卿 - みる会図書館


検索対象: 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)
410件見つかりました。

1. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

しない兵士どもに連れられて、今日限りで都を出て、海路違使の別当になられた。 ( その後承安二年七月従二位に叙せら すけかたかねまさ をはるかに旅に出られた心中は、さぞかしと推量されて哀 れたが ) その時資賢・兼雅両卿が官位を越されておしまい せつつのくにだいもっ れである。その日は摂津国の大物の浦にお着きになる。 になった。資賢卿は年寄の長老でいらっしやった。兼雅卿 新大納言成親はすでに死罪に処せられるはずだったが、 は五摂家に次ぐ清華の家柄の人である。名家の嫡子であり その人が流罪にゆるめられたのは、小松殿がさまざまにと ながら先をお越されになったのは、恨めしいことであった。 りなされたためである。この成親がまだ中納言でおられた この昇進は三条の御所を造って差し上げた賞である。そし みののくに もくだい 時、美濃国を領しておられたが、嘉応元年の冬、目代右衛て翌年承安三年四月十三日、正二位に叙せられた。その時 まさとも じんにんくず 門尉正友の所へ、比叡山の寺領の平野庄の神人が葛を売り は中御門中納言宗家卿がお越されになった。安元元年十月 あぎけ に来た際に、目代が酒を飲み酔っぱらって、葛に墨をつけ 二十七日、前中納言から権大納言に昇進される。人は嘲っ じゅそ た。神人がそれを怒って悪口を言ったので、そうは言わせ て、「山門の衆徒には呪詛されるはずだったのに」と申した。 るな、とさんざん踏みにじり、ばかにした。そこで神人ど けれども今はその呪詛のせいだろうか、こういう悲しい目 おきて も数百人が目代の所に乱入した。目代が掟のとおりに防い におあいになった。だいたい神罰も、人の呪詛も、速いこ だので、神人ら十数人が打ち殺された。このため同年十一 ともあり、遅いこともあって、定まっていないものである。 しゆと ほうき 同 ( 安元三年六月 ) 三日、大物の浦へ京都から御使いがあ 流月三日、比叡山の衆徒は非常に大勢で蜂起して、国司成親 そうぞう 言 ったといって、騒々しかった。新大納言は、「ここで殺せ 納卿を流罪に処せられ、目代右衛門尉正友を獄舎に入れられ びっちゅうのくに 大 るようにと奏上した。そこでもはや成親卿を備中国に流さ というのだろうか」とお聞きになると、そうではなくて、 びぜんこじま 第れる予定で、西の京の七条までお出しになったのを、法皇備前の児島へ流すべしとの御使いである。小松殿からお手 巻 はどうお考えになったのだろうか、中五日おいて召し返さ紙がある。「なんとかして、都近い片山里においでになる じゅそ ようにしたいと、ずいぶん申したのですが、それができな れた。比叡山の衆徒がものすごく呪詛しているという噂だ ったが、同二年正月五日、成親卿は右衛門督を兼任し検非 かったのは、世に生きているかいもありません。そうです ひえいぎん けび せいが

2. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

( 原文一四八ハー ) 経過し、事態が変化して、世の変ってゆくありさまは、全 幼い人々も、声々に泣き悲しんでおられた。 く天人の五衰と違いがない。 さて大納言入道殿を、同年八月十九日、備前・備中両国 ′一うきび の境、庭瀬の郷、吉備の中山という所で、とうとうお命を とくだいじいつくしまもうで 徳大寺厳島詣 失い申した。その最期のありさまは、さまざまに噂された。 酒に毒を入れて勧めたけれども、うまくいかなかったので、 むねもり さねさだ さて徳大寺の大納言実定卿は、平家の清盛の次男、宗盛 二丈ぐらいのがけの下に、ひしを植え並べて、がけの上か ら突き落し申したので、ひしに貫かれて、お亡くなりにな卿に大将の官職を越されて、しばらく閉じ籠っておられた。 しょだいぶ 実定卿が出家すると言われるので、同家に仕える諸大夫や った。全く情けない事である。例の少ない事と思われた。 侍どもは、どうしたらよかろうと、みんな嘆いていた。そ 大納言の北の方は、成親がこの世にない人と聞かれて、 、しげ・かめ の中に藤蔵人大夫重兼という諸大夫がいた。万事に心得の 「なんとしてでも、もう一度変らぬ無事な夫の姿を見もし、 ある人で、ある月の夜、実定卿が南正面の御格子戸をつり 夫に私の姿を見られもしたいと思って、今日まで尼にもな 上げさせ、ただひとり月を眺めて吟じておられたところに、 らなかったのだ。今は何にしようか、しかたがない」とい ばだいじゅいん お慰め申そうと思ったのか、藤蔵人が参上した。「誰だ」 詣って、菩提樹院という寺に行かれ、さまを変えて尼になり、 と実定卿が言われると、「重兼です」。「どうした、何事だ」 厳形のとおり仏事を行い、後世の菩提を弔っておられた。こ 大の北の方と申すのは、山城守敦方の娘である。すぐれた美と一言われると、「今夜は月がことにさえわたって、万事心 徳 が澄む気持でございますので参りました」と申した。大納 人で、後白河法皇のご寵愛がまたとないご愛人でいらっし やったのを、成親卿が法皇のめったにないほどのお気に入言、「参ったのは感心だ。あんまり、なんとなく心細くて、 第 巻 りで、頂戴なさったのだということであった。幼い人々も所在ない気持でいたのに」と言われた。その後とりとめな い事など申してお慰めする。大納言が言われるには、「つ 花を折り、仏に供える水を汲んで、父の後世を弔っておら くづくこの世の中のありさまを見ると、平家の世はいよい れるのはまことに哀れである。そうしているうちに、時が ぼだい あっかた

3. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

ので、軍兵が内裏に参上して、四方の宮門近くにある衛府んな仰せがあるからこそ、こういう噂がたつのだろう。お ろくはら つめしょ の詰所を警備した。平氏の一族はみな六波羅へ馳せ集まる。前も心を許してはいけないぞ」と言われると、重盛卿が申 ′一こう された。「この事はけっしてご様子にもおことばにもお出 後白河院も急いで六波羅へ御幸なさる。清盛公は当時まだ しになってはいけません。人に気づかせるようなそぶりを 大納言でいられたが、大いに恐れ騒がれた。小松殿は、 みせては、かえってよくありません。それにつけても、天 「なんで今そんなことがあろうか」といって、おしずめに なったが、身分の上の者も下の者も大変な騒ぎである。延皇のお考えにお背きにならないで、人のために、お情けを お施しになれば、神仏のおまもりがあるはずです。そうい 暦寺の衆徒は、六波羅へは押し寄せないで、何という攻め きよみずでら うことになったら、父上が恐れることはありますまい」と る理由のない清水寺に押し寄せて、仏閣僧坊を一棟も残さ おおよう ず全部焼き払った。これは以前のご葬送の夜の恥をそそぐ申して、お立ちになったので、「重盛卿はひどく大様なも のだな」と、父の清盛卿も言われた。 ためということであった。清水寺は興福寺の末寺だからで かきようへんじようち 後白河院は御所にお帰りになってから、御前にいつもお ある。清水寺が焼けた翌朝に、「やあ、観音、火坑変成池 はいかに」と札に書いて、大門の前に立てたところ、次の側近くに仕えている近臣たちが、大勢伺候しておられたと りやっこうふしぎ ころで、「それにしても意外な事を申しだしたものだなあ。 日また、「歴劫不思議カ及ばず」と返答の札を打ちつけた。 少しも考えていないのに」と言われると、院の御所の切れ 炎山門の衆徒が比叡山に帰ってしまったので、後白河院は六 さいこう 水波羅からお帰りになった。重盛卿だけがお供として行かれ者に、西光法師という者がいた。ちょうどその時御前近く に控えていたが、「『天にロなし、人をもって言わせよ』と、 た。父の清盛卿は行かれなかった。まだ用心しているため 申します。平家が非常に身分不相応に出過ぎますので、天 第かという評判であった。重盛卿が後白河院をお送りしてか 巻 の御はからいなのでしよう」と申した。その場にいた人々 らお帰りになったので、父の大納言 ( 清盛 ) がおっしやる おそ は、「そんなことを言ってもむだだ。壁に耳あり、どこで には、「それにしても後白河院の御幸はたいそう畏れ多い 事と思われる。前々から平氏を討とうと思っておられ、そ誰が聞いているかもしれない、恐ろしい、恐ろしい」とロ えふ

4. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

うゑもんのじようまさ だいしゅおびたた なりちかのきゃう の大衆、緩しう蜂起して、国司成親卿を流罪に処せられ、目代右衛門尉正一西の京の七条。 ニ『百練抄』によると十二月二十 1 とも びッちゅうのくに 友を禁獄せらるべき由、奏聞す。既に成親卿備中国へながさるべきにて、西四日権中納言解官、配流、同二十 八日召還された。 語 しちでう 物の七条までいだされたりしを、君いかがおばしめされけん、中五日あッて召し三「正月五日兼右兵衛督別当」 家 ( 公卿補任 ) 。右衛門督は右兵衛督 しゅそ おなじき おびたた 平かへさる。山門の大衆緩しう呪咀すと聞えしかども、同二年正月五日、右衛が正しい 四承安二年 ( 一一七一 l) 七月、三条室 けんびゐし 四すけかたかねまさのきゃう 門督を兼じて、検非違使の別当になり給ふ。其時資賢、兼雅卿こえられ給へり。町御所造営の功により従二位に叙 せられ、資賢・兼雅等を越えたこ すけかたのきゃう五 えいぐわ けちゃく 資賢卿はふるい人おとなにておはしき。兼雅卿は栄花の人なり。家嫡にてこと ( 百練抄 ) がある。それをここに 入れたもの。この前に脱文がある。 おなじき ぎうしん 「承安二年七月廿五日従二位ニ叙 えられ給ひけるこそ遺恨なれ。是は三条殿造進の賞なり。同三年四月十三日、 セラル。其時 : ・」 ( 屋代本 ) とある じゃうにゐ ちゅうなごんむねいへのきゃう あんげん 正二位に叙せらる。其時は中御門の中納言宗家卿こえられ給へり。安元元年ほうがよい。次の「同三年」も承安 三年である。 さきのちゅうなごん ごんだいなごん 十月廿七日、前中納言より権大納言にあがり給ふ。人あざけッて、「山門の大五年長者、老人。「おとな」も同 じで、長老ぐらいの意。 六摂関家に次ぎ大臣家の上に位 衆にはのろはるべかりける物を」とぞ申しける。されども今はそのゆゑにや、 する高い家柄。清華に同じ。藤原 およ しんめい しゅそ かかるうき目にあひ給へり。凡そは神明の罰も人の呪咀も、ときもあり遅きも兼雅は花山院で、七清華の一。 セ本家の嫡子。 ^ 三条室町御所。 あり、不同なる事共なり。 九藤原 ( 中御門 ) 宗家。当時従二 おなじきみつかのひだいもっ 同三日、大物の浦へ京より御使ありとてひしめきけり。新大納言、「是に位中納言。 一 0 『玉葉』によると安元元年 ( 一一七 びぜんこじま て失へとにや」と聞き給へば、さはなくして、備前の児島へながすべしとの五 ) 十一月二十八日。 けん ほうき そうもん おっかひ すで いっかのひ

5. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

( 原文五九ハー ) このかた、摂政関白がこんな目におあいになった事は、ま申しがあったが、世の中はそれでもきわめておもしろくな あくぎよう しようにみえた。 だ聞いたことがない。 これこそ平家の悪行の始めであった。 かおう 小松殿は非常におあわてになった。出かけていった侍ど そうしているうちにその年も暮れた。あけて嘉応三年正 とが もを皆、きびしく咎めなさった。「たとえ入道相国がどん月五日、天皇は元服なさって、同月十三日、院の御所へ朝 きん けんしゅんもんいん なとんでもない事を命令なさっても、どうして重盛に夢で覲の行幸があった。後白河法皇と建春門院はお待ち受けに せん うい・一うぶり でも知らせなかったのか。だいたい資盛がけしからん。栴なり対面なさったが、天皇初冠のご様子をどんなにかわ だんふた 檀は二葉より芳しといわれている。すでに十二、三歳にな いくお思いになったことだろう。入道相国の御娘を女御と さんだい ろうとする者が、もう礼儀を心得てふるまうべきなのに、 して参内させられた。御年十五歳、法皇の御養子という事 である。 このように無礼をはたらいて入道相国の悪い評判を立てる。 し′ ) く みようおんいん 不孝至極、責任はお前一人にある」といって、しばらく伊 その頃、妙音院の太政大臣 ( 師長 ) が、当時はまだ内大 勢国に資盛を追いやられた。だからこの大将 ( 重盛 ) を、 臣の左大将でおられたが、大将を辞任なさることがあった。 さねさだ 君も臣も感心なさったということであった。 その時徳大寺の大納言実定卿が、その後任にあたっておら かねまさ れるといわれていた。また花山院の中納言兼雅卿も所望さ ししのたに いえなり こなかのみかど 鹿谷 れた。そのほか故中御門の藤中納言家成卿の三男、新大納 なりちか 言成親卿も、切に所望された。成親卿は後白河院の御おば 谷 いわしみはちまん 鹿 この事件のため、高倉天皇御元服のお打合せは、その日 えがよかったので、種々の祈りを始められた。石清水八幡 ぐう だいはんにやきよう 第は御延期になった。同月二十五日、院の殿上で御元服の打宮に、百人の僧を籠らせて、大般若経六百巻を七日間真読 おと・、 こうらだいみようじん たちばな 巻 合せがあった。摂政殿はそのままでおられるわけにもいか させられた最中に、甲良大明神の御前にある橘の木に、男 せんじ や - まばと やま ないので、同年十二月九日、前もって宣旨を受け、十四日、山のほうから山鳩が三羽飛んで来て、互いに食い合って死 はちまん 太政大臣に昇進なさる。すぐ同月十七日、官位昇進のお礼 んでしまった。「鳩は八幡大菩薩の第一の使者である。宮 せのくに ちょう

6. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

同月十四日の夜半ほどに、山門の衆徒が、また大勢比叡の冠を打ち落せ。その身体をひっくくって、湖に沈めろ」 うわさ 山から京都に下りてくるという噂なので、夜中に天皇は腰などと評議した。すんでのことで乱暴されそうになられた ほうじゅうじどの 輿に召されて、院の御所、法住寺殿へ行幸なさる。中宮は時に、時忠卿は、「しばらくお静かになさい。衆徒の方々 語 こすずりたとうがみ へ申すべき事がある」といって、ふところから小硯と畳紙 物御車に乗られて行啓なさる。小松の大臣 ( 重盛 ) は直衣に ごんのすけ - 一れもり 家 矢を背負ってお供なさる。重盛の嫡子権亮少将維盛は束を取り出し、一筆書いて、衆徒の中につかわした。これを 平 ひらやなぐい 開いて見ると、「衆徒が乱暴をするのは、魔縁のしわざで 帯に平胡を背負って参られた。関白殿をはじめとして、 くぎようてんじようびと ある。天皇が制止するのは、仏の加護である」と書かれて 太政大臣以下の公卿・殿上人は我も我もと馳せ参ずる。お ある。これを見て、時忠卿を引っ張ることまではなく、衆 よそ京都中の貴い者賤しい者、内裏の身分の高い者も低い 者も、騒ぎたてる事は、大変なものである。山門では神輿徒は皆、「もっとも、もっとも」と賛成して、谷々へ下り、 それそれの坊へはいってしまった。 一枚の紙一つの文句で、 に矢が立ち、神人・宮仕が射殺され、衆徒が大勢負傷した こんほんちゅうどう 三塔三千の衆徒の憤りをしずめ、公私の恥をおのがれにな ので、大宮・二宮以下、講堂・根本中堂、すべての諸堂を った時忠卿はまことに立派である。人々も、山門の衆徒は 一つも残さず焼き払って、山野に隠れるべきだと、三千の 衆徒が揃って決議した。このために、衆徒の申すところを押しかけてうるさく言うばかりかと思っていたら、道理も 法皇がお取り上げになるだろうという噂だったので、比叡わかっていたのだと感心なさった。 ただちか 同月一一十日に、花山院権中納言忠親卿を公卿の首席とし 山の上席の役僧らは、情勢を衆徒に知らせようといって、 もろたか て評議し、国司加賀守師高はついに免官されて、尾張の井 比叡山に登ってきたのを、衆徒は立ち上がって、西坂本か もくだい もろつね 戸田へ流された。目代近藤判官師経は、獄に入れられた。 らみな追い返した。 さえもんのかみ ときただ また去る十三日、神輿を射申した武士六人が入獄に決めら 平大納言時忠卿はその時はまだ左衛門督でおられたが、 まさすえ 寺、えもんのじよう まさずみ れた。左衛門尉藤原正純・右衛門尉正季・左衛門尉大江 公卿の首席として使いにたった。山門では大講堂の庭に、 やすいえ いえかめ 三塔の衆徒が会合して、首席を捕えて引っ張り、「そいっ家兼・右衛門尉大江家国・左兵衛尉清原康家・右兵衛尉清 どた

7. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

さだふさ そうほうがん もとかめ 寛僧都、山城守基兼、式部大輔雅綱、平判官康頼、宗判官れたあとに、大納言定房卿を越えて、小松殿が内大臣にな ただのくらんどゆきつな のぶふさしんべいほうがんすけゆき られる。大臣で大将とはめでたい事であった。すぐその披 信房、新平判官資行、摂津国の源氏多田蔵人行綱をはじめ しゅひん おおいのみかど つねむね ほくめん 露の宴会が行われた。主賓には大炊御門の右大臣経宗公が として、北面の者どもが大勢この計画に加わった。 語 もろなが 物 なられたという事であった。師長の家は左大臣が昇進の限 しゅんかんのさた うがわいくさ ほうげん 家 度なのだが、父の宇治の悪左大臣 ( 頼長 ) が保元の乱を起 俊寛沙汰鵜川軍 平 された先例があるので、それをはばかって左大臣にならず まさとし この法勝寺の執行俊寛と申す者は、京極の源大納言雅俊太政大臣に任じられたのである。 きでら 卿の孫にあたり、木寺の法印寛雅の子供であった。祖父の 北面の武士は昔はなかった。白河院の御代に、初めて設 ろくえふ 大納言はこれというほどの弓矢を取る武門の家ではないの置されて以来、六衛府の者どもが大勢北面の武士として伺 - 一う キエつ一くやしき ためとしもりしげ せんじゅまるいまいめまる だが、あまりにも怒りつばい人で、三条坊門京極の邸の前 候した。為俊・盛重は少年の時から千手丸・今大丸といっ て仕えており、彼らは並ぶ者もない切れ者であった。鳥羽 を、人もめったに通さないで、いつも中門にたたずんで、 すえのりすえより 歯をくいしばって周囲をにらみつけておられた。こういう院の御代にも、季教・季頼父子ともに朝廷に召し使われ、 人の孫だからだろうか、この俊寛も僧侶だが、気性も激し上皇に申し上げる事を取り次ぐ折もあるなどという噂だっ おご むほん たが、皆身分相応にふるまっていたのに、この御代の北面 く驕り高ぶった人で、それでつまらない謀反にも参加した のであろう。 の連中はとんでもないぐらい分際以上のふるまいをし、公 新大納言成親卿は多田蔵人行綱を呼んで、「そなたを一卿・殿上人もものともせず、礼儀礼節もない。下北面から じようほくめん 方の大将として頼みにしているのだ。もしこの計画が成功上北面に上がり、上北面からさらに殿上人に昇進し殿上の したものなら、国でも荘園でも望みどおりに与えよう。ま交際を許される者もある。こういうことがいつも行われた ゅぶくろ ず弓袋の材料に」といって、白布五十反をお贈りになった。 ので、驕り高ぶる心なども出てきて、つまらない謀反にも しんせい みようおんいん 安元三年三月五日、妙音院殿 ( 師長 ) が太政大臣に移ら 一味したのであろう。なかでも故少納言信西の所で召し使 かんが まさつな たん げほくめん し

8. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

た五尺のわが身のおきどころもない。一生は短いというが、 大いに動いたというように、ものが巧妙をきわめると、自 たった一日を暮すのがむずかしい」と、夜中に九重の宮中 然に感動がおこる道理だから、人々は身の毛がよだち、そ やえ こにいるすべての人が不思議に思った。しだいに深夜にな を抜け出して、八重たっ雲の外の遠い土地へ出かけられた。 語 おおえやまいくの ふ′一うじよう りゅうせん 物って、風香調の曲の中には花が芳香を含み、流泉曲の間に あの大江山や生野の道を通って、丹波国村雲という所に、 家 は、月が清らかな光を競っているかのようだ。「願わくは しばらくは足をとどめておられた。そこからついには捜し 平 きようげんきぎよ しなののくに 今生世俗文字の業、狂言綺語の誤りをもって - という朗詠出されて、信濃国へ送られたということである。 をして、琵琶の秘曲をおひきになると、神もその感動に堪 ゆきたかのさた えず、神社の宝殿がたいそう震動する。平家の悪行がなく、 行隆之沙汰 ここへ流されなかったら、今このような神のめでたいしる まつどの ごうのたいふのほうがんとおなり しをどうして拝むことができようかと、大臣は感激の涙を 前関白松殿の侍で、江大夫判官遠成という者がいた。こ ろくはら の者も平家が快く思っていなかったから、今にも六波羅か お流しになった。 あぜちの すけかた 按察大納言資賢卿の子息、右近衛少将兼讃岐守である源ら押し寄せて、逮捕されるであろうという評判だったので、 すけとき こうだいこくうのごんのだいぶ さえもんのじよう 資時は、両方の官を停められる。参議で皇太后宮権大夫兼子息江左衛門尉家成を連れて、どこへともなく落ちて行 たかしなのやす なり みつよし 右兵衛督の藤原光能、大蔵卿で右京大夫兼伊予守の高階泰ったが、稲荷山に登って、馬から降りて、親子が言い合せ もとちか つねくらんど 経、蔵人で左少弁兼中宮権大進の藤原基親は、それぞれ三 たことは、「東国の方へ落ち下って、伊豆国の流人である うひょうえのすけよりとも ちょっかん つの官をすべて停められる。按察大納言資賢卿、子息右近前右兵衛佐頼朝を頼ろうとは思うが、あの方も今は勅勘を まさかた 衛少将、孫の右少将雅賢、この三人を、すぐに都の内から受けている身で、自分の身一つさえも思うままにならない さねくにはかせのほうがん のりさだ しようえん でおられるそうだ。日本に平家の荘園でない所があろうか 追放すべしと、上卿の藤大納言実国、博士判官中原範貞に どうせ逃れられないものだから、年来住みなれた所を、 仰せつけられて、すぐその日のうちに、都を追い出される。 大納言が言われたことは、「三界は広いといっても、たっ他人に見せるのも恥多いことだろう。ただもうここから帰 ここのえ

9. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

ぐ - : っ りゃうぢん ぎよりんをど はきんたん 一漢代、魯の人、唱歌の名手。 巴琴を弾ぜしかば、魚鱗躍りほどばしる。虞公歌を発せしかば、梁塵うごきう 「楚漢興以来、雅歌ヲ善クスル者、 - もレほことわり しょにん じねん めうきは ごく。物の妙を究むる時には、自然に感を催す理なれば、諸人身の毛よだッて、魯人虞公、声ヲ発スレバ、清哀遠 ロ ク梁塵ヲ動力ス」 ( 七略別録 ) 。 ふがうでう はなふんぶく 一口まんギ、きい おもひ 物満座奇異の思をなす。ゃう / 、深更に及んで、風香調の内には、花芬馥の気を = 歌声に感じの上の塵が動く。 家 三『教訓抄』『体源抄』にもこの句 こんじゃうせぞくもじのげふ ひかり りうせん 平 が見える。風香調は琵琶の調子の 含み、流泉の曲の間には、月清明の光をあらそふ。「願はくは今生世俗文字業、 名。流泉曲は琵琶の秘曲の一。芬 しんめいかんおうた きゃうげんきぎよのあやまり 狂言綺語誤をもッて」といふ朗詠をして、秘曲をひき給へば、神明感応に堪馥は芳しい香。 四「願ハクハ今生世俗文字ノ業、 ずいさう しんどう ほうでん へずして、宝殿大きに震動す。平家の悪行なかりせば、今此瑞相をいかでか拝狂言綺語ノ誤リヲ以テ、翻シテ当 来世々讃仏乗ノ因、転法輪ノ縁ト かんるい セム」 ( 和漢朗詠集下白楽天 ) 。 むべきとて、おとど感涙をぞながされける。 六 現世の世俗の文字の業と、つまら とど あぜちのだいなごんすけかたのきゃうの うこんゑのせうしゃうけんさぬきのかみみなもとのすけときふた 按察大納言資賢卿子息右近衛少将兼讃岐守源資時、両つの官を留めらぬ飾り立てたことばの過失とを、 ひるがえ 九 翻して未来の何世にも仏を賞め いよのかみたかしなの さんぎくわうだいこくうのごんのだいぶうひやうゑのかみふぢはらのみつよし る。参議皇太后宮権大夫兼右兵衛督藤原光能、大蔵卿右京大夫兼伊予守高階讃える時の媒介、説法する時の契 機としたいものだ。 やすつねくらンどのさせうべんちゅうぐうのごんのだいしんふぢはらのもとちか 五長門本では明神が現れて帰洛 泰経、蔵人左少弁兼中宮権大進藤原基親、三官共に留めらる。按察大納言 をかなえようと生ロげる。 いだ まき一かた、」れ 資賢卿、子息右近衛少将、孫の右少将雅賢、是三人をばやがて都の内を追ひ出六源有賢の子。「正二位行権大 納言兼出羽陸奥按察使源資賢・ : 従 はかせのはうぐわんなかはらののりさだ しゃうけいとうだいなごんさねくに さるべしとて、上卿藤大納言実国、博士判官中原範貞に仰せて、やがて其日四位上行右近衛権少将源雅賢 ( 資 賢卿孫 ) 、従四位下行右近衛権少 さんがい いだ 都のうちを追ひ出さる。大納一一 = ロ宣ひけるは、「三界広しといへども五尺の身お将源資時 ( 資賢二男、已上昨日解 官 ) 堺ヲ追ハル」 ( 山槐記・治承三年 くら やちゅう き所なし。一生程なしといへども一日暮しがたし」とて、夜中に九重の内をま十一月十八日条 ) 。 しんかう はっ 四 ここのヘ

10. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

もろすけ さねより おののみやどの る馬や車もよけて通った。「宮門を出入りするけれども、 左大将に実頼すなわち小野宮殿、右大将に師資すなわち九 ていじんこう ごれいぜい 警衛の武士に、姓名を尋ねられる事もない。京師の長吏は条殿がおられたが、ともに貞信公の御子である。後冷泉 よりむね ちょうごんか のりみち おおにじようどの このために、、目をそらし見ても見ぬふりをする」と長恨歌天皇の御代には、左に教通すなわち大二条殿、右に頼宗す でん みどう みちなが 伝に見えるが、全くそのように見えた。 なわち堀河殿がおられたが、この二人は御堂関白道長の御 もとふさ まつどの 子である。二条天皇の御代には、左に基房すなわち松殿、 わがみのえいが かねぎね つきのわどの ほう。しレ・ろ・じ 右に兼実すなわち月輪殿がおられたが、この二人は法性寺 吾身栄花 どのただみち 殿忠通の御子である。これらはすべて摂政家のご子息であ 清盛自身が栄華を極めるだけでなく、その一門が揃って って、摂家清華以外の凡人ではその例がない。殿上の交わ 、しげもり むねもり きんじきざっぽう 繁栄して、嫡子重盛は内大臣で左大将、次男宗盛は中納言 りをさえ嫌われた人の子孫で、禁色雑袍を許され、華美な し とももり * ) んみ 一れもり で右大将、三男知盛は三位の中将、嫡孫維盛は四位の少将衣服を身にまとい、大臣兼大将になって、兄弟が左右大将 くぎよう てんじようびと 。ししながら、思いもよらぬ珍しい となり、全部で一門の公卿は十六人、殿上人は三十余人、 に並ぶことは、末代とよ、、 えふ 諸国の受領や衛府の役人、諸官など総計六十余人に及んだ。 事であった。 清盛には、そのほか御娘が八人いらっしやった。みなそ 栄世には平氏のほかにはまた人がないというほどのご様子で しげのり れぞれ栄えておられた。一人は桜町の中納言成範卿の北の 吾あった。 しようむ じんき ちゅうえだいしよう 髪昔聖武天皇の御代、神亀五年に朝廷に中衛の大将を初め方になられるはずであったが、八歳の時に結婚の約束をな だいどう こんえ しもつけ 禿 てお置きになり、大同四年に中衛を近衛とお改めになった さっただけで、平治の乱で成範卿が下野国へ流された後、 引き離されて、花山院の左大臣殿の奥方におなりになって、 第が、それ以来今までに、兄弟が左右に大将として並ぶ事は、 もんとく よしふ * 」 オしったいこの成範卿を桜 わずか三、四度にすぎない。文徳天皇の御時は、左に良房若君たちが大勢いらっしやっこ。、 よしおう が右大臣で左大将、右に良相が大納言で右大将であり、と町の中納言と申したのは、この成範卿が特に風流心をもっ ふゆっぐ すぎく もに閑院の左大臣冬嗣の御子である。朱雀天皇の御代には、 ておられた人で、いつも吉野山の桜を恋い慕い、一町に桜 かんいん おんとき せ が