よろひそで ひもあへず泣かれければ、庭にひかへ給へる人々、皆鎧の袖をぞぬらされける。貞、斎藤六宗光」とある。宗貞・ 宗光兄弟の名は『尊卑分脈』による さいと、つ′一 さいとうろく ここに斎藤五、斎藤六とて、兄は十九、弟は十七になる侍あり。三位中将のと河合斎藤家の流れの宗長の子に 見える。また前田本『尊卑分脈』で 御馬の左右のみづっきにとりつき、いづくまでも御供仕るべき由申せば、三位は実盛の子盛房に「斎藤五」と注記 し、その弟を「某斎藤六」とする。 さいとうべったう なんぢらしき 中将宣ひけるは、「おのれらが父斎藤別当北国へくだッし時、汝等が頻りに供 = 馬の轡の左右で手綱を結びつ ける所。 せうどいひしかども、『存するむねがあるそ』とて、汝等をとどめおき、北国三格助詞「と」。上の長音にひか れて連濁したもの。 つひうちじに へくだッて遂に討死したりけるは、かかるべかりける事を、ふるい者でかねて一三世の情勢が平家に有利に展開 せず、このように都を離れなけれ ばならないことをいう。 知りたりけるにこそ。あの六代をとどめて行く に、心やすう扶持すべき者のな 一四経験豊富で思慮の深い老人。 きぞ。ただ理をまげてとどまれ」と宣へば、カおよばず涙をおさへてとどまり一五声を限りに。「はかり」は限度 ・際限 ひごろ なさけ ぬ。北の方は、「としごろ日比是程情なかりける人とこそ兼ねても思はざりし一六六波羅は京都市東山区六波羅 みつじ 蜜寺の辺。清盛及び平家一門の邸 みすほか か」とて、ふしまろびてぞ泣かれける。若公、姫君、女房達は、御簾の外まで宅があった。池殿は京都市東山区 落 池殿町にあった頼盛邸。 都 盛まろび出でて、人の聞くをもはばからず、声をはかりにそをめきさけび給ひけ宅重盛・維盛の邸で、六波羅屋 形の東南部にあった。 七る。此声々耳の底にとどまッて、西海のたっ浪のうへ、吹く風の音までも聞く天場所不明。屋代本・延慶本に 巻 様にこそ思はれけめ。 一九清盛の別邸。八条通の北、大 宮通の西。 ろくはら いけどの一セ はつでう 平家都を落ち行くに、、 六波羅、池殿、小松殿、八条、西八条以下、一門の = 0 公卿・殿上人。 さう おとと おんとも にしはつでういげ さぶらひ い 0
覧なさい、おのおの方。幼い者どもがあまりに慕いますのわずに、出せるだけの大声でわめき叫ばれた。この声々が で、あれこれとなだめておこうとしているうちに、思いの耳の底に残って、西海の立っ波の上で吹く風の音までも、 ほかに遅れ申した」と言われるや否や泣かれたので、庭に 泣き声を聞くように思われたことであろう。 語 よろい 物控えていられた人々はみな涙で鎧の袖を濡らされたのであ 平家は都を落ちて行く時に、六波羅の池殿、小松殿、八 けいしよううんかく 条、西八条以下、一門の卿相雲客の家々二十数か所、その 平 この場に斎藤五・斎藤六といって、兄は十九、弟は十七従者の多くの宿所、京白河の四、五万軒の民家を一度に火 になる侍がいた。三位中将のお馬の左右のみずつきに取り をつけてみな焼き払った。 ついて、どこまでもお供するつもりだということを申すと、 せいしゆりんこう 三位中将が言われるには、「お前らの父親、斎藤別当 ( 実 聖主臨幸 もり 盛 ) が北国へ下った時、お前らがしきりに供をしようと言 ったけれども、斎藤別当は、『考えることがある』といっ これらの邸宅のある所は、かって天皇のお出ましになら て、お前らを京に残しておいて、北国へ下ってとうとう討れた地である。