宇治拾遺物語 1 五鳥羽僧正国俊と戯れの事 一鳥羽僧正 ( 一 0 五三 ~ 一一四 0 ) 。『宇 治大納言物語』の作者といわれる 大納言源隆国の子。三井寺の覚円 をひむつのぜんじニ ほふりんゐん これも今は昔、法輪院大僧正覚猷といふ人おはしけり。その甥に陸奥前司国に従って出家、第四 + 七代天台座 主となる。長く鳥羽の証金剛院に さぶら げんざん 俊、僧正のもとへ行きて、「参りてこそ候へ」といはせければ、「只今見参すべ住したので鳥羽僧正、また園城寺 の法輪院にも住したので法輪院大 ふたとぎ し。そなたにしばしおはせ」とありければ、待ち居たるに、二時ばかりまで出僧正と呼ばれる。鳥羽絵の祖と仰 がれ、『鳥獣戯画』はその筆と伝え ぐ であはねば、生腹立たしう覚えて、出でなんと思ひて、供に具したる雑色を呼られる。 ニ覚猷の兄。源国俊。本文の くつも 「甥」は誤り。従五位上。承徳二年 びければ、出で来たるに、「沓持て来」といひければ、持て来たるをはきて、 ( 一 0 九 0 八月、陸奥守となり、翌年 三月に没した。享年未詳。 「出でなん」といふに、この雑色がいふやう、「僧正の御坊の、『陸奥殿に申し 三今の四時間に相当する。 と こみかど ちゅうまら たれば、疾う乗れとあるぞ。その車率て来』とて、『小御門より出でん』と仰四中っ脚を立てること。 五小者。下男。 さぶらふ うしかひ 事候ひつれば、やうそ候らんとて、牛飼乗せ奉りて候へば、『待たせ給へと申六退出するぞ。 セ 門 ( 裏門 ) の敬称。 せ。時の程ぞあらんずる。やがて帰り来んずるそ』とて、早う奉りて出でさせ〈わけがおありなのだろう。 九最前、車にお乗りになって。 給ひ候ひつるにて候。かうて一時には過ぎ候ひぬらん」といへば、「わ雑色は一 0 お出かけになって ( から ) 。 「かくて」の音便。 さぶらふ ふかく = まぬけな。うかつな。 不覚のやっかな。『御車をかく召しの候は』と、我にいひてこそ貸し申さめ。 四 なま くにとしたはぶ ひととき かくいう ぎふしき おほせ
245 巻第 ( 原文三一ハー ) の歌も集に撰び入れられるかと思って、様子をうかがった じっそうばうそうじよう 九宇治殿がお倒れになられて実相房僧正が験者ところ、治部卿が出ておいでになりいろいろ話をして、 「どんな歌を詠んだのか」と言われたので、「これというた に召される事 9 いした歌もございません。後三条院がおかくれになってか ら、円宗寺にまいりましたが、桜の花の匂うばかりの美し これも今は昔、高陽院を造られた時、宇治殿が御乗馬で さは昔と少しも変りませんでしたので、こんなふうに詠み おいでになったところ、お倒れになり、御気分が悪くなら しんよ ました」と言って、 れた。、い誉僧正に祈ってもらおうと、使いを呼びにやって 「去年見しに色はかはらず咲きにけり花こそものは思 いた時、僧正がまだ到着しないさきに、女房の部屋住みの はざりけれ 女に霊がのり移って申すには、「別のことではない。ちょ ( 去年見たのと色も変らず桜の花は美しく咲いている。まこ っと見つめ申しあげたによって、このようになられたので とに花というものは、自分と違って何の物思いや憂いもない す。僧正がまいられないうちに護法童子が先立ってやって のだなあ ) 来て追い払いますので、逃げ出しました」と申された。お と詠んだのでございます」と言った。通俊卿は、「まあか 加減はたちどころによくおなりになった。心誉僧正はまこ とにたいしたお方であったとか。 なりよく詠んでいる。ただし、けれ、けり、けるなどとい うことは、あまり感心できない言葉である。それはまあそ はたのかねひさみちとし 十秦兼久が通俊卿のもとに向って悪口を言うれとして、『花こそ』という文字は、女の子などの名につ けるような言葉だ」と言って、たいしてほめもなさらなか 事 ったので、兼久は言葉少なにその座を立って、侍たちのい えら じぶきよう る所に寄り、「ここの殿は少しも歌のことを御存じない方 今は昔、治部卿通俊卿が後拾遺和歌集をお撰びになって いた時、秦兼久が治部卿の家へ参上して、もしかして自分ぞ。こんな末熟な人が撰集の勅命を承っておられるとは、 かやのいん
