って見ると、白旗が雲のように掲げられている。「この山刀の痕が、今でも残っていると聞いている。平家の方で がんせき かずさのたいふのほうがんただつなひだの は四方が巌石であるそうなので、搦手にはよもやまわるま は、最も頼りにされていた上総大夫判官忠綱・飛騨大夫判 かげたか ひでくに いと思っていたのに、これはどうしたことだ」といってみ官景高・河内判官秀国もこの谷に埋って死んでしまった。 びっちゅうのくに せのおの かねやす な騒いでいる。そうしているうちに、木曾殿は大手から鬨備中国の住人瀬尾太郎兼康という有名な大力の持主も、 なりずみ の声を搦手に合せてあげられる。松長の柳原、ぐみの木林そこで加賀国の住人倉光次郎成澄の手にかかって生捕りに ひうちがじよう へいせんじのちょうりさいめい される。越前国火打城で裏切りをした平泉寺長吏斎明威儀 に一万余騎で待機していた部隊も、今井四郎の六千余騎で し ひのみやばやし 日宮林にいたのも、同じように鬨の声をあげた。前と後ろ師も捕えられた。木曾殿は、「あんまり憎いから、その法 と、四万騎のあげる叫び声は、山も川もただ一度に崩れる師を最初に斬れ」といって斬ってしまわれた。平氏の大将 これもりみ亠つもり ように聞えた。義仲の計画どおり、平家はだんだんと暗くの維盛・通盛は危ういところで命拾いして加賀国へ退却す ひきよう はなる、前と後ろとから敵は攻めて来る。「卑怯だぞ、引 る。七万余騎の中からわずかに二千余騎が逃げた。 しゅんめ おうしゅうひでひら き返せ引き返せ」という者も多かったけれども、大軍が崩 翌十二日、奥州の秀衡のもとから木曾殿へ駿馬二匹をお くろっきげ れんぜんあしげ れてしまうと、簡単に取って返すことがむずかしくて、倶贈りする。一匹は黒月毛、一匹は連銭葦毛である。木曾殿 かがみくら はくさんやしろじんめ 梨迦羅が谷に我先にと馬を下らせた。まっ先に進んだ者が はすぐにこの二匹に鏡鞍をつけて白山の社へ神馬として奉 見えないので、この谷の底に道があるにちがいないと思っ納された。木曾殿の言われるには、「今は何も心にかかる くらんどどのしお ことはない。ただし十郎蔵人殿の志保の合戦が心配だ。さ 黶て、親が馬を下らせると子も馬を下らせ、兄が馬を下らせ よ ると弟も続く。主が馬を下らせると、家子・郎等も馬を下あ行って見よう」といって、四万余騎の中から馬や人を選 ひみ ) ・みなと りすぐって二万余騎で急ぎ向う。氷見の湊を渡ろうとする 第らせた。馬には人、人には馬、人馬が落ち重なり落ち重な 巻 と、ちょうど満潮で水が深いか浅いかわからなかったので、 って、あれほど深い谷全部を平家の軍勢七万余騎で埋めて くらづめ しまった。岩間を流れる泉は血を流し、死骸は積み重なっ鞍をつけた馬を十匹ほど水中に追い入れた。鞍爪が水につ て丘をなした。そのために、その谷のあたりには、矢の穴、 く程度で馬は無事に対岸に着いた。木曾は「水は浅かった いえのこ しがい あと
