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検索対象: 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)
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1. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

しよみ′み - う ろうおかた を植えならべ、その中に家屋を建てて住まれたので、年々 これは花山院殿の上臈女房となって、廊の御方と申した。 の春ごとにその桜を見る人々が、桜町と申した。桜は咲い 日本秋津島は、わずかに六十六か国、その中で平家の支 な ) ) り あまてらすおおみかみ て七日で散るのを、名残を惜しんで、天照大神にもっと散配した国は三十余か国で、ほとんど日本全国の半分以上で 語 物らないで残っているようにとお祈り申されたので、二十一 ある。そのほか荘園や田畑などはどれくらいという数もわ 家 日まで桜が名残をとどめていたのであった。君も賢王でい からないほどたくさんであった。平家の邸宅には華美な服 平 らっしやるので、神も神徳を発揮したのであり、花も心が装の人々がい。し つ、集まって、御殿の上は花のように美し あったから、成範卿の心に感じて二十日の命を保ったので 、。門前には車馬がたくさん集まって、市をなす繁栄ぶり きさき ようしゆら・ けいしゅうたまごきんあやしよっこうにしき あった。一人は高倉天皇の后にお立ちになる。皇子がご誕である。楊州の金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の錦などあ 生になって、皇太子に立ち、即位せられたので、院号をお りとあらゆる珍しい財宝が集まり、何一つ欠けているもの しよう - 一く けんれいもんいん ぎより上うしやくば 受けになって、建礼門院と申した。入道相国の御娘である はない。歌舞をする御殿の基をなすものや、魚竜爵馬の遊 もてあそ うえに、天下の国母でいらっしやったので、その繁栄は何芸・玩びなど、あらゆるものが集められていて、おそらく かと申すまでもないことである。一人は六条の摂政殿の北 は内裏も院の御所も、これ以上ではあるまいと思われた。 まんどころ の政所におなりになる。高倉院がご在位の時に、ご養母と じゅんさんごうせんじ して、准三后の宣旨をこうむり、白河殿といって重んぜら 祇王 ふげんじどの れた人でいらっしやっこ。 オ一人は普賢寺殿の北の政所にお にゆ、つ / 」うしよう第一く ー - に画うちゅう なりになる。一人は冷泉大納言隆房卿の北の方となり、一 入道相国は天下を掌中に握られたので、世の非難もか のぶたか あきいつくしま 人は七条修理大夫信隆卿に連れ添われた。また安芸の厳島まわす、人のあざけりも心にかけずに、わがままかってな 神社の内侍の腹から生れた娘が一人おられ、この方は後白事ばかりなさった。たとえばこんな事がある。当時、都で にトっン」 しらびようし ぎおうぎによ 河法皇のもとへ参られて、女御のようでいらっしやった。 評判の白拍子の名手に、祇王・祇女という姉妹があった。 ぞうし ちょう そのほかに、九条院の雑仕、常葉の腹に一人の娘があり、 とじという白拍子の娘である。姉の祇王を入道相国がご寵 ( 原文一一七ハー ) ときわ まんどころ おう

2. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

一四人にして人にあらざる者。人 「此一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし」とぞ宣ひける。かかりしかば、 間とはいえない人間、人でなし。 その えもん いかなる人も、相構へて其ゆかりに、むすばほれむとぞしける。衣文のかきや三着物の着こなし方。衣文 ( 紋 ) は着つけなど衣服に関すること。 ろくはらやう う、烏帽子のためやうよりはじめて、何事も六波羅様といひてンげれば、一天一六折烏帽子の折り方。 一セ政事を執り行うこと。執政。 四海の人、皆是をまなぶ。 一 ^ もてあまされた。余計者にさ れた。 おんまつりごとせっしゃうくわんばくごせいばい 又いかなる賢王賢主の御政も、摂政関白の御成敗も、世にあまされたるいた一九無用者。ろくでなし。 ニ 0 仏門に入った人。入道。清盛。 ならひ づら者なンどの、人の聞かぬ所にて、なにとなうそしり傾け申す事は、常の習 = 一全盛。 ニ 0 一三おろそか。なおざり。粗略。 ぜんもんニ一 そのゆゑ ニ三髪を短く切って垂らしたもの。 なれども、此禅門世ざかりのほどは、聊かいるかせにも申す者なし。其故は、 おかつば。 わらんべ ニ四たまたま。偶然。 入道相国のはかりことに、十四五六の童部を、三百人そろへて、髪をかぶろに 一宝聞き出さぬ間はとにかくだが、 ひたたれ わう きりまはし、赤き直垂を着せて、召しつかはれけるが、京中にみち / 、て、往聞き出すとすぐ。こういういい方 ニ五 は他にも多し へん いちにんき 反しけり。おのづから平家の事あしざまに申す者あれば、一人聞き出さぬほど = 六取り上げる。没収する。 ニ六 毛よけて、さけて。 よたうふめぐら ついふく そのやっ 髪こそありけれ、余党に触れ廻して、其家に乱入し、資財雑具を追捕し、其奴を夭宮門。以下は「禁門ヲ出入ス レドモ問ハズ、京師ノ長吏之ガ為 から ことば ニ目ヲ側ム」 ( 長恨歌伝 ) による。 一搦めとッて、六波羅へゐて参る。されば目に見、心に知るといへど、詞にあら ニ九京都、帝都。「長吏」は、地方 巻 かぶろ むまくるまニ七 はれて申す者なし。六波羅殿の禿といひてンしかば、道を過ぐる馬車もよぎて官吏の長、頭立った者。 ニ九 0 この章は平家全盛のさまを描き、 しゃうみやう ぞとほりける。禁門を出入すといへども、姓名を尋ねらるるに及ばず、京師の具体的には禿を取り上げている。 ニ四 にんびにん いささニニ ぎふぐ 一九

3. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

っゅちり 様をかへておはしたれば、日比のとがは露塵ほどものこらず。今は往生うたが一次に「それは世をうらみ身を 恨てなりしかば ( 様をかふるも ) 」 このたび ひなし。此度素懐をとげんこそ、何よりも又うれしけれ。我等が尼になりしを ( 西教寺本 ) とあるほうが通じやす わがみ 物こそ、世にためしなき事のやうに人もいひ、我身にも又思ひしか、様をかふる = きたない土地の意。浄土に対 しやば 平・ことわり し現世、娑婆をいう。『往生腰集』 も理なり。今わごぜの出家にくらぶれば、事のかずにもあらざりけり。わごぜに「第一厭離穢土」「第二欣求浄 土」とある。「夫厭 = 穢土「欣 = 浄 うらみ なげき ことしわづ は恨もなし歎もなし。今年は纔かに十七にこそなる人の、かやうに穢土を厭ひ、土「非 = 此時一又何時乎 ( ソレ穢土 ヲイトヒ浄土ヲネガフコト、コノ だいだうしん 浄土をねがはんと、ふかく思ひ入れ給ふこそ、まことの大道心とはおばえたれ。時ニアラズンバ又イヅレノ時ゾ ) 」 四 ( 往生講式 ) 。 ぜんちしき しにんいっしょ うれしかりける善知識かな。いざもろともにねがはん」とて、四人一所にこも三大きな道心。道心は仏道を求 める心。転じて仏門に入った人。 あさゆふ はなかう りゐて、朝夕仏前に花香をそなへ、余念なくねがひければ、遅速こそありけれ、四人を導いて善 ( 仏道 ) に入らせ 五 る高徳の者。 ′ ) しらかは ほふわうちゃう 四人の尼ども、皆往生の素懐をとげけるとそ聞えし。されば後白河の法皇の長五久寿二 ~ 保元三年 ( 一一 ~ さ 在位。嘉応元年 ( 一一六九 ) 出家、法皇。 ごうだう七 そんりゃう ぎわうぎによほとけ 講堂の過去帳にも、「祇王、祇女、仏、とぢらが尊霊」と、四人一所に入れら六法皇の六条内裏に設けられた 持仏堂。文治四年 ( 一一会 ) 焼失、再 れけり。あはれなりし事どもなり。 建。現在は下京区河原町五条下ル にある。 七寺院で檀家の死者の法名、俗 名、年齢、死亡年月日などを記し おく帳簿。長講堂に後白河法皇筆 と伝える過去帳 ( 実は後世の写し ) とぢ が現存し「閉、妓王、妓女、仏御 1 = ロ さま ひごろ さま

4. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

いちにん さくらまちちゅうな - 一ん そのほかおんむすめ 一四段動詞「さいはふーの連用形。 其外御娘八人おはしき。皆とりみ、に幸ひ給へり。一人は、桜町の中納言 幸を得る。栄える。 ばかり へいぢみだれ しげのりのきゃう 成範卿の北の方にておはすべかりしが、八歳の時、約束計にて、平治の乱以ニ藤原通憲 ( 信西 ) の子。 語 三藤原 ( 花山院 ) 忠雅の子、兼雅。 みだいはんどころ きんだち くわさんのゐん 物後、ひきちがヘられ、花山院の左大臣殿の御台盤所にならせ給ひて、君達あま 0 ミダイワンドコロとよむ。台 盤所は台所、転じて貴人の北の方。 そも / 、 平 たましましけり。抑此成範卿を、桜町の中納言と申しける事は、すぐれて心略して御台所、御台。 五一町 ( 約一〇九あるいは一 ちゃう 数奇給へる人にて、常は吉野山を恋ひ、町に桜を植ゑならべ、其内に屋を立て二一邑四方。 六高倉天皇中宮徳子。承安元年 て、住み給ひしかば、来る年の春ごとに、見る人、桜町とそ申しける。桜は咲 ( 一一七 l) 入内、養和元年 ( 一ズ l) 院号。 セ治承二年 ( 一一天 ) 皇子 ( 安徳天 なごり あまてるおほんがみ さんしちにち しちかにち いて七箇日に散るを、余波を惜しみ、天照御神に祈り申されければ、三七日ま皇 ) 誕生、同年立太子、四年即位。 ^ 藤原忠通の長男基実。永万元 かかやか さめうじ で余波ありけり。君も賢王にてましませば、神も神徳を耀し、花も心ありけれ年 ( 一一六五 ) 摂政。邸が六条左女牛に あり六条殿と号した。 わうじごたんじゃう くわうたい はつかよはひ いちにんきさき ば、廿日の齢をたもちけり。一人は后に立たせ給ふ。皇子御誕生ありて、皇太九摂政関白の妻室の尊称。 一 0 仁安三 ~ 治承四年 ( 一一六八 ~ 合 ) し ゐんがう けんれいもんゐん 子に立ち、位につかせ給ひしかば、院号かうぶらせ給ひて、建礼門院とぞ申し在位。 = オン。ハワジロとよむ。生母に てんかこくも にふだうしゃうこくおんむすめ ける。入道相国の御娘なるうへ、天下の国母にてましましければ、とかう申す代って後見する者。准母。 三三后 ( 太皇太后・皇太后・皇 きたまんどころ たかくらのゐん いちにん ^ に及ばず。一人は六条の摂政殿の北の政所にならせ給ふ。高倉院、御在位の時、后 ) に準ずる意。皇族や摂政・関 白などに特に授ける称号。 しらかはどの おんばはじろ じゅんさんごうせんじ 一三藤原基実の長男、基通。出家 御母代とて、准三后の宣旨をかうぶり、白河殿とて重き人にてましましけり。 して山城国綴喜郡普賢寺に隠居。 いちにんれいぜいのだいなごんりゅうはうのきゃう いちにんふげんじどの 一人は普賢寺殿の北の政所にならせ給ふ。一人は冷泉大納言隆房卿の北の方、一四レンゼイとも。藤原隆季の子。 しん つづき

5. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

ばかり書かれて、俊寛と云ふ文字はなし。礼紙にぞあるらんとて、礼紙をみる仍執達如レ件。七月三日」 ( 源 平盛衰記 ) 。 にも見えず。奥より端へよみ、端より奥へ読みけれども、二人とばかり書かれ一 0 書状の上にもう一枚巻いたも の。上包みの紙。 て、三人とは書かれず。 さる程に、少将や判官入道も出できたり。少将のとッてよむにも、康頼入道 が読みけるにも、二人とばかり書かれて、三人とは書かれざりけり。夢にこそ かかる事はあれ、夢かと思ひなさんとすればうつつなり。うつつかと思へば又 ぶみ 夢のごとし。そのうへ二人の人々のもとへは、都よりことづけ文共いくらもあ = 依託した手紙。 りけれども、俊寛僧都のもとへは、事問ふ文一つもなし。さればわがゆかりの三消息を尋ねる。 者どもは、都のうちにあとをとどめずなりにけりと、思ひやるにもしのびがた はいしょひとっところ し。「抑われら三人は、罪も同じ罪、配所も一所なり 。、かなれば赦免の時、 足二人は召しかへされて、一人ここに残るべき。平家の思ひ忘れかや、執筆のあ一 = 書記役。 一四巻一一「大納言流罪」に類似の句 ふ がある。↓一三七ハー一〇行。 。し力にしつる事共そゃーと、天にあふぎ地に臥して、泣きかな 第や士り・かこま、ゝ 巻 一五あなた。相手と話手がほば同 たもと しめどもかひぞなき。少将の袂にすがツて、「俊寛がかくなるといふも、御へ位か、相手に対して一応敬語は用 いるがやや目下の場合に用いる語。 むほん んの父、故大納言殿、よしなき謀反ゅゑなり。さればよその事とおばすべから一六無関係のこと。他人のこと。 ふみ い 0 しやめん しゅひっ

6. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

あが らん。入道相国はことに物めでし給ふ人にて、わが崇め給ふ御神へ参ッて、祈一物事に感動なさる人。感激し やすい人。 ニよいような取りはからい。大 り申されけるこそうれしけれとて、よきゃうなるはからひもあんぬと覚え候」 将などにしてくれること。「あん 語 はかりこと 物と申しければ、徳大寺殿、「これこそ、思ひもよらざりつれ。ありがたき策ぬ」は「ありぬ」の音便。 家 三社寺参詣などの前に肉食など ーし力しゃうじん を断ち、身を清め、心を慎むこと。 平かな。やがて参らむ」とて、俄に精進はじめつつ、厳島へぞ参られける。 四神様を楽しませること。 かのやしろ さんろう 五平安後期から鎌倉初期にかけ 誠に彼社には、内侍とて優なる女どもおほかりけり。七日参籠せられけるに、 て流行した歌謡の一。七五調四句 なぬかななよ あひだぶがく よるひるつきそひ奉り、もてなす事かぎりなし。七日七夜の間に、舞楽も三度で白拍子・遊女が歌った。 六漢詩文や和歌を節をつけて声 びはこと かぐら しっていのきゃうおもしろ までありけり。琵琶琴ひき、神楽うたひなンど遊びければ、実定卿も面白き事高く歌ったもの。その詞章は『和 五 六 七 八 漢朗詠集』などに収められる。 しんめいほふらく いまやうらうえい ふぞくさいばら におばしめし、神明法楽のために、今様朗詠うたひ、風俗催馬楽なンど、ありセ風俗歌。平安時代に行われた 歌謡、雅楽歌曲の一。諸国の民謡 えいきよく きんだち おんまゐり で宮廷貴族に取り上げられ、宴遊 がたき郢曲どもありけり。内侍共、「当社へは平家の公達こそ御参さぶらふに、 に歌われたもの。 ^ 雅楽歌曲の一。奈良時代の民 この御参こそめづらしうさぶらへ。何事の御祈誓に、御参籠さぶらふやらん」 謡を、平安時代に貴族が取りあげ、 だいしゃう いのり と申しければ、「大将を人にこえられたる間、 ) その祈のためなり」とぞ仰せら歌曲としたもの。 九郢は中国楚の都。その地の人 いとま は歌がうまかったから、名づけら れける。さて七日参籠をはツて、大明神に暇申して、都へのばらせ給ふに、 れたという。催馬楽・風俗・今 な′」り ひとひぢ 名残を惜しみ奉り、むねとのわかき内侍十余人、舟をしたてて、一日路おくり様・朗詠などの総称。 一 0 ヒトイジとよむ。一日かかる いとま ひとひぢ 船路。一日の道中。 奉る。暇申しけれども、「さりとてはあまりに名ごりの惜しきに、 ないし おんがみ 今一日路」、

7. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

させ給ひ候ひぬ。北の方は其御歎と申し、是の御事と申し、一かたならぬ御 おなじき ふつかのひ おもひ 思にしづませ給ひ、日にそへてよわらせ給ひ候ひしが、同三月二日、つひに はかなくならせ給ひぬ。いま姫御前ばかり、奈良の姑御前の御もとに、御わた り候。是に御文給はツて参ッて候」とて、取りいだいて奉る。あけて見給へば、 有王が申すにたがはす書かれたり。奥には、「などや三人ながされたる人の、 一三慣用句。「あはれ、たかきも いやしきも、女の身ほどかなしか 二人は召しかへされてさぶらふに、今まで御のばりさぶらはぬぞ。あはれ高き りける事はなし」 ( 平治中・義朝敗 もいやしきも、女の身ばかり心うかりける物はなし。をのこごの身にてさぶら北事 ) 。 はば、わたらせ給ふ島へも、などか参らでさぶらふべき。この有王御供にて、 いそぎのばらせ給へ」とぞ書かれたる。僧都此文をかほにおしあててしばしは一四「僧都 : ・良あって」は傍書。後 で補入したもの。 去物も宣はず。良あって、「是見よ有王、この子が文の書きゃうのはかなさよ。 死 一五人にも見られ。人の妻となる ことを一い、つ。 僧おのれを供にて、いそぎのばれと書きたる事こそうらめしけれ。心にまかせた 一六わが身を扶養する。 みとせはるあき 宅「人の親の心はやみにあらね 第る俊寛が身ならば、何とてか此島にて三年の春秋をば送るべき。今年は十二に 巻 ども子を思ふ道にまどひぬるか みやづかへ な」 ( 後撰・雑一藤原兼輔 ) 。親心 なるとこそ思ふに、是程はかなくては、人にも見え、宮仕をもして、身をもた を示した歌としてしばしば引用さ すくべきか」とて、泣かれけるにぞ、人の親の心は闇にあらねども、子を思ふれた。 やや その 一七 一ニ延慶本「こその冬」。長門本 「十月上旬」。

8. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

ぶんせんわう 九出典不明。 ためには孝ありと文宣王の宣ひけるにたがはず。君も此よしきこしめして、 おくりな 一 0 孔子の諡。 あた 「今にはじめぬ事なれども、内府が心のうちこそ恥づかしけれ。怨をば忍をも = うらみ。「仇をば恩をもて報 ずべしといへり」 ( 十訓抄上 ) 。 ッて報ぜられたり」とぞ仰せける。果報こそめでたうて、大臣の大将にいたら三礼儀にかなった態度・姿。 一三帯佩、体拝と書く。帯佩は太 ようぎたい さいちさいがく め、容儀体はい人に勝れ、才智才学さへ世にこえたるべしやはとぞ、時の人々刀などを帯びること、その姿。体 拝は身のこなしをいうか 感じあはれける。「国に諫むる臣あれば、其国必ずやすく、家に諫むる子あれ一四世に越える、とびぬけている ン ) い , っこと「がでキ、っ力、・なカ・・な しゃうこ かできるものではない。屋代本 ば、其家必ずただし」といへり。上古にも末代にもありがたかりし大臣なり。 「世ニ越ペシャ」。 ドモ 一五「昔者天子有ニ争臣七人「雖一 亡道一不レ失二天下「諸侯有一一争臣五 ドモ 人「雖ニ亡道一不レ失二其国「・ : 父 ラ 有二争子「則身不レ陥二於不誼こ ( 古文孝経・諫争章 ) 。『世俗諺文』 にも見える。「争」は、諫める意。 罪 一六寝殿造で、公卿など貴人のた 流 言 めに設けられた座敷。 おなじき ふつかのひしんだいなごんなりちかのきゃう くぎゃう おんもの 大同六月二日、新大納言成親卿をば、公卿の座へ出し奉り、御物参らせた宅お食事。 一 ^ 「たてる」は箸をつけること。 おはし 飲食の礼儀として、まず箸を取っ りけれども、むねせきふさがツて、御箸をだにもたてられず。御車を寄せて、 第 て飯の上に立て、汁器・湯器に分 ぐんびやう ぜんごさう けて食べるという ( 平家物語考証 ) 。 とう / 、と申せば、心ならず乗り給ふ。軍兵共、前後左右にうちかこみたり。 一九不本意に、意志に背いて。 1 わがかた 我方の者は一人もなし。「今一度小松殿に見え奉らばや」と宣へども、それも だいなごんるぎい 大納言流罪 すぐ いさ まつだい

9. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

言 その島は都を出てはるばると海路で波を乗り越えて行く所しが出た。そこですぐ出家なさった。栄華に誇った美しい すみ である。並みたいていでは船も通わない。島にも人は非常公家の装束とはうって変って、うき世を離れ住む僧侶の墨 ぞめ に少ない。たまに人はいるけれども、日本の本土の人にも染の衣に身をおやっしになった。 うんりんいん 新大納言の北の方は、都の北山、雲林院の辺に忍んでお 似ず、色が黒くて、牛のようである。身体にはむやみに毛 られた。ただでさえ住みなれぬ所はうっとうしく悲しいの がはえて、言うことばも聞いてわからない。男は烏帽子も に、ましていっそう昔のことがしのばれたので、過ぎてゆ かぶらず、女は髪も垂れていなかった。衣服がないので、 く月日も過しかね、暮しかねているありさまであった。仕 人らしくもない。食べる物もないので、ただ漁猟などばか りを第一としている。農夫が耕作をしないので、米穀の類える女房や侍は多かったが、あるいは世間の思わくを恐れ、 ・よう・さん もなく、桑を植えて養蚕をすることをしないので、絹布のあるいは人目をはばかっているので、訪問する者は一人も のぶとし ない。けれども、そういう中で源左衛門尉信俊という侍一 類もなかった。島の中には高い山がある。永久に火が燃え ており、硫黄というものが充満していた。それゆえに、硫人だけが、特に情け深かったので、いつもお訪ねしている。 黄が島とも名づけている。雷がいつも上の方や下の方で鳴ある時北の方が信俊を召して、「たしか大納言は備前の児 りつづけており、麓には雨がしきりに降っている。一日片島にということだったが、最近聞くと、有木の別所とかい う所におられるそうだ。なんとしてでも、もう一度つまら 死時でもけっして生きていられそうにもなかった。 ぬ手紙でも差し上げ、お便りも聞きたいもの」と言われた。 納さて一方、新大納言は、平家の圧迫が多少ゆるやかにな 大 る事もあろうかと思っていられたが、子息の丹波少将成経信俊は涙をこらえて申すには、「幼少から御あわれみをこ うむって、片時もお離れ申したことがありません。備前へ 第も、もう鬼界が島へお流されになったと聞いて、今はそう 巻 そう気強く何事を期待することができようといって、出家お下りの時も、なんとでもしてお供いたそうと申しました ろくはら が、六波羅から許されないので、しかたがありません。私 の志があるということを、便宜のあった際、小松殿へ申さ れたので、この事を後白河法皇にお伺いして、出家のお許をお召しになりましたお声も、耳に残っており、お叱りを おう

10. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

きどくおもひ いきいでて、やがて立ッて舞ひかなづ。人奇特の思をなして、是をみる。半時長さで、薬師仏の高さ。約一尺二 寸 ( 三六 ごたくせん さんわう一三 = 「まゐりびと」の音便。参詣人。 ばかり舞うて後、山王おりさせ給ひて、やう / 、の御託宣こそおそろしけれ。 一ニ年少の巫女。神に仕えて歌舞 まんどころけふなぬか おんまへ しゅじゃうらたし を奏し、ロ寄せなどする少女。 「衆生等慥かに承れ。大殿の北の政所、今日七日わが御前に籠らせ給ひたり。 一三山王権現がその巫女に神がか したどの てんが じゅみやう ごりふぐわん りし、乗り移られて。 御立願三つあり。一つには今度殿下の寿命をたすけてたべ。さも候はば、下殿 一四信者が籠って祈願する所。 うど に候もろ / 、のかたは人にまじはツて、一千日が間、朝夕みやづかひ申さんと一五「かたはびと」の音便。下殿に 参籠して病の回復を祈る障害者。 おんこころ まんどころ なり。大殿の北の政所にて、世を世ともおばしめさですごさせ給ふ御心に、子一六四段動宮づかふ」の連用形。 奉仕する。 うど を思ふ道にまよひぬれば、いぶせき事も忘られて、あさましげなるかたは人に宅「人の親の心は闍にあらねど も子を思ふ道にまどひぬるかな」 まじはツて、一千日が間、朝夕みやづかひ申さむと、仰せらるるこそ、誠に哀 ( 後撰・雑藤原兼輔 ) 。 一 ^ むさくるしい。気味が悪い。 おんやしろ 一九 く一九お思いになる。巫女が言うの れにおばしめせ。二つには大宮の波止土濃より、八王子の御社まで、廻廊っ だが山王が乗り移っての語。一種 の自敬表現。 ッて参らせむとなり。三千人の大衆、ふるにもてるにも社参の時、いたはしう ニ 0 大宮権現社の前の流れにかけ てんが 、、、かにめでたからむ。三つには今度殿下の渡した橋殿 ( 橋のようにかけ渡し 立おばゆるに、廻廊つくられたらは て造った建物 ) 。 おんやしろ 一寿命をたすけさせ給はば、八王子の御社にて、法花問答講、毎日退転なく、おニ一『法華経』について論義・問答 すること。 こなはすべしとなり。いづれもおろかならねども、かみ二つはさなくともあり一三休止・中絶。 ただ なむ。毎日法花問答講は、誠にあらまほしうこそおばしめせ。但し今度の訴訟 はしどの ほっけもんだふこう くわいらう はんじ