熱田 - みる会図書館


検索対象: 完訳日本の古典 第44巻 平家物語(三)
64件見つかりました。

1. 完訳日本の古典 第44巻 平家物語(三)

よろひかぶと の鼻は、先陣の鎧甲にあたるほどなり。小石まじりのすなごなれば、ながれお一「鼻」は「堺」 ( 熱田本 ) と同じ。 急な斜面を下っているさまを形容 しも ばかりニ だん としに二町計ざッとおといて壇なる所にひかへたり。それより下を見くだせしたもの。一町は約一〇九 ニ底本「さと」。熱田本「雑ト」、 語 だいばんじゃくこけ 物ば、大盤石の苔むしたるが、つるべおとしに十四五丈そくだッたる。兵どもう正節本「颯 ( 濁点を付す ) と」。 ツルペヲロ 家 三元和版「釣瓶下シニ」 ( 正節本 平しろへとッてかへすべきゃうもなし。又さきへおとすべしとも見えず。「ここ同じ ) 。釣瓶 ( 縄や竿の先につけて 四 井戸の水を汲み上げる桶 ) を井戸 さはらのじふらうよしつら に下ろす時のように、垂直に急に ぞ最後」と申してあきれてひかへたるところに、佐原十郎義連すすみいでて申 落ちるさま。垂直なさま。 あさゆふやう みうらかた 四 ↓一八五ハー注一一六。 しけるは、「三浦の方で我等は鳥一つたてても朝夕か様の所をこそはせありけ。 五熱田本「立テモ」、元和版「立 三浦の方の馬場や」とて、まッさきかけておとしければ、兵どもみなつづいてテダニモ」、正節本「たてゝだに」、 東大正節本「かけてだに」。「立て ごゑ おとす。ゑい / 、声をしのびにして、馬に力をつけておとす。あまりのいぶせては、立たせて、飛び立たせて の意。飛ばせてそれを追うにも、 きじん さに、目をふさいでそおとしける。おほかた人のしわざとは見えず。ただ鬼神ぐらいの意。なお熱田本・元和版 はタチテ・タッテともよめる。 しょゐ 六えいえいという掛声を忍びや の所為とぞ見えたりける。おとしもはてねば時をどッとっくる。三千余騎が声 かにして。 むらかみはんぐわんだいもとくに なれど、山びこにこたへて十万余騎とぞきこえける。村上の判官代基国が手よセ恐怖・嫌悪感を表す語。無気 味さ。恐ろしさ。 やかた ^ 「ねば」は逆接を表す。元和版 り火をいだし、平家の屋形、かり屋をみな焼き払ふ。をりふし風ははげしし、 「果ヌニ」 ( 正節本同じ ) 。 くろけぶり ぐんびやう 黒煙おしかくれば、平氏の軍兵ども、あまりにあわてさわいで、若しやたすか九元和版・正節本など「に」なし。 そのほうがわかりやすい みぎは 一 0 ↓一三三ハー注一七。 ると前の海へぞおほくはせいりける。汀にはまうけ舟いくらもありけれども、 ひと五 つはもの つはもの

2. 完訳日本の古典 第44巻 平家物語(三)

