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検索対象: 完訳日本の古典 第44巻 平家物語(三)
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1. 完訳日本の古典 第44巻 平家物語(三)

′ ) とうよ ないしどころしんし やたのかがみやさかにのまがたま 一神鏡 ( 八咫鏡 ) ・八尺瓊曲王・ なに心もなう召されけり。国母建礼門院御同輿に参らせ給ふ。内侍所、神璽、 くさなぎのつる 草薙剣の三種の神器。 へいだいな いんやくときふだけんじゃうすずか ほうけん 宝剣わたし奉る。「印鑰、時の札、玄上、鈴鹿なンどもとり具せよ」と平大納ニ天子の正印と諸司の蔵の鍵。 語 三清涼殿殿上の小庭に立てて時 ごんげぢ 物 言下知せられけれども、あまりにあわてさわいでとりおとす物ぞおほかりける。刻を示したもの。 家 六 四玄上は琵琶の名、鈴鹿は和琴 ときただのきゃう ^ ごぎ ぎよけん 昼の御座の御剣なンどもとり忘れさせ給ひけり。やがて此時忠卿、子息内蔵の名。共に皇室に伝わった名器。 五平時忠。寿永二年 ( 一一八三 ) 権大 ぐぶ こんゑづかさみつな かみのぶもとさぬきのちゅうじゃうときぎね 頭信基、讃岐中将時実三人ばかりぞ衣冠にて供奉せられける。近衛司、御綱納言。文治五年 ( 一一八九 ) 能登の配所 で没、六十歳。妹時子は清盛の妻、 しつでう しゅしやか すけかっちう きゅうせん の佐、甲冑をよろひ、弓箭を帯して供奉せらる。七条を西へ、朱雀を南へ行幸建礼門院・宗盛らの母。 六清涼殿の昼の御座にあった剣。 セそのまま。 なる。 ^ 「子息」は元和版・熱田本等な 明くれば七月廿五日なり。漢天既にひらきて雲東嶺にたなびき、あけがたのし。そのほうがよい。信基は平時 忠の叔父信範の子。時実は時忠の ひととせ けいめし 月白くさえて鶏鳴又いそがはし。夢にだにかかる事は見ず。一年都うつりとて長男、讃岐守、左近衛権中将。時 忠ら三人は平氏でも清盛一族とは 別系の公家なので衣冠姿で供奉し かかるべかりける先表とも今こそ思ひ知られけれ。 俄にあわたたしかりしは、 たのであろう。後の平家一門除籍 どう ゅ せっしゃうどの ぎよしゆっ の際も免れている。↓九六ハー一行。 摂政殿も行幸に供奉して御出なりけるが、七条大宮にてびんづら結ひたる童 九行幸の際、御輿をかつぐ左右 じ かの たもと おんくるま 子の御車の前をつッとはしりとほるを御覧ずれば、彼童子の左の袂に、春の日の近衛府の役人。 一 0 行幸の際、御輿の綱を持っ役 ほっ一うお、つ′ ) おおとねり といふ文字そあらはれたる。春の日と書いてはかすがとよめば、法相擁護の人。通常は大舎人寮の助 ( 次官 ) が 勤める。 しゅんにちだいみやうじんたいしよくわんおんすゑ 春日大明神、大織冠の御末をまもらせ給ひけりと、たのもしうおばしめすと = 漢は銀漢 ( 天の川 ) 。天の川の かんてん ぜんべう とうれい ぐ くらの おまし

2. 完訳日本の古典 第44巻 平家物語(三)

