271 灌頂巻女院死去 人之披見、付属弟子之外者、雖為同朋井弟子、更莫令書取之、凡此等条々、 背炳誡之者、仏神三宝冥罰、可蒙厥躬而已 沙門覚一 ニ及バン歟。仍ッテ後証ニ備へン ガ為ニ、之ヲ書キ留メシムル所也。 ゅめゅめ 此本努々他所ニ出スペカラズ、又 他人ノ披見ニ及プペカラズ、付属 ノ弟子ノ外ハ、同朋井ニ弟子タリ ト雖モ、更ニ之ヲ書キ取ラシムル ナカレ。凡ソ此等ノ条々炳誡ニ背 ク者ハ、仏神三宝ノ冥罰、ソノ身 ニ蒙ル・ヘキノミ沙門覚一 応安四年は一三七一年。覚一はこ の年六月二十九日没 ( 常楽記 ) 。 かうむ かよ
よび後出の本文による。屋代本に 其ョリシテコソ、小烏ハ平家ノ宝ト成ケレ。 一七 は「丞」の左に「庄司イ」とある。版 すて くさののじよういふものやしなは クサ / 、シャウジ 兵衛佐頼朝ハ、山口ニ捨ラレタリシガ、東近江、草野丞ト云物ニ養レテ、御本「草野庄司」のほうがよいか。草 野を領した定康が氏寺大吉堂の天 だう 井に義朝父子を隠したことが『吾 堂ノ天井ニ隠レ居タリシ程ニ、頼朝ヲサナケレドモサカム \ シカリケレバ 一九 妻鏡』文治三年二月九日条に見え ッラノ . 、ヒトリ しのび しじゅら′ 倩独案ジケルニ、我隠レ忍テアリトモ、始終ハョモカナハジ、ツイニハ尋る。草野は滋賀県東浅井郡浅井町 の地。なお頼朝が庄司に助けられ とら ネ取レン、タトイ我身コソサテハットモ、源氏重代ノ剣ヒゲ切ヲ平家ニ取レンたことは幸若・いぶき」「文覚」 「一満箱王」にも見える。 おもひ 一 ^ 利ロ、賢明であったから。 事コソ心ウケレ、イカニシテカ隠スベキト思ツ、、草野ノ丞ヲカタライテ、 一九最後までは。結局は。 もちニ 0 このひごろたすけ しかるべく 「此太刀、尾張国マデ持テ下リテタビテンヤ。可然ハ、此日来扶ラレ奉ルモ前ニ 0 下ってくださるだろうか。 ニ一そうできるなら。できること ちぎり 世ノ契ニテコソ候ラメ、今ハ親トモコソ思イ奉レ。サレバ一向ニ憑ミ奉リ、加なら。屋代本に欠。そのほうがわ ニ三 かりやすい。五行後の「可然者・ : 」 ゃう あっただいぐじ 様ニ申候也。尾張国熱田ノ大宮司ハ、頼朝ガタメニハ母方ノ祖父也。ソレマデを言おうとして間に「此日来・ : 失 ワジト存候」が挿入されたものか。 まうさ しのび 一三ひたすら。いちずに。 此太刀ヲモチテ下リテ、被申レンズル様ハ、『頼朝ハシカ / 、ノ所ニ深ク忍テ ニ三頼朝の母は「熱田太宮司藤原季 ニ四 めしうしな 巻 範女」 ( 尊卑分脈 ) 。 候ガ、ツイトシテハカクルペシトモ覚へズ、タトイ頼朝コソ召失ワレ候トモ、 剣 語 一西終には、の意か、屋代本「終 あひかまへてあひかまへて ぞんじ しかるべくは ニ可遁トモ不覚候」。 家相構々々此太刀ヲ失ワジト存候。可然者熱田ノ社ニマイラセテ置イテタビ ニセ 平 ニ五決して決して。何としても。 もしせんまん いのチいき メグ 兵底本「社ノ」。屋代本による。 候へ。若千万ニ一、不思議ニテ、命生テモ候ハヾ、イクセヲへテモ廻リアイテ、 ニ八 毛屋代本・田中奎・千万ニ一モ」。 くさののじようやすくうけとり ニ〈底本「草ノ、丞」。 申シアヅカリ候ハン』ト申ペシ」トノ給へバ、草野丞、心安請取テ尾張国ニ まうす なり ニ六 たの とら か
