四 さんわうしちしやわうじけんぞくとうぎいまんぎんごほふしゃうじゅじふにじゃうぐわん をこふ。仰ぎ願はくは、山王七社王子眷属、東西満山護法聖衆、十二上願一日吉社は山王二社 ( 大宮権現 しようしんじ ・地主権現 ) に聖真子を加え両所 ゅゐいちけんおうた につくわうぐわっくわういわうぜんぜいむに たんぜいてら 三聖といし これに八王子・客人 日光月光、医王善逝、無二の丹誠を照して唯一の玄応を垂れ給へ。然れば 語 ・十禅師・三宮の四社が加わり、 くんもん ほ - っギ一やくさ , 九がいともがらかうべけいと じやばうげきしん 物 亠 ~ 社とい , つ。 則ち邪謀逆臣の賊、手を君門につかね、暴逆残害の輩、首を京土に伝へん。 家 ニ王子は普通、熊野権現の末社 くぎゃうらいくどうおんらい きせいくだんのごとし 巫ーよったうけ の九十九王子をさすが、ここは山 仍て当家の公卿等異ロ同音に礼をなして祈誓如件。 うじゃしろ 王の末社。眷属は一族である氏社。 じゅざんみぎゃうけんゑちぜんのかみたひらのあっそんみちもり 従三位行兼越前守平朝臣通盛三東西は比叡山の東嶺 ( 大岳 ) と 西嶺 ( 四明岳 ) 。延暦寺は東嶺の中 うこんゑのちゅうじゃう ・す . け。もり・ 従三位行兼右近衛中将平朝臣資盛腹にある。聖衆は諸菩薩。 四十二上願は薬師如来の発する れ - もり じゃうぎんみさこんゑのごんのちゅうじゃう いよのかみ 正三位行左近衛権中将兼伊予守平朝臣維盛 + 二の大願。元和版「 + 二乗願、 医王善逝、日光月光」が正しいか さこんゑのちゅうじゃうはりまのかみ 。しげひら 正三位行左近衛中将兼播磨守平朝臣重衡医王善逝は根本中堂の本尊薬師如 来。日光・月光はどちらも薬師如 うゑもんのかみあふみとほたふみのかみ きょむね きようじ 来の脇侍仏。 正三位行右衛門督兼近江遠江守平朝臣清宗 五二つとない ( またとない ) まご くわうだいこくうのだいぶしゆりのだいぶかがゑっちゅうのかみ つねもり ころ。「無二」は唯一の対。 参議正三位皇太后宮大夫兼修理大夫加賀越中守平朝臣経盛 六あらたかな感応。 レトも - もり・ じゅにゐ ちゅうなごんさひやうゑのかみせいいたいしゃうぐん 従二位行中納言兼左兵衛督征夷大将軍平朝臣知盛セ邪悪な謀をし反逆する臣下。 ^ 宮門。屋代本・延慶本「軍門」 ごんぢゅうなごんひぜんのかみ カよし 従一一位行権中納言兼肥前守平朝臣教盛 九暴虐 ( 逆 ) は乱暴で人をしいた じゃうにゐ ごんだいな′、んではみちのくあぜっし げること。屋代本・延慶本「暴虐 . 正弐位行権大納言兼出羽陸奥按察使平朝臣頼盛 がよい。残害は人を傷つけ殺すこ じゅいちゐ むねもり 従一位平朝臣宗盛と。乱暴残酷な人をさす。 さんぎ のりもり
の気強いのもかえってわが身の不幸となるのに」。中頃、 西海の旅の空、船の中、波の上の住いまでも引き連れて、 2 おののこまち ようばう 3 小野小町といって、容貌が非常に美しく、情けの道もすぐ とうとう同じ世界へと旅立たれた。 かどわきの なりもり のりもり れていたので、見る人、聞く者、みな誰でもが思いを寄せ 門脇中納言 ( 教盛 ) は、嫡子の越前三位、末子業盛にも 語 物心を悩まさぬことはない。 しかし気が強く、人になびかぬ先立たれてしまわれた。今頼りになさる人といっては、能 とのかみのりつね 家 という評判をとったのであろうか、最後には人の思いがっ 登守教経、僧では中納言律師忠快だけである。故三位殿の 平 もった報いで、風を防ぐ便宜もなく、雨漏りを防ぐ手段も形見とも思ってこの女房を見ていられたのに、その人まで 。こわれた屋根から差し込む月や星の光を、目に涙を もこのようになられたので、非常に、い細くなられた。 