かげすゑ 一「候にこそあるめれ」の転。 かに景季は見えざりけり。「いかに源太は、郎等ども」と問ひければ、「ふかい 0 ニ何になろうか、何にもならな 何をしようか、しかたがない りしてうたれさせ給ひて候ごさンめれ」と申す。梶原平三是を聞き、「世にあ ナニ 元和版「何ニカハセン」 ( 正節本同 語 じ ) 、熱田本「何カ為ン」。 物らんと思ふも子共がため、源太うたせて命いきても何かはせん。かへせや」と 四 家 三八幡太郎源義家のことをいう。 だいおんじゃう はちまんどのごさんねんおん 平てとッてかへす。梶原大音声をあげてなのりけるは、「昔八幡殿、後三年の御 0 永保 = 一年 ( 一 0 〈 = ) から寛治元年 ( 一 0 八七 ) にかけて、義家が奥州の豪 ではのくにせんぶくかなぎはじゃう たたかひに、出羽国千福金沢の城を攻めさせ給ひける時、生年十六歳でまッさ族清原氏の起した反乱を平定した ことを一い , つ。 まなこかぶとはちつけ たふ せんまくなま きかけ、弓手の眼を甲の鉢付の板に射つけられながら、答の矢を射て其敵を射五仙北の訛り。正節本「仙北」。 金沢城は仙北郡金沢 ( 秋田県横手 こうたい かまくらのごんごらうかげまさばちえふかぢはらへいざうかげときいちにんたう おとし、後代に名をあげたりし鎌倉権五郎景正が末葉、梶原平三景時、一人当市金沢本町 ) に遺跡がある。 六甲の錣の一枚目の板。左の目 ぜんつはもの を射抜いた矢が鉢付の板まで通っ 千の兵そゃ。我と思はん人々は、景時うッて見参にいれよや」とてをめいてか たのである。 新中納一言、「梶原は東国にきこえたる兵ぞ。あますな、もらすな、うてや」七返答の矢。仕返しの矢。 ^ 平良茂の子孫。景成の子。こ とて、大勢のなかに取りこめて攻め給へば、梶原まづ我身のうへをば知らずしの話は『奥州後三年記』に見える。 カマクラノゴン カゲマサ 元和版「鎌倉権五郎景正ニ、五代 すまんぎ パチョウカヂ ノ末葉、梶原平三景時」とある。 て、源太はい。 つくにあるやらんとて、数万騎の大勢のなかを、たてさま、よこ 九まず ( 第一に ) わが身のことを くもで じふもんじ さま、蛛手、十文字にかけわりかけまはりたづぬる程に、源太はのけ甲にたた顧みるということをしないで。 一 0 以下「かけまはり」まで一四一 だち 一ニばかり ハー五行と同文で慣用的表現。 かひなツて、馬をも射させ、かち立になり、二丈計ありける岸をうしろにあて、 = かぶっている甲の緒がゆるみ とり′一 さう 敵五人がなかに取籠められ、郎等二人左右にたてて、面もふらず命も惜しまず、後ろへずり下がること。それを直 かたき 0 ゅんで おもて 一一かぶと そのかたき センボク

3. 完訳日本の古典 第44巻 平家物語(三)

おなじき のりよりよしつね 一『史記』項羽本紀「今釈シテ撃 たされけり。同廿五日、樋口次郎遂に切られぬ。範頼、義経ゃう / 、に申さ タズ、此レ所謂虎ヲ養ヒテ自ラ患 たてねのゐ ひと ヲ遺ス者也」。害をなす者を放置 れけれども、「今井、樋口、楯、根井とて、木曾が四天王のその一つなり。こ して、のちに難を招くことをいう。 語 ゃうこ うれへ こと一た 物れらをなだめられむは、養虎の愁あるべし」とて、殊に沙汰あッて誅られけるニ御命令があって。漢語に「あ 六 家 り」のついた形で尊敬の意を表す。 こらう おとろ しょこうはち 平とそきこえし。ってに聞く、虎狼の国衰へて、諸侯蜂の如く起りし時、沛公先三よみは元和版「被斬ケル」 ( 正 節本同じ ) による。熱田本「被レ伐」、 かんやうきゅう チウセ に咸陽宮に入るといへども、項羽が後に来らん事を恐れて、妻は美人をもをか高良本「誅られける」。 四人づてに聞く。以下の話は きん、しゅぎよく かす いたづかんこくせき さず、金銀珠玉をも掠めず、徒らに函谷の関を守ッて、漸々にかたきをほろば『史記汝高祖本紀に見える。 五秦の国。「秦王虎狼ノ心アリ」 して、天下を治する事を得たりき。されば木曾の左馬頭、まづ都へ入るといふ ( 史記・項羽本紀 ) 、「秦ハ虎狼之国 也」 ( 戦国策・五 ) 。 、一と よりとものあ、っそんめい とも、頼朝朝臣の命にしたがはましかば、彼沛公がはかり事にはおとらざらま六群がり起るさまをいう。 りゆ・ほみッ セ劉邦。沛はその封ぜられた国 ーし。 名。のち漢の国を興し高祖と称す。 ^ 楚の王。劉邦と共に秦を滅ば 平家はこぞの冬の比より、讃岐国八島の磯を出でて、摂津国難波潟へおしわしたが、のち劉邦と争い、敗れる。 九「財物取ル所無シ、婦女幸ス ふくはらきうり きょぢゅう いちたにじゃうくわく たり、福原の旧里に居住して、西は一の谷を城槨にかまへ、東は生田森を大手ル所無シ」 ( 史記・項羽本紀 ) による。 人の妻なら美人でも犯すことなく、 きどぐち そのうち ひやうごし 、たやどすま の木一尸ロとぞさだめける。其内福原、兵庫、板宿、須磨にこもる勢、これは山の意か。「美人をうばって妻とす ることもなく」 ( 日本古典文学大 ゃうだうはつかこくなんかいだう 陽道八ヶ国、南海道六ヶ国、都合十四ヶ国をうちしたがへて召さるるところの系 ) とする解もある。 一 0 徐々に。だんだん。 ぐんびやう いちのたに 軍兵なり。十万余騎とそきこえし。一谷は北は山、南は海、ロはせばくて奥ひ = 大阪湾。淀川河口付近の海 ころ 。力、つ、つ さぬきのくにやしまいそ つひ きた の してんわう つのくになにはがた いくたのもり 九 さいびじん せん