一ニ誠に恐れつつしむこと。頓首 ・謹言などと共に手紙の終りに書 いて敬意を表す語。 戒文 0 院宣を承諾するか否かについて、 男女それぞれの考えが出されてい るが、その中に微妙な心の動きが さんみのちゅうじゃう一三 三位中将是を聞いて、「さこそはあらむずれ。いかに一門の人々わるく思見られることに注意したい。 しげひらのきゃう ひけんーと後悔すれどもかひぞなき。げにも重衡卿一人を惜しみて、さしも一三請文 ( 返書 ) の内容。 一四そうだろう。拒否したのはも おんうけぶみ わがてうちょうほうさんじゅじんぎ の我朝の重宝、三種の神器を返しいれ奉るべしともおばえねば、此御請文のおっともだという気持。 一五あれほど大切な。 もむきはかねてより思ひまうけられたりしかども、未だ左右を申されざりつる一六まだなんとも言って来られな かった間は。左右は、とかくのこ 程は、なにとなういぶせく思はれけるに、請文すでに到来して、関東へ下向せと、何かのこと。 一九 一セ気がかり・。 , つつと , っしノ、。 なん らるべきにさだまりしかば、何のたのみもよわりはてて、よろづ心ばそう、都天重衡が思っていられたが。正 いぶせ 節本では「人々内々鬱う思はれけ とひのじらう るに」と、人々の気持にしている。 文の名残も今更惜しう思はれける。三位中将、土肥次郎を召して、「出家をせば 一九何かの頼みもすっかり薄くな くらうおんぎうし さねひら 。いかがあるべき」と宣へば、実平此由を九郎御曹司に申す。院御って ( なくなって ) しまって。 十やと思ふま、 ニ 0 どうともこうとも取り計らお ・よめ・とも のち 巻しょ う、だが只今は、どうして許せよ 所へ奏聞せられたりければ、「頼朝に見せて後こそ、ともかうもはからはめ、 う、今は許せない、の意。 3 ただいま 只今はいかでかゆるすべき」と仰せければ、此よしを申す。「さらば年ごろ契 = 一長年師弟の契りを結んだ高僧。 なごり かい 一七 もん いまさう ゐんのご
九 きもたましひ ぎり、肝魂をくだけども、聖もいまだ見えず、使者をだにも上せねば、思ふうがない、思案が尽きる、の意。 「はかりは、際限、限度、の意。 一 0 斎藤五、斎藤六をさす。屋代 はかりそなかりける。是等大覚寺へ帰り参ッて、「聖もいまだのばり候はず。 本「斎藤五、斎藤六、二人ツレテ さう あかっきげかうつかまっ 北条も暁下向仕り候」とて、左右の袖をかほにおしあてて、涙をはら / 、と又大覚寺へ参リ」。 = 年長者であるような者。年長 ながす。是を聞き給ひける母うへの心のうち、いかはかりかはかなしかりけむ。者は思慮深く慎重に行動するとこ ろから、そういうしつかりした者 が連れて行ってくれと言ったもの。 「あはれおとなしやかならん者の、聖の行きあはん所まで六代を具せよといへ 三命乞いに成功して上京しよう という時に、その前に六代を斬っ かし。もしこひ , つけてものばらんに、き、きにきりたらんかなしさを、 てしまったら、その悲しさを、ど せむずる。さてとくうしなひげなるか」と宣へば、「やがて此暁の程とこそ見うしたらよかろう。 一三とりもなおさず。ちょうど。 おとのゐ いへのこらうどう えさせ給ひ候へ。そのゆゑは、此ほど御宿直仕り候ひつる、北条の家子郎等ど一四見えます。思われます。「さ せ給ふ」は六代に対する尊敬表現。 なごり あるい あるい も、よに名残惜しげに思ひ参らせて、或は念仏申す者も候、或は涙をながす者一五底本「御とのゐ」。よみは元和 版・正節本による。 一六そうでないように。何気ない も候」。「さて此子は何としてあるそ」と宣へば、「人の見参らせ候ときは、さ 代 ふうに。内の悲しさを外に表さな しように、平気をよそおうさま らぬゃうにもてないて、御数珠をくらせおはしまし候が、人の候はぬときは、 宅繰っていられる。数珠をつま 第御袖を御かほにおしあてて、御涙にむせばせ給ひ候」と申す。「さこそあるらぐりながら念仏をとなえているの 巻 - を一い , っ め。をさなけれども、心おとなしやかなる者なり。こよひかぎりの命と田 5 ひて、天そうであろう。それが当然だ。 一九以下、「さらぬゃうにもてな いとま してを受けていう。 いかに心ばそかるらん。『しばしもあらば、暇こうて参らむ』といひしかども、 おんそで これら おんずず 一七 一四
