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検索対象: 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)
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1. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

たいぞうかい すいじゃく のに、ましていっ帰れるかもわからない、今の自分の心中を の第三の姫宮、胎蔵界の大日如来の垂迹である」といって、 思いやってくれ ) この厳島にご出現になった当初から、衆生を救い利益を与 なむきみようちょうらいばんてんたいしやく える現在に至るまで、はなはだ不思議な霊験のあった事ど これを海岸に持って出て、「南無帰命頂礼、梵天帝釈、四 語 ちんじゅ けんろうじじん もを語った。それだからであろうか、厳島八社の御殿が八 物大天王、堅牢地神、王城の鎮守諸大明神、特に熊野権現、 家いつくしま 厳島大明神、せめてこの卒都婆の一本でも、都へ伝えて棟、屋根を並べて建ち、社は海の近くなので、潮の満ち干 平 に月が澄んだ光を投げている。潮が満ちてくると、大鳥居 ください」といって、沖の白波の寄せては返るそのたびご るり たまがき とに、卒都婆を海に流した。卒都婆を作り出すとすぐそれや朱の玉垣は、瑠璃のように見える。潮が引いてしまうと、 を海に入れたので、日数が重なると、卒都婆の数も多くな夏の夜だが御神前の白洲に霜がおりたように白い。ますま どきよう り、その思う心が卒都婆を内地に吹き送る幸便の風ともなす尊く思われて、読経を申し上げていたところ、ようやく 日が暮れ月が出て、潮が満ちてきたが、無数の藻くずなど ったのだろうか、あるいはまた神仏もお送りくださったの あきのくにいつく だろうか、千本流した卒都婆の中で、一本だけが安芸国厳が波にゆられて寄った中に、卒都婆の形が見えたのを、な 島の大明神の社前の波打ちぎわに、打ち上げられた。康頼んとなく取り上げて見たところ、「おきの小島に我あり」 と書き流した歌の卒都婆である。文字を彫り入れ刻みつけ と縁のあった僧が、うまいついででもあったら、なんとか して、あの島へ渡って、康頼の行方を聞こうと思い、西国てあったので、波にも洗われず、非常にはっきりと見えた。 おい 修行に出たが、まず厳島へ参詣した。すると神社の社人と「まあ思いがけないことだ」といって、これを取って、笈 あまみ の肩にさし、都へ上り、康頼の老母の尼君や妻子などが、 思われて、狩衣装束の俗人が一人出て来た。この僧はとり わこうどうじんしゅじようさい とめもない話をしていたが、「いったい和光同塵の衆生済一条の北、紫野という所に、人目を忍びながら住んでいた りやく ので、その人々に見せたところ、「それならこの卒都婆が 度のご利益は、さまざまだと申すが、どういった因縁で、 この御神は大海の魚に縁をお結びになったのだろう」とお中国の方へもゆられて行かないで、なんでここまで伝わっ しやかつらりゅうおう 尋ねする。社人が答えるには、「これはだな、娑羯羅竜王て来て、今更物思いをさせるのだろう」と悲しんだ。はる ど

2. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

一チワヤフルとよむ。神の枕詞。 ニ阿。すべての文字の母とされ る。 千はやふる神にいのりのしげければなどか都へ帰らざるべき 三実名のほかに仮につけた名の せんばんそとば 語 やすよりにふだうふるさと 物康頼入道、古郷の恋しきままに、せめてのはかりことに、千本の卒都婆を作意。通称。よ 家 四『千載集』羇旅に「心の外なる けみやうじつみやう ばんじねんがうつきひ ことありて知らぬ国に侍りける時 平り、字の梵字、年号月日、仮名実名、二首の歌をそ書いたりける。 詠める平康頼」、『宝物集』に「鬼 四 界ガ島ニ侍リケル比、未ダイキタ さつまがたおきの小島に我ありとおやにはっげよやヘのしほかぜ ル由ヲ読テ母ノモトへ康頼入道 五 性照」としてこの歌を載せる。八 思ひやれしばしと思ふ旅だにもなほふるさとはこひしきものを 六 重の潮風は八重の潮路 ( はるかな なむきみやうちゃうらいばんでんたいしやく九 是を浦にもッて出でて、「南無帰命頂礼、梵天帝釈、四大天王、堅牢地神、王海路 ) を吹いて来る風。 五『玉葉集』羇旅に「遠き国に侍 」と ちんじゅ くまのごんげんいつくしま りける時都の人にいひっかはしけ 城の鎮守諸大明神、殊には熊野権現、厳島大明神、せめては一本なりとも、都 る平康頼」とある。 へ伝へてたべ」とて、奥津白浪の、寄せてはかへるたびごとに、卒都婆を海に六仏を拝む時に唱える語。仏の 教えに帰順して、頭を仏の足につ ひかず つくいだ け礼拝する意。 ぞ浮べける。卒都婆を作り出すに随って、海に入れければ、日数つもれば、卒 セ梵天王。梵天の主。↓七九ハー しんめいぶつだ たより 都婆のかずもつもり、その思ふ心や便の風ともなりたりけむ、又神明仏陀もや注一 = 。 ^ 帝釈天。梵天王とともに仏法 あきのくにいつくしま しゆみせん おくらせ給ひけむ、千本の卒都婆のなかに、一本、安芸国厳島の大明神の御まを守る神。須弥山頂、辧天の喜 見城の主。 たより なぎさ 九帝釈天の外将で須弥山の四方 への渚に、うちあげたり。康頼がゆかりありける僧、しかるべき便もあらば、 にいる天王。持国天・増長天・広 さいこくしゅぎゃう たもん 目天・多聞天。 いかにもして、彼島へわたツて、其行ゑをきかむとて、西国修行に出でたりけ れ。 これ うか かのしま おきっしらなみ したが けんらうぢじん一 おん ぞうちょう

3. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

べきでもないので、手紙を取り入れる事もなく、まして使れるにしても、嘆くべき事ではありません。たとえ命を召 されるにしても、また惜しいようなわが身でしようか。一 いに会って応対するまでの事もなかった。こんな事がある 度いやな者と入道殿に思われ申して、再び対面すべきでも につけても悲しく、ますます涙に沈んでばかりいた。 語 物こうして今年も暮れた。翌年の春頃に、入道相国が、祇ありません」といって、やはりご返事もしなかったのを、 家 母のとじは重ねて教訓して言うには、「この日本の国に住 王の所へ使者を立てて、「どうだ、その後どうしているか。 平 んでいる間は、どうでもこうでも入道殿の仰せを背いては 仏御前があまりさびしそうに見えるから、こちらへ参って いま・よ・つ 今様も歌い、舞なども舞って、仏を慰めてくれ」と言われならない事であるそよ。男女の縁とか宿世とかいうものは、 祇王はそれに対してどうこうのご返事もしない。入道今に始った事ではないのだよ。夫婦になって千年万年も添 いとげようと契りを結ぶけれども、まもなく別れる男女の は、「どうして祇王は返事はしないのだ。参らないつもり 仲もある。ほんのかりそめと思って夫婦になっても、その か。参らないのならそのわけを申せ。浄海もとりはからう まま連れ添って生涯を終ることもある。まことに定めのな 事がある」と言われた。母とじはこれを聞くと悲しくて、 どうしたらよいかわからない。泣く泣く娘に教訓するには、 いものは、男女の仲の常なのだ。それにお前はこの三年の ちょうあい 、入道殿のご寵愛をお受けしたのだから、世にもまれな 「ねえ祇王御前、どうともこうともご返事を申しなさいよ、 このようにお叱りを受けるよりは」と言うと、祇王は、 入道殿のお情けというものだよ。お召しになった時に参上 しないからといって、命を失われるまでの事は、まさかあ 「お邸へ参上しようと思うのならば、すぐに参りますとも 申しましよう、だが参らないつもりですから、なんとご返るまい。ただ都の外へ追放されるのだろう。たとえ都を追 事を申してよいかわかりません。『今度召した際に参らな放されても、お前たちは年が若いから、どんな辺鄙な所で いなら、とりはからう事がある』と言われるのは、都の外も暮す事はたやすいだろう。老衰した母も、都の外へ追放 されるだろうが、慣れない田舎住いを予想するのも悲しい に追放されるのか、そうでないなら命を召されるのか、こ の二つ以上の事はまさかありますまい。たとえ都を追放さ事だ。ただ私を都の中で一生住めるようにしておくれ。そ いなか

4. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

平家物語 344 ろくはら まず、感懐にふけって次のように詠じた。 つも六波羅あたりを歩きまわり、足をとめて聞いたが、い ふる里の軒のいたまに苔むして思ひしほどはもらぬ月っ赦されるとも聞き出せない。イ 曽都の御娘が隠れ住んでお 、刀ナ′ られた所へ参って、「この機会にも僧都は赦免からお漏れ ふるさと ( 古里の家の軒の板間は、さぞまばらになっているだろうと になって、ご上京もなさいません。なんとかしてあの島へ ゆくえ 思っていたのに、すっかり苔が生えて、思ったほどには月の渡って、お行方をお尋ね申そうと思うようになりました。 光が漏れてこないことだな ) お手紙をいただきましよう」と申したので、御娘は泣く泣 - 一も いとま 1 」 そのままそこに引き籠って、苦しかった昔のことを思い く手紙を書いておやりになった。暇乞いをしても、きっと ほうぶっしゅう つづけて、宝物集という物語を書いたということであった。許しはしまいと思って、父にも母にも知らせず、中国行き びんせん の便船は四月、五月に出航するというので、夏になるのを 遅いと思ったのであろうか、三月末に都を出て、長い船旅 有王 さつまがた に苦労して、薩摩潟へ下ったのであった。薩摩からその島 さて、鬼界が島へ三人流された流人のうち、二人は召し へ渡る港で、人が有王を怪しんで、着物をはぎとりなどし しゅんかんそうず 返されて、都へ上った。俊寛僧都一人が、つらい日々を過たが、有王は少しも後悔しない。姫御前のお手紙だけは、 もとゆい してきた島の島守となってしまったのは情けないことであ人に見せまいと、元結の中に隠していた。そうして、商船 わらわ った。僧都が幼い時からかわいがって召し使われた童があ に乗って、例の島へ渡ってみると、都で少しばかり聞き伝 る。名を有王といった。鬼界が島の流人が、今日もはや都えていたのは、問題でもない。田もない畑もない、村もな 入りするという話だったので、鳥羽まで迎えに行って見た い里もない。たまに人はいるが、話すことばも聞いてよく が、自分の主人はおいでにならない。どうしたのかと尋ねわからない。 もしかして、こ , つい、つ者どもの中に、自分の ると、「その人はなお罪が重いというので、島にお残され主人の行方を知っている者があるかもしれぬと、「お尋ね になった」と聞いて、有王は情けないどころではない。い しますーと言うと、「何だ」と答える。「ここに都から流さ ( 原文二〇二ハー ) あり おう ゆる

5. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

( 原文一六一一ハー ) き入れくださるに違いない、頼もしいことだ」。またある 夜、二人が通夜して、同じようにうとうととした時の夢に、 卒都婆流 たもと 沖から吹いてくる風が、二人の袂に木の葉二枚吹きかけた なぎ さんじよごんげん やすより のを、なんとなく取って見たところ、熊野三山の梛の葉で 丹波少将・康頼入道はいつも三所権現の御前に参って、 時には通夜することもあった。ある時二人が通夜して、夜あった。その二枚の梛の葉に一首の歌を、虫食いのように いまよう して現してあった。 どおし今様を歌った。明けがたに、康頼入道が少しうとう そう 千はやふる神にいのりのしげければなどか都へ帰らざ とした夢に、沖から白い帆をかけた小船を一艘、岸に漕ぎ くれないはかま るべき 寄せて、船の中から紅の袴を着た女房たちが一一、三十人あ ( 神様にしきりに祈っているから、どうして都へ帰らないこ がり、鼓を打ち、声を揃えて、 ぐわん せんじゅちかひ とがあろう、きっと帰れるに相違ない ) よろづの仏の願よりも千手の誓そたのもしき くさき たちま み 枯れたる草木も忽ちに花咲き実なるとこそきけ 康頼入道は故郷が恋しいままに、せめてもの方策として そとば ばんじ ( あらゆる仏の誓願ー約束ーよりも、千手観音の誓願が頼み千本の卒都婆を作り、阿字の梵字と年号・月日、通称・実 になるように思われる。枯れた草木もたちまちに、花が咲き名を書き、一一首の歌を書いた。 実がなると聞いている ) さつまがたおきの小島に我ありとおやにはっげよやヘ 流 のしほかぜ 都と、三べん立派に歌い終って、かき消すように姿が見えな さつま 卒 ( 薩摩潟の沖の小島に自分がいると、故郷の親には是非知ら くなった。夢がさめてから、不思議に思い、康頼入道が申 せてくれ、八重の潮風よ ) 第すには、「これは竜神が仮に姿を現したものと思われる。 ほんじせんじゅかんのん 巻 三所権現の中で、西の御前と申すのは、本地が千手観音で 思ひやれしばしと思ふ旅だにもなほふるさとはこひし けんぞく きものを いらっしやる。竜神はすなわち千手観音の眷属二十八部衆 ( ほんのしばらくと思う旅でさえやはり故郷は恋しいものな のその一つであるから、とりもなおさす我々の願いをお聞 と な し くまの

6. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

ず。ゆるされなければ、都までこそかなはずと云ふとも、此舟に乗せて、九国一「ゆるされること」すなわち、 赦免がないので。「ゆるされ」は名 ほど の地へつけてたべ。おの / 、の是におはしつる程こそ、春はつばくらめ、秋は ニ九州。 かり四 こきゃう 物田のむの鴈の音づるる様に、おのづから古郷の事をも伝へ聞いつれ。今より後、三↓一六公ー注四。 家 四訪れる。音信をもたらす。 せうしゃう 平 五『平家物語』では、万一、まれ 何としてかは聞くべき」とて、もだえこがれ給ひけり。少将、「まことにさこ に、の意で使われることが多いが、 ここは、自然に、の意か そはおばしめされ候らめ。我等が召しかへさるるうれしさはさる事なれども、 ありき一ま 六 六方向。場所。または心持。 御有様を見おき奉るに、さらに行くべき空も覚えず。うち乗せたてまッても、 上りたう候が、都の御使も、かなふまじき由申すうへ、ゆるされもないに、 人ながら島を出でたりなンど 聞えば、なか / 、あしう候ひ まか なん。成経まづ罷りのばッ て、人々にも申しあはせ、入 きしよく 道相国の気色をもうかがう て、むかへに人を奉らん。其 間は此日ごろおはしつる様に のば きこ おっかひ ゃう ゃう 1 このふね ゆるしぶみ 都の使者が島に到着、三人に教文を渡す。

7. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

に残した。纜を解いて船を押し出すと、僧都はその綱にと 雁が訪ねてくるように、自然と故郷の事も聞き伝えていた。 が、今から後は、どうやって聞くことができよう」と、激りついて船にひきすられ、海水が腰まで来、脇まで来、背 しく身もだえなさるのであった。少将は、「ほんとにそう丈が立つまでは綱に引かれて出て行く。丈も立たなくなっ たので、船にとりついて、「では、やあ、あなた方、俊寛 はお思いになるでしよう。我々が召し返されるうれしさは をとうとう捨てておしまいになるのか。こんなに薄情だと もちろんですが、あなたのご様子を拝見いたしますと、 は思わなかった。平常の情けも今はなんにもならぬ。ただ っこうに帰って行く心地もしません。お乗せ申し上げてで 道理をまげて、乗せてください。せめて九州の地まで」と も、・都に上りとうございますが、都の御使いも、できない 繰り返し懇願なさったが、都からの御使いが、「どうして と申しますうえに、お赦しもないのに、三人とも島を出た もそれはできません」といって、船にとりついておられた などと都に聞えたら、かえってよくないことでしよう。私 がまず上京して、人々にも相談し、入道相国の機嫌もうか手を引きのけて、とうとう船を沖へ漕ぎ出す。僧都はしか なぎさ がってから、迎えに人をさしあげましよう。その間はこれたがないので、渚にあがって倒れ伏し、幼児が乳母や母な どの跡を慕う時のように、足をばたばたさせて、「これ、 まで日頃おいでになったような気持でお待ちください。な んとしても命は大事ですから、今度は赦免にお漏れになっ乗せて行け。連れて行け」とわめき叫んだが、漕ぎ行く船 の常で、あとには白波が残るばかりである。まだ船はそん ても、最後にはどうして赦免のないことがありましよう なに遠くはないのだが、涙に目も曇ってよく見えなかった 摺か」とお慰めになったが、人目もはばからず泣きもだえて 足 ので、僧都は高い所に走り登って、手をかざして沖の方を まつらさよひめ 第いよいよ船を出そうといって、人々が騒ぎあっていると、見やった。あの松浦佐用姫が、夫の乗った唐船を慕って、 僧都は船に乗っては降り、降りては乗って、自分も船に乗領巾を振ったという悲しみも、これ以上ではあるまいと思 芻って行きたいという様子をなさった。少将の形見としてはわれた。船も遠ざかって水平線から隠れ、日も暮れたが、 そまつな寝所へも帰らず、波が足を洗うにまかせて、夜露 夜具、康頼入道の形見としては法華経一部 ( 八巻 ) をあと かり ひれ ともづな

8. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

( 原文一五二ハー ) 参籠が終って、大明神にお暇を申して、都へ上って行かれだ。王城 ( 都 ) にあんなに尊い霊験あらたかなお寺やお社 る時には、名残を惜しみ申して、おもだった若い内侍十余がいくらでもおありになるのをさしおいて、私の崇敬申し 人が船をしたてて、一日の船路をお送り申し上げた。内上げている神様へ参詣して、お祈り申されたのは、世にも まれな志だ。これほど一所懸命に望んでおられるからに 侍らは、別れて帰ろうとしたが、「ここで別れては、あま な′一り は」といって、嫡子小松殿が内大臣・左大将でおられたの りにも名残惜しいから、もう一日船で一緒に」、「もう二日 やしき 間」とおっしやって、都までお連れになった。徳大寺の邸を、左大将を辞任おさせになり、次男宗盛が大納言・右大 へ内侍らをお入れになって、いろいろにもてなし、さまざ将でおられたのをとび越えさせて、徳大寺を左大将になさ った。ああ全くすばらしい方策だった。新大納言 ( 成親 ) まの御贈物などをお与えになって、お帰しになった。 むほん もこのように賢い方法をとられないで、つまらぬ謀反を起 内侍らは、「ここまで上って来たからには、我々の主の、 太政入道殿へどうして参らないでよかろう」といって、西して、自分も滅び、子息・家来に至るまでに、こんな悲し い目をお見せになったのは、情けないことであった。 八条へ参上した。入道相国はすぐ出てお会いになって、 そろ ~ 。「やあ、内侍どもは何事があって揃って参ったか」。内侍ど さんもんめつばうどうじゅかっせん こも 山門滅亡堂衆合戦 堂も、「徳大寺殿が厳島へお参りなさって、七日お籠りにな 亡り、都へお上りになりましたのを、一日の船路をお送りし みいでらこうけんそうじよう・ さて、後白河法皇は、三井寺の公顕僧正を御師範として、 門ましたところ、ここで別れてはあんまり名残惜しいから、 だいにちきよう しんごんみつきよう 山 もう一日だけとか、もう二日とか言われて、ここまで召し真一言密教の秘密の法を伝受なさっておられたが、大日経・ こん」うちょうき・よう・そしつじキ J•H う・ 第連れられて参りました」。「徳大寺は、何事を祈るために厳金剛頂経・蘇悉地経、この三部の秘法をお受けになって、 ごかんじよう 巻 島まで参られたのだろう」と入道相国が言われると、内侍九月四日三井寺で御灌頂の儀式を行われるということであ しゆと ふんがい った。山門の衆徒は憤慨して、「昔から御灌頂・御受戒は 四ども、「大将になるお祈りのためと、おっしやっておられ ひえいぎん ました」。その時入道はうなずいて、「ああ、気の毒なこと みなこの比叡山でなさることが先例・規定である。とりわ

9. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

いだ とも書ノ、。 ひ都を出さるとも、わごぜたちは年若けれま、 しいかならん岩木のはざまにても、 一 0 すわるための敷物。室内のす いだ すごさん事やすかるべし。年老い衰へたる母、都の外へぞ出されんずらむ、なわるべき所に敷かれる座 ( 円座、 わらぶとん ) 。座席 ただ らはぬひなの住ひこそ、かねて思ふもかなしけれ。唯われを都のうちにて、住 = これはそれでは何事ですか。 意外なことに驚き疑う時に用いる け - つめこっ み果てさせよ。それぞ今生後生の孝養と、思はむずる」といへば、祇王うしと慣用句。 三程度の軽い事物をあげて、重 い事物を強く表す語。今の「さえ」 思ひし道なれども、親の命をそむかじと、泣く / く、又出で立ちける、心のうち 「でも」にあたる。「だにあるに」と 、ういい方は他にも多いが、あと こそむざんなれ。 の「心うさよ」を言外に含めたもの ひと ぎによ あひぐ 独り参らむは、余りに物うしとて、妹の祇女をも相具しけり。其外白拍子一一と思われる。 一三元和版では「思フヲ人ニシラ しにん 人、そうじて四人、一つ車に取乗って、西八条へそ参りたる。さきみ、召されセジト」というふうに七五調にな っている。 一四どうだ。疑問から転じて呼び ける所へは入れられず、遥かにさがりたる所に、座敷しつらうておかれたり。 かけに用いられる。おや、おい 祇王、「こはされば何事さぶらふぞや。わが身にあやまつ事はなけれども、すねえなど。 三「日来めされぬ所にてもさぶ らはず」とした本もある。「日ごろ 王てられ奉るだにあるに、座敷をさへさげらるることの心うさよ。いかにせむ」 召されぬ所ででもあるのなら ( と そで にかく ) ですが、 ( そうでない所で 一と思ふに、知らせじとおさふる袖のひまよりも、あまりて涙そこばれける。仏 すから ) 」。つまり「日ごろ召され ひごろ 巻 一四 ない所でもない、召される所だ」 御前是をみて、あまりにあはれに思ひければ、「あれはいかし こ、日比召されぬ の意。文中「こそ」で休止する、こ いとま 所でもさぶらはばこそ、是へ召されさぶらへかし。さらずはわらはに暇をたべ。ういういい方は他にも多い はる とりの しき そのほか

10. 完訳日本の古典 第42巻 平家物語(一)

都落ちとが主な筋をなしており、その急激な没落への第一歩が哀調をこめて語られている。清盛の死に関連 おわりがわ ぎおんのにようご する諸章が終った後、すなわち巻六「祇園女御」の尾張川の合戦 ( 流布本では「洲胯合戦」とする ) 以後を後 半と考えたいと思うが、特に巻七の後半は平家の都落ちに費やしており、作者が非常に力を入れた部分であ ることが示されている。寿永二年 ( 一一八 = ) 七月二十五日から二十六日にかけての、わずか二日間のことを しゅしようのみやこおち 「主上都落」以下八章にわたって詳述している。そして平家は一旦福原に着いたが、そこにもとどまるこ とができすに、瀬戸内海に船を浮べ、九州へと落ちて行く。こうして巻七は「福原落」の「寿永一一年七月廿 五日に平家都を落ちはてぬ」の一文をもって結ぶのである。七月二十五日にはじまる人々の都落ちを次々に 叙して来て、最後にその日付をあらためて記してしめくくっている。さしも栄華に誇り時めいた平家が、は かなくも都を去ったという無量の感慨をこの一句に凝縮させているのである。 巻七は平家の運命を左右した一つの山というべき部分であるが、巻九で朝日将軍と謳われた木曾義仲の最 期が語られ ( ここにも急激に現れ勢威をふる 0 た者の、ろびのあわれが示される ) 、再び源平の合戦に筆が移され る。一の谷、屋島、壇の浦と三度にわたる合戦に、平家はことごとく敗れ、巻十一に至ってついに滅亡して しまう。この間の章段名には、「 : ・ : ・最期」「 : ・ : ・合戦」という類が非常に多い。これに続く巻十二と灌頂巻 、一れもり ろくだいきられ では、後日談が記されている。巻十二の最後の「六代被斬」で維盛の子で生き残った六代御前の死を記し 「それよりしてこそ、平家の子孫はながくたえにけれーで、平氏の完全な絶滅を記して物語を終るのである。 解なお付巻ともいうべき「灌頂巻」は特殊な巻であって、その中の「六道之沙汰」に語られる建礼門院の述懐 が『平家物語』の縮図といってもよいものであることは、諸家の指摘するとおりである。 右のような後半を通じて、清盛亡き後の主人公としては、時に義仲や義経がこれに該当する場合もあるが、 うた