みちもりただのりつねとしともあきらあつもりなりもりもりとし えられ、平通盛、忠度、経俊、知章、敦盛、業盛、盛俊ら 平家の武将の首は、京の八条河原で獄門にかけられるとい よしつね う無惨な有様であった。難攻不落の一谷の堅塁が、義経の ひょどりごえ 鵯越の奇襲に崩壊したとき、平氏の誇る水軍はもはや敗 走の手段としかなり得なかった。とは言え、源氏が水軍を もたなかったために、平氏はかろうじて八島 ( 屋島 ) に逃 れることができたのも事実であった。 それから一年、義経は陣取る平氏を再び急襲してその地 ~ 培一浦ー、古典文学散歩ーー を占拠し、平氏を西の海に敗走させる。 その後わずか一か月、内海水軍を従わせ、熊野水軍を配 柳瀬万里 下においた源氏と逃げる平氏の勢力は一転し、攻守ところ だんのうら 元暦二年 ( 一一会 ) 三月二十四日、源平最後の決戦は壇浦を替えての壇浦の海戦となったのである。 その壇浦の古戦場は山口県下関市壇之浦町にある。 の海峡に火蓋を切った。 とも - もり からと ひくしま 平氏は、平知盛を中心に、彼の領地である長門国引島下関駅からバスで唐戸魚市場の前を通って十分あまり、 ( 現在の彦島 ) に千余艘の勢力を結集、これに対して追跡すみもすそ川公園で降りる。船の形をデザインした「壇の浦 まんじゅ る源氏の軍勢は三千余艘、すでに追津 ( 現在の満珠島 ) に至古戦場址」の碑が、敷きつめられた石畳の上に建てられて っていた。 いる。ここから見渡せる一帯の海が壇浦の古戦場である。 対岸の門司までは二キロ、ビルの窓の数もおおよそは数え 源氏の勢はかさなれば、平家の勢は落ちぞゆく。 られる距離である。 と『平家物語』 ( 本書一一一一ページ七行 ) は記す。 かんもんきよう 壇浦合戦の一年あまり前の寿永三年 ( 一八会 ) 二月、平氏右手に、その門司と下関をつなぐ東洋一の吊橋、関門橋 しげひら いちのたに は一谷の敗戦によって致命的な打撃を受ける。平重衡は捕が優美な曲線を大きく描いている。一万四千本あまりの素 第菊巻平家物語四 日本の古典月報 ・昭和年 3 月引日
( これが最後と、別れて行こうとすると、露のようにはかな い私の身が、あなたよりも先に消えてしまいそうです ) そうして女房は内裏へ帰られた。その後は守護の武士ど 語 物もが許さないので、しかたなく時々お手紙だけ通じていた。 家 この女房というのは、民部卿入道平親範の娘である。顔か 平 たちが非常にすぐれ、情愛の深い人である。それゆえ、の しげひら ちに三位中将重衡が奈良へ連れて行かれて、お斬られにな うわさ ったという噂が伝わって来たので、その時すぐさま姿をか え出家して、濃い墨染の衣を身につけ、すっかりやつれた 姿になって、重衡の後世の安楽・幸福を弔われたのは感慨 深いことであった。 やしまいんぜん 八島院宣 しげくにおつばめしつぎはなかた さて平三左衛門重国と御坪の召次花方とは、八島に参っ むねもり て院宣を差し上げる。大臣殿 ( 宗盛 ) 以下平氏一門の公 ぎようてんじようびと 卿・殿上人が集まられて、院宣をひらかれた。 かみごいちにん 上御一人が宮城を出て、諸国に行幸し、三種の神器が南 海・四国に埋れたように転々して数年たっている。なに よりも朝廷の嘆きの種であり、国の滅びるもとである。 文 ときただ 三位中将重衡も大臣殿 ( 宗盛 ) ・平大納言時忠の所へは、 院宣の内容を申される。母の二位殿へはお手紙をこまごま ( 原文一一七ハー ) むほん いったいあの重衡卿は東大寺を焼き滅ばした謀反の臣で よりとも ある。