶事とがあ るという。宗盛のとりなしで、清盛もようやく法皇の幽閉を解く。湛増から高倉宮謀反の報が届いた。 信連高倉宮は頼政の急報により三井寺へ逃れる。あとに残った長兵衛尉信連が、追捕に来た平氏の軍を相手に奮戦する。 競頼政の謀反は、宗盛が頼政の子仲綱の愛馬を奪い仲綱を侮辱したからである。五月十六日夜、頼政一族が三井寺に赴い きおう た際、一人遅れた家来の渡辺競は宗盛に仕えると見せかけ、彼の愛馬をだまし取って三井寺に参じ、仲綱の恨みをはらす。 ちょう 2 レト - う・ 山門牒状三井寺では大衆が清盛を討っことを決め、同じ天台宗の山門 ( 延暦寺 ) に協力を求める牒状を送った。 南都牒状山門では清盛の買収もあって同調しない。三井寺は興福寺へも牒状を送り、同寺からは同心の返牒が届く。 永僉議三井寺では夜のうちに清盛邸を攻める計画をたてたが、平氏に内通する真海阿闍梨がわざと議論を引きのばした。 からめて 大衆揃三井寺の大衆と源氏の武士とが大手・搦手に分れて出発したが、夜が明け放れたため夜討は中止となった。高倉宮 は、愛用の笛を金堂に奉納して興福寺へ移ろうとする。慶秀という老僧が別れを惜しむ。 たじま 橋合戦源氏方は、宮を宇治の平等院で休ませ、追って来た平氏の大軍と川を挟んで激しく戦う。矢切の但馬、筒井の浄妙 明秀、一来法師などのめざましい活躍があったが、平氏は足利又太郎忠綱の指揮で川を渡る。 宮御最期平等院へ攻め入った平氏と乱戦。頼政は宮を逃して自害、一族も討死。宮は奈良への途中、平氏に討たれる。 若宮出家戦死者の首実検がある。高倉宮の若宮 ( 生母三位局 ) は清盛邸へ連れられたが、宗盛の計らいで法師となった。 通乗之沙汰奈良にいた他の若宮は出家して北国へ下向、後に義仲が皇位に即けようとする。高倉宮謀反は少納言伊長が帝 王の相ありと告げた故だが、彼の誤りで、才学すぐれた皇子でも即位しない例は多い。以後平氏は思うままに賞を行う。 頼政は歌と弓の名人で、近衛・一一条両帝を脅かす怪鳥を二度も退治し、しかも巧みに連歌を返して名を挙げた。 三井寺炎上平氏は三井寺を焼き払い、僧たちを処罰した。こうした騒乱は平氏の世も末に近づいた前兆かと噂された。
じゃまさよしそのこのたらうただよしおなじくさぶらうよしむねしらうたかよしごらうよしすゑむつのくに 者正義、其子太郎忠義、同三郎義宗、四郎高義、五郎義季、陸奥国には、故左孫王、依レ為 = 第六親王子一也」 ( 尊 卑分脈 ) 。その子が満仲。 まのかみよしともばっし くらうくわんじゃよしつね ろくそんわうべうえい ただのしんばつまんぢゅうこういん しんばち 馬頭義朝が末子、九郎冠者義経、これみな六孫王の苗裔、多田新発満仲が後胤一五新発意 ( 元和版など ) 。新たレ ほっしん 道心をおこした人。発心者。 しゆくまう しようれつ なり。朝敵をもたひらげ、宿望をとげし事は、源平いづれ勝劣なかりしかども、一六かねがね持っている立身出世 の望み。 うんでい しゅじゅう 今は雲泥まじはりをへだてて、主従の礼にもなほおとれり。国には国司にした宅と下の差が甚だしくて、交わ ニ 0 りを結ぶことができなくなって、 しゃうあづかっしょ くじぎふじ がひ、庄には預所につかはれ、公事雑事にかりたてられて、やすい思ひも候はの意。雲泥は、雲と泥とのように 隔たりが甚だしいことのたとえ。 りゃうじニ一 一 ^ 主従の礼をとる関係。平氏と ず。いかばかり心うく候らん。君もしおばしめしたたせ給ひて、令旨をたうづ 源氏は主従の間柄よりも差が激し じじっ 、源氏が劣っている、の意。 るものならば、夜を日についで馳せのばり、平家をほろばさん事、時日をめぐ 一九荘園領主に代り、下級荘官を らすべからず。入道も年こそよッて候とも、子共ひき具して参り候べし」とぞ指揮し、年貢徴収などの事務を行 った者。 申したる。 ニ 0 公の事務や雑用。 ニ一「たびつる」の音便。 しよういん 宮は此事いかがあるべからんとて、しばしは御承引もなかりけるが、阿古丸一三右大臣藤原俊家の子。幼少の 時から白河院に養育され、阿古丸 揃だいなごんむねみちのきゃう びんごのせんじすゑみち せうなごんこれなが 氏大納一一 = ロ宗通卿の孫、備後前司季通が子、少納言伊長と申し候、勝れたる相人と号した ( 尊卑分脈 ) 。 ニ三「申し候は」の意。 さうせうなごん 四なりければ、時の人相少納言とぞ申しける。其人が此宮を見参らせて、「位に ニ四 品「思ひ放っ」の敬語。思うこと さ、つ てんか おばしめ 即かせ給ふべき相まします。天下の事思食しはなたせ給ふべからず」と申しけ ( 考え ) を放棄する意。あきらめる。 一宝そうなるにちがいない。諸本 げんざんみにふだう てんせうだいじん るうへ、源三位入道も、かやうに申されければ、「さてはしかるべし、天照大神「然るべき」のほうがわかりやすい ニ五 み あこまるの さうにん