たいしゃうぐん かばおんざうしのりより 墨範とも記している。頼朝・義経・ の大将軍は、蒲の御曹司範頼、 す義仲らの叔父に当る。常陸国 ( 茨 からめて くらうおん ) うしよし 物城県 ) 信太郡信田郷に住して信太 搦手の大将軍は九郎御曹司義 たてわき 景 ( 志田 ) 三郎と号した。先生は帯刀 原 梶の長官をよぶ語。 経、むねとの大名三十余人、 望 所 ^ 底本「いけすき」、延慶本「生 都合其勢六万余騎とぞ聞えし。 け准」、元和版・正節本「生食」。な そのころかまくらどの ^ お諸本、種々の漢字を当てる。 其比鎌倉殿にいけずき、す 九長門本など「摺墨」、元和版・ 。、ナず 頼正節本「磨墨」、延慶本「ウス、ミ」 る墨といふ名馬あり 源 ( 薄墨 ) 。熱田本「匹」。 かぢはらげんだかげすゑ 一 0 梶原平三景時の長男。 きをば梶原源太景季しきりに = 万一のことがあったら。出陣 もののぐ などの非常の事態を意味する。 望み申しけれども、鎌倉殿、「自然の事のあらん時、物具して頼朝が乗るべき 三「たび ( 給ひ ) たりけれ」の音便。 馬なり。する墨もおとらぬ名馬ぞ」とて、梶原にはする墨をこそたうだりけれ。お与えになった。 一三宇多源氏佐々木秀義の四男。 ささきしらうたかつないとま 近江国の住人。秀義は源義朝に従 佐々木四郎高綱が暇申しに参ッたりけるに、鎌倉殿いかがおばしめされけん、 、保元・平治の合戦で奮戦した。 しょまう ぞんぢ 一四元和版「所望ノ者ハ幾ラモ有 生「所望の者はいくらもあれども、存知せよ」とて、いけずきを佐々木にたぶ。 / ムネ ケレ共、其旨存知セョ」とある。 うぢがは かしこま 「存知せよ」は、そういうこと ( 所 第佐々木畏ッて申しけるは、「高綱この御馬で宇治河のまッさきわたし候べし。 望する者が多いこと ) を承知して いよ ( 承知の上で受け取れ ) の意。 宇治河で死にて候ときこしめし候はば、人にさきをせられてンげりとおばしめ 一五底本「死て」。高良本振りがな し候へ。いまだいきて候ときこしめされ候はば、さだめて先陣はしつらん物をによる。あるいはシンデとよむか。 つね すみ しぜん

3. 完訳日本の古典 第44巻 平家物語(三)

ずれた所 ( 草摺と草摺との間 ) を射 られたもの。 ただいまじゃう 其時下人ども、「河原殿おととい、只今城の内へまッさきかけてうたれ給ひ一 0 一二九ハー四行に同文がある。 当時の慣用的表現か。 し とのばら かぢはら ぬるぞや」とよばはりければ、梶原是を聞き、「私の党の殿原の不覚でこそ、 三戦いをするのに適当な時間に 河原兄弟をばうたせたれ。今は時よくなりぬ。寄せよや」とて、時をどッとっ なったぞ。 さかもぎ くる。やがてつづいて五万余騎一度に時をそっくりける。足軽共に逆茂木取り一三馬に乗らない、歩立ちの兵士。 じなんへいじかげたか のけさせ、梶原五百余騎をめいてかく。次男平次景高、余りにさきをかけんと 一四源範頼。 へいざう ごぢん すすみければ、父の平三使者をたてて、「後陣の勢のつづかざらんに、さきか一五延慶本「ムカショリトリッタ へタルアヅサ弓ヒカデハ人ノ力へ けんじゃう ルモノカハ」。下句は、弓を引か けたらん者は、勧賞あるまじき由、大将軍の仰せそ」といひければ、平次しば なくては人は帰ることはできない の意。 しひかへて、 一六「ひく」は弓を引く意と「引き 返す」の「引く」とをかける。引い 「もののふのとりったへたるあづさ弓ひいては人のかへすものかは 懸 之 た以上は ( それが元へ戻らぬよう 一一と申させ給へ」とて、をめいてかく。「平次うたすな、つづけや者ども。景高に ) 、自分も進んだからには引き 返すことはない。熱田本「ヒイテ げんだおなじき ハ人ノ力へルモノカハ」。 第うたすな、つづけや者ども」とて、父の平三、兄の源太、同三郎つづいたり。 サッ 宅底本「さと」。元和版「颯ト」、 梶原五百余騎、大勢のなかへかけいり、さんム \ にたたかひ、わづかに五十騎正節本「颯と」 ( 颯を清音でよむべ きことを示す ) 。熱田本「雑」はザ ットとよむか ばかりにうちなされ、さッとひいてぞ出でたりける。いかがしたりけん、其な る。 あしがる かちだ