なが ねぜり 浮べつつ眺め、野辺の若菜、沢の根芹を摘んで食べて、露 のようにはかない命を保っていた。女院は、「これはどう おそ おん しても返事をせねばならないよ」といって、畏れ多くも御 すずり 硯を召し寄せて、自身でご返事をなさった。 ただたのめ細谷河のまろ木橋ふみかへしてはおちざら めやは ( ひたすら細い谷川の丸木橋を頼っていなさい。何度も踏む ならば落ちないことがあろうか、きっと落ちるはすだ。返書 を出したなら、相手がなびくにちがいない ) 三位の胸中の思いの火は富士山の煙のように立ちのばり、 きよみ 袖の上の涙は清見が関の波のようにいつも乾くことがない。 女の容色は幸いのしるしなので、三位はこの女房を妻とし ちょうだい て頂戴して、相手に寄せる思いは互いに浅くない。それで の
皇のご命令を受けて何度も征伐を企てた。この時、我々 ぎよりんか′、レく は魚鱗鶴翼の陣をしいて戦っても官軍に不利であり、多 くの軍勢の威力をもってしても、逆賊が勝ちそうな状態 語 物である。もし神仏の助けを得なければ、どうして反乱を 家 鎮圧することができよう。それゆえに我々は、ひたすら 平 天台の仏法に帰依し、固く信じて日吉の神恩をお頼みす おそ るだけである。ましてや、畏れ多くも私どもの祖先を考 かんむ えると、桓武天皇から出ているのであって、延暦寺建立 の発願者 ( 桓武天皇 ) の子孫というべきである。当家は あが 御寺をいっそうに崇めるべきであり、 っそうに敬うべ きである。今後、叡山に喜びがあれば平家一門の喜びと いきどお し、日吉神社に憤ることがあれば、平家一家の憤りとし て、おのおの子孫に伝えて、いつまでもその念を失わぬ かすが ようにしよう。藤原氏は春日神社・興福寺を氏神・氏寺 ほっそうしゅう として、長い間法相宗の大きな教えに帰依してきた。平 えんりやくじ 氏は日吉神社・延暦寺を氏神・氏寺として、親しく天台 の教えを信奉するであろう。かれ ( 春日社・興福寺 ) は昔 からの遺跡である。藤原家のための栄幸を願うものであ る。これ ( 日吉社・延暦寺 ) は平家が現在心をこめて祈る 所である。君のために賊の追討を願っている。仰ぎ願う とうれい ことは、山王七社とその末社、叡山の東嶺・西嶺、全山 ばさっ の仏法を守る菩薩たち、人類救済の十二の大願を発する がっこう やくしによらい 日光・月光の両菩薩と薬師如来、我々の無二の真心を照 覧して、唯一の神の感応をお恵みください。それによっ て、悪謀をめぐらす逆賊どもは、軍門の前に手を合せて 拝し、暴逆残害を行う者どもの首を都にもたらすことが そろ できるであろう。そこで当家の公卿らが大きく声を揃え て祈誓すること、このとおりである。 ぎよう たいらのあそんみちもり 従三位行兼越前守平朝臣通盛 オ・けもり 従三位行兼右近衛中将平朝臣資盛 いよのかみ 、一れもり 正三位行左近衛権中将兼伊予守平朝臣維盛 はりまのかみ しげひら 正三位行左近衛中将兼播磨守平朝臣重衡 うえもんのかみおうみとおとうみのかみ きょむね 正三位行右衛門督兼近江遠江守平朝臣清宗 参議正三位皇太后宮大夫兼修理大夫加賀越中守 つねもり 平朝臣経盛 とも」もり 従一一位行中納言兼左兵衛督征夷大将軍平朝臣知盛 ごんちゅうなごん のりもり 従二位行権中納言兼肥前守平朝臣教盛 ・よりもり でわみちのくあんせっし 正二位行権大納言兼出羽陸奥按察使平朝臣頼盛 もねもり 従一位平朝臣宗盛