おなじき のりよりよしつね 一『史記』項羽本紀「今釈シテ撃 たされけり。同廿五日、樋口次郎遂に切られぬ。範頼、義経ゃう / 、に申さ タズ、此レ所謂虎ヲ養ヒテ自ラ患 たてねのゐ ひと ヲ遺ス者也」。害をなす者を放置 れけれども、「今井、樋口、楯、根井とて、木曾が四天王のその一つなり。こ して、のちに難を招くことをいう。 語 ゃうこ うれへ こと一た 物れらをなだめられむは、養虎の愁あるべし」とて、殊に沙汰あッて誅られけるニ御命令があって。漢語に「あ 六 家 り」のついた形で尊敬の意を表す。 こらう おとろ しょこうはち 平とそきこえし。ってに聞く、虎狼の国衰へて、諸侯蜂の如く起りし時、沛公先三よみは元和版「被斬ケル」 ( 正 節本同じ ) による。熱田本「被レ伐」、 かんやうきゅう チウセ に咸陽宮に入るといへども、項羽が後に来らん事を恐れて、妻は美人をもをか高良本「誅られける」。 四人づてに聞く。以下の話は きん、しゅぎよく かす いたづかんこくせき さず、金銀珠玉をも掠めず、徒らに函谷の関を守ッて、漸々にかたきをほろば『史記汝高祖本紀に見える。 五秦の国。「秦王虎狼ノ心アリ」 して、天下を治する事を得たりき。されば木曾の左馬頭、まづ都へ入るといふ ( 史記・項羽本紀 ) 、「秦ハ虎狼之国 也」 ( 戦国策・五 ) 。 、一と よりとものあ、っそんめい とも、頼朝朝臣の命にしたがはましかば、彼沛公がはかり事にはおとらざらま六群がり起るさまをいう。 りゆ・ほみッ セ劉邦。沛はその封ぜられた国 ーし。 名。のち漢の国を興し高祖と称す。 ^ 楚の王。劉邦と共に秦を滅ば 平家はこぞの冬の比より、讃岐国八島の磯を出でて、摂津国難波潟へおしわしたが、のち劉邦と争い、敗れる。 九「財物取ル所無シ、婦女幸ス ふくはらきうり きょぢゅう いちたにじゃうくわく たり、福原の旧里に居住して、西は一の谷を城槨にかまへ、東は生田森を大手ル所無シ」 ( 史記・項羽本紀 ) による。 人の妻なら美人でも犯すことなく、 きどぐち そのうち ひやうごし 、たやどすま の木一尸ロとぞさだめける。其内福原、兵庫、板宿、須磨にこもる勢、これは山の意か。「美人をうばって妻とす ることもなく」 ( 日本古典文学大 ゃうだうはつかこくなんかいだう 陽道八ヶ国、南海道六ヶ国、都合十四ヶ国をうちしたがへて召さるるところの系 ) とする解もある。 一 0 徐々に。だんだん。 ぐんびやう いちのたに 軍兵なり。十万余騎とそきこえし。一谷は北は山、南は海、ロはせばくて奥ひ = 大阪湾。淀川河口付近の海 ころ 。力、つ、つ さぬきのくにやしまいそ つひ きた の してんわう つのくになにはがた いくたのもり 九 さいびじん せん
ち仕るな」といへども、「さないはせそ。院宣であるに、ただ打ちころせ打ち一三清原頼業 ( 大外記・文章博士 ) の二男。親業 ( 清原氏系図、玉葉、 あるい 元和版 ) 、近業 ( 清原系図、百練抄、 ころせ」とて打っ間、或は馬をすてて、はふ / 、にぐる者もあり、或はうちこ 玉葉 ) 。『清原系図』に「後白河院上 うちじに はぢ 北面、寿永二年十一月十九日木曾 ろさるるもありけり。八条がすゑは山僧かためたりけるが、恥ある者は討死し、 義仲法住寺殿一一於テ合戦之時、流 矢ニ中リ卒ス。三十二歳」。 つれなき者はおちそゆく。 一四葦毛 ( 白に黒・褐色等のさし しらあしげ もんどのかみちかなりうすあをかりぎめ 毛のあるもの ) の白みの強いもの。 主水正親業薄青の狩衣のしたに、萌黄の腹巻を着て、白葦毛なる馬に乗り、 一五清は清原。大外記は太政官外 くび いまゐのしらうかねひら 記局で文書を扱い公事を行う役。 河原をのばりに落ちてゆく。今井四郎兼平おツかかッて、しゃ頸の骨を射て射 一六 一六大学寮で経学を教授した博士。 かっちう せいだいげきよりなり みやうゃうだうはかせ おとす。清大外記頼業が子なりけり。