ぬかわからない世の中は、火打石から出る一瞬の光と違わまりして、尋ねかねているのは痛ましいことであった。住 ずきよう ない。たとえ人が長命だといっても、七十、八十を越えるみ荒らしたある僧坊に念仏・誦経の声がした。滝ロ入道の ことはない。その中で身体が元気なのは、たった二十余年声と聞き知って、「私がここまで尋ねて参りました。姿が ゅめまばろし にすぎない。夢幻のようにはかない世の中に、醜い者と片変っておいでになるのを、もう一度拝見したいのです」と、 時でも連れ添ってどうしよう。恋しい者に連れ添おうとす連れていた女を通じて言わせたので、滝ロ入道は胸騒ぎが ふすますき れば、父の命令に背くのとほとんど同じだ。これこそ仏道し、襖の隙からのそいて見ると、ほんとに尋ねかねた様子 なのがかわいそうに思われて、どんな道心を固く持つ者で に入るよい機縁だ。つらいこの世を嫌い、真の仏道に入る もとどり のにこしたことはない」といって、十九の年、髻を切って、 も心が弱ってしまいそうである。間もなく中から人を出し かど 嵯峨の往生院で心をすまし修行していた。横笛はこれを聞て、「全然ここにそんな人はいない。お門違いだろう」と いって、とうとう会わないで帰した。横笛は情けなく恨め き伝えて、「自分を捨てるのはしかたがないが、姿までも 変えたということがほんとに恨めし い。たとえ遁世しても、 しく思ったが、しかたなく涙をこらえて帰った。滝ロ入道 どうしてこうと知らせてくれないのだろう。あの人が気強は、同宿の僧に会って申すには、「ここも全く静かで念仏 くつれないにしても、尋ねて恨みを言おう」と思って、あ の邪魔はありませんが、いやでもないのに別れた女に、こ の住居を見られましたので、たとえ一度は気強く退けても、 る日の夕暮れに都を出て、嵯峨の方へばんやりさまよって うめづ 笛行った。頃は二月十日あまりのことなので、梅津の里を吹またも慕って来ることがあるなら、心も動いてしまいまし よう。失礼をして」といって、嵯峨を出て高野山へ登り、 く春風に、どこからともなく梅が香ってくるのも好ましく、 しようじよう・しんいん うわさ かすみ 第大井川を照らす月光も霞にこめられておばろに見える。慕清浄心院にいた。横笛も尼になったという噂が伝わって 巻 きたので、滝ロ入道は一首の歌を贈った。 う思いは一通りでないが、それも誰ゆえと思ったことだろ そるまではうらみしかどもあづさ弓まことの道にいる 往生院とは聞いたが、はっきりど う、時頼のせいなのだ。 , そうれしき この坊とも知らないので、あそこここに立ち止まり立ち止 かお とんせい
るから、一度または十度の念仏で極楽往生の望みがある。 三日平氏 ただ深く信じて決してお疑いになってはならぬ。またとな い懇切な念願をこめて、一遍もしくは十遍も念仏をお唱え とねりたけさと 舎人武里も同様に入水しようとしたのを、聖が留めたの になるならば、弥陀如来が無限大の大きな御身を縮め、一 かんのんせいし で、しかたなく残った。「どうして情けなくも、三位中将 丈六尺の御形で、観音・勢至以下無数の仏菩薩、化身した 仏菩薩らが百重・千重に幾重となく弥陀を取り囲み、音楽の御遺言にお背きしようとするのだ。下郎はやつばり困っ ばだい しやば たものだ。今はただ三位中将の後世の菩提をお弔い申し上 を奏し詠歌をして、ただ今極楽の東門を出て、この娑婆へ げよ」と泣く泣く教えさとしたが、お供できず後に残る悲 迎えに来ようとされているから、あなたの御身は青い海の しさのために、死後のご供養のことも考えず、船底に転び 底に沈むと思われても、紫雲の上にお上りになるだろう。 