むらちどりめいとり 将のその日の装束は、褐地に黄色の糸で岩に群千鳥の縫取ただ逃げに逃げて行った。三位中将は、敵は近づく、馬は ひたたれむらさきすそごよろい どうじかげ をした直垂に、紫裾濃の鎧を着て、童子鹿毛という評判の弱、、 海に乗り入れなさったが、そこはよりによって遠浅 めのとご ごとうびようえもりなが しげめゆい 名馬に乗っていられた。乳母子の後藤兵衛盛長は、滋目結で沈むこともできなかったので、馬から降り、鎧の上帯を 語 たかひも かぶと 物の直垂に緋縅の鎧を着て、三位中将が、秘蔵していられた切り、高紐をはずし、鎧・甲を脱ぎ捨てて、腹を切ろうと かじわらげんたかげすえしようの 家よめ 夜目なし月毛にお乗せになった。梶原源太景季・庄四郎 なさるところに、梶原より先に庄四郎高家が、鞭と鐙とを 平 たかいえ むちあぶみ 高家は、大将軍と目をつけ、鞭と鐙とをあわせ馬を急がせあわせながら駆けつけて、急いで馬から跳び降り、「ご自 みぎわ 辷いかけ申す。汀には助け船がいくらもあったが、後ろか害など、とんでもないことです。どこまでもお供をいたそ くらまえわ ら敵は追いかけて来るし、船まで逃げられるひまもなかっ う」といって、自分の馬にかついでお乗せし、鞍の前輪に みなとがわかるもがわ はす たので、湊川・刈藻川をもさっと渡り、蓮の池を右手に見縛りつけて、自分は乗替の馬に乗って、味方の陣に帰って いたやどすま て、駒の林をも左手にして、板宿・須磨も通り過ぎて、西来た。 をさして落ちて行かれる。非常な名馬には乗っていられる、 後藤兵衛は息の続くすばらしい馬に乗っていたし、そこ おなかほっきよう 走り疲らした馬どもでは追いつけるとも思われず、ただど を素早く逃げのびて、その後熊野法師の尾中の法橋を頼っ んどん逃げのびたので、梶原源太景季は鐙を踏んばり立ち ていたが、法橋が死んでのち、後家の尼公が訴訟のために 上がり、万一当るかと遠矢を引きしばって射たところ、三上京した時に、盛長が供をして上京したところ、三位中将 さんず 位中将の馬は三頭に矢竹を深く射られて弱ったので、後藤の乳母子であったので、上下の人々にはたいてい顔を知ら 兵衛盛長は自分の馬が召されるに相違ないと思ったのか、 れていた。「ああ恥知らずの盛長だ。あれほどかわいがっ 鞭を振るって逃げて行った。三位中将はこれを見て、「ど ておられたのに、同じ所で命を捨てることもせず、思いも うした盛長、年頃日頃そうは約束していなかったのに。自 かけぬ尼公の供をしている憎らしさよ」といって、非難し 分を捨ててどこへ行くのだ」と言われるけれども、聞えな たので、盛長もさすがに恥ずかしそうで、扇をかざして顔 いふりをして、鎧につけた平家の赤い印をかなぐり捨てて、 を隠したということである。 ひおどし とおや かちじ
もろもり あきら きょふ一 きよさだ つねとし なく言われた。だいたい、兵衛佐だけが好意をもっておら章・備中守師盛・淡路守清房・尾張守清貞・若狭守経俊・ ひょうぶのしようまさあきら なりもめ・ あつもり こいのそう れるとしても、その他の源氏の者どもはどうであろうか。 兵部少輔尹明・蔵人大夫業盛・大夫敦盛、僧では、 i 一位僧 ずせんしんほっしようじのしゅぎようのうえん ちゅうかいきようじゅばうのあじゃ なまじっか一尸し。 1 こま離れてしまわれたし、波にも磯にもっ都全真・法勝寺執行能円・中納言律師忠快・経誦坊阿闍 りゅうえん ずりよう けびいし かぬ不安な心地でおられた。 梨祐円、侍では、受領・検非違使・衛府・諸司が百六十人、 きんだち いくさ そうしているうちに、小松殿の公達は三位中将維盛卿を総計七千余騎、これは東国・北国の何度もの戦で、この二、 よどむつだ はじめとして、兄弟六人、その軍勢千騎ほどで、淀の六田 三か年の間に討ちもらされてわずかに残ったものである。 がわら せきどのいん み一し おとこやま 河原で行幸に追いっき申す。