「明経道の博士、甲冑をよろふ事しかる清原・中原両家世襲の職だが、親 業は博士になっていない。 そむ しなのげんじむらかみのさぶらう ゐんがた べからず」とぞ人申しける。木曾を背いて院方へ参ッたる信濃源氏村上三郎宅「近江守重章」 ( 百練抄 ) 。『玉 一セ 葉』治承三年 ( 一一七九 ) 十二月十二日 あふみのちゅうじゃうためきょゑちぜんのかみのぶゆき はんぐわんだい 判官代もうたれけり。是をはじめて院方には近江中将為清、越前守信行も射条に「近江守高階為清」とある。 一 ^ 藤原通隆の子孫。信輔の子。 あぜちの はうきのかみみつなが はうぐわんみつつねふし ころされて頸とられぬ。伯耆守光長、子息判官光経父子共にうたれぬ。按察一九源頼光の子孫、光信子。『尊卑 ニ 0 分脈』に出羽守・伊予伯耆守、寿 だいなごんすけかたのきゃう はりまのせうしゃうまさかた たてえばし 鼓大納言資賢卿の孫播磨少将雅賢も鎧に立烏帽子で軍の陣へ出でられたりける永二年七月義仲と共に上京、八月 伊予守とあり、その子光経 ( 帯刀・ てんだいぎすめいうんだいそうじゃうてらちゃうりゑんけいほっ が、樋口次郎に生どりにせられ給ひぬ。天台座主明雲大僧正、寺の長吏円恵法左衛門尉 ) の項に、法住寺合戦に 御所方となり父子共討死とある。 おんま しんわう くろけぶり 親王も御所に参りこもらせ給ひたりけるが、黒煙すでにおしかけければ、御馬ニ 0 この時右中将。屋代本「中将」。 ニ一後白河法皇皇子。八条宮と号 に召して、いそぎ川原へ出でさせ給ふ。武士どもさむみ、に射奉る。明雲大僧す。 はつでう さんぞう もよぎ いくさ
方丈記 神田秀夫 ( 武蔵大学 ) 日本の古典」全巻の内容 永積安明 ( 神戸大学 ) 徒然草 荻原浅男 ( 千葉大学 ) 国古事記 国国とはずがたり・久保田淳 ( 東京大学 ) 小島憲之 ( 大阪市立大学 ) 佐竹昭広 ( 成城大学 ) 回ー萬葉集 木下正俊 ( 関西大学 ) 囮回宇治拾遺物語は器笋 中田祝夫 ( 筑波大学 ) 回日本霊異記 市古貞次 ( 東京大学 ) 囮ー囮平家物語 7 国 小沢正夫 ( 中京大学 ) 回古今和歌集 囮謡曲集三道 小山弘志 ( 国文学研究資料館 ) 佐藤健一郎 ( 武蔵野美術大学 ) 表章 ( 法政大学 ) 竹取物語 回謡曲集ロ風姿花伝佐藤喜久雄 ( 学習院大学 ) 片桐洋一 ( 大阪女子大学 ) 福井貞助 ( 静岡大学 ) 回 伊勢物語 北川忠彦 ( 京都女子大学 ) 安田章 ( 京都大学 ) 松村誠一 ( 成蹊大学 ) 囮狂言集 土佐日記 大島建彦 ( 東洋大学 ) 国 御伽草子集 木村正中 ( 学習院大学 ) 伊牟田経久 ( 鹿児島大学 ) 回 蜻蛉日記 好色一代男康降 ( 早稲田大学 ) 松尾聰 ( 学習院大学 ) 永井和子 ( 学習院大学 ) 回回枕草子 好色五人女 東明雅 ( 信州大学 ) 阿部秋生 ( 実践女子大学 ) 今井源衛 ( 梅光女学院大学 ) 国 回ー源氏物語 7 田 好色一代女 和泉式部日記 谷脇理史 ( 筑波大学 ) 藤岡忠美 ( 神戸大学 ) 国日本永代蔵 中野幸一 ( 早稲田大学 ) 紫式部日記 大養廉 ( お茶の水女子大学 ) 万の文反古 更級日記 神保五彌 ( 早稲田大学 ) 世間胸算用 鈴木一雄 ( 明治大学 ) 夜の寝覚 井本農一 ( 実践女子大学 ) 中村俊定 ( 早稲田大学 ) 図芭蕉句集 堀信夫 ( 神戸大学 ) 堀切実 ( 早稲田大学 ) 堤中納言物語 稲賀敬一一 ( 広島大学 ) 井本農一 ( 実践女子大学 ) 栗山理一 ( 成城大学 ) 久保木哲夫 ( 都留文科大学 ) 芭蕉文集・去来抄 村松友次 ( 東洋大学 ) 無名草子 森修 ( 大阪市立大学 ) 嶌越文蔵 ( 早稲田大学 ) 国近松門左衛門集 橘健一ズ岐阜女子大学 ) 四大鏡冒 雨月物語 高田衛 ( 都立大学 ) 今昔物語集 7 国馬淵和夫 ( 中央大学 ) 国東文麿 ( 早稲田大学 ) 中村博保 ( 静岡大学 ) 本朝世俗部今野達 ( 横浜国立大学 ) 春雨物語 栗山理一 ( 成城大学 ) 新間進一 ( 青山学院大学 ) 国梁塵秘抄 国蕪村集・一茶集 暉崚康降 ( 早稲田大学 ) 国国新古今和歌集圄峯村文人 ( 国際基督教大学 ) 圈古典詞華集冒山本健吉 ( 文芸評論家 ) 松田成穂 ( 金城学院大学 ) 石埜敬子 ( 跡見学園短期大学 ) 増古和子 ( 上野学園大学 ) 丸山一彦 ( 宇都宮大学 ) 松尾靖秋 ( 工学院大学 )
北の方をさす。 げにもとや思はれけん、いそぎ物具して、人をばかへし給ひけり。 ニ神戸市東灘区魚崎付近の海岸 こやの いくた 五日のくれがたに、源氏昆陽野をたツて、やう / 、生田の森にせめちかづく。の松原。 三神戸市東灘区御影町の森。 ロすずめまつばらみかげもり かた四 てんで とほび 物雀の松原、御影の杜、昆陽野の方を見わたせば、源氏手々に陣をとッて、遠火四平家の陣、生田森から源氏の 家 陣を見渡すと。 平をたく。ふけゆくままにながむれば、山の端いづる月のごとし。平家も、「遠 = 「手に手に」の転か。ここは、 各自勝手に、思いいに、くら、 火たけや」とて、生田森にもかたのごとくそたいたりける。あけゆくままに見の意。 六遠く隔たった所から見える火。 さはべ わたせば、はれたる空の星のごとし。これやむかし沢辺の蛍と詠じ給ひけんも、セ「これやむかし・ : 今こそ思ひ 知られけれ」は一種の慣用的表現。 ↓一八九ハー一一行。 今こそ思ひ知られけれ。源氏はあそこに陣とッて馬やすめ、ここに陣とッて馬 ^ 「晴るる夜の星か河べの蛍か かひ、なン」ーしけ・るほ」こ、、 もわがすむかたのあまのたく火 ししそがず。平家の方には今や寄する、今や寄すると、 か」 ( 伊勢物語・八十七段、新古今・ やすい心もなかりけり。 雑中在原業平 ) 。海人は漁夫。 『新古今集』鷹司本には「河べ」が むゆかのひ くらうおん一うし とひのじらう 「さはべ」とあり、本書の文と一致 六日のあけばのに、九郎御曹司、一万余騎を二手にわかッて、まづ土肥二郎 する。元和版・正節本「河辺」。 さねひら 実平をば七千余騎で一の谷の西の手へさしつかはす。我身は三千余騎で一の谷九地勢の険しい所。足場の悪い 所。難所。 ひょどりごえ たんばぢ からめて つはもの のうしろ、鵯越をおとさんと、丹波路より搦手にこそまはられけれ。兵者ども、一 0 延慶本では平山・別府の名が 九 なく、「武蔵国住人川越小太郎重 あくしょ 「これはきこゆる悪所であンなり。敵にあうてこそ死にたけれ、悪所におちて房」が案内を知った旨を申し出る ことになっている。 = 泊瀬は奈良県桜井市初瀬。吉 は死にたからず。あッばれ此山の案内者やあるらん」と、面々に申しければ、 いっかのひ いくたのもり もののぐ ふたて ほたるえい