宇治拾遺物語 172 一増誉 ( 一 0 三 = ~ 二一六 ) 。山城国愛 宕郡の三井寺別院一乗寺に住した。 いちじようじのそうじゃう みむろどのそうじゃう 藤原経輔の男。明尊の弟子。天台 九御室戸僧正の事、一乗寺僧正の事 座主、三井寺長吏 ( 第一一十五代 ) 、 熊野三山検校などを歴任。白河、 堀河両天皇の護持僧。 ~ 二 0 四 ) 。隆家 これも今は昔、一乗寺僧正、御室戸僧正とて、三井の門流にゃんごとなき人ニ藤原隆明 ( 一 0 = 一 四 の男。増誉の叔父。 たかいへのそち つねすけ おはしけり。御室戸の僧正は隆家帥の第四の子なり。一乗寺僧正は経輔大納一言道隆ーー・隆経輔ーー増誉 明 の第五の子なり。御室戸をば隆明といふ。一乗寺をば増誉といふ。この二人お大僧正三井寺長吏 ( 第二 + 四代 ) 。 白河・堀河二代の護持僧。修験に たふと いきばとけ 名声あり宇治郡の三室戸に住した。 のおの貴くて生仏なり。 三三井寺 ( 園城寺 ) の智証の門流。 おまへ 御室一尸は太りて修行するに及ばず。ひとへに本尊の御前を離れずして、夜昼四藤原隆家 ( 九七九 ~ 一 0 四四 ) 。関白 道隆の男。中納言、大宰権帥。 行ふ鈴の音絶ゆる時なかりけり。おのづから人の行き向ひたれば、門をば常に五隆家の次男 ( 一 00 六 ~ 八 l) 。権大 納言、太皇太后宮大夫、大宰帥。 たれ たた さしたる。門を叩く時、たまたま人の出で来て、「誰そ」と問ふ。「しかじかの六仏具の鈴を振り鳴らす音。 セたまたま。 つかひさぶらふ ^ 長時間待っているあいだ。 人の参らせ給ひたり」、もしは、「院の御使に候」などいへば、「申し候はん」 九かんぬき。 一 0 寝殿造で母屋の外側の一段低 とて、奥へ入りて、無期にある程、鈴の音しきりなり。さてとばかりありて、 い細長い部屋。 ひとりい 門の関木をはづして、扉片つかたを人一人入る程あけたり。見入るれば、庭に = 建物の四隅にある両開きの戸。 三明りを取るための障子。今の ひろびさしま は草繁くして、道踏みあけたる跡もなし。露を分けてのばりたれば、広廂一間障子 ( 現代語訳三二〇ハー ) くわんのき 六 れい みゐ
109 巻第 ( 現代語訳一一八六ハー ) 一四仏像ができあがった時に行う 法要。開眼供養。 一五藤原永相の男 ( 一 0 哭 ~ 二一一五 ) 。 十同人仏事の事 はつね 興福寺別当。花林院権僧正、初音 の僧正とも称した。『堀河院百首』 の作者。『金葉集』以下に一一十六首 ゃうえんそうじゃうしゃう 今は昔、伯の母仏供養しけり。永縁僧正を請じて、さまざまの物どもを奉る入集。 一六薄手の鳥の子紙。 うすやう 宅現在の大阪市内にあったと伝 中に紫の薄様に包みたる物あり。あけて見れば、 えられる古い歌枕。 天法会の布施として渡す意と済 朽ちにける長柄の橋の橋柱法のためにも渡しつるかな 度の意を掛ける。橋の縁語。 きれ 一九その翌日。「つとめて」は早朝。 長柄の橋の切なりけり。 ニ 0 『古本説話集』に「りうぐゑん」 わかさのあじゃり またの日、つとめて、若狭阿闍梨覚縁といふ人、歌よみなるが来たり。あはれ、とあるのが正しいか。隆源は若狭 守藤原通宗の男。『後拾遺』の撰者 ふところ みやうぶ おば この事を聞きたるよと僧正思す。み懐より名簿を引き出でて奉る。「この橋の通俊の甥。若狭阿闍梨と呼ばれた 歌人。『金葉集』以下の作者。歌学 きれたまは 切賜らん」と申す。僧正、「かばかりの希有の物はいかでか」とて、「何しにか書『隆源ロ伝』の著がある。生没年 未詳。 くちを 三取らせ給はん。口惜し」とて帰りにけり。すきずきしくあはれなる事どもなり。 = 一貴人にまみえ、または師に入 門し、あるいは他に服従するとき あかし などに証として差し出す名札。官 位・姓名・年月日を書く。 と、つろ・く 一三覚縁の言葉。 十一藤六の事 ニ三歌道への執心ぶりが一通りで ないこと。 一九 ながら ほとけくやう ぶつじ のり
