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検索対象: 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)
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1. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

平家物語 24 ちゃうり 長吏、これが為に目を側むとみえたり。 一太政大臣と左・右大臣を公と 、大・中納言、参議及び三位 以上を卿という。併せて古代の国 政を執る上層部。 ニ諸官庁に勤める役人。 三奈良 ( 平城京 ) に都された聖武 天皇。 ーしト・ / 、にほん 四『続日本紀』神亀五年 ( 七 = 0 条 に中衛府を置く旨を記し大将一人 以下の職員をあげる。職務は大内 とも しげもりないだいじん 吾身の栄花を極むるのみならず、一門共に繁昌して、嫡子重盛、内大臣の裏の警衛。 五『類聚三代格』によると大同二 とももりさんみのちゅうじゃうちゃくそんこれもりし むねもりちゅうなごん さだいしゃう 左大将、次男宗盛、中納言の右大将、三男知盛、三位中将、嫡孫維盛、四年 ( 〈邑の誤り。中衛府の職が近 衛府と同じため近衛府を左近衛、 くぎゃう ゐのせうしゃう 中衛府を右近衛とした。 位少将、すべて一門の公卿十 六嘉祥三 ~ 天安二年 ( 会 0 ~ 八夭 ) てんじゃうびと 在位。 六人、殿上人卅余人、諸国の ち た セ左大臣藤原冬嗣。閑院は邸宅 にー ) の : つい・ん じゅりゃうゑふしよし 娘 の名。二条南、西洞院西にあった。 の 受領、衛府、諸司、都合六十 盛 ^ 延長八 ~ 天慶九年 ( 九一一一 0 ~ 九四六 ) と在位。 余人なり。世には又人なくぞ これたか 、 ) 盛九藤原忠平の長男。小野宮惟喬 の親王の邸を伝領したので小野宮殿 見えられける。 おおい 孫 と号した。大炊御門南、烏丸西。 や みかどおんときじんき 盛一 0 藤原忠平二男。邸が九条の坊 昔奈良の御門の御時、神亀 門南、町尻東にあったので九条殿 てうかちゅうゑだいしゃう 盛 と号した。 五年、朝家に中衛の大将をは わがみのえいぐわ 吾身栄花 ため きは はんじゃう

2. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

く学一よう から、公卿の会議が開かれ、めいめい意見を述べた。「ま見えている。すでに勅命をお下しになったのだ。どうこう たいそう そくてん ず外国の先例を尋ねると、中国の則天皇后は、唐の太宗申す余地がない。ただ早く参内なさるべきだ。ひょっとし - 一うそう の后で高宗皇帝の継母であるが、太宗崩御の後、高宗の后て皇子がご誕生になって、あなたも国母と言われ、私も外 語 物に立たれた事がある。これは外国の先例であるうえに、全祖父と仰がれるようになる吉兆であるかもしれません。こ 平く別の事である。けれどもわが国では、神武天皇以来、人れは全く、この老人をお助けになるご孝行の至りでしょ 皇七十余代の今に至るまで、まだ二代の天皇の后に立たれ う」と、申されたけれども、ご返事もなかった。大宮はそ た例を聞かない」と、公卿たちが口を揃えて申された。彳 麦の頃なんとなく手習いをなさったついでに、 白河上皇もそういう事はよろしくないとさとされると、主 うきふしに沈みもやらでかは竹の世にためしなき名を ゃながさん 上が仰せられるには、「天子に父母はない。自分は十善戒 ( 帝が亡くなられた悲しい折に死にもしないで世に生きなが を守った功徳によって、天皇の位についているのだ。これ らえて、世に例のない二代の后という名を流すのだろうか、 ぐらいの事を、どうして思うままにしてはならぬ事があろ じゅだい 悲しい事だ ) う」といって、すぐさまご入内の日を定めて、宣下なさっ と詠まれた。世間にどうして漏れたのだろうか、あわれに たので、そうなった以上、上皇も何ともカ及ばずなされよ , つがなかった。 感慨深い例として、人々は言い合ったことであった。 大宮はこうこうだと、入内宣下の事をお聞きになって以 もはやご入内の日になったので、父の右大臣はお供の公 いだぐるま 来、御涙に沈んでいらっしやる。先帝に先立たれ申した久卿の事や出し車の儀式などを、特に注意を払って立派にお とんせい 寿の秋の初め、先帝と一緒に死に、あるいは出家・遁世で出しするようになさった。大宮は心の進まぬご出発なので、 もしていたら、今こんないやな事を聞かなかったろうにと、急にも車にお乗りにならない。ずっと夜もふけ、夜半にな お嘆きになった。父の右大臣はなだめすかして申されるに ってから、御車に人に助け乗せられてお乗りになった。ご れいけいでん あさまつり′と は、「『世間の習いに従わないのを、狂人とする』と古典に 入内の後は、麗景殿におられた。そしてひたすら帝に朝政

3. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

こじゅうとへい ときただ りやく には、「これは熊野権現のご利益です。急いでお食べなさ道相国の小舅の平大納言時忠卿が言われるには、「この平 -4 い」と申したので、清盛が言われるには、「昔、周の武王家一門でない人は、みな刄非 ( 人間以下 ) であろう」と いんせき の船に、白魚が躍り込んだそうだ。これは吉事である」と 言われた。それだからどんな人も、必ず平家の縁者に姻戚 語 しようじんけっさい えもん 物いって、あれほど十戒を守り、精進潔斎を続けた道中では関係をもとうとした。衣紋のとり方、烏幗子のため方をは 家 あるが、料理して、家の子、侍どもに食べさせられた。そ じめ、何事も六波羅風といえば、天下の人はすべてこれを 平 のせいか、以後、吉事ばかり続いて、太政大臣という極位まねた。 にまでお上りになった。子孫の官位の昇進も、竜が雲に昇 またどんなにすぐれた賢王・賢主のご政治も、摂政関白 るよりま、、 しっそう速やかである。こうして先祖九代の先のおとりはからいも、世間から見捨てられたやくざ者など 例をお越えになったのは、まことにめでたいことであった。 が、人の聞いていない所で、なんということなく悪口を言 い非難するのは、世間によくあることだが、この清盛の勢 ろ カ い盛んな頃は、少しも粗略に申す者がなかった。そのわけ 禿 わらわ は、入道相国のはかりごととして、十四、五、六の童を三 そろ かぶろ にんあん こうして清盛公は、仁安三年十一月十一日、五十一歳で百人揃えて、髪を禿に回りを切って、赤い直垂を着せて、 病気にかかり、生きながらえるために、急に出家入道した。召し使われたが、その童が京都中に満ちあふれ往来してい じようかい 法名は浄海と名のられた。そのしるしであろうか、年来の た。たまたま平家の事を悪く申す者があると、それを聞き ださないうちはとにかく、一人でも聞きつけると、ほかの 病気がたちどころになおって、天寿を全うすることができ 仲間にふれまわして、その家に乱入し、家財道具を没収し、 人が従いつく事は、吹く風が草木をなびかすかのよう その男を縛りあげて、六波羅へ連れて来る。だから平家の である。世人がみな尊敬した事は、降る雨が国土を潤すの ろくはらどの きんだち と同じである。六波羅殿のご一家の公達といったならば、 横暴を誰も目に見、心に知っているのだけれども、ロに出 かぞくえいよう 花族も英雄も、顔を合せ、肩を並べる人はない。だから入して申す者はない。六波羅殿の禿といったならば、道を通 ぶ じっかい ひたたれ ( 原文一一一一ハー )

4. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

ぶんせんわう 九出典不明。 ためには孝ありと文宣王の宣ひけるにたがはず。君も此よしきこしめして、 おくりな 一 0 孔子の諡。 あた 「今にはじめぬ事なれども、内府が心のうちこそ恥づかしけれ。怨をば忍をも = うらみ。「仇をば恩をもて報 ずべしといへり」 ( 十訓抄上 ) 。 ッて報ぜられたり」とぞ仰せける。果報こそめでたうて、大臣の大将にいたら三礼儀にかなった態度・姿。 一三帯佩、体拝と書く。帯佩は太 ようぎたい さいちさいがく め、容儀体はい人に勝れ、才智才学さへ世にこえたるべしやはとぞ、時の人々刀などを帯びること、その姿。体 拝は身のこなしをいうか 感じあはれける。「国に諫むる臣あれば、其国必ずやすく、家に諫むる子あれ一四世に越える、とびぬけている ン ) い , っこと「がでキ、っ力、・なカ・・な しゃうこ かできるものではない。屋代本 ば、其家必ずただし」といへり。上古にも末代にもありがたかりし大臣なり。 「世ニ越ペシャ」。 ドモ 一五「昔者天子有ニ争臣七人「雖一 亡道一不レ失二天下「諸侯有一一争臣五 ドモ 人「雖ニ亡道一不レ失二其国「・ : 父 ラ 有二争子「則身不レ陥二於不誼こ ( 古文孝経・諫争章 ) 。『世俗諺文』 にも見える。「争」は、諫める意。 罪 一六寝殿造で、公卿など貴人のた 流 言 めに設けられた座敷。 おなじき ふつかのひしんだいなごんなりちかのきゃう くぎゃう おんもの 大同六月二日、新大納言成親卿をば、公卿の座へ出し奉り、御物参らせた宅お食事。 一 ^ 「たてる」は箸をつけること。 おはし 飲食の礼儀として、まず箸を取っ りけれども、むねせきふさがツて、御箸をだにもたてられず。御車を寄せて、 第 て飯の上に立て、汁器・湯器に分 ぐんびやう ぜんごさう けて食べるという ( 平家物語考証 ) 。 とう / 、と申せば、心ならず乗り給ふ。軍兵共、前後左右にうちかこみたり。 一九不本意に、意志に背いて。 1 わがかた 我方の者は一人もなし。「今一度小松殿に見え奉らばや」と宣へども、それも だいなごんるぎい 大納言流罪 すぐ いさ まつだい

5. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

としすで じゃうにゐ 恩をもッて頸をつがれ参らせ、正二位の大納言にあがツて、歳既に四十にあま一大納言は三位相当であるが正 0 二位で勤めたから特にいう。成親 おなじく三 しゃうム、せせ り候。御恩こそ生々世々にも報じっくしがたう候へ。今度も同はかひなき命は承安三年 ( 一一七 = ) 正二位、安元元 四 年 ( 一一七五 ) 権大納言。時に四十歳。 かうやこかはと 語 物をたすけさせおはしませ。命だにいきて候はば、出家入道して、高野粉河に閉 = 未来永久にわたって。↓九二 五 家 ハー注九。 いっかうごせばだい 平ぢ籠り、一向後世菩提のっとめをいとなみ候はん」と、申されければ、「さは = 生きてもかいのない命。つま らない命。 たと しげもり七 こん′一う 候とも、御命うしなひ奉るまではよも候はじ。縦ひさは候とも、重盛かうて候 0 和歌山県伊都郡高野山の金翻 峯寺と和歌山県那賀郡粉河の粉河 でら へば、御命にもかはり奉るべし」とて、出でられけり。父の禅門の御まへにお寺。 五死後、極楽往生するように、 しゆりの おん なりちかのきゃう はして、「あの成親卿うしなはれん事、よく / 、御ばからひ候べし。先祖修理仏道に入って修行すること。 六そうであっても。それでも。 だいぶあきすゑしらかはのゐん いくらなんでもの意か。底本には 大夫顕季、白河院に召しつか 「さは候とも」を消し「大臣誠にさ こそはおばしめされ候らめ、さ候 はれてよりこのかた、家に其 る へばとて」と傍書してある。ここ じゃうにゐ す は傍書のほうが通じやすい。なお 得 例なき正二位の大納言にあが 「御命 : ・」以下は巻十一「腰越」に類 きみぶさう 命似の文がある。 ッて、当時君無双の御いとほ の セ「かくて」の音便。こうして。 かうべ 親 ^ 成親の祖父。寛治八年 ( 一 0 九四 ) 成 しみなり。やがて首をはねら しゆりしき 修理大夫。修理大夫は修理職 ( 宮 参城の修理、造営をつかさどる ) の れん事、いかが候べからん。 長官。 いだ 清九並びない法皇のお気に入り。 都の外へ出されたらんに事た こも くび

6. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

むほんともがら いへちくごのかみさだよし 家、筑後守貞能に仰せて、謀反の輩からめとるべき由下知せらる。仍て二百余 0 一蔵人所・院御所・東宮坊・摂 騎三百余騎、あそこここにおし寄せおし寄せからめとる。 関大臣家に仕え、走り使いや雑役 語 なかのみかどからすまるしんだいなごんなりちかのきゃうもと ざふしき だいじゃうのにふだう 物太政入道、まづ雑色をもッて、中御門烏丸の新大納言成親卿の許へ、「申を勤めた者。ザッシキとも。 家 ニ計画すること。企て。 たちょ 平しあはすべき事あり。きッと立寄り給へ」と、宣ひっかはされたりければ、大 = 申しとどめることがかなわな いたろ - , つに。 わがみ 納一一一一口我身のうへとは露知らず、「あはれ是は、法皇の山攻めらるべきよし、御四「なえ清げなる」の転か。「な え」は糊のつかない、なよなよと した。しなやかな。布衣は狩衣。 結構あるを、申しとどめられんずるにこそ。御いきどほりふかげなり。 公家の常用服。 ほうい五 もかなふまじき物を」とて、ないきょげなる布衣たをやかに着なし、あざやか五しなやかなさま。しなやかに。 すんなりと。 六 ぎふしきうしかひ 六つくろって行かれた。服装を なる車に乗り、侍三四人召し具して、雑色牛飼に至るまで、常よりもひきっ ととのえ着飾ったことをいう。 にしはつでう くろはれたり。そも最後とは後にこそ思ひ知られけれ。西八条ちかうなツてみ セすきま。 ちゃうぐんびやう 給へば、四五町に軍兵みち / 、たり。あなおびたたし、何事やらんとむねうち ^ 「あるべくもなし」の音便。 「さあるべくもなし」で、止める時 つはもの にいう語。そんなことをしなくて さわぎ、車よりおり門のうちにさし入ッて見給へば、うちにも兵共、ひまは もよい。とんでもない。やるに及 ちゅうもん ざまもなうそみち / 、たる。中門のロにおそろしげなる武士共あまた待ちうけ 九一間の所。一間は本来柱と柱 ) 、つ て、大納言の左右の手をとッてひッばり、「いましむべう候やらん」と申す。との間の長さで約 = 第。『ロ氏文 典』には六尺五寸 ( 約二 ) の長さ にふだうしゃうこくれんちゅうみいだ いつけん とある。約一間ぐらいの狭い室。 入道相国簾中より見出して、「あるべうもなし」と宣へば、武士共十四五人、 さぶらひ よっ

7. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

いとま ちら ままにはさし過ぎていひ散し、「暇申してーとて出でにけり。入道大きに驚き、一 ( ありのまま ) 以上に。 ニなまじっかなこと。言わなく ゆきつなニ さぶらひ 大声をもッて、侍共よびののしり給ふ事、聞くもおびたたし。行綱なまじひてもよいこと。「おそろしさに」は 「いそぎ門外 : ・」にかかる。 語 物なる事申し出して、証人にやひかれんずらんと、おそろしさに、大野に火をは三広大な野原に火をつけたよう な心地。火が燃え広がって大火事 家 ここち になるように、これは大変なこと 平なツたる心地して、人もおはぬにとり袴して、いそぎ門外へそにげ出でける。 になるそという予感。 きゃうぢゅう六 むほん さだよし 入道まづ貞能を召して、「当家かたぶけうどする、謀反のともがら、京中にみ四袴のももだちをとること。急 いで逃げて行くための用意。 ち / 、たんなり。一門の人々にもふれ申せ。侍共もよほせ」と宣へば、馳せまや多田蔵人の返り忠で、平家討滅 の謀略が漏れてしまう。「目うち うだいしゃうむねもりのきゃうさんみのちゅうじゃうとももりとうのちゅうじゃうしげひらさまのかみゆき しばだたいてー「大野に火をはなツ はツてもよほす。右大将宗盛卿、三位中将知盛、頭中将重衡、左馬頭行 たる心地」「人もおはぬにとり袴 もりいげ かっちう して」などの語句がおもしろい 盛以下の人々、甲冑をよろ 五筑後守、のち肥後守。家貞 あつま その きゅうせんたい ( 一五ハー一〇行 ) の子。平氏の一族。 ひ、弓箭を帯し馳せ集る。其 。へ 六「みちみちたる ( り ) なり」の音 ほかのぐんびやううんか 便。「なりーは伝聞推定の助動詞。 外軍兵、雲霞の如くに馳せ 盛セ ( 馬に乗って ) 駆けまわって。 ^ 清盛の四男。仁安三年 ( 一一六 0 つどふ。其夜のうちに、西八 る権左中将、安元三年従三位。 九清盛の五男。蔵人頭兼近衛中 条には、兵共六七千騎もあ 座 将。ただし重衡は治承四年 ( 一一八 0 ) 上 左蔵人頭、同五年左近権中将で、こ るらむとこそ見えたりけれ。 る の時の官職ではない。 れ 一 0 清盛の孫、基盛の子。左馬寮 あくれば六月一日なり。 つはもの ばかま さぶらひ おほの

8. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

じゃうにゐだいなごん のを。 位正一一位官大納言にあがり、 よ 一五重盛の北の方は成親の妹。ま 御た重盛の長男維盛の北の方は成親 大国あまた給はツて、子息所 の二女、三男清経の北の方は成親 皇 法の五女で、深い関係にあった。 従、朝恩にほこれり。何の不 白一六首をつなぐ。首を切られない 後 ようにする。 足にかかる心つかれけん、是 宅他人。うとい人。 し上ゐ 山 ひとへてんま の 天平家を滅すための戦争の準備。 偏に天魔の所為とそみえし。 俊一九京都市左京区鹿谷町。 ゑちごのちゅうじゃう のぶ の ニ 0 城郭、城。瑯は郭の俗字。 平治にも越後中将とて、信 谷 鹿 ニ一山荘。『愚管抄』によると、信 よりのきゃう 西の子静賢法印の山荘である。 頼卿に同心のあひだ、既に 一三藤原通憲。日向守。少納言に ちゅう なり出家して少納言入道信西と称 誅せらるべかりしを、小松殿ゃう / 、に申して、頸をつぎ給へり。しかるに其 一セ した。後白河院の寵を受け院政に ぐわいじん ひやうぐ 恩を忘れて、外人もなき所に、兵具をととのへ、軍兵をかたらひおき、其営参与したこと、平治の乱で討たれ たことなどは『保元物語』『平治物 語』に詳しい。子孫にはすぐれた の外は他事なし。 一九 宗教家、文化人が出た。 ふもとししたに じゃうくわく 谷東山の麓、鹿の谷と云ふ所は、うしろは三井寺につづいて、ゆゅしき城瑯にニ三通憲の六男。『尊卑分脈』『愚 管抄』等に静賢。ただし信西の子 しゅんくわんそうづさんざう には俊憲、貞憲など憲をつけた者 一てそありける。俊寛僧都の山庄あり。かれに常は寄りあひ寄りあひ、平家ほろ が多く、静賢はあるいはのちの名 巻 めぐら あるとき ′ ) かう こせうなごんにふだうしんせい か。思慮深い賢者で、院も清盛も ばさむずるはかりことをぞ廻しける。或時法皇も御幸なる。故少納言入道信西 信頼していたことは『平家物語』の じゃうけんほふいんおんとも そのよ ほか『愚管抄』にも記されている。 が子息、静憲法印御供仕る。其夜の酒宴に、此由を静憲法印に仰せあはせられ だ、い - 一く じゅう すで みゐでら ぐんびやう くび そのいとなみ

9. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

いさみ、世を世ともせざりけるうへ、召し具したる侍ども、皆廿より内の若者 いちにん こつばふわきま どもなり、礼儀骨法弁へたる者一人もなし。殿下の御出ともいはず、一切下馬一礼儀・故実などの作法・根幹。 語 ニ誰も言わないことから、無視 物の礼儀にも及ばず、かけやぶッてとほらむとするあひだ、くらさは闇し、つやする、問題にしない意を表す。 三全然。少しも。 すけもりのあッそん 平 / 、入道の孫とも知らず、又少々は知ったれども、そら知らずして、資盛朝臣四わざと知らないふりをして。 をはじめとして、侍ども皆馬よりとッて引きおとし、頗る恥辱に及びけり。資 六 五這いながら。やっとのことで。 おほぢしゃうこくぜんもん ろくはら ほうほうのていで。 盛朝臣、はふ / 、六波羅へおはして、祖父の相国禅門に、此由うッたへ申され 六出家せず、世俗の家にいなが てんが じゃうかい ければ、入道大きにいかッて、「たとひ殿下なりとも、浄海があたりをばはばら剃髪入道する男子。入道と同じ。 セ清盛の周辺、関係者、近親。 さう かり給ふべきに、をさなき者に、左右なく恥辱をあたへられけるこそ、遺恨の ^ とかくの事もなく。遠慮もな 次第なれ。かかる事よりして、人にはあざむかるるそ。此事思ひ知らせ奉らで九忘れがたい怨み。無念。 一 0 見くびられる。あなどられる。 しげもりのきゃう は、えこそあるまじけれ。殿下を恨み奉らばやーと宣へば、重盛卿申されけ = 恨みをぶちまける。恨みをは らす。恨みに思い報復する。 よりまさみつもと げんじども るは ( 「是は少しも苦しう候まじ。頼政、光基なンど申す源氏共にあざむかれ三源仲政の子。光基は源光信の 子。共に源頼光の子孫。↓巻四 て候はんには、誠に一門の恥辱でも候べし。重盛が子どもとて候はんずる者の、「源氏揃」。 一三失礼。無作法。 びろう そのとき ぎよしゆっ 殿の御出に参りあひて、乗物よりおり候はぬこそ、尾籠に候へ」とて、其時事一四ごっごっしているさま。無骨。 つねとお かねやす 一五難波次郎経遠。瀬尾太郎兼康 こころう なんぢらよ さぶらひ じこん にあうたる侍ども、召し寄せ、「自今以後も、汝等、能く / 、心得べし。あや難波は備前国、瀬尾は備中国瀬尾 ま ) ) さぶらひ さぶらひ 四 すこぶ くら いっせつ

10. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

ら めしもいれず。さればひたす 皇 きさきごじゅ 条一三外に現れる。人目につくよう ら早穂にあらはれて、后御入 になる意。その事を表に出して。 うだいじんげ 内あるべき由、右大臣家に宣 ロ てんか 一五公卿たちの会議。僉は皆、こ 旨を下さる。此事天下におい とごとくの意。 し・よ、つし くぎゃう 大一六中国の異称。 てことなる勝事なれば、公卿 原宅唐の太宗・高宗の皇后。のち おの / 、 せんぎ 六九〇年自ら即位。『源平盛衰記』 僉議あり、各意見をいふ。 近 巻二に詳しい せんじよう 天出典があろうが不明。『源平 「先づ異朝の先蹤をとぶらふ 盛衰記』によれば、醍醐天皇のこ しんだんそくてんくわうごう たうたいそうきさきかうそうくわうていけいば 、震旦の則天皇后は、唐の太宗の后、高宗皇帝の継母なり。太宗崩御の後、 一九十善戒 ( 十悪をしないという せんぎ 高宗の后にたち給へる事あり。是は異朝の先規たる上、別段の事なり。しかれ戒め。↓一三ハー注一 ) をたもった功 どくくりき 徳・功力。十善をたもった功徳で わがてう じんむてんわう このかたにんわう ども吾朝には、神武天皇より以降、人皇七十余代に及ぶまで、いまだ二代の后帝皇に生れたという考えは中世に 多い。「帝は十善などという。 しよきゃういちどう 后 代にたたせ給へる例をきかず」と、諸卿一同に申されけり。上皇もしかるべからニ 0 天子の位。天子は兵車万乗 ( 乗は車を数える単位 ) を出したと われ ふば ころからい , つ。 一ざる由、こしらへ申させ給へば、主上仰せなりけるは、「天子に父母なし。吾 一 = 天子のおばしめし。聖慮。叡 えいりよまか ばんじようほうゐ これほど 】じふぜんかいこう 十善の戒功によッて、万乗の宝位をたもつ。是程の事、などか叡慮に任せざるは天子の事にいう語。ここは一種 LO の自敬表現。 ごじゅだい せんげ 4 一三入内は永暦元年正月一一十六日。 べき」とて、やがて御入内の日、宣下せられける上は、カ及ばせ給はず。 だい ま はや一三 べつだん ほうギ、よ