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検索対象: 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)
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1. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

ることがあろう、行われるべきでないのだが、かといって もまれなので、都の便りもなかなか聞けず、それで聞きた く田 5 っている , っちに、早くも空がかき曇り、霰がばらばら 行わずにすますこともできないので、型どおり行われたの であった。 と降り落ちて、いっそう気も遠くなるような心地がなさっ 三河守範頼はすぐ続いて攻められたら、平家は滅ぶはす た。都では、大嘗会が行われるというので、御禊の行幸が むろたかキン ) せつげ あった。節下の大臣は、徳大寺左大将実定公が当時内大臣だったが、室・高砂に足をとめ、遊君遊女たちを召し集め でおられたが、勤められた。一昨年先帝 ( 安徳天皇 ) の御て、もつばら遊び戯れて月日を送っておられた。東国の大 禊の行幸には、平家の内大臣宗盛公が節下の大臣でいられ名・小名は多いけれども、大将軍の命令に従うことだから、 なんともしかたがない。ただ国費のむだ使いと民の苦しみ たが、節下の幕屋に着き、前に竜の旗を立ててすわってお うえのはかま だけがあって、今年ももはや一年が終ってしまった。 られた、その様子、冠のかぶりぐあい、袖の様子、表袴の すそ 裾までも、特にすぐれてお見えになった。そのほか平氏一 しげひら 門の人々、三位中将知盛、頭中将重衡以下、近衛府の官人 みつな が御綱の役人として伺候されたが、それにまた肩を並べる 汰人もなかったことだ。今日は九郎判官義経が先陣でお供す きそよしなか 之る。木曾義仲などとは違って、格別都なれていたけれども、 会 嘗平家の中のよりかすよりもやはり劣っている。 大 同年十一月十八日、大嘗会が遂行される。去る治承・養 第和の頃から、諸国七道の人民・百姓らが源氏のために悩ま され、平家のために滅ばされ、家やかまどを捨てて山林に 入り込み、春は耕作のことを心配するのを忘れ、秋は収穫 の作業もしない。そんな時にどうしてこんな大礼を行われ と - もも - り あられ

2. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

めきあへり。 る ゃう / 、日暮れ、夜に入り 船 出 て ければ、判官宣ひけるは、 て 立 「舟の修理してあたらしうな を ら いっしゆいつべい 頭 三一種の肴、一瓶の酒。 船 ッたるに、おの / 、一種一瓶 = とのばら なま 御一六「祝ひ給へ」の訛ったもの。 してゆはひ給へ、殿原」とて、 経宅酒宴の用意をするふうをして。 ゃう もののぐ 義 天せよ。いたせ。船を出せ、の いとなむ様にて、舟に物具い 一九 意。 すいしゆかん ひやうらうまい れ、兵粮米つみ、馬どもたてさせて、「とく / 、仕れ」と宣ひければ、水手梶一九水手は船頭。梶取 ( 楫取 ) は楫 をとる水夫。 オイテ ニ 0 順風。追い風。熱田本「追風」、 取申しけるは、「此風はおひ手にて候へども、普通に過ぎたる風で候。奥はさ 元和版「順風」。 いか ぞふいて候らん。争でか仕り候べき」と申せば、判官おほきにいかッて宣ひけニ一「浮かびたる」の音便。 一三風が強いといってどうするか、 せんぜ 櫓 逆るは、「野山のすゑにて死に、海河のそこにおばれてうするも、皆これ前世のどうしようもあるまい、の意か。 ニ三間違い。不都合なこと。心得 しゆくごふ 十宿業なり。海上に出でうかうだる時、風こはきとていかがする。むかひ風にわ違いのこと。 ののし ニ四そいつら。「しやっ」は、罵っ たらんといはばこそひが事ならめ、順風なるがすこし過ぎたればとて、是程のていう三人称の代名詞。そいつ、 きやっ、そやつ。「ばら」は複数を ふね いち - / \ ニ四 9 おんだいじ 御大事に、いかでわたらじとは申すそ。舟仕らずは、一々にしやつばら射ころ示す。 どり 一セ かいしゃう ニ 0 こと 一八 おき 三仲間同士の戦い 一四ざわざわと音を立てる。がや がや言う。 ジュン きかな

3. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

うということです。疑うことなく、お預け申すように。 下るうちに、よくもまあ斬らなかったものだ。ここで過ち 北条四郎殿へ 頼朝 をいたすところでしたのに」といって、鞍を置いて引かせ とお書きになって、御判が押してある。二、三遍繰り返し た馬に、斎藤五・斎藤六を乗せて、京に上らせられる。北 語 物繰り返し読んで後、「神妙、神妙」といって置かれたので、 条は自分も遠くまで六代をお送り申して、「しばらくお供 家 斎藤五・斎藤六はいうまでもなく、北条の家子・郎等ども申しとうございますが、鎌倉殿にさしあたって申すべき大 平 も、みな喜びの涙を流した。 事がいくつもございます。お別れをして」と言って、別れ て下られた。まことに情け深いことであった。 はせろくだい 聖は若君を受け取り申して、夜を日に次いで都に駆け上 泊瀬六代 おわりのくにあった るうちに、尾張国熱田の辺で、今年もすでに暮れてしまっ そうするうちに文覚房もつつと出て来て、若君を乞い受た。年が明けて正月五日の夜になってから、都に到着する。 けたということで、気持がほんとうによさそうである。 二条猪熊という所に、文覚房の宿所があったので、それに ・ ) れもり 「『この若君の父の三位中将殿 ( 維盛 ) は、最初の合戦の大お入れして、しばらくお休みいただいて、夜半ほどに大覚 将である。誰が願い申してもだめだろう』と言われたので、寺へいらっしやった。門をたたいても、誰もいないので音 『文覚の心に反しては、どうして神仏の加護もおありだろ もしない。築地の崩れから、若君の飼われた白い犬の子が うか』などと悪口を申したけれども、なお、『だめだ』と走り出て、尾を振って寄って来たのに、「母上はどこにい なすの らっしやるか」と問われたのは、よくよくのことである。 いって那須野の狩に下られたので、わざわざ文覚も狩場の とんなに 供をして、あれこれと申してやっと乞い受けた。、、 斎藤六が築地を越え中に入り、門を開けてお入れする。最 遅いとお思いだったろう」と申されたので、北条は、「一一近、人の住んだ所とも見えない。「何とでもして生きがい 十日と言われましたお約束の日数も過ぎましたし、鎌倉殿のない命を助かりたいと思ったのも、恋しい人々にもう一 のお許しがないのだなと存じて、六代御前をお連れ申して度会いたいと思うためである。これはいったいどうなられ ( 原文一一二二 いのくま くら

4. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

( 原文二一三ハー ) として、走り出して、どこに行くというのでもなく、その も、誰もいない。それが夢だとしてもしばらくも続かずに、 覚めてしまったことがほんとに悲しい」と語られる。乳母辺を足に任せて泣きながら歩くうちに、ある人が申すには、 ひじりもんがくばう 「この奥に高雄という山寺がある。その聖の文覚房と申す の女房も泣いた。秋の長い夜もよりいっそう明かしかねて、 人こそ、鎌倉殿からすばらしく大事の人に思われ申してい 流す涙に床も浮くほどである。 らっしやるが、身分の高い人の御子を御弟子にしたいと、 夜の長さにも限りがあって、時を知らせる役人が暁を告 ほしがっていられるそうだ」と申したので、うれしいこと げて夜も明けた。斎藤六が帰って参った。「それで、どう を聞いたと思って、母上にこうこうだとも申さずに、たっ だった、どうだった」とお尋ねになると、「只今まではお た一人で高雄に尋ね入り、聖にお目にかかって、「生れた 変りもありません。お手紙がございます」といって取り出 して差し上げる。開けて御覧になると、「どんなにかご心時からお育て申して、今年十二になられた若君を、昨日武 いのち′」 配なさっていられることでしよう。只今までは変ったこと士に捕えられてしまいました。お命乞いをして、身柄をお 引き受けくださって、御弟子になさってはくださいません もありません。早くも誰も誰も恋しゅうございます」と、 か」といって、聖の前に倒れ伏し、声も惜しまず泣き叫ぶ。 非常におとなびて書いていられる。母上はこれを御覧にな ほんとうにどうしようもないように見えた。聖はかわいそ って、何も言われない。手紙を懐に引き入れて、顔をうつ うに思われたので、事のわけをお尋ねになる。起き上がっ ぶしてしまわれた。ほんとうに心中さそかし悲しんでいら て泣く泣く申すには、「平家の小松三位中将の北の方が、 六れたのだろうと、推量されて哀れである。こうしてずいぶ 一一ん時がたったので、斎藤六は、「ほんのちょっとの間でも縁者でいられる方の御子をお養いしていたが、その子を、 ひょっとして中将の若君ではないかと誰かが申したのでし 第若君のことが気がかりですので、帰って参りましよう」と 巻 ようか、昨日武士がお捕え申して立ち去ったのです」と申 申すと、母上は泣く泣くご返事を書いてお与えになった。 いとま す。「それで武士は誰と言ったか」。「北条と申しました」。 斎藤六はお暇申して退出する。 乳母の女房は、じっとしていられずに、せめてものこと「よしよし、それならばそこに行って尋ねてみよう」とい

5. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

返答を申されなかった間は、なんとなくうっとうしく思っ務にしばられ、驕り高ぶる心ばかりが強くて、全く未来の 2 ていられたが、返書がもはや到着して、関東へお下りにな生の幸不幸を考えてもみなかった。まして運が尽き世間が ることに決ったので、すっかり頼みの綱も切れてしまって、乱れた後は、ここで戦いあそこで争い、人を滅ばしわが身 語 なごり 物何かにつけて心細く、都の名残も今更のように惜しく思わを助かろうと思う悪心だけが邪魔をして、善心はついに起 といのじろうさねひら 家 れた。三位中将は土肥次郎実平を召して、「出家をしたい りません。とりわけ奈良の寺々を焼いたことは、君の命令 平 と思うが、どうしたらよかろう」と言われると、実平はこ であり武門の命令でもあって、君に仕え、世間に従わねば おんぞうし のことを九郎御曹司 ( 義経 ) に伝えた。義経から院の御所ならぬ道理からのがれられないで、奈良の僧徒の乱暴を鎮 へ申し上げられたところ、「頼朝に三位中将を見せて後な めるために向いました際に、思いがけなく寺を焼き滅亡さ せるようになりましたこと、しかたのないことですが、そ ら、なんとでも取り計らえるだろうが、ただ今はどうして かみいちじん 許すことができよう」と言われたので、この旨を三位中将の時の大将軍でした以上、責任は上一人に帰するとか申す ひじり に伝えた。「それなら長年師弟の契りを結んだ聖にもう一 そうですから、重衡一人の罪になってしまうだろうと思わ 度会って、死後の世のことを相談したいと思うが、どうしれます。また一つには、このように誰も思い及ばぬほどあ たらよかろう」と言われると、実平は、「聖は何と申す人れこれと恥をさらしますのも、全くその報いと思い知らさ ほうねんばう そ でしよう」。三位中将は、「黒谷の法然房と申す人だ」。「それたことです。今は頭を剃り、仏戒を守りなどして、ひた れならさしつかえありますまい」といって、面会をお許しすら仏道修行をしとうございますが、こんな捕虜の身にな した。中将はたいそう喜んで、聖をお招きして涙ながらに っていますので、自分の心でも思うようになりません。今 申されたことには、「今度生きながら捕虜になりましたの 日明日ともわからぬ身の成り行きですから、どんな修行を しても、罪業の一つでも助かろうとも思われぬのが残念で は、再び上人にお目にかかれる運命でございました。それ しゆみせん にしても重衡が来世で助かるには、どうしたらよいでしょす。よくよく一生の行いを考えますと、罪業は須弥山より う。人並の身でございました間は、出仕にとりまぎれ、政も高く、善行はほんの少しもたまっていません。こうして おご

6. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

直幹の文は己の貧しさを顔淵・原 とて、うきふししげき竹柱、 る憲になぞらえたもの。 セ屋根を葺いた杉の皮もつまっ 都の方のことづては、まどほ すきま 法ていなくて所々隙間のあること。 を ^ ふせぐ。こらえる。とどめる。 に結へるませがきや、わづか の なま る 九「いささ」の訛ったものか。い す 山 ささか、わずか、の意。 に事とふ物とては、峰に木づ 下 一 0 世に立たぬ ( 世間に出て生活 しづつまぎ 院 しない、俗世から隠遁の ) 身の常 たふ猿の声、賤が爪木の斧の ふし として。世に節をかけ、節を出す。 おとづれ 建 み = いやな辛いことが多い意と、 音、これらが音信ならでは、 を竹の節の多い ( 粗末な竹柱の ) 家と まさき 花 をかける。 正木のかづら青つづら、くる まどお 三言伝ての間遠と、間遠 ( まば ら ) に結ったませ垣 ( 木・竹で作っ 人まれなる所なり。 た低くあらい垣 ) とをかける。 一三爪先で折った木。たきぎ。 法皇、「人やある、人やある」と召されけれども、おンいらへ申す者もなし。 つづら 一四ていかかずら。青葛は青つづ ′かう あまいちにん 幸はるかにあッて、老い衰へたる尼一人参りたり。「女院はいづくへ御幸なりぬらふじ。糸のように繰るので、 「く ( 来 ) る」に続く。 大るそ」と仰せければ、「この上の山へ、花つみにいらせ給ひてさぶらふ」と申一 = 果報は因果の応報、転じてめ でたい果報・幸運をいう。五戒 おんみ 頂す。「さやうの事に、つかへ奉るべき人もなきにや。さこそ世を捨つる御身と ( 田一二四注 0 ) を保っとその果 灌 報で人間に生れ、十善 ( 田四五ハー ごかいじふぜん このあま おん いひながら、御いたはしうこそ」と仰せければ、此尼申しけるは、「五戒十善注一九 ) をなした果報によって王に 一六生れるという。 しゃ おんめ おんくわほう の御果報つきさせ給ふによッて、今かかる御目を御覧ずるにこそさぶらへ。捨一六肉身を捨て仏道を求める修行。 ゅ さる たけばしら をの 1

7. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

さだもと にかけ、岩つつじを取りそえて持っておられるのは、女院 江定基法師が、中国の清涼山で詠んだという、「笙歌遥か しようじゅ しばきわらび に聞ゅ孤雲の上、聖衆来迎す落日の前」という句も書かれでいらっしゃいます。柴木に蕨を折りそえて持っておりま これぎね くにつな てある。少し引き離して、女院の御製と思われて歌があすのは、鳥飼中納言伊実の娘で、五条大納言邦綱卿の養女 語 めのと だいなごんのすけ となり、先帝の御乳母として仕えた大納言佐です」と申し 物る。 家 も終らぬうちに泣いた。法皇もまことに哀れなことに思わ おもひきや深山のおくにすまひして雲ゐの月をよそに 平 見んとは れて、御涙をおさえることがおできにならない。女院は、 ( このように深山の奥に住んで、宮中で眺めた月を、よそで、 「いくら世を捨てた身だといっても、今こんなありさまを それもこんな宮中を離れた寂しい所で見ようとは、かって思 お目にかけるのは、全く恥ずかしいことだ。消えてなくな いもかけなかったことだ ) りたい」とお思いになるが、なんともしかたがない。毎夜 かたわら さてその傍を御覧になると、御寝所であるらしく、竹の毎夜、仏前に供える閼伽の水を汲む袂も水に濡れしおれる さお うえに、早朝起きて山路を分けることだから、袖の上に山 御竿に麻の御衣、紙の御夜具などをおかけになってある。 以前には、あれほど日本・中国のすぐれて立派な衣類をこ路の露もしっとりとかかって、露と涙で濡れた袖を絞りか そろ りようらきんしゅう とごとく取り揃え、綾羅錦繍を着飾っておられたご様子も、ね、悲しみをこらえかねられたのであろう、山へもお帰り ばうぜん にならず、御庵室へもお入りにならないで、呆然として立 まるで夢になってしまった。お供の公卿・殿上人も、それ っていらっしやるところに、内侍の尼が参って、花籠を女 それかっての華麗なお姿を拝見したことなので、それが今 ちょうだい 院から頂戴した。 のように思われて、みな涙を流されたのであった。 そのうちに上の山から、濃い墨染の衣を着た尼が二人、 ろくどうのさた 岩の険しいがけ道を伝い伝いして、下り悩んでいられた。 六道之沙汰 法皇がこれを御覧になって、「あれはどういう者だ」とお はなかごひじ 尋ねになると、老尼は涙をこらえて申すには、「花籠を肘「出家の常です、そんな姿でも何のさしつかえがございま ( 原文二五九ハー ) みやま せいが とりかい たもと

8. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

しようぶだに 隠れていたけれども、今は家の中にいる者はすべて、声を 菖蒲谷と申す所にこそ、小松三位中将殿の北の方と若君・ そろ 姫君がいらっしゃいます」と申すので、時政はすぐに人を揃えて泣き悲しむ。北条もこれを聞いて、非常に気の毒に 出して、その辺を捜させているうちに、ある僧坊に、女房思い、涙をふき、じっと待っていられた。かなり時がたっ てから再び申されたのは、「世もまだ鎮まっておりません たちゃ幼い人がたくさん、ことさらに忍んだ様子で住んで のぞ すきま いた。垣根の隙間から覗いたところ、白い犬の子が走り出ので、誰かが乱暴なことでもしないかと思いまして、私が お迎えに参っております。大したことはありますまい。早 たのを捕えようとして、かわいらしい若君が出てこられる くお出し申し上げなされ」と申されたので、若君が母上に と、乳母の女房と思われる女が、「あら大変。誰かが見つ 申されるには、「結局、逃れることもできないでしようか け申すかもしれない」といって、急いで手を引き、内にお ら、さっさと私をお出しになってください。武士どもが中 入れする。これがきっとその方でいらっしやるのだろうと に入って捜すものなら、取り乱して恥すかしいご様子など 思い、急いで走り帰って、こうこうと申すと、次の日北条 を、見られておしまいでしよう。たとえ私が出て参りまし はそこに行き、四方を取り囲み、人を入れて言わせたのは、 ても、しばらくでもおりましたなら、暇をもらって帰って 「平家小松三位中将殿の若君、六代御前がここにいらっし やるとお聞きして、鎌倉殿の御代官として、北条四郎時政参りましよう。そんなにひどくお嘆きなさいますな」とお と申す者が、お迎えに参っております。さっさとお出し申慰めになるのはかわいそうなことであった。 そうしてもいられないので、母上は泣きながら若君の御 六しなされ」と申されたので、母上はこれをお聞きになると、 髪をなで、着物をお着せ申し、もはやお出し申そうとなさ 一一驚きのあまり全然何もお考えになれない。斎藤五・斎藤六 こくたんじゅず ったが、黒檀の数珠の小さくかわいらしいのを取り出して、 第が走りまわって見たけれども、多くの武士が四方を取り囲 「これで、最期の時を迎えるまで念仏を申して、極楽に参 み、どこからお出し申すことができようとも思われない りなさい」といって、差し上げられると、若君はこれを受 乳母の女房も御前に倒れ伏して、声も惜しまず大声で泣き け取って、「母君には今日いよいよお別れ申すことになる。 叫ぶ。日頃はものをさえも高い声で言わず、忍んでじっと

9. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

( 原文二〇一ハー ) いくさ の戦でも、義経を簡単に討てる者は、日本国にいるとは思主君への忠誠のほどは非常に感心である。和僧、命が惜し いなら、鎌倉に帰してつかわそうと思うが、どうだ」。土 われないものを」といって、たった一騎で大声をあげてお 佐房は、「不都合なことを言われるものですな。命が惜し 駆けになると、五十騎ほどの者どもは中を開けて通した。 いと申したら、殿はお助けくださるのですか。鎌倉殿の、 そうするうちに、江田源三、熊井太郎、武蔵房弁慶など ねら という、一人当千の兵どもが、すぐに続いて攻め戦う。そ『法師だけれども、お前こそ義経の命を狙える者だ』とい う御ことばをいただいてより、命は鎌倉殿に差し上げたの の後、侍どもが、「お邸に夜討ちが入った」といって、あ そこの屋形、ここの宿所から駆けつける。間もなく六、七だ。どうしてそれをお取り返し申すことができよう。ただ ご恩には、さっさと首をお斬りくださいますよう」と申し 十騎が集まったので、土佐房は勇敢に攻め寄せたけれども、 たので、「それならば斬れ」といって、六条河原に引き出 戦うまでもなく、さんざんに駆け散らされて、助かる者は して斬ってしまった。昌俊を褒めない人はなかった。 少なく、 討たれる者が多かった。昌俊はやっとのことでそ 、一も くらまやま こを逃げて、鞍馬山の奥に逃げ籠ったが、鞍馬は判官がも ほうがんのみやこおち といた山であったので、そこの法師が土佐房を捕えて、次 判官都落 」う・しレう の日に判官のもとへ送った。僧正が谷という所に隠れてい ぞうしき さて足立新三郎という雑色は、「この男は低い身分であ 都たとかいうことである。 すっちょうどきん かちひたたれ るけれども、非常に気のきく男です。召し使いなされ」と 判判官は昌俊を大庭に引き据えた。褐の直垂に、首丁頭巾 いうことで、頼朝が判官義経のもとに差し出されたのだが、 一一をしていた。判官が笑って言われるには、「どうだ和僧、 第起請文の罰が当ったな」。土佐房は少しも騒がず、すわり内々、「九郎のふるまいを見て、自分に知らせよ」と頼朝 巻 は言っておられた。昌俊が斬られるのを見て、新三郎は夜 なおして、からからと笑って申すには、「ないことをある も昼も休まずに鎌倉に駆け下り、鎌倉殿にこのことを申し ことのように書きましたので、それで罰が当ったのです」 のりより たので、頼朝は舎弟三河守範頼を、討手として上京おさせ と申す。「主君の命令を重んじて、自分の命を軽んずる。

10. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

から、三十騎ばかりを選び出して、自分の軍勢と一緒に連の聞きつけぬうちに寄せろ」といって、駆け足になったり、 れて行かれた。能遠の城に押し寄せて見ると、三方は沼、 歩かせたり、馬を走らせたり、手綱を引き止めたりして、 あわさめき 一方は堀である。堀の方から押し寄せて、鬨をどっとっく 阿波と讃岐との境にある大坂ごえという山を、夜通しでお 語 そろ 物った。城内の軍兵どもは、矢先を揃えて矢をつがえては放越えになった。 たてぶみ 家 し、弓を引いては放し、立て続けにさんざん射た。源氏の 夜中頃、判官は立文を持った男と道づれになって、話を 平 し・一ろ 軍兵はこれを問題にもしないで、甲の錣をかしげ、わめき なさる。この男は夜のことではあるし、敵とは夢にも知ら 叫んで攻め入ったので、桜間介はとてもかなわぬと思った ないで、味方の軍兵が八島へ参るのだと思ったのだろうか、 のか、家子・郎等に防ぎ矢を射させて、自分は非常に強い うちとけてこまごまと話をした。「その手紙はどこへ持っ 馬をもっていたから、それに乗ってやっとのことで逃げの て行くのだ」。「八島の大臣殿へ参ります」。「誰が差し出さ びた。判官は防ぎ矢を射た軍兵ども二十余人の首を斬って れたのだ」。「京都から女房が差し上げられました」。「何事 かけ、軍神の祭壇に供え、喜びの鬨の声をあげ、「門出に が書いてあるのだろう」と判官が言われると、「特別のこ 縁起がよい」と言われた。 とはまさかありますまい源氏がもはや淀川の河口に出て、 判官は近藤六親家を召して、「八島には平家の軍勢がど船を浮べていますので、それをお告げになったのでしょ 亠ま のくらいあるか」。「千騎以上のことはまさかありますま う」。「なるほどそうだろうな。私も八島へ参るのだが、 い」。「どうして少ないのだ」。「このように四国の浦々島々 だ道を知らないから、道案内してくれ」と言われると、 に五十騎、百騎ずつ置かれています。そのうえ阿波民部重「自分はたびたび参りましたので、案内は存じています。 でんないぎえもんのりよし 能の嫡子、田内左衛門教能は、河野四郎が召しても参らな お供いたしましよう」と申すので、判官は、「その手紙を いーよのくに いのを攻めようというので、三千余騎で伊予国へ行きまし取れ」といって手紙を奪い取らせ、「そいつを縛れ。罪作 た」。「それではちょうどよい機会だ。ここから八島へはど りになるから、首は斬るな」といって、山中の木に縛りつ れほどの道のりだ」。「二日がかりの道です」。「それなら敵けて通り過ぎられた。そして手紙を開いて御覧になると、 いえのこ とき かどで たづな