だんどくせん しつだたいし 伏し、わめき叫んでいたありさまは、昔悉達太子が檀特山 成仏し煩悩・生死の苦から解脱して悟りを開かれたなら、 しゃのくとねり げんらいえ にお入りになった時、車匿舎人がこんでい駒をいただいて、 娑婆の故郷に立ち帰って、妻子を導かれることは、還来穢 こくどにんでん 王宮に帰った悲しみも、これ以上ではあるまいと見えた。 国度人天とあるように、少しも疑ってはいけない」といっ しばらくは船をぐるぐる押し回して、浮き上がられること て、鐘を打ち鳴らして念仏をお勧め申し上げる。中将はま ひじり もあるかと海面を見たが、三人共に深く沈んでお見えにな 氏ことに適切な仏道に導いてくれる聖だとお思いになり、た らない。早くも経を読み念仏を唱えて、「死んだ人々の霊 日ちまち邪念を翻して、高い声で念仏を百遍ばかり唱えなが ら、「南無」と唱える声と共に、海へお入りになった。兵魂が極楽浄土へお生れになるように」と供養したのは哀れ いしどうまる しげかげ である。 第衛入道 ( 重景 ) も石童丸も、同様に阿弥陀の御名を唱えな 巻 そのうちに、夕日が西に傾き、海上も暗くなったので、 がら、続いて海に入った。 な 1 」り 名残は尽きないように思ったが、三人のいない船を漕いで 帰って行く。海の瀬戸を渡る船からしたたる櫂の雫と、聖 みつかへいじ
平家物語 298 ( あなたが尼になるまでは私のことを恨んでいたが、そのあ だという商山や竹林のありさまも、これ以上ではあるまい なたも仏道に入ったと聞いてうれしい ) と思われた。 横笛の返事には、 そるとてもなにかうらみむあづさ弓ひきとどむべきこ 高野巻 ころならねば ( 尼になったといっても何であなたを恨みましよう。とても 滝ロ入道は三位中将維盛にお目にかかって、「これは現 引きとめることのできるようなあなたの決心ではないのです実とも思われないことですな。八島からここまでは、どん から ) なにして逃げ出しておいでなのでしよう」と申したので、 横笛は物思いが積ったせいか、奈良の法華寺にいたが、そ 三位中将が言われるには、「それはだな、ほかの人と同様 れほどたたないうちに、とうとう死んでしまった。滝ロ入 に都を出て、西国へ落ちて行ったが、故郷に残しておいた 道は、こういうことを人づてに聞き、いよいよ信心深く修幼い子どもが恋しくて、いつまでたっても忘れられそうも ないので、その私の物思いの様子がロに出さないのにはっ 行に専心していたので、父も勘当を許した。親しい者ども ひじり きりわかったのだろうか、大臣殿 ( 宗盛 ) も二位殿 ( 清盛 もみな入道を尊信して、高野の聖と申していた。 ・よりもり これもり 妻 ) も、『この人 ( 維盛 ) は池の大納言頼盛のように二心が 三位中将維盛がこの入道を尋ねて会って御覧になると、 ある』などといって、分け隔てをなさったので、生きてい 都におった時は布衣に立烏帽子、衣服をきちんと着こなし、 びんな ても生きがいのないわが身だなと、ますます心も八島にと 鬢を撫でつけ、優美な男であった。出家した後、今日初め て御覧になると、まだ三十にもならない者が、老僧姿に痩まらないで、ふらふらと浮かれ出て、ここまでは逃げて来 たのだ。なんとかして山伝いに都へ上って、恋しい者ども せ衰え、濃い墨染の衣に同じ墨染の裟をまとい、深く仏 うらや にもう一度会いたいとは思うが、本三位中将重衡のことが 道に心を入れた道心者になっている。それを三位中将は羨 し、 ) う しん っそのこと、こ ましく思われたことであろう。晋の七賢や漢の四皓が住ん残念に思われるので、それもできない。い たてえばし や っ こうやのまき うつ