4. 完訳日本の古典 第44巻 平家物語(三)

一知康の声を聞きとれぬように ッて身にあたるべし。ぬかむ太刀は身をきるべし」なンどとののしりければ、 する。ロ合戦で負けて兵の戦意を 喪失させないためである。 木曾、「さないはせそ」とて、時をどッとっくる。 語 ニ『玉葉』に、義仲勢が法住寺に からめて ひぐちのじらうかねみつ とき 物さる程に、搦手にさしつかはしたる樋口次郎兼光、新熊野の方より時の声を押し寄せ、未刻 ( 午後二時頃 ) 鬨の 家 声が聞え、申刻 ( 午後四時頃 ) 官軍 ほふぢゅうじどの こと 1 一と は悉く敗れたとある。 平ぞあはせたる。鏑のなかに火をいれて、法住寺殿の御所に射たてたりければ、 三以下一一行、巻五「富士川」 ( みやうくわ 一四五ハー八・九行 ) と同文。 をりふし風ははげしし、猛火天にもえあがツて、ほのほは虚空にひまもなし。 四七条大路の東端、鴨川付近。 いくさの行事知康は、人よりさきに落ちにけり。行事がおつるうへは、二万余五延慶本「摂津源氏多田ノ蔵人、 豊島冠者、大田太郎等固タリケ 人の官軍ども、我さきにとそ落ちゅきける。あまりにあわてさわいで、弓とるル」。 あるいなぎなた 〈恠所と同じ。その辺に住む者。 者は矢を知らず、矢をとる者は弓を知らず。或は長刀さかさまについて、我足セ屋根上あるいは屋上の転か。 熱田本「屋上」、元和版「屋禰」。 あるい はず つきつらぬく者もあり、或は弓の弭物にかけて、えはづさで捨ててにぐる者も〈「石」の転か。屋根板を押 五 えるために置く石。熱田本など しつでう つのくにげんじ オソイ 「襲ノ石」。 あり。七条がすゑは摂津国源氏のかためたりけるが、七条を西へおちて行く。 九「仕る」は謙譲語。相手が町の おち、つと かねて軍以前より、「落人のあらむずるをば、用意してうちころせ」と、御所者なのでこういう言い方がされる。 六 一 0 「這ふ」を重ねて継続を表す語。 ひろう ぎいぢ たて より披露せられたりければ、在地の者共、屋ねいに楯をつき、おそへの石をと立って歩けないような状態の形容。 = 事に対して平気なこと。ここ は、恥知らず、くらいの意。 りあつめて、待ち懸けたるところに、摂津国源氏のおちけるを、「あはや落人 もんどのつかさ かゆひむろ 三主水司 ( 水・粥・氷室などを よ」とて、石を拾ひかけ、さんみ、に打ちければ、「これは院がたぞ。あやまっかさどる役所 ) の長官。 ( 現代語訳三〇四ハー ) いく一 かぶら いまぐまのかた - 一くう・ わがあし

5. 完訳日本の古典 第44巻 平家物語(三)