その宮殿の門も礎石を残すだけであり、天 みこし 死したのは、こうなるはずのことを、経験豊富な者なので皇の御輿も、その寄せられた跡だけを残している。ある所 前もってわかっていたのであろう。あの六代を残して行く は、后妃が宴を開かれた場所である。その御殿の跡に吹く のだが、安心して託しておける者がいない。ただ無理では風の音も悲しく、後宮の庭には愁いを含んだ露が置いてい とばり あろうが都に残ってくれ」と言われるので、どうしようも る。香りに満ちた、あざやかな緑の帳のつけられた部屋、 なく涙をこらえてあとに残った。北の方は、「長、 し「いっ鳥を狩る林と魚を釣る池のある館、大臣公卿の邸、殿上人 もこれほど情けのない人とは前レ。′ こま少しも思わなかった」 の家、これらは多くの日数をかけて造られたものであるが、 みもだ かいじ人 といって、身悶えしてお泣きになった。若君・姫君・女房あっという間に灰燼となってしまった。まして、郎従の粗 ぞうにん たちは、御簾の外までころがり出て、他人の聞くのもかま末な家、雑人の小屋については言うまでもない。火はひろ さわ やかた
おいむしゃ し、そのうえ老武者ではあり、手塚の下に組み伏せられて斎藤別当は兼光に向って、いつも話として申しておりまし しまった。また、手塚の郎等があとから追いかけるように た。『六十を過ぎて戦いの場に向うようなことがあれば、 出て来たのに首を取らせ、木曾殿の御前に急ぎ参って、 その時は鬢鬚を黒く染めて若々しくしようと思うのだ。そ くせもの わかとのばら 「光盛はまことに奇妙な曲者と組んで討ち取りました。侍の理由は若殿原と競って先駆けをしようとするのもおとな かと見ますと錦の直垂を着ております。大将軍かと見ますげないし、また老武者だといって人にばかにされるのも口 とあとに続く軍勢もおりません。名のれ名のれと責め立て惜しいことだろう』と申しておりましたが、ほんとうに染 ましたけれども、最後まで名のりません。ことばは関東な めておりましたのですな。洗わせて御覧なさい」と申した まりでした」と申すと、木曾殿は、「ああ、これは斎藤別当ので、「そうもしているのだろう」といって洗わせて見ら - 」、つ・けのくに おさな であろう。それならば義仲が上野国へ越えて行った時、幼れると、白髪になってしまった。 いとま 目に見たところでは、白髪まじりであったぞ。今はきっと 錦の直垂を着ていたことは、斎藤別当が最後の暇を乞い びんひげ むねもり 白髪になっているであろうに、鬢や鬚の黒いのはおかしい。 に大臣殿 ( 宗盛 ) に参って申すには、「実盛一人のことでは ひぐちの 樋口次郎は馴れ遊んで見知っているだろう。樋口を呼べ」 ありませんが、先年東国へ向いました時、水鳥の羽音に驚 するがのくにかんばら といって樋口が呼ばれた。樋口次郎はただ一目見て、「あ いて、矢一本さえも射ずに、駿河国の蒲原から京に逃げて あ痛ましい、斎藤別当でございました」。木曾殿が、「それ参りましたこと、全くこのことだけが老後の恥辱でござい 盛ならば、今は七十も過ぎ、白髪になっているであろうに、 ます。今度北国へ向っては、きっと討死をいたしましよう。 実 鬢や鬚の黒いのはどうしてか」と言われると、樋口次郎は それにつけては、実盛はもと越前国の者でございましたけ 第涙をはらはらと流して、「それですので、そのわけを申しれども、近年ご領地のことに関して武蔵国の長井に居住し 上げようと思いますが、あまりに哀れで思わず涙がこばれておりました。事のたとえがございますよ。故郷へは錦を ましたよ。弓矢を取る者はちょっとした所でも思い出にな着て帰れということがございます。錦の直垂をお許しくだ ることばをかねがね使っておくべきことでございましたな。 さい」と申したので、大臣殿は、「けなげにも申したもの め