頼朝朝臣の申請しているとおり、当然死罪に行わ るべきであるが、一人だけ親類から別れて、現に捕虜に かご なっている。籠の鳥が雲を恋い慕うのと同様な重衡の思 いは、遥か千里も離れた南海に飛んでいるだろうし、春 故郷に帰る雁が友をなくしてひとりばっちのさびしい気 持は、きっと遠く隔たった途中の地 ( 八島 ) へ通ってい ることであろうか。それゆえ、三種の神器を宮中へ返納 申し上げるならば、あの重衡卿をお許しになるはすであ る。以上の次第で、院宣はこのとおりである。そこで取 り次ぐこと右のようである。 寿永三年二月十四日 なりただ 大膳大夫業忠が承って 進上平大納言殿へ と書かれてあった。 主月 1111 ロ ぶみ
逆櫓元暦二年 ( 一一会 ) 正月十日、義経院参、平氏追討の決意表明。八島では東西の攻勢に怯える。二月十三日官幣使派遣。 十六日平氏追討軍出港の際大暴風となる。逆櫓の可否で義経・梶原景時が激論。夜半義経は嵐の中を出発、十六日阿波着。 寺、くらばのすけよしとお 勝浦付大坂越義経は勝浦に着き桜間介能遠を討ち、徹夜で大坂越をし、十八日八島を攻めると、平氏はあわてて船で逃げる。 つぎのぶ のりつね 嗣信最期平氏は義経軍が少数と見て反撃に出る。佐藤嗣信が義経の身代りとなって、教経のために射殺される。 那須与一夕暮れ、平氏は一艘の船に美女を乗せ、扇の的を立て源氏を挑発。那須与一が選ばれ、決死の覚悟で扇を射落す。 かげ等一よ し・一ろ 弓流両軍あげての感動も一時で戦闘は再開。悪七兵衛景清はみをのや十郎の錣を引きちぎる。混乱の中で義経は弓を落し たが、強弓でないことを嘲笑されるのを恐れ、拾い上げて帰る。平氏は夜討ちをかけることもなく、みすみす勝機を失う。 のりよし 志度合戦翌日平氏は船で逃走。田内左衛門教能は伊勢義盛にだまされて降伏。一一十二日ようやく梶原らが八島着。都では、 住吉明神が平氏追討加護の兆を示したとの報告があった。 たんぞう 鶏合壇浦合戦熊野別当湛増は闘鶏により進退を占い、源氏に付く。伊予の河野通信も源氏に付く。三月二十四日、門司、 赤間関で決戦となるが、義経と梶原は先陣争いで危うく同士討ちをしそうになる。戦いが始まり平氏の勢いは盛んである。 遠矢和田義盛、新居紀四郎親清、浅利与一らが遠矢を競う。やがて源氏方に神の加護を示す奇瑞が現れた。 レ」ム - もり 先帝身投知盛が安徳天皇の船に敗戦を告げる。二位殿は幼帝を抱き、神璽・宝剣を携えて入水する。悲しい最期である。 能登殿最期建礼門院は捕えられ内侍所が源氏に渡る。潔い人々の中で宗盛父子は見苦しく生捕られ、万策尽き教盛は入水。 内侍所都入知盛も入水し戦闘終了。四月三日院に報告が届き、十四日捕虜は明石浦に着く。一一十五日内侍所・神璽が帰京。 すさのおのみこと やまとたけるのみこと 剣宝剣は神代以来の霊剣で素盞嗚尊が大蛇の尾から発見、日本武尊も用いた。今度失ったのは大蛇が奪還したともいう。 一門大路渡二宮も帰京。二十六日捕虜が入京。宗盛父子・時忠らは大路を渡される。宗盛父子は義経に預けられた。 鏡二十八日頼朝従二位。内裏に戻った内侍所は天照大神の形見で天徳四年 ( 九六 0 ) の火事の際飛び出し実頼が受けたという。 文之沙汰・時忠父子は義経に押収された不利な書類を取り戻すため、時忠の娘を義経に嫁がせる。頼朝は義経を不快に思う。 副将被斬 ' 五月七日に宗盛父子は関東下向と決る。宗盛は義経に頼み、子息副将と面会。翌日副将は斬られた。 ぎんげん 腰越宗盛は一一十四日鎌倉着。頼朝は梶原の讒言を信じ義経を腰越に追い返す。義経は心中を訴える状を大江広元に送る。 大臣殿被斬宗盛は頼朝に卑屈な態度を示す。義経は六月九日捕虜を連れ上京。宗盛父子は近江篠原で受戒の後、斬られる。 重衡被斬南都大衆の要求で重衡は奈良へ護送、途中で妻と対面後、阿弥陀にすがりつつ斬られる。妻も後を追い出家。 のりもり