こういう武辺咄が盛んに書かれたことには、往時を懐ほか、盲目で怪しまれないのを利して、間者の役を勤めた ひゅうが かしむ老人の心理や、天下泰平を迎えて職を失った浪人の、ことも、いくつかの文献に散見する。日向国加久藤の座頭 同じく過去を想う心情がかかわっており、また祖先の勇武兼一 ( 『日州木崎原御合戦伝記』には菊一とある ) が島津忠平 を顕彰して子孫に伝え、ともすれば軟弱に陥りがちな世の ( のち義弘 ) のために間者として敵領内に入り、敵情を通報 めいかくき 風潮に対して警鐘を鳴らすというような気持も働いていた して、のち恩賞にあずかった旨が『明赫記』に見える。ま すえはるかた あき ことであろう。このような武辺咄の類を集大成したのが、 た『中国治乱記』によると、陶晴賢が座頭一名を安芸国に ばんのぶとも 伴信友編の『武辺叢書』 ( 「史籍集覧 . に収む ) であった。 送りこみ毛利 ( 元就 ) 軍の動静を探らせた。これに気づ そうして軍記の中の個々の逸話を抜き出せば武辺咄にな いた元就は、わざと自軍の動きを座頭に聞かせ、陶に通報 るであろうし、また逆に武辺咄が軍記に織りこまれて軍記させて、これを信じて軍勢を出した晴賢を打ち破ったとい 作成の重要な資料になることもあったに相違ない。そのよう。 ( この話は『常山紀談』巻一、毛利元就厳島合戦付盲人間者事 にも載っている ) 。 うに軍記と武辺咄とは密接不可離の関係にあったというべ じようざん きである。なお湯浅常山の『常山紀談』三十冊は、これら武将では島津家の重臣上井覚兼が『平家』を語らせたり、 の軍記・武辺咄を渉猟して、戦国武士の言行・逸話を集録自ら読んで人に聞かせたりしており ( 上井覚兼日記 ) 、毛利 したもので、江戸時代以降、多くの人々に愛読された書で輝元も愛好者であった ( 輝元上洛日記 ) 。徳川家康も晩年、 あった。以下、それらの軍書の中から二、三拾い出して述平曲をしばしば聞いており、『源平盛衰記』と『吾妻鏡』 べることにする。 の異同を考えさせたりして、深い関心を持っていたらし 戦国時代には、他の芸能人もそうであったが、琵琶法師 い ( 駿府記 ) 。そういうなかで、戦国武士が『平家物語』を たちも各地の大名豪族を訪ねて平曲を演じ、一方では都の聞いてどのように感じたかを記したものに、次の話があ びっちゅう 文化を伝搬する役割を果していたようである。都から備中る。 の三村元親を頼って下った甫一検校が、主家滅亡に際し、 上杉謙信は、ある夜石坂検校に『平家』を語らせたが、 これに殉じたことが『備中兵乱記』に見えているが、その鵺の段 ( 巻四鵺 ) を聞いて頻りに落涙した。側近の者が めえ
平家物語 3 気比・ ロ島取 朝倉。ハ太田庄・ 若狭 竹笙島 鞍馬 0 . 三井寺 扱播 磨く原 ~. へ . 桂、粟津 三草し摂津・、ス川山 葉室。・ 、の昆陽野、 . 城・ラ ) 高砂 ぐ御松空 0 江口イ冬割、 響南塩ー原影原岩神崎ゃ 天宝寺 ~ 、川なの野屋倉大物 ロ奈良 戸住吉 大阪湾。入利内、 和泉 / 長野ー ・・イ歌山河 \ 福良 安摩 伊の湊 。山東高野山ゝ 紀ノハ 和歌 。名草 → , 有田藤代 湯浅 / 」め 00 播磨准 大和 小豆 越ロ c 勝浦 。花園那 丹生。白 ) ~ 川岩代紀 伊本宮 田辺 水、 佐野 那智。 浜の宮 座いし 結城 川新 瀬戸内海周辺地図 ( ー ) 「平家物語』関係の地名は太字て、示した。 ロ印は県庁所在地。