もレ」ゾ」り ただきましたが、現在の様子では源氏の郎等どもの方がそ 盛 ) の御元服が行われました夜、髻を結い元服させていた おそ のとおりです。君が神にも仏にもおなりになりました後、 だいて、畏れ多くも、『盛の字は家の字だから、五代につ まつおう ける。重の字を松王にやろう』と仰せられて、重景とお付私だけが富み栄えましても、千年の年を経ることができま しようか。たとえ万年長生きしても、ついには終りがない けいただいたのです。そのうえ、童名を松王と申したこと はずはありません。今度のこと以上の仏道に入る機縁は、 も、生れて五十日という時、父が抱いて重盛様の所に参り もとどり ほかに何がありましよう」といって、自分の手で髻を切っ ましたところ、『この家を小松というから、祝って付ける て、泣く泣く滝ロ入道に頭を剃らせた。石童丸もこれを見 のだ』と言われて、松王とお付けいただいたのです。父が もとゆいきわ て、元結の際から髪を切った。これも八歳から維盛にお仕 立派に死にましたのは、私の身の幸せと思われます。たい そう同僚にも親切にされて過ぎてきました。ですから重盛え申して、重景にも劣らずかわいがっておられたので、同 じく滝ロ入道に剃らせた。この者どもが自分に先立ってこ 様ご臨終の御時も、この世のことをすべておあきらめにな のようになるのを御覧になるにつけても、維盛はますます って、何も言われませんでしたが、重景を御前近く召され 心細くお思いになる。いつまでそうしてもいられないので、 て、『ああかわいそうに。お前は重盛を父の形見と思い しんじつほうおんじゃ じもく るてんさんがいちゅうおんあいふのうだんきおんにゆうむい 重盛はお前を景康の形見と思って過してきた。今度の除目「流転三界中、恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者」と ゅぎえのじよう 三遍お唱えになって、とうとう髪を剃り落してしまわれた。 家に靫負尉にして、お前の父景康を呼んだように左衛門尉と 「ああ、もとのままの姿で恋しい者どもにもう一度会って 盛呼びたいと思っていたが、だめになったのは悲しいことだ。 維 後、このようになるなら、思うこともなかろうに」と言わ 今後決して少将殿 ( 維盛 ) の心に背くな』と言われたので 第した。ではこの日頃は、君に万一のことでもありました際れたのは、罪深いことであ 0 た。三位中将も兵衛入道 ( 重 巻 には、私がお見捨て申して逃げて行くものとお考えでした景 ) も同じ年で、今年は二十七歳である。石童丸は十八に なっていた。 1 か。そんな御心だとするとほんとうに気恥ずかしゅうござ とねりたけさと 舎人の武里を呼んで、「お前はさっさとここから八島へ います。『この頃は時めき栄えている人が多い』と仰せい