瞬恐ろしい気分に襲われる。法要が営まれる時、僧侶たち今は百二十坊といわれるが、かっては一山三千坊がせめぎ しト - う・みよろ・ は内陣の石甃の上に座して読経し、声明が堂全体に響きわ合う繁栄をみたのが中世の比叡山の姿であった。 たるのだという。 かっての坊の廃墟であろうか、処々に杉の巨木に隠れる 東塔まではおよそ二キロ。散策するには最もふさわし いようにして雑草に埋もれた平地が広がっていたりする。西 道である。弁慶が汲みあげたといわれる湧水 1 弁慶水〃か塔から横川までは四キロの距離であるがその途中苔むした びよう かのうじぞう ら、山王院を経て続く下り坂と石段をゆくと最澄の御廟石垣があった。横川の賀能地蔵の話に出てくる悪僧、賀能 浄土院に出る。さらに木立の中の山道を進むと椿堂を経て、ち院は案外こんな石垣の上に建てられていた坊に住んでい 西塔の本堂である釈迦堂にいたる。 たのかもしれない、と想像してみたりする。 西塔の千手院に住んでいた静観僧正の話が巻二の二、三、『宇治拾遺物語』の作者が叡山を訪ねたことはあったはず 巻八の七などに見える。千手院は今はないが、僧正が法力だと私は思う。中世のこの山は宗教と政治が相克する渦の で粉砕させた毒竜巌の話に類する霊岩霊木の話が、山には中に巻き込まれていったが、文学の世界から見ると、ここ 4 今もいろいろ伝わっている。 は話の宝庫であった。三千坊に生きる人々それぞれにドラ その一つ、若き最澄が叡山に入って本尊となすべき御衣マがあり、それが一方で『宇治拾遺物語』の作者の人間性 まなぎ 木を捜していたところ、数十人の仙人たちが一本の霊木をを理解しようとする熱い目差しによって物語の中に甦り、 与え、それによって最澄は五驅の仏像を造立した、という他方で伝説となって山の中で生きつづけている、と思えて くるのであった。 話もこの山に生きている。 ( 随筆家 ) 『宇治拾遺物語』の成立はおよそ鎌倉時代の初期だという。 【メモ】 ・交通 その頃の比叡山は一時の宗教的退廃から再興して、華やか バス京都市バス、京都バス、京阪バス に新しい仏教の母胎となりつつあった。源信、法然、栄西、 さんぜん 京都駅ー延暦寺部分 鎌倉に入って親鸞、道元、日蓮ーーー日本仏教史に燦然と輝 * 山上を巡るバス便はないので、下でタクシーをチャーター したほうが良い く僧たちが一度はこの山に入って修行した時期であった。 みそ
十八平貞文、本院侍従の事 十九一条摂政歌の事 巻第四 一狐人に憑きてしとぎ食ふ事 一一佐渡国に金ある事 三薬師寺別当の事 四妹背嶋の事 五石橋の下の蛇の事 六東北院菩提講の聖の事 七三河入道遁世の事 八進命婦清水寺へ参る事・ 九業遠朝臣蘇生の事 十篤昌忠恒等の事 巻第五 一四の宮河原地蔵の事 一一伏見修理大夫の許へ殿上人行き向ふ 事 三以長物忌の事 四範久阿闍梨西方を後にせぬ事 一三三 ・ : 三一三 : ・三一四 ・ : 一一究十一後朱雀院丈六の仏造り奉り給ふ事 = 究 : ・三 00 十二式部大輔実重賀茂の御正体拝み奉る 事 ・ : 三 0 一一十三智海法印癩人法談の事 ・ : 三 0 四十四白河院おそはれ給ふ事 ・ : き五十五永超僧都魚食ふ事 ・ : 三 0 七十六了延に実因湖水の中より法文の事 ・ : 三 0 七 : ・三 0 八十七慈恵僧正戒壇築きたる事 五陪従家綱行綱互ひに謀りたる事 六同清仲の事 七仮名暦あつらへたる事 八実子にあらざる子の事 ・ : 一一空二十孤家に火つくる事 77 76 ・一六四 : ・ ・ : 三 0 八 ・ : 三 0 九 ・ : 三 0 九 ・ : 三 0 九 ・ : 三一四 ・ : 三一六 ・ : 三一六 ・ : 三一七
