成親 - みる会図書館


検索対象: 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)
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1. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

座主流後白河院は西光父子の讒言で安元三年 ( 一一耄 ) 五月、叡山の座主明雲を伊豆配流にする。衆徒は激怒する。 あじゃり 一行阿闍梨之沙汰衆徒は山王の託宣に力を得て、祐慶阿闍梨を先噸に配流の途中で座主明雲を奪還し、東塔の南谷にかく まう。権化の人も一時の災難にあう例として、唐の一行阿闍梨が玄宗皇帝に疑われて流されたことがある。 西光被斬結局、明雲配流はうやむやになる。多田行綱は平氏打倒の計画を清盛に密告、成親が捕えられ西光は惨殺された。 小教訓成親は情盛邸に監禁されたが、重盛が清盛を説得、助命する。成親の北の方は子どもと共に雲林院に隠れる。 少将乞請成親の子成経は清盛の弟教盛の女婿だったので、教盛の懇願により教盛に預けられる。成経は父を気づかう。 教訓状清盛はさらに院を軟禁しようと、武装する。重盛は西八条にかけつけ、情理をつくして父を諫めた。 烽火之沙汰重盛は諫言を続け、清盛が武力行使すれば院を守護せねばならず、君と父の板挟みになる。己を殺してくれと 訴えたので、清盛も強行できぬ。重盛は帰宅後、武士を召集、武士はみなせ参じた。重盛は褒娯の故事を話す。 大納言流罪成親は重盛の取りなしで死をまぬかれ、備前の児島へ流された。彼は嘉応元年 ( 一一六九 ) にも山門と争い流され そうになったのを、院に取り立てられたことがあったが、今その罰が下ったのである。 阿古屋之松成経も召喚され備中瀬尾に移る。備前・備中の境、有木の別所の父を慕い距離を尋ねると十二、三日かかると いう。昔実方が陸奥の阿古屋の松を尋ねた時、出羽が陸奥から分離していた話を想起し、備前・備中も近いはずと思う。 大納言死去その後成経は俊寛・康頼と共に鬼界が島へ流される。出家した成親のもとには、侍の信俊が北の方の手紙を持 って尋ねて来たりしたが、ついに成親は惨殺された。北の方も出家して夫の後世を弔った。 徳大寺厳島詣大将になれず鬱屈していた実定は、人の勧めで清盛信仰の厳島へ参詣。清盛は感激して彼を大将にした。 かんじよう 山門滅亡堂衆合戦後白河院は三井寺で灌頂を受けようとするが、叡山の反対にあい、天王寺で行う。叡山では堂衆と学 生との対立が激しくなり、清盛は院宣を蒙って軍勢をさし向けるが効果がない。 山門滅亡その後、山門はすっかり荒れはててしまった。末代には仏法は衰微するばかりである。 きぎし 善光寺炎上同じ頃善光寺も焼失。本尊は天竺・百済伝来の霊像である。かく霊寺が滅びるのは平氏滅亡の兆と噂が立つ。 のりと 康頼祝言鬼界が島の三人の中、康頼・成経は熊野信仰が深く、島に熊野権現を勧請し、康頼は祝言を読んで帰京を祈る。 そとば 卒都婆流康頼は卒都婆千本を作り歌などを書いて海に流す。中の一本が厳島に漂着し都へ伝えられて、人々を動かした。 蘇武このように流人の思いが故郷へ届いた例として、漢の蘇武が雁に手紙を託しついに救出されたという故事がある。

2. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

しない兵士どもに連れられて、今日限りで都を出て、海路違使の別当になられた。 ( その後承安二年七月従二位に叙せら すけかたかねまさ をはるかに旅に出られた心中は、さぞかしと推量されて哀 れたが ) その時資賢・兼雅両卿が官位を越されておしまい せつつのくにだいもっ れである。その日は摂津国の大物の浦にお着きになる。 になった。資賢卿は年寄の長老でいらっしやった。兼雅卿 新大納言成親はすでに死罪に処せられるはずだったが、 は五摂家に次ぐ清華の家柄の人である。名家の嫡子であり その人が流罪にゆるめられたのは、小松殿がさまざまにと ながら先をお越されになったのは、恨めしいことであった。 りなされたためである。この成親がまだ中納言でおられた この昇進は三条の御所を造って差し上げた賞である。そし みののくに もくだい 時、美濃国を領しておられたが、嘉応元年の冬、目代右衛て翌年承安三年四月十三日、正二位に叙せられた。その時 まさとも じんにんくず 門尉正友の所へ、比叡山の寺領の平野庄の神人が葛を売り は中御門中納言宗家卿がお越されになった。安元元年十月 あぎけ に来た際に、目代が酒を飲み酔っぱらって、葛に墨をつけ 二十七日、前中納言から権大納言に昇進される。人は嘲っ じゅそ た。神人がそれを怒って悪口を言ったので、そうは言わせ て、「山門の衆徒には呪詛されるはずだったのに」と申した。 るな、とさんざん踏みにじり、ばかにした。そこで神人ど けれども今はその呪詛のせいだろうか、こういう悲しい目 おきて も数百人が目代の所に乱入した。目代が掟のとおりに防い におあいになった。だいたい神罰も、人の呪詛も、速いこ だので、神人ら十数人が打ち殺された。このため同年十一 ともあり、遅いこともあって、定まっていないものである。 しゆと ほうき 同 ( 安元三年六月 ) 三日、大物の浦へ京都から御使いがあ 流月三日、比叡山の衆徒は非常に大勢で蜂起して、国司成親 そうぞう 言 ったといって、騒々しかった。新大納言は、「ここで殺せ 納卿を流罪に処せられ、目代右衛門尉正友を獄舎に入れられ びっちゅうのくに 大 るようにと奏上した。そこでもはや成親卿を備中国に流さ というのだろうか」とお聞きになると、そうではなくて、 びぜんこじま 第れる予定で、西の京の七条までお出しになったのを、法皇備前の児島へ流すべしとの御使いである。小松殿からお手 巻 はどうお考えになったのだろうか、中五日おいて召し返さ紙がある。「なんとかして、都近い片山里においでになる じゅそ ようにしたいと、ずいぶん申したのですが、それができな れた。比叡山の衆徒がものすごく呪詛しているという噂だ ったが、同二年正月五日、成親卿は右衛門督を兼任し検非 かったのは、世に生きているかいもありません。そうです ひえいぎん けび せいが

3. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

きません。今度も同じ事ならつまらぬ命をお助けください。 まして平凡な臣下ではもちろんのことです。すでに成親卿 せめて命さえ生き延びましたなら、出家入道して、高野を召し置かれたからには、急いでお殺しにならないでも、 こも こかわでらと 山・粉河寺に閉じ籠って、ひたすら後世の往生成仏のため なんの不都合がありましよう。『刑の疑わしいのは軽くせ 語 物の修行をいたしましよう」と申されたところ、「いくらな よ、功の疑わしいのは重んぜよ』と古典に見えています。 家 んでも、お命をおとりする事まではまさかありますまい 今更のことですが、重盛はあの大納言の妹と連れ添ってお 平 たといそうでも、重盛がこうしておりますからには、お命ります。息子の維盛はまた大納言の娘婿です。このように にもお代り申しましよう」といって、出て行かれた。父の親しくなっておりますから申すと、お思いかもしれません。 なりちか 入道の御前に行かれて、「あの成親卿をお殺しになる事は、 だがそうではありません。世のため、君のため、家のため しゆりのだいぶあきすえ しんせい よくよくお考えください。成親卿は先祖の修理大夫顕季が の事を思って申すのです。先年故少納言入道信西が権勢を うひょうえのかみ 白河院に召し使われて以来、家に前例のない正二位の大納ふるっていた際に、わが国では嵯峨天皇の御時、右兵衛督 なかなりちゅう ほうげん 言に昇進して現在法皇のまたとないお気に入りです。すぐ 藤原仲成を誅されて以来、保元までは天皇二十五代の間、 さま首をおはねになるというのはいかがでございましよう。 行われなかった死罪を、初めてとり行い、 宇治の悪左大臣 より↓はが 都の外へお出しになったらそれで十分でしよう。北野の天頼長の死骸を掘り起して、実検された事などは、あんまり ぎんそう 神は左大臣藤原時平の讒奏によって、悲しい左遷の汚名を な、ひどいご政治と思われました。ですから昔の人々も、 まんぢゅう 西海へ流し、西宮左大臣源高明は多田の満仲の讒言によっ 『死罪を行うと、国内に謀反の者どもが絶えない』と言い て、恨みを抱きながら山陽道から九州へ下りました。めい 伝えております。このことばどおりに、保元の乱から中二 めい無実の罪でしたが、流罪に処せられておしまいになり年たって、平治にまた乱が起り、信西が埋まっていたのを、 だいご ました。これはみんな醍醐天皇・冷泉天皇の御あやまちと掘り出し、首をはねて、大路を引き渡されました。保元の 申し伝えております。上古でもやはりこのとおりです。ま時に言い出し行った事が、まもなくわが身の上にめぐって して末代では当然です。賢王でもやはり御誤りがあります。きたと思うと、恐ろしく思われました。今度の成親はたい るざい さが

4. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

という古言がある。上古にも末代にもめったにない大臣で 引ある。 語 物 家 平 の御所へ法皇が御幸なさった際には、一度も欠かさずお供 すはま したものをと思い、自分の山荘で洲浜殿と名づけてあった のも、遠くに見て通って行かれた。鳥羽殿の南門に出て、 だいなごんるぎい 大納言流罪 武士たちは船を早くと催促した。「これはどちらへ行くの だろう。どうせ殺されるものなら、都近いこの辺ででもあ なりちか 同年六月二日、新大納言成親卿を、寝殿の客間にお出しればよいが」と言われたのは、せめてもの願いであった。 して、お食事を差し上げたが、成親卿は胸がいつばいで、 近く付き添った武士を、「誰だ」とお尋ねになると、「難波 つねとお お箸さえもお取りにならない。 , 御車を建物近くに寄せて、 次郎経遠」と申す。「もしかしてこの辺に自分の召し使っ さあさあと催促すると、いやいやながらお乗りになる。軍ている者がないか。船に乗らぬうちに言い残すべき事があ 兵どもは、車の前後左右に取り囲んでいる。自分のほうのる。尋ねて来させよ」と言われたので、その辺を走り回っ 者は一人もいない。「今一度小松殿にお目にかかりたい」 て尋ねたけれども、自分こそ大納言殿の召使と言う者が一 とが と言われたが、それもできない。「たとえ重い科をこうむ人もいない。「自分 ( 成親 ) が世に時めいていた時は、従属 って、遠国へ行く者でも、誰一人っいて行かない者がある していた者どもは、一、二千人もあったろう。今はせめて か」と、車の中で繰り返しくどかれたので、護送の武士ど それとなくでも、自分の様子を見送ってくれる者がない悲 よろい ももみな涙で鎧の袖をぬらした。八条から西の朱雀大路を しさよ」といって泣かれたので、たけだけしい武士どもも だいだいり 南へ行くと、大内裏も今は遠く離れて御覧になった。長年みな涙で袖をぬらしたのであった。身に付き添うものとい ぞうしき くまのもうでてんのう 成親卿になれ親しんでお仕えした雑色・牛飼に至るまで、 っては、ただ尽きせず流れる涙だけである。熊野詣・天王 じ - もう・で がわらみつむね 涙を流し袖をぬらさぬ者はなかった。まして都に残ってお寺詣などには、二つ瓦、三棟の立派な御座船に乗り、供船 そう られる北の方や幼い子供たちの心のうちはどんなかと推量二、三十艘を漕ぎ連ねていたのに、今は変な屋形を据えた とばどの されて哀れである。鳥羽殿をお過ぎになるにつけても、こ というだけのみすばらしい船に大幕をめぐらし、見なれも

5. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

としすで じゃうにゐ 恩をもッて頸をつがれ参らせ、正二位の大納言にあがツて、歳既に四十にあま一大納言は三位相当であるが正 0 二位で勤めたから特にいう。成親 おなじく三 しゃうム、せせ り候。御恩こそ生々世々にも報じっくしがたう候へ。今度も同はかひなき命は承安三年 ( 一一七 = ) 正二位、安元元 四 年 ( 一一七五 ) 権大納言。時に四十歳。 かうやこかはと 語 物をたすけさせおはしませ。命だにいきて候はば、出家入道して、高野粉河に閉 = 未来永久にわたって。↓九二 五 家 ハー注九。 いっかうごせばだい 平ぢ籠り、一向後世菩提のっとめをいとなみ候はん」と、申されければ、「さは = 生きてもかいのない命。つま らない命。 たと しげもり七 こん′一う 候とも、御命うしなひ奉るまではよも候はじ。縦ひさは候とも、重盛かうて候 0 和歌山県伊都郡高野山の金翻 峯寺と和歌山県那賀郡粉河の粉河 でら へば、御命にもかはり奉るべし」とて、出でられけり。父の禅門の御まへにお寺。 五死後、極楽往生するように、 しゆりの おん なりちかのきゃう はして、「あの成親卿うしなはれん事、よく / 、御ばからひ候べし。先祖修理仏道に入って修行すること。 六そうであっても。それでも。 だいぶあきすゑしらかはのゐん いくらなんでもの意か。底本には 大夫顕季、白河院に召しつか 「さは候とも」を消し「大臣誠にさ こそはおばしめされ候らめ、さ候 はれてよりこのかた、家に其 る へばとて」と傍書してある。ここ じゃうにゐ す は傍書のほうが通じやすい。なお 得 例なき正二位の大納言にあが 「御命 : ・」以下は巻十一「腰越」に類 きみぶさう 命似の文がある。 ッて、当時君無双の御いとほ の セ「かくて」の音便。こうして。 かうべ 親 ^ 成親の祖父。寛治八年 ( 一 0 九四 ) 成 しみなり。やがて首をはねら しゆりしき 修理大夫。修理大夫は修理職 ( 宮 参城の修理、造営をつかさどる ) の れん事、いかが候べからん。 長官。 いだ 清九並びない法皇のお気に入り。 都の外へ出されたらんに事た こも くび

6. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

宰相は、「、いに思っているほどの事は申してしまった。世と申したので、「どうせどれほども延びるものではないも のの、せめて今夜だけは、都のうちで過したいものだ」と を捨てるよりほかは、今は何事を申すべきだろう、何も申 すことがなしレ 言われたが、しきりに催促するので、その夜鳥羽へおいで 、。ナれども、たとえどこの浦に流されておい になった。宰相はあまりの恨めしさに、今度は一緒に乗っ でになっても、自分の命がある限りは、お訪ねするつもり だ」と言われた ても行かれない 少将は今年三つになられる幼い子をもっていられた。ふ 同月二十二日、少将は福原へ到着なさったので、太政入 せのおのたろうかねやす だんは若い人のことで、若君たちなどの事も、そんなに深道 ( 清盛 ) は瀬尾太郎兼康に仰せつけて、備中国へお下し い愛情をそそいでおられなかったが、これが最後という時 になった。兼康は宰相の伝え聞かれるだろうことを恐れて、 になったので、それでもやはり心にかかられたのであろう途中いろいろにいたわりお慰めした。けれども少将は慰ま とな めのと か、「この幼い者を、今一度見たい」と言われた。乳母がれる事もない。夜昼ただ仏のお名前ばかりを唱えて、父成 ひぎ 抱いて参った。少将は膝の上に置いて、髪を撫で、涙をは親の事を心配しておられた。 らはらと流して、「ああ、お前が七歳になったら、元服さ 新大納言 ( 成親 ) は備前の児島にいらっしやったが、預 せて法皇のお側に出仕させようと思っていたのだ。けれど りの武士、難波次郎経遠が、「ここはまだ船着き場が近く 、ム も、今となっては言ってもしかたがない。 もしも生きなが て、よくないでしよう」といって、陸地へお移し申し、備 べっしょ 古らえて、成人したなら、法師になり、私の後世の幸福を弔前・備中両国の国境の庭瀬の郷有木の別所という山寺にお 阿 ってくれ」と言われると、まだ幼い心で、何事もお聞きわ入れした。備中の瀬尾と備前の有木の別所との間は、わず けになれないけれども、うなすかれるので、少将をはじめ か五十町たらすの距離なので、丹波少将成経は有木の別所 第 巻 として、母上、乳母の女房や、その場に列席していた人々 から吹いて来る風もやはりなっかしく思われたのだろうか、 3 は、分別のある人もない人も、みな涙で袖をぬらした。福ある時兼康を呼んで、「ここから大納言殿 ( 成親 ) がおいで 原からの御使いが、今夜すぐ鳥羽までおいでになるように になっているという備前の有木の別所へは、どれくらいの せのお にわせ ′ ) うありき

7. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

( 原文一七八ハー ) しやめん たんばのしようしよう 「あの丹波少将のことを、宰相がしきりに嘆願しますのがすぐ赦免になるでしようよ。ご安心くださいーと言われる と、宰相は小松殿を拝んでお喜びになった。「成経が九州 かわいそうです。中宮のお苦しみのこと、私の聞き及ぶと もら へ下って行った時も、どうして私が貰いうけないのかと思 おりでしたら、成親卿の死霊のためなどということです。 っているような様子で、私を見ますたびごとに涙を流して 大納言 ( 成親 ) の死霊をなだめようとお思いになるにつけ ても、現在生きております少将をこそお召し返しになるのおりましたのが、かわいそうです」と申されたので、小松 がよいでしよう。他人の思い嘆きをおなくしになれば、ご殿は、「ほんとうにそうお思いになるでしよう。子は誰で もかわいいものですから、よくよく父に申しましよう」と 自分のお思いになることもかない、他人の願いをかなえて ごがん いって奥へおはいりになった。 おやりになれば、ご自分の御願もたちまち成就して、中宮 さて、鬼界が島の流人どもを召し返される事が決定され もすぐ皇子をご誕生になって、平家一門の栄華はいよいよ 盛んになるでしよう」などと申されたところ、入道はいっ て、入道相国が赦免状をお下しになった。御使いはもう都 を出発しようとする。宰相はあまりのうれしさに、御使し もとかわって、ことのほか穏やかになって、「そうしてそ しゅんかんやすより れでは俊寛と康頼法師の事はどうだ」。「その両人も同じく に私的な使者をつけてお下しになった。昼夜兼行で急いで 召し返されるのがよいでしよう。もし一人でも島にお留下れということだったが、思うままにならない海路なので、 めになったら、かえって罪作りでしよう」と申されたとこ波風を乗り越えて行くうちに、都を七月下旬に出たけれど も、九月二十日頃になって、鬼界が島に到着した。 摺ろ、「康頼法師の事はともかくとして、俊寛は、たいそう 足 わしが世話をしてやって一人前になった者なのだ。それな ししたに 足摺 第のに所もあろうに、自分の山荘の鹿の谷に城郭を構えて、 巻 何かにつけてけしからんふるまいなどがあったということ ゆる たんぎえもんのじようもとやす 御使いは丹左衛門尉基康という者である。船から上陸 訂だから、俊寛を赦すなんてとんでもない」と言われた。小 して、「ここに、都からお流されになった、丹波少将 ( 成 松殿は帰って、叔父の宰相殿をお呼びして、「少将はもう あし ずり

8. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

とばも、このような事を申すのであろう。この事を新大納り忠して、生きながらえよう」と思う心が起った。 なりちか 四言成親卿以下側近の人々にご相談になって、比叡山をお攻 同じ安元三年五月二十九日の夜更けがたに、多田蔵人行 めになるという噂がたったので、山門の衆徒は、「天子の綱は、入道相国の西八条の邸に参って、「行綱が申すべき 語 物ご領地に生れて、そうそういつも天子のご命令を背くべき事がありますので、参りました」と取り次がせたところ、 いんぜん 家 でない」といって、内々院宣に従い申す衆徒もあるなどと入道は、「常に参るのでもない者が参ったのは何事だ。そ 平 しゅめのはんがんもりくに いう噂が流れた。そこで前座主明雲大僧正は妙光房におられを聞いてこい」といって、主馬判官盛国をお出しになっ れたが、衆徒に二心があると聞いて、「しまいにはどんな た。「人づてでは申せない事です」というので、それなら 目にあうだろう」と、心細そうに言われた。けれども流罪といって、入道自身中門の廊へ出て行かれた。「夜はずい の命令はなかった。 ぶんふけてしまっただろう。今頃どうした、何事だ」と言 なりちか 新大納一言成親卿は、山門の騒動のために、かねてもってわれると、「昼は人目が多うございますので、夜の暗さに ごしらかわ いた平家討滅の私的な気持をしばらくおさえておられた。 まぎれて参りました。この頃後白河法皇の院中の人々が、 それも内々の準備はさまざま行っていたが、意気ごみだけ武具を用意し、軍兵を召集されておりますのを、なんとお では、この謀反は成功しそうにも見えなかったので、あん聞きですか」。「それは、比叡山をお攻めになるためと聞い ただのくらんどゆきつな なにも頼りにされていた多田蔵人行綱は、この事はむだだ ているそ」と、全くなんでもないことのように言われた。 ゅぶくろ と思う気持が生じた。弓袋を作る材料に贈られた布などを、行綱は近く寄り、小声になって申すには、「そんな事では ひたたれかたびら 直垂や帷子にこしらえさせて、家子郎等どもに着せて、目 ございません。全く平家ご一門の御事と承っております」。 をばちばちさせて考えていたが、「よくよく平家の繁栄す「それでその事を法皇もご存じでいらっしやるか」。「もち いんぜん ろんです。成親卿が軍兵を召集なさるのも、院宣といって るありさまを見ると、現在容易に滅せそうにない。つまら しゅんかん やす ない事に加担してしまった。もしこの事が漏れるものなら、召されました」。行綱はなお、俊寛がこうふるまって、康 より 行綱がまず殺されるだろう。他人の口から漏れぬ前に、返頼がああ申して、西光がこう申してなどという事を、一部 ( 原文九八ハー ) いえのこ ひえいぎん キ、い・一う

9. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

これむわ 三宗は惟宗氏。藤 ( 藤原 ) 、清 ( 清原 ) 等と同じいい方。検非違使 尉。 一三清和源氏。摂津国多田庄 ( 兵 庫県川西市多田 ) の住人。 0 成親の野望と実定の思慮とが対 照的に描かれ、成親中心に平家討 きゃうごくげんだいなごんがしゅんのきゃうまごきでらほふいんくわんが ほっしようじしゅぎゃう 此法勝寺の執行と申すは、京極の源大納言雅俊卿の孫、木寺の法印寛雅に滅の陰謀がめぐらされる。側近の 児戯に類した言動、それをあさま ゆみや は子なりけり。祖父大納言、させる弓箭をとる家にはあらねども、余りに腹あしく思う静憲の姿が印象的である。 一四右大臣源顕房の子。邸が京極 ちゅうもん さんでうばうもんきゃうごく にあった。 しき人にて、三条坊門京極の宿所のまへをば、人をもやすく通さず、常は中門 一五木寺は仁和寺の院家。寛雅は にたたずみ、歯をくひしばりいかッてそおはしける。かかる人の孫なればにや、法印権大僧都。 一六怒りやすい。怒りつばい むほん 陣此俊寛も僧なれども、心もたけくおごれる人にて、よしなき謀叛にもくみしけ宅三条坊門小路と京極大路の交 差する辺。 一〈↓四〇六ハー「寝殿造図」。 るにこそ。 だいしよう 一九 一九清音でよむ。近衛大将でなく、 たいしゃうたの ごへん しんだいなごんなりちかのきゃう 寛新大納言成親卿は、多田蔵人行綱をようで、「御辺をば、一方の大将に憑む指揮官、首領ぐらいの意。 ニ 0 弓を入れる袋。軍陣では白布 ゅぶくろ しゃう 一なり。此事しおほせつるものならば、国をも庄をも所望によるべし。先づ弓袋のものを多く用いる。 三反・段とも書く。一端は布を しろめの 巻れう 数える単位。一人分の衣服の量。 の料にーとて、白布五十端、送られたり。 幅約三八、長さ約一〇六 だいなごんさだ いっかのひめうおんゐんどのだいじゃうだいじん あんげん 安元三年三月五日、妙音院殿、太政大臣に転じ給へるかはりに、大納言定 = = 永万二年 ( 一一奕 ) 権大納言。 しゅんくわんのさた 俊寛沙汰鵜川軍 たん うがはいくさ ま 者。

10. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

じゃうにゐだいなごん のを。 位正一一位官大納言にあがり、 よ 一五重盛の北の方は成親の妹。ま 御た重盛の長男維盛の北の方は成親 大国あまた給はツて、子息所 の二女、三男清経の北の方は成親 皇 法の五女で、深い関係にあった。 従、朝恩にほこれり。何の不 白一六首をつなぐ。首を切られない 後 ようにする。 足にかかる心つかれけん、是 宅他人。うとい人。 し上ゐ 山 ひとへてんま の 天平家を滅すための戦争の準備。 偏に天魔の所為とそみえし。 俊一九京都市左京区鹿谷町。 ゑちごのちゅうじゃう のぶ の ニ 0 城郭、城。瑯は郭の俗字。 平治にも越後中将とて、信 谷 鹿 ニ一山荘。『愚管抄』によると、信 よりのきゃう 西の子静賢法印の山荘である。 頼卿に同心のあひだ、既に 一三藤原通憲。日向守。少納言に ちゅう なり出家して少納言入道信西と称 誅せらるべかりしを、小松殿ゃう / 、に申して、頸をつぎ給へり。しかるに其 一セ した。後白河院の寵を受け院政に ぐわいじん ひやうぐ 恩を忘れて、外人もなき所に、兵具をととのへ、軍兵をかたらひおき、其営参与したこと、平治の乱で討たれ たことなどは『保元物語』『平治物 語』に詳しい。子孫にはすぐれた の外は他事なし。 一九 宗教家、文化人が出た。 ふもとししたに じゃうくわく 谷東山の麓、鹿の谷と云ふ所は、うしろは三井寺につづいて、ゆゅしき城瑯にニ三通憲の六男。『尊卑分脈』『愚 管抄』等に静賢。ただし信西の子 しゅんくわんそうづさんざう には俊憲、貞憲など憲をつけた者 一てそありける。俊寛僧都の山庄あり。かれに常は寄りあひ寄りあひ、平家ほろ が多く、静賢はあるいはのちの名 巻 めぐら あるとき ′ ) かう こせうなごんにふだうしんせい か。思慮深い賢者で、院も清盛も ばさむずるはかりことをぞ廻しける。或時法皇も御幸なる。故少納言入道信西 信頼していたことは『平家物語』の じゃうけんほふいんおんとも そのよ ほか『愚管抄』にも記されている。 が子息、静憲法印御供仕る。其夜の酒宴に、此由を静憲法印に仰せあはせられ だ、い - 一く じゅう すで みゐでら ぐんびやう くび そのいとなみ