平家物語 172 せ チウハッ 一底本目録に「樋口討罰」とある。 ヒグチノレキラ 元和版「樋口被レ斬」 ( 正節本同じ ) 。 ニ義仲と仲違いした十郎蔵人行 家が長野の城に逃げ込んだことは 巻八「室山合戦」参照。 三今の和歌山市の一部。 四淀は桂川・宇治川・木津川の 合流点。そのやや下流で淀川を渡 じふらうくらんど じゃう ひぐちのじらうかねみつ かはちのくにながの る所。その辺に古く山崎の橋がか 今井が兄、樋口次郎兼光は、十郎蔵人うたんとて、河内国長野の城へこえた かっていたが、大渡の橋はそれか きのくになぐさ りけるが、そこにてはうちもらしぬ。紀伊国名草にありときこえしかば、やが五今井の下人が樋口にばったり 四 行き会った。樋口を中心に描く途 よどおほわたり てつづいてこえたりけるが、都にいくさありと聞いて馳せのばる。淀の大渡の中で、このように「会う」相手 ( 下 人 ) を主語とする表現の時に、多 こころう七 く「思いがけず会う、ばったり会 橋で、今井が下人ゆきあうたり。「あな心憂。是はいづちへとてわたらせ給ひ う」意となる。元和版「今井カ下人 ニ行合タリ」 ( 正節本も同じ ) 。 候ぞ。君うたれさせ給ひぬ。今井殿は自害」と申しければ、樋口の次郎涙をは 六ああ情けない、残念だ。樋口 とのばら おんこころ ら / 、とながいて、「これを聞き給へ殿原、君に御心ざし思ひ参らせ給はん人の帰りが遅れたことを非難する気 持がこめられている。 しゆっけにふだう こつじきづだぎゃう 人は、これよりいづちへもおちゅき、出家入道して乞食頭陀の行をもたて、後セこれから都に行ってもむだだ という気持。樋口が都に行こうと げんざん していることは察した上での発言。 世をとぶらひ参らせ給へ。兼光は都へのばり打死して、途にても君の見参に ^ 他人に食を乞い修行すること。 いまゐのしらう 入り、今井四郎をいま一度みんと思ふそ」といひければ、五百余騎の勢、あそ頭陀は衣食住に対する貪欲を払い のけるための十二種の修行で、乞 食はその一。 こにひかへ、 ここにひかへ、おちゅくほどに、島羽の南の門を出でけるには、 ( 現代語訳三一一〇ハー ) ひぐちのきられ 樋口被討罰 げにん ど 六 うち - じに
むち が残念です。ただ、あの松原にお入りください」と申した鞭で打っても打っても馬は動かない。今井の行方が気がか ので、木曾は、「それならば」といって、粟津の松原へ馬りなので、振り仰いだ甲の内側を、三浦の石田次郎為久が を走らせて行かれる。 追いついて、弓を引きしばって矢をひょうふっと射抜いた 語 ふかで 物今井四郎はたった一騎で、五十騎ほどの中に駆け入り、 深傷なので、甲の鉢の前面を馬の頭にあててうつぶされた 家あぶみ 鐙を踏んばり立ち上がり、大声をあげて名のるには、「日 ところに、石田の郎等二人が落ち合って、ついに木曾殿の 平 たち 頃は話にも聞いていただろう。今は目でも御覧なされ。木首を取ってしまった。太刀の先に貫いて高く差し上げ、大 おんめのとご かねひら 曾殿の御乳母子、今井四郎兼平、生年三十三になる。そう声をあげて、「この日頃日本国に聞えておられた木曾殿を、 いう者がいるとは鎌倉殿までもご存じであろうぞ。兼平を 三浦の石田次郎為久がお討ち申したぞ」と名のったので、 討って鎌倉殿の御覧にいれよ」といって、射残した八本の 今井四郎は戦っていたが、これを聞いて、「今は誰をかば 矢を、弓につがえては引き、つがえては引き、矢つぎばや うために戦おうか。これを御覧なされ、東国の殿方、日本 にさんざんに射る。自分の命は顧みず、あっという間に敵一の剛の者の自害する手本だ」といって、太刀の先を口に を八騎射落す。