4. 完訳日本の古典 第44巻 平家物語(三)

とも うちとさぶらひ けん とさぶらひ いへのこらう 次日兵衛佐の館へむかふ。内外に侍あり。共に十六間なり。外侍には家子郎一九酒飯。または酒食の器具。元 和版・正節本「盃盤ーは盃と皿。 うちさぶらひ いちもんげんじしゃうざ 等肩をならべ、膝を組んでなみゐたり。内侍には一門の源氏上座して、末座に = 0 侍の詰所。内侍は東西の廊の 内、外侍は本屋とは離れていた。 だいみやうせうみやう ぎしゃう やや しんでん ひろ 間は柱と柱との間の長さ。 大名小名なみゐたり。源氏の座上に康定をすゑらる。良あッて寝殿へ向ふ。広 三当時、畳は座席にだけ敷いた。 びさしむらさきへりたたみ かうらいべり 廂に紫の縁の畳をしいて、康定をすゑらる。うへには高麗縁の畳を敷き、御 = = 以下八字、底本欠。竜大本・ 熱田本などにより補う。高麗縁は たてえぼし 簾たかくあげさせ、兵衛佐殿出られたり。布衣に立烏帽子なり。顔大きに、せ白地の綾に黒い文様のある縁。 ニ三言語明瞭である。ことばに訛 ようはういうび げんぎよふんみやう りのないことをいう。当時の京の いひきかりけり。容貌優美にして言語分明なり。まづ子細を一々のべ給ふ。 人は関東人の言語をうちゅがんで よりともゐせい あときそ くわんじやじふらうくらんど いると考えていた。 「平家頼朝が威勢におそれて都をおち、その跡に木曾の冠者、十郎蔵人うちい ニ四以下十一字、竜大本欠。屋代 かうみやう くわんかかし さまニ六 あまっさ でうきつくわい りて、わが高名がほに官加階を思ふ様になり、剰へ国をきらひ申す条、奇怪な本「兵衛佐宣ケル」。 おくひでひらむつのかみ さたけのしらうたかよしひたちのかみ か。元和版「一事」。 り。奥の秀衡が陸奥守になり、佐竹四郎隆義が常陸守になツて候とて、頼朝が ニ六元和版・正節本「仕り」。「な ついたう さししゃう り」は「成し」と同様に用いたもの 軍命にしたがはず。、 しそぎ追討すべきよしの院宣を給はるべう候」。左史生申し ニ九 将 か。屋代本「官ヲ成、加階ヲシ」。 こんど みやうぶ おっかひ まかりのば 征けるは、「今度康定も名簿参らすべう候が、御使で候へば、先づ罷上ッて、や毛養和元年 ( 一一八 D 八月 + 五日。 三 0 ニ ^ 養和元年四月、常陸介。太田 たいふしげよしそのぎ がてしたためて参らすべう候。おととで候史の大夫重能も其義を申し候」。兵城に拠って頼朝と争う。 巻 ニ九姓名を記した書付。これを提 たうじ おのノ \ 衛佐わらッて「当時頼朝が身として、各の名簿思ひもよらず。さりながら、げ出するのは相手への服従の表明 三 0 太政官の大史 ( 法規・記録な やがこんにちしゃうらく どをつかさどる ) で五位の者。 にも申されば、さこそ存ぜめ」とそ宣ひける。軈て今日上洛すべきよし申しけ どう す つぎのひ ニ七 たち ひぎ し ニ四しさい ばつぎ な へり