そ申しさぶらひつれ」。「いで / 、さらば行きむかひて尋ねむ」とて、つき出で一ついと出た。「出づ」を強めた もの。 ここち ・一のことば ぬ。此詞をたのむべきにはあらねども、聖のかくいへば、今すこし人の心地出ニ人間らしい気持。屋代本「少 シ心地出来テ」、延慶本「イサ、カ 語 物できて、大覚寺へかへり参り、母うへにかくと申せば、「身を投げに出でぬるナグサム心地シテ」。 家 ふちかは 三仏神に祈りつつ泣くさま。 平やらんと思ひて、我もいかならん淵河にも、身を投げんと思ひたれば」とて、 四「北の方と申すは、故中御門 事の子細を問ひ給ふ。聖の申しつるやうをありのままに語りければ、「あはれ新大納言成親卿の御娘なり」 ( 3 五 九ハー一一行 ) 。 五「腹」は、その人の腹から生れ こひうけて、今一度見せよかし」とて、手をあはせてぞ泣かれける。 る、その人を母親として生れる、 ろくはら 聖六波羅にゆきむかッて、事の子細を問ひ給ふ。北条申されけるは、「鎌倉の意。「あり」は、この世にある、 いる、の意。 六年もとっているそうだ。「お 殿の仰せに、『平家の子孫、京中におほくしのんでありと聞く。中にも小松三 四 となしかるなり」の音便。「なり」 なかのみかどしんだいなごん は伝聞の助動詞。 位中将の子息、中御門の新大納言の娘の腹にありと聞く。平家の嫡々なるうへ、 セ思いのほか。巻六「葵前」 ( 。、かにも尋ねいだして失ふべし』と、仰せを蒙ッて候一七〇ハー二行 ) に用例がある。 年もおとなしかんなり ^ どうともこうともしないで。 わか ひしが、此程すゑみ、のをさなき人々をば、少々取奉ッて候ひつれども、此若何もせすに。殺害せずにそのまま にしてあることをい , つ。 まかりくだ ぎみぎいしょ 九模様を織り出したものの上に 公は在所を知り奉らで、尋ねかねて既にむなしう罷下らむとし候ひつるが、思 さらに刺繍をして、模様を二重に きのふ ほかをととひ はざる外、一昨日聞き出して、昨日むかへ奉ッて候へども、なのめならずうっしたもの。 一 0 貫き入れて。手首にはめる、 / 、し , つおはす・る間、あまりにいとほしくて、いまだともか , つもし菶・らで、おき手にかけていることをいう。 いだ
者。 母うへ、めのとの女房、天にあふぎ地にふして、もだえこがれ給ひけり。 一 0 どのようにして殺すのだろう か。延慶本「イカニシテカハ失ワ 「此日比平家の子どもとりあつめて、水にいるるもあり、土にうづむもあり、 ムズラム」。 おしころし、さしころし、さまみ、にすときこゆれば、我子はなにとしてかう = 親子・夫婦間の情愛。 三底本「ひとひかたとき」。「ひ くび しなはんずらん、すこしおとなしければ、頸をこそきらんずらめ。人の子はめとひ」はヒトイとよむ。 一三頼りにしていた人。夫の維盛。 おんあい のとなンどのもとにおきて、時々見る事もあり。それだにも恩愛はかなしきな一四↓五三ハー注一 = 。 一五左右。前後。屋代本「左右」。 いはん ウラウへ らひそかし。況や是はうみおとして後、一日片時も身をはなたず、人のもたぬ熱田本「裏表」。 一六四段動国・慰む」の連用形。自 あさゆふふたりなか ものをもちたるやうに思ひて、朝夕二人の中にてそだてし物を。たのみをかけ分の心を慰める、自分の心が慰め られる、の意。 