線をより合せた主ケープル二本が、六車線の巨大な吊橋を源氏の満珠島が海上に浮いているはすである。 しも かみばんでん かいりゅうじん 支えているのだという。 上は梵天までもきこえ、下は海竜神もおどろくらんと すぐ北倶に、海抜一一六八メートルの火の山がお椀を伏せ そおばえける。 ( 本書一二三ページ一二行 ) たような形を見せている。ロープウェーで山頂に上ると眺という鬨の声があがり、戦いが開始されたのが正午、潮流 望が素晴しいと聞いたが、もう少し近くで海上を見たけれは東流して平氏に有利であった。午後三時、義経の防御の ば中腹の国民宿舎海関荘の玄関の前の広場がよいという。巧みさに平氏が勝機をつかみかねているうちに潮流はピタ すいしゅ そこまで登ってみた。午前中に京都を発ったが、その時、 リと静止し、みるまに逆流して西に向いはじめた。水手、 かんどり 時計はすでに午後四時近くをさしていた。 梶取を射て漕力を奪うという義経の奇襲は見事に的中し、 すおうなだひびきなだ 周防灘と響灘をつなぐこの海峡は海の難所である。しか午後四時頃には平氏の敗北は明らかになっていた。 し、驚くほど山々に囲まれている。稜線が幾重にも重なり こうして見ていると、現在も海上交通の要衝であるので、 そう 合っていて、その稜線が意外なほど丸みをおびている。ソ幾艘もの船舶が往き交う。平氏が一気に攻め落された時と 2 フトな山々が盆地のように壇浦を取り巻いているのである。同じく、潮は西に流れている。オレンジ色の船体にモンロ 山はそのまま海になだれ込んだように海岸に迫っていて、 ビアと大きく書いたタンカーも、東に向いてただ泊ってい そう言えば一谷にも似ている。 るだけのようにも見える。一見静穏な海面の下には、激し だがしかし、一谷は対岸がこんなにも近くはない。 い潮流が流れているのだ。ましてや、手漕ぎの船などひと きんだち 屋島から瀬一尸内を西へ西へと逃げのびてきた平氏の公達たまりもなかったであろう。 と女人たち。最後の拠点を彦島に定めたとき、逃走の疲労二位の尼に抱かれて水底に沈んだ安徳天皇の御陵は、壇 べにしやま を背負ったまま不利な戦いに臨まねばならなかった彼らの浦を見下ろす紅石山の麓に設けられている。東隣には安徳 眼に、この一見、袋小路のような海峡は、いかに映じたの天皇をまつる赤間神宮が朱色の華麗な姿を見せている。壇 けんれいも人いん はりまのくにあかしの であろうか 浦で捕えられた建礼門院が都に送られる途中の播磨国明石 うら ここから西に平氏の彦島を望むことができる。東方には浦で、昔の内裏よりはるかに立派な所に安徳帝はじめ一門 わん とき
ひとだね すだれ はちょう 八葉の車に乗ってであった。車の前後の簾を巻き上げ、左び人種が尽きてしまったほどだったが、それでもやはり生 かりぎぬ むわもり き残った人の数は多いのだなと思われた。平氏は都を出て 右の物見の窓を開いてある。大臣殿 ( 宗盛 ) は白の狩衣を ひたたれ きょむね から中一年たっているだけで、非常に間近いことだから、 着ておられた。その子右衛門督 ( 清宗 ) は白い直垂で車の しり ときただ 尻に乗っておられる。平大納言時忠卿の車が同じような様平氏の繁栄していたことも忘れることができない。