ことでも何でもできようというものだ。桁はずれに豪勢な 「これほどの珍しいものを、どうして差しあげられましょ 者たちの、心の大きさ、広さかな」と語られた。 う」と言うと、「いかにも、私にお譲りにはなれますまい せのたいふ この伊勢大輔の子孫には、たいそう出世した人が続いてね。ごもっともです。しかし残念です」と言って帰ってい 語 物多く出たが、大姫君がこうして田舎人になられたというの った。歌道への執心ぶりに感動させられる話である。 拾は、哀れに気の毒なことであった。 と、つろく 宇 十一藤六の事 十同人の仏事の事 今は昔、藤六という歌よみがいた。卑しい者の家に入り、 かいげんくよう ようえんそうじよう 今は昔、伯の母が仏像の開眼供養をした。永縁僧正をお誰もいない折をみはからって上がりこんでしまった。鍋に 招きして、いろいろの物をお布施として差しあげた中に、 煮てある物をすくって食べていると、この家のおかみが水 紫の薄い鳥の子紙に包んだ物がある。開けて見ると、 を汲んで、大通りの方から戻って来た。見ると、男が鍋の ながら のり 朽ちにける長柄の橋の橋柱法のためにも渡しつるかな物をすくって食べているので、「なんじゃ、こんな誰もい ( 朽ちはてた長柄の橋の橋柱を、尊い仏法のためにもお布施ない所に入りこんで、大事な煮物を召されるか。ほんにひ だんな としてお渡しいたします ) どいこっちゃ。やや、あんたは藤六旦那でござらっしやる。 とあり、包まれてあったのは、長柄の橋の木切れであった。 それなら歌をお詠みなされ」と言った。そこで、 あじゃり あみだ 次の日の早朝、若狭阿闍梨覚縁という、歌よみでもある 昔より阿弥陀ほとけのちかひにて煮ゆるものをばすく 人がやって来た。「ははあ、さてはこの話を聞いたな」と、 ふとそ知る かま 僧正はお思いになった。覚縁は御懐から名刺を取り出して ( 昔から阿弥陀仏は誓いのとおり、地獄の釜で煮られる衆生 差し出し、 ( 永縁の弟子となる気持を示したうえで ) 「この を救い取るという、だから、私も釜の煮物をかいですくいと 橋の木切れをいただきたいと存じます」と申した。僧正は、 っているのです ) けた ( 原文一〇九ハー )
175 巻第五 おもがは 昔に変らず。僧正うち見て、かひを作られけり。小院また面変りして立てりけ一三べそをおかきになられた。 一四顔つきが変って。きりりとし た呪師時代の顔つきになって。 るに、僧正、「いまだ走りては覚ゅや」とありければ、「覚え候はず。ただしか 一五呪師走りの手。呪師の芸はす てう一六 ばやい動きを特徴として「走り」と たさらはの調ぞよくしつけて来し事なれば、少し覚え候」といひて、せうのな 総称され、「剣手」「武者手」「大 かわりてとほる程を走りて飛ぶ。兜持ちて、一拍子に渡りたりけるに、僧正声唐文殊手、「とりはみ」などの曲目 が知られているが、ここは後出の を放ちて泣かれけり。さて、「こち来よ」と呼び寄せて、うちなでつつ、「何しように「かたさらはの手」と呼ばれ る演目に限定される。 に出家をさせけん」とて、泣かれければ、小院も、「さればこそ今しばしと申一六たびたび演じなれてきた手で すので。 ぐ 宅中国から伝えられた管楽器の し候ひしものを」といひて、装束脱がせて、障子の内へ具して入られにけり。 簫 ( ここは、長短の竹管十六本ま たは二十四本を木製の枠にはめ並 その後はいかなる事かありけん、知らず。 べた排簫とみたい ) の中を割って 通るような狭い所を一気に走り通 って跳んだ早業をいうか。大系本 ひを は、「粧の中割手を終りまでやり 十ある僧人の許にて氷魚盗み食ひたる事 通すほど舞い跳ねた」の意とする。 天男色の行為ハあったことを暗 示したもの。 一九 これも今は昔、ある僧、人のもとへ行きけり。酒など勧めけるに、・氷魚はじ 一九ひうお、いさぎ、とも。白魚 に似た三 ~ 五の半透明の魚。琵 めて出で来たりければ、あるじ珍しく思ひて、もてなしけり。あるじ用の事あ 琶湖産のものは著名で、秋から冬 しゅん にかけてが旬。 りて、内へ入りて、また出でたりけるに、この氷魚の殊の外に少なくなりたり もと 、 ) とほか
