文正草子 げろう いったい、昔から今に至るまで、めでたいことを聞き伝わたって仕えている者である。下郎であるが、心は正直で、 えているが、わけても、いやしい者が格別に出世して、初主人のことを大事に思い、いつもその心にそむくまいと、 ひたちの めから終りまでも、つらいことがなくめでたいのは、常陸奉公していたけれども、ある時に、かれの心を試そうと思 しおやきぶんしよう 国に住む塩焼の文正と申す者であった。 われたのか、主人の大宮司殿が、「おまえは、長年仕えて そのわけを尋ねると、常陸国の十六郡の中に、鹿島の大いる者ではあるが、わしの気に入らないものである。どの みようじん れいげん 明神といって、霊験あらたかな神社がおありになった。そ ような所へでも行って暮すがよい。また考え直しでもした だいぐうじ の神社の神主に、大宮司と申す人がおられたが、長者でい ような折には、帰ってこい」とおっしやったので、文太は、 たとえ千人万人の奉公人がいるとしても、自分の命の続く らっしやった。四方に四万の倉を建て、ありとあらゆる宝 がいつばいで、何一つ足りないこともなく、すべて思いの かぎりはご奉公いたそうと思っていたのに、このような仰 ままで、さまざまのものがある。家の数は一万八千軒であせが下るうえはやむをえない、しかしながら、どこにいて ろうどう 子 る。家内の者は、郎等に至るまで数えきれないほど多く、 も、主人のことをおろそかに思ってはならない、またすぐ 草 正女房たちゃ奥づとめの者は八百六十人である。男の子が五 に帰ってこようと思って、どこともなく行くうちに、つの しおや 文 人いたが、いずれも顔かたちゃ芸能がだれよりもすぐれて をかの磯という、塩を焼く浦に着いた。ある塩屋にはいっ 3 いた。 て、「私は旅の者でございます。お世話をしてください」 ぶんだ また、大宮司殿の下男に、文太という者がおり、長年に と申したところが、主人がこれを聞いて、身元もわからな くに ぶんしようそうし かしまだい
者どもをば、敵とのたまへば、この国へは人れぬなり。あひかまへて、葦原国へくそくして、を ( 欠字 ) ろき事き かんとて、つれまいらせて、かい お しゅぎゃうじゃ しやく ( 欠字 ) てまつりつゝ申ける の者とばし仰せあるな、修行者」と申しける。まことにまめやかに語りける。 は」とある。 たんごのくに 一 0 吹き落されて。吹き流されて。 「いかに修行者、わが身は、もとは日本の丹後国の者なるが、西風に落されて、 = はい、そうです。「さにさう らふ」の音便。応答の敬語。 今この国にありしなり。日本はいづくの人にてましますぞ。御なっかしや」と 一ニ一人称の代名詞。単数の謙称 つくし 一一ざうら 申しけり。「さん候ふ、われわれは筑紫の者にて候ふが、遁世修行の者にてあとしても用いられる。 一三笹野本に「人のやとをかす時 り。いづくをすみかと定めねば、なきままの宿として、幾度夢やさますらん。もあり、さなきときは、ふるたう、 みややしろを、やとなきま、にや こんじゃうゆめまろし ととして」、慶応本に「とせいしゃ されば、今生は夢幻のごとくなり。さるほどに、われらも、御身のごとく、 にやとをかすときもあり、さなき きた ときは、ふるきたうてら、みやや 悪風に吹き落され、今この国に来りたり。さて、はくもん王の内裏は、いづく しろをやとなきまゝにやとゝし たてまっ て」とある。宿のないままに、ど にて候ふぞ。拝み奉りたき」とのたまへば、「やすきほどのこと、みづからが んな所でも宿としての意。 かた むすめ 女をば、しやこん女と申して、姫君の御方に候ふなり。そのほか、はさら女、一四未詳。笹野本に「しやこっ女。 とある。 きさき 国じんつう女、あくとう女、しゅんしや女とて、あまたの女房を后に付け申され一 = 以下、未詳。笹野本に「ひは 女、はきら女、しんつう女、はら ちょうあい 天 とう女、やしや女、あくとく女な 候ふ。そのうへ、修行者をば、はくもん王も御寵愛候ふぞ。参らせ給へ」と 梵 とゝ申て」、慶応本に「はさらによ、 しんつう女、さうそくによ、あく ぞ申しける。 とくおんな、しゅんしやおんなと こよひ て」とある。 さるほどに、はくもん王より御使ひあり、「今宵、不思議の鳴るものあり、 一四 かたき とんせい み 一五