むさしのくにのぢゅうにんひらやまのむしやどころ すゑしげ 武蔵国住人平山武者所すすみ出でて申しけるは、「季重こそ案内は知ッて候野・泊瀬は共に桜の名所。和歌に よく詠まれる所なので、すぐれた との もの へ」。御曹司、「わ殿は東国そだちの者の、今日はじめて見る西国の山の案内者、歌人ならば、そこに行かなくとも 和歌を通じてそこの様子を理解す ごぢゃう る、という意。 大きにまことしからず」と宣へば、平山かさねて申しけるは、「御諚ともおば 三底本振りがななし。元和版・ よしの じゃう はっせ かじん かたき え候はぬものかな。吉野、泊瀬の花をば歌人が知り、敵のこもッたる城のうし正節本で一九三ハー一行の熊王を 「熊王トテ生年十八歳ニ成ケル小 ・か・つ 、うらふ ばうじゃくぶじん クフン ろの案内をば、剛の者が知る候」と申しければ、是又傍若無人にそきこえける。冠ヲ」とし、セウクワンとよんで いるのによる。元服して間もない せうくわん べつぶのこたらう 又武蔵国住人別府小太郎とて、生年十八歳になる小冠すすみ出でて申しける若者。熱田小冠者」。 一三お前は感心なことを言うもの かたき よししげばっし だな。「やさし」は高い立場にいる は、「父で候ひし義重法師がをしへ候ひしは、『敵にもおそはれよ、山ごえの狩 者が下の者をほめる時に用いる語。 ら - つば しんぎん をもせよ、深山にまよひたらん時は、老馬に手綱をうちかけて、さきにおッた立派だ、けなげだ、殊勝だ かんびし 一四『韓非子』説林篇に桓公が道に ててゆけ。かならず道へいづるぞ』とこそをしへ候ひしか」。御曹司、「やさし迷った時に、同行した管仲が「老 馬之智用フ可シ」と言い、その通 りにしたところ、道がわかったと うも申したる物かな。雪は野原をうづめども、老いたる馬そ道は知るといふた いう話が載っている。 かがみぐら たづな しらあしげ しろぐっわ めしあり」とて、白葦毛なる老馬に鏡鞍おき、白轡はげ、手綱むすンでうちか一 = ↓三〇【 , 注一〈。 一六白くみがいた轡をかませて。 ころ しんざん 九 け、さきにおッたてて、いまだ知らぬ深山へこそいり給へ。比はきさらぎはじ「はぐ」 ( 下二段動詞 ) は、着ける意。 第 巻 宅ところどころが消える。まだ うぐひす めの事なれば、峰の雪むらぎえて、花かと見ゆる所もあり。谷の鶯おとづれて、らになって消える意。 一 ^ 白く光り輝くさま。 かすみ はくろ : れかろ・ , ′、、 くだ がけ 霞にまよふ所もあり。のばれば白雲皓々として聳え、下れば青山峨々として岸一九崖。熱田杢・岑ーは峰と同じ。 おほ の らみ′ば たづな せいぎんがが かり 一九 きし コ

6. 完訳日本の古典 第44巻 平家物語(三)

一元和版・正節本は次章を合せ て「北国下向」とする。 三不和。頼朝・義仲の不和につ いて、延慶本・長門本・『盛衰記』 には、頼朝に知行地の分与を断ら ゆきいえ れた十郎蔵人行家が義仲のもとに 走ったこと、義仲に恨みをもっ成 ひやうゑのすけきそのくわんじゃよしなか三 寿永一一年三月上旬に、兵衛佐と木曾冠者義仲不央の事ありけり。兵衛佐木田信光が義仲に謀反の志あるを頼 四 朝に進言したことなどをあげる。 そっいたうため しなののくに はつか - っ よだじゃう 曾追討の為に、其勢十万余騎で信濃国へ発向す。木曾は依田の城にありけるが、四長野県上田市南方の依田山。 五 五長範山とも。長野県上水内郡 ゑちご くまさかやま 是を聞いて依田の城を出でて、信濃と越後の境、熊坂山に陣をとる。兵衛佐は信濃町。長野・新潟県境の山。 六長野市、善光寺のある地。 もと ぜんくわうじ めのとご いまゐのしらうかねひら ちゅうぞう 同じき国善光寺に着き給ふ。木曾乳母子の今井四郎兼平を使者で、兵衛佐の許セ中三兼遠 ( 巻六・廻文 ) の子。 九 一 0 義仲と同年。松本市今井の住人。 しさい ごへんとう へつかはす。「いかなる子細のあれば、義仲うたむとは宣ふなるそ。御辺は東〈伝聞推定の助動詞。 九敬称の対称代名詞。あなた。 八ヶ国をうちしたがへて、東海道より攻めのばり平家を追ひおとさむとし給ふ一 0 以下「攻めおとさむ」まで類似 者 の表現が巻六「廻文」にある。 冠 とうせんほくろく いちにち 水なり。義仲も東山北陸両道をしたがへて、今一日もさきに平家を攻めおとさむ = 東山道ー近江・美濃・飛騨・ こうずけしもつけむつ 信濃・上野・下野・陸奥・出羽。 北陸道ー若狭・越前・越中・越後 七とする事でこそあれ。何のゆゑに御辺と義仲と中をたがうて、平家にわらはれ ・加賀・能登・佐渡 巻 じふらうくらんどどの んとは思ふべき。但し十郎蔵人殿こそ、御辺をうらむる事ありとて、義仲が許三源行家。為義の子。新宮 + 郎 ともいう。頼朝・義仲の叔父。 へおはしたるを、義仲さへすげなうもてなし申さむ事、いかんぞや候へば、う一三どうかと思われますので。 じゅえい しみづのくわんじゃ 清水冠者 そのせい なん なか