( 現代語訳一一五八ハー ) しゅ ごむほん てうぶくほふ かうそうたちけんじゃう 高倉の宮御謀叛の間、調伏の法承ッて修せられける高僧達に勧賞おこなはる。一四源氏を賜って臣籍に降った皇 子。 じじゅうきょむね一セ さんみのじじゅう ことしわづ 三陽院の誤り。天長五年 ( 全 0 前右大将宗盛卿の子息、侍従清宗三位して三位侍従とぞ申しける。今年纔かに 源姓を賜り、同九年無位より従三 ひやうゑのすけ たちまかんだちめ 十二歳、父の卿もこのよはひでは、兵衛佐にてこそおはせしか。忽ちに上達部位に叙せられ、貞観五年 ( 会 D 没。 ニ 0 四条大納言、陽院大納言、また賀 いちひときんだちほか みなもとのもちひと やのいん くぎようぶにん にあがり給ふ事、一の人の公達の外ま、、 。しまに承り及ばず。「源以仁、頼政陽院大納言と号した ( 公卿補任 ) 。 1 一うぶく 一六怨敵を降伏させるため行う法。 ふしついたうしゃう ききがき たかくらのみや 法師父子追討の賞」とそ除書にはありける。源以仁とは高倉宮を申しけり。ま宅「従三位清宗 ( 前右大将追討 源以光井頼政法師已下一賞 ) 」 ( 玉葉 だいじゃうほふわうわうじ さしい太上法皇の皇子をうち奉るだにあるに、凡人にさへなし奉るそあさまし・治承四年五月三十日条 ) 。 一 ^ 宗盛は永暦元年 ( 一一六 0 ) 十四歳 で右兵衛佐。 一九公卿。三位以上及び四位参議。 ニ 0 摂政・関白の異称。 ニ一源以光の誤り。以仁王の乱の 際、源姓とし、仁を改めて光とし たことが、『山槐記』などに見える。 じも′、 一三除目の理由を書いた文書。 ニ三臣下。 ニ四 ( 六孫王 ) 経基ー満仲ー頼光ー 頼国ー頼綱ー仲政ー頼政。 つのかみよりみつ みかはのかみよりつなまごひやうごのかみなかまさ 四抑源三位入道と申すは、摂津守頼光に五代、三河守頼綱が孫、兵庫頭仲政一宝保元元年 ( 一一き後白河天皇方 で平清盛・源義朝らと共に戦う。 巻 ほうげんかっせん が子なり。保元の合戦の時、御方にて先をかけたりしかども、させる賞にもあ兵平治元年 ( 一一五九 ) 藤原信頼・源 義朝が平氏と戦った乱。頼政は始 ニ六 げきらん おんしゃう づからず。又平治の逆乱にも、親類をすてて参じたりしかども、恩賞これおろめ義朝方だが変心して平氏につく そも / 、 0 めえ みかた ニ四 しんるい さき ばんにん
たうごくよこたがはらぢん よだのじゃう 一信濃国更級郡 ( 長野市 ) 。千曲 当国横田河原に陣をとる。木曾は依田城にありけるが、是をきいて依田城をい 8 川の西岸。 - 一と はむか しなのげんじ ゐのうへのくらうみつもり あか ちいさがた でて三千余騎で馳せ向ふ。信濃源氏、井上九郎光盛がはかり事に、にはかに赤 = 信濃国小県郡。現在上田市 の南方依田山にあった城。 語 はたなな ななて 三源頼信の子孫。頼信の三男頼 物旗を七ながれつくり、三千余騎を七手にわかち、あそこの峰、ここの洞より、 家 季以来信濃に住し、井上を称した。 あかはた てんで じゃうのしらう 四平氏の旗 ( 源氏は白旗 ) 。「な 平赤旗ども手々にさしあげて寄せければ、城四郎是をみて、「あはや此国にも、 がれ」 ( 流 ) は、旗を数える時に用 かたうど いる語。赤旗を七本、の意。 平家の方人する人ありけり」と、「カつきぬ」とて、いさみののしるところに、 五元和版「有ケルハ。カ付ヌ」 ひと 次第にちかうなりければ、あひ図をさだめて、七手が一つになり、一度に時を ( あったのだな。勢力がついたぞ、 の意 ) 。熱田本も同じ。 しらはた七 せいども どッとそ作りける。用意したる白旗ざッとさしあげたり。越後の勢共是をみて、六合図。元和版・正節奎相図」。 七正節本「颯ッと」 ( 颯に濁点を かたきなんじふまんぎ 付す ) 。物事が急いで手早くされ 「敵何十万騎あるらん。いか るさま ( 日葡辞書 ) 。 れ ^ 「追いはめられ」の音便。 がせん」と色をうしなひ、あ た 射九険難な所、険しい所。 あるい わてふためき、或は川にお 一 0 未詳。越後国古志郡夜麻郷 多 ( 長岡市の辺か ) の住人かという。 て = 屋代本・延慶本「乗湛坊」、 ばめられ、或は悪所におひお - し り『盛衰記』は「勝湛房伝未詳。福 とされ、たすかる者はすくな一 島県耶麻郡大寺の恵印寺の僧 ( 衆 徒頭 ) で、長茂と関係があったら 落 しい ( 大日本地名辞書 ) 。 う、うたるる者そおほかりけ げんにん 三還任。一度離れたもとの官職 じゃうのしらう 走 に復すること。『公卿補任』養和一一 る。城四郎がたのみきッたる 敗 ほら とき