ふたり一五 宅二人の中の一人 ( 姫君 ) はいる し人にもあかで別れし其後は、二人をうらうへにおきてこそなぐさみつるに、 が、もう一人 ( 六代 ) はいない よるひる 一 ^ みとせ ひとりはあれどもひとりはなし。今日より麦よ、 : ゝ 彳。しカカせむ。此三年が間、夜昼一 ^ 平氏が都を落ち、維盛と別れ た寿永二年 ( 一一八三 ) 七月からこの文 きも、 : 一ろ 肝心を消しつつ、思ひまうけつる事なれども、さすが昨日今日とは思ひょらず。治元年 ( 一一会 ) 十二月までの二年六 代 か月間 くわんおん つひ 年ごろは長谷の観音をこそふかう頼み奉りつるに、終にとられぬることのかな一九前もって覚悟していたことだ が、そうはいってもやはり昨日今 ただいま 日レ」い , つよ , つに、、の日が皇・ / 、来 - 第しさよ。唯今もやうしなひつらん」と、かきくどき泣くより外の事ぞなき。さ 巻 ようとは思いもよらなかった。巻 夜もふけけれど、むねせきあぐる心地して、露もまどろみ給はぬが、めのとの一「祇王」 ( 田三二ハー七行 ) に類句が ある。 ニ 0 奈良県桜井市初瀬の長谷寺。 女房に宣ひけるは、「ただいまちッとうちまどろみたりつる夢に、此子が白い 一セ このひごろ ひとひかたとき ほか ウラウへ
いちにんよ り候へ。且つうは中将一人に余の子共、したしい人々をばさておばしめしかへす。ソレガシアノ人ヲソナタニ思 イ代エタ私はあなた故にあの人 させ給ふべきか」と申されければ、二位殿かさねて宣ひけるは、「故入道におを見放した」とある。 一三延慶本「又君達ヲモ世ニアラ しゅしゃうやう のち セバヤト思志ノ深サニコソ今マデ くれて後は、かた時も命いきてあるべしとも思はざりしかども、主上か様にい ナガラへテモ有ツレ」によれば、 おんこころぐる っとなく旅だたせ給ひたる御事の御心苦しさ、又君をも御代にあらせ参らせば平氏の公達で、そのほうがよく意 が通ずる。それが君になり御代と いちのたにいけどり なって天皇のことになってしまっ ゃなンど思ふゅゑにこそ、今までもながらへてありつれ。中将一谷で生取にせ たのであろう。本文の「君」は宗盛 のち られぬと聞きし後は、肝たましひも身にそはず、いかにして此世にて今一度あではあるまい。 一四胸がふさがって、つまって。 ひみるべきと思へども、夢にだにみえねば、し 、とどむねせきて湯水ものどへ入一五思いを晴しようもない。思い をめぐらしようもない、の意とも いよ / 、一五 れられず。今此文を見て後は、弥思ひやりたる方もなし。中将世になき物と解される。 一六同じ道 ( 冥途の旅路 ) に出かけ 一六 ふた ようと。死ぬことをいう。 聞かば、われも同じみちにおもむかんと思ふなり。二たび物を思はぬさきに、 宅重衡の捕えられたことで物思 いしたが、その死を知って、また ただわれをうしなひ給へ」とてをめきさけび給へば、まことにさこそは思ひ給 物思いをする、そうならぬ前に。 しん 文ふらめと哀れに覚えて、人々涙をながしつつ、一みなふしめにぞなられける。新天伏し目。二位殿に同情してう つむいたことをいう。 さんじゅじんぎ たてま ぢゅうなごんとももり一九 一九考えを述べ、諫めること。熱 + 中納一一 = ロ知盛の意見に申されけるは、「三種の神器を都へ返し入れ奉ッたりとも、 田本・元和版「異見」。 ゃうおんうけぶみ 巻 重衡をかへし給はらむ事ありがたし。只はばかりなくその様を御請文に申さるニ 0 むずかしい。めったにない。 一 = このこと ( 意見 ) がいちばんも っともだ。賛同する時の慣用句。 べうや候らむ」と申されければ、大臣殿、「此儀尤もしかるべし」とて、御請 きも ニ一もっと 一八