7. 完訳日本の古典 第44巻 平家物語(三)

しげめゅひひたたれひをどし ふたつひきりゃうほろ めかすげ 滋目結の直垂に緋威の鎧着て、二引両の母衣をかけ、目糟毛といふきこゆる名一底本「しけ目ゅひ」。元和版・ 四 正節本による。熱田本「重目結」。 くろかはをどし かぶとゐくび 五 馬にぞ乗ッたりける。旗さしは、黒革威の鎧に、甲猪首に着ないて、さび月毛目結は布・革を糸で括って染めて から糸を解き括り目を文様とした 語 ほうげんへいぢ むさしのくにのぢゅうにん かのこしー 物なる馬にぞ乗ッたりける。「保元平治両度の合戦に先かけたりし武蔵国住人、もの。鹿子絞り。滋目結は目結を 家 細かく多くゆきわたらせたもの。 ひらやまのむしやどころすゑしげ 平平山武者所季重」となのツて、旗さしと二騎、馬の鼻をならべてをめいてかく。 = 底本「二ひきりゃう」。元和版 ッヒキリャウ 「二引両」による。東大正節本はフ タッビキリョウとよむ。輪の中に 熊谷かくれば平山つづき、平山かくれば熊谷つづく。たがひにわれおとらじと 横線一一本を引いた模様。 入れかへ入れかへ、もみにもうで、火いづる程そせめたりける。平家の侍ども三糟毛は灰色に白のまじる馬の 毛色。目の辺に星 ( 疵 ) のあったた じゃう 手いたうかけられてかなはじとや思ひけん、城のうちへざッとひき、敵をとざめの名か。延慶本の平山が上総介 から馬を請い受ける条に「目糟毛 ふとばら ト名タル事ハ左ノ目ノ程ニカ、リ まにないてぞふせぎける。熊谷は馬の太腹射させてはぬれば、足をこえており テ白キ星ノ有ケル故ナリ」とある。 しゃうねん 立ッたり。子息の小二郎直家も、「生年十六歳」となのツて、かいだてのきは四猪首になるようにかぶって。 猪首は首の太く短いこと。ここは に馬の鼻をつかする程、責め寄せてたたかひけるが、弓手のかひなを射させて首が短く見えるように周囲を甲の 錣で覆うこと。「着ないて」は「着 なして」の音便。 馬よりとびおり、父とならンでたツたりけり。「いかに小二郎、手負うたか」。 五黒みを帯びた月毛。元和版・ ざうらふ うも - かぶと 「さン候」。「常に鎧づきせよ、うらかかすな。錣をかたぶけよ、内甲射さすな」熱田本、節用集類「さび」に「宿。の 字を当てる。 じゃう とそをしへける。熊谷は鎧にたツたる矢どもかなぐりすてて、城の内をにらま六城の外におくようにして。 「とざま」は「外様」。 だいおんじゃう ころ へ、大音声をあげて、「こぞの冬の比鎌倉を出でしより、命をば兵衛佐殿に奉セ底本「・ふと腹」。元和版「太」。 ゅんで つきげ