主をうたせじとなかにへだたり、斎藤別当にむずとくむ。「あッばれ、おのれころを、「それこそ優なれ」と続け て言ったもの。 につぼんいちかう まへわ は日本一の剛の者とくんでうずなうれ」とて、とッて引寄せ、鞍の前輪におし一 = 敬称の対称代名詞。 くび 一四見下げる。名のらないのは相 つけ、頸かききッて捨ててンげり。手塚太郎、郎等がうたるるを見て、弓手に手を小者と見下げたことになるの で、こう言った。「避くる」とする く ) ずり まはりあひ、鎧の草摺ひきあげて二刀さし、よわる処にくんでおつ。斎藤別当説もある。屋代本「嫌フ」。 一五「組みてんずな、うれ」の転。 おいむしゃ 心はたけく思へども、 いくさにはしつかれぬ、其上老武者ではあり、手塚が下「な」は感動の意を添える終助詞。 「うれ」はののしる意を含んだ対称 になりにけり。又手塚が郎等おくれ馳せにいできたるに頸とらせ、木曾殿の御代名詞、おのれ、汝。 一六腰から下を覆うように鎧の胴 の部分から垂らしたもの。 まへに馳せ参ッて、「光盛こそ奇異のくせ者くんでうッて候へ。侍かと見候へ 宅不思議。「くせ者」は奇妙な者。 ば錦の直垂を着て候。大将軍かと見候へばつづく勢も候はず。名のれ名のれと一〈坂東は関東とも。足・碓 以東の諸国。口氏文典に「一般に つひ ばんどうごゑ せめ候ひつれども、終になのり候はず。声は坂東声で候ひつる」と申せば、木物言いが荒く鋭くて、多くの音節 を呑み込んで発音しない」とある。 ニ 0 。か、つづけ . 曾殿、「あッばれ、是は斎藤別当であるごさんめれ。それならば義仲が上野へ一九前に置かれた首をさす。 ニ 0 「にこそあるめれの転 さだめてはく 盛こえたりし時、をさな目に見しかば、しらがのかすをなりしそ。いまは定而白 = 一熱田本「糟尾」、元和版「糟尾」。 はっ 白髪まじりの毛髪。ごま塩頭。 ひぐちのじらう 七髪にこそなりぬらんに、。 ひんびげの黒いこそあやしけれ。樋口次郎はなれあそ「カスヲナ白イト黒イニ交ワッ 巻 タコト」 ( 日葡辞書 ) 。 びん ひげ 一三鬢 ( 左右側面の頭髪 ) と鬚。 ンで見知ッたるらん。樋口召せ」とて召されけり。樋口次郎ただ一目みて、 ニ三「こそ」によって、他はとにか く黒いことの変な点を特にいう。 「あなむざんや、斎藤別当で候ひけり」。木曾殿、「それならば今は七十にもあ しゅう ・は ひきょ ゅんで おん
またのの かげひさ さねもり いとう・の そ、それ渡れ」といって、二万余騎の大軍はみな水に入っ った者には、俣野五郎景久・長井斎藤別当実盛・伊東九郎 すけうじうきすの しげちかましもの しげなお て渡った。予想どおり十郎蔵人行家は、敵にさんざんに蹴祐氏・浮巣三郎重親・真下四郎重直があり、これらの者は 散らされ、退却して馬を休息させているところに、木曾殿合戦のあるまでしばらく休もうといって、毎日寄り合って 語 物が駆けつけ、「やつばりそうであった」といって、新手の二 は、めいめいまわり持ちで酒宴を開いて、気をまぎらして 家 万余騎をかわりに入れ、平家三万余騎の中へ大声あげて駆 いた。まず実盛のもとに集まった時に、斎藤別当が、「つ 平 け入り、もみにもんで火の出るほどに激しく攻めた。平家 くづくこの世の中の様子を見ると、源氏の方は強く、平家 の兵どもはしばらくくいとめて防戦したけれども、支えき の方は敗色が濃くお見えになっている。