これ どうじゅく 帰りけり。滝ロ入道、同宿の僧にあうて申しけるは、「是もよにしづかにて念弓の縁語。なお天草本はこの歌を 横笛の詠とする。延慶本でも横笛 すま しゃっげ 仏の障碍は候はねども、あかで別れし女に此住ひを見えて候へば、たとひ一度が自ら髪を切り「剃ルマデハ浦見 シ物ヲアヅサ弓誠ノ道ニイルゾウ レシキ」 ( 髪を剃るまでは、あなた は、い強くとも、又もしたふ事あらば、、いもはたらき候ひぬべし。暇申して」と を恨んでいたが「仏道に入ること しゃうじゃうしんゐん ができてうれしい ) と詠む。 て、嵯峨をば出でて高野へのばり、清浄心院にぞ居たりける。横笛も様をかへ 梓の木で作った丸木の弓。本 書では「ひく」「いる」などの枕詞 たるよし聞えしかば、滝ロ入道一首の歌を送りけり。 として、和歌に用いられる。 一六髪を剃り尼になったといって そるまではうらみしかどもあづさ弓まことの道にいるぞうれしき もなんであなたを恨もう。あなた かへり の決心は固く、とても引きとめる 横笛が返ことには、 ことができないのだから。これを 延慶本・天草本は時頼の詠とする。 そるとてもなにかうらみむあづさ弓ひきとどむべきこころならねば 宅時頼と別れた思い、物思い ほっけじ 一七おもひ 一 ^ 法華寺。奈良市法華寺町にあ 横笛はその思のつもりにや、奈良の法花寺にありけるが、いくほどもなくて、 る国分尼寺。俊寛の娘もここに入 つひ る ( 巻三・僧都死去 ) 。屋代本は寺 遂にはかなくなりにけり。滝ロ入道、かやうの事を伝へ聞き、弥ふかくおこな 名なく、延慶本は東山清岸寺に住 ふけう 笛ひすましてゐたりければ、父も不孝をゆるしけり。したしき者共もみな用ひて、み、のち桂河に入水とある。 かんどう 一九子を勘当すること。 かうやひじり ニ 0 尊重する。信用する。 十高野の聖とぞ申しける。 ニ一六位以下の着る無紋の狩衣。 えもん 巻 三位中将、是に尋ねあひて見給へば、都に候ひし時は市衣に立烏帽子、衣文 = = 衣服をきちんと正しく着、鬢 の毛を撫でつけ。衣文 ( 衣紋 ) は衣 LO をつくろひ、鬢をなで、花やかなりし男なり。出家の後は今日はじめて見給ふの襟を合せた所、転じて衣服。 一四 びん 一九 をのこ たてえぼし いとま 一ま
語 物 家 平 一自分を捨ててもしかたないが。 してぞゐたりける。横笛これをつたへきいて、「われをこそすてめ、様をさへ 自分を捨てるのはよいとして。 ニ気が強くとも。つれなくとも。 かへけむ事のうらめしさよ。たとひ世をばそむくとも、などかかくと知らせざ 三浮かれ出る。ふらふらと出る。 こころづよ くれ らむ。人こそ心強くとも、たづねて恨みむーと思ひつつ、ある暮がたに都を出四右京区四条の末。桂川の東岸。 五他の所 ( 無関係の所 ) から匂っ とをか でて、嵯峨の方へぞあくがれゆく。ころはきさらぎ十日あまりの事なれば、梅て来る梅の香り。どこからともな く匂って来るのをいう。 にほひ おほゐがは かすみ 津の里の春風に、よその匂もなっかしく、大井河の月影も霞にこめておばろな六大堰川。桂川の上流、嵯峨嵐 山の下を流れる川 たれ セ慕わしさ。恋い慕う思い り。一方ならぬ哀れさも、誰ゅゑとこそ思ひけめ。往生院とは聞きたれども、 ^ 誰ゆえと思ったことだろう、 ほかならぬ時頼のせいなのだ。 さだかにいづれの坊とも知らざれば、ここにやすらひかしこにたたずみ、たづ 九痛ましい。哀れなことだ。 ねんじゅ ねかぬるそむざんなる。住みあらしたる僧坊に、念誦の声しけり。滝ロ入道が一 0 心に念じ、ロに仏の名号ある ずきよう いは経を唱えること。念仏誦経。 き一ま 声と聞きなして、「わらはこそ是までたづね参りたれ。様のかはりておはすら = 同じ寺の僧房に住むこと。 三飽きないうちに別れた。「飽 く」は満足する意。慣用句。↓ 3 んをも、今一度見奉らばや」と、具したりける女をもッていはせければ、滝ロ 一一三五ハー注一一一。 れんげだに 入道むねうちさわぎ、障子のひまよりのぞいてみれば、まことに尋ねかねたる = = 高野山の蓮華谷の寺院。