平家物語 282 さが - っヤ . まさ 茂・嵯峨・太秦・西山・東山の片田舎に身を寄せて、お逃 - をつ 山門御幸 げ隠れになった。平家は都を落ちたけれど、源氏はまだ替 りに入って来ない。今やこの都は主なき里になってしまっ じゅえい ごしらかわ あぜちの かいびやく 寿永二年七月二十四日の夜半頃、後白河法皇は按察大納 た。開闢以来、このようなことがあろうとも思われない すけかた うまのかみすけとき しようとくたいしみらいき 言資賢卿の子息、右馬頭資時だけをお供にして、ひそかに 聖徳太子の未来記にも、今日のことが何とあるか、見た くらま ものだ。 御所をお出になって鞍馬へ御幸なされる。鞍馬寺の僧ども うわキ、 が、「ここはやはり都が近くて具合がわるいでしよう」と 法皇は比叡山にいらっしやるとのお噂が伝わったので、 やくおうざか 申すので、篠の峰、薬王坂などという、道の険しい難所を駆けつけられる人々は次のとおりであった。当時の入道殿 よかわげだつだに 2 しお、くじようばう さきのかんばくまつどのもとふさ このえどのもとみち お越えになって、横河の解脱谷にある寂場坊が御所になる。 とは前関白松殿 ( 基房 ) 、今の関白殿とは近衛殿 ( 基通 ) 、 衆徒が大勢で、「東塔にこそ御幸あるべきだ」と申したの太政大臣・左右大臣・内大臣・大納言・中納言・参議、三 えんゅうばう てんじようびと で、東塔の南谷の円融房が御所になる。そんなわけで、衆位・四位・五位の殿上人、すべて世間で人並に数えられ、 徒も武士も、円融房をお守りする。法皇は院の御所を出て 官位昇進に望みをもち、官職についているほどの人で、も ひえいギ、ん せっしようどのよしの 比叡山に、天皇は皇居を去って西海へ、摂政殿は吉野の奥れた者は一人もなかった。円融房には人が集まり過ぎて、 によういん やわたか すきま とかに逃れたとのことである。女院・宮方は、八幡・賀堂上・堂下・門外・門内、隙間もないほどに満ち満ちてい さんもんご 平家物語巻第八 かたいなか
もしくはない」と嘆いたという。 編集室より 前の謙信の例とあわせて、戦国武士の芸能を享受する際☆第三十回配本『平家物語三』をお届けいたします。『平 の態度、心構えをよく示している話である。平家を聞いて家物語』はあと一冊、来年中の刊行をめざしております。 も、単に勇壮な振舞に喝采を送るばかりではない。晴れの☆完訳日本の古典も、今回でちょうど半分になりました。 さっそう 舞台に立っ颯爽たる勇姿の裏には、失敗した際にとらなけ昭和五十七年十一月の第一回『萬葉集一』以来、毎月刊行 ればならぬ悲壮な覚悟がつねに潜んでいたのである。そう ができましたことは、全集を担当する編集者の秘かな誇り いう心裏を掘り下げて感慨を深くし、涙を流し、そして同であり、歓びです。ご執筆の先生方のご苦心には勿論頭が 時に我が身に引き寄せて考える。さらには、表面だけの花下がりますが、終始ご鞭撻や励ましをいただいた読者の方 やかさに聞きとれるに過ぎない武士たちに、その心構えを方の陰のおカ添えあってこそと肝に銘じております。 教え悟らせようとしたのである。それが戦国武将の芸能鑑☆次回配本 ( 六十年六月 ) は、先月に引き続いて『とはず 賞の一つの態度であった。 がたり二』 ( 久保田淳校注・訳定価千五百円 ) です。 『とはずがたり』というと、ともすれば前半の宮中での数 《著者紹介 奇な愛欲生活に目がいきがちですが、巻四・五に描かれて 市古貞次 ( いちこ・ていじ ) いる世界は、特異な紀行文学といえましよう。 