さあおのおの方、 きそどの れずにそこも結局攻め落される。平家の方では、大将軍の木曾殿へ参ろう」と申すと、みんなは、「そうだなあ」と とものり きよもり 三河守知度がお討たれになった。この人は入道相国清盛の賛同した。次の日また浮巣三郎のもとに集まった時、斎藤 末子である。侍どもも多く死んでしまった。木曾殿は、志別当は、「それにしても昨日私の申したことはどうであろ のと 保の山を越えて能登の小田中、親王の塚の前に陣を構える。 うか、おのおの方」と聞いた。その中で、俣野五郎が自分 から進んで申すには、「我々はなんといっても東国ではみ しのはらがっせん 篠原合戦 んな人に知られた、有名な者である。形勢がよいからとい って、あちらへ参ったりこちらへ参ったりするということ そこで義仲は諸社へ神領となる土地を寄進なさった。も見苦しいにちがいない。他人のことは知らないが、景久 すごうやしろ はちまん 山へは横江・宮丸、菅生の社へは能美の庄、多田の八幡へ に限っては平家の味方をしてどのようにでもなろう」と申 ちょうや はんばら へいせんじ あぎわら は蝶屋の庄、気比の社へは飯原の庄を寄進する。平泉寺へしたので、斎藤別当は嘲笑って、「ほんとうはおのおの方 は藤島七郷を寄進なさった。 の御心を誘って試してみようと思って申したのだ。そのう ひょうえのすけよりともどの 先年石橋山の合戦の時、兵衛佐頼朝殿に弓を引いた者ど え、実盛は、今度の合戦に討死しようと覚悟を決めており もは、都へ逃げ上って平家方に仕えていた。その中の主だ ます。二度と都へ参るまいということを、平家の方々にも ( 原文三一一ハー ) さん ち こだなか ゆきいえ
入口ニ五 の子。号越前。威儀師は法会など で指揮する役僧。次の稲津新介・ 斎藤太も則光の子孫。 宅景実の子。実澄。越前介。 ひうちがっせん 一 ^ 実遠の子。実直。斎藤実盛の 火打合戦 父。越前の住人。 一九藤原忠頼 ( 加賀斎藤の始 ) の子 孫。光家の子。加賀の住人。 しなの かの ゑちぜんのくにひうちじゃう 木曾義仲身がらは信濃にありながら、越前国火打が城をぞかまへける。彼ニ 0 藤原忠頼の子孫。富樫次郎家 一九 通の子、家経か。加賀の住人。 じゃうくわく へいせんじのちゃうりさいめいゐぎし いなづのしんすけさいとうだはやしのろくらうみつあきら 三「土田・武部」は能登、「宮崎・ 城にこもる勢、平泉寺長吏斎明威儀師、稲津新介、斎藤太、林六郎光明、 ニ 0 石黒・入善・佐美」は越中の住人。 とがしのにふだうぶっせい みやざきいしぐろにふぜんさみ はじめ っちだたけべ 富樫入道仏誓、土田、武部、宮崎、石黒、入善、佐美を初として、六千余騎こそ一三福井県南条郡を南から北へ流 れる川。下流は日野川 くつきゃう ばんじゃくそばだ こもりけれ。もとより究竟の城槨なり。盤石峙ちめぐッて、四方に峰をつらねニ三燧の南で日野川に合流する川 ニ四枝・幹を逆さに立て敵を防ぐ のうみがはしんだうがは たり。山をうしろにし、山をまへにあっ。城槨の前には能美河、新道河とて流れもの。ここは水をせき止めるため。 ニ五組み立てたので。 さかもぎ おちあひおほぎ ニ六以下「龠淪たり」まで『白氏文 たり。二つの川の落合に大木をきッて逆茂木にひき、しがらみをおびたたしう こんめいち 戦 集』三の漢武帝が造った昆明池を と - っギ ) い みづうみ ニ六なん 打かきあげたれば、東西の山の根に水さしこうで、水海にむかへるが如し。