その後、刀を抜いてあちらにせ合い くわえ、馬からさかさまに飛び落ち、太刀に貫かれるよう ちらに馳せ合い、斬ってまわるが、まともに相手をする者 にして死んでしまった。こうして、粟津の合戦というもの ぶんど がない。分捕りをたくさんにした。ただ、「射取れ」とい はなかったのだ。 よろい って、中に取り囲み、雨の降るように射たが、鎧がよいの すきま ひぐちのきられ で裏まで届かない。金ド尸 豈の亰司を射ないので傷も負わない。 樋口被討罰 木曾殿はただ一騎で粟津の松原に駆け入られたが、正月 ひぐちの かねみつ くらんどゆきいえ 二十一日日没頃のことなので、薄氷は張っていたし、深田 今井の兄、樋口次郎兼光は、十郎蔵人行家を討とうと思 かわちのくに があるとも知らすに、馬をざんぶと入れたところ、馬の頭って、国境を越えて河内国長野城に行ったが、そこでは討 なぐさ も見えなくなった。鐙で馬の腹をあおってもあおっても、 ちもらした。紀伊国名草にいると聞いたので、すぐに続し ( 原文一七二ハー ) かぶと ためひさ
木曾は万一の事があれば、法皇をお連れ申して西国へ落 きそのさいご そろ りきしゃ ち下り、平家と一緒になろうと思って、力者二十人を揃え 木曾最期 て持っていたけれども、御所には九郎義経が馳せ参って守 ともえやまぶき 護し申し上げているということが伝わったので、それなら 木曾殿は信濃から巴・山吹という二人の召使の女を連れ しかたがないといって、数万騎の大軍の中に大声あげて駆ておられた。山吹は病気のために都に残った。中でも巴は け入る。すでに討たれようとすることが何度もあったけれ色白く髪長く、器量がたいそうすぐれていた。めったにな い強弓を引く精兵で、馬上でも徒歩でも、刀を持っては鬼 ども、その度に駆け破り駆け破り通った。木曾は涙を流し て、「こんなことになろうとさえ知っていたならば、今井でも神でも立ち向おうという一人当千の武者である。荒馬 を乗りこなし、険しい坂を駆け下りるという大変な女で、 を勢田へはやらなかったのに。幼少竹馬の昔から、死ぬな よろい おおだち ら同じ所で死のうと約束していたのに、リ 男々の所で討たれ合戦となれば、木曾は札のよい鎧を着せ、大太刀・強弓を 持たせて、第一に巴を一方の大将として向けていられた。 るというのは、全く悲しい。今井の行方を聞きたい」とい って、河原を北に向って駆けるうちに、六条河原と三条河何度も手柄をたてたことでは他に肩を並べる者もない。だ 原の間で敵が襲いかかると、引き返し引き返しして、わずから今度も、多くの者どもが逃げ、あるいは討たれた中で、 うんか 七騎になるまで巴は討たれなかった。 期かな小勢で雲霞のような敵の大軍を、五、六度までも追い あわたぐち かもがわ 木曾は長坂を通って丹波路へ向うとも言われた。また、 鴨川をざざっと渡り、粟田口・松坂にもさしかかっ 曾返す。 りゅうげご しなの 去年信濃を出た時には五万余騎といわれたのに、今日竜花越えをして北国へ向うとも言われた。だが、今井の行 第四の宮河原を通る時には、主従七騎になってしまった。ま方を聞きたくて、勢田の方へ逃げて行くうちに、今井四郎 ちゅうう かねひら して、ただ一人で行く中有の旅のさびしさが思いやられて兼平も、八百余騎で勢田を守っていたが、わずかに五十騎 あわれである。 ほどになるまで討たれ、旗を巻かせて、主人の義仲が気が うちで かりなので、都に急いで引き返す時に、大津の打出の浜で、 さね ( 原文一六四ハー )