喜多 坊 ( 北之坊 ) という。弘法大師創設。 だうしんじゃ けしきいたはしうおばえて、いかなる道心者も心よわくなりぬべし。やがて人一四髪を剃り尼になるまでは、私 を恨んでいたが、そのあなたは尼 いだ かど になって、真の道 ( 仏道 ) に入った を出して、「まッたく是にさる人なし。門たがへでぞあるらむーとて、つひに と聞いてうれしい。「そる ( 剃る・ あはでぞかへしける。横笛なさけなううらめしけれども、カなう涙をおさへて反る ) 」「いる ( 入る・射る ) 」は梓 ひとかた 九 いちど 五 さま 四 うめ
平家物語 70 ニ底本目録の「三日平氏」の右に 「イ池大納言関東下向」、下に「付 維盛北方出家」とある。 三「うたてし」は、情けな、、、 やだ ( 困ったものだ ) 、などの意。 じ・よう・ばん 四釈迦が出家する前、浄飯王の 太子であった時の名。 五北インドの山。釈迦が出家剃 髪した所という。 とねりたけさと とど 舎人武里も同じくいらむとしけるを、聖とり留めければ、カおよばず。「い 六悉達太子の下僕。太子が城を こんでい 出て山に入った時、揵陟という馬 ごゆいごん げらふ ふもと かにうたてくも御遺一一 = 口をばたがヘ奉らんとするぞ。下臈こそなほもうたてけれ。のロを取り、檀特山の麓で馬をひ いて帰ったという。韃陟は、金泥 ごせ 、け、つくーれ 今はただ後世をとぶらひ奉れ」と、泣く / 、教訓しけれども、おくれ奉るかなの字を当てることが多い。「太子 みゆき の御幸には、こんでいこまに乗り のちごけうやう ふなそこ しさに、後の御孝養の事も覚えず、舟底にふしまろび、をめきさけびける有様給ひ、車匿舎人にロ取らせ、檀特 四 五 六 山にそ入り給ふ」 ( 梁塵秘抄 ) 。 しつだたいしだんどくせん しゃのくとねり は、むかし悉達太子の檀特山に入らせ給ひし時、車匿舎人がこんでい駒を給は七聖霊は精霊と同じか。過去精 霊は死んだ人の霊魂。 わうぐう ッて、王宮にかへりし悲しみも、是には過ぎじとぞ見えし。しばしは舟をおし ^ 一仏は阿弥陀仏の異称。阿弥 陀仏の極楽浄土。 さんにんとも まはして、浮きもやあがり給ふと見けれども、三人共に深く沈んで見え給は九回向。仏事を営み、死者の冥 福を祈ること。 きゃう くわこしゃうりゃういちぶつじゃうど ゑかう ず。いっしか経よみ念仏して、「過去聖霊一仏浄土へ」と廻向しけるこそ哀れ一 0 川や海の瀬戸を渡る。「わが と。も とな ひやうゑにふだう いしどうまる なへつつ、「南無」と唱ふる声共に、海へぞ入り給ひける。兵衛入道も石童丸一類似の文が 3 二三五八行に みな も同じく御名を唱へつつ、つづいて海へそ入りにける。 みつかへいじ 三日平氏 ひじり ある。
平家物語 54 いまさんじふ 未だ卅にもならぬが、老僧姿にやせ衰へ、こき墨染に同じ袈裟、思ひいれ一深く仏道に心を入れた修行者 ニ竹林の七賢。中国の晋代に、 しんしちげんかんしかう しゃうぎん たる道心者、うらやましくや思はれけむ。晋の七賢、漢の四皓がすみけむ商山、世を避け竹林の下に会し清談した げんせき といわれる阮籍など七人の隠士。 三商山の四皓。秦の始皇帝の時、 竹林の有様も、是には過ぎじとそ見えし。 乱を避け陜西省商山に入った、ひ まゆ げと眉の白い四人の隠士。 0 滝ロ入道と横笛との悲恋物語は 後代、特に好まれたらしい。室町 物語『横笛草紙』では、『盛衰記』と かうやのまき 同様に、横笛は時頼に会えず、帰 高野巻 る途中、大井川に投身する。 