あれほ ときざね ど人が恐れふるえていた平氏の人々の今日のみじめなあり 子で続いて進む。子息の讃岐中将時実も同じ車で大通りを 引き回されるはずであったが、 現在病気中とのことで引き さまを見て、夢か現実のことかも判じかねている。人情を そで のぶもときず 回されなかった。内蔵頭信基は傷を受けていたので、裏道解しない身分の低い賤男・賤女に至るまで、涙を流し、袖 な を濡らさない者はなかった。まして平氏の人に馴れ親しん から入った。大臣殿はあれほど華美できれいでいらっしゃ や だ人々が、どれほど多くの物思いをし、悲しんだことであ った人だが、それが別人のように痩せ衰えておられた。け ろう。長年重い恩恵を受け、父祖の時から伺候した連中が、 れども四方を見まわして、非常に田 5 いに沈んでいる様子も おありにならない。右衛門督はうつむけに臥して目もお上やはり自分の身を捨てきれないために、多くは源氏に付い おんぎ さねひらむくらんじ たけれども、昔の恩誼を急に忘れることができもしないの げにならない。土肥次郎実平は木蘭地の直垂の上に籠手や すねあて 渡臑当などの小さい武具だけつけて、付き従う軍兵三十余騎で、さそかし悲しく思ったことであろう。それゆえ袖を顔 に押し当てて、目を上げない者も多かった。 大を連れ、車の前後を囲んでお守り申し上げる。これを見る きそよしなか 大臣殿の御牛飼は、木曾義仲の院に参った時、牛車を走 人は都の中の人だけでなく、およそ遠く、近くの国々や山 らせ損なって斬られた次郎丸の弟、三郎丸である。西国で 一山寺々から、老人も若者も集まって来ている。鳥羽の南門 よっづか は童形をあらためて仮に成人の男になっていたが、もう一 第作り道、四塚までびっしりと人の群れが続いて、幾千万い るか数えられないくらいである。人は後ろを振り返って見度大臣殿の御車の牛飼を勤めようと思う気持が深かったの とねり で、鳥羽で判官に申すには、「舎人・牛飼などと申す者は、 5 ることができないし、車は輪をめぐらして進むことができ じしようようわききん ない。治承・養和の飢饉や、東国・西国の戦いで、人が滅つまらぬ下郎の末でございますから、人情・道理がわかる ふ ぎっしゃ
27 巻第十八島院宣請文 ( 現代語訳二八四ハー ) そもノ、かのしげひらのきゃう もっと なげきばうこくもとゐ もれて数年をふ。尤も朝家の歎、亡国の基なり。抑彼重衡卿は東大寺焼失裏をいう。 九宮中。延慶本・元和版「九禁」 よりとものあっそん ぎやくしん も同じ。 の逆臣なり。すべからく頼朝朝臣申し請くる旨にまかせて、死罪におこなは 一 0 延慶本「九州ニ遷幸シ」。 ろうてう おもひ いけ′」め・ しんぞく = 籠の鳥が雲を恋い慕うような るべしといへども、独り親族にわかれて既に生取となる。籠鳥雲を恋ふる思、 思いは、遥か遠く離れた四国 ( 南 きうちょうちゅうととう 遥かに千里の南海にうかび、帰雁友を失ふ心、定めて、九重の中途に通ぜん海 ) の海に行っているだろう。捕 虜の身で自由を望み、その心は平 かのきゃうくわんいう か。しかれば則ち三種の神器を返しいれ奉らんにおいては、彼卿を寛宥せら氏のいる屋島へ飛んでいるだろう。 『本朝文粋』巻六「平兼盛中二遠江駿 よっしったっくだんのごとし ていれば 河守等一状」に「只籠鳥雲ヲ恋フル るべきなり。者院宣かくのごとし。仍て執達如件。 ノ思アリ」。 だいぜんのだいぶなりただ じふしにち 一ニ幾重にも雲を隔てた途中の地 大膳大夫業忠が承り 寿永三年二月十四日 ( 屋島 ) 。