はうぐわん 一もう今はこれまでと。もう最 判官は佐藤三郎兵衛を陣のうしろへかきいれさせ、馬よりおり、手をとらへ 期だと。 て、「三郎兵衛、いかがおばゆる」と宣へば、息のしたに申しけるは、「いまはニ屋代本は「ナドカ此世ニ思置 語 ク事ナウテハ候・ヘキ」として、奥 州の母との再会と本文と同様な義 物かうと存じ候」。「思ひおく事はなきか」と宣へば、「何事をか思ひおき候べき。 家 経の出世とをあげている。 おんよ くちを 三君 ( 主君義経 ) がご出世なさる 平君の御世にわたらせ給はんを見参らせで、死に候はん事こそ口惜しう覚え候へ。 のを拝見しないで。 四 さ候はでは、弓矢とる者の、かたきの矢にあたツて死なん事、もとより期する四それ以外には。そのことがな ければ。 ところ なかんづく ごかっせん 処で候なり。就中に、『源平の御合戦に、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信といひける五覚悟する。 六底本「は」の右上に「ニ」とし、 さめきのくにやしま しゅうおんいのち たてま まつだい 者、讃岐国八島のいそにて、主の御命にかはり奉ッてうたれにけり』と、末代補入して「身には」とすべきことを 示す。身にとっては、の意。 めんばくめいどおもひで の物語に申されむ事こそ、弓矢とる身は今生の面目、冥途の思出にて候へ」と七言いも終らず。申すや否や。 ^ ひたすら衰弱する。どんどん 弱ってゆく。 申しもあへず、ただよわりによわりにければ、判官涙をはら / 、とながし、 おちい 九「陥る」。死ぬ。 このへん ておひ 一 0 供養のため、多人数で『法華 「此辺にたツとき僧ゃある」とてたづねいだし、「手負のただいまおちいるに、 経』一部を一日間に書き写すこと。 いちにちぎゃう きンぶくりん 一日経書いてとぶらへ」とて、黒き馬のふとうたくましいに、黄覆輪の鞍お = 金覆輪とも書く。屋代本「金 覆輪」。鞍の前輪・後輪の山形の ごゐのじよう たいふぐろ ふち いて、かの僧にたびにけり。判官五位尉になられし時、五位になして大夫黒と部分を金で縁どったもの。 一ニ↓八五ハー注一 0 。 ひょどりごえ おとと よばれし馬なり。一の谷の鵯越をもこの馬にてそおとされたりける。弟の四郎一三五位を大夫という。 一四↓ 3 二〇六ハー四行。 つはものども 兵衛をはじめとして、これを見る兵者共みな涙をながし、「此君の御ために命 0 源平の八島の合戦の一こまであ 六 おん
はうじん みやうが ずいぶんどうれい て死に候ひけるは、わが身の冥加と覚え候。随分同隷共にも芳心せられてこそする禁忌。出産して五十日目に五 十日の祝いをする。屋代本「忌」な ごりんじゅうおんとき まかり過ぎ候ひしか。されば御臨終の御時も、此世の事をばおばしめし捨てて、し。 一三「よくて」の音便。立派に死に いちじ おん ましたのは。 一事も仰せ候はざりしかども、重景御まへちかう召されて、『あなむざんや。 一四目に見えない仏神の加護をい 汝は重盛を父が形見と思ひ、重盛は汝を景康がかたみと思ひてこそすごしつれ。うが、ここは転じて、しあわせ、 幸福をいう。 ぢもくゆぎへのじよう ゃう 一五たいそう。「同隷」は同僚。 今度の除目に靫負尉になして、おのれが父景康をよびし様に召さばやとこそ思 一六親切や好意を受けて。 せうしゃうどの ひつるに、むなしうなるこそかなしけれ。相構へて少将殿の心にたがふな』と宅京官・外官 ( 地方官 ) の諸官職 を任命する儀式。 