ひかりもの 目に、大風が吹いて、波が荒く、光物が飛びしきり、二十に詳しく語った。「なんと修行者、私は、もとは日本の丹 もやい 後国の者ですが、西風に吹き流されて、今はこの国に住ん 四艘の船の、舫の綱も吹き切って、ちりちりになったが、 らせつこく ちゅうなどん でいるのです。日本はどこの人でいらっしゃいますか。お 中納言の乗られた船をば、吹き切ることもなく、羅刹国へ つくし なっかしいことです」と申しあげた。「さよう、私は筑紫 子と吹きつけた。 みなと の者でございますが、世をのがれて修行する者なのです。 とある湊に上がり、心細いので笛をお吹きになる。ちょ どこをすみかと定めていないので、どんな所をも宿として、 うどその時に、この世の人とも思われない、頭髪は上方へ 生え上り、色が黒く、背の高い者が大勢集って、吹いたも幾度目ざめることでしよう。そういうわけで、・この世は夢 まをろし や幻のようなものです。そのうちに、私も、あなたのよ のは優雅なことだと、ひどく感動して聞いていた。「いか にも、これは日本国の人であろう」などと言う。「この国うに、悪い風に吹き流され、今はこの国にやって来てしま いました。ところで、はくもん王の御殿は、どこでござい はどこか」とお尋ねになると、「これこそ羅刹国で、この ますか。拝見したいものです」とおっしやると、「やさし 国のご主君は、はくもん王」とお答えした。「いっぞや、 をんぞんこく いことです、私の娘は、しやこん女と申しまして、姫君の 梵天王の姫君を取ろうとして、梵天国へおいでになりまし ろう おそばにお仕えしております。そのほか、はさら女、じん たが、四天王がお捕えなさって、牢に置かれました。とこ ろが、大王の御殿の米を食い、神通力を得て牢を破り、姫つう女、あくとう女、しゅんしや女といって、数多くの女 き」き を奪い取り、一の后として大事にお世話しておられるので房を后におつけしています。そのうえ都合のよいことに、 す。このごろは、姫君が母君の後世を弔うためというので、修行者をば、はくもん王もおかわいがりなさいますよ。い せんにちきよう らっしやってごらんなさいませ」と申しあげた。 別に御殿を建て、千日経を読んでいらっしゃいます。はく かたき そのうちに、はくもん王からご使者があり、「今晩、思 もん王が日本国の人々をば敵とおっしやるので、この国へ ねいろ いも及ばない音色が聞えたが、吹いた者を、急いで御殿へ は人れないのです。よく気をつけて、日本国の者とはおっ しゃいますな、修行の方」と申しあげた。そして、まこと参上させよ」という仰せである。そこで、すぐに宮殿へ参 ( 原文一七四 ) そう ごせ ごのくに たん
の人は、情けがあって、どのような人をも嫌わないで、容 か月まで召し使われた。ようやく十一月の頃にもなったの ひま 色のすぐれたお方も、たがいに夫妻と頼み頼まれるのが世で、お暇をいただいて、国に下ろうとして、これまで泊っ の常のことです。そういうわけで、都へ上り、心ある人と ていた宿に帰り、自分の身の上をよくよく考えてみて、国 子も連れ添って、魂をもお備えなさいませんか」とさまざま もとでは、都へ上ったならば、よい女と連れ添って戻って 伽に教えさとすと、ものくさ太郎はこれを聞き、「それは結こいなどと言ったが、ひとりで下ることは、あまりにさび 構ですが、そういうことでしたら、急いで上京させてくだ しいではないか、女を一人捜し求めたいと思い、宿の主人 さい」と言って、出発しようとする。百姓どもは、一同みを呼び寄せて、「信濃へ下ります。できることならば、私 なたいそう喜び、金銭を集めて、京へ上らせた。 のような者の妻になりますような女を、一人捜してくださ とうせんどうしなの 東山道を信濃から上りながら、多くの宿駅を通ったが、 い」と申したところが、宿の男はこれを聞き、「どのよう いっこうに面倒くさいことはない。七日目に、京へ着き、 な者が、おまえの女房になろうか」と言って笑った。しか ながぶ 「私は、信濃国から参りました。