大臣殿は待ち受けて、うれし 山崎の関戸院に帝の御輿を置いて、男山八幡宮を伏し拝み、 なむきみよう - ようらい そうに、「どうして、今まで」と言われると、三位中将は、 平大納言時忠卿は、「南無帰命頂礼、八幡大菩薩、帝をは 「幼い者どもが、あまりに慕いますのを、あれこれなだめ じめ我々を都にお帰し入れください」と祈られたのは悲し すかそうとして遅刻いたしました」と申されたので、大臣 いことである。めいめい後ろを振り返って見られると、空 ろくだいどの さび 殿は、「どうして六代殿をお連れにならないのか、気の強 はかすんで見え、煙ばかりが淋しく立ちのばる。平中納言 いことだ」と言われたので、維盛卿は、「行く先も頼もし教盛卿は、 くもありません」と、問われてつらい涙を流されたのは悲 はかなしなぬしは雲井にわかるれば跡はけぶりとたち しいことである。 のばるかな 落 とき 都 落ち行く平家は誰々か。前内大臣宗盛公・平大納言時 ( はかないことであるよ。家の主人は雲の遥かかなたに都を のりもり つねもりうえもんの 離れてしまい、その跡は煙となって空に立ちのばっている ) 忠・平中納言教盛・新中納言知盛・修理大夫経盛・右衛門 しげひら よ キ〕かみきょむね 第督清宗・本三位中将重衡・小松三位中将維盛・新三位中将と詠むと、修理大夫経盛は、 みちもりてんじようびと くらのかみのぶもとさぬきの 巻すけもり 資盛・越前三位通盛、殿上人では、内蔵頭信基・讃岐中将 ふるさとをやけ野の原にかへりみてすゑもけぶりのな ときぎね きよっね ありもり ただふさ みぢをそゆく 時実・左中将清経・小松少将有盛・丹後侍従忠房・皇后宮 つねまささまのかみゆきもりさつまのかみただのりのとのかみのりつねむさしのかみとも ( 焼け野原になって煙る故郷を振り返って見て、これから先 亮経正・左馬頭行盛・薩摩守忠度・能登守教経・武蔵守知 、一れもり えふ
れければ、維盛卿、「行くすゑとてもたのもしうも候はずとて、問ふにつら一問われてかえってつらさがま さり、悲しみの涙を流すこと。 「吹く風も問ふにつらさのまさる さの涙をながされけるこそかなしけれ。 語 かな慰めかぬる秋の山里」 ( 続古今 さきのないだいじんむねもりこうへいだいなごんときただへいぢゅうなごんのりもりしん たれノ、 物 落ち行く平家は誰々そ。前内大臣宗盛公、平大納言時忠、平中納言教盛、新・雑中 ) 。 家 一一信基・時実↓五八ハー注八。 うゑもんのかみきょむねほんざんみのちゅうじゃうしげひらこまつのさんみのちゅう しゆりのだいぶつねもり 平・ぢゅうなごんとももり 中納言知盛、修理大夫経盛、右衛門督清宗、本三位中将重衡、小松三位中三平知盛の長男。↓巻九「知章 くらのかみのぶもとさめきのちゅう じゃうこれもりしんぎんみのちゅうじゃうすけもりゑちぜんのさんみみちもりてんじゃうびと 将維盛、新三位中将資盛、越前三位通盛、殿上人には、内蔵頭信基、讃岐中四前の維盛・資盛・清経・有盛 ・忠房と共に重盛の子。 じゃうときぎねさちゅうじゃうきよっねこまつのせうしゃうありもりたんごのじじゅうただふさくわうごぐうのすけつねまささまの 将時実、左中将清経、小松少将有盛、丹後侍従忠房、皇后宮亮経正、左馬五中原師元の子、平清盛の養子。 延慶本にはな、 かみゆきもりさつまのかみただのりのとのかみのりつねむさしのかみともあきらびっちゅうのかみもろもりあはぢのかみきょふさを 頭行盛、薩摩守忠度、能登守教経、武蔵守知章、備中守師盛、淡路守清房、尾六平経盛の子。経正の弟。 セ南家藤原氏、知通の子。清盛 はりのかみきよさだわかさのかみつねとしひやうぶのせうまさあきらくらんどのたいふなりもりたいふあつもり ・宗盛に近侍。兵部少輔は兵部省 張守清貞、若狭守経俊、兵部少輔尹明、蔵人大夫業盛、大夫敦盛、僧には、一一 の次官。