しなののくにすわのかみのみや て国境を越えたが、都で合戦があると聞いて急ぎ上京する。 たのは、「このように申すのは信濃国諏訪上宮の住人、茅 よどおおわたり みついえ みつひろ 淀の大渡の橋で、今井の下人が樋口にばったり行き会った。野大夫光家の子の茅野太郎光広だ。必ず一条次郎殿の御軍 「ああ、残念な。これからどこにと思ってお行きになるの勢を是非にと尋ねているのではない。弟の茅野七郎がその ですか。殿はお討たれになった。今井殿は自害」と申した軍の中にいるのだ。光広の子どもが二人、信濃国におるが、 ので、樋口次郎は涙をはらはらと流して、「これをお聞き 『ああ自分の父は立派に死んだのだろうか、見苦しい死に なされ殿方、わが君に忠誠をお思い申していられる人々は、方をしたのだろうか』と心配しているだろうから、弟の七 こつじきずだ これからどこへでも落ちて行き、出家入道して乞食頭陀の郎の前で討死して、子どもにはっきりと聞せようと思うた ごせ 修行もして、君の後世を弔ってさしあげてください。兼光めである。敵をより好みはしない」といって、あちらに馳 は都へ上り討死して、途ででも君にお目にかかり、今井せ合い、こちらに馳せ合い、敵三騎を斬 0 て落し、四人目 四郎ともう一度会おうと思うぞ」と言ったので、五百余騎の敵に馬を並べてひっ組んでどしんと落ち、刺しちがえて の兵は、あそこでとどまり、ここでとどまりしながら落ち死んでしまった。 こだま て行くうちに、鳥羽の南の門を出た時には、その兵はわず 樋口次郎は児玉党と親しかったので、児玉の人々が寄り かに二十騎余りになってしまった。 合って、「弓矢とる者の常、自分も人も広く交わろうとす うわ、 るのは、もしもの事のある時に、ひとまず息を休め、しば 討樋口次郎が今日すでに都に入るという噂が伝わったので、 すぎくよっづか ロ党も豪家も七条朱雀・四塚の方へ急ぎ向う。樋口の部下に らくでも生き延びようと思うためである。だから樋口次郎 樋ちのの 茅野太郎という者がいる。四塚に大勢馳せ向った敵の中へ が我々と親しく交わっていたというのも、そう思ったから 第駆け入り、大声をあげて、「この中に、甲の一条次郎殿であろう。今度の我々の手柄の賞として、樋口の命を申し の御軍勢の人がおられるか」と尋ねたところ、「どうでも受けよう」といって、使者を出して、「日頃は木曾殿の御 うち 一条次郎殿の軍に限って合戦をするというのか。誰とでも内で今井・樋口といって有名でいられたけれども、もう木 戦えばよいのに」といって、どっと笑う。笑われて名のつ曾殿はお討たれになってしまった。なんのさしつかえがあ と か
木曾殿にお会いした。中一町ばかりの所から相手をそれと といって、まっ先に進んだ。 にしきひたたれからあやおどし 見知って、主従は馬を急がせて寄り合った。木曾殿は今井 木曾左馬頭のその日の装束は、赤地の錦の直垂に唐綾縅 くわがた かぶと の手をとって言われるには、「義仲は六条河原で最期を遂の鎧を着て、鍬形を打った甲の緒を締め、いかめしい作り 語 物げるつもりであったが、お前の行方を知り会いたくて、多の大太刀をさし、石打ちの矢のその日の合戦に射て少々残 かしらだか しげどう 家 くの敵の中を駆け破って、ここまでは逃れて来たのだ」。 ったのを、頭高にするように背負い、滋籐の弓を持って、 平 おにあしげ 今井四郎は、「御ことばはまことにかたじけなく存じます。 有名な木曾の鬼葦毛という馬で非常に肥えてたくましいの かねひらせた きんぶくりんくら あぶみ 兼平も勢田で討死いたすべきでしたが、あなたのお行方が 、金覆輪の鞍を置いて乗っていた。鐙を踏んばり立ち上 気がかりなので、ここまで参ったのです」と申した。