8. 完訳日本の古典 第44巻 平家物語(三)

( 現代語訳三〇八ハー ) てかきぐ 以下数十人解官、兼雅卿出仕ヲ止 をかしかるべし。よし / 、さらば関白にならう」ど申せば、手書に具せられた メラレ所領公ニ収ム」 ( 百練抄・十 だいぶばうかくめい たいしよくわんおんすゑふぢはらうぢ との る大夫房覚明申しけるは、「関白は大織冠の御末、藤原氏こそならせ給へ。殿一月廿八日条 ) 。『吉記』同日条に 「今日有解官事」として朝方以下四 かな は源氏でわたらせ給ふに、それこそ叶ひ候まじけれ」。「其上はカおよばず」と十三名をあげる ( 『玉葉』も同じ ) 。 一五太政大臣以下公卿殿上人四十 たんごのくに ちぎゃう みまやべったう ごしゆっけ 三人の官職を止めたことは巻三 て、院の御厩の別当におしなツて、丹後国をそ知行しける。院の御出家あれば 「大臣流罪」に見える。 おんげんぶく 一とうぎゃう 法皇と申し、主上のいまだ御一兀服もなき程は、御童形にてわたらせ給ふを知ら一六狼藉と同じ。乱暴。無法な行 むこ さきのくわんばくまつどの たてま やが ざりけるこそうたてけれ。前関白松殿の姫君とり奉ッて、軈て松殿の聟にお宅頼朝が復職したのは十月九日 ( 玉葉、百練抄 ) だから、法住寺合 戦の時点は「前」がつくことはない。 しなる。 カマ 一 ^ 義朝の子。元和版「蒲」、正節 おなじき さんでうのちゅうなごんともかたのきゃう けいしや、つ、つんかく 同十一月廿三日、三条中納言朝方卿をはじめとして、卿相雲客四十九人本カマ・カバの二様のよみを示す。 『玉葉』に「加冠者」。遠江国 ( 静 岡県 ) 浜名郡蒲御厨で生れたので が官職をとどめておッこめ奉る。平家の時は四十三人をこそとどめたりしに、 「蒲の冠者 ( 御曹司 ) 」という。『尊 てうくわ 卑分脈』に「遠江国蒲生御厨ニ於テ ~ 。是は四十九人なれば、平家の悪行には超過せり。 一セ 寺 出生之間、蒲生冠者ト号ス・ : 母遠 ら、つ一き かばくわんじゃ さきのひやうゑのすけよりとも 法さる程に、木曾が狼籍しづめんとて、鎌倉の前兵衛佐頼朝、舎弟蒲の冠者江国池田宿遊女」とある。 一九義朝の末子。「号九郎大夫判 くらうくわんじゃよしつね 一、のりより 範頼、九郎冠者義経をさしのばせられけるが、既に法住寺殿焼きはらひ、院う官、母九条院雑仕常磐」 ( 尊卑分 脈 ) 。 さう ちとり奉ッて天下くらやみになツたるよし聞えしかば、左右なうのばッて軍すニ 0 熱田神宮の神職の長。頼朝の 母は大宮司季範の娘であるが、こ 」もと しさい ゃう をはりのくにあったのだいぐんじ べき様もなし。是より関東へ子細を申さんとて、尾張国熱田大宮司が許におはの時の大宮司が誰であるかは不明。 てんか いくさ

9. 完訳日本の古典 第44巻 平家物語(三)

