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検索対象: 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)
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1. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

皇の御代の天徳四年九月二十三日の午前零時頃に、大内裏 いないだろう。神鏡もまたそういう人の所におとまりにな の中の皇居に初めて火災があった。火は左衛門の陣から出るはずがない。上代はやはりめでたい世の中であった。 たので、内侍所の安置されておられる温明殿も近い距離で 語 ふみのさた 物ある。文字どおり夜中のことで、内侍も女官も来合せなか 文之沙汰 かしこどころ 家 ったので、賢所 ( 神鏡 ) をお出し申し上げることもできな 平 さねより ときただ よしつね 小野宮殿 ( 実頼 ) が急いで参内なさって、「内侍所はも 平大納言時忠卿父子も、九郎判官義経の宿所の近くにお はや焼けておしまいになった。世の中はもうこれでおしま られた。世間がこんなことになったからには、どうなって いだ」といって御涙を流しておられると、内侍所は自分で もしかたがないとお思いになるべきなのに、大納言はやは ししんでん ・こずえ ときぎね 炎の中をお飛び出しになり、紫宸殿の左近の桜の梢にかか り命が惜しく思われたのだろうか、子息の讃岐中将時実を っておられて、きらきらと光り輝いて、朝日が山の端を出呼んで、「よそに散らしてはならぬ手紙などを一箱、判官 よりとも るのを見るようである。その時小野宮殿は、「世はまだ滅 に取られているとのことだ。これを鎌倉の源二位頼朝に見 びなかったのだ」とお思いになると、喜びの御涙があふれられたなら、人も多く死に、自分の身も命が助かるまい そで 出ておとめになれない。右の御膝をつき、左の御袖をひろ どうしたらよかろう」と言われると、中将が申されるには、 げて、泣きながら申されたことは、「昔、天照大神が帝王「判官はだいたいのところ情けのある者だそうですし、そ 百代を守ろうとお誓いになった、そのお誓いがまだ変らな のうえ女房などがひたすら嘆願することを、どんな大変な いのなら、神鏡が実頼の袖におとまりください」とお申し ことでも聞き捨てにしないと承っています。何のさしつか になる御詞がまだ終らないうちに、神鏡は実頼の袖に飛び えがありましよう。姫君たちが大勢おられますから、中の あいたんどころ 移られた。すぐさま御袖に包んで、太政官の朝所へお移 一人を義経の妻になさって、親しくなられて後、手紙のこ し申される。近頃は温明殿に安置されておられる。今の世となどをおっしやったらよろしいでしよう」。大納言は涙 では、神鏡をお受け取り申し上げようと思いつく人も誰も をはらはらと流して、「自分が世に時めいていた時は、娘 ひざ

2. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

によう′一きさき だ」などといっていることを、源二位が漏れ聞いて、「こ どもを女御・后にもしようと思った。だが普通の人の妻に れはどういうことだ、頼朝がうまく取り計らって、軍兵を しようとは、全然思わなかったのに」といって泣かれたの で、中将は、「今はそんなことを、決してお望みになって上京させるからこそ、平家は容易に滅びたのだ。九郎だけ では、どうして世を鎮めることができよう。人がこういう はいけませんーといって、「今の北の方の姫君で十八にな のを聞いて得意になって、早くも天下を自分の思いのまま られる方を判官に見せては」と申されたが、大納言はそれ にしたのだな。人は多いのに、よりによって平大納一一 = ロ時忠 をやはり悲しいことに思われて、先妻の腹から生れた姫君 の婿になって、大納言を優遇しているというのも、承認で で二十三になられる方を、判官にはお見せになった。この きない。また世間にも遠慮せず、大納言が娘の婿取りをす 方も少し年とっておられたが、顔かたちが美しく、気だて るのも、理由のないことだ。鎌倉に下っても、義経はさだ もすぐれてやさしくおられたので、判官はたいそういとし かわごえのたろうしげより めし分に過ぎたふるまいをすることだろう」と言われた。 くお思い申して、もとからの妻の河越太郎重頼の娘もいた 斬けれども、この姫は別の所を立派にしつらえてそこに置き、 ふくしようきられ 被ちょうあい 副将被斬 将寵愛していた。それで女房 ( 時忠娘 ) が例の手紙のことを 一邑 言い出されたところ、判官は事もあろうに、手紙を入れた よしつね 同年五月七日、九郎大夫判官義経が、平氏の捕虜どもを 入れ物の封もとかず、さっそく時忠卿の所へ送られた。大 文納言はたいそう喜んで、すぐに焼き捨てられた。どんな手引き連れて、関東へ下向するという話が伝わったので、大 うわさ むねもり 臣殿 ( 宗盛 ) は判官の所へ使者を出して、「明日関東へ下向 一紙類だったのだろうか、中身が気になると世間では噂した。 と承りました。親子の情愛は断ち切れないことでございま 第平家が滅びて、早くも国々は鎮まり、人の往来するにも わらわ 巻 心配がない。都も平穏だったので、「全く九郎判官ほどのす。捕虜の中に八歳の童と帳面につけられておりました者 は、まだこの世に生きておりましようか。もう一度会いた 鎌倉の源二位頼朝は何事をしでかしたという 人まいよ、。 いものです」と言ってやられたところ、判官の返事には、 のか。天下はもつばら判官の思うままになってほしいもの

3. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

平家物語 316 よりとも ( 頼朝 ) の御代官として、院宣を拝承して、平家を追討す ろ ろかい るつもりだ。陸地は馬の足が行ける所まで、海は櫓や権の 逆櫓 届く間は、攻めて行こう。少しでも二心のある人々は、さ げんりやく くろうたいふのほうがんよしつね 元暦二年正月十日、九郎大夫判官義経は院の御所へ参っさとここから帰られるがよい」と言われた。 やすつね やしま って、大蔵卿泰経朝臣を通じて院に申し上げられるには、 さて八島では、月日が速くたってゆき、正月も過ぎ、二 「平家は神にも見放され申し、君にも見捨てられ申して、 月にもなった。春が暮れ草の茂る時も過ぎて、風の音に秋 おちうど 帝都を出、波の上に漂う落人となった。ところがこの三か が来たのを知って驚き、秋の風が吹きゃんで、やがて春を 年の間、攻め落さないで、多くの国々の交通をふさがれた 迎え、草が萌え出す。こうして春秋を送り迎えて、もはや こう きかいがしま ことは、残念ですから、今度義経としては、鬼界島・高三年になってしまった。都には、東国から新手の軍兵が数 うわ、 麗・インド・中国までも、平家を攻め落さない間は、王城万騎到着して、それが四国の方へ攻め下って来るとも噂が うすき へつぎまつらとう へ帰らない覚悟です」と、頼もしそうに言われたので、後 流れてくる。九州方面から臼杵・戸次・松浦党が心を合せ て渡って来るとも、みんなが話し合っている。あれを聞き、 白河法皇はたいそうご感心になって、「必ず、昼夜兼行で、 勝負を決するようにーと仰せ下された。判官はわが宿所に これを聞くにつけても、ただびつくりし、肝をつぶすより 帰って、東国の軍兵どもに言われるには、「義経が鎌倉殿ほかにすることがない。女房たちは女院・二位殿をはじめ さか 平家物語巻第十一 にト - ら・いん

4. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

そういうのをもって、よい大将軍とはするのです。一方に が、順風なのが多少強すぎたからといって、これほど重大 いのししむしゃ 訂ばかり偏して変えないのを、猪武者といって、よいことに な時機にどうして渡るのはいやだとは申すのだ。船を出さ かのしし はしない」と申すと、判官は、「猪だか鹿だか知らないが、 ぬのなら、奴らをいちいち射殺せ」と命じられる。奥州の 語 よしもり つぎのぶ 物戦はただひたすら攻めに攻めて、勝ったのが気持はよい 佐藤三郎兵衛嗣信、伊勢三郎義盛が一本ずつ矢をつがえ、 家 そ」と言われると、侍どもは梶原に恐れて高い声では笑わ進み出て、「どうしてあれこれ文句を申すのだ。君のご命 平 ないが、目つき鼻さきで知らせ合って、みんな騒々しい 令だから、さっさと船を出せ。船を出さぬのなら、いちい 判官と梶原と、いよいよ同士討ちがあるにちがいないと、 ち射殺すぞ」と言ったので、船頭・水夫はこれを聞いて、 がやがや言い合っていた。 「射殺されるのも船を出して死ぬのも同じことだ、風が強 だんだん日が暮れ、夜に入ったので、判官が言われるに いなら、ただ船をつつ走らせて死んでしまえ、者ども」と さかな そう は、「船が修理して新しくなったから、めいめい一品の肴、 いって、二百余艘の船の中で、ただ 五艘が走り出た。残り 一瓶の酒でお祝いなされ、殿方 , といって、酒肴の用意を の船は風に恐れるのか、梶原に対して恐れるかして、 ひょうろうまい するような様子で、船に武具を入れ、兵粮米を積み、馬ど みんな残っていた。判官が言われるには、「ほかの人が出 もを船中に立てさせて、「さっさと船を出せ」と言われた ないからといって、残留しているべきでない。波風の立た ので、船頭・水夫が申すには、「この風は追い風ですけれぬ普通の時は敵も用心するだろう。こんな大風大波で、誰 ど、普通以上の疾風です。沖はさぞかし吹いておりましょ も思いもよらない時に押し寄せてこそ、目ざす敵を討てる う。どうして船を出せましよう」と申すと、判官は大いに のだ」と言われた。五艘の船というのは、まず判官の船、 おば よどごうないただとし 怒って言われるには、「野山の果てで死に、海川の底に溺田代冠者、後藤兵衛父子、金子兄弟、淀の江内忠俊といっ おこな れて死ぬのも、みんなこれは前世で行ったことの報いだ。 て船奉行の乗った船である。判官が言われるには、「めい かがりび 海上に出て船で浮んでいる時、風が強いといってどうするめいの船に篝火をともすな。義経の船を親船として、その ともへ か。向い風なのに渡ろうというなら、それは不都合だろう艫・舳の篝火を目標にしてついて来いよ。火の数が多く見

5. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

( 原文二〇一ハー ) いくさ の戦でも、義経を簡単に討てる者は、日本国にいるとは思主君への忠誠のほどは非常に感心である。和僧、命が惜し いなら、鎌倉に帰してつかわそうと思うが、どうだ」。土 われないものを」といって、たった一騎で大声をあげてお 佐房は、「不都合なことを言われるものですな。命が惜し 駆けになると、五十騎ほどの者どもは中を開けて通した。 いと申したら、殿はお助けくださるのですか。鎌倉殿の、 そうするうちに、江田源三、熊井太郎、武蔵房弁慶など ねら という、一人当千の兵どもが、すぐに続いて攻め戦う。そ『法師だけれども、お前こそ義経の命を狙える者だ』とい う御ことばをいただいてより、命は鎌倉殿に差し上げたの の後、侍どもが、「お邸に夜討ちが入った」といって、あ そこの屋形、ここの宿所から駆けつける。間もなく六、七だ。どうしてそれをお取り返し申すことができよう。ただ ご恩には、さっさと首をお斬りくださいますよう」と申し 十騎が集まったので、土佐房は勇敢に攻め寄せたけれども、 たので、「それならば斬れ」といって、六条河原に引き出 戦うまでもなく、さんざんに駆け散らされて、助かる者は して斬ってしまった。昌俊を褒めない人はなかった。 少なく、 討たれる者が多かった。昌俊はやっとのことでそ 、一も くらまやま こを逃げて、鞍馬山の奥に逃げ籠ったが、鞍馬は判官がも ほうがんのみやこおち といた山であったので、そこの法師が土佐房を捕えて、次 判官都落 」う・しレう の日に判官のもとへ送った。僧正が谷という所に隠れてい ぞうしき さて足立新三郎という雑色は、「この男は低い身分であ 都たとかいうことである。 すっちょうどきん かちひたたれ るけれども、非常に気のきく男です。召し使いなされ」と 判判官は昌俊を大庭に引き据えた。褐の直垂に、首丁頭巾 いうことで、頼朝が判官義経のもとに差し出されたのだが、 一一をしていた。判官が笑って言われるには、「どうだ和僧、 第起請文の罰が当ったな」。土佐房は少しも騒がず、すわり内々、「九郎のふるまいを見て、自分に知らせよ」と頼朝 巻 は言っておられた。昌俊が斬られるのを見て、新三郎は夜 なおして、からからと笑って申すには、「ないことをある も昼も休まずに鎌倉に駆け下り、鎌倉殿にこのことを申し ことのように書きましたので、それで罰が当ったのです」 のりより たので、頼朝は舎弟三河守範頼を、討手として上京おさせ と申す。「主君の命令を重んじて、自分の命を軽んずる。

6. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

かえって悪かろう。お前を上京させるから、寺に参詣する集もしないのに、大番衆の者どもが、これほど騒ぐはずが きしようばうし しわざ ふりをして、だまして討て』と、仰せ付けられたのだろうありましようか。ああこれは昼の起請法師の仕業と思われ ろくはら な」と言われると、昌俊はたいへんに驚いて、「なんで現ます。人を出して様子を見せましよう」といって、六波羅 語 かぶろ 、ト - 私・り 物在そんなことのあるはすがありましようか。少しばかり年の故入道相国 ( 清盛 ) の召し使っておられた禿髪を三、四 家 来の願いごとがあって、熊野参詣のために上京したのでご人使っていられたが、それを二人使いに出したところが、 平 かげとき 時間がたっても帰らない。かえって女ならば無難だろうと ざいます」。その時、判官の言われるには、「景時の讒言に よって、義経は鎌倉にも入れてもらえず、鎌倉殿は御対面思って、召使いの女を一人見に行かせた。間もなく走り帰 さえもなさらずに、私を京に追い上らせられることはどう って申すには、「禿髪と思われる者は二人とも、土佐房の くら 門の所で斬り伏せられております。宿所には鞍を置いた馬 してだ」。昌俊は、「そのことはどうでしようか存じません をびっしりと引っ立てて、大幕の内には、矢を背負い弓を ムこ艮っては全く、いにやましいものがございません。 よろいかぶと きしようもん 張り、兵士どもがみな鎧・甲をつけて、今すぐ攻め寄せよ 起請文を書き差し出しましよう」ということを申すので、 - ものもう うと身支度しております。少しも物詣での様子とは見えま 判官は、「どちらにしても鎌倉殿によいと思われ申しては いないのだ」といって、非常に機嫌の悪い様子になられる。せん」と申したので、判官はこれを聞いて、すぐに出立な きせなが たかひも 昌俊は、当座の災いを逃れようとするために、その場で七さる。静は着背長を取って着せかけ申し上げる。高紐だけ の を結んで、太刀を取ってお出になると、中門の前に馬に鞍 枚の起請文を書いて、あるいは焼いて呑み、あるいは社に 奉納などして許されて帰り、大番衆に触れまわして、そのを置いて引っ立てた。これに乗って、「門を開けろ」とい って、門を開けさせ、敵の来るのを今か今かとお待ちにな 夜すぐに攻め寄せようとする。 いそのぜんじ っていると、しばらくして、みな鎧・甲をつけた四、五十 判官は磯禅師という白拍子の娘静という女を最も愛して とき あぶみ いられた。静も判官のそばを離れることがない。静が申す騎が門の前に押し寄せ、鬨の声をどっとあげた。判官は鐙 には、「大路は武者でいつばいだそうです。こちらから招をふんばって立ち上がり、大声をあげて、「夜討ちでも昼

7. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

おおなぎなたさや られた。総じて威風堂々として他を寄せつけぬ様子に見え いかもの作りの大太刀を抜き、白木の柄の大長刀の鞘をは た。恐ろしいなどということばではとても言い尽せないほ すして、左右に持って振りまわして行かれると、面と向う とも 者はない。多数の者どもが討たれてしまった。新中納言知どである。能登殿は大声をあげて、「我こそはと思う者ど もり もは、寄って教経に組んで生捕りにしろ。鎌倉へ下って、 盛が使者を出して、「能登殿、あんまり罪作りなことをな さるな。そんなことをしたとて、それほどたいした敵でも頼朝に会って、何か一言一言おうと思うのだ。さあ寄って来 、寄って来い」と言われるが、近寄る者は一人もなかっ あるまいに」と言われたので、「それでは大将軍に組めと いうんだな」と心得て、刀の柄を短めに持って、源氏の船 あきのごう ところで土佐国の住人で、安芸郷を支配していた安芸大 に次々に乗り移り、大声で叫んで攻め戦った。判官を見知 さねみつ さねやす っておられないので、武具の立派な武者を判官かと思い目 領実康の子に、安芸太郎実光といって、三十人力をもった 大力の剛の者がいた。自分に少しも負けないくらいの郎等 がけて、駆けまわる。判官も自分をねらうのだととっくに が一人おり、彼の弟の次郎も普通以上の強剛の者である。 心得て、前面に立つようには見せかけたが、あれこれかけ その安芸の太郎が能登殿のご様子を見て申すには、「どん 違って、能登殿にはお組みにならない。けれどもどうした なに勇猛でいらっしやっても、我ら三人が取り付いたら、 期のか、判官の船にうまくぶつかって乗り込み、やあと判官 たとえ背丈十丈の鬼でも、どうして従えられないことがあ 殿を目がけて飛びかかると、判官はかなわぬと思われたのだ 登 ろうか」といって、主従三人が小船に乗って、能登殿の船 能ろうか、長刀を脇にはさみ、二丈ばかり離れていた味方の し - 一ろ の横に並べ、「えいつ」と言って乗り移り、甲の錣を斜め 一船に、ゆらりと飛び乗られた。能登殿は早業では劣ってお にうつむけ、太刀を抜いていっせいに討ってかかった。能 第られたのだろうか。すぐさま続いてもお飛びにならない。 巻 今はもうこれまでだと思われたので、太刀・長刀を海へ投登殿はちっともお騒ぎにならず、まっ先に進んだ安芸太郎 くイ」ず・り の郎等を、裾と裾とを触れ合せながら、海へどぶんと蹴込 げ入れ、甲もぬいでお捨てになった。鎧の草摺を放り出し、 胴だけ着て、ざんばら髪になり、大手をひろげて立っておんでしまわれる。続いて近寄る安芸太郎をつかまえて、左 っ ) 0 すそ

8. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

みちのぶ いよのくに た。また伊予国の住人、河野四郎通信が、百五十艘の兵船 とりあわせだんのうらかっせん に乗り、連れ立って漕いで来て、源氏と合流してしまった。 鶏合壇浦合戦 判官はあれやこれやで頼もしく、カがついた気持がなさっ すおう よしつね た。源氏の船は三千余艘、平家の船は千余艘で唐船が少々 さて九郎大夫判官義経は、周防の地におし渡って、兄の ながとのくにひくしま みかわのかみのりより 三河守範頼と合体した。平家は長門国引島に到着した。源まじっていた。源氏の軍勢がふえると、平家の軍勢は減っ あわのくに てゆく。元暦二年三月二十四日の午前六時頃に、門司と赤 氏は阿波国勝浦に着いて、八島の戦いに勝った。平家が引 うわさ 間の関で、源平の矢合せと定めた。その日、判官と梶原と 島に着くという噂が伝わったら、源氏は同じ長門国の内の があやうく同士討ちをしようとすることがあった。梶原が 追津に着くのは不思議なことである。 かげとき たんぞう 申すには、「今日の先陣を景時におさせください」。判官は、 熊野別当湛増は、平家へ参るべきか、源氏へ参るべきか いまぐまの みかぐら と迷って、田辺の新熊野で御神楽を奏して熊野権現にお祈「義経がいないのならとにかく、いるのだからな」。「それ はよろしくありません。あなたは大将軍でいらっしゃいま り申し上げる。すると、「白旗に付け」とご託宣があった す」。判官は、「思いも寄らないことだ。鎌倉殿こそ大将軍 戦が、なおも疑わしく思って、白い鶏を七羽、赤い鶏七羽、 、、つ ) 0 義経は奉行を承っている身だから、ただあなた方と同 浦この二つを出して権現のご神前で勝負をさせた。ところが 壇 じことだそ」と言われるので、梶原は先陣を希望しかねて、 赤い鶏は一羽も勝たず、みんな負けて逃げてしまった。そ 合 「生れつきこの殿は武士の主にはなれない人だ」とつぶや 鶏こでいよいよ源氏方へ加わろうと決心したのであった。 いた。判官はこれを聞きつけて、「日本一のばか者だな」 門の者どもを召集し、すべてでその軍勢二千余人が、二百 にやくおうじ といって、太刀の柄に手をおかけになる。梶原は、「鎌倉 第余艘の船を連ねて乗り出し、若王子のご神体を船にお乗せ 殿のほかに主人を持っていないのだから」といって、これ 申し上げ、旗の上端の横木には金剛童子をお書き申して、 かげすえ も太刀の柄に手をかけた。そのうちに嫡子の源太景季、次 壇浦へ寄せるのを見て、源氏も平氏も共に拝んだ。けれど かげいえ かげたか もその船は源氏の方へ付いたので、平家は興ざめに思われ男平次景高、同三郎景家が父と同じ所に寄り集まった。判 つか

9. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

( 原文九五ハー ) えたら、敵が恐れてきっと用心するだろう」といって、夜てしまった。判官は水際につっ立って、馬の息を休ませて おられたが、伊勢三郎義盛を呼んで、「あの敵勢の中に適 通し走ったので、三日かかるところをたった六時間ぐらい 当な者がいるか。一人召し連れて来い。尋ねたいことがあ で渡った。二月十六日 ( 十七日 ) の午前二時頃に渡辺・福 る」と言われると、義盛は謹んで御ことばを承り、ただ一 島を出発して、翌日の午前六時頃に、阿波の地へ風に吹き 騎敵の中へ駆け入って、何と言ったのだろうか、年齢四十 つけられて到着した。 かぶと くろかわおどしよろい ばかりの男で、黒革縅の鎧を着た者を、甲をぬがせ、弓の かつうらつけたりおおぎかごえ 弦をはずさせて、連れて参った。判官が、「何者だ」と言 勝浦付大坂越 ちかいえ われると、「当国の住人、坂西の近藤六親家ーと申す。「何 なぎさ 、、豈・甲などをぬがせるな。すぐさま八 夜がすでに明けたので見ると、渚に赤旗が少々、ひらめ家でもかまわなし金 いている。判官はこれを見て、「ああ、我々を防ぐ準備は島の道案内に連れて行こうぞ。その男から目を離すな。逃 げて行ったら射殺せ、者ども」と命令なさった。「ここを していたのだな。船を岸にびったり着け、船ばたをかしが どこと一言うのだ」と判官が尋ねられたところ、「かっ浦と 越せて馬を降ろそうとするなら、敵の的になって射られてし 申します . という。判官は笑って、「お世辞だな」と言わ 大まうだろう。渚に着かぬうちに、馬どもを追い降ろし追い くら 降ろし、船に引きつけ引きつけ泳がせろ。馬の足場が、鞍れると、「たしかに勝浦です。下郎が言いやすいので、か つらと申しますが、文字では勝浦と書いています、と申す。 の下端が水にひたるくらいになったら、次々に急いで乗っ 一て馬を走らせろ、者ども」と命令された。五艘の船に武具判官は、「これをお聞きなされ、殿方。戦争をしに向う義 この辺に平家の味 経が、かっ浦に着くとは全くめでたい。 第を入れ、兵粮米を積んであったので、馬はただ五十余匹だ あわのみんぶ 巻 け乗せていた。渚近くなったので、次々に乗って、わめき方をして源氏に後ろ矢を射そうな者はないか」。「阿波民部 しげよし 一くらばのすけよしとお 重能の弟、桜間介能遠という者がいます」。「さあそれなら、 四叫んで馬を駆けさせると、渚に百騎ばかりいた者どもは、 蹴散らして通ろう」といって、近藤六の軍勢百騎ほどの中 しばらくの間も支えきれず、二町ばかりざざっと引き退い つる

10. 完訳日本の古典 第45巻 平家物語(四)

えおほなぎなたさや 三あんまり人を殺して、罪作り ぬき、しら柄の大長刀の鞘を 水をなさるな。つまらぬ殺生などし さう 入 て、ひどく罪を作るようなことを はづし、左右にもッてなぎま 共 なさるな。 一三そう ( そんなことをした ) とい はり給ふに、おもてをあはす っ って、よい ( それにふさわしい立 み 挟派な ) 敵か ( それほどでもないの る者ぞなき。おほくの者ども 弟に ) 。「さりとて」は、そんな罪作 しんぢゅうなごん 郎 りな殺生をしたといって、したと うたれにけり。新中納言使者 太 ころで、の意。屋代本「サレバト 芸 のとどの一ニ 安 テ可然者共ニテモナシ」、熱田本 をたてて、「能登殿、 サレ、 経「佐ドテ吉キ敵力」、元和版「サリ ョキカタキ トテハ好敵カハ」。 罪なっくり給ひそ、さりとて 一四「組めにこそあるなれ」の転。 うちもの よきかたきか」と宣ひければ、さては大将軍にくめごさんなれと心えて、打物組めというのだな。 くきみじか 一五茎短に。柄を短く持っこと。 くきみじかにとッて、源氏の舟に乗りうつり乗りうつり、をめきさけんでせめ一六前もって承知していて。 宅教経の正面に立つようには 期 もののぐ ( 見せかけ ) 行動したが。 殿たたかふ。判官を見知り給はねば、物具のよき武者をば判官かとめをかけて、 天元和版・熱田本など「シ給ヒ 能 はせまはる。判官もさきに、いえて、おもてにたっ様にはしけれども、とかくちケレドモ」と敬語を入れる。 一九あれこれかけ違うようにして。 第がひて能登殿にはくまれず。されどもいかがしたりけむ、判官の舟に乗りあた = 0 乗 0 たらちょうど判官の船だ った、の意。行き当って、に近し 巻 半官かなはじとや思はれけん、長三二丈 ( 約六 ) ばかり離れてい ッて、あはやと目をかけてとんでかかるに、リ た ( 味方の舟 ) に。 1 なた 刀脇にかいはさみ、みかたの舟の二丈ばかりのいたりけるに、ゆらりととび乗 = = 軽く身を動かすさま。 九 たいしゃうぐん一四 ゃう なぎ