木曾がり、大声をあげて名のるには、「昔は聞いたであろう、 殿が、「死ぬならば同じ所でとの約束はまだ朽ちていなか木曾冠者という者を、今は見るであろう、左馬頭兼伊予守 は った。自分の軍勢は敵に押し隔てられ、山林に馳せ散って、朝日の将軍源義仲であるぞ。お前は甲斐の一条次郎である ひょうえのすけ 今このあたりにもいるだろうよ。お前が巻かせて持たせて と聞いている。互いによい敵だぞ。義仲を討って兵衛佐に いる旗を上げさせろ」と言われるので、今井の旗を差し上見せろや」といって、大声をあげて駆ける。一条次郎は、 げた。京から逃げた兵というのでもなく、勢田から逃げた「今名のったのは大将軍だぞ。討ちもらすな兵ども、もら 者というのでもなく、今井の旗を見つけて三百余騎が馳せすな若者ども、討てや」といって、大軍の中に義仲を取り 集まる。木曾はたいそう喜んで、「この軍勢があれば、ど籠めて、自分が討ち取ろうと思って進んだ。木曾の三百余 たてさま くもで うして最後の合戦をせずにいられよう。そこに密集して見騎は、六千余騎の中を縦様・横様・蜘蛛手・十文字に駆け えるのは誰の軍であろうか」。「甲斐の一条次郎殿と聞いて破って、後方へつつと出ると、五十騎ばかりになってしま といの さねひら おります」。「軍勢はどれくらいあるのだろう」。「六千余騎った。そこを討ち破って行くうちに、土肥二郎実平が二千 ということです」。「それではよい敵であるな。同じ死ぬの余騎で守っている。それも討ち破って行くうちに、あそこ なら、よい敵と戦って、大軍の中で討死もしたいものだ」 では四、五百騎、ここでは二、三百騎、百四、五十騎、百 か
つよゆみせいびやう うちもの とうじようろく ぐれたり。ありがたき強弓精兵、馬の上、かちだち、打物もッては鬼にも神に闘諍録 ) とも、中原 ( 中三権頭 ) 兼 遠の娘で義仲の傅子 ( 源平盛衰記 ) いちにんたうぜんつはもの くつきゃう あくしょ ャもい , っ もあはうどいふ一人当千の兵者なり。究竟のあら馬乗り、悪所おとし、 ヤマプキ = 未詳。熱田本・元和版 - ・欸冬」。 よろひ おほだち つよゆみ いつばう といへば、さねよき鎧着せ、大太刀、強弓もたせて、まづ一方の大将にはむけ三召使の女。延慶本など「美女」。 ビジョ 元和版「美女」。 どどかうみやう られけり。度々の高名肩をならぶる者なし。されば今度も、おほくの者どもお一三尊敬の助動詞。「猫間」「河原 合戦」などこれまでの諸章とは異 なり、本章では義仲に対して敬語 ちゅき、うたれける中に、七騎が内まで巴はうたれざりけり。 を使うことが多い。これを五十嵐 . ながさか たんばぢ りゅうげごえ 力は義仲に対する同情の表れとす 木曾は長坂をへて丹波路へおもむくともきこえけり。又竜花越にかかッて北 る ( 軍記物語研究 ) 。 国へともきこえけり。かかりしかども、今井がゆくゑをきかばやとて、勢田の一四馬で険しい坂を下りること。 さね 一五札。甲冑の材料となる金属ま いまゐのしらうかねひら たは皮革の長方形の小片。これを 方へ落ち行くほどに、今井四郎兼平も、八百余騎で勢田をかためたりけるが、 綴り合せて甲冑を作る。「札よき 鎧は傷を受けにくい堅固な鎧。 わづかに五十騎ばかりにうちなされ、旗をばまかせて、主のおばっかなきに、 一六京都市北区鷹峰の北西約二 うちで キロ」の所にある坂。丹波への道筋。 期みやこへとッてかへすほどに、大津の打出の浜にて、木曾殿にゆきあひ奉る。 宅京都市左京区大原から近江国 曾たがひ 木互になか一町ばかりよりそれと見知ッて、主従駒をはやめて寄りあうたり。木滋賀郡竜華村 ( 大津市内 ) に通する とちゅうとうげ 北陸地方への道。途中峠を越える よしなか ので途中越ともいう。 第曾殿、今井が手をとッて宣ひけるは、「義仲六条河原でいかにもなるべかりつ 巻 一〈琵琶湖西岸の地名。大津市石 かたき れども、なんぢがゆくゑの恋しさに、おほくの敵の中をかけわッて、これまで場町の辺。 一九約一〇九 ごぢゃう はのがれたるなり」。今井四郎、「御諚まことにかたじけなう候。兼平も勢田で = 0 貴人の命令。仰せ。おことば。 かた 一九 なか しゅう せた めのとご