九重を内裏とし、屋島の へいだいなごんどの 内裏をさすとする解もある。 進上平大納言殿へ 一三「といへれば」から出た「てへ れば」の転。記録・文書などに用 とぞ書かれたる。 いる語。それゆえ。以上の次第で。 一四それゆえ ( そこで ) 執達する ( 取り伝える ) こと、以上の通りで ある。公文書などの結びの慣用句。 一五↓ 3 九二ハ : 一行。延慶本「大 膳大夫大江業忠」。 一六平時忠。 宅主語は三位中将重衡。延慶本 「三位中将モ内大臣井ニ平大納言 おんふみ にゐどの おほいとのへいだいなごん 大臣殿、平大納言のもとへは、院宣の趣を申し給ふ。二位殿へは御文こまノ許へ院宣ノ趣申給フ」。 すねん 主月 一三ロ ぶみ 文 きがん ぜうしつ
大地震平氏滅亡後、元暦二年 ( 一一会 ) 七月九日大地震があり、被害が甚大であった。古来大地震の例は多いが、帝が都を さら 離れ海に沈み、大臣・公卿が斬られ晒されるという異常時の大地震は、怨霊のせいであろうと、人々は不安におののく。 どくろ もんがく 紺掻之沙汰八月二十二日、文覚が頼朝の父義朝の、真の髏髑を鎌倉に届ける。昔義朝が使っていた紺掻男が貰い下げ、東 山円覚寺に納めたものという。頼朝は供養のため勝長寿院を建立。朝廷からも、義朝の墓に内大臣正二位を贈る。 平大納言被流九月一一十三日、生き残った平氏の配流地が定まる。平大納言時忠は能登配流と決り、建礼門院に面会、別れ を悲しむ。時忠は往時は権勢盛んで思い切ったこともした人である。家族と別れを惜しんだ後、はるばる北国へ下る。 ぎんげん 土佐房被斬頼朝は梶原讒言のため義経を疑い、大騒動にならぬようにと土佐房昌俊にだまし討ちを命ずる。九月二十九日 昌俊京都着。義経に尋問されたが言い遁れ、夜討ちの準備を進める。義経は迎え討ち、捕えた昌俊に助命を断られて斬る。 ・一れト - ーし のりより 判官都落この報告が鎌倉に達し、範頼が義経討伐を命ぜられるが辞退し、ついに討たれる。義経は緒方維義を頼んで都落 ちを決意、十一月二日院参、九州は義経に従えとの下し文を賜り三日出発。太田頼基を討ち大物浦から船出せんとして暴 風に遭い諸地を転々、奥州へ向う。暴風は平氏怨霊のせいか。十一月七日北条時政入京、義経・行家ら追討の宣旨を賜る。 吉田大納言沙汰頼朝は吉田大納言経房を通じ、惣追捕使就任と反別に兵糧を供出させる権限を希望して許された。諸国に 守護・地頭が置かれることになる。吉田経房は源氏にもへつらわず、立派な人である。 もん - 一れもり 六代平氏の残党狩で維盛の子六代も北条が逮捕。母は嘆き斎藤五・斎藤六は六代に付き添う。乳母から助命を頼まれた文 覚は鎌倉へ出発。十二月十六日北条は六代を連れ下向。千本松原で六代を斬る寸前に使いが駆けつけ、赦免状を届ける。 泊瀬六代文覚は六代を引き取り翌年正月帰京、母に再会させる。北条は行家・義憲追討を命ぜられ、甥時貞に行わせる。 ひたちばう 行家は和泉国八木郷の隠れ家を発見され、常陸房に斬られる。義憲も追われ自害。常陸房は流罪になった後勧賞を蒙る。 六代被斬六代は文治五年 ( 一一八九 ) 出家。高野・熊野に亡父の跡を訪ねる。重盛の子忠房は紀伊国湯浅城に籠り、熊野別当 も攻めあぐむが、頼朝にだまされ投降、斬られる。藤原経宗の養子となった重盛の子宗実も俊乗房の所にいたが、頼朝か ら召され断食して死ぬ。建久元年 ( 一一九 0 ) 十一月頼朝上京、任官後直ちに辞退。同三年三月十三日後白河法皇崩御。同六 年三月大仏供養に頼朝上京の際、暗殺を図る者があったが失敗。法性寺辺にいた知盛の子知忠は同七年十月七日、攻めら れ自害。但馬国に隠れた越中次郎兵衛も捕えられ斬られた。文覚は後鳥羽天皇への謀反を企んだが、同十年正月十三日頼 朝の死後捕えられ隠岐へ流される。承久の乱後、天皇の隠岐遷幸は文覚の霊の業か。六代も斬られて平家の子孫は絶えた。 おき たんべっ