5. 完訳日本の古典 第44巻 平家物語(三)

241 校訂付記 ジペ 19 19 19 19 19 17 15 15 15 14 10 9 9 5 4 14 8 8 3 6 行 昆奮滉峙蠡仏茫知忠飛海爻 明淪漾ちだ誓々度度騨野の 白白元諸諸 兀兀 白氏氏本本 氏文文 屋 文集集岐羂ー ちタ仏了茫知忠飛 ー誓下々教教弾海 隠晃 混淪彡漾 以以以 下下下 明 池 同同同 一、底本 ( 通称、高野本、覚一別本 ) の本文を改訂した部分を、底 本の本文と対照して掲げた。 一、校訂本文は顕著な相違のある部分にとどめた。 一、改訂に用いた主な諸本および参考文献とその略号は、次のとお りである。 正節本ー正屋代本ー屋高良本ー高 元和版ー一兀延慶本ー延天草本ー天 おびたた の右にミイと傍書〉 加 8 緩しうー ( 延等 ) ー緩う だいぶばうかくめい , 1 ワ】 親王ー ( 意改 ) ー新王 大夫房覚明ー ( 元・正 ) ー大夫房覚 6 実盛ー ( 諸本 ) ー実守〈以下同〉 めりごめどう 6 伊東九郎祐氏ー ( 意改 ) ー伊藤九郎 塗籠籐ー ( 意改 ) ーぬりこめ藤 助氏 四 5 儒家ー ( 元等 ) ー出家 しげどう 5 滋籐ー ( 意改 ) ー滋藤〈以下同〉 % 3 崇廟ー ( 屋 ) ー宗廟 グワウゴウ きンぶくりん じんぐうくわう ) 、う 5 黄覆輪ー ( 熱 ) ーきふくりん〈以下 2 神功皇后ー ( 意改 ) ー神宮皇后 同〉 8 厨川ー ( 熱等 ) ー栗屋川 2 くんでうずなうれー ( 正 ) ーぐんで 8 焼けぬー ( 諸本 ) ーやきぬ うずなうれ 8 倉光ー ( 元・熱 ) ー蔵光 おいむしゃ 訂 5 老武者ー ( 元・正 ) ー老武者〈以下 引 2 四万余騎が中よりー ( 屋・熱・元 同。高・天ラウムシャ〉 等 ) ー四万余騎 ひみみなと 訂 3 氷見の湊ー ( 元等 ) ーひゝの湊〈「ゝ」Ⅱ玄肪ー ( 元・屋・延 ) ー還亡〈底本 校訂付記 明 熱田本ー熱尊卑文脈ー尊玉葉ー玉 本朝皇胤紹運録ー皇 竜大本ー竜文選ー文 一、掲出の方法は、ます本書の掲出箇所のページ数と行数とを示し、 次に本文改訂の根拠となった諸本または参考文献の略号を ( ) に入れて掲げ、最後に底本の本文を掲げてある。なお、改訂本文 が校注者の意改によるものは、 ( 意改 ) とした。

6. 完訳日本の古典 第44巻 平家物語(三)