る。その軍勢は総計二千余人、瀬尾太郎を先頭にして、備用意しております」といって、すぐれて強弓をひく精兵数 ふくりゅうじなわて ささせまり 前国の福隆寺縄手の篠の迫を城郭に造り、幅二丈深さ二丈百人を選び集め、矢先を揃えて、次から次へとさんざんに さかもぎ たかやぐら かいだて に堀を掘り、逆茂木を引き、高矢倉を立て、掻楯を組んで、 射る。まともに進むことができそうにもない今井四郎を たてねのい すわふじさわ 矢先を揃えて、義仲の来るのを今か今かと待ちかまえた。 はじめとして、楯・根井・宮崎三郎・諏訪・藤沢などとい かぶとしころ 備前国に十郎蔵人の置いていられた代官が瀬尾に討たれ う血気にはやった兵どもが甲の錣を傾けて、射殺される人 ・に、ん おめ て、その下人たちが逃げて京へ上る時に、播磨と備前の国 や馬を、取り入れ引き入れして堀を埋め、喚き叫んで攻め 境の船坂という所で、木曾殿にお会いする。このことを申戦う。あるいは左右の深田に馬を乗り入れ、馬の草脇・ むながいづく したところ、「けしからぬ、斬り捨てておくべきであった 鞅尽し・太腹などまでも泥につかるのを物ともせず、群 のに」と後悔なさったので、今井四郎は、「だからこそ申 がって押し寄せ、あるいは谷の深みをも避けす、駆け入り つらだましい したのです。あいつの面魂は、ただ者とは見えません。何駆け入りして、一日中戦い暮した。夜に入って、瀬尾が呼 かりむしゃ 度も斬ろうと申しましたのに、お助けになって」と申す。 び集めた駆武者どもは、みな攻め落されて、助かる者は少 木曾殿は、「考えてみるとどれほどのこともあるまい。追 討たれる者が多かった。瀬尾太郎は篠の迫の城郭を かいだて つかけて討て」と言われた。今井四郎は、「ます下ってみ破られて退却し、備中国板倉川のほとりで掻楯を組んで敵 を待ちかまえた。今井四郎が間もなく押し寄せ攻めたので、 期ましよう」といって、三千余騎で急ぎ下る。福隆寺縄手は、 やまうつばたかえびら 。ドしオカみな射尽してしま 尾幅が弓一つほどで、距離は西国道の一里くらいである。左山靫、竹箙に矢のあるうちま方、 ' こ。、、 瀬 右は馬の足も立たないほどの深い田なので、三千余騎の兵ったので、我先にと落ちて行った。 瀬尾太郎はただの主従三騎にまで討たれ、板倉川のほと 第士が心だけは先にとはやるけれども、馬にまかせて歩かせ て行った。押し寄せて見ると、瀬尾太郎が矢倉に立ち上が りに着いて、みどろ山の方へ落ちて行く時に、北国で瀬尾 なりずみ 四つて大声をあげて、「去る五月から今まで、かいのない命を生捕りにした倉光次郎成澄が、「弟は討たれてしまった、 を助けていただいたおのおの方のお志に対しては、これを無念なことだ。他の者はともかく、瀬尾だけはまた生捕り くさわき