長夫の者でございます」 しながら、かれの言うことについて、宿の男は、「捜し求 と申したので、人々は、これを見て笑った。「あれほど色めることはたやすいことだが、夫婦になるということはた が黒く見苦しい様子の者も、世間にはあったのだな」と言 いへんなことなのだ。遊女を捜して相手とするがよい」と だいなごんどの って笑った。大納言殿はお聞きになり、「どのような者で 言う。「遊女とは何ごとですか、どのようなものをいうの も、よく働いて使われるならば、それでよかろう」とおっ ですか」と尋ねたところが、「夫のない女を呼んで、金銭 しやって、召し使われた。都での様子は、信濃国よりはすを与えて逢うことを、遊女の遊びというのだ」と答える。 ひがしやまにしやまごしょだいり やしろ ぐれていた。東山や西山、御所や内裏、堂や宮や社のおも 「そういうことならば、捜してください。帰りの用意に、 こづかいせん しろく尊いことは、ことばに言い尽くせない。ものくさ太 小遣銭が十二、三文あるので、これを与えてください」と 郎の態度には、少しも面倒くさそうな様子もない。これほ 申したので、宿の主人はこれを聞き、まったく、これほど どよく働く者はあるまいというわけで、三か月の長夫を七のばか者はないと思って、また、「そういうことならば、
きた 一うっとうしい。むさ苦しい。 りて、「あな恐ろしの者の心や、これまで尋ねて来る不思議さよ。人こそ多き ニ当番の者。宿直の者。 三そうでなくてさえ。ただでさ に、あれほどきたなげにいぶせき者に、思ひかけられ、恋ひられたるこそ悲し え。 集 なげ 子けれ」とて、なでしこに語り歎き給ひける。かかるところに、番の者ども、立 0 「五障」とは、女人のもってい る五つの障害で、梵天王・帝釈・ 伽 けしき 魔王・転輪聖王・仏身になれない 御ち出で言ふやうは、「人の気色のあるや こと。『法華経』提婆達多品などに 説かれる。「三従」とは、女人の従 らん、大がほゆる」と言ひて、人々騒ぎ うべき三つの道で、家にあって父 ( 絵 ) に従い、嫁して夫に従い、夫が死 けり。 を の んで子に従わなければならないこ にようばう あ と。『儀礼』喪服篇などに説かれる。 女房おぼしめしけるは、あらあさまし 語 五何のさしつかえがあろうか。 かまわない。 や、あの者をうち殺さんも恐ろしや、さ 女 四 六仮の宿。間に合せの宿舎。 下 どしゃうさんしゆっみふか 七明け方にだまして追い返せ。 なきだに、女は五障一二従に罪深きにと 局 の ハ「ゐる」は、座る意。 こよひ 九疾く疾く。早く早く て、涙を流し給ひける。今宵ばかりは、 一 0 寝殿造では、建物の四隅にあ で けの 下る両開きの戸。 何か苦しき、かり宿して、曙にすかして 縁 = 畳のヘりの一。白地に黒く雲 たたみ やれとて、古き畳を敷きてゐよとてたび 邸形・菊花などの模様を織り出した の もの げちよきた の 一ニ主語が、ものくさ太郎に変る。 たり。下女来りて、「明けなば、人に見 橘 一三ああ。感動の声を表す語。 一四竹などで編んだ籠で、その端 えず、とくとく帰れーとて、ある妻戸の 六 ばん かご
で、後世までこの地の百姓は毎年 人りて申すやう、「これは旅の者にて候 鹿島神宮に塩を奉納したという。 一七め しおがま ふ。御目をかけて給はれーと申しけれ 一五塩を作る小屋。塩竈のある小 屋。 うはそら る ば、主聞きて、上の空なる者なれども、 = ( 自称の代名詞。私。 れ 宅お世話をしてください。面倒 ら 見 をみてください。 見るよりそぞろにいとほしく思ひて、そ 一八あてにならない者。身元の確 ひかずふ あるじ かでない者。 の家に置きける。日数を経るほどに、主 掻ー 一九何となく心ひかれるさま。 を 砂 ニ 0 手持ち無沙汰で。所在なく。 申しけるは、「かくてつれづれにおはせ み 汲ニ一塩竈用の燃料として、非常に たきぎ 潮多くの薪を要した。関東の塩焼で んより、塩焼く薪なりとも取り給へ」と よしかやしのささ は葭・萱・篠・笹を用いたという。 言ひければ、「いとやすきことなり」と 一三ひととおりでなく。非常に。 を 薪「なのめならず」と同じ。 