影南詠んだ文を引く。南山は終南山、 滉漾 ( 『文集』瀁 ) は深く広いさま。 くわうやう ゐんりん かのむねっち ざんひた せいじっ くれなゐ 七山を浸して青くして滉漾たり。浪西日を沈めて紅にして龠淪たり。彼無熱池の奮淪は波紋の立っさま。 毛仏語。閻浮提の中心にある池。 こん、 こんめいち なぎさ とくせい 底には金銀の砂をしき、昆明池の渚には徳政の舟を浮べたり。此火打が城の築夭善政を行う船の意か。 ニ九人工の池。 三 0 たやす 池には、堤をつき、水をにごして、人の心をたぶらかす。舟なくしては輙うわた三 0 深さなどを分らなくするため。 み ニ九 つき
くわがた にしきひたたれもえぎおどしよろい ので、赤地の錦の直垂に萌黄縅の鎧を着て、鍬形を打った いて飛びかかり、高橋の甲の内側を二回刺す。そうしてい きりふ かぶと こがねづく たち 甲の緒を締め、金作りの太刀をさし、切斑の矢を背に負い るうちに、入善の家来が三騎おくればせに来て一緒になっ きんぶくりんくら れんぜんあしげ しげどう た。高橋は気だけは強くたけだけしいつもりだが、運が尽滋籐の弓を持って、連銭葦毛の馬に、金覆輪の鞍を置いて 語 きそどの みつもり 物きてしまったのだろうか、敵はたくさんいるし、痛手は負乗っていた。木曾殿の方から、手塚太郎光盛がよい敵だと 家 目をつけ、「ああ感心な。どういう人でいらっしやるので、 ってしまったし、その場でとうとう討たれてしまった。 平 一ありくに あなた方の軍勢はみな逃げましたのに、ただ一騎残ってい また、平家の方から武蔵三郎左衛門有国が、三百騎ほど で、大声をあげて突撃する。源氏の方からは、仁科・高らっしやるのか、けなげなことだ。お名のりください」 とことばをかけたので、「そういうあなたはどなたか」。 梨・山田次郎が五百余騎で急ぎ向う。しばらく防戦してい かねざしのみつもり しなののくに 「信濃国の住人、手塚太郎金刺光盛」と名のった。「さては たが、有国の方の軍勢が多く討たれてしまった。有国は敵 互いによい敵だ。ただしあなたを見下げるわけではない、 兵の中に深入りして戦ううちに、矢はみな射てしまって、 自分は考えることがあるので名のるまいそ。寄って来い 自分の馬も射られて、徒歩になり、刀を抜いて戦ったが、 敵を多く討ち取ったものの、矢を七、八本、体に射立てら組もう、手塚」といって、馬を並べるところに、手塚の郎 れて、立ったままで死んでしまった。大将がこのようにな等があとから急いで追って来て、主を討たせまいと間に入 り、斎藤別当にむずと組む。「あつばれ、お前は日本一の ったので、その軍勢はみな逃げ去った。 剛の者と組もうとするのだな、おのれ」といって、捕え まえわ て引き寄せ、鞍の前輪に押しつけて首をかき切って捨てて 実盛 しまった。手塚太郎は郎等が討たれるのを見て、相手の左 また武蔵国の住人長井斎藤別当実盛は、味方はみな逃げ手にまわって組みつき、鎧の草摺を引き上げて二刀刺し、 て行ったけれども、ただ 一騎引き返しては敵に当り、引き弱るところを組みついて馬から落ちる。斎藤別当は、気だ いく一 けは強くたけだけしいつもりだが、戦には戦い疲れている 返しては敵に当りして防戦する。考えていることがあった し - む寺一しのくに さね - もめ・ む寺、しの かぶと さねもり にしなたか