と仲違いをして平家に笑われようと思うはすがあろうか しみずのかんじゃ くらんどゆきいえどの ただし、十郎蔵人 ( 行家 ) 殿は、あなたを恨むことがある 清水冠者 といって義仲のもとにいらっしやったのを、義仲まで冷淡 じゅえい ひょうえのすけよりともきそのかんじゃよしなか 寿永一一年三月上旬に、兵衛佐頼朝と木曾冠者義仲とが仲 に取り扱うことはどうかと思い、同行申してはいる。だが、 たが 違いすることが起きた。兵衛佐は木曾を討っために、十万義仲に限っては、あなたを少しもお恨みしてはいない」と しなののくに よだじよう 伝えさせる。兵衛佐の返事には、「今はそのように言われる 余騎の兵力で信濃国へ出発する。木曾は依田城にいたが、 くまさかやま けれども、まちがいなく頼朝を討とうという、謀反の企て これを聞いて依田城を出て、信濃と越後の境にある熊坂山 ぜんこうじ があると申す者がいる。そのことばを信用するわけにはい 者に陣を構える。兵衛佐は同じ国善光寺に着かれる。木曾は かねひら かじわら うって 〔冠めのとご 水乳母子の今井四郎兼平を使者として、兵衛佐のもとへ遣わかない」といって、土肥・梶原を先として、今にも討手を うわさ す。「義仲を討とうと言われるそうだが、どんなわけがあ差し向けられるという噂がたったので、木曾はほんとうに しみずの 恨みに思うことのないのを示そうとして、嫡子である清水 第るからなのか。あなたは関東八か国を平定して、東海道か もち よししげ ら都に攻め上り、平家を都から追い落そうとなさるそうだ。冠者義重といって、当年十一歳になる小冠者に、海野・望 づきすわふじさわ 義仲も東山・北陸両道を平定して、一日でも早く平家を攻月・諏訪・藤沢などという、名のある武者どもを付けて、 め落そうとしているのである。なんのためにあなたと義仲兵衛佐のもとへ送る。兵衛佐は、「こうする以上はほんと 平家物語巻第七 と うんの

7. 完訳日本の古典 第44巻 平家物語(三)

万一の事、もしもの事。頼盛が源 に、相具し給へるによッてな 氏に捕えられるような事態をさす。 しぜん っ 追 一 0 今の世は自分の思いどおりに り。「自然の事候はば、頼盛一 を と なるような世ではない ( 今はとて あ もだめだ ) の意。八条女院に仕え かまへてたすけさせ給へ」と の た女房の生んだ若宮が女院御所に 氏隠れていたのを、清盛の命を受け 申されけれども、女院、「今 た頼盛によって捕えられ、宗盛に や 帝 は世の世にてもあらばこそ」 命を助けられた ( 巻四「若宮出家」 ) 。 そんなこともあって女院は頼盛を ら 弟よく思っていなかったらしい とて、たのもしげもなうそ仰 盛 = 親切な心。親切を尽すこと。 およ 一ニそのほか。それ以外。 せける。凡そは兵衛佐ばかり 一三中途半端、落ち着かない気持。 は - つじーれ 一四未詳。万葉以来の吉野の歌枕 こそ芳心は存ぜらるるとも、自余の源氏共はいかがあらんずらむ。なまじひに せいあしよう の混入か。『井蛙抄』に吉野の「六 こ、」ち 田のよど」をあげ、「但山城のよど 一門にははなれ給ひぬ、波にも磯にもっかぬ心地そせられける。 にも六田かはらと申所のあるよし こまつどのきんだち さんみのちゅうじゃうこれもりのきゃう さる程に小松殿の君達は、三位中将維盛卿をはじめ奉ッて、兄弟六人、申人あり、あやしき様にそ覚侍 落 る」とある。屋代本「淀ノ辺ニテ」。 都 せんぎ よどむつだがはら 其勢千騎ばかりにて、淀の六田河原にて、行幸におッつき奉る。大臣殿待ちう一五どうして六代を同伴しないの だ、気の強いことだ、の意。元和 七け奉り、うれしげにて、「いかにや、今まで」と宣へば、三位中将、「をさなき版「ナド六代殿ヲバ、召具セラレ ッョクト ~ 候ハヌゾ、心強モ留メ給フ物哉」。 ちさん 者共が、あまりにしたひ候を、とかうこしらへおかんと遅参仕り候ひぬ」と申屋代本「ナドャ具シ奉ラセ給ハヌ クルシ ゾ、如何ニ心苦ク御坐ス覧、只具 こころづよろくだいどの シ奉リ給ハデ」。 されければ、大臣殿、「などや心強う六代殿をば具し奉り給はぬそ」と仰せら イ メシグ

8. 完訳日本の古典 第44巻 平家物語(三)