だいぢから ニ三他に類のないほど役に立つ者、 て、薪をぞ取りける。もとより大力なれ 無二の奉公人。 磯 = 四次行の「申すやう」と重複して、 ば、五六人して持ちたるよりも多くして 「この年月以下にかかる。 きた ( 絵 ) あるじニニ を の ニ五ごほうび。恩賞。 ぞ来りける。主なのめに喜びて、又なき 子 っ ニ六塩を作る竈。そこで用いる釜 草 者と思ひける。 は、その材料によって、あじろ釜 正 ・貝釜 ( 土釜 ) ・石釜・鉄釜に分け 文 としつき かくて年月を経るほどに、文太申しけるは、われも塩焼きて売らばやと思ひ、られる。ここでは、貝釜または土 釜といって、貝殻の粉を練り合せ 一 1 あるじ つかまっ て造ったものを用いた。 主に申すやう、「この年月、奉公仕り候ふ御恩に、塩竈一つ給はり候へかし。 あるじ ニ四 0 しがま かまど
わかざむらい て、「あの者を呼んでこい」とおっしやると、若侍どもが めおかれた。ところで、「身につけた技能は何か」とおっ 2 二、三人走り出て、あの鉢かずきを連れて参る。「どこの しやったので、「何とも申しあげようもありません。母に びわわどんしようひちりき 浦の、どのような者か」とおっしやるので、鉢かずきが、 付き添われていた頃は、琴、琵琶、和琴、笙、篳篥をかな 集 かたの けきよう 子「私は交野の辺の者でございます。母に早く死に別れ、悲で、『古今集』『万葉集』『伊勢物語』や『法華経』八巻、 伽しみのあまりに、このような片端にさえなりましたので、 多くのお経をも読みましたが、そのほかに能はありませ なにわ あわれむ者もないままに、難波の浦でも何という浦でもか ん」とお答えする。「それでは、これという能もないのな ゅどの まわないと、足にまかせて迷い歩いております」とお答え ら、湯殿に置け」と命ぜられたので、まだ経験のないこと したところが、さてさて気の毒なことよとお思いになり、 ではあるが、時勢に従うのが世の常であるから、湯殿の火 「頭に載せた鉢を取り除いてやれ」と命じて、一同の者が を焚かれた。夜が明けると、見る人が笑いなぶり、憎らし 寄って取ろうとしたが、しつかりと吸いついて、たやすく がる人は多いが、情けをかける人はない。明け暮れ、「お さんこう ぎようずい は取れそうもない。これを人々がごらんになって、「何と 行水だぞ、鉢かずき」と、三更、四更も過ぎないのに、五 いう怪物なのか」とあざけった。 更の空も明けないのに、無理に起されて、かわいそうに、 ちゅうじようどの 中将殿はごらんになって、「鉢かずきはどこへ行くの まるで倒れつけない篠竹が自分から雪に埋もれて横に倒れ か」とおっしやる。そこで、「どことめざして行くべきあ た様子で、頼りなさそうに起き直り、もの思いに沈みなが うわさ てもありません。母に別れまして、そのあげく、このよう ら柴を焚きつけ、そのタ煙のようにわが身の噂のたつのも な片端にさえなりましたので、見る人はだれも恐ろしがり、 つらいと見るともなくながめ、「お行水は沸きました。ど 憎らしく思う人はございますが、あわれに思う人はありま うぞお使いください」と促す。日が暮れると、「おすすぎ せん」と申したところが、中将殿はお聞きになって、「召 の湯を沸かせよ、鉢かずき」と命令をする。つらい身なが 使の中には想像もっかない者がいるのも、よいものだ」と らも起き上がり、乱れた柴を引き寄せながら、このように おっしやるので、鉢かずきはおことばのとおりに屋敷にと お詠みになった。 しのだけ
げらう だいぐじどのざふしき 一雑伎をつとめる下男。 また、大宮司殿の雑色に、文太といふ者あり、年ごろの者なり。下郎なれど 0 ニ長い間仕えてきた者。 よるひる四たが みやづか しゃうぢきしゅう 三人に使われる、身分の低い者。 も、心は正直に、主のことを大事に思ひ、夜昼心に違はじと、宮仕へしけれど 集 もと「下﨟」と書いて、僧としての とし しゅう 草も、心を見んとや思はれけん、主の大宮司殿、「なんぢ、年ごろの者といへど年功の浅く地位の低い者をさす。 伽 四主人の心にそむくまい。主人 の気に人られよう。 る も、わが心に違ふなり。