屋代本・延慶本にはない。 ゐのそうづせんしんほっしようじのしゅぎゃうのうゑんちゅうなごんのりつしちゅうくわいきゃうじゅばうのあじゃりいうゑんさぶらひ 後に加えたものか 位僧都全真、法勝寺執行能円、中納言律師忠快、経誦坊阿闍梨祐円、侍に 〈平教盛の子。延慶本には業盛 じゅりゃうけんびゐしゑふしよし は、受領、検非違使、衛府、諸司百六十人、都合其勢七千余騎、是は東国北国・敦盛の名は見えない。 九平経盛の子。一の谷で戦死。 やま どど し止二三ケ年が間、討ちもらされて纔かに残るところなり。山↓巻九「敦盛最期」。大夫は、五位 度々のいくさこ、ヒ 一六で官職のないもの。 をとこやま ときただのきゃうな ぎきせきどのゐん みこし 崎関戸院に、玉の御輿をかきすゑて、男山をふし拝み、平大納言時忠卿、「南一 0 北家藤原氏、親隆の子。権大 僧都。清盛妻二位尼の甥に当り、 むきみやうちゃうらいはちまんだいはさっ 無帰命頂礼、八幡大菩薩、君をはじめ参らせて、我等都へ帰し入れさせ給へ」清盛の養子となって二位を称した。 = 藤原顕憲の子。平時忠・時子 と祈られけるこそかなしけれ。おの / 、うしろをかへり見給へば、かすめる空 ( 清盛妻、二位尼 ) の異父兄。 最期」。
おんくび ↓一〇三ハー注一六。 正、円恵法親王も御馬より射おとされて御頸とられさせ給ひけり。 ニぞっと身にしみるさま。ここ ぶんご こくしぎゃうぶきゃうざんみよりすけのきゃう 豊後の国司刑部卿三位頼輔卿も、御所に参りこもられたりけるが、火は既は風の冷たいことをいう。 ・一じゅうと コゼウト 語 三小舅は妻の兄弟、「小兄越前 しもべ いしゃう 物におしかけたり、いそぎ川原へ逃げ出で給ふ。武士の下部どもに衣裳皆はぎとの法橋性意」 ( 東大正節本 ) は妻の 家 兄。延慶本「三位ノ兄ニ越前法橋 平られ、まッばだかでたたれたり。十一月十九日のあしたなれば、河原の風さこ章救」、元和版「 = 一位ノ兄越前法橋 四 性意」とあり、兄かもしれない。 ゑちぜんのほふげんしゃうい ちゅうげんばふ そすさまじかりけめ。三位こじうとに越前法眼性意といふ僧あり。其中間法四召使より多少上の法師。 五小袖を一一枚着て、その上に黒 いくき一 い僧衣を着た、の意。 師、軍見んとて河原へ出でたりけるが、三位のはだかでたたれたるに見あうて、 六「引き脱ぎて」の転か。元和版 こそで 、一ろ。も 「脱デ」、延慶本「引脱イテ」。 「あなあさまし」とてはしり寄り、此法師は白き小袖二つに衣着たりけるが、 ウッホ セ元和版「虚ニカブッテ」。「う から さらば小袖をもぬいで着せ奉れかし、さはなくて衣をひンぬいで投げかけたり。つほ」 ( ウッオとよむ ) は中が空の こと。「ほほかぶる」は、ほおかむ びやぐえ りすること。下に重ねる衣がなく 短き衣うつほにほほかぶッて帯もせず。うしろさこそ見苦しかりけめ。白衣な 頭からすつばりかぶったこと。 る法師ともに具しておはしけるが、さらばいそぎもあゆみ給はで、あそこ爰に〈底本「法師ともにくして」。屋 代本「法師ヲ共ニ具テ」、元和版 「法師ヲ供ニ具シテ」。熱田本「法 立ちとどまり、「あれはたが家ぞ、是は何者が宿所そ、ここはい、、 つくぞ」と、 師等ニ具シテ」。「共 ( 供 ) 」「ども」 の両解がある。 道すがら問はれければ、見る人みな手をたたいてわらひあへり。 九二行前の「さらば : ・」と同様な おんこし たしよごかう ぶんごのせう 法皇は御輿に召して他所へ御幸なる。武士どもさんみ、に射奉る。豊後少言い方。「さらば急ぎも歩み給へ かし、さはなくて」の意。 しゃうむねながむくらんぢひたたれをりえぼし ぐぶ 将宗長、木蘭地の直垂に折烏帽子で供奉せられたりけるが、「是は法皇の御幸一 0 頼経の子で頼輔の養子となる。 し シャウィ スイ モ