よしなか一 0 ついたう しないで」の意。『平家物語』にし 「義仲をこの者で候。只今朝敵になり候ひなんず。いそぎ追討せさせ給へ」と ばしば見られる言い方。 申しければ、法皇、さらばしかるべき武士にも仰せ付けられずして、山の座主、三比叡山延暦寺。寺は園城寺 ( 三井寺 ) 。長吏は寺の首長の僧。 てらちゃうり みゐでらあくそう くぎゃうてんじゃうびと 寺の長吏に仰せられて、山、三井寺の悪僧どもを召されけり。公卿殿上人の召一三勇猛な僧。荒法師。 一四正節本「向ひ礫」。石を投げる むかつぶていんぢ つじくわじやばらこつじきぼふし こと。日葡辞書に、石投げの勝負 されける勢と申すは、向へ礫、印地、いふかひなき辻冠者原、乞食法師どもな 事 ( 石合戦 ) とし、本来の正しい言 . り・・キノ . り . 。 い方はインヂと記す。「印地」は石 合戦から転じて石合戦をする下賤 きそさまのかみ 木曾左馬頭、院の御気色あしうなると聞えしかば、はじめは木曾にしたがうの徒をいう。 一五特に言うほどの価値もない。 ごきないつはもの ゐんがた しなのげんじむらかみさぶらうはんぐわん 身分の非常に低いことを表す。 たりける五畿内の兵ども、皆そむいて院方へ参る。信濃源氏村上の三郎判官 一六辻 ( 市中 ) を歩きまわる浮浪の いまゐのしらう もっ 代、是も木曾をそむいて法皇へ参りけり。今井四郎申しけるは、「是こそ以て若者ども。冠者は若者。「原」は複 数を表す接尾語。 ほかおんだいじ じふぜんていわう ごかっせん の外の御大事で候へ。さればとて十善帝王にむかひ参らせて、争でか御合戦候宅清和源氏頼清の子孫。祖父顕 清以来、信濃住、村上党の祖為国 かぶと かうにん おほ べき。甲をぬぎ弓をはづいて、降人に参らせ給へ」と申せば、木曾大きにいかの三男、基国。村上判官代と号す 一九 ( 尊卑分脈 ) 。 をみあひだ 鼓って、「われ信濃を出でし時、麻績、会田のいくさよりはじめて、北国には砥一 ^ 帝位につく人は前世で十悪を 犯さなかったゆえという。↓田四 ふくりゅうじなはて ささせまりいたくらじゃうせ 又なみやまくろさかしのはらさいこく 五ハー注一九。 浪山、黒坂、篠原、西国には福隆寺縄手、篠の迫、板倉が城を責めしかども、 巻 一九長野県東筑摩郡麻績村及び同 かたき いまだ敵にうしろを見せず。たとひ / 、十善帝王にてましますとも、甲をぬぎ郡四賀村会田。 ニ 0 ↓一〇四ハー注五。元和版・正 弓をはづいて、降人にはえこそ参るまじけれ。たとへば都の守護してあらむ者節本は以下を「法住寺合戦」とする。 だい ′ ) きしよく てうてき ニ 0 しカ と

9. 完訳日本の古典 第44巻 平家物語(三)

平家物語 36 一底本「真盛」。元和版「実盛最 後」、正節本「実盛最期」。 ニ引き返して敵と対戦すること。 三心に思うこと、考え。若武者 らしい姿をしようと考えていた。 以下の実盛の服装は若々しいもの。 四金糸・銀糸で織り出した絹織 物。大将軍に許された装いである。 ながゐのさいとうべったうさねもり もえ >•' 五萌黄 ( 黄と青との間色 ) の糸で 又武蔵国の住人長井斎藤別当実盛、みかたは皆おちゅけども、ただ一騎かへ 縅してあるもの。「威」は細い革ま あかぢ にしきひたたれ たは緒で鎧の札を綴ること。 しあはせ返しあはせ、防ぎたたかふ。存ずるむねありければ、赤地の錦の直垂 六甲の前部につける、上方に突 もよぎをどしよろひ くはがた かぶと こがねづく きりふ に萌黄威の鎧着て、鍬形うッたる甲の緒をしめ、金作りの太刀をはき、切斑のき出た金属製の角のような板。 九 セ金で飾った太刀。 ーしげ・どう れんぜんあしげ きンぶくりんくら 矢負ひ、滋籐の弓もッて、連銭葦毛なる馬に、黄覆輪の鞍おいてぞ乗ッたりけ ^ キリュウとよむ。黒白の文様 のはっきりした鷲の羽で矧いだ矢。 てづかたらうみつもり かたき きんぶくりん 九金覆輪 ( 元和版・正節本 ) とも。 る。木曾殿の方より、手塚の太郎光盛、よい敵と目をかけ、「あなやさし。 めつき 前輪・後輪の山形の上が細い鍍金 ふち で縁どってある鞍。 かなる人にてましませば、み方の御勢は皆落ち候に、 ただ一騎のこらせ給ひた 一 0 清和源氏。諏訪神社下社の神 一三との 官金刺氏の一族。長野県上田市塩 るこそ優なれ。なのらせ給へ」と詞をかけければ、「かういふわ殿はたそ」。 田住。同地に五輪の供養塔がある。 しなののくに てづかのたらうかねぎしのみつもり かたき 「信濃国の住人手塚太郎金刺光盛」とこそなのツたれ。「さてはたがひによい敵 = ああ感心な。敗戦の中に一人 勇敢に戦うのをほめたもの。次の ただ との そ。但しわ殿をさぐるにはあらず、存ずるむねがあれば名のるまじいそ。寄れ、「優なれ」も同じ。 三「残らせ給ひたるそ」「残らせ らうどう くまう、手塚」とて、おしならぶる処に、手塚が郎等おくれ馳せにはせ来ッて、給ひたるらむ」などとあるべきと む ) しのくに さね 実盛 。もめ・ かたおんせい ところ きた おど さね サネモリサイ