四それだから。だからさ。滝ロ の「どうして遁れて来られたろう」 たきぐちにふだうさんみのちゅうじゃう 滝ロ入道、三位中将を見奉ッて、「こはうつつとも覚え候はぬものかな。八との問いに答え、ばかして言った 語。また、思ったとおりだ、案の 島より是までは、何としてのがれさせ給ひて候やらん」と申しければ、三位中定の意にとり「お前の疑問に思う とおりだ」の意かもしれない。 四 さい、 ) く 将宣ひけるは、「さればこそ、人なみ / 、に都を出でて、西国へ落ちくだりた五言わないのに、はっきり他の 人に見られた ( 分った ) のだろうか。 りしかども、ふるさとにとどめおきしをさなき者共のこひしさ、い っ忘るべし六↓巻七「一門都落」 ( 3 七五ハー ) 。 セどのようにでも生きていよう。 おほいとのにゐ とも覚えねば、その物思ふけしきのいはぬにしるくや見えけん、大臣殿も二位どう過してもよいだろう。 ^ ↓巻一「祇王」 ( 田三八ハー四行 ) 。 どの ふたごころ 殿も、『此人は池の大納言のやうに二心あり』なンどとて、思ひへだて給ひし九先導の修験者。道案内。 れんげだに 一 0 高野山蓮華谷の東、奥院谷に びようしょ ある弘法大師の廟所。 かば、あるにかひなき我身かなと、、 しとど心もとどまらで、あくがれ出でて、 たてま すみぞめ
同六年三月十三日、大仏供養があるとのことで、二月中 いう所に長く忍んでいた。だんだん成人なさったので、郡 ほうしようじ に鎌倉殿はまたご上洛なさる。三月十二日に大仏殿へ参ら郷の地頭・守護が怪しんだため、都に上り法性寺の一の橋 てんがいもん かじわらかげとき れたが、梶原景時を召して、「碾磑門の南方に、衆徒何十という所に忍んでいられた。ここは祖父の入道相国 ( 清 盛 ) が、「万一のことがあれば、その時城郭にもしよう」 人を間に隔てて、怪しげな者が見えたそ。召し捕って差し さか 出せと言われたので、梶原が承ってすぐに連れて参った。 と思って、堀を二重に掘って、四方に竹を植えられた。逆 も もとゾ」り 茂木を引いて、昼は人の音もせず、夜になると立派な仲間 ひげは剃って髻は切っていない男である。「何者だ」と問 が多く集まって、詩を作り、歌を詠み、管絃などをして遊 われると、「これほど運命が尽きてしまっておりますうえ は、あれこれ申すまでもない。自分は平家の侍、薩摩中務んでいたうちに、どうして漏れ聞えたのだろうか。その頃、 よしやす いえすけ 家資と申す者です」。「お前は何と思ってこんななりをして人が恐れたのは、一条の二位入道能保という人である。そ もときょ もとつな の侍で、後藤兵衛基清の子の新兵衛基綱が、「一の橋に勅 いるのだ」。「ひょっとしてと思い、狙い申していたので す」。「志のほどは立派だ」といって、大仏供養が終って都命に従わない者がいる」と聞き出して、建久七年十月七日 へお入りになってから、六条河原でお斬りになってしまっ午前七時過ぎに、その兵百四、五十騎が一の橋へ急ぎ向い、 わめき叫んで攻め戦う。城の内でも、三十余人いた者ども もろはだ が諸肌脱いで、竹の陰から弓に矢をつがえては引き、つが 被平家の子孫は去る文治元年の冬の頃、一歳の子、二歳の えては引き、矢つぎ早にさんざんに射ると、馬も人もたく 六子をも残さず、母親の腹の内を開いて見ないというだけで、 さん射殺されて、まともに向うこともできないほどである。 一一徹底的に捜し捕えて殺してしまった。もう今は一人もいる とももり 第まいと思ったのに、新中納言 ( 知盛 ) の末の子に、伊賀大そうするうちに、一の橋に勅命に従わない者がいると聞き ともただ 巻 夫知忠というのがおられた。平家が都を落ちた時、三歳で伝え、在京の武士どもが我も我もと駆け集まる。間もなく ためのり 捨ておかれていたのを、お守り役の紀伊次郎兵衛為教が養一、二千騎になったので、近辺の小家をこわして集め、堀 びんごのくに い申して、そこここに隠れまわっていたが、備後国太田と を埋めて、わめき叫んで攻め入った。城内の兵どもは、刀 ねら