宇治拾遺物語 58 へり。不思議の事なれば、末の世の物語にかく記せるなり。 三同僧正大嶽の岩祈り失ふ事 一比叡山三塔 ( 東塔・西塔・横 じゃうくわんそうじゃうさいたふ かわ 今は昔、静観僧正は西塔の千手院といふ所に住み給へり。その所は南に向川 ) の一。千手院は最澄の本願に よる千手堂 ( 叡岳要記 ) 。増命が止 いめゐかた四 おほき おほたけ ひて大嶽をまもる所にてありけり。大嶽の乾の方のそひに大なる巌あり。その宿した所については、本話のごと く千手院 ( 諸門跡譜 ) とするものも 岩の有様、竜のロをあきたるに似たりけり。その岩の筋に向ひて住みける僧どあるが、千光院 ( 天台座主記 ) 、あ るいは西塔釈迦院北庵 ( 元亨釈書 ) ともいわれる。 。いかにして死ぬるやらんと心も も、命もろくして多く死にけり。しばらくま、 ニ比叡山の最高峰の大比叡 ( 八 ゅゑ 得ざりける程に、この岩のある故そと言ひ立ちにけり。この岩を毒竜の巌とぞ四八邑。 三西北方。 四山の側面、斜面。 名づけたりける。これによりて西塔の有様ただ荒れにのみ荒れまさりけり。こ 五斜めに向い合った地点。 わづら の千手院にも人多く死にければ、住み煩ひけり。この巌を見るに、まことに竜六まことにそのとおりであった のだと。 の大口をあきたるに似たり。人のいふ事はげにもさありけりと僧正思ひ給ひて、セ加持祈疇。真言密教で印を結 び、独鈷・三鈷・五鈷を用い、陀 この岩の方に向ひて七日七夜加持し給ひければ、七日といふ夜半ばかりに、空羅尼を唱えながら病気・災害など を除くために仏力の加護を祈るこ 曇り、震動する事おびたたし。大嶽に黒雲かかりて見えず。しばらくありて空と。 ( 現代語訳一一五九ハー ) かた おほたけ 六 五
むしろ 方をなさるのだという。陸奥前司が浴槽に近寄って莚を引 いる。「これはどうなさいましたか」と声をかけても返事 わら 2 き上げて見ると、本当に藁を細かくきざんで入れてある。 もしない。近寄って顔に水を吹きかけなどして、しばらく それで湯殿に垂れている布を解き下ろして、この藁をみな してからやっと苦しい息の下で、むにやむにやと言われる 語 ゅおけ 物取り収めてしつかり包んで、その浴槽に湯桶を下に入れて、 のであった。このいたずらは、ちと度が過ぎたのではなか 拾その上に囲碁盤を裏返しに置いて、莚をその上にひきかぶろうか。 宇せて何くわぬ顔をして、垂れ布に包んだ藁を大門の脇に隠 しおいて待っていると、四時間あまりたって、僧正が小尸 六絵仏師良秀が家の焼けるのを見て喜ぶ事 から帰って来る音がした。そこで、行き違いに大門に出て、 帰った車を呼び寄せて、車の後部にこの包んだ藁を入れて、 これも今は昔、絵仏師の良秀という者がいた。隣の家か 家へ大急ぎで車を駆って、おりるや、「牛もあっちこっち ら火事が起り、風が吹きまくって火が迫ってきたので、逃 歩き疲れただろうから、この藁を食わせよ」と言って牛飼 げ出して表の大通りに出た。人の注文で書きかけていた仏 童に与えた。 画も置いてあった。また衣類もろくに身につけぬ妻子など 僧正は、いつものことなので、着物を脱ぐまもなく、例 も、そのまま家にいた。それもかまわず、ただ自分だけ逃 の湯殿へ入って、「えさい、かさい、 とりふすま」と言っ げ出せたのをよいことにして、道の向い側に立っていた。 て浴槽へおどり込んで、だしぬけにあおむけに寝たところ、見ると、もうわが家に火は燃え移って、煙や炎がくすぶり 碁盤の足の高く突き出た所に、尻の骨をこっぴどく打ちっ だす。そのころまで、ずっと向い側に立って眺めていた。 けてしまい、なにしろ年老いてもいたので、死んだように これは大変だと、人々が見舞いに来たが、少しも騒がない。 なって、そりかえって倒れていたが、 湯殿に入ってからう 「どうしました」と人々が言うと、向い側に立って自分の んともすんとも音がなかったので、僧正の身近に召し使わ家の焼けるのを見てうなずいては、時々笑っていた。「あ れていた僧が駆けつけて見ると、目をつり上げて気絶して あ、これは大変なもうけものよ。今まではまったくまずく ( 原文一〇二 :-) よしひで