・も . りナよが しげめゅひ ^ 元和版「可レ乗隙モ無リケレ 盛長は、滋目結の直垂に、緋 る バ」 ( 熱田本・正節本ほば同じ ) に をどし ひさう ひま 帰 れ よれば、敵が迫り船に乗り込む隙 威の鎧着て、三位中将の秘蔵 連 もないので、となり、分りやすい よめ 家 九神一尸市旧生田区と兵庫区の間 せられたりける夜目なし月毛 高 て を流れ東川崎で海に注いでいた川 かぢはらげんだかげ め 止 一 0 神戸市長田区東尻池で海に注 に乗せられたり。梶原源太景 を しでした月 衡 すゑしゃうしらうたかいへたいしゃうぐん 重 = 神戸市長田区の西にあった池。 季、庄の四郎高家、大将軍と る す 三神戸市長田区駒ケ林町。新湊 むちあぶみ ん 川西岸の地。 目をかけ、鞭鐙をあはせてお ↓一七六ハー注一五。 みぎは ぶね 切 一四延慶本では童子鹿毛を「早走 ツかけ奉る。汀にはたすけ舟 ノ逸物ナリケレバ」としている。 いくらもありけれども、うしろより敵はおツかけたり、のがるべきひまもなか三「もみふす」は激しく走らせ疲 れさせる意。底本「み」に「りイ」と みなとがはかるもがは はすいけ こまはやしゅん りければ、湊河、刈藻河をもうちわたり、蓮の池をば馬手に見て、駒の林を弓傍書。元和版「モリ伏タル」。 一六いちすに ( どんどん ) 距離が隔 くつきゃう いたやどすま たるものだから。「ただ」は「のび 捕手になし、板宿、須磨をもうち過ぎて、西をさいてぞ落ち給ふ。究竟の名馬に 生 にのび」を修飾する。次ハー三 ( に 重は乗り給へり、もみふせたる馬共おッつくべしともおばえず、ただのびにのびげにこそにげ : こも同じ言い方。 宅矢で遠方のものを射ること。 あぶみ とほや 第ければ、梶原源太景季、鐙ふンばり立ちあがり、もしやと遠矢によッびいて射天三頭 ( 六六【 , 注一〈 ) 。馬の背 巻 の尻の方の高くなった所。 さ、つら - たりけるに、三位中将馬の三頭を篦深に射させて、よわるところに、後藤兵衛一九矢の篦 ( 矢の幹 ) が深く突き刺 きこと。 盛長、我馬召されなんずとや思ひけん、鞭をあげてぞ落ち行きける。三位中将ニ 0 「れ」は受身の助動詞。 で ニ 0 つきげ ひ のぶか 一九 かたき 2 さんず
てはならない。そのわけは、どのような男にでも連れ添っ立っことはするまいと申しましたが、こんな情けないあり さまで戦場へ出かけるので、あなたをお連れ申し、行方も て、自分の身を生かし、幼い者どももお育てなさるがよい 情けをかける人も必ずあるはずだ」といろいろと慰められわからぬ旅の空でつらい目をお見せするのも情けないこと たけれども、北の方はとかくの返事もなさらず、衣をひき です。そのうえ今度は用意もしておりません。どこの浦で も安心できる所に落ち着いたならば、そこから迎えに人も かぶり泣き伏していられる。いよいよ出発しようとなさる そで 思いきって出発なさった。中 と、袖にすがって、「都には父もなく、母もいません。あ差し上げましよう」といし よろい なたに捨てられ申してのちは、また誰と結ばれようとも思 尸の廊下に出て、鎧を着、馬を引き寄せさせ、いざ乗ろう よろい く寺、ずり となさると、若君・姫君が走り出て、父の鎧の袖と草摺に わないのに、どんな人にでも結ばれよなどとお聞きするの あわれ は恨めしい。前世からの宿縁があったので、あなたは憐み取りついて、「これはまあ、それではどこへいらっしやる のです。私も参ろう、私も行こう」と、それぞれ跡を慕っ をおかけになるにしても、他には誰でも情けをかけてくれ るはずはありません。