このひごろ 一九 こそ仰せ候ひしか。されば此日来は、いかなる御事も候はむには、見すて参ら一 ^ 左右衛門尉の別称。靫負は靫 ( 矢壺 ) を背負い弓矢を持ち、宮門 ニ 0 を守る者。 せて落つべきものとおばしめし候ひけるか。御心のうちこそ恥づかしう候へ。 一九それでは。前の維盛のことば 『此ごろは世にある人こそおほけれ』と仰せかうぶり候は、当時のごとくは源を受けていったもの。 ニ 0 気恥すかしい。相手が自分を のち けいべっ 氏の郎等共こそ候なれ。君の神にも仏にもならせ給ひ候ひなむ後、たのしみさ軽蔑しているのではないかと思っ 家 て、気がひける意。 をはり 出 まんねん せんねんよはひ 盛かへ候とも、千年の齢をふるべきか。たとひ万年をたもっとも、遂には終のなニ一現在のようでしたら。現在の 様子なら。現状では。 これ ぜんちしき 一三そのとおりです。「世にある + かるべきか。是に過ぎたる善知識、何事か候べき」とて、手づからもとどりき ( 時めく ) 人多く候なれ」の意 巻 もレ」 / 一り ッて、泣く / 、滝ロ入道にそらせけり。石童丸も是を見て、もとゆひぎはよりニ三元結、本結。髻を結んである 細い緒。 ニ四かわいがっておられたので。 髪をきる。是も八つよりつき奉ッて、重景にもおとらず不便にし給ひければ、 や たてま あひかま ふびん ニ四
平家物語 46 ちょうい な一け へ」と申しければ、千手酌をさしおいて、「羅綺の重衣たる、情ない事を機婦一「羅綺ノ重衣タル、情無キコ ねた くわんげん トヲ機婦ニ妬ム。管絃ノ長曲ニ在 ねた らうえい いちりゃうへん を れいじん ル、関へザルコトヲ伶人ニ怒ル」 に妬む」といふ朗詠を一両返したりければ、三位中将宣ひけるは、「此朗詠せ ( 和漢朗詠集下・管絃菅原道真 ) 。 いちにち ん人をば、北野の天神一日に三度かけッてまばらんとちかはせ給ふなり。され羅は薄い絹、綺は細い綾。薄く軽 五 い衣でも重いと感じ、これを織っ しげひら このしゃう じよいん ぎいしゃうかろ た機織りの女を情けないといって ども重衡は、此生にてはすてられ給ひぬ。助音しても何かせん。罪障軽みぬべ 憎む。管絃の曲が長いので早く終 せんじゅのまへ えないかと楽人に対して怒る。 き事ならばしたがふべし」と宣ひければ、千手前やがて、「十悪といへども引 ニ北野天満宮の祭神、菅原道真。 ぜふ みだみやうがう 摂す」と云ふ朗詠をして、「極楽ねがはん人はみな、弥陀の名号唱ふべし」と三元和翔デ」。空高く飛ぶ意。 四天神から捨てられ申した。 いまやう いふ今様を四五返うたひすましたりければ、其時盃をかたぶけらる。千手前「給ふ」は天神に対する敬語であろ う。屋代本「早捨終ラレ奉リヌ」の 給はツて、狩野介にさす。宗 ごとく「奉る」とあるべきところ。 なお「られ」を尊敬とし「天神がお 茂がのむ時、琴をぞひきすま る見捨てになった」とも解される。 五発声の人の後について、二句 面 対 したりける。三位中将宣ひけ一 目から合唱すること。 いへど しつぶう 朝六「十悪ト雖モ猶引摂ス、疾風 うんぶ ひら るは、「此楽をば普通には五 ノ雲霧ヲ披クョリモ甚シ」 ( 和漢朗 重詠集下・仏事具平親王 ) 。たとえ . しわ、うらく 常楽といへども、重衡が為に 十悪を犯した者でも阿弥陀仏は極 着楽浄土に引き取ってくださる。そ ′一しゃうらく は、後生楽とこそ観ずべけれ。 倉の速さは疾風が雲霧を吹き払うよ りも速やかである。↓三六ハー注九。 わうじゃうきふ やがて往生の急をひかん」と 七雅楽曲名。虞韶楽の転という。 このがく 四 しやく 4 さかづき はたお ぐーしようらく