いかならん所へ げ 五大宮司が文太の心をためそう 告 を と思われたのか も行きて過ぐべし。また思ひも直したら 旨 っ 六暮すがよい。生計を立てよ。 ( 絵 ) 絶 セ本来は「たとひ」であるが、後 を んには、帰り参れ」とのたまひければ、 に「たとへ」がこれと混用された。 の 従 八千人万人の奉公人がいても。 文太思ひけるは、たとへ千人万人ありと 主 に 京都大学図書館蔵奈良絵本に「せ 文ん人まん人の人々のなからんまて いふとも、わが命あらんかぎりは、奉公 の も」、丹緑本に「千人まんにんが一 庭人にならんまでも」とある。 申すべきと存じ候ひつるに、かかる仰せ で 九しかたがない。やむをえない。 一 0 底本「ことも」。「こ」は「候」の 衣 下るうへはカなし、さりながら、いづく 直 誤刻とみられる。 子 = おろそかに。いいかげんに。 に候ふとも、おろかに思ひ申すべから 烏一ニただちに。すぐに。 立 一三「こそ」をうけて「べけれ」とあ ず、またやがてこそ参り申すべしとて、 司 るべきところ。 大一四茨城県鹿島郡大野村の角折の いづちともなく行くほどに、つのをかが 島浜か。『常陸国志』によると、角折 しほや っ の長者屋敷は塩売文太の住んだ跡 磯、塩焼く浦に著きにけり。ある塩屋に ぶんだ くだ いそ 六 九 たが ぶんだ 一四 お とし つのおれ
ニ四いはや ぞや。鬼の岩屋をねんごろに教へてたべ」とぞ仰せける。山人、このよし承り、 = ( 雨防ぎの油紙。 つイ 宅刺す刀に対して、鍔をつけて、 たにみね 「この峰をあなたへ越えさせ給ひつつ、また谷峰のあなたこそ、鬼のすみかと斬るのに便利な刀。 穴以下は修験者の服装。頭巾は よりみつ ずきん 布製の頭巾。鈴懸は衣の上にはお 申して、人間さらに行くことなし」と語りけり。頼光きこしめし、「さらば、 る麻製の衣。 いはあな しばいり のな らがい この峰越えや」とて、谷よ峰よと分け上り、とある岩穴見給へば、柴の庵のそ一九大きい法螺貝の先に穴をあけ て、吹き鳴らすようにしたもの。 うち らいくわう ニ 0 八角または四角の白木で作っ の中に、翁三人ありけるを、頼光、このよし御覧じて、「いかなる人にてまし た杖。金剛杵に擬して、悪魔退散 ますぞ、おぼっかなし」と仰せける。翁答へて仰せける、「われわれは、迷ひの意を表す。 ニ一第六天の策王。仏法の妨害を へんげ くにかけのこにり きのくに 変化のものにてなし。一人は、津の国の闕郡の者にてあり、 一人は、紀伊国のしてい圦の知恵・善根を失わせる。 ニニ薪にする雑木を採る人。 おとなしさと やましろ 音無里の者にてあり、今一人は、京近き山城の者にてあり。この山のあなたな = = 大江山塊の最高峰。修験道で いう「襌定」から出た名か しゅてんどうじ かたき むねん ニ四大江山中にあるという。 る酒呑童子といふ鬼に、妻子を取られ、無念さに、その敵をも討たんため、こ ニ九 ニ五「やれ」の略。軽い敬意を含ん きた ちよくちゃう だ命令を表す。 の頃ここに来りたり。客僧たちをよく見るに、常の人にてましまさず、勅諚を ニ六摂津国百済郡。大阪市住吉区 子かうぶりて、酒呑童子を滅ぼせとの、御使ひと見えてあり。この三人の翁こそ、の近辺。 三 0 毛和歌山県牟婁郡本宮町の近辺。 せんだち 呑妻子を取られて候へば、是非先達を申すべし。笈をもおろし心とけ、疲れを休夭京都府南東部。 ニ九天皇の仰せ。 らいくわう み給ふべし、客僧たち」とぞ申されける。頼光、このよしきこしめし、「仰せ = 0 道案内。特に修験者の峰人り で同行者に先立って案内する者。 ワ 1 やまみち のごとく、われわれは、山路に踏み迷ひ、くたびれて候へば、さらば、疲れを = 一「休め」とあるべきところ。 つまこ ごろ おきな つまこ っ ニ七 ときん
状されたけれども、身分の高い者もいやしい者も恋の道に 隔てはないので、この世だけでない仲だからといって、阿 こぎうら 漕が浦へ連れだって下って、富み栄えて、子孫が繁昌した 子のも、たがいの愛情が深いため、さらに歌の道に通じてい 伽たためであるから、かえすがえすも、だれでも学ばれなけ ればならないのは歌の道であろう。