どこまでもあなたのお供をし、同じ て泣かれるので、子どもはこのつらい世の中でもそこから きずな 野原で命を捨て、同じ水底に沈もうと約束しましたのに、 離れられない絆となるものだと思われて、三位中将はいっ むつごと うそ そうどうしようもないような様子にお見えになった。 それでは夜の寝覚めの睦言はみな嘘になってしまいました。 す・け - もり そうしているうちに、御弟の新三位中将資盛卿・左中将 落せめて、私一人ならばしかたがない、捨てられる私の憂さ - ありもり ただふさびっちゅうのかみもろもり 盛を悟りながらでも都にとどまりましよう。幼い者どもを誰清経・同少将有盛・丹後侍従忠房・備中守師盛の兄弟五 にお託しになり、どのようにしろとお考えですか。おとど騎が、馬に乗ったまま門の中に入り、庭で手綱を控え、 「行幸はもう遠くまで行っていられるようだ。どうして今 第めになるとは恨めしいことですよ」と、恨んだり、慕った 巻 まで出立なさらぬのか」と口々に申されたので、三位中将 りなさるので、三位中将が言われるには、「ほんとうにあ きわ なたは十三、私は十五からお目にかかりはじめて、火の中、は馬に乗ってお出になったが、また引き返し、縁の際に馬 おく はずみす 水の底にも共に入り、共に沈み、死の別れ路までも後れ先を寄せて、弓の弭で御簾をざざっとかき上げ、「これをご きよっね
なかごろをののこまち となる物を」。中比小野小町とて、みめかたち世にすぐれ、なさけのみちあり今著聞集』五、『十訓抄』一に同様 な説話が載る。 がたかりしかば、見る人聞く者肝たましひをいたましめずといふ事なし。され一三非常にすばらしかったので。 一四住む家の荒れはてたさま。 おもひ もら ども心強き名をやとりたりけん、はてには人の思のつもりとて、風をふせぐた一五漏さぬようにするすべもない。 一六「くもる」は雲の陰に入り光を 失うこと。ここは破れた屋根から よりもなく、雨をもらさぬわざもなし。やどにくもらぬ月星を、涙にうかべ、 家の中まで差し込んだ月星の光が、 わかな 野べの若菜、沢の根芹をつみてこそ、つゆの命をばすぐしけれ。女院、「是は流した涙に映するさまをいう。 宅以下、食物にも苦労するさま。 おんすずり一九 おん いかにも返しあるべきぞ」とて、かたじけなくも御硯召し寄せて、身づから御天「かたじけなくも」は、「身づ から : ・」にかかる。 返事あそばされけり。 一九側の者に命じて取寄せること。 一一 0 「踏み返して」と「文返して」を かける。「文返す」は返事を出す。 ただたのめ細谷河のまろ木橋ふみかへしてはおちざらめやは 三きっと落ちるにちがいない おもひふじ きよみせき むねのうちの思は富士のけぶりにあらはれ、袖のうへの涙は清見が関の波なれ小宰相の心がなびくようになるこ とをいう。「 ( め ) やは」は反語の意。 さいはひ このによ - つばう 身や。みめは幸のはななれば、三位此女房を給はツて、たがひに心ざしあさから一三「胸は富士袖は清見が関なれ 相 や煙も波も立たぬ日そなき」 ( 詞 うち すま ず。されば西海の旅の空、舟の中、波の上の住ひまでもひき具して、つひに同花・恋上 ) 。「なれや」は詠嘆を表す。 ニ三駿河 ( 静岡県 ) の歌枕。清水市 興津清見寺町にあった関所。 第じみちへぞおもむかれける。 巻 品女性の容貌のよいのはよい男 かどわきちゅうなごん ちゃくし ばっしなりもり 門脇の中納言は、嫡子越前の三位、末子業盛にもおくれ給ひぬ。今たのみ給性の愛情を得るもととなる、の意。 かたち 「容は幸の花とはかやうのことを のとのかみのりつね こさんみどの へる人とては、能登守教経、僧には中納言の律師忠快ばかりなり。故三位殿の申すべき」 ( 平治物語・一一 D 。 べんじ ニ四 ねぜり きも ニ 0 つきほし