いよのにゆうどう はあっても、後になり先になるお別れの時が、ついにし、 . てお心弱く思われてはならない。源氏の先祖、伊予入道 りさんきゅう よう げんそう おうしゅうえびすあべのさだとうむねとう すあるものです。あの驪山宮で七夕のタベ、玄宗皇帝と楊頼義は、勅命によって奥州の夷、安倍貞任・宗任を攻めよ きひ 貴妃がいつまでも夫婦の縁を結ばうと契ったのも、ついに うとして、十二年の間に人の首を斬ること一万六千人、山 語 かんせんでん 物は心を苦しめ乱す端緒となり、甘泉殿で漢の武帝が李夫人や野の獣、江や川の魚など、その命を絶っこと幾千万とい 家 の死後、姿を写して生前の愛情を持ち続けようとしたのも、 う数もわからないくらいだ。けれども臨終の時、一度求道 平 しようしばいせし 終りがないわけではない。松子・梅生という仙人も生命の 心を起したために、かねての往生の志を遂げたと承ってい とうがくじゅうじ ぶつばさっ 終る恨めしさがある。等覚・十地という仏菩薩もやはり生る。とりわけ出家の功徳は莫大だから、あなたの前世の罪 とう 死のおきてに従わねばならない。たとえあなたが長生きの はみなおなくなりになっただろう。たとえ人が、高さが朷 りてん 楽しみに得意でおられても、この死別のお嘆きはおのがれ利天に達するような七宝の塔を建てることがあっても、そ になることができない。たとえまた百年の寿命を保たれて の功徳は、出家を一日した功徳には及ばない。たとえまた らかん も、このお悲しみはただ同じことだと思われるべきだ。第百千年の間、百人の羅漢を供養した功徳も、一日の出家の 六天の魔王という邪道の者は、欲界の六天をわが物と思い 功徳には及ばないと経典に説かれている。罪深かった頼義 占領して、なかでもこの欲界の衆生が仏道に入り生死から も、求道の心が強かったために往生した。あなたはたいし 離れることを惜しみ、あるいは妻となり、あるいは夫とな た御罪がおありにならないだろうから、どうして浄土へお って、仏道に入るのを妨げる。そこで過去・現在・未来三 いでにならぬはずがあろう。そのうえこの熊野権現は本地 あみだによらい 世の諸仏はすべての衆生をわが子のようにお思いになって、 が阿弥陀如来でいられる。阿弥陀四十八願中の初めの三悪 極楽浄土の永住の地に勧誘して入れようとなさるが、その道をなくす願から終りの三種の法忍を得させる願に至るま 際妻子というものは遥か永遠の昔以来、衆生を迷わせ、生で、一々の誓願は衆生を教化済度する願でないものはない。 きずな せつがとくぶつじつばうしゅじようししんしんぎよう と死との世界に転々とさせる絆のようなものなので、仏はなかでも第十八願には、『設我得仏、十方衆生、至心信楽、 よくしようがこくないしじゅうねんにやくふしようじゃふしゅしようがく 厳重に妻子への愛情を戒めておられるのだ。だからといっ欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚』と説かれてい ばくだい