りようきせなが 騎ほどの中を駆け破り駆け破りして行くうちに、主従五騎領の着背長を重く思われるはずがありましよう。それは味 ともえ 方に軍勢がありませんので、気おくれからそうは思われる になってしまった。五騎のうちまで巴は討たれなかった。 のでしよう。兼平一人おりましても、他の武者千騎とお思 木曾殿は、「お前は、早く早く、女だから、どこへでも行 いください。矢が七、八本ありますので、しばらく防ぎ矢 け。自分は討死しようと思うのだ。もし人手にかかるなら あわづ ば、自害をする覚悟なので、木曾殿が最後の合戦に女を連をいたしましよう。あそこに見えますのを粟津の松原と申 れておられたなどと言われるのもよろしくない」と言われ しますが、あの松の中でご自害なさいませ」といって、馬 たけれども、依然として落ちても行かなかったが、あんま を急がせて行くうちに、また、新手の武者が五十騎ほど出 て来た。「殿はあの松原にお入りください。兼平はこの敵 り何度も言われ申して巴は、「ああ、よい敵がいるといし な。最後の合戦をしてお見せ申そう」といって、控えてい を防ぎましよう」と申したので、木曾殿の言われるには、 む、しのくに もろしげ 「義仲は都で最後の合戦をするべきだったのが、ここまで るところに、武蔵国で評判の大力の持主、御田八郎師重が 三十騎ほどで出て来た。巴はその中に駆け入り、御田八郎逃げて来たのは、お前と同じ所で死のうと思うためである。 に馬を並べて、むんずとっかんで引き落し、自分の乗った 別々の所で討たれるよりも、同じ所で討死もしよう」とい まえわ って、馬の鼻を並べて駆けようとなさると、今井四郎は馬 鞍の前輪に押しつけて、少しも動かさず、首をねじ切って から飛び降り、主君の馬のロに取り付いて申すには、「弓 期捨ててしまった。その後、鎧・甲などを脱ぎ捨て、東国の 曾方へ逃げて行く。手塚太郎は討死する。手塚の別当は逃げ矢取りは常日頃、どんな功名がありましても、最期の時に て行った。 不覚をすると、長い間の瑕となるものです。お体はお疲れ になっています。後続の味方はありません。敵に間を押し 第今井四郎と木曾殿と主従二騎になって、木曾殿が言われ 巻 るには、「これまではなんとも感じなかった鎧が今日は重隔てられ、つまらぬ人の家来に組み落されて、お討たれに なったら、『あれほど日本国にその名が聞えていられた木 四くなったそ」。今井四郎の申すには、「お体もまだお疲れに なっていられません。御馬も弱っておりません。なんで一曾殿を、誰それの家来がお討ち申した』などと人が申すの おんだの
、くらもある田どもからせてま草にせ一強いて、無理に、いちずに。 が、馬一疋づつかうて乗らざるべきか。し そうすべきでないのに、強引にそ くわじやばら ひやうらうまい とが んを、あながちに法皇のとがめ給ふべき様ゃある。兵粮米もなければ、冠者原うしているの意。咎めるべきでも ないのに、法皇が咎めているのだ ロどもニ 物共がかたほとりについて時々いりどりせんは、何かあながちひが事ならむ。大という、義仲の反発心が示される。 家 ニ片隅。都のはずれ、場末など。 つづみはうぐわんきようがい じんげみや / 、ごしょ カタホト 平臣家や宮々の御所へも参らばこそ僻事ならめ、是は鼓判官が凶害とおばゅをそ。元和版「西山東山ノ片辺リニ付テ」。 三いちずにひが事だろうか。ひ よりとも五 いく * ) こんどよしなか そのつづみうちゃぶ が事でない事柄をひが事としてい 其鼓め打破って捨てよ。今度は義仲が最後の軍にてあらむずるぞ。頼朝が帰り る人に対しての、反発を表す。 みな いくさ きかむ処もあり。軍ようせよ、者ども」とてうッたちけり。北国の勢ども皆落四人を害そうとたくらんだ行い 五屋代本「返聞ン処モ有リ」。回 わがいくさきちれい わづ り回って耳に入る、伝え聞く。頼 ち下ッて、纔かに六七千騎ぞありける。我軍の吉例なればとて、七手につく 朝が伝え聞くということもある、 まひぐちのじらうかねみつ だから戦いを立派にせよ、の意。 