よしみを忘れぬ事は哀れなれども、思ひたっこそおほけなけれ。三日平氏とは九巻絹のような物【巻絹の類。 巻絹は巻いた絹の反物。 一 0 得と同じ。富・財産・利益。 是なり。 = 平正度の子孫、筑後守家貞 さんみのちゅうじゃうこれもりのきゃう ( ↓巻一「殿上闇討」 ) の子。 さる程に、小松の三位中将維盛卿の北の方は、風のたよりの事っても、 三貞能の兄、平田冠者家次 ( 尊 卑分脈 ) 。『玉葉』元暦元年七月八 たえて久しくなりければ、何となりぬる事やらむと、心苦しうぞ思はれける。 日条「家継法師 ( 平田入道ト号スル 月に一度なンどは必す音づるる物をと待ち給へども、春過ぎ夏もたけぬ。「一一一是ナリ ) 」、『山槐記』七月二十九日 条「平田入道 ( 貞能兄 ) 」 ( 延慶本同 位中将、今は八島にもおはせぬ物をと申す人あり」と聞き給ひて、あまりのおじ ) 、『吾妻鏡』八月二日条「平田太 郎家継入道」。伯父は兄の、定次 は家次 ( 継 ) の誤りであろう。 ばっかなさに、とかくして八島へ人を奉り給ひたりければ、いそぎも立ちかへ 一三近江源氏。末葉は末孫・末流。 つかひ 一四身の程をわきまえない、身分 らず。夏過ぎ秋にもなりぬ。七月の末にかの使かへりきたれり。北の方、「さ 不相応だ、の意。 おんい ていかにやいかに」と問ひ給へば、「『過ぎ候ひし三月十五日の暁、八島を御出一五この事件は史実によれば十数 日に及んだらしい。延慶本などに かうや も「三日平氏」という語は見えない で候ひて、高野へ参らせ給ひて候ひけるが、高野にて御ぐしおろし、それより 氏 一六元和版などここから「藤一尸」と おんみ なち ごせ 平 日熊野へ参らせおはしまし、後世の事をよく / 、申させ給ひ、那智の奥にて御身し、正節本はここから「藤戸」まで を「北方出家」とする。 とねりたけ ) と おんとも 宅あれこれして。いろいろ工夫 十を投げさせ給ひて候』とこそ、御供申したりける舎人武里はかたり申し候ひっ して。 一九 巻 れ」と申しければ、北の方、「さればこそ。あやしと思ひつる物を」とて、引天はたしてそうだった。案の定。 一九 ( 最近便りがないのは ) 変だと わかぎみひめぎみ きかづいてぞふし給ふ。若君、姫君も声々に泣きかなしみ給ひけり。若君の御思っていたのに。 おん みつかへいじ こと おき おん
つはもの 源氏の兵者ども弓手になしては射てとほり、馬手になしては射てとほり、あげ一敵船を左手にして ( 敵の右方 に出て ) 射て通り、右手にして ( 左 側に出て ) 射て通る。自由自在に おいたる舟のかげを馬やすめ処にして、をめきさけんでせめたたかふ。 間を通り抜け、攻め立てるさま。 語 つはもの 物後藤兵衛実基は、ふる兵者にてありけれ、 しいくさをばせず、まづ内裏に乱ニ老練な武士。 家 三かれら ( 源氏の勢 ) の髪の毛を けぶり おほいとのさぶらひ 平れいり、手々に火をはなツて、片時の烟と焼きはらふ。大臣殿、侍どもを召し一本ずつ分けて取 0 ても。髪の毛 の本数を全部合せても、の意。 そもど、 て、「抑源氏が勢いか程あるぞ」。「当時わづかに七八十騎こそ候らめ」と申す。四わが平氏の軍勢。 五能登守平教経。清盛弟の教盛 、 ) ころう 「あな心憂ゃ。