きのふ 一九なんといっても。あること 又浮巣三郎が許に寄りあひたりける時、斎藤別当、「さても昨日申しし事はい ( ここは都に逃れて平家に身を寄 かに、おの / 」。そのなかに、俣野五郎すすみ出でて申しけるは、「我等はさぜている現状 ) に比較して、次に ニ 0 述べる場合 ( 東国 : ・ ) はなんといっ きち すが東国では皆人に知られて、名ある者でこそあれ。吉についてあなたへ参りても、の意。 ニ 0 振りがな高良本による。熱田 こなたへ参らう事も見苦しかるべし。人をば知り参らせず、景久においては平本「ヨキ」「キチ」の両よみを付す。 正節本キツ。 三死を覚悟していることを示す。 家の御方にていかにもならう」ど申しければ、斎藤別当あざわらッて、「まこ 一三『平家物語』では他人の言を否 そのうへ 定する意を含んで笑う箇所に用い とにはおの / 、の御心どもをかなびき奉らんとてこそ申したれ。其上実盛は、 る。景久が実盛の真意を察せず見 うちじに 今度のいくさに討死せうど思ひきッて候そ。二たび都へ参るまじき由、人々に苦しいと非難したのを否定して笑 ったのであろう。高笑いする意に おほいとの も申しおいたり。大臣殿へも此ゃうを申し上げて候ぞ」といひければ、みな人とる説 ( 日本古典文学大系 ) もある。 ニ三刀の切れ味を試す意から転じ どう て、他人の考えを試す意。 此儀にぞ同じける。さればその約束をたがヘじとや、当座にありし者ども、一 一西「人々は身分の高い人たちを 人も残らず北国にて皆死ににけるこそむざんなれ。 さすことが多い。ここも平家の相 当な地位にいる人たちをさす。 合 じんば かがのくにしのはら おなじき 原さる程に、平家は人馬の息をやすめて、加賀国篠原に陣をとる。同五月廿 = 五そこにいた人全員。 ↓一五ハー注一五。 いってん ちちぶ 毛武蔵国秩父の住人。重忠の父。 七一日の辰の一点に、木曾篠原におし寄せて時をどッとっくる。平家の方には、 ニ 有重はその弟。頼朝挙兵当時京都 】はたけやまのしゃうじしげよしをやまだ べったうありしげ、さんめぢしよう に居た。↓一〇九ハー注一七。 畠山庄司重能、小山田の別当有重、去る治承より今まで召しこめられたりし ニ ^ 年をとった経験豊富な者。 なんぢらニ ^ ゃう ニ九 おき を、「汝等はふるい者共なり。 いくさの様をもおきてよ」とて、北国へむけらニ九「掟つ」の命令形。指図せよ。 このぎ おんかた ニ六 たっ きそ この ふた ニ四
平家物語 38 まり、白髪にこそなりぬらんに、。 ひんびげの黒いはいかに」と宣へば、樋口次一思わずこばす涙をいう。 ニ「あふ」は「にあひて」の形では 郎涙をはら /. 、とながいて、「さ候へばそのやうを申しあげうど仕り候が、あ「に向って」と訳すべき場合が多い 三「仕る」は「する」の謙譲語。 まり哀れで不覚の涙のこばれ候ぞや。弓矢とりよ、、 。しささかの所でも思ひ出で四「ん」は仮定の助動詞。以下の 「かけん」「あなどらん」も同じ。 かねみつニ の詞をば、かねてつかひおくべきで候ひける物かな。斎藤別当、兼光にあうて五実盛一人のこと。実盛だけの ことではないが。逃げ上ったこと 四 ひんびをさす。 常は物語に仕り候ひし。『六十にあまッていくさの陣へむかはん時は、。 六治承四年 ( 一一八 0 ) の富士川の合 わかとのばら げを黒う染めて、わかやがうど思ふなり。其故は、若殿原にあらそひてさきを戦をさす。↓巻五「富士川」。 はら セ富士川西岸。静岡県庵原郡 くちを おいむしゃ かけんもおとなげなし、又老武者とて人のあなどらんも口惜しかるべし』と申 ^ 「ただ」は、このことだけの意。 九底本振りがななし。「此事に し候ひしが、まことに染めて候ひけるそゃ。