る。先づ樋口次郎兼光、二千 る 九 六屋代本「三千余騎」 ( 樋口の勢 ぎ いまぐまの からめて 寄は五百余騎 ) とある。延慶本でも 騎で新熊野のかたへ搦手にさ 押今井四郎の軍が三百余騎、残りは 一千余騎に過ぎないとある。 しつかはす。のこり六手はお 勢 ↓二一ハー注一一 0 。 でうり・一う・ 曾〈竜大本・熱田本では今井四郎 の / 、がゐたらむずる条里小 へ兼平。延慶本でも新熊野にまわっ かはら しつでうかは たのは今井四郎であった。 路より川原へ出でて、七条河 寺 住 九今熊野 ( 延慶本 ) 。永暦元年 ( 一 ら かんじよう 一六 0 ) 後白河法皇が熊野権現を勧請 原にて一つになれと、あひづ 所 して建てた社。京都市東山区内。 御 院法住寺殿の東南に当る。 をさだめて出で立ちけり。 ところ びき ひがこと ゃう こと ななて くさ だい
ながつな 申しおいてある。大臣殿へもこのことを申し上げてありま 次に平家の方から、高橋判官長綱が五百余騎で進んだ。 ひぐちの かねみつ かねゆき すよ」と言ったので、全員がこの意見に賛同した。そこで木曾殿の方から、樋口次郎兼光、落合五郎兼行が三百余騎 その約束に背くまいというのか、その座にいた者は、一人で急ぎ向う。平家の方では、しばらく支え防戦していたが、 かりむしゃ も残らず北国でみな死んだのは痛ましいことである。 高橋の軍勢は諸国からの駆武者であるので、一騎も戦いの しのはら さて、平家は人馬を休息させて、加賀国篠原に陣を構え場に出ることなく、我先にと逃げて行った。高橋は気だけ る。同じ年の五月二十一日の午前七時過ぎに、木曾は篠原は強くたけだけしいつもりだが、背後に続く兵がまばらに とき に攻め寄せて鬨の声をどっとあげる。平家方では、畠山庄なったので、どうしようもなく退却する。ただ一騎で逃げ じ。しし 4 う・ しげよしおやまだの ありしげ にゆうぜんの ゆきしげ 司重能・小山田別当有重、この人たちは去る治承から今ま て行くところに、越中国の住人入善小太郎行重がよい敵 あぶみ で京都に呼ばれ閉じ込められていたのだが、「お前たちは だと目をつけ、馬に鞭を入れ鐙をあおって馬を飛ばしてや 老練な武士どもである。戦いの進め方をも指図しろ」と命って来て、馬を並べてむずと組みつく。高橋は入善をつか くらまえわ ぜられて、北国へ向けられた。この兄弟は、三百余騎で陣んで鞍の前輪に押しつけ、「お前は何者だ、名のれ、聞こ かねひら の前面に進んだ。源氏の方からは、今井四郎兼平が三百余う」と言ったので、「越中国の住人、入善小太郎行重、生 騎で相対する。畠山と今井四郎とは、初めは互いに五騎を年十八歳」と名のる。「ああ痛ましい。去年亡くした長綱 戦出せば五騎、十騎出せば十騎出して勝負をさせ、後には両の子も今年は生きていたら十八歳だ。お前の首をねじ切っ 合 て捨てることもできるけれども、助けてやろう」といって 原軍入り乱れて戦った。五月二十一日の正午の頃、風は全く 篠 なくて草もそよりともしないほど照りつける太陽のもとで、許した。自分も馬から降り、「しばらくここで味方の軍を 第兵士どもは我こそ劣るまいと戦うと、全身から出る汗は水待とう」といって腰を下ろし休んでいた。入善が、「自分 巻 を流すようである。今井の方でも多くの兵が討たれた。畠 を助けてくれたが、すばらしい敵だ、何とかして討ちたい 山の家子・郎等も討たれて残り少なになり、カ足りずに退ものだ」と思って、その場にすわると、高橋は気を許して 却する。 いろいろ話をした。入善は非常に動作の速い男で、刀を抜 いえのこ な