髪のすぢを一すぢづつわけてとるとも、此勢にはたるまじかりの子。平氏きっての勇将。 六越中守 ( 越中前司 ) 平盛俊の子。 ける物を。なかにとりこめてうたずして、あわてて舟に乗ッて、内裏を焼かせ平家一門の侍大将として活躍。 五 セよみは高良本による。元和版 のとどの くカ コプネ 「小船」。コプネとよむか つる事こそやすからね。能登殿はおはせぬか。陸へあがツて一いくさし給へ」。 ^ 矢を射るのにちょうどよいく ゑっちゅうのじらうびやうゑもりつぎ せうしう とりの 「さ承り候ひぬ」とて、越中次郎兵衛盛嗣を相具して少舟共に取乗ッて、焼きらいの距離。矢の届く距離。射程 距離 そうもん はうぐわん はらひたる惣門の前のなぎさに陣をとる。判官八十余騎、矢ごろに寄せてひか九呼び名、通称。実名は本名。 一 0 言うのもおろかだ。 へたり。越中次郎兵衛盛嗣、舟のおもてに立ちいで、大音声をあげて申しける = そんなことがあった。前にあ ったのを思い出した時にいう語。 かいしや、つ けみやうじっ は、「名のられつるとは聞きつれども、海上はるかにへだたツて、その仮名実一 = 古活字本『平治物語』下、牛若 奥州下りの事「奥州の金商人吉次」。 みやうふんみやう たいしゃうぐんたれひと 名分明ならす。今日の源氏の大将軍は誰人でおはしますそ」。伊勢三郎義盛あ延慶本「鞍馬へ月詣セシ三条ノ橘 次ト云シ金商人ガ蓑笠粮料セヲウ せいわてんわう ゅませ出でて申しけるは、「こともおろかや、清和天皇十代の御末、鎌倉殿のテ陸奥へ具テ下タリシ童名舎那王 てんで ゅんで どころ へんし 四 このせい ひと おんすゑ だいり
しつのまにか。早くも。 たやすうほろびたれ。九郎ばかりしては争でか世をしづむべき。人のかくいふ一 ニ人は多くいるが、その中でよ へいだいなごん におごッて、いっしか世を我ままにしたるにこそ。人こそおほけれ、平大納言りによって。人は多いというのに。 語 三「もてなす」と同じ意。好遇 四 物の聟になツて、大納言もてあっかふなるもうけられず。又世にもはばからず、する。優遇する。熱田本「賞」。 家 「なる」は伝聞の助動詞。 さだ 平大納言の聟どりいはれなし。くだッても定めて過分のふるまひせんずらん」と 0 承知できない。「うく」は承認 する意。 ぞ宣ひける。 五娘の婿取りをするのも理由の ないことだ。 六鎌倉に下って来ても。 セ分に過ぎた振舞い 0 頼朝と義経の感情の疎隔には、 種々の事が介在していたと思われ ふくしゃうきられ るが、これもその一つである。義 副将被斬 経の情にもろい、大ざっぱな人柄 と頼朝の性格・自負とが、対蹠的 に描かれている。 おなじき ^ なぬかのひくらうたいふのはうぐわん 同五月七日、九郎大夫判官、平氏のいけどりども相具して、関東へ下向と ^ 「今暁、左馬頭能保、大夫尉 義経等東国一一下向ス。前内大臣父 おほいとの みやうにち きこえしかば、大臣殿判官のもとへ使者をたてて、「明日関東へ下向と承り候。子井郎従十余人相具ス云々。是配 流之儀ニ非ズ云々」 ( 玉葉・元暦二 九 わらは 恩愛の道は思ひきられぬことにて候なり。いけどりのうちに八歳の童とつけら年五月七日条 ) 。『吾妻鏡』に七日 出 ~ 示とある。 れて候ひし者ま、、 ↓一四〇ハー注四。 。しまだこの世に候やらん。いま一度見候はばや」と宣ひっか九 一 0 太郎重頼の子。埼玉県川越市 の住人。畠山氏の一族。 はされたりければ、判官の返事には、「誰も恩愛は思ひきられぬ事にて候へば、 むこ わが たれ くわぶん ど あひぐ