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検索対象: 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)
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1. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

・一と ( あなたのために私もよくない評判をたてられても、あなた ったのですが、おしなべて世間が騒がしかったために、言 と一緒に死にましよう ) づてする便宜もなくて下ってしまいました。その後はなん としてでもお手紙も差し上げ、ご返事も承りとうございま 知時がその手紙を持って参った。守護の武士どもが、ま したが、 思うままにならない旅の常で、一日一日の戦いの た、「拝見しましよう」と申すので、それを見せたのであ ためにひまがなくて、むだに年月を送りました。今また捕 った。「さしつかえありますまい」といって、それを三位 中将に差し上げる。三位中将はこれを見て、いよいよ思い 虜というような思いもよらぬ情けない目を見ましたのは、 再びお目にかかるべきめぐり合わせなのでした」といって、 がまさられたのであろうか、土肥次郎に言われるには、 そで 「長年連れ添った女房に、もう一度対面して申したいこと袖を顔に押し当ててうつむけになられた。お互いの心のう があるが、どうしたらよかろう」と言われると、実平は情ちも推量されて哀れである。こうして夜もふけ、夜中にな け深い男で、「全く女房などの御事でございますなら、な ったので、「この頃は大通りが物騒ですから、さっさとお んでさしつかえがありましよう、かまいません」といって、帰りなさい」といって、女房をお帰しする。女房の車を引 お許し申し上げる。中将はたいそう喜んで、人から車を借き出すと、中将は別れの涙をこらえて、泣きながら女房の りて、女房を迎えにやったところ、女房はさっそくその車袖を引きとめて、次のように詠んだ。 逢ふことも露の命ももろともにこよひばかりやかぎり 房に乗って来られた。濡れ縁に車を寄せて、こうこうですと なるらむ 裏申すと、三位中将は車寄せに出て行かれて、「武士どもが 内 ( また逢うことも、はかない私の命も、両方とも今晩だけが あなたを拝見しているので、お降りになってはいけない」 すだれ 最後でしよう ) 第といって、車の簾をかぶって顔だけ中に入れて、手に手を 女房も涙をこらえて、返歌した。 握り、顔に顔を押し当てて、しばらくは何とも言われず、 かぎりとて立ちわかるれば露の身の君よりさきにきえ ただ泣くばかりであった。かなり時間がたって中将が言わ ぬべきかな れるには、「西国へ下った時、もう一度お目にかかりたか

2. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

ちょうずたらいくし いえのこ 手水の盥に櫛を入れて持って来た。前の女房が世話をして、 に参った。狩野介が酒をお勧めする。自分も家子・郎等十 2 少し長い間入浴し髪を洗いなどして、おあがりになった。 余人を引き連れて参り、中将の御前近くに控えていた。千 いとま そこでその女房はお暇申して帰ったが、帰りぎわに、「男手の前がお酌をする。三位中将は少し受けて、たいへんお 語 物などはぶしつけで不快にもお思いになるにちがいない、か もしろくなさそうでいられたのを見て、狩野介が申すには、 家 えって女ならさしつかえあるまいというので、私が参らせ 「すでにお聞きになっているかもしれません。鎌倉殿 ( 頼 平 られたのです。『何事でも中将のご希望のことをお聞きし朝 ) が、『十分気を配ってよくよくお慰め申し上げよ。も ひょうえのすけ とが て、私に申せ』と兵衛佐殿は言われました」。中将は、「今 てなしをおろそかにして咎められ、頼朝を恨むな』と言わ むねもち ずのくに はこんな境遇の身になって、何も申すことはありません。 れました。宗茂はもと伊豆国の者ですので、鎌倉では旅で ただ思うことといっては出家がしたいだけだ」と言われたすけれども、思いっきます限りは、奉仕いたしましよう。 ので、帰って参ってこの由を話した。兵衛佐は、「それは 一曲、何事でも申して、お酒をお勧め申し上げなさい」と 思いもよらないことだ。頼朝の個人の敵だったら考えても申したので、千手は酌をするのをやめて、「羅綺の重衣た なさけ ねた よいが。そうではなくて朝敵としてお預りした人だ。決し る、情ない事を機婦に妬む」という朗詠を一、二遍歌った てそれは許されない」と言われた。三位中将が守護の武士 ので、一一一位中将が言われるには、「この朗詠をする人を、 に言われるには、「それにしてもただ今の女房は優雅なも 北野の天神が一日に三度空を飛びまわって守ろうとお誓い のだったな。名を何というのかしらん」と尋ねられたので、 になっているという。けれども重衡は、現世では天神から ようばう じよいん 「あれは手越の長者の娘です。それを、容貌や気だてなど捨てられ申した。助音をしてもなんにもならないが、罪が 優雅ですばらしい女房ですというので、この二、三年召し軽くなるということなら助音しよう」と言われたので、千 いんぜふ 使っておられますが、名を千手の前と申します」と申した。手の前がすぐに、「十悪といへども引摂す」という朗詠を みだみやうがう その日の夕方、雨が少し降って、何かにつけものさびし して、「極楽ねがはん人はみな、弥陀の名号唱ふべし」と いまト - う・ い頃に、例の女房が琵琶・琴を召使に持たせて中将のもと いう今様を四、五遍心をこめて歌い終ったところ、その時 びわ かたき

3. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

しになって、木津の辺で斬らせるべきだ」といって、重衡 また生れてくる次の世でお目にかかろう」といって を武士の手へ返した。武士はこれを受け取って、木津川の 出られたが、ほんとうにこの世で互いに会うことはこれが 川端で斬ろうとしたが、その際、数千人の大衆など見物す 最後と思われたので、もう一度立ち帰りたいと思われたが、 心が弱くてはだめだと、思い切って出て行かれた。北の方る人は幾人という数もわからないほどであった。 とも みすきわ 三位中将が年来召し使っておられた侍に、木工右馬允知 が御簾の際近くに転び臥し、大声で叫ばれるお声が、門の ; 、こ。弋条女院に奉公していたが、中将の最 外まではるかに聞えてきたので、三位中将は馬をいっこう時という者力しオノ 期を拝見しようと、馬に鞭打って走らせた。もはやほんの お急がせにならない。涙のために目先もまっ暗になり行く 今お斬りしようとするところに駆けつけて、何千何万とい 先も見えないので、なまじっかお会いしなければよかった う人が立ち囲んでいる中をかき分けかき分け、三位中将の なと、今はかえって後悔しておられた。大納言佐殿は、そ おられたお側近く参上した。「知時が只今最期のご様子を のまますぐ後から走り追いついてでもいらっしやりたく思 われたが、そうもやはりできかねるので、着物を引きかぶ見届け申そうとして、ここまで参りましたぞ」と泣く泣く 申したところ、中将は、「まことに志のほどは殊勝である。 って臥しておられた。 仏を拝み申して斬られたいと思うが、どうしたらよかろう。 奈良の大衆は、重衡の身柄を受け取って協議した。「い このまま死んでは、あんまり罪が深く思われるので」と言 被ったいこの重衡卿は大罪を犯した悪人であるうえに、五刑 重に所属する三千の刑の中にも見えない、大変な罪を犯してわれると、知時が、「それはたやすい御事でございますよ」 といって、守護の武士に相談し、その辺におられた仏を一 一おり、その悪因によって悪果を感じ受ける道理は、至極当 あみだによらい 第然のことだ。仏法の敵の逆臣であるから、東大寺・興福寺体お迎えして出て来た。幸いなことにその仏は阿弥陀如来 かわら ほり・、び一 のこぎり 巻 の外側の大垣を引き回して鋸で斬るべきか、それとも掘首でいらっしやった。河原の砂の上にお立て申して、すぐさ ひも ま知時の狩衣の袖のくくり紐をといて、仏の御手にかけ、 にすべきか」と協議した。老僧どもが申されるには、「そ れも僧徒の法として穏やかでない。ただ守護の武士にお渡紐の端を中将にお持たせ申し上げる。中将はこの紐をお持 とき

4. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

おんふみ やらばやと思ふは。尋ねて行きてんや」と宣へば、「御文を給はツて参り候は 一三宮中で女房が賜っている室。 よろこ しもて ん」と申す。中将なのめならず悦びて、やがて書いてぞたうだりける。守護の下ロは下手 ( 後ろ ) の入口。裏口。 一四強意の助詞。大勢いる中で特 に三位中将だけが。 武士共、「いかなる御文にて候やらむ。いだし参らせじ」と申す。中将、「見せ 一五↓巻五「奈良炎上」 ( 盟一五二 よ」と宣へば、見せてンげり。「苦しう候まじ」とてとらせけり。知時もッて 一六中将の言葉。自分の心で思い その 内裏へ参りたりけれども、ひるは人目のしげければ、其へんちかき小屋にたちついて焼いたのではないが。自分 が発意してしたのではないが。 つばねしもぐち 入りて日を待ち暮し、局の下ロへんにたたずンで聞けば、此人の声とおばしく宅悪い連中。悪い仲間。 天葉末の露が集まって木の幹の いけ / 」め・ おほち て、「いくらもある人のなかに、三位中将しも生取にせられて、大路をわたさ雫となるというから。多数の部下 の過失が大将軍の過失・罪になる るる事よ。人はみな奈良を焼きたる罪のむくひといひあへり。中将もさそいひことをいう。「末の露もとの雫や 一七 世の中の後れ先立っためしなるら あくたう し。『わが心におこッては焼かねども、悪党おほかりしかば、手々に火をはなん」 ( 和漢朗詠集下・無常、新古今・ 一八 哀傷僧正遍昭 ) から転用した。 もと だうたふ すゑ いち 一九この女房の方でも。 ッて、おほくの堂塔を焼きはらふ。末のつゆ本のしづくとなるなれば、われ一 房 ニ 0 話しかけようの意。お尋ねし 女にん ーも。ーイもーし。 たい。案内を頼みたい。 裏人が罪にこそならんずらめ』といひしが、げにさとおばゆる」とかきくどき、 ニ一恥ずかしがって人にお会いに 十さめム、とぞ泣かれける。右馬允、是にも思はれける物をと 、、とほし , っ覚 , んならない。 一三「せめて」は、痛切な、甚だし 巻 おん て、「もの申さう」どいへば、「いづくより」と問ひ給ふ。「三位中将殿より御い意。「あまり」は、思いが甚だし くて余る、過剰、の意。痛切な思 2 ふみ いにたえかねてであろうか 文の候」と申せば、年ごろは恥ぢて見え給はぬ女房の、せめての思ひのあま てんで せうをく

5. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

くほん うらや 頃、花山法皇が皇位を譲られ出家なさって、九品の浄土に えた。傍にいた殿上人が、どれほど羨ましく思われたこと 生れるための修行を行われたという、御庵室の旧跡には、 だろう。内裏の女房たちの中では、『あのお姿や舞いぶり みやまぎ 昔をしのぶつもりらしく、老木の桜が咲いていたのであっ は深山木の中の桜梅と思われます』などと、お言われにな 語 った人だよ。ほんの今にも大臣兼左大将の地位を予期され 家 那智に籠って修行する僧どもの中に、この三位中将をよ ている人とお見受けしていたのに、今日はこのようにすっ 平 くよくお見知り申しているらしいのがいて、同行の者に語 かりみすばらしくなってしまわれたご様子、以前には思い るには、「ここにいる修行者をどういう人かしらんと思っ もよらなかったことだよ。移れば変る世の習いとは言いな ていると、小松の内大臣殿の御嫡子、三位中将殿でいらっ がら、哀れな御事だな」といって、袖を顔に当てて、さめ しやったぞ。あの方がまだ四位少将と申された安元二年の ざめと泣いたので、多数並んでいた那智籠りの僧どもも、 春の頃、法住寺殿で後白河院五十の御賀があった際、父の みな涙で僧衣の袖を濡らした。 むねもり 小松殿は内大臣兼左大将でいられる。叔父の宗盛卿は大納 とも これもりのじゅすい き、はし 言兼右大将で、階の下に着座された。そのほか三位中将知 維盛入水 もり ー ) げ・ひら 盛・頭中将重衡以下平家一門の人々が、今日を晴れと時め かいしろ さんけい いておられて、垣代に立っておられたが、その中からこの 熊野三山の参詣を無事おすましになったので、浜の宮と 三位中将が桜の花を頭にさして青海波を舞って出られたと 申す王子社の御前から、一艘の船に乗って、広々と果てし そで こび ころ、露に媚を見せた花のようなお姿といい、舞を舞う袖ない青い海に出て行かれる。遥か沖の方に、山なりの島と 、か風に翻るさまと、 しし、その美しさは地を照らし天も輝く いう所がある。そこに船を漕ぎ寄せさせ、岸に上がり、大 ほどである。女院から関白殿を御使いにして御衣をご下賜きな松の木を削って、中将は名前などをお書きつけになる。 ちょうだい じ - うかい になったので、父の大臣が座を立ち、これを頂戴して右の 「祖父、太政大臣平朝臣清盛公、法名浄海。親父内大臣兼 、しげ・もり じようれん じようえん 肩にかけ、院に対し拝礼をなさる。比類のない名誉だと見左大将重盛公、法名浄蓮。三位中将維盛、法名浄円、当年 ( 原文六五ハー ) かぎん - 一も そう

6. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

これぎね いうのは、鳥飼中納一一 = ロ伊実の娘で、五条大納言邦綱卿の養ら、「何のさしつかえがありましよう」といってお許し申 つばね めのと すけどの し上げる。中将はたいそう喜んで、「大納言佐殿のお局は、 子であり、先帝の御乳母大納言佐殿と申した。三位中将が こちらにおいででしようか。本三位中将殿が只今奈良へお 一谷で捕虜になられた後も、先帝に付き添い申し上げてお られたが、壇浦で海に沈まれたので、荒々しい武士に捕え通りですが、立ったままでちょっとお目にかかりたいとお っしやっていますーと、人を中へ入れて言わせたので、北 られて、故郷の京都に帰り、姉の大夫三位と同居して、日 の方はそれを聞くや否や、「どこですか、どこです」とい 野という所におられた。中将の露のようにはかない命が、 あいずりひたたれ おりえばし って走り出て見られると、藍摺の直垂を着て折烏帽子をか 露の葉末にわずかにかかっているようなさまで、まだ消え ぶった男で、痩せ黒すんだ者が、縁に寄りかかっていたの てしまわないと聞かれたので、夢の中ではなくて、もう一 きわ がそれ ( 重衡 ) であった。北の方は御廉の際近く寄って、 度現実に会えることもありはせぬかと思われたが、それも 「これはまあ、夢かしら現実のことかしら。こちらへお入 できないので、泣くよりほかに慰めようがなくて、その日 りください」と言われたお声を聞かれるにつけ、早くも先 その日を過しておられた。 三位中将が守護の武士に言われるには、「このほど何か立つものは涙である。大納一一 = ロ佐殿は目もくらみ正気もすっ かりなくなって、しばらくは何も言われない。三位中将は につけて情け深く親切にしてくださったのは、ほんとうに 被めったにないうれしいことだ。同じことなら最後にご恩を御簾の中に顔をさし入れて泣く泣く言われるには、「昨年 の春、一谷で死ぬべきだった身だが、あんまり重い罪の報 重こうむりたいことがある。自分は一人も子がないので、こ いなのだろうか、生きたまま捕えられて、大通りを引き回 一の世に思い残すことはないが、長年連れ添った女房が、日 第野という所にいると聞いている。もう一度対面して、後世され、京都・鎌倉に恥をさらすのさえ残念に思うのに、し 巻 まいには奈良の大衆の手に渡されて、斬られるべきだとい の菩提を弔うことなどを申しておきたいと思うのだ」とい うことで、奈良に参ります。なんとかして今一度あなたの って、ほんのしばらくの暇をもらいたいと頼まれた。武士 お姿を拝見したいと思っていたのに、こうして会った今は、 どももやはり岩や木ではないから、それそれ涙を流しなが いとま くにつな

7. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

平家物語 298 ( あなたが尼になるまでは私のことを恨んでいたが、そのあ だという商山や竹林のありさまも、これ以上ではあるまい なたも仏道に入ったと聞いてうれしい ) と思われた。 横笛の返事には、 そるとてもなにかうらみむあづさ弓ひきとどむべきこ 高野巻 ころならねば ( 尼になったといっても何であなたを恨みましよう。とても 滝ロ入道は三位中将維盛にお目にかかって、「これは現 引きとめることのできるようなあなたの決心ではないのです実とも思われないことですな。八島からここまでは、どん から ) なにして逃げ出しておいでなのでしよう」と申したので、 横笛は物思いが積ったせいか、奈良の法華寺にいたが、そ 三位中将が言われるには、「それはだな、ほかの人と同様 れほどたたないうちに、とうとう死んでしまった。滝ロ入 に都を出て、西国へ落ちて行ったが、故郷に残しておいた 道は、こういうことを人づてに聞き、いよいよ信心深く修幼い子どもが恋しくて、いつまでたっても忘れられそうも ないので、その私の物思いの様子がロに出さないのにはっ 行に専心していたので、父も勘当を許した。親しい者ども ひじり きりわかったのだろうか、大臣殿 ( 宗盛 ) も二位殿 ( 清盛 もみな入道を尊信して、高野の聖と申していた。 ・よりもり これもり 妻 ) も、『この人 ( 維盛 ) は池の大納言頼盛のように二心が 三位中将維盛がこの入道を尋ねて会って御覧になると、 ある』などといって、分け隔てをなさったので、生きてい 都におった時は布衣に立烏帽子、衣服をきちんと着こなし、 びんな ても生きがいのないわが身だなと、ますます心も八島にと 鬢を撫でつけ、優美な男であった。出家した後、今日初め て御覧になると、まだ三十にもならない者が、老僧姿に痩まらないで、ふらふらと浮かれ出て、ここまでは逃げて来 たのだ。なんとかして山伝いに都へ上って、恋しい者ども せ衰え、濃い墨染の衣に同じ墨染の裟をまとい、深く仏 うらや にもう一度会いたいとは思うが、本三位中将重衡のことが 道に心を入れた道心者になっている。それを三位中将は羨 し、 ) う しん っそのこと、こ ましく思われたことであろう。晋の七賢や漢の四皓が住ん残念に思われるので、それもできない。い たてえばし や っ こうやのまき うつ

8. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

戴して参りましよう」と申した。三位中将はたいそう喜ん られたのだと、気の毒に思われて、「お伺いします」と言 四で、すぐさま書いておやりになった。守護する武士どもが、 うと、「どこから」とお尋ねになる。「三位中将殿からお手 「どういうお手紙でしよう。手紙を見ないうちはお出しす紙がありますと申すと、これまで恥ずかしがってお会い 語 物るわナこ、、 レし力ない」と言う。三位中将が、「見せてやれ にならぬ女房が、切ない思いをおさえかねたのだろうか、 家 と言われるので、手紙を見せた。それを見て、武士どもは、 「どこに、どこに」と走り出て、直接手紙を受け取って御 平 とも 「さしつかえありますまい」といって、手紙を渡した。知覧になると、西国から生捕りになって来た様子や、今日明 とき 時はそれを持って内裏へ参ったが、昼は人目が多いので、 日ともしれないわが身の将来などを、こまごまと書き続け、 つばね その辺の局に近い小さい家屋に入り込んで、日の暮れるの終りには一首の歌があった。 を待って過し、暮れてから女房の局の裏口辺にたたすんで 涙河うき名をながす身なりともいま一たびのあふせと もがな 中の様子を聞いていると、この女房の声らしく、「たくさ ( 悲しみの涙が流れて、よくない評判をたてる悲しい身とな ん人のいる中で、よりによって、三位中将が生捕りにされ ったが、そうなっても今一度逢う機会があればと願っていま て、大通りを引き回されるとは。世間の人はみんな奈良の す ) 寺院を焼いた罪の報いだと言い合っている。中将もそう言 っていた。『自分が発起して焼いたのではないが、悪い連 女房はこれを御覧になって、何とも言われず、手紙をふ 中が大勢いたので、てんでに火をつけて、多くの堂・塔を ところに入れて、ただ泣いてばかりいた。かなり時間がた しずく ってから、いつまでもそうしているわけにもいかないので、 焼き払ったのだ。葉末の露が集まって木の幹の雫となると いうから、部下の過失は大将の自分の過失になって、自分ご返事をなさった。心がいたみ、気がかりな状態で、二年 を過した心のうちを書かれて、 一人の罪にきっとなることだろう』と一一 = ロったが、なるほど 君ゅゑにわれもうき名をながすともそこのみくづとと そのとおりと思われると繰り返し言って、さめざめと泣 もになりなむ いておられた。右馬允知時は、この女房の方でも思ってい ひと

9. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

を受けようといって、平家の子孫を尋ね求めたのは情けな 源氏の勢力が強くなった後は、あるいは手紙を出し、ある いことであった。そのようであったので、たくさんに捜し いは使いを遣わして、あれこれとへつらわれたけれども、 ようばう この方はそんなこともなさらない。であるから平家の時も、出した。身分の低い者の子だけれども、色が白く容貌の美 語 しいのを呼び出して、「これは何という中将殿の若君だ」、 物法皇を鳥羽殿に押し込め申して、法皇の御所の長官を置か きんだち かでのこうじ 家 れた際には、勘解由小路中納言とこの経房卿の二人を、法「あの少将殿の公達だ」と申すと、父や母が泣き悲しむけ 平 皇の御所の長官にはなされたのである。この方は、権右中れども、「あの者は後見人がそうだと申します」、「あの者 めのと みつふさ 弁光房朝臣の子である。十二の年に父の朝臣が亡くなられは乳母がそうだと申します」などというので、非常に幼い たので、孤児でいらっしやったけれども、順当に昇進して子は水に入れたり、土に埋めたりし、ちょっと大きくなっ くろうどのとう ている子は押し殺したり、刺し殺したりする。母の悲しみ 停滞することなく、三事の顕職を兼任して、蔵人頭を経、 や乳母の嘆きは、たとえようもなかった ~ 北条もなんとい 参議大弁・大宰帥を歴任して、ついに正二位大納言にまで なった。他人をお越えになったことはあっても、他人に越ってもやはり子孫が多かったので、これがよいやり方とは えられてはおられない。しったし 、人の善悪は錐の先が袋思わないけれども、時勢に従うのが世の常であるので、ど ことわぎ , っしょ , つもない を通して現れるという諺のとおり、隠れることがなくおの 中でも小松三位中将殿 ( 維盛 ) の若君は、六代御前とい ずから現れるものである。世にまれな人であった。 っていらっしやるそうだ。平家の嫡流中の嫡流であるうえ ろく だい 、年も成人していらっしやるそうだ。なんとでもしてお 代 捕え申そうと思って、手分けをして捜されたけれども、見 北条四郎時政は計略を立て、「平家の子孫という人を捜つけることができず、北条ももう鎌倉に下ろうとしておら ろくはら し出した者どもには、望みのとおりの物を与える」と公表れたところに、ある女房が六波羅に出頭して申すには、 だいかくじ へんじようじ はうび された。京中の者どもが、地理案内は知っているし、褒美「ここから西、遍照寺の奥の大覚寺と申す山寺の北方の、 ときまさ きり ・一れもり

10. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

返答を申されなかった間は、なんとなくうっとうしく思っ務にしばられ、驕り高ぶる心ばかりが強くて、全く未来の 2 ていられたが、返書がもはや到着して、関東へお下りにな生の幸不幸を考えてもみなかった。まして運が尽き世間が ることに決ったので、すっかり頼みの綱も切れてしまって、乱れた後は、ここで戦いあそこで争い、人を滅ばしわが身 語 なごり 物何かにつけて心細く、都の名残も今更のように惜しく思わを助かろうと思う悪心だけが邪魔をして、善心はついに起 といのじろうさねひら 家 れた。三位中将は土肥次郎実平を召して、「出家をしたい りません。とりわけ奈良の寺々を焼いたことは、君の命令 平 と思うが、どうしたらよかろう」と言われると、実平はこ であり武門の命令でもあって、君に仕え、世間に従わねば おんぞうし のことを九郎御曹司 ( 義経 ) に伝えた。義経から院の御所ならぬ道理からのがれられないで、奈良の僧徒の乱暴を鎮 へ申し上げられたところ、「頼朝に三位中将を見せて後な めるために向いました際に、思いがけなく寺を焼き滅亡さ せるようになりましたこと、しかたのないことですが、そ ら、なんとでも取り計らえるだろうが、ただ今はどうして かみいちじん 許すことができよう」と言われたので、この旨を三位中将の時の大将軍でした以上、責任は上一人に帰するとか申す ひじり に伝えた。「それなら長年師弟の契りを結んだ聖にもう一 そうですから、重衡一人の罪になってしまうだろうと思わ 度会って、死後の世のことを相談したいと思うが、どうしれます。また一つには、このように誰も思い及ばぬほどあ たらよかろう」と言われると、実平は、「聖は何と申す人れこれと恥をさらしますのも、全くその報いと思い知らさ ほうねんばう そ でしよう」。三位中将は、「黒谷の法然房と申す人だ」。「それたことです。今は頭を剃り、仏戒を守りなどして、ひた れならさしつかえありますまい」といって、面会をお許しすら仏道修行をしとうございますが、こんな捕虜の身にな した。中将はたいそう喜んで、聖をお招きして涙ながらに っていますので、自分の心でも思うようになりません。今 申されたことには、「今度生きながら捕虜になりましたの 日明日ともわからぬ身の成り行きですから、どんな修行を しても、罪業の一つでも助かろうとも思われぬのが残念で は、再び上人にお目にかかれる運命でございました。それ しゆみせん にしても重衡が来世で助かるには、どうしたらよいでしょす。よくよく一生の行いを考えますと、罪業は須弥山より う。人並の身でございました間は、出仕にとりまぎれ、政も高く、善行はほんの少しもたまっていません。こうして おご