うちすてて寄せつれば、はる 山 平 かにさがりぬらん。よも , っし 十 6 下 右 ろかげをも見たらじ」とそい 防 を ひける。 ら 九熊谷父子と平山、それにそれ 谷 ぞれの旗差しを合せて五騎となる。 熊谷、平山、かれこれ五騎 しののめ ロ 一 0 東雲。明け方、東の空にたな 木びく雲。転じて明け方の東の空を でひかへたり。さる程に、し 家し ' 平 ののめやう / 、あけゆけば、 熊谷は先になのツたれども、平山が聞くになのらんとや思ひけん、又かいだて のきはにあゆませ寄り、大音声をあげて、「以前になのツつる武蔵国の住人、 懸熊谷二郎直実、子息の小二郎直家、一の谷の先陣そゃ。われと思はん平家の侍 之 一共は直実におちあへや、おちあへ」とぞののしッたる。是を聞いて、「いざや、三争いの相手になる、取り組む たれ / 、 第夜もすがらなのる熊谷親子ひッさげてこん、とて、すすむ平家の侍誰々そ、越 ちゅうのじらうびやうゑもりつぎかづさのごらうびやうゑただみつあくしちびやうゑかげきよごとうないさだつね 中一一郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清、後藤内定経、これをは一三底本「五」の右に「後イ」と傍書。 元和版・熱田本などによる。延慶 本「後藤内兵衛定綱」。 じめてむねとのつはもの廿余騎、木戸をひらいてかけ出でたり。ここに平山、 おやこ 0 0 0 0 ゑっ 意。 = 「なのりつる」の音便。

10. 完訳日本の古典 第44巻 平家物語(三)

を らむとき、しるしを付けて、 かりぎめ れ 九狩衣などの首を包むように作 かた ^ えり った襟の部分。屋代本「頸上」。一 女 ゆかむ方をつないで見よ」と 〇六ハー三行の「くびかみ」は「頸上」 で の とある。 をしへければ、娘、母のをし れ 一 0 倭文 ( 青・赤などの糸を交ぜ 現 織りにした織物 ) を織るための緒 へにしたがツて、朝帰する男 蛇環 ( 中をあけて輪状に糸を巻いた みづいろかりぎめ 、ら もの ) 。 の水色の狩衣を着たりけるに、 内 = 中でも、の意。「木曾といふ くび 屋所は、信濃にとッても南のはし、 狩衣の頸かみに針をさし、し 岩 美濃ざかひなりければ」 ( 一八五 をだまき ハー二行 ) 。 づの緒環といふものをつけて、 三元和版・正節本「優婆岳」によ ひうが へてゆくかたをつないでゆけば、豊後国にとッても日向ざかひ、優婆岳といふる。屋代本「ヲハ岳」 ( 岳に濁点を 付す ) 、延慶本「嫗岳」。姥岳・祖 だけすそ いはや ひゅうが 嵩の裾、大きなる岩屋のうちへぞっなぎいれたる。をんな岩屋のくちにたたず母岳とも書く。豊後・日向・肥後 の国境にある山で、今の祖母山 こゑ とよたま んで聞けば、おほきなる声してによひけり。「わらはこそ是まで尋ね参りたれ。その北麓に姥岳神社があり、豊玉 びめ 毘売を祭る。 げんぎん 緒見参せむ」といひければ、「我は是人のすがたにはあらず。汝すがたを見ては一三屋代本「入ニケル」。 一四ニョイ ( 熱田本 ) とよむ。「に なんし 弋きも 肝たましひも身にそふまじきなり。・とう / 、帰れ。汝がはらめる子は男子なるよふ」の連用形。うめく。うなる。 五肝も魂も体についてはいない うちもの きうしうじたう べし。弓矢打物とッて九州二島にならぶ者もあるまじきそ」とぞいひける。女だろう。「肝をつぶす」と同じく、 0 非常に驚くさまの形容。 このひごろ 重ねて申しけるは、「たとひいかなるすがたにてもあれ、此日来のよしみ何と一六壱岐・対馬の二島。 あさがヘり これ うばだけ ノ