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検索対象: 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)
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1. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

られた母上、乳母の女房にもすっかり別れて、住み慣れた お袖をお顔に押し当てて、御涙にむせんでいられます」と 都も遥か空の向こうに振り返って見ながら、今日を限りに 申す。「そうであろう。幼いけれども、心はおとなびてい あずまじ る者である。今宵限りの命と思って、どんなに心細いこと都を出て、東路に赴かれたが、その心の中が、推量されて 語 いとま 哀れである。馬を急がせる武士がいると、自分の首を討と 物であろう。『しばらくしたら、暇を願って参ろう』と言っ 家 うとするのかとぎよっとし、何か話し合う人がいると、も たけれども、二十日を過ぎるのに、あちらへも行かず、こ 平 ちらへも見えない。今日から後、またいつの日、いつの時う今度は最後かと気をもむ。斬られるのは四宮河原と思っ たけれども、それもなく関山も越えて、大津の浦になった。 に互いに会えるとも思えない。それでお前らはどうするつ あわづ もりだ」と言われると、「私はどこまでもお供いたし、亡粟津の原でかと様子をうかがったが、それもなく今日もも くなられましたならば、お骨を受け取り、高野のお山にお う暮れてしまった。多くの国、多くの宿を次々に過ぎて行 するがのくに くうちに、駿河国にもお着きになった。若君の露のように 納め申して、出家して仏道に入り、後世をお弔い申そうと うわさ はかない御命は、今日が最期だという噂であった。 決心しております」と申す。「それなら、非常に気がかり 千本の松原で武士どもはみな馬から降りて、御輿を下に なので、早く帰れ」と言われると、二人の者は泣く泣く暇 下ろさせ、敷皮を敷いて若君をおすわらせ申し上げる。北 を申して退出する。 そうするうちに、同年十二月十六日、北条四郎は、若君条四郎は、若君の御前近くに参って申されたのは、「ここ をお連れして、すでに都をたった。斎藤五・斎藤六は、涙までお連れして参りましたのは、特別の理由があったので はございません。ひょっとして途中で聖に行き逢うのでは に目の前も暗くなり、行く先も見えないけれども、最後の ありますまいかと、それを待って過して参ったのです。あ 所までと思って、泣く泣くお供に参った。北条が、「馬に あしがらやま 乗れーと言うけれども乗らない。「最後の供ですから、苦なたへの私の厚意のほどは十分お見せ申しました。足柄山 しくはございません」といって、血の涙を流しながら、足の向こうまでお連れするのは、鎌倉殿がどう思われるかわ おうみのくに かりませんので、近江国でお斬り申しました由を披露いた に任せて下った。六代御前はあれほど離れにくく思ってい めのと

2. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

おんこゑ 夢かやうつつか。これへ入り給へ」と宣ひける御声を聞き給ふに、、 っしか先一御簾をかぶるようにして。御 廉をあげて頭を中へ入れたのであ カヅキ 立つ物は涙なり。大納一一 = ロ佐殿、目もくれ心もきえはてて、しばしは物も宣はず。ろう。屋代本「御簾打褓テ入給タ レドモ」。 語 物三位中将、御簾うちかづいて泣く / 、宣ひけるは、「こその春、一の谷でいかニあんまりな罪。あまりに重い 家 罪。 平にもなるべかりし身の、せめての罪のむくひにや、いきながらとらはれて、大 = 気がかりに思。ていられた。 気づかっておられた。 だいしゅ 路をわたされ、京、鎌倉、恥をさらすだに口惜しきに、はては奈良の大衆の手四越前守平通盛。その「上」すな わち北の方は小宰相。↓巻九「小 おん へわたされて、きらるべしとてまかり戻。 イいかにもして今一度御すがたを見奉宰相身投」。 五思いがけないことで。 らばやと思ひつるに、今は露ばかりも思ひおく事なし。出家して、かたみにか六今日が最後でいらっしやるこ ステ とはほんとに悲しい。屋代本「既 カナシ みをも奉らばやと思へども、ゆるされなければカ及ばず」とて、額のかみをすニ限ゴテ御坐覧事ノ悲サヨ」。元 カギリ 和版「サテハ今日を限ニテ坐スラ ン事ョ」。 こしひきわけて、ロのおよぶ所をくひきッて、「これをかたみに御覧ぜよ」と セ今まで処刑が延びていたのは。 ひごろ三 ひと て奉り給ふ。北の方は、日来おばっかなくおばしけるより、今一しほかなしみ今まで私が生きのびて ( 生きなが 四 らえて ) いたのは、とする解もあ ゑちぜんのさんみうへやう の色をそまし給ふ。「まことに別れ奉りし後は、越前三位の上の様に、水の底る。屋代本にはこの八字がない。 ナガラ 元和版「今迄存ヘッルハ」。 にも・沈むべかりしが、まさし , っこの世におはせぬ人とも聞か、りしかば、もし ^ 着物がよれよれになっていた りして、みすばらしくやつれてい たことを一い , つ。 不思議にて、今一度かはらぬすがたを見もし見えもやすると思ひてこそ、うき 六 九お召し替えなさい。「奉る」は、 ながら今までもながらへてありつるに、今日をかぎりにておはせんずらんかな着る、身につける、の尊敬語。 ち ひたひ おほ カキ )

3. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

のち 廿日にあまるに、あれへもゆかず、是へも見えず。今日より後又何の日、何の一私も六代のいるそちらへも行 8 かず、六代もこちらへも来ない。 ワ 1 とき なんぢら 時あひ見るべしともおばえず。さて汝等はいかがはからふ」と宣へば、「これニ屋代本「同十六日卯ノ尅ニ」。 アカッキ 元和版「十二月十七日ノ暁」 ( 正節 語 カう 物はいづくまでも御供仕り、むなしうならせ給ひて候はば、御骨をとり奉り、高本同じ ) 。 家 三熱田本「御供ニテ」 ( 正節本同 じ ) 、元和版「御供デ」。ここは 平野の御山にをさめ奉り、出家入道して、後世をとぶらひ参らせんとこそ思ひな 「御をつけるべきところ。 カチハダシ ッて候へ」と申す。「さらば、あまりにおばっかなうおばゆるに、とうかへれ」四元和版「歩跣デゾ下リケル」。 正節本も同じ。 いとま 五以下「かへりみて」まで一九四 と宣へば、二人の者泣く / 、暇申して罷出づ。 ハー一四行に同文がある。「は ( 果 ) おなじきニ わかぎみ て」は、すっかり、全くの意。遠 さる程に、同十二月十六日、北条四郎、若公具し奉ッて、既に都を立ちに 隔の地に行き、再会が期待できな い場合に用いる。「雲井のよそ」は、 けり。斎藤五、斎藤六、涙にくれてゆくさきも見えねども、最後の所までと思 空のかなた、向こう。 ひつつ、泣く / 、御供に参りけり。北条、「馬に乗れ」といへども乗らず。「最六京都市山科区山科。東海道の 出入口。三八ハー一〇行にも見える。 後の供で候へば、苦しう候まじ」とて、血の涙をながしつつ、足にまかせてぞ斬られるのは四の宮河原かと思っ たが。次の「粟津の原かとうかが へども」も同様な言い方。 下りける。六代御前はさしもはなれがたくおばしける母うへ、めのとの女房に セ逢坂山。関は「逢坂の関」の意。 くもゐ あづま もわかれはて、住みなれし都をも雲井のよそにかへりみて、今日をかぎりの東関所のある山のこと。 ^ 大津市付近の琵琶湖岸。 路におもむかれけん心のうち、おしはかられて哀れなり。駒をはやむる武士あ九大津市内、膳所から瀬田の唐 橋へかけての松原。義仲戦死の地 きも わがくび れば、我頸うたんずるかと肝を消し、物いひかはす人あれば、既に今やと心を ( 3 一六九 ~ 一七一ハー ) 。 やおやま おんとも まかりい こま こっ いつひ

4. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

今はなんとしてでも、父のおられる所へ参りたい」と一言わ情愛はいとしいというのが世の常だ。ましてこの子は産み れたのは哀れである。これを聞いて、御妹の姫君の十歳に 落して後、一日片時も自分の身から離さず、人の持たぬも なられる方が、「私も父君のおそばに参ろう」といって、 のを持っているように思って、朝夕夫婦二人の間で育てた 語 物走り出られるのを、乳母の女房がおとどめ申し上げる。六 ものなのに。頼りに思っていた夫とも飽きたのでもないの 家 代御前は今年はわずか十二歳になられたが、世間の普通の に別れた、その後は、二人を左右に置いて今まで心が慰め 平 レつばう 十四、五歳よりはおとなびて、容貌・姿が優雅でいらっし られていたのに、そのうち一人はいるけれども一人はいな やったので、敵に気の弱い様子を見られまいと、おさえる い。今日から後はどうしようか。この三年の間、夜も昼も 袖の隙間からも、あふれて涙がこばれた。そうして御輿に びくびくし続けて、今日の来るのを覚悟していたことだが、 乗られる。武士どもが前後左右を取り囲んで出て行った。 それでもやはり昨日・今日とは思いもしなかった。この何 斎藤五・斎藤六が御輿の左右に付いて参った。北条は乗換年間は受谷の観音を深く信じ申してきたのに、とうとう捕 えの馬に乗っていた武士どもを降ろして、この二人を乗せ えられたことがほんとうに悲しい。 もう今も殺されている ろくはら はだ ようとするけれども乗らない。大覚寺から六波羅まで、裸のではないか」と、くどくどと言って、泣くよりほかのこ 足で走った。 とはなかった。夜も更けたけれども、胸がせき上げるよう 母上、乳母の女房は、天を仰ぎ地に伏して、身もだえし な気持がして、少しもお眠りにならないが、その北の方が 悲しまれた。「この何日もの間、平家の子どもを何人も捕乳母の女房に言われるには、「ほんの今、ちょっと眠った え集めて、水に入れるものもあり、土に埋めるものもあり、夢に、この子が白い馬に乗って来たが、『あまりに恋しく うわ、 押し殺し、刺し殺し、いろいろにするという噂なので、わ思われましたので、少しの暇をもらって参りました』とい が子はどのようにして殺すのであろうか、少しおとなびて って、そばに畏まって、なんとなくたいへん恨めしそうな いるので首を斬るのであろう。人は自分の子を乳母などの様子で、さめざめと泣いたが、間もなくはっと目が覚めて、 もとにおいて、時々会うこともある。それでさえも親子の ひょっとして帰っているのではないかとそばを探るけれど めのと かしこ

5. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

少しも思い残すことはない。出家して、形見に髪でも差し いちょっとした筆の跡こそ永遠の形見でございます」とい おんすずり 上げたいと思うが、それも許されないのでしかたがない」 って、御硯を出されたので、中将は泣きながら一首の歌を といって、額の髪を少し引き分けて、ロの届く所を食い切お書きになった。 語 なみだ のち 物って、「これを形見に御覧なさい」といって差し上げられ せきかねて泪のかかるからころも後の形見にぬぎそか 家 る。北の方は、日頃夫のことを気づかっていた時より、も へぬる 平 ういっそう悲しみの様子を深くお見せになる。「ほんとう ( 涙をとめかねて涙が衣にかかるが、その衣を後までの形見 として脱ぎ替えました ) 男れした後は、越前三位の北の方のように身投げして 水底にも沈むべきだったが、あなたが確かにこの世におら女房はこれを聞くやいなや、 れず亡くなられたとも聞かなかったので、ひょっとして思 ぬぎかふるころももいまはなにかせんけふをかぎりの いがけないことで、もう一度もとどおりの姿に会えるかも 形見と思へば しれぬと思って、悲しいながら今までも生きながらえてい ( 脱ぎ替えた衣も、今となっては何の役にも立ちません。こ たのに、今日が最後でいらっしやるとは全く悲しいことだ。 の衣も今日が最後のあなたの形見と思いますと ) 今まで処刑が延びていたのは、もしかしてあなたが助かる 「縁があるなら、後世ではきっと同じ所に生れてお目にか はす こともあるかと思う期待もあったのに」といって、昔や今 かろう。極楽の池の同じ蓮の葉の上に生れるようにとお祈 りなさい のことなどを語り合われるにつけても、ただ涙が尽きるこ 。もう日も傾いた。奈良へもまだ遠いのです。武 となく流れ出るのであった。「あんまりお姿がみすばらし士が待っているのに待たせておくのも思いやりがないこと あわせ く見えますから、お召し替えなさい」といって、袷の小袖 だ」といって出て行かれるので、北の方は中将の袖に取り と白衣を出されたので、三位中将はこれに着替えて、もと ついて、「ねえ、もしもし、もうしばらく」といってお引 着ておられた着物を、「形見として御覧なさい」といって きとめになると、中将は、「私の心中をただご推量くださ 置かれた。北の方は、「それももっともなことですが、つ 、。けれども、結局死からのがれきることのできる身でも

6. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

ふすま じようねいでん い者も低い者も、引戸や襖を閉め、天が鳴り地が動く度ご常寧殿の前に五丈の幄屋を建てて、そこにいらっしやった 3 とに、もう今にも死ぬといって、声々に念仏を唱え、わめ と承っている。だがそれは上代のことであるので、ここで き叫ぶことは大変である。七、八十歳、九十歳の者も、こ 例として申すことはできない。今度のことは、これから後 語 物の世が滅びるなどということは、なんといっても今日・明 も同じようなことがあろうとも思われない。十善帝王が都 家 日であるとは思いもかけないといって、たいそう驚き騒い をお出になって、御身を海底に沈め、大臣・公卿が罪人と 平 だので、幼い者どももこれを聞いて泣き悲しむこと限りが して大路を引き回されて、その首を獄門にかけられる。昔 いまぐまの おんりよう ない。法皇はちょうどその時、新熊野へ御幸なさっていて、 から今に至るまで、怨霊は恐ろしいことなので、この世も けが 人がたくさん打ち殺され、死者の穢れに触れることが生じ どのようになるのであろうかといって、道理のわかる人で ろくはらどの たので、急いで六波羅殿にお帰りになる。その道中、君も嘆き悲しまない者はいなかった。 臣もどれほどご心痛であったことであろう。天皇は鳳輦に お乗りになって、池の水際にお出ましになる。法皇は南庭 紺掻之沙汰 に幄屋を建ててお住みになった。女院・宮々は御所がすべ ト - め・とも て倒壊したので、あるいは御輿に召し、あるいは御車に乗 同年八月二十二日、鎌倉の源二位頼朝卿の父、故左馬頭 よしとも もんがくししっにん ってお出になる。天文博士どもが馳せ参じて、「今夜の午義朝の正真正銘の首だといって、高雄の文覚上人が自分の 後十時から十二時頃には、必ず大地がひっくり返るであろ頸にかけ、鎌田兵衛の首は弟子の頸にかけさせて、鎌倉へ う」と申すので、恐ろしいなどということばでは表せない 下られた。去る治承四年の頃、取り出して差し上げたのは、 ほどである。 ほんとうの左馬頭の首ではなく、謀反をお勧めしようとし はかりごと さい′」う たための謀で、関係ない古い首を白い布に包んで差し上 昔、文徳天皇の御代、斉衡三年三月八日の大地震では、 げたのだが、謀反を起し世の実権を奪い取って、ひたすら 東大寺の仏像の御首が揺れて落ちたとかいうことである。 てんぎよう また天慶一一年四月五日の大地震では、天皇が御殿を避けて 父の首と信じていられたところへ、再び尋ね出して鎌倉へ あくや ほうれん こんかきのさた

7. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

み′一し なかった。「子ができなくてほんとうによかった。子でも磯の浦々、やつまと、砥上が原、御輿が崎も通り過ぎて、 2 もしあったなら、どんなにつらいことだろう」と言われた急がぬ旅だと思うが、日数がだんだん重なって、鎌倉へお が、それがせめてもの慰めであった。さやの中山にさしか入りになった。 語 さいぎう・ 物かられるにつけても、西行のように、また再び越えられよ そで せんじゅのまえ 家 うとも思われないので、いっそう感慨深くて、袖が涙でび 千手前 平 しょぬれになる。宇津の山の辺の蔦の生え茂った道を、心 ひょうえのすけよりとも 細く思いながら越えて、手越を過ぎて行くと、北に遥か遠 兵衛佐頼朝はさっそく対面して申されるには、「そもそ くそびえて、雪で白い山がある。聞くと甲斐の白根山だと も君の御憤りをおなだめ申し上げ、父の恥をすすごうと思 言う。その時三位中将は落ちる涙をこらえて、次のように い立ったうえは、平家を滅ばすのは考えの中にあったこと 思い続けられる。 でしたが、実際にお目にかかろうとは存じませんでした。 惜しからぬ命なれども今日までそっれなきかひのしら この分では、八島の大臣殿 ( 宗盛 ) にもお目にかかると思 ねをもみつ われます。そもそも奈良の寺を滅ばされたことは、故太政 ( 死んでも惜しくない命だが今日まで生き続けた、そのかい 入道殿 ( 清盛 ) の仰せでしたか、それともまたその時に臨 あって、甲斐の白根山も見ることができた ) んでの臨機応変のご処置でしたか。とんでもない罪業だそ きよみ すその しげひら 清見が関を過ぎて、富士の裾野になると、北には青山が うですな」と申されたので、三位中将重衡が言われるには、 さくさく 峨々とそびえ立ち、松を吹く風も索々と響きわたっている。「第一に奈良を焼き滅ばしたことですが、これは故入道の ばうばう 南には青い海が広々とひろがって岸を打っ波も茫々と音を取り計らいでもなく、重衡の愚かな考えから出たことでも や 立てている。「恋しく思っていたら痩せるはすだ。恋しく ない。僧徒の悪行を鎮めるために出向いたのですが、思い あしがらみようじん も思っていなかったのだ」と足柄明神が歌い初められたと がけなく寺院が滅亡するようになりましたことは、なんと まりこがわ いう足柄の山も越えて、こゆるぎの森、鞠子川、小磯・大もしかたのないことです。昔は源氏・平氏が左右に競い立 った か とがみ

8. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

者。 母うへ、めのとの女房、天にあふぎ地にふして、もだえこがれ給ひけり。 一 0 どのようにして殺すのだろう か。延慶本「イカニシテカハ失ワ 「此日比平家の子どもとりあつめて、水にいるるもあり、土にうづむもあり、 ムズラム」。 おしころし、さしころし、さまみ、にすときこゆれば、我子はなにとしてかう = 親子・夫婦間の情愛。 三底本「ひとひかたとき」。「ひ くび しなはんずらん、すこしおとなしければ、頸をこそきらんずらめ。人の子はめとひ」はヒトイとよむ。 一三頼りにしていた人。夫の維盛。 おんあい のとなンどのもとにおきて、時々見る事もあり。それだにも恩愛はかなしきな一四↓五三ハー注一 = 。 一五左右。前後。屋代本「左右」。 いはん ウラウへ らひそかし。況や是はうみおとして後、一日片時も身をはなたず、人のもたぬ熱田本「裏表」。 一六四段動国・慰む」の連用形。自 あさゆふふたりなか ものをもちたるやうに思ひて、朝夕二人の中にてそだてし物を。たのみをかけ分の心を慰める、自分の心が慰め られる、の意。 ふたり一五 宅二人の中の一人 ( 姫君 ) はいる し人にもあかで別れし其後は、二人をうらうへにおきてこそなぐさみつるに、 が、もう一人 ( 六代 ) はいない よるひる 一 ^ みとせ ひとりはあれどもひとりはなし。今日より麦よ、 : ゝ 彳。しカカせむ。此三年が間、夜昼一 ^ 平氏が都を落ち、維盛と別れ た寿永二年 ( 一一八三 ) 七月からこの文 きも、 : 一ろ 肝心を消しつつ、思ひまうけつる事なれども、さすが昨日今日とは思ひょらず。治元年 ( 一一会 ) 十二月までの二年六 代 か月間 くわんおん つひ 年ごろは長谷の観音をこそふかう頼み奉りつるに、終にとられぬることのかな一九前もって覚悟していたことだ が、そうはいってもやはり昨日今 ただいま 日レ」い , つよ , つに、、の日が皇・ / 、来 - 第しさよ。唯今もやうしなひつらん」と、かきくどき泣くより外の事ぞなき。さ 巻 ようとは思いもよらなかった。巻 夜もふけけれど、むねせきあぐる心地して、露もまどろみ給はぬが、めのとの一「祇王」 ( 田三二ハー七行 ) に類句が ある。 ニ 0 奈良県桜井市初瀬の長谷寺。 女房に宣ひけるは、「ただいまちッとうちまどろみたりつる夢に、此子が白い 一セ このひごろ ひとひかたとき ほか ウラウへ

9. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

はれ はずもございませんが、長年召し使われ申して参りました が前駆の役を勤めた。公卿も殿上人も今日を晴と飾り立て 大臣殿のご恩は浅くはありません。もしそうしてよろしけ ていたのだった。中納言が四人、三位中将も三人まで加わ れば、お許しをこうむって、大臣殿の最後の御車のお供を っていられた。ほかならぬこの平大納言時忠もその時は左 語 ちょう 物いたしとうございます」と強いてお願い申したので、判官衛門督でおられた。御前へお召しを受けて、御引出物を頂 家 は、「問題はあるまい。さあさあ」といってお許しになっ戴して、おもてなしをお受けになったありさまは、まこと 平 た。三郎丸はたいそう喜んで、立派に装束をつけ、懐から にめでたい儀式であった。それに引き替え、今日は公卿・ だんのうら 遣縄を取り出して牛につけかえ、涙で目先が暗くなって行殿上人一人もお供せす、一緒に壇浦で生捕りにされた侍ど ひたたれ く先も見えないほどだが、袖に顔を押し当てて、牛の行く も二十余人が、白い直垂を着て、馬の上に縛りつけて引き 回されたのであった。 にまかせて、泣く泣く車を進めて行った。 後白河法皇は、六条東洞院に御車を立てて御覧になる。 賀茂の河原まで引き回されて、そこから帰って、大臣殿 くぎようてんじようびと 公卿・殿上人の車も同じように立て並べている。以前には、 父子は九郎判官の宿所、六条堀河におられた。お食事を差 大臣殿をあれほど御身近く召し使っておられたので、法皇し上げたが、胸がいつばいになって、お箸をさえお取りに も、何といってもやはり御心がいたみ、哀れにお思いにな なれない。互いにものは言われないが、目と目を見合せて、 った。お供の人々は、ただ夢とばかりお思いになった。 ひっきりなしに涙を流しておられた。夜になったが装束も 「なんとしてでもあの方に目もかけられ、話のはしにでも おくつろげにならず、片袖を敷いておやすみになったが、 のばせてもらいたいと思っていたところ、こんなことにな御子の右衛門督にお袖をお着せになるのを、お守り申して ろうとは誰が思ったことか」といって、人々は誰もかれも いる源八兵衛・江田源三・熊井太郎がこれを見て、「ああ 身分の高い者も卑しい者も、親子の愛情ほどかなしいこと 涙を流した。先年宗盛が内大臣になって拝賀の礼をなさっ た時は、公卿では花山院の大納言をはじめ十一一人がお供し はない。お袖をお着せしたからといって、どれほどのこと ちかむね て車を続けて行かれた。殿上人では蔵人頭親宗以下十六人があろう。せめてもの親の御愛情の深さの表れだな」とい やりなわ

10. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

( 原文一二六 まつらとう すぐには見分けにくいということだ」と申した。上総悪七五百余艘で先陣として敵に向って漕ぎ出す。松浦党が三百 きんだち こかんじゃ 余艘で二陣として続く。平家の公達が二百余艘で三陣とし 兵衛が申すには、「心は勇猛であっても、その小冠者め、 かたわき て続いて行かれる。兵藤次秀遠は九州一の精兵であったが、 どれほどのことがあろう。片脇にはさんで海へ入れようも 自分ほどではないけれど、普通並みの精兵ども五百人を選 のを」と申した。 新中納言はこのように命令なさって、大臣殿 ( 宗盛 ) の抜して、船々の前後に立たせ、一列に並べて、五百本の矢 を一度に射放つ。源氏は三千余艘の船だから、軍勢の数は 御前に参って、「今日は侍どもが元気よく見えます。ただ ・ : っぺ 、しげ、ムし しかし阿波民部重能は心変りしたと思われます。頭をはねさぞかし多かったことだろうが、平家方は方々から射たの で、どこに精兵がいるともわからない。大将軍の九郎大夫 たいものです」と申されたので、大臣殿は、「はっきりし たて た証拠もなくて、どうして首を斬ることができよう。あれ判官はまっ先に進んで戦ったが、楯でも鎧でも防ぎきれな いで、さんざんに射すくめられた。平家は味方が勝ったと ほど忠実に奉公した者だのに。重能参るように」と召した あらいがわおど むくらんじ いって、しきりに攻め太鼓をたたいて、喜びの鬨の声をあ ところ、重能は木蘭地の直垂の上に洗革で縅した鎧を着て、 御前につつしんで控えた。「どうだ、重能は心変りしたのげた。 か。今日は元気がないように見えるそ。四国の者どもに合 遠矢 戦を立派にやれと命令してくれ。おじけづいたな」と言わ 遠れると、「なんでおじけづくことがありましよう」といっ よしもり 源氏の方でも、和田小太郎義盛は、船には乗らず、馬に 一て、御前を退出する。新中納言は、ああ、あいつの首を打 かぶと あぶみ なぎさ 第ち落したいものだと思われて、太刀の柄を砕けるほどしつ乗って渚に控えていた。甲をぬいで人に持たせ、鎧の端を そ 巻 上に反るまで踏みしめ、弓を十分引きしばって射たので、 かり握りしめて、大臣殿の方をしきりに御覧になったが、 三町内外の物ははずすことなく、強く射た。射た矢の中で お許しがないので、しかたがない そう 平家は千余艘の船を三手に分ける。山鹿兵藤次秀遠は特に遠く射たと思われる矢を、「その矢を返していただこ やまが ひでとお とお や