あらはせて御覧候へ」と申しけれ候」の転。「此事ニ候」 ( 屋代本・元 和版等 ) とよむのかもしれない。 一 0 それにつけては。「さ」は前の ば、「さもあるらん」とてあらはせて見給へば、白髪にこそなりにけれ。 北国へ向い討死する決意を受ける。 にしきひたたれ いとま おほいとの 錦の直垂を着たりける事は、斎藤別当、最後の暇申しに大臣殿へ参ッて申し次に種々の叙述を挟み、「錦の直 六 垂御ゆるし候へ」に続く。 ひととせ おうりようし けるは、「実盛が身一つの事では候はねども、一年東国へむかひ候ひし時、水 = 越前押領使則光の子孫。 三御領 ( 平家荘園 ) に付属して。 とり はおと するが かんばら 鳥の羽音におどろいて、矢一つだにも射ずして、駿河の蒲原よりにげのばッて役を与えられての意。「御領ニ被レ ッケ 付テ」 ( 元和版 ) 。 このことギ ) うらふこんど 、つも・ド ) に 候ひし事、老後の恥辱ただ此事候。今度北国へむかひては、討死仕り候べし。一三「しむ , は使役の助動詞。自分 の動作を述べる際に相手の意によ ゑちぜんのくに きんねん一ニ さらんにとッては、実盛もと越前国の者で候ひしかども、近年御領について武った形をとり、敬意を表したもの。 ひと は′、・はっ むさ
平家物語 32 一横江・宮丸は石川県松任市内。 ニ石川県加賀市大聖寺町にある 菅生石部神社。 三石川県小松市能美町。 四石川県小松市の多太八幡神社 五石川県石川郡美川町。 つるが 六ヶイとよむ。福井県敦賀市の 気比神宮。 じんりゃう よこえ みやまるすがふやしろ そこにて諸社へ神領を寄せられけり。白山へは横江、宮丸、菅生の社へは能七敦賀市葉原。 ^ 福井市藤島町付近一帯。 みしゃうただ はちまん は。んばら へいせんじ 美の庄、多田の八幡へは蝶屋の庄、気比の社へは飯原の庄を寄進す。平泉寺へ九源頼朝は治承四年 ( 一一〈 0 ) 八月 おおばかげちか ふぢしましちがう 挙兵、石橋山で大庭景親らと戦い は藤島七郷を寄せられけり。 大敗。↓巻五「早馬」 ( 一〇八ハー ) 。 ひととせい、しばし 一 0 大庭景親の弟。俣野は大庭と ひやうゑのすけどのたてま 一年石橋の合戦の時、兵衛佐殿射奉ッし者ども、都へにげのばッて平家の方同じく神奈川県藤沢市の地名。 = ↓一四三ハー注一四。 またののごらうかげひさながゐのさいとうべったうさわもり いとうのくらう にぞ候ひける。むねとの者には、俣野五郎景久、長井斎藤別当実盛、伊東九郎三伊東褊親の子。曾我兄弟の父 河津祐泰の弟。祐忠・祐清とも。 すけうぢうきすのさぶらうしげちかましものしらうしげなほ 祐氏、浮巣三郎重親、真下四郎重直、是等はしばらくいくさのあらんまでやす一三系譜末詳。 一四重親の弟か。真下氏は児玉党 じゅんしゅ まんとて、日ごとに寄りあひ寄りあひ、巡酒をしてぞなぐさみける。まづ実盛の一。埼玉県児玉郡真下の住人。 もと 一五まわり持ちで酒宴を開くこと。 つらノ、 が許に寄りあひたりける時、斎藤別当申しけるは、「倩此世の中の有様をみ一六上の「う」により連濁したもの。 一セ相手の言に同意することを表 おんかた るに、源氏の御方は強く、平家の御方はまけ色にみえさせ給ひけり。いざおのす語。そうだなあ。「さるなり」あ るいは「さるなる」の転か。 どう / 、木曾殿へ参らう」ど申しければ、みな、「さンなう」と同じけり。次の日天自分から積極的にすること。 ( 現代語訳一一五四ハー ) しのはらがっせん 篠原合戦 五 てふや け六 はくさん きしん