10. 完訳日本の古典 第44巻 平家物語(三)

どうも、これは鼓判官の人を陥れる悪だくみと思われるぞ。 木曾左馬頭に対しての院のご機嫌がわるくなったと噂が たったので、初めは木曾に従っていた五畿内の兵どもはみその鼓めを打ち破って捨ててしまえ。今度は義仲の最後の トりと - も しなの な木曾に背いて院方へ参った。信濃源氏の村上三郎判官代、合戦であろうそ。頼朝が後で伝え聞くということもある。 これも木曾に背いて法皇方へ参った。今井四郎が申したこ立派に合戦をせよ、者ども」といって出発した。北国の軍 勢はみな自国へ落ち下って、わずかに六、七千騎が残って とには、「これこそもってのはかの一大事でございます。 いた。わが合戦の吉例であるからということで、全車を七 だからといって十善帝王にお向い申して、どうして合戦を からめ かねみつ ひぐちの かぶと 手に分ける。まず樋口次郎兼光を二千騎で新熊野の方へ搦 なさることができましようか。甲を脱ぎ、弓をはずして、 手として遣わす。残り六手は各自が今いる条里・小路から 君に降参なさいませ」と申すので、木曾は大いに怒って、 いくさ あいだ おみ 河原へ出て、七条河原で一つに集まれと、合図を決めて出 「自分が信濃を出た時、麻績・会田の戦をはじめとして、 ふくりゅうじなわて しのはら となみやまくろさか 北国では砥浪山・黒坂・篠原、西国では福隆寺縄手、篠の発した。 せまり 合戦は十一月十九日の朝である。院の御所である法住寺 迫、板倉城を攻めたけれども、まだ敵に後ろを見せたこと はない。たとえたとえ相手が十善帝王 ( 院 ) でいらっしゃ殿にも、軍兵二万余人が参り籠っているということが伝わ みかた ってきた。院の御方の甲につける目印には、松の葉をつけ るとしても、甲を脱ぎ、弓をはずして降服して参ることは ていた。木曾が法住寺殿の西門に押し寄せて見ると、鼓判 とうていできまい。詳しく言うならば、都の守護をしてい 官 官知康が合戦の指揮を引き受けて、赤地の錦の直垂をつけ、 る者が、馬を一匹ずつ飼って乗らないはずはなかろう。た よろい まぐさ 鼓 鎧はわざと着ていなかった。甲だけをかぶっていた。甲に くさんある田などをいくつか刈らせて秣にするのを、あな ひょうろうまい とが は四天王の像を描いたものを貯ってあった。御所の西の築 第がちに法皇がお咎めになることがあろうか。兵粮米もない がき 垣の上に登って立っていたが、片手にはアを持ち、片手に ので、若い奴らが都のはずれに行って、時々物を奪ったり こん一うれい は金剛鈴を持って、金剛鈴を打ち振りながら、時々は舞う するのは、どうしてあながち不都合であろうか。大臣家や 折もあった。若い公卿・殿上人は、「みつともない。知康 宮々の御所にも参るというのなら不都合なことだろうが、 うわ、 ささ いまぐまの にしきひたたれ