明治四十四年、山梨県生れ。昭和九年、東京大学卒。中西行にあこがれ、出家の志を果した一一条の足跡は東は鎌倉、 世文学専攻。現在、東京大学名誉教授。学士院会員。主西は厳島から足摺岬にまで大変広範囲にわたっています。 著に『中世小説の研究』『中世小説とその周辺』『御伽草しかし、作者の目はいつも自身の内面をみつめ、それが単 子』『平家物語一・一一 ( 日本古典文学全集 ) 』など。相変らなる紀行文学にない魅力を作品に与えています。 ずご多忙な毎日であるが、暇をみつけてはご夫妻で旅行巻末に「引歌一覧」「登場人物略伝」「年表」「作中和歌一 されるのを大変楽しみにしておられる。 覧」や増鏡・高倉院厳島御幸記・発心集など七作品から、 関係箇所を抜すいした「参考資料」を収載します。
かぶと のけ甲になり、馬も射られ徒歩になって、二丈ほどの崖を馬を押し並べて組み合って落ち、刺しちがえて死ぬ者もあ れば、敵を下に取り押えて首を斬る者もあり、斬られる者 背にして、敵五人の中に取り籠められ、郎等二人を左右に わきめ 立てて、脇目も振らず命も惜しまず、ここを最後と防ぎ戦もある。敵味方どちらにも乗ずるすきがあるようにも見え なかった。このように激戦であったけれども、源氏は大手 う。梶原はこれを見つけて、「まだ討たれなかったのだ」 おんぞうしからめ だけでは勝てるとも見えなかったのだが、九郎御曹司が搦 と急いで馬から跳んで降り、「景時がここにいる。どうし いちのたに ひょどりごえ た源太、死んでも敵に後ろを見せるな」といって、親子で手にまわって、七日の明け方に、一谷の後ろの鵯越に登り、 今や馬で降りようとなさると、その軍勢に驚いたのだろう もって五人の敵の三人を討ち取り、二人に傷を負わせて、 か、大鹿が二匹、雌鹿が一匹、平家の城郭一谷へ落ち下っ 「弓矢を取る者は進むのも退くのもその時によるものだ、 た。城の内の兵士どもがこれを見て、「里近くにいるよう さあ来い、源太」といって、馬に一緒に乗せて敵陣を出た。 な鹿でさえも、我々に恐れては山奥へ入るはずなのに、こ 梶原の「二度の駆け」とはこのことである。 れほどの大軍の中へ鹿が下り落ちるのは変なことだ。どう 考えても上の山から源氏が攻め下るのであろう」と騒いで 坂落 いよのくに たけちのむしやどころきょのり いるところに、伊予国の住人、武智武者所清教が進み出 ちちぶあしかが て、「たとえ何であっても、敵の方から出て来たようなも これをはじめとして、秩父・足利・三浦・鎌倉、党では いのまたこだまのいよ 落猪俣・児玉・野井与・横山・西党・都筑党・私の党の兵士のを逃がすことはできない」といって、大鹿二匹を射留め、 坂 どもが奮戦し、源平の全軍が乱戦となり、入れ替り入れ替雌鹿は射ないで通らせた。越中前司は、「無益な殿方の鹿 おめ の射ようだな。今の矢一本では敵十人は防ぐだろうのに。 第り、次々に名のりをあげ、喚き叫ぶ声は山を響かせ、馬の 巻 馳せちがう音は雷のようである。飛びちがう矢は雨の降る罪つくりに大事な矢をむだにして」と止めた。 御曹司は城郭を遠くから見渡していられたが、「馬ども のと同じである。負傷者を肩にかつぎ、後ろへ退く者もあ くら を下してみよう」といって、鞍を置いた馬を追い下した。 り、軽い傷で戦う者もあり、重傷を負って死ぬ者もある。 さか おとし つづき